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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第30話 Silent requiem

「妾には帰る場所なんて、ないわ……」


 メファイストフェレスはアルシエルに父を人質に取られ、再び風岳村に戻ってきた。

 恨めしいほど何も変わらない、この村。

 太陽は僅かに高度と光度を増して、彼女の黒いドレスをじりじりと焦がしつけている。


 次に解階に戻るのは、ユージーンを伴って……。

 メファイストフェレスが本気でユージーンを連れて戻ろうと思えば、それは造作もないだろう。

 しかしそれがどう影響するのか。

 神階に、そして生物階に。

 父の命とユージーンの命、どちらが大切かと言われても困る。


 だが忠誠よりも勝ったのは、親子の情だ。

 解階の魔女が神を女皇、アルシエルの元に引き渡すことで神階と解階の全面戦争に発展してしまう。

 神階も体裁が悪い、貴重な枢軸神を殺されても黙っていては、神の名が廃るというものだ。


 仮に神階と解階の全面戦争に発展した場合、どちらが勝つかというと難しい。個々の戦闘能力は解階の住民の方が断然高い。

 だが……神階にはたった一柱だけ、最強者アルシエルを遥かに凌ぐ力の持ち主がいるとされてきた。

 その者は姿も名もなく、姿と名を変え、延々と神々と生物階を守り続けてきたのだそうだ。

 好戦的な解階の住民がこれほどまでに生物階と神階に干渉してこなかったのは、たった一柱の脅威があるからだそうだ。

 メファイストフェレスの予想によると、現在は荻号だ。


 荻号の逆鱗に触れれば解階が消し飛ぶ。

 そうなれば、もはやユージーンをアルシエルに差し出し父が助かったところで、それは意味を成さなくなってしまうに違いない。

 慎重なメファイストフェレスは一時の感情に翻弄されはしなかった。

 因があって果があるのだから、彼女が起こした結果がどのような結末を導くのかを考えなければ。

 選択は自らの双肩に懸かっている。


”主を差し出さずに父も助ける方法を、考えるほかないわ……”


 約束の期限は半年。

 アルシエルにしては随分長い猶予を与えてくれたものだが、それだけ確実に結果を得たいのだろう。

 数日以内にと言わないところが、かえって拘束力を発揮する。

 アルシエルはあまり気の長い方ではないが、これほど長く待つと言うのは相当にユージーンが欲しいからだろう。

 それが殺す為なのか、何かをさせたいのかは及び知るところではない。

 メファイストフェレスはさしあたり恒と合流して、ユージーンの近況を聞くことにした。



 コチ、コココッ、カチッ、カチカチッ……


 見た目にはランドセルを背負い、ルービックキューブで遊んでいる学校帰りの小学生にしか見えない。

 恒の手の中で、組み替えられてゆく神具が軽快な音を立てる。


 FC2-メタフィジカル・キューブは音声コマンドのない個性的な神具だ。

 そのプログラムの入力は組み替え配列が影響する手入力であり、だからこそ組み合わせ、組み立てられるプログラムはまさに無限だ。

 極陽の持つ神具は更に改良が加えられて、その実体はなく彼の脳内に存在する。

 彼の脳内で念ずるだけで組み替えを起こすことができるそうだ。

 だがそうかといってこの神具が極陽のそれに劣るという事はないらしい、要するに使い方次第。


 頭の中でイメージする場合と現実に存在するものを手を動かして組み替える場合、どちらがハイスループットであるかというと、当然心の中で組み替えができる方に軍配が上がる。

 現実に存在する神具を扱う事により発生する組み替えのタイムロスは、形而上学的思考により解決する事ができるのだと、荻号は言う。

 その証拠に恒は今、殆ど手を動かしていない。

 頭の中でイメージを繰り返し、その存在を疑っているだけだ。


 神具は恒の思考を受け、勝手に組み替えを起こしてプログラムを完成させてゆく。

 できた、あとは発動するだけだ。

 恒は両手でしっかりとそれを握り締めると、バケツをひっくり返すような仕草でそれを前に突き出した。


”Operating Mind Control Field, expansion !! ”

 (マインドコントロールフィールド展開)


 見えない電磁波となって田んぼ道を駆け抜けていった恒のMCFを、恒は清々しそうに見送った。

 今のは、半径20mはあったはずだ。

 だが必要なのは到達距離ではない。

 内容と確実性だ。

 そろそろ人体実験をしても安全なまでに完成してきたと思うが、あいにく村内にはこれといって人の集まる場所というものがない。


「恒!」


 後ろから声をかけられて振り向くと、背の高いロングドレスの女が手を振っていた。

 失踪していたメファイストフェレスだ。

 たった数日留守にしただけなのに、随分懐かしく感じられる。


「メファイストさん! よかった、もう帰ってこないんじゃないかと」

「帰ってきたわよ、おあいにくさま。今のは何? もの凄い危険な電磁波が駆け抜けていったけど……」

「MCFができるようになったんです。これは俺の神具で、荻号さんからいただいたんです」

「神具が扱えるようになったの!? たった数日で!?」

「でも勿論、俺のアトモスフィアでは足りない、ってか無いに等しいから、そこは荻号さんがうまく充電してくれているようですけど」

「お前は、頑張るのね……」


 メファイストフェレスは先ほどまでユージーンをアルシエルに差し出そうとしていた事を恥じた。

 こんな小さな子供が神具を手にしてそれを使いこなそうと努力している傍らで、何ということを考えていたのだろう、と。

 メファイストフェレスはマクシミニマのインジケータによって気付く。

 恒の脳は鎧をまとったようにマインドギャップが張り巡らされていた。

 その数……6層、ユージーンや織図より優れた精神性を持っているということになる、こんなことがありえるか? 

 たった10歳の子供が、陽階枢軸神並の精神力を数日の間に身につけたのだ。


”どうしてこの子は、こんなに心の成長ができるの……?”


 マインドギャップは一朝一夕でできるものではない。

 身を引き裂かれそうな経験をいくつも繰り返し、心は成長してゆく。

 のうのうと平和に暮らしている者では、マインドギャップを備える事すらできない。

 この子はそれほどまでに辛い思いをしてきたのだろうか。

 恒は唖然とする彼女に微笑んで、こう言った。


「何か言いにくいことがあるようですね。当ててみましょうか」


 その言葉に、メファイストフェレスは心底ぞっとした。

 彼の口調は”できるが、やらない”といったニュアンスを多分に含んでいたからだ。


”何なのこの子、いっちょ前に妾を脅しているの?”


 メファイストフェレスはひとまず引き下がることにした。

 神とはいえ幼子だ、逆ギレするのも大人げない。


「この数日の事は、口頭でお話ししますよ」


 恒は主神の息子の名の恥じぬように、確かに抜きん出て成長が早い神だ。

 いくら枢軸神の最高の教育を受けたといっても、こうはならない。


 その証拠に神々の教育期間は100年間もあるのだが、恒のペースだとあと5年か10年以内には、全ての事を吸収し終えてしまうだろう。

 もっとも、アトモスフィアの量は彼の精神性に追いついてきてはいないようだが……。

 極陽や、神々は恒をどうしようとしているのだろう。


 恒の情報はメファイストフェレスにとってとりわけ価値のあるものだった。

 ユージーンは自殺を図り、考えうる限りの完全な死を遂げたが死ななかったのだという。

 彼は遅くとも1ヶ月以内には再生して蘇る。


 メファイストフェレスはこの事を先に、聞いておくべきだった。

 なるほど、彼はアルシエルの欲しがるように特別な神なのだろう。

 そしてアルシエルに差し出したとしても殺される心配はなかった。

 アルシエルがこの事を知らずにメファイストフェレスに彼を連れてくるよう命じていたとは思えなかった。


 死なない、という事を除けば彼はアルシエルにとってそれほど魅力のある神ではない。

 アルシエルは永遠の命に興味があった、その秘訣を聞きたいといったものだったのなら……単なる会談だ。


 メファイストフェレスは一気に気が楽になった。

 ユージーンに率直に話して、解階に来てもらばいい。

 彼は死なないのだから、身の危険などありえない。

 監禁されてしまうことが心配だが、そうなれば神階も黙ってはいないだろうから、アルシエルも無事に帰すだろう。

 なんだ、他愛もない事だったのだ、とメファイストフェレスは力が抜けてしまった。

 解階の皇が、不死者を珍しがって話をしたがっている、それだけのことだ。


「でもどうして主は、不死なのかしら……? そこに何の意味があるの?」

「さあ……それが……わからなくて」

「妾は不死と聞いて、その存在をひとつしか思い浮かべる事ができないわ。長い歴史上、どんな存在も不死であったためしはないもの……絶対不及者という存在を除いては……でも結局、絶対不及者もINVISIBLEに殺されるの、不死という存在はありえないわ、ねえ、主は怖ろしく回復力に長けたただの……」


 メファイストフェレスが何気なくつぶやいたひと言に、恒は目からうろこが落ちた思いだ。


「そうか、ユージーンさんは! 絶対不及者になるんだっ!」

「ええっ!?」


 どうしてそうなる! 恒の発想の飛躍ぶりに、メファイストはついてゆけない。


「だから死にたくなっちゃったんだ! 絶対不及者になって全てを破壊しつくすぐらいだったら死んだ方がましとか思って」

「でも、まだ憑依されていないでしょう? 絶対不及者の器になる神って、元々不死なの?」

「そんなん、自殺してみようと思わなければ解らなかったじゃないですか、まだ絶対不及者はたった二柱しか現れていないんでしょう……ユージーンさんは気付いてしまったんだ……INVISIBLEはあと3000年以内に収束する、そして場所は……」

「3000年以内に、この村に?」


 恒の頭は冴え渡って、様々な思考が繰り出されている。

 この子は壮絶なまでの考察力を持っている。


「神の寿命が尽きるまでは3000年だからそう言ってみたんですけど。……例えばもうすぐ間近に迫っていたのならこうしちゃいられない。でも、どうすればいいんだろう?」


 恒は荻号がユージーンの亡骸を見せて、お前には運命が変えられると言ったことを鮮烈に思い出した。

 恒はユージーンに何か、してあげることがあるというのだろうか。

 自分がユージーンにしてあげられること……死ねない、絶対不及者に収束される運命をただ待つ事しかできない、絶望の淵に佇む彼に何をしてあげられるというのか。


”荻号さんは、全てを知ってるに違いない”


 恒は再度、荻号に会う必要があると感じた。



 故イエス・キリストの葬送の儀は、陽階最上階の大広間で執り行われる事となった。

 葬儀には陽階全神の参列が求められる。

 各地に赴いていた枢軸神や生物階降下中の神々、使徒たちが続々と帰還し陽階の玄関である関所を通り、共同大沐浴場に大挙して押しかけている。


 ここでは陽階神が陽階を離れていて帰還した際に、穢れを清めるための禊をすることになっている。

 男神、女神ともに混浴だ。

 この沐浴場は平日は水風呂だが、忌日には湯船になる。

 彼らは、ジーザスの死について様々な憶測をめぐらせていた。


 彼等にとってのジーザスは陽階の巨星というばかりではなく、全ての陽階神の忠誠を集めた誇るべき師だった。

 極陽在位時の支持率は陰陽ともに100%、この数字は過去にも未来にも二度とお目にかかることはないだろう。

 明るい採光の取られた広い浴場に湯気が立ちこめ、幻想的な空間を演出している。


 陽階 準中枢 第11位、熱力学を司る女神、ナターシャ=サンドラ(Natasha Sandra)、置換名 楓 沙織(かえで さおり)はそんな彼等の会話を聞いていた。

 彼女はボブより少し長めにカットしたグレーの髪の毛によく似合う、グレーの大きな瞳の、少女のように小柄で色白の女神だ。

 ジーザスが崩御したがために、葬送の儀の直後11位であるナターシャの位階が繰り上がり、入枢となる見通しだ。


 大浴場では、ジーザス殺害の嫌疑がかけられた荻号への批判のみならず、常日頃から何度も位申戦を挑み枢軸入りを狙っていたナターシャにも矛先が向けられていた。

 ナターシャがジーザスの死を願っていたに違いない、そんな心ない批判も聞こえてくる。


 ジーザスの崩御を願ったことなど一度たりともない、実力での入枢を目指していただけだ。

 位申戦で三度挑んで敗れたAA神のユージーンは強かった。

 彼より上位のAA(武型)神であるレディラム=アンリニア(Redirum Unlinear)はなおさらのことだ。

 彼女は毎日鍛錬を積み、ユージーンに打ち勝ち7位を手に入れるための努力はしてきたが、文型神であるジーザスと競い合おうとしたことはない。

 陰口を聞き流しながら、ナターシャは彼等とは少し離れて露天沐浴場に入っていた。


「ご一緒しても?」

「は、はい」


 思いがけず湯船に入ってきたのは、陽階枢軸、第8位 ヴィシュヌ=クリュナ、置換名 浅葱 示曼(あさぎ しま)

 自我を司る女神である。

 彼女は生物階ではヒンドゥー教の祭神、ヴィシュヌ神として知られている由緒正しい女神だ。ヴィシュヌ神は男神であるとされているが、無性別である神々にとっては見かけこそ重要で、実際の性別などあまり意味がない。

 彫りの深いアジア風のエキゾチックな顔立ちに、美しくきめの細かい浅黒い肌が官能的。

 長く細い足に、くびれた腰がナターシャの羨望の眼差しに晒される。

 ムスクのような香りを纏って、彼女は美しい肢体を湯に差し入れた。


「色々、言う者がいるかもしれないけれど、見当違いの批判です。気にしなくてよいと思いますよ」

「……恐れ入ります」

「神階は様々な陰謀が渦巻いています。一つ一つ気にしていたら、身が持ちませんよ」

「はい。ジーザス様は、本当に自然死を召されたのでしょうか」

「荻号殿が、って仰るの?」

「いえ、決してそのようなことは……」


 ヴィシュヌは湯船の上を、手を滑らせるようにして撫でた。

 細くしなやかな指先が鏡面のような湯船に波紋を立てる。

 その波紋は、隠し切れない神階の動揺を示しているようだ。

 何かが水面下で、動き始めている。

 それは三階を巻き込んで、その存亡に関わる重大な事だ。


 一柱の神が崩御した、そんなことでは済まされない程の多大なる犠牲が、これから払われてゆくのだろう。


「荻号殿は神階の脅威であるとともに、神階を守ってくださってもいるわ。そうね。我々神にとって彼こそは真の意味での、神という存在に近い者なのかもしれない。彼の謎に迫る事は、INVISIBLEの謎に迫る事でもあるの……」

「もしも、もしも荻号殿がジーザス様を弑逆なさったとしたら……」

「それでも我々は、荻号殿を失うことはできないの。彼はINVISIBLEに対する唯一の、やいばなのよ。折られてはならないわ」


 湯気はいっそう立ち込めて、明るい採光の下で虹を作っていた。

 神階は今、揺れ動いている。


 底知れぬ謎と実力を兼ね備える荻号に対する評価は、神階を二分している。

 そのうち彼の、要不要論にまで発展することは、避けられないであろう。



 短気な響 以御は執務室の机の上で、いつにもまして苛だっていた。

 彼が些細な事で苛立っているのは今に始まった事ではないのだが、今日はその度合いもことさらだ。

 ジーザス=クライストが崩御し、葬送の儀が執り行われるのは今日の夕刻7時から2時間だ。

 葬送の儀には全陰陽階神の参列が義務付けられている。

 わけても陽階枢軸であるユージーンが参列しないという事は断じてあり得ない、


 急病だといっても不自然。

 以御はユージーンが仮死状態にあるという事実をもはや隠し切れないと感じていた。

 頼みの綱である荻号は法務局への出頭要請に応じているらしく、連絡がつかないのだと彼の第一使徒である二岐は淡々とした事務的対応で説明する。

 夕方までにユージーンが復活する見込みがないとしたら……どうする。


 逃げられない、と以御は思った。


 ユージーンは不死者であり絶対不及者の器となるべき存在だと陰陽階に知れてしまえば、彼はどうなるというのだろう。

 彼はおそらくもう、ユージーンとしては見なされはしない。

 次に神階が考えるのは、かの器を、どのようにして破壊するかという事に尽きる。

 不死者を殺す事ができないとすれば、恐らく最初の発想は分割と凍結だ。

 彼の神体をばらばらに切断し、一つずつを厳封して個々に絶対零度で凍結するのが妥当だろう。

 それが物理科学的現象であるかぎり、分子運動の捕捉から逃れられはしない。

 以御はユージーンを破壊することが悪いことだとは思わない、むしろ完全に破壊される事は自殺を図ったユージーンにとっては本望でもあろう。


 だが……それをやってしまえば、もう後には引き返せない。

 器を失ったINVISIBLEがどう動くのか予測もつかない。

 むしろ、INVISIBLEの機嫌を損ねる方が危険ではないのかと思うだけだ。


「どうすべきなんだ、荻号殿……」



 当の荻号は法務局での取調べを終えて大門を出ると、針の12本ある錆びついた懐中時計をつまむようにして目の前にぶらさげて見た。

 結局、ジーザスの遺体が荻号の部屋で発見されておきながら、法務局は荻号の殺害証拠を挙げる事ができなかった。


 葬儀は7時から執り行われる。

 陰階神である荻号も必ず参列しなければならなかった。

 彼は周囲に目がない事を確認すると、執務室に戻らず、陽階のユージーンの執務室へ瞬間移動を行った。


 荻号を罵りながら頬杖をついていたところ突如現れた荻号に、以御は驚いて立ち上がった。

 陰口を聞き付けてやってきたのだとしたら、相当な地獄耳だ。

 以御が口を開きかけたところを軽く手をあげて制された。


「言いたいことは解っている」

「何も言わずにはいられますか! 主が葬儀に参列しなければ、もはや隠し切れません!」

「軍神の儀式用の聖衣をよこせ」


 荻号は手をずいっと以御に突き出す。


「は!?」

「何とかしてみせる」


 荻号は儀式用の聖衣を以御から受け取ると、部屋の隣にある更衣室に勝手に入っていった。

 以御はうっかり渡してしまったが、よくよく考えると世界に一着しかない軍神固有の儀式用の聖衣を簡単に他神の手に渡してしまった事になる。


 とはいえユージーンではないのだから悪用などできる筈もないが、相手は荻号だ。

 聖衣はアトモスフィア認証形式になっていて、他神の着用は暴かれる。

 何を考えているのか解らない。

 汚されたり、破られたりされれば困る。

 取りかえそうかと考えていると更衣室の扉が開いて、中から儀式用白衣を纏ったユージーンが涼しい顔をして出てきた。

 以御はとんでもなく間抜けな声を浴びせてしまった。


「は? ユージーン?」

「んなわけあるか、俺だ」


 目の前にいるユージーンから、彼より少し低い荻号の声が聞こえてきた。

 腹話術でもしているかのようだ。

 しかし見た目には何一つユージーンと変わらないのに、彼は先ほどまで荻号の着ていた聖衣を手にしている。

 どうやって化けたのかは解らないが、これほどそっくりなら神々を騙せるかもしれない。


「しかし、主を演じきれるものでしょうか」

「以御、心配には及ばない」


 今度はおっとりとしたユージーンの声がした。

 そうか、荻号はユージーンの記憶をバックアップしているとは言わなかっただろうか。

 荻号の口を借りて話しているのは、ユージーンの意識そのものなのかもしれない。

 だとしたら、彼自身が彼を騙るのは難しい事ではないだろう。


「一体、どっちなんですか!」

「なんてな。俺の中にはユージーンの記憶もあるからな。うまくいくさ」

「しかし、そうするとあなたは葬儀に参列できませんよね」


 以御は重要な事に気付いていた。


「構うものか。荻号ってのは昔からそういう奴だろ。参列しなかったとしてもいつもの身勝手だと思われるだろうさ。まあ非難は轟々だろうがな。一方のユージーンは義理堅く忠義に厚い神だ、どちらが参列すべきかは言うまでもない」


 荻号は彼の脳の中にユージーンの意識を再形成しているようだ。

 彼は自らの立場より、ユージーンの立場を第一に考えて行動している。


 以御は昔から荻号という神の本質がつかめない、しかし一見ぶっきらぼうで突き放したように接しながらも、彼は誰よりも慈悲深いのだと感じた。

 彼の中には確固とした信念があって、それを貫くためには少々の誹謗中傷や体裁など気にしない。

 純白の白衣を丁寧に整えながら、荻号は部屋を出てゆこうとした。


 以御は注意深く表情を見て、ああ、彼はそうは見せないが疲労困憊でボロボロなんだな、と見抜き気遣う。

 二岐は気付いていないのだろうか。

 彼を休ませなければ……いかに完全と思われる彼でも、決して完全な存在ではないのだろうから。


 荻号は以御の心配をよそに、へらりと手を振っておっとり微笑むと、ドアを出て軍神のフロアをゆっくりと通り過ぎ、ユージーンの使徒たちに取り囲まれながら歩いていった。


 荻号は回廊を歩きながら、彼の意識の中で語りかけてくるユージーンの言葉を聞いた。


”ありがとうございます……”

”寝ていろ、ユージーン。まだ起きずともよい”


 ユージーンの意識はノーボディの意識の中、ゆりかごに守られるように漂っていた。

 彼の意識と混ざり合う中でユージーンの意識が感じたこと、それはユージーンの背負うものとは比較にならないほどの懊悩だった。

 彼の意識の中は混沌として鬱積した森のように、灼けつき乾ききっていた。

 それは肉体的な苦痛もさることながら、精神的なものは壮絶なものだ。


 一時の安息もなく幾百億年もの苦痛を味わった者はこうなるのかと思うほど、無尽の絶望と虚無がそこにはあった。

 自殺を図ったユージーンの心はノーボディ(Ultimate of No-body)の意識の中で彼の意識と触れ合ううち、徐々に癒される。


 広大無辺の砂漠の中に、オアシスの如くユージーンのための快適な居場所を作ってくれていたからだ。

 ユージーンの意識は絶望の淵から、いかにその絶望と戦うかを考え始めた。

 彼がそう導いてくれたからだ、ユージーンは闇の中から活路を見出してくれた彼に礼を言いたかった。

 思わず話しかけたのは、そんな気持ちからだ。


”吾が力は、急速に衰えつつあるな……傷ついた汝をすら、眠らせておけぬとは”

”何かできませんか。あなたの力になりたいのです”

”……気持ちだけでよい”


 荻号は強引にユージーンの意識を奥に引っ込めるとやや早足で歩き、葬儀開始直前に斎場に滑り込んだ。

 壮麗な祭壇が一夜のうちに築かれ、神々の手向けた白い花輪が祭壇いっぱいに飾られていた。


 闇の中、夥しい数の燭台に点された炎が幻想的な光景を生み出している。

 彼の功徳を偲ぶ声や啜り泣きが方々から聞こえ、荻号は沈痛な面持ちでユージーンの座るべき陽階枢軸の席に腰掛けた。

 ちょうどその隣には第4位、音楽神 ケイルディシャー=ムジカが着座している。

 儀式用の白衣を纏っているせいか、肌の色から髪の毛から、真っ白のいでたちになっている。


 唯一アクセントがあるとすれば、若干毛の先が赤く変色している事ぐらい。

 上から見るとまるで朝顔の花弁ような繊細なグラデーションを成している。

 彼は荻号に気付くと、声をかけてきた。


「惜しい方を亡くしたな、ユージーン」

「ええ、かの御方は陽階の希望でした」


 荻号はユージーンの口調をそっくり真似ながらも、実際にそう思っていた。

 ジーザスを亡くしたのは痛い損失で、それは全てINVISIBLEを甘くみた自分の責任だ、と。


 ムジカは陰階神の席を首をのばして荻号の出欠を確認する。

 全神が参集する中、一柱の席があいていた。

 ムジカはそれを見てルビー色の瞳を僅かに曇らせた。


「渦中の人物、荻号さんは欠席か……あるいはあの噂は、本当なのかもな。お前もそう思うだろ?」

「わたしには真相はわかりません、しかし先代極位の葬儀に参列しないとは……嫌疑をかけられても致し方ないかと」


 荻号は何の固執もなくユージーンの口を借りて自身を非難する。

 ユージーンが憚らず誰かを非難することなどなかったので、ムジカは目を丸くしたが、それについてどうこうは言わなかった。

 こいつも言うようになったな、とその程度の事だ。


「そうだ……荻号さんは疚しい事がないなら今日の葬儀に参列すべきだった。様々な憶測を生むだろうに。それにしてもお前も大変な任務だったな、身体罰は相当な苦痛だった事だろう。何故人間を、助けたくなったんだい?」

「それは……よくわかりません」

「お前こそよくわからん奴だねぇ」


 荻号は何も答えずおっとりと微笑んで黙礼した。

 ムジカはその様子を見て何かを言おうと口を開きかけたが、開式を告げる定時の鐘が鳴ったので口を閉ざした。

 使徒たちによる祈りの聖歌が重厚なオルガンの調べに乗せられて斎場に浸透する。


 この葬送曲はムジカによる作曲で、多重編成による古典的声楽曲として見事に仕上がっていたが、ジーザスのために作られたものではなかった。

 極陽から順にジーザスの遺体に献花を行い、礼拝を済ませてゆく。

 普段聖印を切る事のない神々もこの時ばかりは哀悼の意を表し、最高敬意を示す聖印を死者に切り送る事が義務付けられている。


 荻号はユージーンの聖印など見たこともなかったが、少しも動揺しなかった。

 第5位 光神、レディラム=アンリニア、第6位 史神、レヴィティクス=ディミトリ(Levitics Dimitori)の礼拝が終わり、ユージーンの姿をした荻号は起立し、生花を取って丁寧に作法に従って参列者に礼をする。

 次にジーザスの遺体の前に歩み出て膝をつき、ユージーンの固有の聖印を切り送った。

 ユージーンの聖印は三つの動作を伴うものだったが、その所作は完璧で誰も不自然さを見抜く者はなかった。


 陽階全100神の礼拝が終わると、次は陰階神の番だ。

 極陰であり破壊を司る女神、すなわち陰階 第1位ゾーナ=イクシメナ(Zona Iximena)、置換名 鐘遠 恵(かねとお めぐ)の頬には僅かに涙の痕が残っていた。

 極陰はジーザスと長きに渡り懇意に交流しており、お互いによき理解者だった。


 陽階神のみならず陰階神からも偲ばれるジーザスという神は、陰陽を繋ぐかすがいだったに違いない。

 荻号を除く陰階神全神の礼拝を終えると、陽階を代表して極陽が弔辞を述べた。

 極陽はジーザスの突然の死にも混乱することなく、冷静沈着で落ち着いており、特に感情をあらわにすることもなく彼の生前の略歴と功績を最大限に賛美し、彼の冥福を祈る言葉で締めくくった。


 極陰も感情を押し殺し、冷静に努めようとした。

 両極位ともに風岳村に端を発した一連の神階の混乱を、これ以上拡げるわけにはいかないという共通の認識があったわけだ。


 滞りなく式が終わる事かと思いきや、最後の閉式の宣言をする筈の比企が席を立ち、こんな事を切り出した。


「ご会葬の諸神、本日は公私ともに多用中にもかかわらず会葬を賜り、誠に感謝にたえぬ。我々は真の光を失った。爾後は我等一丸となって故神の御遺志を受け継ぎ、神階の発展のために一層の尽力を致さねばならん。神階は故神、ジーザス=クライストに哀悼の意を示さぬ者、そして故神を弑逆奉った者を……断固として容赦はしないだろう」


 荻号はかつての弟子の決意みなぎる言葉に、表情ひとつ崩さずじっと耳を傾けていた。

 比企は何としてでも、復讐を果たすつもりでいる。

 その気迫が痛いほどに伝わってきて、彼はふと俯いた。


 彼の愛した弟子の澄んだ瞳が憎悪に滾る様子は見るに耐えなかった。

 そしてそう信じ込ませ追い詰めてしまった彼自身にも、さすがに嫌気がさしていた。

 全てを打ち明けてしまう事ができたら、どんなにか楽になれるだろう。


 だが荻号はそうするわけにはいかなかった。

 彼の子らを愛し、彼等の生を尊く思っていたからだ。

 葬儀が終わり、全神がジーザスの棺を見送ると、荻号は足早に斎場を後にした。


 軍神の執務室に戻り以御に荻号の聖衣を返却してもらわなければならない。

 ユージーンの極陽への義理立てのためにも、極陽に挨拶をせずに出てきてしまったのは悔いが残るが、下手に居残って正体を見破られてしまう方が尚悪い。


 ひとまず、ユージーンとして葬儀に出席したことに意義がある。

 彼の健在をアピールできたのだから今はそれでよいと思う事にした。


 ところが。


 長い空中回廊を歩いていると、明らかに後ろをつけてくる足音がある。

 気配を巧妙に消していて、誰がつけているのかはわからない。

 荻号は歩調を緩めず一定のペースで歩いていたが、一本道に差し掛かり人目がなくなったので振り返った。


 背後にはぴったりと、ムジカがつけてきていた。

 あんなに早々に撤収したのに、よくもついてこれたものだな。

 感心してしまった。


「そんなに急いで、どこへ行く?」

「少し用を、思い出しまして」


 荻号は焦らず堂々として、ユージーンの口調を真似て応じる。

 しかしムジカはどうやら、とっくの昔に気付いていたようだ。

 軽く首を振るのが覗えた。

 ジーザスを殺害した者として警戒をしているのか、杖状音域増幅神具 レクス・ノースター(Rex Noster)を取り出して戦闘モードにして握っている。


 ムジカは以前、荻号と交流戦を行い唯一引き分けたことのある神だ。

 たかが陽階神として侮ると火傷をする。

 ムジカの瞳が、血のように赤く輝いている。


「らしくないな、荻号さん。姑息だ」

「絶対音感(sense of absolute pitch)……か」


 ムジカは荻号の演じるユージーンが、音声を出していないのを音楽神特有の能力”絶対音感”によって見抜いていた。

 ノーボディはいかなる者の姿を借りようと、その声を発する事はできない。

 彼に出来るのは口を動かし、そして同時に相手の脳に伝える事だけだ。

 殆どの場合、その者の声と信じ込ませる事ができた。


 だが音波解析のスペシャリストであるムジカにおいては、先ほど二、三会話をした時に見抜かれていたらしい。

 それを敢えてあの場で問いたださなかったのが流石に、手だれている。

 彼の子らを騙すのはどうも、一筋縄ではいかない。


「本物のユージーンはどこにやった……? まさかユージーンまでも手にかけたってんじゃ、ないだろうな」


 ムジカの口調は、説明次第では死を覚悟でこれから一戦やりあうことも辞さない。

 そんな意図を過分に含んでいた。


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