第1節 第32話 No-name and No-body
早瀬ら研究グループは井村と交代で石沢家の見張りを続けていた。
二人一組で24時間の監視だ。
夏休み第一日目の今日、朱音はまだ寝坊している。
肌布団をけり飛ばして寝返りをうったところで、朝食を作って食卓が片付かない母親に起こされていた。
今のところ彼女ら一家は人間らしい暮らしを送っている。
井村は早瀬に引き継ぎをした後、休憩の時間を持て余していた。
二交替制のきついシフトなので仮眠をとるべきなのだろうが、宿の座敷に伏臥して窓際にいると盆地の夏の日差しは想像以上に眩く、とても仮眠をとる気にはなれなかった。
彼は腕時計で次の交代の時間を確認すると、ぶらぶらと風岳村の村内観光に出かけた。
彼女らに姿を見られるのはまずいが、彼女らの位置は携帯電話に転送されてくるGPSで把握できるので鉢合わせということにはならない。
風岳村は四方を山々に囲まれた盆地であり夏は比較的過ごしやすく、涼しい気候を利用して果樹園なども点在している。
村の人口はおよそ3500人ほどで、広大な農地を利用して農業と林業で主に生計を立てているようだ。
村民はほとんどが農民で、肥料の入ったリヤカーなどを押しながら徒歩でぶらぶら歩いている。
井村はなるべく人目につかないよう村のはずれを散歩していて、ふとうらぶれた神社にやってきた。
神社の裏の杜には下草が生い茂り、小さな赤い鳥居も苔むしている。
祭神は知れないし由緒正しい神社ではないようだが、立派な社務所があった。
中を覗き込むと電気はついていないが、つい先程まで人が中にいて茶を飲んでいたらしく、湯飲みが二つ置いてある。
井村は周囲を見回して誰もいないことを確認すると、かけ流しになっている涼しげな手水場の杓を取り、冷たく清らかな水で手をそそいだ。
深い杜の中にあるだけあって、気持ちのよい空気があたりを満たしている。
神社は元来、街なかではなくこういう清らかな空気のよい場所にこそあるべきだな、と彼は頷いた。
井村の実家は代々神主の家系で、兄は実家の奈良県でそこそこ大きな神社の神主をやっている。
敬虔なとはいかないが、井村にもそれなりに信心はあった。
今年の正月も神社らしきものに参拝をしていないのだから、せめてこの村の神社でいつもの罪滅ぼしをしておくか、といったところだ。
擦り切れそうなしめ縄の巻かれた神社に控えめに参拝をして日蔭のある境内に腰掛け、少しまどろもうとした井村は杜の奥からごそごそ物音がするのに気付いた。
社務所で茶を飲んでいたと思われるふたりが近くにいるのだろうか?
井村が気を抜いていると、びゅっ、と足元を後ろから疾風が駆け抜け、次に爆風のような風圧が襲ってきた。
井村はよろめきつつ息を殺して杜の奥の気配を捜した。
社務所を離れて少し神社の奥に分け入ると、下草が刈ってある開けた場所に、ピンヒールを履いた背の高い女がいて腰に軽く手をあてがい樹冠を見ている。
女は異様ないでたち、真っ黒のドレスにビロードの大きな帽子を目深にかぶり、緩いウェーブのかかった艶やかな髪の毛は腰まで伸ばしている。
田舎の村に似つかわしくないドレス。
女の視線の先を追って視線を上に上げると、白いTシャツに短パンをはいた小学生ほどの少年が木の枝の上に立っていた。
高い松の木頂上にまで上っていって降りられなくなったのだろうか?
井村は手を貸そうかと考え、思いとどまった。
少年はトーン、と軽く松の枝を足蹴にすると手を拡げてくるりと宙返りをうち、空中に静止したのだ。
井村は出て行かなくてよかった、と胸を撫で下ろし冷や汗をかく。
少年もまた空を飛べるところをみると、翼こそないが天使なのかもしれない。
そしてそれを何食わぬ顔で見ている女もだ。
状況から察するに、空を飛ぶ訓練をしている子供の天使を親天使が見守っているのだろう。
この村には数名の天使がひっそりと住んでいるのだ、何と表現してよいのかわからない、とても神秘的な光景だと思った。
少年は天使としては例に漏れず、子供ながらに小奇麗なはっきりとした顔立ちをしている。
毛髪は少しダークグレーがかって、瞳の色も日本人ではないようだ。
女も年齢不詳だが、エキゾチックで美しい顔立ちをしている。
このふたりが同じ人種とは思えないが……。
井村は彼らのことを早瀬に報告すべきかどうか迷った。
とくに早瀬に知らせれば小躍りして喜ぶだろう、いくら行動学的スタディだとはいえサンプル数が多いにこしたことはないのだから。
だが、ただ暮らしているだけで何か悪いことをしている訳でもなし、なんとなく気の毒だった。
天使はこうして家族単位で暮らしているようだ。
人間と同じ姿をして、考え、話し、感情すら持つ彼らを一方的に捕らえて研究のために犠牲にする事は井村にとって良心が痛む行為だった。
彼らの事を、どうしようか、井村はそんなことを考えながらひとまずその場を離れようとした。
"FC2-Metaphysical Cube area 192, Burst Sprinter!"
(FC2-メタフィジカル・キューブ エリア192、疾風爆)
少年の声で、井村は振り返った。
少年は流暢な英語を操り、先ほどまでは持っていなかったルービックキューブを両手の間に浮かせている。
ルービックキューブは煌々とした光を放ち、次にそこを起点にして爆風が起こった。
先ほど井村が足元に感じた爆風はこうして生み出されていたのだ。
次に少年は空中からふっと消え、ふっと地上に現われた。
井村は一瞬の光景に背筋を凍らせた……目の当たりにしたのは、瞬間移動というやつではないのか?
同時に、彼は天使ではないと、天使をよく研究してきた井村は直感的にそう思った。
瞬間移動ができるのだとしたら、今までに捕獲した天使たちは皆脱走に成功していることだろう、脱走ができるのにわざわざ捕まったまま衰弱死してしまうとは考えがたい。
……ともあれこれは、脅威だ。
井村はその場を去ろうとしていた腰をまた彼らの方にむけ、高鳴る胸を押さえつけてじっと様子を窺っていた。
少年は女と会話をしている。
井村には気づいてはいないようで、何とか会話を聞き取ることができた。
厳しい顔つきで彼を見守っていた女が、コメントを述べた。
「飛翔も上手だし、神具の扱いもなかなかだしマインドギャップについては脱帽だけど、肝心な事ができていないわね」
「肝心な事?」
「アトモスフィアが全然貧弱だわ。それではいつまでたっても朱音を養えないじゃない」
井村は朱音の名が思いがけず出てきて一気に興奮した。
彼らの会話を漏らさず録音したいと思ったが、手持ちのない今は井村の耳だけが頼りだ。
手の中がじっとりと汗ばみ、顎にかけて緊張のあまりに出てきた鼻水が滴り落ちた。
「今は織図が朱音を養ってくれているわ。でも織図もいつまでもは来てくれないのだし……お前が朱音を養うのよ。そうでなければ、彼女は餓死してしまう。朱音にとっての主は、お前しかいないの。もっとアトモスフィアが増えるように努力なさい」
今ここに、あっけなく一つの事実が明らかとなった。
あまりに他愛もなくそれが明らかとなってしまって、井村はこれは夢ではないかとすら思ったのだった。
天使が必要としているのは、この少年のアトモスフィアとやらだ。
それが何を意味するのかはわからないが、英語でAtmosphere(雰囲気)という事から直訳で察するに、気体の何かだろう。
この少年はアトモスフィアなるものを持っている彼女の主なのだ。
それが足りないから朱音を養えないじゃないかといって、女から怒られている。
彼はどこにアトモスフィアを持っているのか、井村には見えない。
だが特定の気体や、ホルモンなのなら、精製して天使に与えてやれる。
アトモスフィアの組成さえわかれば……もう天使を訳もわからずに虐殺してしまうことはない。
井村は本来ならばこの少年をこそ朱音とセットで捕らえるべきなのだろうと思った。
だが瞬間移動のできるこの子を、どうやって……?
井村が混乱していると、少年はまた話を続けた。
「アトモスフィアはどうやったら増えるのか、織図さんも分からないそうです。でも今は、この村に朱音を調査するためにやってきている研究員達にMCFをかけるのが先です。そっちの方に専念させてください」
「まあ、そうね。それでMCFは展開できるようになったの?」
「完璧です。でも人体に悪影響がないよう、もう少し練習をしてから行います。研究員達は村の旅館にいるそうです……だから、金曜日にでも」
井村はぞっとした!
この子は早瀬達の動きを知っている!
自分達が朱音を監視しているということも、とっくにバレてしまっている。
何故だ?
カメラを仕掛けたのは昨日で、どのカメラもまだ朱音たちには見つかっていない。
そして金曜日にかけると少年が意気込んでいる、MCFとは何だ?
井村はそこを聞きたかったが、彼らはもう会話を打ち切ってこちらに歩いてきた。
井村は一目散に逃げ出して、真夏の日差しの中を必死に走った。
足が千切れても心臓と肺が破れても、彼らには見つかってはならなかった。
天使の脅威など比にもならない。
あの少年……”主”こそが真の脅威だったのだ。
子供の”主”ですらあれほどの能力を持つのだから、大人の”主”は人類にとって一体どれほどの脅威となりうるのだろう……そう思いながら……。
井村は先ほど見た光景を、どうせこちらの動きは彼らに筒抜けになっているのだから決して早瀬には言うまいと思った。
金曜日に彼らが計画をしているMCFが何なのか、見届けてからにした方がいいと思った。
そして井村は金曜日、その場から逃げるべきだと思った。
彼らは研究員たちの命まではとらないようだ、”人体に悪影響がでないように”配慮してくれるようだし、殺されるような事はないのだろう。
だが、おめおめとその場に居合わせて井村までMCFとやらやられてしまったら、先ほど聞いた情報が無駄になってしまう。
MCFが行われるであろう金曜日、井村は何としてでもその場から離れていて旅館の中に監視カメラでもつけてモニターをしていなければならない。
MCFの後に、一体何が起こっているのか……。
それを確かめねばならない!
彼は彼らの手の内を知っても尚、震えがとまらなかった。
*
築地 正孝は地獄のセミナーを命からがらに切り抜け、喫煙室に煙草を吸いに行こうと教授室を通り掛かるや否やそのまま部屋に連れ込まれていった。
昨日見た光景とまったく同じ光景。バタン、と閉まったドアを見てぎょっとした向かいの学生部屋の学生たちは、その食虫植物さながらの様子にウツボカズラ教授と不名誉なあだ名をつけておもしろがった。
築地はもはやこれまでと観念して、しゅんと俯いて説教を聞く体勢に入った。
築地は修士課程2年生であるにもかかわらず、就職活動が終わって真っ黒な頭の他の院生達とは違って就職を決めておらず、頭も金髪と茶髪の織り交じった染毛のままだった。
なんでも、これほどボロ負けを喫しているというのに本気でパチプロになるつもりのようだ。
格好はおしゃれだがだらしなく、擦り切れたジーンズを穿いている。
いつもとろんとした腫れぼったい瞼で、焦点はどこを見ているのかわからない。
とても成人しているとは思えない落ち着きのなさで頭をしきりに動かし、常に貧乏ゆすりをしている。
「教授、俺、トイレに……」
「嘘をつけ、嘘を! さっきも長い糞にいっていたばかりだろうが」
相模原は築地の最後の抵抗をばっさりと切って捨てた。
一番前の机に座っていた相模原は、こそこそとセミナー室の後ろにいた築地の行動をしっかりと察知していたようだ。
「はい……」
「それで、最近のデータはどうなのかね?」
「”データはない”ということを、先ほど発表しましたが」
築地は先ほどのセミナーで他の学生達の発表の時間を割いてでも30分ほど怒られたばかりだ。
さらに説教が続くのかと思うとうんざりする。
「そうじゃない、これの方だよ」
相模原はくいっくいっと右手をドアノブを持つようなしぐさで捻って見せた。
パチンコの収支がどうなっているのかを聞かれていると分かって築地の憂鬱な顔がさらに沈み込む。
「それが……でも、今日は勝ちます! 攻略法を買ったんです!負けをがっつり取り戻して!」
「攻略法? いくら出したのかね?」
「10万です!」
相模原はあいたた、と胃が痛くなってきた。
パチンコの攻略法が存在すると本当に信じている馬鹿が現代にいたとは。
そしてそれで今までこつこつと奨学金を費やして何十万円負けたとも知れない負け分を取り返せると信じているとは……だが、悪くないな。
と相模原は思い直した。彼が”神の血”を信じてくれたなら、いくらでもそれに賭けて、自分についてきてくれるに違いない。
そんな甘い見通しがあった。
だが、築地は相模原の事を徹底的に苦手にしていて、実験パートナーとなる事は絶望的のように感じられたし、相模原もこの金髪の男が苦手だった。
とりあえずはこの、一癖も二癖もあるどうしようもないダメ男の心に触れなくてはならない。それは相模原がこれまでに手がけてきたどんな化合物を決定する事より手を焼きそうだった。
「実験データも、パチンコも出ないとなると、君には何が残るのかね」
「だから、今日こそは……」
「勝てるのだね?」
「え? まあ、はい」
築地は歯切れが悪い。
「では、私と勝負をしてくれたまえ。君が”得意の”パチンコで私に勝てなかったら、罰ゲームだと思って私のいう事を何でも聞いてもらおうじゃないか」
「え? 教授が、パチンコを? 俺と勝負するんですか?」
ビギナーズラックを信じているのだとしたら、甘いにもほどがある。
教授は厳格な人物だ、パチンコのパの字も知らないに違いない。
いくら連敗続きの築地でも、さすがに素人に負ける気はしなかった。
高い金を払って攻略法を手にしたのだから、負ける事はありえない。
「そりゃ、いいですけど、今日?」
「今すぐにだ! 支度をしなさい、大学の前のパーラーに行くぞ! 軍資金は私が出してやる、ついて来たまえ」
教授はやる気満々で鼻息も荒く、すぐに上着を脱いでバッグを持って足取り軽く出て行った。
築地は貧乏が貧乏を呼ぶ貧乏ゆすりも自然と止まってしまって、唖然として彼を見送った。
独立法人化が適用されたとはいえ元国立大学の教授が、こんな勤務時間まっ昼間から学生とパチンコに行こうとしているのだろうか。
*
響 以御は長い金髪を後ろで束ね、執務室で第五使徒 紫檀からの報告書を読んでいた。
一日一殺以内と嫁に定められている割にはまた何人も殺して、今度帰ってきたら説教ものだなと以御は顔をしかめた。
紫檀が今日も元気に殺人ができるのは、ユージーンの指令が滞りなく出されて効力を持っているからだ。
ユージーンは3年分の指令を出しているので、彼が復活するまでの間の平和維持活動業務に懸念はない。
以御が疲れた目を擦っていると、深夜だというのに、アナログな内線電話がけたたましく鳴り響いた。
ちらりと時計を見やって、こんな夜分だというのにえらく非常識な奴だな、と舌打ちをする。神階の時間は、生物階での日付変更線上での時間を基準としている。
地球上に展開させている軍神下使徒からの連絡ならば深夜でも仕方ないが、神階内部からの電話だとすると非常識だ。
いつものように3コール目で電話に出ると、
「はい、軍神下執務室で……」
『以御! このろくでなし!!』
受話器越しに女の大声が聞こえてきた。
ユージーンに内緒で付き合っていた以御の彼女……などではない。
あまりにうるさいので以御は受話器を少し遠ざけてから、痛む耳を押さえ、反対の耳に受話器を当てた。
「うるせえなあ……開口一番、それかよ」
『主を殺されておいて、よく暢気にしていられるわね! 第一使徒として恥ずかしいと思わないの!?』
「は? 殺された?」
電話の相手は響 寧々、20年も歳の離れた彼の実の姉である。
比企の忠実な第一使徒を務める彼女とは、もう数十年は会っていない。
いくら姉弟の仲とはいえ、仕える神が異なればもはや商売敵のようなものだ。
優秀な白翼の一族である彼等は、陰階に所属する以御の弟、覚を含め、全てが枢軸神の第一使徒を務めている。
姉弟のうちでも最も高い能力を持ち、冷静沈着な姉が、わざわざこんな時間に感情的な電話をかけてくるのだからたまったものではない。
だが姉からの連絡を懐かしむより、以御は荻号が何かトラブルに見舞われて葬儀に出席できなかったか、見破られてしまったのかと気付いて唾を飲んだ。
『おめおめと主を殺されて第一使徒だけが生き恥を晒すなんて、ほんっとに信じられない! 今すぐ死になさい! 主を守りきれなかった責任をとり、切腹をして忠義を通しなさい!』
「姉貴、まあ落ち着けよ……ユージーンは生きていただろ? その証拠にジーザス様の葬儀には出席しているはずだ。俺には姉貴が何を言っているのかさっぱり……」
荻号さんよ。
これじゃ話が違うぞ、これは一体どういう事だよ、と荻号に愚痴を言ってやりたくなった。
任せろと言ったから任せた、そして彼の事だからいつものようにうまく切り抜けてくれると思っていた。以御は受話器を持ちながら、片手で端末を起動しGL-ネットワークのニュースを検索する。
ジーザスの葬儀のネタでもちきりではあったが、軍神の崩御のニュースは出ていない。
公的なニュースを見てかけてきた電話ではないようだ。
当然だ、荻号が代理出席していたのだろうから崩御もくそもない。
しかも彼女が以御に説教じみた電話をしてくるということは、比企が一枚噛んでいるという事を露呈している。
姉が何を知っているのかが見えない以上、以御もわからない、という他になかった。
以御は混乱しながらもこちらの情報を何一つ姉には話さず、情報を漏らさないようにありがたいお説教を聞き流していた。
『とにかく! 今すぐに崩御を発表なさい!』
「姉貴は何を根拠に、ユージーンが崩御したと思い込んでいるんだ?」
『……』
「何だ、それは言えないんだな。何の勘違いか知らんが、そんな事を言われると胸くそ悪い。大体生きているユージーンを亡き者にしようだなんて、無礼にも程があるぞ。ユージーンはそこでくつろいで本読んでゴロゴロしてるぜ、何なら代わってやろうか?」
以御ははったりをこいて姉の反応を覗った。
さすがに死んでいるという相手に寧々も代われとは言えず、疑いの言葉を二、三投げかけて捨て台詞を言ってから電話を切った。
まったく、この姉貴はいつもギャーギャーと騒ぎ立てて、と以御は閉口してしまうが、実際のところ姉に構っている暇はなかった。
神階最強にして最賢の荻号に、何があったというのだ?
以御は荻号の恐ろしさをよく知っているのと引き換えに、彼が味方についてくれた時の頼もしさも知っている。
彼の手助けはこの上ない力を持つし、彼がこうと決めた予定は狂う事がなかった。
それなのに……。
*
”名も姿もなきもの”(Ultimate of No-body)は荻号の姿をしたまま、基空間に漂流していた。
ユージーンの意識を保護しつつ元素崩壊からの復帰する事はそれほど簡単な事ではなく、超空間転移ができるようになるまでにはあと数時間を要する。
ユージーンは彼の意識の内にあって、そうして静寂の時間を過ごす間に、彼が神階を去るべきかどうか思い悩んでいるのだと気付いた。
彼は闇神として陰階に所属しながら神階全体の安定を担ってきたようだが、彼の存在そのものが神階にとって以前ほどは必要なくなってきていると考えたようだった。
極陽とほぼ同等の能力を持つ若き才能、比企はそれが今なのかいずれなのかは解らないが、強烈なリーダーシップを発揮し神々のよき指導者となるだろう。
力ある主神となるべき比企に教えるべき事はまだまだあったのだが、勉強家の彼は彼で自ら成長してゆく、それができる神だと荻号は評価していた。
そうなるともはや神々を守る事に意識を割かなくてもよく、いよいよ神階を去るべきなのだという結論に達する。
8万年もの長きに渡り神を演じ続けた事は、ノーボディの力を急速に衰えさせてきた。
陰階神の最後のけじめとして極陰に最後の挨拶をしたら、もう荻号要であろうとするのはやめよう、と決めた。
荻号が神階を去ったところで、織図以外は嘆いてもくれないだろう、などと彼は自嘲して固まりかけた決意に、ユージーンが水を差した。
”荻号様、消えてしまわれるのですか?”
彼の子でもあるこのユージーンという居候は、筋金入りのお節介やきだ。
早く彼の神体に意識を戻して身軽になりたい。
ただでさえ融通がきかないところを、間借りしている意識の扉を叩いて一度決めてしまったことにあれこれ口を挟まれるのは気に入らなかった。
[消えてしまうも何も、荻号という者は存在せぬ。吾の記憶に触れた汝は心得ておろう]
”しかし、あなたをお慕いする神々はたくさんいらっしゃいます。ジーザス様の件も、いつかきっと疑いは解けましょう”
ユージーンの姿は見えないが、彼は必死に説得を試みている。
神階は、荻号という陰階神を必要としているとユージーンは思っていた。
たとえその正体が知れなくとも彼という旗印がいたからこそ神々はINVISIBLEに屈しはしなかった。
INVISIBLEを天帝として奉じる陽階神も、INVISIBLEに忠誠を誓ったのではない。
いつかINVISIBLEの支配と脅威から逃れて自由になりたいという心は一つだ。
ユージーンはその気持ちをどう伝えてよいのかわからない、ただ、神階はまだ親離れなどできないのだと。
[……そうではない。これ以上荻号であり続けて、力を失うわけにはいかんのだ]
”あなたであり続けると、力を失う?”
[……吾は名を持たぬ者ゆえに、名を与えられると力を失う]
ユージーンは暫く考え込んでいるようだったが、わからないようだった。
言葉遊びをしているような、印象的だが解せないフレーズだ。
からかっているのかと思うほど単純で直裁な命題を前にして。
”ご説明いただいてもよいですか?”
[……わざわざ汝に説明をせねばならぬのか]
”どちらにしても今は時間はあるではないですか。あなたはまだ回復しきっていらっしゃいませんし”
どうせお互い暇なのだから、教えろという。
荻号は今すぐユージーンの記憶を頭の中から追い出してやりたかったが、ここは基空間なのでそういうわけにもいかない。
荻号はユージーンの思うよう決して暇ではなかったし、彼には懸案が山のようにあった。
それがユージーンのような一介の神と問答をして、彼の好奇心を満足させるためだけにべらべらと真実を語るのは無為だ。
ユージーンならば全てを打ち明けたところで、彼の神体に戻ってもINVISIBLEに殺されはしない。
INVISIBLEはユージーンの神体が欲しいのだから、わざわざユージーンを殺して他の器を見つけるような手間はかける必要もないのだ。
だからといってユージーンに話して彼に理解してもらう事は、荻号にとっては酷く不毛に感じられた。
彼は誰の理解も協力も必要としていなかったからである。
限りある生をひたむきに生きてゆく彼の子らを果て無きINVISIBLEとの抗争に巻き込む事を望まなかった。
それでもとしつこくせがんでくるユージーンに、ノーボディはついに折れた。
[ユージーンよ、では名があるという事は何を意味する]
”わたしがわたしであるということでしょうか”
[汝の名を思い出せなくなったら、汝は誰だと説明するのか……汝は次にこう言うだろう。自らはいつ生まれて、容姿はどのようであり、どのような性格で、どのような経歴を経て、今に至るものだと]
”そうですね、そう説明すると思います”
[ではそれも忘れてしまったならどうする? 汝は誰だ? 名も姿もなき、記憶を失った者は何者なのだ]
”!”
ユージーンは答えられなかった。
記憶を失い、姿を失ったもの……それはもう、生きているとはいえない。
誰も名と姿を持たなければ生きてはゆけないと気付いたのである。
そして生きるということは、その生涯において自らを定義づけてゆく事とかわらない。
[答えられまい。生きるという事は虚ろなる自己を、様々な枷で繋ぎとめて他者と区別をしてゆくという作業だからだ。名、容姿、経歴、性格、それらは全て汝自身の個性であり、枷なのだ。名を呼ばれ、ともすれば他者と紛れんとする虚ろなる自己を枷で繋ぎとめ、枠組みの中に閉じ込める事は、"自らが存在しないのではないか”という恐怖から汝らを救っておる。”何者かであろうとする”ことは、完結を必要とする。死ぬるのが必然なのだよ……そうやって生は完結する。実に無常で、美しい営みだ]
荻号は羨望を込めてそういった。
”名も姿もなきもの”である彼は、生を完結することも死者であることもできなかった。
無責任で退廃的な彼の「死にたい」という口癖には、生への渇望と死への誘惑が込められていたのだ。
ユージーンら陽階神は荻号を”神に相応しくない者”としてしか見なさなかったが。
それは大きな間違いだった。
彼は誰よりも生を知りながら、死を知らない。
”では、何者にもなろうとしない者は、死を超える事ができるのですか?”
ユージーンは考えがまとまらないままに尋ねてみた。
彼の気が変わりまた口を閉ざしては、絶好の機会が台無しだ。
[吾やINVISIBLEは、かような存在だ。その正体は虚無だ、だがそれは逆を返せば”何者でもありうる”といもいう。極小は極大であり、無は全だ。原始宇宙の始まりは無から確率的に生じた揺らぎのエネルギーだと、心得ておろう。吾らの正体はそのようなものだ]
何者でもないからこそ、全てでありうる。
自己がなく、虚無であり普遍である。
つまりそれは、この世界の全てであるということだ。
”では、何者でもなくなってしまえば、わたしもあなたのように全能の力が使えますか? INVISIBLEから人々や神々を、守る事ができますか?”
傲慢なのか、不遜なのか、無謀なのか。
彼は荻号と均しい存在になろうとしているのだろうか。
一笑に付してしまうにはあまりにも笑えなくて、暗闇の中、荻号は困惑したように腕組みをしただけだ。
[何者かであった者が、名を捨てるという事は不可能だ。自己は棄てられるものではない。汝はINVISIBLEに憑依され絶対不及者となるぐらいなら、自己を棄ててでもINVISIBLEを滅ぼしたいと考えておるのだろうが……絶対不及者は完全なる者ではない。姿を持ち、名を与えられてしまったが故にだ。名を与えられた者は必ず、物語があって、完結を必要とする。INVISIBLEは全能の虚無を脱ぎ捨て絶対不及者の裡に収束した。それがどういう事かよくよく考えるがよい]
”では、絶対不及者は……ひょっとして、あなたが?”
そうだ。
と、彼は無言で肯定した。
”……!”
INVISIBLEに殺されてきたとされる絶対不及者、彼等を殺してきたのは荻号だったのだ。
絶対不及者をも凌ぐ力を以って彼は絶対不及者の息の根を止め、INVISIBLEをまたINVISIBLE(姿なきもの)へと還元したのは、彼。
そうすると荻号は絶対不及者と同格……ユージーンがINVISIBLEに収束されたあかつきに、三代目の絶対不及者をしとめるのは彼だとしたら、ユージーンは荻号に殺される運命にある。
それをもはや、辛いとは思えなかった。
彼は絶対不及者となってしまった器たちに、生の完結という平安を用意してくれていた。
[吾らは空間の普遍であり母体なのだ……INVISIBLEはただ創世者であるばかりでなく、空間の実体そのもの。かの者を滅ぼす事は、現空間を滅ぼす事でもある]
”では、INVISIBLEの意思に叛く事は不可能、だと仰せですか?”
[……そう。吾はINVISIBLEと均しき者でありながら、著しく力を失っておる、他にINVISIBLEと同等の、抗すべき力はない]
”わたしも、あなたのようになれないでしょうか”
ユージーンは真面目にそんなことを言っている。
荻号はユージーンの意識を再形成する際、何か一つ重要な要素を構成し忘れたのかと思った。
だがユージーンはいたって本気だった。彼は荻号の裡にあって持ち前の勤勉さで彼の記憶から必要な知識を交換し、この世界のシステムを理解した。
荻号の意識の中に全て格納されている世界を支配する法則の巨大なルールブックをこっそりと読み解き、ほぼといっていいほど自らのものとしたのである。
荻号はそうすることを、期待していなかったわけではない。
広大な知識の海へ至る扉には、鍵をかけていなかった。
だがユージーンにそれを強いる事は荻号の信念に反した。
”あなたのお話をお聞きしていると、自己を棄て普遍と同化することができれば、不可能はないと仰っているように聞こえます。わたしがユージーンであることを棄て普遍となることができれば、あなたの衰えた力の助力となれるのではないかと。そう思ったのです……そしてユージーンであるわたしが普遍に触れる機会は唯一……わたしに、INVISIBLEが収束する瞬間です”
[……なるほどな、それは確かに”不可能ではない”。汝がINVISIBLEと同化し、入れ替わってしまう事ができればだ……だが汝は永劫の孤独を、吾とともに歩まねばならぬ、この空間が滅ぶその時まで、汝がこの空間の母体とならねばならん……それを覚悟の上か?]
ユージーンにも意地というものがあったのかもしれない。
自分は既に一度死んだものとして、彼の守るべき全てのもののために身を捧げようと思った。
何者でもない者となることは、彼の大切な者たちから忘れられ、認識もできず認識もされない者となることだ。
すなわちそこにあるのは、完全なる無と、果てのない時間のみ。
それでもユージーンは、全てを識った今なら後悔はしないと誓える。
INVISIBLEの脅威から世界を救い、世界の運命と、果て無き生の営みを見守り続ける事が、できるのならばそれで満足だ。
”ええ”
荻号は彼の返事を聞いて僅かに首を振ると、誰にともなく頷いた。
ユージーンの力に加えてあるいは、恒の力を借りれば……。
荻号は生気と、空色の瞳を取り戻す。
健やかなる時も病める時も常に襲われていた眠気はいつしか、嘘のように消えていた。
彼の思考は研ぎ澄まされて、冷ややかに冴え渡る。
ユージーンは最後にひと言だけ尋ねてきた。
"もうひとつだけ、お教えください。あなたは嘗て、創世者だった……そうですか?”
[ああ……そうだ]
短く答えると。
荻号は意識を整え、納得をしたユージーンを眠りにつかせた。
遠く昔の事だ、そうであったことも忘れていた。
だが”名も姿もなきもの”は確かに創世者であった一時期があった。
ユージーンという神は、彼の心の深い部分に光を投げかけた。
ユージーン、お前となら、できる気がするよ。
そう言った頃には、彼の姿は基空間から消え去っていた。