第1節 第31話 Graduate student 築地 正孝
荻号はしばし待った。
が、ムジカは睨み合ったまま、けしかけてくる様子がないので、荻号は意外そうに首を傾げる。
「どうした。かかってこないのか?」
「神具を抜かない丸腰の相手と一戦交える事はできない。抜け!」
「抜けも何も持ってきていない、神法を気にしているのか? やりたいならやれ」
「我は楽神 ケイルディシャー=ムジカ、逆臣を成敗せんとす……。いざ尋常に勝負せよ!」
再戦、といった和やかなムードではなかった。
ムジカは天誅殺の意を律義に告げて名乗りをあげ、神速の第一撃を浴びせかける。
彼の攻撃が荻号に達する直前に、荻号は指先でちょいちょいと空間座標を操作し基空間に二者を転移させた。
ムジカは夜闇に視界を奪われる。
神階の回廊を壊すわけにもいかないし、騒ぎが目立つとまずい。
宇宙空間に放りだされた神々は真空中でも窒息はしない、それを見越してのこと。
荻号は目前で掻き消された攻撃を軽く腕組みをしてやりすごし、ムジカの次の攻撃を見極めようとした。
見た目にはユージーンが、余裕綽々ですました顔をしているように見えるので胸がわるい。
最悪なことに、空間法則を歪める勅声という特殊な周波数の音波の攻撃は、転移直後に失効させられてしまった。
音が伝播できない真空中では、地上では絶大なる効力を持つムジカの殆どの能力が封じられる。
ムジカは恐るべき大敵と対峙しているのだと、再認識せざるをえなかった。
丸腰の相手を前にしているというのに、勝てる気がしない。
しかしそれを知って尚更のこと、荻号と同じAXを名乗るムジカは彼と刺し違えてでも撃ちあってみたいという戦闘本能が疼きはじめる。
ひどく危険で、破滅的な衝動だった。
過去千年分の位申戦の録画で研究してきた荻号の戦い方はまるで柳のごとくだ。
決して攻めはせず、柳の揺れるごと受け流して相手を自滅へと追い込む。
その真価は一度として発揮されてはいない。
ムジカは潔く神具を手放し、彼にとっては圧倒的に不利となる肉弾戦の覚悟を決めた。
荻号はユージーンの姿をしたまま元に戻ろうとしないのが腹立たしいが、細かいことを気にしている場合ではない。
真空中なので不満を述べる口もない。
彼に牙を向けると決断した瞬間、ムジカは生死の決断をした事となる。
荻号はやれやれ、といった顔をユージーンの表情でしてみせて、正面を向き直った。
「気が済むまで撃ってこい。命までは取らんよ」
″何をっ!″
部下であるユージーンに見下されたように感じて、ムジカの白い顔に血が上った。
とはいえ、音波の届かない真空中では荻号に憎まれ口をたたく事もままならない。
地上では不自由な声を持つ荻号だが、真空中は彼のフィールドだ。
彼はもともと宇宙空間で生じた、神とは異なる存在なのではないかとすら思われる。
ムジカは自ら内部に溜め込んだアトモスフィアを爆発的に放出する事により加速度をつけ、重く俊敏な正拳の一撃を繰り出し荻号の頭部の粉砕を狙う。
荻号はそれをのけ反ってかわしながら、すれ違いざまにムジカの腹部をそっと撫でていった。
荻号に触れられた腹部は大出血を起こし破壊され侵食されているのがわかるが、ムジカはそれを知りつつも攻撃の手を緩めない。
近い間合いに飛び込んだと見るや、洗練された足技を荻号の背に重いハンマーのように叩き込む。
真空中ではフィジカルギャップをうまく形成できないため、その層数は測定不能とされている荻号の重厚なギャップに粉砕されることもなく彼の神体に嘘のように攻撃が届く。
声は使えないが、ハンデはお互い様だ。
荻号の背、いやユージーンの背は僅かにしなったが、少しもこたえてはいない。
続いて頚椎。
ムジカは渾身の力を込めた連撃を的確に急所に穿ちこむ、それは神の急所をとらえていた……筈だった。
やったか、と思いきや何事もなかったかのように視線を合わせられ、次にムジカの天地は覆されて弾きとばされた。
何に当たったかわからない。
今度は荻号はムジカに触れることもなく。
基空間中は空気抵抗という障害物がないので、アトモスフィアを逆放出して止まらなければ慣性力で永遠に吹き飛ばされたまま戻れない。
更に悪くすれば、逆方向からの慣性力を加速度にして荻号がより強い一撃を叩き込んでくる可能性がある。
ムジカはコンマ数秒後、何とかこらえて真空中に踏み止まった。
とん、と背後に弾性のある何かが当たる。
荻号を見失ったと思ったら気配を完全に消したうえに回り込まれて、背後をとられていた。
ムジカの視界の端に、金糸の縫い込まれた純白の聖衣が見える。
余裕を見せ付けるかのように、彼はユージーンの姿を借りたままだ。
「まだやるかね。気が済んだのなら傷の手当をしてやろう……」
荻号の声は優しくムジカの頭の中に浸透してくる。
まるで浸透圧の同じ液体が、脳内に注ぎかけられるように心地よい波長。
これほど至近距離でマインドコントロールでもかけられてしまえばひとたまりもない。
ムジカはとにかく距離をとらなくてはともがいたが、荻号はムジカの手首を後ろ手にして捕えた。
軽く握られているだけなのに、びくとも動かない。
これが……格の違いというものなのか……!
何故これほどまでの実力差があるのか、彼ははったりではなく三階最強の存在だと。
今更のように見せ付けられている。
荻号はムジカが恐怖心にかられているのを、不憫だと思ったようだ。
「そう怯えるな。マインドコントロールなどかけはせんさ。ほんの少しだけ話を聞く耳があればな」
話を聞けというのだろうが、黙って負かされるのはムジカの気がおさまらない。
何か活路はないものかと、しきりに目を動かし周囲の景色に注意を払う。
ムジカの焦点が不意に一点に定まった。
ムジカはそれを見るなり、一瞬出来た荻号の隙をついてバックハンドブローを頚部に打ち込み、彼の膝を踏み台にして蹴り付けその場から跳び下がった。
それとほぼ同時に荻号に向かって光が炸裂し、辺りは閃光に包まれた。
ムジカは千載一遇の好機を作った″彼″を振り返った。
「加勢するぞ、ムジカ」
彼の声は、荻号ほど心地よくはないが同じようにムジカの頭の中に浸透してきて、ムジカはその違和感に戦慄した。
だがムジカにとってはこの上なく頼もしい助太刀、荻号の戦術を誰よりも知る彼の唯一の弟子が異変に気付き馳せ参じたのだ。
陽階神第2位、比企寛三郎が伝家の宝刀、懐柔扇を抜いている。
懐柔扇は神銀とよばれる硬い金属でできた鉄扇のような形状の神具だが、比企がこれを抜いた機会は、ほぼ一度もないといっていい。
比企は自ら作り上げたこの神具の機能を明らかにさせないためだけにXX(文型)を名乗って武力での試合を避けてきたが、比企の性分は真性の武闘派だ。
「同期性意思伝播に超空間追跡転移、これは貴様に学んだ技術だったな、荻号。因果なことだ」
「教えてやったつもりは、ないのだがね。強制転移の痕跡を見つけてきたか。お前の私恨に付き合ってやるつもりはない、ムジカには怪我をさせている。早く片を付けて手当をしなければ」
「何だと?」
ムジカは喋れないながらに、自分には構うなという仕種をしてみせた。
比企は荻号の性格から意味もなく致命傷を与える事はしないと見抜いていたので、致命傷があるという脅しには屈しない。
致命傷を与えたという弱みに付け込み、早期決着を狙う寸法だろう。
昔から彼の好む手だった。とにかく彼は争わない。戦闘を避けようとする。
比企は荻号から一瞬も目を離さないままムジカに労りの言葉をかけた。
「どれほど深いか知らんが、傷が痛むなら休んでおれ」
比企は荻号に殺意をむき出しにして睨みつけながら、和服を模した聖衣の袖をたくり上げた。
カチリ……と懐柔扇をスライドさせ振りかぶると、最外殻のリミッターを外し扇を全開にして射程を絞り込む。
比企はこのような衝動的な機会にではなく、じわじわと周囲を固めてから荻号を殺す腹積もりだったのだが、そう悠長にも構えていられなくなった。
創世者の不穏な動きに呼応するかのように突如として陽階神を虐殺しはじめたのは荻号の方だ、ユージーンに毒手が及んだと知り、我慢に我慢を重ねてきた比企の堪忍袋の緒が切れた。
沸々と湧き上がる荻号への混濁した怒り。
”半減期撹乱演算中枢、2794式展開……元素崩壊促進!”
比企は問答無用に、最大出力で懐柔扇にコマンドを与えた。
懐柔扇は荻号の持つ最強の神具、相転星と同じく物理現象撹乱装置であり、α崩壊やβ崩壊により放射性同位体の元素が遷移する現象を安定化している全元素に誘導して放射性同位体化を促し、放射性壊変系列を撹乱するという禁断の能力を持つ。
つまり対象の元素組成を完全に他元素によって置換し生命活動の破綻を招くもので、即死は免れない。
試合形式をとる位申戦では絶対に発揮できない影の性能だ。
放射性壊変は不可逆性変化であるため治癒も根本的に不可能である。
比企の懐柔扇から放たれた壊変系列が瞬間的に荻号に収束し、荻号の神体は元素崩壊に襲われた。
荻号を構成する一つずつの元素が異なる元素に置換され、崩壊してゆく。
彼は驚いたように目を見開いたが時既に遅く、強い光に熔かされてゆくように音もなく破壊されていった。
真空中に彼であった元素が飛散し、後には基空間の暗黒と虚無だけが残る。
ムジカは悪魔のような業と一瞬の出来事に我が目を疑った。
彼はわずか一瞬のうちに荻号を葬り去ったのだろうか。
嘘ではないかと何度も周囲を見渡したが、荻号が死の間際に転移した痕跡もない。
遂に、仕留めたのか……?
比企は荻号がすっかり消滅したのを十分に時間をかけて確認すると、内部出血の止まらないムジカを助け起こし肩を貸した。
”仕留めましたか……?”
「……だと、いいが」
”ユージーンはやはり……殺されたのでしょうか”
「残念だが、もはやこの世にはいないだろう」
比企は警戒を怠らない。
元素崩壊を起こして塵も残らない程に徹底的に破壊をしたというのにだ。
手負いのムジカを気遣ってそれ以上は時間をかけず、比企は超空間転移で神階へと戻っていった。
そして――。
基空間の全てが暗黒へと帰そうとした時、虚無の静寂の中を元素がひとつ、またひとつと急速に会合していた。
あたかも一つ一つが意志を持つかのように。無数の粒子の遡上への渇望は凄まじいものだった。
目には見えないそれらは次第に集塊を成し、放射性壊変と逆の現象を巻き戻すように分子を安定化させ、次々と結合しながらしだいに人型を生じ……
人型はアルティメイト・オブ・ノーボディ(Ultimate of No-body)の影へと映じていった。
[比企よ……汝はやはり未熟だ。肝心なものを見逃した――時間軸をな]
彼は蘇った禁視を気だるそうにまばたきさせた。
比企の神具、懐柔扇の性能を知らなかったが、比企がコマンドを唱えた瞬間に絶対時間を固定することによってやり過ごした。
何が起こってどんなダメージを被ってもその時点にフィードバックするように時間を操ったのだ。
彼はしばらく俯いていたが、思い出したように再形成したユージーンの意識を呼んだ。
[無事か]
″は、はい。なんとか……″
[吾を滅ぼす事も能わねば、創世者に挑むもおこがましい]
強すぎる……強いとかもう、そんなレベルではなくて。
超越している。
ユージーンは彼の中に入っていよいよ、彼の戦うものの途方もなさに気付かされたのだった。
この全能の彼をも支配下に置くINVISIBLEという創世者、勝てる筈のない不毛な戦いを彼は続けてきたのだろうか。
神々には最初からINVISIBLEに挑む資格などなかったのだ、今になって見せ付けられた。
[吾の内に在ってあらゆるものを観ておけ……。創世者に抗うは吾を滅ぼす事でもある]
″あなたの記憶に触れて感じました。……そしてわたしは、あなたのお力になりたいと″
[そうか……それは心強いことだ]
彼は荻号の姿に戻り、空色の瞳を閉ざした。
ユージーンは彼にとってたったひとりの、理解者であるのかもしれなかった。
そういえば以御に返すべき聖衣は先ほどの戦闘ですっかり溶けてなくなってしまったが、どうしようもなかったな。
と荻号は他人事のように思う。
多少以御に文句を言われるだろうが、新たな聖衣は支給されるだろう。
ユージーンが復活して、記憶を取り戻す頃には全てが元通りだ。
しかし荻号の方はもう、これほどまでに神々の混乱を招き嫌疑をかけられていては、荻号要として神階に留まる事は限界と感じていた。
神階を、去るべきか、否か。
*
織図はその日の夕刻、ジーザス=クライストの葬儀に出席するということで、恒の家には来なかった。
ジーザスの葬儀という言葉は、よくよく考えると不自然きわまりない。
殆どの人々と同じよう、恒もジーザスは既に死んでいるものと思っていたからだ。
今度はあと三日待てばイースター(復活祭)でお祝い! という訳にもいかないのだろうな、などと思う事は不謹慎な事と知りつつ。
恒は志帆梨の作った一品であるゆで卵のサラダを食べていた。
メファイストフェレスはまたしばらく風岳に滞在するということで、相変わらず社務所に泊まるのだそうだ。
また今日も皐月と一緒に長話をしていることだろう。
恒は家に母親がいてご飯を作っていたので社務所での外泊は遠慮した。
荻号に連絡を取ろうとしたが、葬儀があるとGL-ネットワークの告知を見て知ったので彼の携帯電話を鳴らすことは自重した。
しめやかに葬儀が営まれる中、荻号の携帯の着信音がどんなものかはわからないが、織図のようにふざけた着信音が鳴っては台無しだ。
織図ときたら、あまりにも滑稽な着信音ばかり鳴らすので、深夜の静まり返った藤堂家に彼の携帯電話が喋りだした時には、神具の訓練で疲れ切っていた恒は初めて殺意を抱いたものだ。
畏れ多くも、死神にである。
まさか荻号に限ってそんなことはないと思うが、あれでも万が一ということがあってはいけない。
しめやかな空気がぶち壊しだ。
ジーザスの葬儀には第一種公務員である陰陽階の全神が出席しなければならないということだが、ユージーンはどうするのだろう……と恒は考えていた。
ユージーンが自殺を試みて死に損なったという事が神階に知られてしまったら、あまり彼にとってよくないのではないかと思ったが、荻号と織図がそのあたりのことはうまく言い訳してくれるだろう、とも思った。
恒は将来陽階神になることが濃厚でありながら陰階神の知り合いしかいない。
このままじゃ陰階神になってしまうのかな、などと考えつつ志帆梨の作りすぎた鯛釜飯をせっせと口の中に詰め込むのは忘れない。
「どう、その釜飯? ひつまぶしと、鯛めしと、それから牡蠣釜飯にしたいの。三つ葉がたっぷりのってるでしょ? あとはね……」
恒の隣でぺらぺらと喋り続ける志帆梨は自分の店の、冬のオープンに向けてメニューを考えたり着々と開店準備を進めているようで、毎日明るい話題がたえない。
彼女はお喋りでひょうきんな織図が家にやってくるようになってからというもの、つられるようによく喋るようになった。
ついでに例の魚屋と分かりやすい恋に落ちているのも、明るくなった原因だ。
それに彼女は化粧っ気がでてきて、もともと素の顔立ちでは古典的な美人だったのだが、メイクが上手になって現代的な美人になった。
恋する女は何とやら、とは本当のようだ。
魚屋の若主人といい仲になるのも、時間の問題といったところだろう。
彼女はこれといった用もないのに、相変わらず魚屋に行って魚介類ばかり買ってくる。
もういい加減、肉っけのあるものが食べたいな、と思ったが恒は言い出せなかった。
明日から夏休み、恒は色々な心配事が落ち着いたら、母親と数泊のちょっとした旅行に行きたいなと考えた。
朱音との海水浴とは別の話で、慰安旅行にだ。
だがその前に、恒には避けて通れない大きな宿題が残されていた。
*
相模原は楽しみにしていたベルギー観光を打ち切って予定より早く帰国をすると、下品なステッカーをたくさん張り付けたトランクを抱えたまま研究室に転がり込んできた。
ありったけの土産を並べてそれらを学生部屋に放り投げた頃には、松林は教授の帰国に気付いて徹夜明けの目を擦りながら、赤い歯ブラシを口の中につっこみ出てきた。
松林は流しに吐き出して、口の中のものを片付ける。
相模原は歯ブラシを置いた松林をそのまま目にも止まらぬ速さで教授室へと連れ込んだ。
松林が教授室の前を通りがかるなりあっという間に部屋に飲み込まれていって、食虫植物も真っ青だな。と学生達は口々に言い合っていた。
今日も研究の合間にパチンコに行こうとしていた彼らはがっくりだ。
「先生、予定より帰るの早いんちゃうん?」
「えー、明日のセミナーあるんかいな! 俺データないねん」
「お前またか! 夏の化学会までに間に合わんがな」
また教授室の向かいの学生部屋から聞こえてくる雑談を耳に入れながら、今週も築地はデータがないのかと相模原は眉間を押さえつつ、ごっそりと書類を移動させてできた猫の額ほどのスペースのデスクの前に、松林を座らせた。
「君の業績は、悪いようにはしない。だから私を信じてついてきてくれ」
相模原は前置きもなしに、いきなり本題に入る。
口の中いっぱいに歯磨き粉の味が広がっている松林は、教授が何を言っているのか理解できない。
さしあたり彼女は、教授が留守中にせっせと行った実験の結果を提出することにした。
携帯電話に結び付けているUSBを携帯ストラップから外して目の前に置く。
「その前に、糖尿病モデルマウスのサンプル投与結果をお話ししても?」
「ああ、まずそれを聞きたい」
「N(個体数)=11のテストでは100μLから1000μLのいづれの投与量でも、翌日には血糖値が正常範囲内に復帰しました、何らかの薬剤なのでしょう。データはこのエクセルファイルに」
「つまり糖尿病も治ったのだね」
相模原はねぎらいのつもりなのか、甘すぎるジャムのたっぷりはいった溶けかけのチョコレートを松林にしきりに勧めてくる。
今しがた歯磨きをしたばかりの彼女は小さく首を振って遠慮した。
相模原は勧めるのを諦め、朝食代わりに自分が二つも頬張った。
ずり落ちてきた赤い眼鏡をまたきりっと上げ直しながら、松林は教授の意外な言葉に身を乗り出した。
糖尿病の他に、何か治ったものがあるのだろうか?
「も? ですか?」
「私はこのサンプルの同定に全力を注ぐ、君も相乗りしてくれるなら歓迎だが……」
「お言葉ですが教授、私にも私のテーマがありますし」
「そうだな、確かに君は君の研究があるだろう。君のテーマに専念してほしい」
あっさりと前言撤回をしてしまった教授に、肩透かしをくらってしまって、松林は取り敢えず話を聞いてみる事にした。
松林は教授のこの姿勢を見るまでは、さほど今回のサンプルに興味はなかった。
糖尿病に効く薬は存在しないわけではない、血糖値を上げ下げする薬剤は既にいくつか開発されている。
今回のサンプルの効果の持続性は素晴らしいが、それほど驚くような結果ではない。
「あの液体は何なのですか? 返事はそれによります」
「何かは知らない、だがそれが″神の血″と呼ばれているとしたら、どうだね」
「教授、宗教はちょっと」
徹夜明けの松林はこの冗談に笑えない。
教授は最近、大事な業績を留学生に盗用されたばかりだ。
疑心暗鬼になってそんな事を言い出したのだとすれば、どうコメントしてよいのかわからない。
「この歳になるまで信じはしなかった、奇跡というやつを、目の当たりにしたのだよ……。君が興味を持たないのなら一向に構わない。だが築地君を借りるよ、彼のデータにしてやろう」
「築地君は私の受け持ちの学生ですよ。それに彼は化合物の精製の収量が20%を切る学生です。またとない貴重なサンプルだというなら彼に任せるとなくなってしまいますが、よろしいのですか?」
「だが質量分析とNMR等の機器分析の腕と化合物の構造決定の腕は確かだ、君は指導教官でありながら、それを知らなかったのかね?」
修士課程2年生の築地 正孝は相模原や松林の目を盗んではパチンコやスロットに行って、どういうわけかいつもボロ負けしてくる筋金入りのダメ学生だ。
大体、ギャンブルなど確率的にいっても数回に1回は勝つ事ができるものなのに、毎回負けてしまうという事にある意味脱帽。
学年でも下から数えた方が早い劣悪な成績に、化学者としてはどうしようもない腕の悪さ。
どうやったら普通の学生は90%以上の収量を得られる筈の実験を20%を切るのかが解らない。松林からすれば、彼は大事なサンプルをそのあたりにぶちまけて、こぼしているとしか思えなかった。
だが機器分析にだけは長けていて、その構造決定の腕は的確で、間違いがないのは教授の言うとおりだ。
難解な化合物の合成を生業とする松林の受け持ちの学生だが、どうやら教授は彼のよい部分を見抜いていたらしい。
「ではこうしましょう、出来る範囲内で私も協力します、しかし築地君を海のものとも山のものともわからないテーマを押し付けて弄ばず、ちゃんと修了させてあげてください。外に出せないデータなんて、なんの業績にもなりませんからね」
「誰が押し付けると言ったかね……私が解析をする、そのサポートをしてくれと、言いたかったのだがね」
多忙のためもう何年もまともに実験をしていなかった教授が、直々に組成決定をすると言ったのだ。
松林はまさに旅立とうとしているこの船に、直感的に乗らなければならない、と思った。
それは築地が毎日、勝つか負けるかとやきもきしながら、玉の出る当てのないパチンコ台の前に座って千円札を突っ込むことと、それほどかわりはなかった。
*
比企の超空間転移により彼の執務室に搬送されたムジカは、そのまま床上に横たえられた。
極陽の第一使徒として20年間も極陽に伺候し、極陽派の枢軸神として敵対していたムジカは彼の執務室に入れてもらった事がなかった。
比企の第一使徒の響 寧々が心配して駆けつけてきたが、比企は治療を彼女に任せず直々に治療にあたる。
荻号からすれ違いざまに喰らった傷は荻号自身が後ほど治癒することを想定して傷つけているので、普通に創傷として治療したのでは治らない。
比企は懐柔扇を再び抜き放ち、正確に損傷の程度をスキャンしてプログラムを組み、腹部に与えられた傷に分子標的治療を試みた。
荻号の攻撃はなんというか、えげつなくて比企は嫌いだった。
例えるならそれは、電子レンジの原理で傷つけられているようなもの。
皮膚表面に派手な傷はできないが、荻号のアトモスフィアで内部は細胞レベルで破壊されズタズタになり、内出血を起こさせている。
そんなことをするぐらいなら斬られた方がましだと比企は思うのだが、どうも彼の師匠は陰湿な攻撃を仕掛けるのが好きだ。
比企は荻号の弟子であった時期に学んだ、荻号の能力ひとつひとつに抗するための相反する性能を懐柔扇に付加していた。
懐柔扇は荻号を滅ぼすために比企が苦心して創り上げた神具だといっても過言ではない。
「少し、痛むやもしれんぞ」
ムジカは極陽の使徒であったという過去を持つためか我慢強く、痛みを訴えはしない。
比企はその姿に感服すると、分子結合力を操作しムジカの傷を手際よく癒してゆく。
寧々は比企の処置を見極めて、取り乱すでもなく、簡易ベッドを運びベッドメイキングをして病床を作り、次に鎮痛剤の入った点滴を運び、すぐにムジカの静脈に打った。
ムジカはようやく生きた心地がして、比企の治療と寧々の看護に感謝した。
「比企殿、何と御礼申し上げてよいか……」
「無事で何よりだが、爾後、突発的かつ感情的な戦闘は控えられよ」
寧々の用意したベッドにムジカを移すと、比企は気が抜けたようにため息をつき、ベッドの端に腰掛けた。
比企は彼のライフワークでもある荻号の抹殺という大仕事を終えて、燃え尽き症候群になっているというか、どこか気落ちしているようにもうかがえる。
比企は役目を果たした懐柔扇を懐におさめ、やや速すぎる点滴の滴下速度を緩める。
ムジカは痛みも和らいできて、身体を起こしかけようとすると、比企と寧々に肩を押さえられて制された。
「暫くは動くな。奴の攻撃は、後からじわりと効いてくる……何もないとわかるまで気を抜かず、横になっておれ」
「……はい」
ムジカは寧々に熱いおしぼりをもらいながら、力なく頷くしかなかった。
「これから、どうされるのです?」
「そうだな……まだ機は熟しておらなんだ。荻号に傾倒する陰階の神々と全面戦争にならねばよいが……」
比企はそれだけが心配だった。
荻号は陽階からの酷評とは真逆に、陰階神からの絶大なる支持を得ている。
陽階2位の比企が、荻号の嫌疑を十分に立証もできないうちに彼を断罪して殺してしまったとなれば、陰階神がどのような行動に出るかはわからない。
ましてや比企は立法を司る神だ、その比企が法の精神に叛くようなやり口で私刑により荻号を殺したとなれば、反感と報復は避けられまい。
陰階の戦闘的ポテンシャルが陽階を遥かに凌ぐものだということは、かつて陰階神であった比企が身をもって心得ていた。
「機が熟す、とは?」
「己は陰階と陽階との軋轢を生まぬよう、極位となってから荻号を殺すつもりでいたのだ」
「そのために、極位を?」
「そういうことだ……だが第二位神の身分で荻号を殺してしまった今となっては致し方がない、極陽に戒厳令の発布を乞う」
比企が寧々に顎で指図をすると、寧々は一礼して控え、手続きをするために早足で退出していった。
彼女は比企が何も言わずともその意を酌み取り、彼の思うままに遵う優秀な第一使徒だ。
あうんの呼吸。
ムジカはこの様子だと、位申戦ですらあるのかどうかわからないな、と思う。
比企の目的は極位などにはなく荻号を仕留める事にこそあったのなら、それを達成してしまった今は誰が戒厳令を発布しても同じ事なのだろう。
「極陽に、協力を乞うのですか? 生物階の直接統治を掲げ、極陽とは相反する信念をお持ちのあなたが極陽に頭を下げるのですか!?」
「それがどうかしたのか? 頭の一つでも二つでも、下げればよかろう。減るわけでもなし」
比企は何の固執もなく、極陽に頭を下げるつもりのようだった。
事あるごとに極陽に噛み付いて、あれほど敵対していると見せかけていたのは、何だったのだろう? どこを見渡しても、策士ばかりだ……ムジカは信じられないといった面持ちで白い頭を僅かにふった。