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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第2話 Encounter with the species like God

 万年穏やかだった風岳署は、久しぶりの凶悪犯罪に厳戒態勢だ。

 既に噂を聞きつけやってきた野次馬達を避けるように、恒は上島の車で署に到着した。

 容疑者は取り調べを経て留置所か拘置所に移される。

 その流れでこの村から強制的に連れ出される、というシナリオを恒は想定していた。

 彼が人ならざる者だという事が発覚すればもう、やるべきことはそこで終わりだ。逆恨みは怖いが、人外だと判明した存在を日本政府が野放しにするとは思えない。


 担当の刑事の一人が慌てて上島と恒を迎えにきた。

 いつも恒が世話になっている刑事だ。

 勿論悪い意味でなのであって、その回数は両手では数え切れないほどある。

 恒は少年鑑別所に収容されそうになっては、あわやというところで命拾いをしてきた。

 もう片方の刑事は他の警官と、そして被疑者とともに取調室にいる。

 普段なら犬猿の仲である刑事と村一番の悪童である恒の顔合わせだったが、今日ばかりは同情の言葉を投げかけた。


「怪我は大丈夫か? 酷い目に遭ったな。犯人の顔を見るのは辛いだろうから、今日は来なくてよかったんだぞ」

「麻酔が効いているので、しばらくは大丈夫です。接見はできますか?」

「? 捜査中だぞ。何を話すことがあるんだ」

「ちょっとですから」

「わしからも、お願いします。立ち会いの元で構いません」


 上島はごり押した。

 上島医院は村内唯一の病院施設であり、刑事といえども患者である事には代わりないからか、院長の風格には気圧されしてしまう。

 この刑事は月末には胃薬をもらっていて、上島とは顔見知りだ。


「はあ、わかりました」

「被疑者はどんな様子ですか? 犯行を認めていますか?」

「いやいや、認めるどころかこれは長丁場でしょうよ。指紋が全部削られているんでどうやら常習犯のようですわ。まだ身元は割れていません」


 こんな僻地にやってくる筈がないと内心分かっているのか、とってつけたことを言って皮肉な笑いを浮かべる。

 ミステリー小説を愛読する刑事も、傷害とはいえ久々の刑事事件に興奮気味ではあった。

 上島と恒を取調室の前に案内すると、刑事は恒に念押しする。


「本当に、会うのか?」

「……は、はい」


 刑事がゆっくりと扉を開くと、中にはもう一人の刑事に詰め寄られて、憔悴しきって顎が前に出てしまった被疑者がいた。

 それはそうだ、彼の側からしてみれば訳も分からず犯人に仕立て上げられ、不当な取調べを受けているのだから。

 だが恒はほんのかけらほども、気の毒だという気になれなかった。


「被害者が来たぞ。こんな少年に怪我をさせて、申し訳ないとも思わないのか」

「恒くん、だったな。君に言いたいことは山ほどある。けれど、今わたしの無実を証明できるのは君しかいない。真相を話してくれ、お願いだから」


 恒は容疑者の必死の訴えにも応えず、黙って俯いていた。

 上島は恒を後ろに隠すように進み出て、少し離れた場所からまじまじとユージーンを見つめた。

 その好奇の視線に辟易したように、ユージーンも上島を見上げる。

 手錠がかけられ、腰紐で椅子にくくりつけられていた。

 疲れているのが分かるぐらいで、その容貌には、恒の主張するように何か着目すべき点は見当たらなかった。


「ところで、身体検査はしましたか」


 上島の意外な言葉に、ユージーンは警戒したように見えた。

 上島が客観的に彼を見ると、どこか優しげで端正な顔立ちではある……一見して犯罪者とは疑えない。

 だが。上島は外見に騙されはしない。

 不穏な言葉に、手帳を見ながら首を揉んでいた刑事が顔を上げた。


「凶器などはないようでしたが。何かお気づきの点が?」

「全裸になってはいないのでしょう?」

「拘置所のような事は人権に関わりますので、はあ」

「着衣のままでいいので、わしが確認してもいいですかな」


 どうしてもそう言ってきかないので、刑事は承諾した。

 被疑者に何か渡す恐れがあるので、上島のボディチェックが刑事によって先に行われる。

 恒は固唾を飲んで見守っている。

 上島は臆することなく彼に近づくと指の腹で瞼をめくって調べ、目にライトを当て、口を開けさせ、椅子にくくりつけられたままの彼を肩や腕を掴み、腰骨のあたりをさぐっていた。

 最後に頚動脈のあたりに触れ、そのまま静止する。

 手慣れた動作から、ユージーンが彼の職業に気づいた時にはもう遅かった。

 上島は大きく深呼吸をして、ぎりっと睨みつけると、ユージーンに詰問口調で語りかけた。


「あんたは一体、何者なんだ?」


 何も知らない刑事たちが警察手帳に何かを書き付けながら首を傾げる。

 取調室の格子のついた窓から漏れた光が、刑事の手元に優しく影を落としていた。


「どういう事です?」

「脈がなく、解剖学的にも……この男は少年のいうよう人間ではない。ならば何だ?」

「あの」


 ユージーンは慌てて弁解をしようとした。


「脈もない人間がどこにいる。それを説明できるのかね」


 刑事たちはおそるおそる彼の脈をとり、とびさがった。


「な、何だこれは! 先生、本当ですか? 血圧が低いのでは?」

「血圧ならすぐ測れるが、血液検査でもしてみるかね? DNA検査でもMRIでもいい。代わりの医者を百人呼んでも同じ事を言うだろう。人間ではなく、哺乳類ですらもない」

「しかし、どうすればいいんだ。おい、お前は何なんだ? 人間の皮をかぶった宇宙人の類か?」

「正体を吐かないか!」


 真剣な取調べが途端にオカルト化する。

 医者が人間ではないと言っているのだから、大事件だ。

 あまりにも衝撃が大きすぎて、もはや刑事たちは何のために彼を逮捕したのか忘れていた。

 当然のごとく、刑事達は手を引きたがった。

 この男に逆恨みをされても困るし、釈放する事など尚更の事できはしない。


「これは……本庁に送った方がよくないか。手に余る代物だぞ」

「……おい、さっきからカメラが立て続けに壊れてるのもまさか……」

「白状せえやコラ!」


 刑事は脅しをかけるように、わざとに大きな音を立てて彼の前の机を拳で殴りつけたが、彼は怯む様子はなかった。


「何かの間違いです。わたしはその子を傷つけてなどいないので……」

「彼の言うことは事実だ。この子があなたを警察に捕まえてもらうためにうった、自作自演だそうだ」


 刑事らはわずか十歳そこらの子供に、そんな芸当が出来るものかと驚愕したが、恒に関してはいつも通りだった。

 しかし今更この青年の冤罪が明らかになったところで、もはや釈放という段階にはない。

 

「正体を吐かなければ、生かして帰すわけにはいかないぞ」


 それがただの脅しではない事は、刑事の口調からも明らかだった。

 釈放をすれば報復が怖い、彼らはそう考えている。

 騒動にしない為には殺してしまうのが一番安全ではある。


「村民の安全を守るためだ」

「本当に何もしていないんです」


 彼は訴えかけたが、耳を貸す者はなかった。

 上島は腕組みをしたまま、値踏みする。


「お前が何であるか、そこが重要なんだろ!」

「わかりました。恒くん、こちらに来て」


 思いがけず呼びつけられた恒は慌てて上島の陰に隠れ、顔も見せずに上島のジャンパーを握りしめ拒絶した。


「傷を癒すから」


 上島は苦し紛れに口から出たであろう、その言葉に少しだけ興味を持った。

 いったいどうやって治すつもりか、恒に危害が及ぶのでなければ見てみたい気もした。

 上島の好奇心が、結果的に彼の命を救う事となった。


「恒君、どうする?」

「どうって……」

「何をするのか見てみたくないか?」

「……殺されるかもしれないんですよ?」


 恒の疑いを、彼はきっぱり否定する。


「君に危害を加えないことを保証する」

「……だそうだ」


 上島は恒がついに頷いたので、椅子に拘束された青年の前で恒の創傷をあらわにさせた。

 彼は手錠に繋がれた両手を、恒の傷の上に持ってきた。

 上島が震える恒の腕を、机上に固定した。


「自分の腕を切ってうったえなければならないほど、怯えていたのか……もう少し配慮をして近づくべきだったね」


 彼は恒の深い傷を見て、そう呟いた。


「傷を指でなぞるよ。痛くはないから」

「待て、傷に触るな。感染する」


 上島の指摘を、彼は否定する。


「被覆材の上からなぞります。感染しません」


 彼は上島を納得させて被覆材の上からすーっと、15cmにもわたる切り傷をなぞっていった。

 その場に頭を突き合わせるようにして取り囲んで見ていた全員が、恒の生傷がみるみる塞がってゆくのを目撃した。

 その過程は傷が塞がる様子を、早回しで見ているようなものであった。

 肉が盛り上がり、細胞が活性化し痕がなくなってゆくのだ。

 上島は興奮のあまり、机の上に置いていた診察道具の入った鞄を肘で小突いて、落としてしまった。

 刑事達が遠慮がちに恒の腕をなで回すが、普通の皮膚に、縫合糸が食い込んでいるだけだ。

 恒は被覆材をはがした。


「傷が消えた……」

「だが正体を名乗らない限りやはり生かしてはおけない。今のに免じて、明日まで待ってやる。明日白状しないなら、処分だからな」

「……そ、そんな……」


 恒を癒したその見返りは、逆に彼の人外の力を見せつける結果となり、ひどいものだった。

 刑事たちは犯罪者の人権とやらに過分に配慮して、わずかばかりに巻かれていた腰縄を解いて、今度は全身にこれでもかといわんばかりに縄を打った。

 留置所に移送するのも危険だと判断したのだろう。

 逃げられないよう手錠を机の脚に繋ぎ、半ば蹴飛ばすように床に転がすと、取調室の外から容赦なく鍵をかける。

 冷たく重い音が廊下に響き渡った。

 彼はコンクリートの床から染み渡る寒さに心底情けなくなりながら、唇を噛みしめた。

 去り際に採血や毛髪を取っていった上島と、結局何を考えているのか窺い知る事のできなかった恒も刑事達によって外に追い出されたが、まだ彼らは帰る気配もなく、なにやら暫くの間話し込んでいる様子だった。

 耳を澄ますと、話し声は漏れ聞こえてきた。


「村長にも、連絡をしておいた方がいいだろうな?」

「一応な、知らせないで後でぐだぐだ言われても困る」



 ……あれよあれよという間に、どんどん話が大きくなってしまったようだ。

 それでも明日の朝までの時間は、先ほど彼が盗み見た刑事の腕時計の時間から察するにそう長いものではない。刑事が泊まり込みで見張っているらしく時折扉の方から目だけが覗く。

 「おい」という声がする度に少し首を持ち上げると、中に入ろうともせず去っていった。

 彼は任務を優先すべきか、法の遵守を優先すべきかの選択を迫られていた。

 そして勿論、彼自身の命を優先するかどうかも。

 彼は一個の生物であって、決して不死の存在ではない、やはり命は惜しい。


 気を紛らわせるように、手錠に絡みつく、右手首のうす茶けたブレスレットの感触を左手の手の甲で確かめていた。

 これだけは繋ぎ目がなくはずせなかった為に、さし当たりという事で取り上げられなかったのだ。

 手首に張り付くように窮屈そうなそれを、刑事は随分不審がった。

 1ミリの隙も無く填め込まれたこれこそが、ユージーンにとっては明日の正午までの枷だ。

 普段ならこのような失態などありえないのに、最悪の事態を招いてしまった。

 正体を名乗るべきか、名乗らざるべきか。


 ユージーンは頭を痛めていた。

 彼の身を縛るものは決して手錠や腰縄ばかりではない。こんなものは明日の正午になれば外れる。

 彼には風岳村に着任した瞬間から、いくつもの厳密な制約が課されていた。

 今この状況下で適用される条件がどれで、それは何に該当するものか。

 一つずつ、できるだけ心を落ち着かせながら思い出し精査する。

 何度考えても同じ結論にいきついた。

 最優先しなければならない事は風岳村に留任する事、それに伴い自らの生命を守ることだ。

 重大な掟を破る羽目になるが、致し方ない。

 彼は暗いコンクリートの床の上にうち捨てられた木切れのように横たわりながら、朝日が差し込む頃には、決して後戻りのできない決断をしていた。



「あとかたもなくなっているな。どこに傷があったのかと思うくらいだ」


 深夜の処置室で、上島は感心しきりだった。

 夜の病院は薄気味悪いが、恒にとってここが一番安心できる場所だ。

 奇妙な状態で絡まっている縫合糸の抜糸をしてもらった後、上島にどうしてもとお願いして、病院に泊めて貰うこととなった。

 とてもではないが、あんな怖ろしい事があった後で、自分の血まみれの家に帰る気になどなれなかったからだ。

 自宅とはいえ不気味であろうことは容易に想像がついた。

 恒はベッドを貸してもらって横になってはみたものの、上島はまだせわしく働いている。

 先ほどユージーンの血液を抜いて帰って、毛髪も何本か引っこ抜いてきたのだ。DNA分析を行う為だ。

 装置にサンプルをセットし、プログラムを開始する。

 医学博士という肩書きが待合室の振り子時計に刻まれており、研究者としての顔も持っていた。

 診察室の奥には、簡単な実験器具が整然と並べられている。恒の視線は上島の背を追っているだけだった。


「上島先生は、眠らないんですか」

「ああ、結果を見てからだな」


 その隣では、遠心分離機で血清分離を行っている。

 恒は習ってもいないのに、それが何をする機械なのか分かっていた。

 恒はおよそ実生活では見ることすらできないものを、見覚えのあるものとして認識することが多々あった。

 そして誰にも言えなかった、理由があった。


 日中も夜中も、意識が無くなるたびに恒は悪夢を見た。

 眠りにつけば巨大な図書館の中に閉じ込められていて、図書館の本を手に取り、読まなければ夢から覚めることはできない。

 恒は現実に戻るために読書を続けるしかなかった。

 本を読み続けなければ、いつか現実世界から消されてしまうのではないか、という絶望が常にあの悪夢の図書館には漂っていた。

 皮肉な事に、恒が必要とする知識は殆どがそこに揃っていた。

 書籍は一度読むと決して内容を忘れることができない。

 恒はそういう事情で、幼少期に母親に読み聞かせてもらった絵本と教科書以外には、まともに現実世界の本を読んだことがない。

 彼は記憶の引き出しから実験機器の取扱いについての項目を引っ張り出してきた。


「先生、遠心分離機、一回止めてもう少し回転数が高い方がいいと思います。その血、普通と違うでしょ? すごく透明で、ただ赤いだけです。血小板がないのかもしれない、回転数を上げないと何も分離できないと思います。そのためにはローターを変えた方がいいでしょうね」

「ほう、言われてみれば確かにそうだ。しかし何故、どこで得た知識だね? 小学校の知識ではないよ」


 上島は恒の言葉を訝しむ。

 なぜこれが遠心分離機で、血液から血清を分離できるものだと知っているのか。

 小学5年生の少年が、どこで知識を得たのか? 

 この村には遠心分離機を置いている施設は他に一つとしてないというのに。


「本で、読んだことがあります」

「そんな専門書を? 何のために」


 恒は上島が訊ねたので、思い切って打ち明ける事にした。

 母親にすらも話したことのない、恒の人生を狂わせてきた、かねてからの悩みを。


「悪夢を見るんです。夢の中で目覚めると、いつも図書館にいて。果てが見えないほど広くて、迷宮のように連なる本棚には分厚い本がきれいに整頓されて並べられています。出口を探しても、見つかったためしがありません……」


 そこから出る方法はただ一つ、本を読む事だけ。

 一冊の厚さは幅10cmほど。

 それを一ページずつ、順繰りに最後のページまで読まなくてならず、飛ばし読みすると出られない。

 全て日本語で書かれていて、一度読むと一字一句理解でき、何一つ忘れることができない。

 表紙は白紙なので、内容を選ぶ事はできない。

 一度手にした本は最後まで読む。

 早く図書館から逃げ出したいからだ。


「毎晩毎晩、眠るたびにそんな事の繰り返しです。先生、俺の頭はどうなってしまうんでしょう! 人間は意識と無意識のバランスが保たれていて、眠っている間に調節されるはずです。でも俺は……」


 上島にはあいにく精神科領域の心得はない。

 だが恒の抱える問題を、受け流して放っておいてはならないような気がした。


「だから学校に行かない、というか行けないのか?」

「学校で学ぶ程度の事は、もう頭にあるんです……一日で十センチの厚さの本の情報が頭にこびりつくんですから……」


 だからもう医学専門書だって読めたのだ。

 不登校の理由はそれだけではなかった。

 恒は慢性的な不眠症に陥っており、昼も夜もなく、常に意識が朦朧としていた。

 他人に辛そうにしている姿を見せたくはない彼は、友人からも大人たちからも離れ、一人になる時間が必要だった。

 恒は学校に行かず、日中は一人で自宅の裏山に上って辛い一日一日をようやくの思いで過ごしていた。


「学校は、勉学だけを学ぶところではない。賢い君ならわかってるだろう?」

「わかってます……さっきの話ですが、図書館の床には等間隔に紋章のようなものが彫り込まれています。あいつの持ってた革のスーツケースの端っこに、その紋章があったんです。だから怖くなりました。遂に現実の世界にまで悪夢がやって来たのかと思ったから」

「そうか……怖い思いをしたなあ。だが、ならばこそ彼の正体を聞きだして、その紋章が何を意味するのかを知らなければならないな。ひょっとすると、その図書館の事だって……」

「そうですね」


 恒はひとしきり話すと、安心したのかうとうとと眠りについた。

 悪夢を見ているのか、時折魘されるが目を覚ます気配はなかった。


 サンプルの解析結果を待つまでもなく、上島はあの金髪の男を人間ではないと踏んでいた。

 データは取るが、発表のためではなく村人と自身の安全のためである。

 秘密は墓場まで持ってゆく覚悟だ。


 午前四時半。

 上島はすっかり温くなったコーヒーを飲み干した。


「くそっ!」


 人間でも哺乳類でないとしても、地球上にいるかぎり、その肉体は大いなるドグマに縛られている。

 1958年に生物学者フランシス=クリックの提唱した遺伝子のセントラルドグマ(Central Dogma)だ。

 DNAまたはRNAは肉体の設計図として規則正しく折りたたまれ、細胞の中に居座っている。

 その地図を分子生物学というツールを用いて読み解き系譜をたどれば、どの生物からどの時期に進化したのかすら分かる時代だ。

 だが彼の細胞から核酸は検出されなかった。

 これはとりもなおさず、生体分子のデバイスであるタンパク質が合成されていないという事を意味した。


 しかしそんなことがあるのだろうかと、上島は残りの毛髪を透かし見た。

 美しい金糸のような毛だ。毛根もある。

 だが、その暗号は解読されることを拒絶している。

 ただ検体処理がうまくいかなかった可能性もなきにしもあらず。

 だが、そうではないと考えていた。

 上島は忌々しげに、研究ノートに普段の意味合いとは違うニュアンスを帯び始めた一文を書きなぐった。


 検体不適正。



 翌日はよく晴れた日曜だった。

 上島は恒を連れて警察に舞い戻ってきた。

 彼は昨日の状態のまま床に転がっていた。

 刑事たちも怯えて、彼に近寄ってこなかったのだ。

 上島は傍らに膝をついて語りかける。

 彼は昨日とは違い、落ち着いていた。

 相変わらず、見た目には普通の青年だ。


「おはよう、よく眠れたかね。こちらはあなたのお陰で寝不足だ。その身体、何でできているんだ。核酸がなかったぞ」

「……勝手に調べて、苦情を仰るのですか。直接聞いてくださればお答えしたものを」

「まあその話はいい。あなたは昨日、何でも力になると言ったな。早速役に立ってもらおう」

「解放して下さるなら、の話です」

「それを決めるのはわしらではないんでね。だがあまり印象を悪くするのは得策ではない、違いますか?」

「伺います」


 彼はどのみち、話に応じるしかなかった。


「あなたが持っていたスーツケースについている紋章、あれは何だ」

「紋章?」

「あれとまったく同じ紋章のある図書館に閉じ込められる悪夢を、恒君は繰り返し見るんだそうだ。それで慢性的な睡眠障害に悩まされている」


 上島から見たユージーンの表情は、妙なことを言われて困惑しているという類のものではなかった。

 彼は上島の口から意外な言葉が出て驚いているように見えた。

 恒は何か知っているかのような彼の表情に、一縷の希望を見出すことが出来、ようやく上島の背後から顔を出した。


「知っているという顔だな」

「知ってはいますが……あなたがたには関係のない場所です」

「俺にとっては関係なくない」


 恒の語気が強まる。


「まさかと思うけど、そこに入ったことがあるの?」

「やっぱり知ってたんだな! 毎晩、毎晩だ! 眠るたびにそこにいる」

「何故そんなことが起こっている……ありえない」

「あんた、図書館から俺を迎えにきたのか?」


 ありえない。しかしもし、恒のいうことが本当ならば。

 ユージーンは恒に同情する気持ちが僅かにでてきた。

 彼のいう図書館は、ADAM(アダム:Anti-Dimension Atheneum and Mind-libraly)、抗界心層図書館という。ADAMの床とユージーンのスーツケースに刻まれているのは、彼の所属する陽階という組織のシンボルレリーフだ。


 その状況を聞いたユージーンは、道理でと納得した。

 彼の正体を見破ったから、あのような姑息な手を使ってでも逃げなければならなかった。

 それを思うと彼がユージーンにしたことも、ユージーンを謀ったその度量も至極当然のように思えてきた。

 逆に何故彼を救ってやれなかったのだろうと悔みさえする。ユージーンは縛られたまま上体を起こす。


「そこは一体何なんだ! どうやったら俺はその夢を見なくなる!」

「ログインコードとポートは?」

「はぁ?」

「分からないのか。では不正アクセスだ。誰かがポートを開いている。ログインコードが解らないと対処のしようがないけど、出る方法なら知っているよ」

「教えろよ! 本を読まないと出られないんだ」


 恒は彼を怯えていた事も忘れ、彼にしがみ付くように揺さぶった。

 刑事が迂闊に触れるなと止めたが、聞き入れるものではない。

 刑事たちは恒を止めず、彼らのやりとりを録画で記録していた。


「検索拒否、再検索拒否、退館申請。その三つの言葉を、夢の中で言ってごらん。本が読めるってことは意識は自由になるんだろ? 日本語でいいから、落ち着いて、間違えないようにそう言うんだ。君の意識のリンクは外れ、目が覚めるだろう。本当の意味でね。君は今でも起きたまま眠った状態にあるんだ」

「何のことだ? 何の話をしている? アダムとは一体……」


 静かに記録をしていた刑事も、話が理解できない方向に行ったのでついに口を挟んだ。

 上島と恒が黙っていろというようにきつい目つきで振り返ったので、口を押さえる。

 ユージーンは刑事の方を見上げ、はっきりと言い切った。


「正午まで待ってくれませんか? 名乗る覚悟はできましたから」

「何故、今ではいけない? 村長も忙しい中来て下さっているんだ。待たせる訳にもいかないんだ」

「正午までは誰にも信じていただけないでしょう」

「正午になれば、何があるんだ? まさか爆弾をしかけたとか?」

「物騒なことは何も起こりません。でもそれも含めて、お話ししますから」


 恒は正午までの間、ユージーンに付き添っていた。

 刑事たちは休日だというのに呼び出された挙句1時間も待つはめになった村長の接待に追われているらしかったし、話すと言っているのだから詰め寄ることもないかと考えたらしい。

 下手に刺激をして、口を閉ざしてしまっては元も子もない。


「俺、何となくあなたがそんな悪い奴じゃないんじゃないかと思いはじめて。ごめん、何もしてないのに、こんな目にあわせて」


 恒は素直になり、心から謝罪した。

 ユージーンは静かにため息をついた。恒を責めているのではない。


「寧ろ、こちらが謝らなければならない。君が夢に見る場所はアダムというオンライン図書館だ。君はログアウトができず、睡眠のたびにリセットされてそこに戻るんだよ。ログインを続けたままだと神経系がそこに割かれてしまい、昼間でも身体が覚醒できない。君は学校に行っていないらしいけど、そんな状態で学校に行くのはまず無理だろうね」

「そうだったのか。でも眠るだけで繋がるオンライン図書館がこの世に存在するのか?」


 だが現に恒はそこに閉じ込められていた。


「正確にいうと、それは地球上にはない」

「じゃあどこに」

「もしも君がわたしを信用してくれるなら、そこで眠ってみるがいい。君の意識に侵入し、ログインコードとポートを割り出してみよう。誰がそんな事をしたのか調べるためにだ。正午までまだ時間があるから、眠ってさっきの言葉を使ってログアウトし目覚めるには充分だ。先ほどのキーワードは覚えているかい?」

「信じてみるよ。ちゃんと言葉も覚えてる」


 恒は言われるがまま取調室の机に伏せて目を閉じた。

 睡眠を我慢してできるだけ眠らずにいるのだから、眠るのは簡単だった。

 意識が完全に落ちてしまうなり、極彩色のノイズとともに恒の目の前に、忌ま忌ましい本棚が無限に広がる。

 恒は今日はそれを一冊も取ることなく、しっかりと心に留めておいた言葉を、迷わず吐き出した。


『検索拒否、再検索拒否、退館申請』


 ピピッと恒の頭の中で電子音が鳴った。

 他愛もない電子音だったがそれは心地よく、まるで音楽のように聞こえた。


”認証。ログアウトしました”


 優しげな女性の声が、恒の脳裏に響き渡った。

 フツン、と電源が落ちたような音がして、恒は目覚めた。

 彼は本当の意味で覚醒したのかもしれなかった。

 恒の意識は冴え渡り、身体の怠さも嘘のように消えていた。

 壁掛けの時計を見ると、眠っていたのはたったの十分。

 恒はいつの間にか泣き出しながら、彼を本当の意味で救った彼に飛び付いて揺さぶった。

 彼はまだ眠っているのか、反応はない。


「ありがとう! 脱出できたんだ!」


 まさか、代わりに彼が閉じ込められてしまったのではないかという嫌な予感がした。

 恒はいっそう強く揺さぶった。

 後ろで見ていた警官が、よしなさい、と手を出しかけた時、ようやく彼の意識も戻ったようだ。


「おい!」

「少し手間取った。君のログインコードとポートを割り出して廃止した。コードはAMG9527。ポートは154・27・163・472・008・468だ。もう眠っても、その夢を見ることはないだろう」

「ありがとう。あなたの言った通りにやったら出られたんだ。ありがとう! 本当にありがとう! 身体が嘘みたいに軽いんだよ!」

「どういたしまして」


「そろそろ時間だが」


 接待に疲れた刑事たちとともに村長が取調室の中に入ってきたが、いささか失望気味だった。

 何が異形の者だ。

 普通の外国人ではないかと、村長がそう思っていたのはそれほど長い時間ではなかった。

 時計の秒針が正午を指すと、繋ぎ目のなかったブレスレットがガシャンと床に落ちた。

 一瞬の事だったのでよくは見えなかったが、刑事達は、あれは外せなかった筈だと不思議がった。

 実際どうやっても外れなかったのを、彼らは取り調べの前に、自身の手で確認していた。

 継ぎ目がないブレスレットだったというのに……。


「さあ、約束通り喋ってもらおうか」

「わたしは神です」


 恒は、こんなに真剣な顔をして今時子どもでも恥ずかしくて言わないような事を、いい図体をした大人の口から聞くことになるとは思わなかった。

 しかし、この部屋には彼の告白を笑う者は誰もいない。


 気がふれている事をアピールして、犯行の際の心神耗弱状態を主張し、責任能力を回避しにきたかと、刑事達は警戒した。

 だが、上島の耳を疑うような指摘によって既に、彼が罪を犯したかどうか、その点について議論すべき段階ではなくなっていた。

 彼の正体はどうしても彼の口から吐かせなくてはならなかった。


「もっとほかにマシなことは言えないのか」


 彼は呆れ返った全員を冷静に見渡して、マジックの前に道具をあらためさせるようなしぐさで、手錠を見せびらかした。

 彼がふっと息をふきかけると、手錠は飴のように溶けて落ち、腰縄も糸屑のように切れて床に落ちた。

 一見すればつまらないマジックのようだったが、手錠が本物であると分かりきっていた刑事達は血相を変えた。


 そして彼らが手錠に気をとられている一瞬の間に、ユージーンはどうやったのかしなやかな素材の白い装束を纏っていた。それは無縫製で、金糸の刺繍が施されていて、その姿は淡く光に満たされ、頭上には光でできた環状の冠のようなものがある。

 厳戒中の警察署の中に、このような衣服が持ち込まれる筈もない。

 ここは密室なのだ、トリックを仕掛ける事も出来なかった筈だ。


 彼は床を蹴ると、そこに重力が存在しないかのように中空に静止した。

 この場所だけが宇宙空間になったかのように足が床についていない。

 恒はいつのまにか床の感触が消え、その場にいた全員が宙に浮かされているのに気付いた。

 助けを呼ぶ声も封じられていた。

 重い風邪をこじらせたように、声がまるきり出なかったのだ。


 逃げる事もできず足をばたつかせたが、あまり意味がないことは分かっていた。

 きっと彼はその気になれば何だってするのだろう。

 中からカーテンをしていたので、外にはこの光景は見えていないし、戸を叩くこともままならない。

 一瞬の間に、全員が金縛りにあっていた。


「さっ、催眠か!?」

「あいにくと、これは現実です」


 はっと目を見張ると、いつの間にかまた、どこから出したのかわからないビリヤードのキューほどの長さの杖を握っている。

 恒はようやく悪夢から解放されたと思ったら、こっちの方が大変な悪夢だと思った。


「………!!」


 何のために出した棒きれなのか分からないが、それで殴られなければいい。

 刑事は何とか気力を振り絞って銃を構えたが、それもズブズブと燻っては溶けて水銀のような水玉を散らしながら床に滴った。

 黒い水滴がぼとぼととコンクリートの床に染みを作って汚した。その力は圧倒的だった。


「わたしは神という生物種です。通称をユージーンと言います。手荒な真似はしたくない。大声を出さないなら、声を自由にします。声を出せば、署全体に金縛りをかけ、拘束範囲を広げます」


 村長は目を白黒させながらあうあう、と頷いた。

 喉のいがらっぽさが消え、声が自由になったのだとわかったが、誰も声を出さなかった。

 これでは命の保障だってありはしない。

 金縛りにされたまま、喉を握りつぶすだけで殺されてしまうのだから、誰も妙な気を起こしたりは出来なかったのだろう。


 恒は宙に浮かされたまま、彼が正午まで待てと言ったのは、力を発揮できるようになる時間帯に差し掛かったからだろうと推測した。

 正午まで待たずに殺していればこんな事にはならなかったのかもしれないが、今のところ彼が敵なのか味方なのかすらも判断できない。

 村長の玉屋だけが勇気を振り絞って話しかけた。


「ご無礼の段、申し訳ありませんでした! ですから、この村から出ていってください!」

「もう手遅れです。解放されたいがために姿を顕したのではないのです。わたしをこの村に住まわせて下さい。永遠にとは言いません。しばらくの間です。その見返りに、あなたがたに力を貸します」


 自称、神はぬかづいて、杖を床に置き頭を下げた。

 圧倒的優位な状況ながら、彼は平身低頭の構えだ。

 一同は顔を見合わせて、彼が一体何をしているのか理解に苦しんだ。

 美しい純白の装束についている装飾具が音を立て、確かに床についている。

 何故こんなに腰が低いのだろうか、などと拍子抜けしてしまった村長が口を尖らせた。


「百歩譲ってあなたが神様だとして、何の目的があってこの村に留まりたいのですか?」

「異形として畏れられ、虐げられながらでは、任務に支障をきたすのです。任務とはこの村を庇護する事です、あなたがたにとっても損はないと思います」

「わかりました。この村にご滞在ください」

「そ、村長!」


 一体何を言い出すのか、と刑事たちは青ざめた。

 だがその頃には村長のみならず、全員がその身をもって理解していた。

 もし断れば、この力で何をしだすか分かったものではないと。

 自分たちのみならず、全村民に迷惑がかかるし村全体が壊滅なんてことも十二分にありうる、そうも考えた。

 それよりは、最低限の条件をつけて留まることを許可した方が得策だ。

 対処は後で考えればよいのだから。

 とりあえずこの場を切り抜けなければ……村長は結論を先送りにしたかった。


「ただし条件があります。まず、村民を傷つけないこと。そして、正体を全村民に明かして下さい。ここはたかだか三千五百人ほどの村で周囲から孤立しており、村民の口も固い。大騒ぎになってテレビが来るような風土ではありません。それに信じる信じないは個人の自由です。腕のたつマジシャンだと思う人もいるでしょう、私もあなたを信用する事はできませんしね」

「はい、そうでしょうね」


 彼は自身の胡散臭さをあっさりと肯定した。


「しかしあなたの正当性を上島先生が担保してしまった。こうなると、知らないということはお互いにとってよくない。村で何かあれば我々は真っ先にあなたを疑わざるをえないし、あなたが秘密を知る我々を抹殺するかもしれない。それよりは村の神様として、親しまれた方が任務とやらもやりやすいでしょう? それに既に村はあなたの悪い噂でもちきりですよ。いかがですか、私が一席設けますから、そこで挨拶をされては」

「……」


 ずいぶんと無茶な条件を突きつけたものだ、上島は村長の度量に驚かされた。

 こんな訳のわからない男にでも、ただでは屈しない。

 そうであるからこそ、この村の村長に選ばれたのだろう。


「気がすすみませんか」

「いえ……、この状況でわたしと対峙し交渉を試みるあなたの度胸に免じましょう」

「あいにくと、伊達に年はとっていないもので」


 交渉成立ということで、一同はようやく地に足をつける事が赦された。

 生きた心地がしない、とはこのことだと恒は思った。


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