第1節 第29話 Christ's death and influence
藤堂家の織図と恒は、揃って口をぽかんと開けたままパソコンの画面を見つめていた。
志帆梨はもう深夜になったので床についた。
黙々とFC2-メタフィジカル・キューブを用いたMCFの練習をしていた恒は、いつものようにネットサーフィンをしていた織図の表情が硬直してしまっているのを見て近寄ってきた。
陽階枢軸 10位、ジーザス=クライスト、置換名 師崎 灯陽、崩御。
死亡推定時刻は7月21日 午後11時2分。
報じられたのは救世主 イエス・キリストの死である。
恒は直接ジーザスと見えたことはないが、彼は聖書や人々の信仰の中で姿を見ているかのような気になっていた。
どれほどの人間が彼を敬愛し、彼の教えをこそ心の支えとして、信仰をしているというのだろう。
まるで世界中に灯されていた信仰の光が消されてしまったようで、恒は何ともいえない気持ちになった。
織図は常日頃、唯一敬愛すべき陽階神としてジーザスの名を何度となく挙げていたし、彼の思想を気に入ってよく引用していた。
陰階神の織図にとってもジーザスは大きな支えだったようだ。
彼の黒い大きな瞳に、涙を浮かべていたように見えたのは、恒の見間違いではない。
「どうして……お亡くなりになられたのでしょう」
「一つには、ジーザスさんは高齢だった。だが……違う、そうじゃない」
織図は落ち着かないからか煙草が吸いたくなったらしく、煙管を取り出そうとして、ここが民家であることに気付き引っ込めた。
死神は”生物階にある者の死”を秒単位で予知できるが、”神階にある者の死”は把握できない。
だが、織図は誰よりも死という現象を識る神だ。
少しぐらいの勘というやつはある。
神が死ぬ前触れがある時は、何となく嫌な予感がするものだ。
それはほんの少しの悪い予感としてでしか認識できないが、織図はその日一日嫌な気分で過ごしている場合が多い。
何度考えてみても、ジーザスが死ぬ気配を感じ取ることができなかった。
そして織図は、長年培われた経験と勘によって、ジーザスが何者かに殺されたのだという事を見通していた。
発表された死因は自然死ということになるのだが、彼は老いていたとはいえ老衰で崩御するほど衰えてはいなかった。
ジーザスの年齢を人間の年齢に換算しても、たかだか60歳やそこらで、自然死とするには明らかに不自然だ。
織図は神語を読めない恒に構わず、自分だけ記事を読んでいる。
ジーザスはどこで崩御した……。
恒も負けじと読めもしないのに画面を見つめる。
いくら粘っても、単語ぐらいなら読めるが、読めないものは読めない。
イングリッシュ変換ボタンを押そうとして織図に止められた。
織図は神語で記される微妙なニュアンスを読み取りたいのだ。
恒は仕方なく待ちぼうけだ。
ただ待っているのは時間が勿体無いので、神具の取り扱いに集中する。
恒は僅かな間にMCFらしきものを展開できるまでになっていた。
今度は人体実験になってしまうので志帆梨を付き合わせる訳にはいかず実験台はいないのだが、MCFが形成されているかどうかは織図が判断してくれる。
MCFはつまるところ、微弱な電磁波のプログラムのようなものなのだそうだ。
恒が研究員にかけようとしているマインドコントロールは、それほど複雑なプログラムではない。
その内容はこの村に何の調査に来ていたのかを忘れて、可及的速やかにこの村を去りたくなるという、ただそれだけだ。難しいものではない。
失敗は許されない。
一人でも失敗して逃がしてしまえば意味がない。
恒は何度も同じ練習を繰り返し、MCFの手順を身体に叩き込んだ。
織図は情報を集めるうちに、ジーザスが最期に面会した神が荻号であることを知り愕然とした。
荻号の周囲には、不審な死が付きまとう。
荻号がジーザスを殺したのだろうか……33層のマインドギャップを備える荻号の真意には近づけない。
それどころか彼に近づく者は全て不自然な死を遂げてきた。
織図は彼と表向き親友として接しながら、その実は彼の事など何一つ理解しようとしなかった。
荻号は織図が一線を越えて彼の内面に踏み込んでくる事を頑なに拒んできたし、織図がそれに興味がないというそぶりをして織図の目が視覚障碍であったため、信頼関係を築くことが出来たのだと分かっている。
”荻号さん……あんたが、殺ったのか? 俺にはジーザスさんを殺すべき理由が見当たらない”
織図は恒に画面を譲り、煙草を吸いに屋外に出て行った。
織図が窓を開くと、じっとりと湿気を含んだ嫌な夜風が家の中に吹き込んできた。
*
翌日、吉川 皐月と子供達にとって長い長い一学期が終わろうとしていた。
長かったと感じたのは、皐月だけではなかった。
なかでも恒は一学期の初めに辛うじて目撃した憔悴しきった姿とは見違えるようだ。
講堂での終業式を終えて一人ずつに通知表を渡し声をかける。
子供達は他の子供と自分の成績を比べては一喜一憂していた。
恒は皐月から受け取って中身をちらりと覗いただけで、興味も持たず閉ざしてしまった。
今学期はテストを全て受けた上全て満点で、出席も足りていたので全学年一位の成績だ。
もっとも、恒にとっては成績などどうでもよかったのだが、クラスメートはそうはいかない。
クラスメート達は初めてまともに評価されたであろう恒の成績に興味津々だった。
中でも朱音の成績より恒が上なのか下なのかが気になる様子だ。
恒が通知表を受け取るなり、誰もかれも席を立って黒山の人だかりでもみくちゃになる。
恒は迂闊にも、通知表を奪い取られてしまった。
「えー! 恒、全教科満点だ! オール5だぜ」
「うっわ、恒ってテスト100点しか取ったことねーの? 親友だと思ってたのに」
巧が何とも形容しがたい切なげで、物ほしそうな顔で大親友を見つめる。
朱音はますます恒のことが気になっていた。
彼が天才だから、というのではない。
朱音は恒が人知れず努力をしているのだと信じていた。
どんな人間だって努力もせずに天才という言葉だけで何事もできるようにならない。
恒は努力の痕跡を、決して他人には見せない。
彼が万能の天才なのは彼がそうあろうと努力を重ねた賜物なのだ、と。
「ずっりーよなー、お前、何もしてねーのに何でもできて!」
他のクラスメートが嫉妬心を隠そうとしない。
成績の良し悪しにお小遣いの増減がかかっていたりする児童もいる。
それを聞いて朱音は、どうして恒はいつも誤解されてしまうのだろう、ともどかしく感じた。
皆は恒に憧れているけれど、恒の隠された本心は誰も知らない。
”恒君はずるいんじゃないよ……皆より努力してるんだよ”
それはそうと、朱音はこの夏休みに思い切って恒を海か山に誘ってみようと思った。
二人きりでは恥ずかしいので皆と一緒でもいい。
皐月にもついてきてもらってもいい。
そう思ったのは、恒が最近、村の子供達と遊んでくれなくなっていたからだ。
彼はここのところ何かにずっと没頭している。
恒を夢中にさせるものが何かは分からないが、恒はこの一学期の間に、朱音の知り得ない数々の体験を積み上げたようだ。
目を離せばふらりとどこかへ飛んでいってしまいそうな恒を、朱音は繋ぎとめておきたいと思う。
彼の心は、今は朱音に向いていない事は百も承知だったのだが、それでも臆病になってばかりでは、何も踏み出せない。
朱音は後ろの席の女友達と話をしながらも、ずっと耳だけは恒の方へ向けていた。
「みんなー、成績は見せあうもんじゃないの! それから勝手に席を立たない!」
皐月はざわついてきた教室を見かねて注意するが、すっかり夏休み気分の彼等は馬耳東風。
収拾がつかなくなってきたので、皐月はここぞとばかりにどっさりと夏休みの宿題を配る。
読書感想文に各種ドリル、自由研究に、観察日記。
書道や絵画の課題。
宿題どっさり作戦が効を奏して、彼等は口を一斉につぐんだ。
その量を見た巧が口を尖らせながら机をバンバン叩いて抵抗した。
「おいおい、皐月っちゃん! おーいーいーよー! 宿題おーいーいー」
「あのねー、豊迫君。おいいなんて日本語ないのよ、多い、でしょ? 国語の宿題、追加しましょうかね」
「ぎゃー! 鬼ー!」
苦笑しながら、皐月は彼らを見渡す。
巧はというとこの夏休みにソフトボールの県大会にエースとして出場する。
巧はユージーンに繋ぎ止められた命を、精一杯大切にしているように思えた。
確かに宿題をしている時間などないのかもしれない。
生徒達ばかりでなく、この一学期間というもの公私ともに多忙な日々が続いた。
皐月も子供たちもひとまわり成長したような気がする。
ユージーンとメファイストフェレスが去った5年2組の教壇に、終業式には皐月ひとりで立っている。
彼らはさよならを言わなかった。
彼等はいつの日かまた帰ってきてくれるだろう、この教室に。
皐月は彼等についてのしんみりとした言及は避ける事にした。
「では皆、思い出いっぱいの夏休みを過ごすのよ。登校日に、また会いましょう」
こうして、彼等にとっては五度目の夏休み、不登校だった恒にとっては初めての夏休みが始まった。
*
第10位 倫理神下第5層公獣番役、糯愈 定は、彼の主の崩御の訃報に触れ、喪に服すというより何も手につかなくなった。
ジーザスはその長い生涯の終わりに、苦難の十字架を背負ったのだろう。
彼の主がどのようにして最期の時を迎えたのか。
糯愈には想像もつかない。
彼の死に思いをめぐらせても、込み上げてくるのは遣る瀬のない空しさだけだ。
”求めなさい、さすれば与えられるだろう
探しなさい、さすれば見つかるだろう
たたきなさい、さすれば開かれるだろう
全て求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開れるからである"
Matthew:7-7-8
彼の説いた言葉は何よりにも替えがたい宝物だ。
彼の言葉には魂が宿っており、いつも糯愈を勇気付け、励まし、導いたものだ。
それにしても、使徒階の草原の牧草を撫でる風が今日はやけに強いと感じた。
慈愛に満ちたジーザスの息吹が、草原を駆け抜けているのだろうか。
馬場の柵の上に顎を乗せてがっくりと肩を落としていた糯愈は、柔らかな風に悲しみが運ばれたように感じて、聖書の言葉を思い出しふらふらと立ち上がる。
キイン、とどこからともなく耳鳴りがした。この感覚は何だろう?
それが何故見えたのかはわからない。
彼は怯えて周囲の馬番たちの反応を覗おうとしたが、他の馬番役たちは訃報を聞いて死んだように呆然として牧草地に伸びていて、誰一人その存在に気付いていない。
聖書の言葉を思い出し、何かを求めて視線を草原に泳がせていた糯愈には目の前を通り過ぎる、金色の光を纏った青年が確かに見えた。
風を孕ませて、白衣ではない透明な衣を纏い、その腕には赤子を抱えている。
青年の太陽のような金色の髪の毛が黄昏の草原のように長くたなびいて揺れて、少しでも気を抜けば消えてしまいそうなほど。
彼は透き通っていた。
糯愈は声はおろか金縛りになり、ただ青年の通過するのを見守ることしか出来なかった。
青年は薄い金色の髪の毛とグリーンの瞳をした美しい赤子を、金色の瞳を細めて慈しむように優しく抱いている。
赤子はむずがりもせず泣きもせず、すやすやと青年の腕の中で眠っている。
彼は誰にもその姿を顕すことなく糯愈の前を通り過ぎ、馬舎の中に入っていった。
彼が通り過ぎると、傷を癒すような風は止んでしまった。糯愈は金縛りが解かれ、無我夢中で馬舎の中へ駆け込んで行った。
恐怖心はもはやなかった。
「ああ……このお方は……神様?」
馬舎のつきあたり、もう長らく使っていない古びた飼葉桶にたっぷりと新しい藁が敷きこまれ。
たった今、この世に授けられた神の赤子が眠っていた。
糯愈は安らかな寝息を立てるバラ色の頬を持つ赤子を抱き上げ、至高者からの贈りものを受け取った。
飼葉桶の中から発見された女神の赤子はジーザスの生まれ変わった姿だ、根拠はないのにそんな気がした。
糯愈は求め、そして与えられたのだろうか。
「……ありがとうございます……」
糯愈はふと光が差し込んだような気がして、赤子を抱えたままゆっくりと後ろを振り返った。
今にも消えてしまいそうに儚い光を注ぎかけながら、正体も知れぬ先ほどの青年がじっと糯愈を見下ろしていた。
彼が間違いなく赤子を受け取ったと、確認しているようにも見える。
糯愈はその黄金の瞳の異質さに再び怯えあとずさって、今更のように腰を抜かした。
彼は逡巡するも勇気を振り絞って訊ねる。
「あなたは……誰ですか」
[……何者にもあらざる者だ。ひとつの死を昇華し新たなる生を授く]
穏やかな声が糯愈の胸中に満ちて刹那、強い風が放たれ、不覚にも目を閉ざした。
赤子は驚いて泣き声を上げ、産声をあげたかに思えた。
慌てて瞼を開いた時には青年の幻はかき消えている。
後には吹き抜ける風とプリズムのような鮮やかな光が、馬舎の中を虹色に輝かせていた。
神が一柱崩御するとその前後に必ず、一柱の神が誕生する。
自ら誕生する事のできない神々は、厳密に個体数が管理されている。
ジーザスの死と引き換えに生まれた赤子、それが彼女という女神だ。
糯愈はたった今、誰も知らなかった神の誕生の秘蹟を目の当たりにしたのである。
*
鏑 二岐はいつの間にか書斎に戻っていた荻号に気付いた。
二岐は今日は会議に出掛けるはずだったので、荻号は二岐が隣にいるとは思っていないのだろう。
陽階の巨星が堕ちた事により、運営部会の会議どころではなかった。
鍵がかかっているのは知っていたので、合鍵で部屋に押し入る。
荻号は疲れ切っていたのか、ベッドに身体を横たえて布団をすっぽりかぶっていた。
彼女の主がベッドを使っているところなど、ほぼ一度も見たことがなかった。
何百年ぶりの睡眠をとっているのだろう……不眠不休でいつも何やら動き回っていた彼が、珍しい姿を見せている。
明日はきっと、大雪だわ。
そんな事を思いながら物音をたてずに中に入ると、腰の白い羽衣を解いて、ベッドの下に放り投げているのが覗える。
薄墨色の聖衣も脱いでベッドに放り投げて寝ている。
二岐が女使徒だからかもしれないが、荻号が聖衣を脱いで裸になっている状態を、二岐は目撃したことがなかった。
毎日沐浴をしている割には着替えている場面を見たことがないし、彼はいつも同じ聖衣を着ていた。
汚れたりほつれたりしない聖衣は洗濯などしないで何百年と同じものを着る事ができるので、これしか着ない。
上半身を脱いでいると思われるので起こすのが躊躇われるが、しかし寝かせている場合ではない、ジーザスの死に関する事情聴取を行うための法務局からの出頭要請が出ているのだ。
拒めば断固とした法的措置がとられるだろう。
やましい事がないのなら直ちに出頭させなければならない。
他には衣類が落ちていないかベッドの周囲をよく見て、下を穿いているであろうことをだけ確認すると、二岐はそっと布団をめくった。
ところが!
二岐の予想した荻号の寝顔は、そこにはなかった。
悲鳴を上げそうになった口を押さえて、必死にこらえた。そこには別神が横たわって、光を紡いでできた糸のような金色の長い髪の毛を腰まで伸ばし、眩しい光に包まれた熱を持たない太陽がそこにあるかのように強い存在感を放っている。
形容過多ではなくて実際に見たままだ。
俯せに寝ていたので、長い毛の間からより一層輝きを強めている背部を見ることができた。
彼の背中には、二岐が教養によって知っていた……スティグマ(聖痕)が見えた――。
これはまさか、ひょっとして、いや間違いなく……伝説に聞く絶対不及者ではないのか?
INVISIBLEが神の中に収束した姿……二岐は思いがけないタイミングで、思いがけない場所に出現した絶対者を目の前にして戦慄した。
二岐の接近に気付いていない様子なので、顔を覗きこんでも、荻号ではない。
まるで仮面を脱いだように別神だ、いやこれはもはや神などではない。
断言してもいい、絶対不及者だ。
絶対不及者がこんなに身近に……にしては、少し違和感がある。
絶対不及者は創世を成すほどのエネルギーの固まりであり、直視することはおろか側に近づくだけでも殺されてしまうという話なのに。
そして彼に触れるあらゆるものは焼灼されてしまう。
布団にくるまってベッドで寝ることすらできない。
途方もない熱量に触れ、ベッドごと炎上してしまう。
偽物のように覇気とパワー不足の絶対不及者……。
大体絶対不及者なら疲れて寝込むような事はありえない。
落ち着け、違うのだと二岐は止めていた息を静かに吐きだす。
それにしても奇跡的な対面だ。
その姿は不安定で体躯の下のシーツが透けて見える。
二岐はつぶさに観察していて、彼の指に枢環がはめられている事に気付いた。
世界にたったひとつしかないステータスシンボル、その御璽は闇神の印、真空斑だ。
偽物などあるはずがないし偽物を作る意味もないとくれば……。
どんなに姿が変わっても、これは荻号なのだ。
見せ付けられた思いがした。
その証拠に下半身はいつも荻号が穿いているものだ。
ジーザスはこの姿を見てしまったが為に、荻号の正体を知ってしまったが為に殺されたのではないか。
察しのよい二岐は震え上がる。
殺される! 今すぐ出て行って、すっかりこの事を忘れてしまわなければ殺される!!
だがどんなに頭を振りかぶっても記憶を消すことはできない。取り繕っても看破されてしまう。
二岐は荻号の第一使徒となったことを、悲惨なまでに後悔した。
荻号は二岐がまだ子供だった頃から有名で怖ろしくいわくのついた神だった。
二岐は噂を信じはしなかったし、先代の第一使徒が不審な死を遂げた時もそれほど不自然には思わなかった。
むしろ荻号という不思議な存在に、卑近で伺候して真実に近づいてみたいと思ったのが祟った。
もう駄目だ。
全ては終わってしまう。
どうして今日に限って部屋の中に入ってしまったのだろう。
決して覗き見てはならないものを、見てしまったのだ。
ここにとどまる限り殺されてしまう。
どこか遠くへ、今すぐ逃げなければ。
だがどこまで逃げればよいのか?
二岐はそっと布団を整えようとしたが、彼はわずかな布団の重みの変化にはっと気付いて瞳を見開いた。
絶対不及者の証とされる禁視が開眼されている。
彼はひどく悲しげな顔をして、緩慢な動作で二岐に手を差し伸べてきた。
その手で殺されるのだ。たった今から!
二岐はもはやこれまでと覚悟を決め、目をきつく閉ざして両手で頭を抱える。
へたりこんだ。
「二岐」
「……!」
彼女の頭上から、聞き慣れたハスキーがかった低い声がした。
二岐は殺されるとばかり思っていたので、現実を受け止められない。
先ほどの姿とは異なり、荻号自身の姿がそこにはあった。
黒い聖衣を纏い、銅色の髪の毛を腰まで伸ばしたいつものだらしないいでたち、のんびりとした口調。
陰階神 荻号 要だ。
間違いなかった。
夢を見ていたのだろうか。
いやに明晰な夢だった。
「……主よ、あなたは……」
「用があったのだろうが、合鍵を使って立ち入るのは感心しない。お前のためにもな……なんにしろ無事でよかった」
「お伺いしてもよろしいでしょうか……」
二岐はくいさがるが、声は震えて歯の音もあわない。
「折角助かった命を無駄にするな。これに懲りたら、命は大切にしろ」
「お見逃し……下さるのですか」
二岐は確信した。
これは絶対不及者ではない。それに似た違う何かだ。
何故なら絶対不及者は感情を持たない。
長年仕えた者だからといって容赦はしないだろう、二岐は今、明らかに彼にとって不安分子、邪魔者を生かす理由が見当たらない。
彼の代名詞は虐殺者だ、優しい絶対不及者など聞いた事がない。
感情があるという事だけでも非常に不完全な存在だ。
もの思わない純粋なエネルギーであるINVISIBLEとは比べるべくもない、彼の中にはINVISIBLEは収束していない。
荻号がどんなに疲労していても睡眠をとらなかったのは眠ると正体が暴かれる、という裏があったのか。
二岐は今更のように思い起こす。
荻号が眠った時にだけ異なる姿に変身する、というよりは正体を、眠った時にだけ隠せないでいると言う方が正しいのだろう。
*
一方、二岐が一命を取り留めたことに、荻号は複雑な息をついた。
彼は渾身の力と バイタルを込めて無から一柱の神を生み出した直後、極度の疲労により睡眠を必要としていて、迂闊にも二岐にその姿を見られてしまった。
太古の昔はそのような失態はなかったのだが、彼の身を削り神を生み出し続けるうち彼の力はしだいに衰えてきて、遂に睡眠を必要とするまでになってしまったのだ。
神々を生み出すたび、彼の力は衰えてゆく。
彼の子らは、母体である彼の力をくいものにして生まれてくるからだ。
昔は1000倍の総個体数を創出できたのだが、今はおよそ4000という総個体数を維持するだけでも精一杯。
彼が睡眠をとる間、意識が落ちてしまうので荻号要を演じることができなかった。
睡眠中に力の制御がままならなくなってより幾百年、彼は睡眠を取ることを自らに禁じたのだ。
そのことがさらに彼の力を衰えさせ、彼は襲い来る睡魔を覚せい剤入りの煙草により紛らわせてきた。
二岐の行動を予測できなかったのは致命的だったが、その姿が何を意味するのかを知らなければ、INVISIBLEは見逃すようだ。
アルティメイト・オブ・ノーボディ(Ultimate of No-body:UN/名も姿もなきもの)。
荻号という神を演じる彼は、ふたりも犠牲者を出さず安堵した。
「法務局が出頭要請をしてきたのだな」
「御意」
荻号は殆どの場合、二岐の顔を見ただけで用事を当ててしまう。
この何百年も、二岐は荻号にまともに報告をしたためしがない。
そんな事はもう慣れていた筈なのに、荻号がいつもどおりの会話をしてくれたのをどう受け止めてよいのか分からず、二岐は頭を床にこすりつけるようにして平伏した。
荻号はそんな二岐を首を傾けながら見下ろしたかと思うと、ゆっくりと二岐の頭を撫でてやって、最後に何かを引き抜くような仕草をする。
「念のため、さきほどの記憶は消しておく。すまないな、二岐」
「ありがとうございます」
荻号のアトモスフィアによって記憶を書き換えられ、二岐は記憶を奪われた。
崩れた二岐を、空色の眼差しで憐れむように見つめながら、神気遮蔽布を兼ねた羽衣を手にとっていつものように腰に巻きつけた。
二岐からの返事はない。
*
一夜明け、早瀬たちの研究チームは石沢の母親が花屋のアルバイトに行って家を空けた事を確認すると、3人ばかりが電気工事屋を巧妙に装って家の勝手口から侵入した。
勝手口の鍵がサムターン廻しで簡単に開くというのは織り込み済みだ。
井村は行動学的に最も効果的に観察のできそうな場所を探して、次々と室内にカメラを設置していった。
先日は飲みすぎた井村だが、翌日には復活している。
石沢家は雑然とはしておらず家具も少なくいつも掃除が行き届いており、カメラを隠すのに一苦労だ。
観葉植物の間に盗聴器を滑り込ませ、テレビの裏を開けてカメラを隠す。
ジャスト10分で撤収だ。
この家は近所づきあいがよいので、隣人から怪しまれてしまわないとも限らない。
予め取り寄せておいた見取り図をもとに、入念に仕掛けられたカメラは50余り。
彼女がもしも天使であるなら、万全の監視体制の前に逃げられはしない。
重要なミッションを終えて駆け込むようにワゴンに戻ってきた精鋭部隊を、研究員たちはまるでホームランを売ったバッターのように頭を叩きながらねぎらった。
「ただいまから調査開始だ、各自グループ内で交代しつつ、24時間体制で受け持ちのカメラをモニターし続けるように」
研究員達のモチベーションは、冷房の効かないワゴンの中を更に熱くさせていた。
「さあ……正体を見せるんだ、ラジエル。お前の生活を丸裸にしてやる」
*
当の本人、つまり石沢 朱音は放課後の教室で博多土産を配っていた。
「博多通りもん」をばらして女子に配り、仲のよい友達には趣味の悪いキーホルダーを配った。
皐月に恒、巧、天野などにもキーホルダーを配る。
恒は博多みやげをもらって、だから研究員を引っ掛けて連れてきたのだな、と疲れた顔をしてため息をついた。
その様子を見て朱音は肩をすくめた。
何か気分を損ねたのだろうか? 恒の考えている事がさっぱりわからない、前はあんなに仲良くしていたつもりなのに。
「あ、恒君、ごめんね。気に入らなかった?」
「いや、ありがとう! すごいねこれ。九州新幹線ツバメのキーホルダーだなんて、九州って新幹線あったんだな。俺んちの玄関の鍵につけるよ」
恒はそんなことない、と手を振ってまくしたてるようにフォローしたが、一瞬見せた失望の表情は朱音の小さな心を傷つけた。
巧君にあげた885系かもめキーホルダーの方がよかったのかな、などと思いながら。
「じゃ、ありがとう、また登校日にな」
朱音はその言葉を聞いて唖然とした。
登校日まで会えないというのだろうか?
あれほど毎日一緒に遊んでいたのに……。
ランドセルに、食べ残しのパン、たまったプリント、マーガリン等、置き去りにした一学期分の荷物を詰め込んでいる恒に、たまらず声をかけた。
「恒君!」
「ん?」
「休み中に海とか、行かない? 今週行きたいなって思ってるんだけど……一緒に。あ、大丈夫、お母さんもついてきてくれるから、保護者は大丈夫よ」
教室には5~6人が残っていて、巧はソフトボールの練習に行っていた。
恒は巧が居ない事だけを確認したが、唐突にそのような言葉をかけられて困惑した。
恒は恋愛感情が理解できない。
おそらく朱音はそういう感情を自分に向けてくれているのだろうが、こればかりはどうしようもないのだ。
恒は完全な男ですらないのだから。
「俺、泳げないんだ。巧でも誘ってやってくれ」
「恒君って、泳げなかったの!?」
あからさまな嘘をついてしまったが、朱音のためだ。
今週は海には行けない。
恐らく今日あたりから、研究者の監視の目が光っていると思われる。
盗聴器、監視カメラ、それらを含めて朱音は監視下にあると思っていい。
神である恒と朱音の接触……彼らにしてみれば、カモが葱をしょってやってくるようなものだ。
朱音だけに目がいってくれていれば、恒の目論見には狂いはない。
だが自分と朱音がどんな形であれ、彼らの監視中に接触してしまったなら……計画は台無しだ。
即座に研究所本部に報告が入るだろう。
ネットの普及している時代なので、報告書は世界規模で読まれてしまうかもしれない。そうなったら恒の付け焼刃のMCFではもう、どうしようもない。
天使以外の、知的生命体が見つかった。
そしてそれは天使より遥かに危険な存在だ、と――。
「恒君が泳げないんなら、私がちゃんと責任持って教えるから! 恒君が泳げないって、誰にも言わないし。泳げない事は、恥ずかしい事じゃないよ。それよりずっと泳げない方が、よくないんじゃない? ね? 今週の日曜日」
朱音は粘り強く誘ってくる。
恒はここのところ多忙のため、朱音や子供達と一緒に遊ぶ機会がなかったことを反省した。
いつも遊んでいたというのに自分の都合で突然遊ばなくなって、彼等には寂しい思いをさせているのかもしれない。
というと傲慢だが、付き合いが悪かったのは事実だ。
「お前んちの海水浴なのに、迷惑だろ? 車とかも出してもらって」
「違うの、母さんはついてきてくれて、風岳から朝に1本だけ出てる、海水浴場往復バスで行くのよ。遠慮なんてないわ」
「わかった! じゃあ、今週の日曜に、よろしく。巧も誘っていい? 皆も呼ぼうぜ、お前の友達とか皐月先生とかもさ、バスなんだろ?」
「え? うん、いいよ、勿論!」
朱音は少し残念そうに、しかし喜んで教室を出て行った。恒はその姿を渋い表情で見送る。
MCFは今週までに完成させ、そして研究員達にはすぐに帰ってもらうほかない。