第1節 第28話 The savior will die twice
軍神下第一使徒、響 以御は執務室の椅子に座し、ハンズフリー通話をしながらユージーンの残した書類をめくっていた。
ユージーンはわずか1日で3年分の指令を書いていたので、3年間次期軍神が現れなくとも差支えがない。
電話の相手は荻号だ。
荻号にいいように操られているようで、以御は気に食わない。
以御はユージーンが死んでしまってからというもの、しつこく荻号に電話をかけて、復活までの時間を聞き出そうとせっついていた。
「では、あと3週間とみてよろしいでしょうか」
『ああ、もちこたえられそうか』
「3週間ならば、居留守を使えば崩御したとは見なされないでしょうが……。やはり、事実をお話しして、止めておくべきでした」
死んでも無駄だと、以御は伝えておくべきだったと悔いる。
以御はユージーンが絶対不及者となることを早期の段階で知っていた。
数十年も一緒に暮らしてきたのだから、背中を見る機会ぐらいある。
彼の背中にあったのは、それは創世者から選ばれた徴であるとされる”存在確率の鍵”だ。以御が最初にそれを目にしたとき、妙な病気を患っているのではないかと心配したものだが、文献を調べてやっとこさ知りえた。
ユージーンには告げていなかった。
『話して止めたとしても、奴はやったと思うぜ』
ユージーンはやってみなければ気がすまない性格だ。
まさか、本当に死ぬとは思わなかったからなのだが……。
「それで、一つ気になるのですが……頭がない状態で、記憶はどうなるのです?」
『記憶はすっかりなくなるだろうな、脳が、一度消えたんだから』
軍神の頭脳の中には、膨大な知識があった。
一朝一夕で181年分の知識を得たわけではないのだ。
それを、根こそぎ失ったことになる。
荻号が死なせてやれと言っておきながら、後は知らない、では無責任にも程がある。
以御は先代軍神と比してユージーンに格別の思いがあったわけではない。だが、それなりに情はあった。
であれば、崩御を発表し、忠誠を貫いた方がよい。
記憶のない彼はもはや以御の仕えたユージーン=マズローとは異なる存在、例えるならクローンのようなものだ。
いくらそのクローンにユージーンとの思い出を語っても、それは歪なものとなっている。
「ではやはり、崩御を発表するしかありませんね」
『待て。記憶は俺がバックアップをとっている。再インストールをすれば、元通りになるだろう』
再インストールだなんて、荻号はどこか事務的で冷淡だ。
それにしても荻号はどうやって記憶のバックアップをとっていたのだろう。
それは紛れもなくユージーンのものなのだろうか? 彼の神格、仕草、記憶、経験、それらを余すところなく再現し、そのままの彼として蘇らせる事ができるのだろうか?
「記憶のバックアップを、ですか?」
『ああ。俺の脳領域を使って、奴の全ての記憶をマインドブレイクで全て保管している。こういう死に方をするだろうと、想定していたのでね。蘇った脳に相転星を介して再刷り込みをしてやれば、記憶はそっくりそのまま蘇るだろう』
荻号の言っている事が本当だとしたら、もうメチャクチャだ。
蘇ったユージーンは一体、誰なのだろう。
荻号なのではないか。
もうユージーンだとは言えない、以御はそれだけは肝に銘じなければならないと覚悟を決めた。
*
相模原は学会の合間に日本への国際電話をかけ、上島の家に繋げた。
長いコールの後、上島の妻が電話口に出る。
彼女は夜食を食べていたのか、口の中の物が片付いておらずもごもご口ごもっていた。
『はひ、上島です』
「もしもし、夜分すみません。大坂大学の相模原と申しますが、上島先生にお繋ぎいただけますでしょうか」
旧帝大、大坂大学は麻酔科医である上島の妻 基子の出身校でもあるが、相模原と基子は面識がない。
*
基子は、上島が大学にユージーンの血を送ると言っていたので、それに絡む事だろうと察した。
彼女は夜食を食べていたのを飲み込みながら上島医院の住居部分に移動し、書斎にいるはずの上島を呼びに行くと、夫はだらしなく俯せにデスクに寝ている。
肩を叩いても起きる気配がなく、不審に思いながら上島の顔を覗いてみた。目を開けたまま寝ている!!
これは……医師である基子は慌ててライトを取り出し、確認する。
瞳孔の反応が左右で違う!
これは……脳出血、あるいは脳梗塞その他脳に関する症状!
基子はこの病院では脳外科の治療が出来ないと判断する。隣村の総合病院に可及的速やかに搬送するしかない。
倒れてから発見されるまでにどれほどの時間が経っていたのかわからない、出動してくる救急車を待っていては間に合わないかもしれない。
基子は夜勤の看護師とともに、自力で上島を隣村の病院に運ぶ事を決めた。
それにあたって、まず総合病院に脳外科医がいるかを確認しようとする。
基子はスリッパを投げちらかして走りながら電話口に戻った。
「相模原先生、たった今、主人が倒れましたの! 脳疾患だと思われます。電話をお切りしますね!」
*
「奥さん、あれ! あの赤い液体はそちらにはないんですか!? どんな病気も癒すという」
相模原は驚いて治療の邪魔にならないよう電話を切ろうとしたが、ふと咄嗟にこんな事を口走った。
『赤い液体……神様の血の事ですか?さっ、探してみますっ』
今度こそガチャンと通話は切れたが、相模原は彼女の口走った言葉に呆然としてしまった。
*
恒の家の居間でジャンガジャンガと騒々しい着信音が鳴って、織図の携帯にメールが入ったのは、恒がちょうど、神具の練習をしようとテーブルの上を片付けていたところであった。
手巻き寿司を平らげて、皐月は志帆梨とともに食器洗いを手伝っていた。
織図は仕方なく渡鬼DVDを一時停止にして、さも面倒くさそうに携帯を取った。
主演俳優の演技について恒とどうこう批評していたところだ。織図はメールを見て、うえっと短く呟いた。
次に大きな瞳を上目づかいにして何かを思い出しているようだ。恒は彼の見慣れない様子に台拭きを掴んだ手を止め、彼を見守った。
「恒、今からおよそ一時間後、この村で一人の人間が死ぬ」
志帆梨は食器を取り落とし、皐月は皿がつるっと滑って慌てて取りとめた。
恒も織図の前に正座した。
彼の死の宣告は脅しやはったりではなく必ず当たる。
「え! 嘘! だっ、誰が! どうしてわかるんですか!」
「嘘じゃねえよ。バイタルレベルが尽きている、何をやっても助からん。個別コードはAJGMWK15486371。これを変換すると、名前は上島 肇だ」
「上島先生が! どうして!!」
「俗にいう、寿命ってやつだ。俺は死神だからよ、やろうと思えば寿命の延長も勿論できる。だが理由もなくそれはできない。いくら理不尽でも、人には運命ってのがあるだろ? 空から隕石が降ってきて当たって死ぬってなら、考えてやったかもしれんが、そういった理不尽さもないしな。俺は一時間後、事切れたこの男の記憶を迎えに行くだろう」
「待って下さい!」
「そっ、そんな……」
皐月も口を挟みかけたが、うまく後が続かない。
織図に媚びへつらってもあまり意味はなく、彼は死の延期をしてはくれないだろう。
寿命の尽きてしまった人間を、個神的な感情だけで延命していたらきりがない。
死ぬべき人間は死ぬ、これが彼の仕事だ。
彼は交渉には応じない……。皐月が俯きかけた時、織図はため息をつきながらこう付け加えた。
「だが……もしだ、万が一にだよ? 何らかの奇跡が起こってしまって一命を取り留めてしまったらだ。俺は寿命がきたからといって無理に命を奪ったりはしない。死者蘇生は重罪だが、死んでいない場合は関知されない」
「織図さん……!!」
「さあ、行け……お前が奇跡を起こすんだ。できるさ。一時間後、俺の仕事を奪って悔しがらせてくれ」
織図はそう言って恒の両肩を強く叩き、微笑んだ。
志帆梨と皐月は心配そうに見つめている。
これがチャンスとなるのか、チャンスを活かせないのか、それは恒次第だ。
この村にいる神は、織図以外には恒しかいない。
そして恒はユージーンのごとくバイタルを分け与えるだけの力はない。
バイタルの尽きた人間は、どんな医療行為をしても、どんな治療を施しても何をやっても助からない。
それが寿命を迎えるということ。
寿命を延長する、それは神のみが行う事ができる。
恒にそれができるものか、どだい無理な話だった。
それでも恒は諦めたくはない。
上島には何度となくお世話になってきたのだ、母子家庭だった恒を憐れんで、無償で治療をしてくれたこともある。
「藤堂君。私も、行きましょうか。何か力に……」
皐月がおせっかいをしたがっているが、ついてこないでほしかった。
「いえ、ひとりで行きます。瞬間移動を使いますし」
「そう……落ちついてね、あらゆる事を考えてみて」
織図は渡鬼を再生してボリュームを上げながら、こう言ってよこした。
「……危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし、だ」
「猪木ですか?」
「そうだ、恒。猪木はあれでいていい事言ってるぞ。迷わず行けよ、行けばわかる」
織図がふざけて少し気を軽くしてくれたのがわかったので、恒は自信なさそうに頷くと、危なげのない瞬間移動で上島医院に正確に転移した。
馴染みのある場所ということで上島医院の診察室に出てしまったが、上島がどこにいるのかは看護師が慌しく走ってゆく方向を見ればわかった。
彼女らの後をついて上島医院の住居部分に走ってゆくと、数人の看護師と上島の妻が、冷凍庫の中の物をねこそぎひっくり返している最中だ。
恒はその人垣の中を掻き分けて基子に近づいた。
基子は必死に正気を保とうとしていた。
それでも、額にじっとり滲む汗、乱れた髪の毛から、彼女が半ばパニック状態寸前だということを見抜く。
「基子先生、落ちついて下さい! 上島先生はどこです」
「と、藤堂君。落ち着いているわよ! あれを、あれを探さなきゃ! 神様の血をっ! 主人が隠して、見つからないの!」
何の秘策もないまま上島のもとに駆けつけてもどうしたものか、と考えていた恒は一気に解決の糸口を発見した。
彼が上島におすそわけとして分け与えた、ユージーンの血を探せばいい。
彼の血液は神階髄一の治癒血でもあり、上島の枯渇したバイタルを優に補うことができるだろう。
自分の出番は何もなくなってしまったようだが、上島が助かるなら四の五の言ってはいられない。
問題はどうやってそれを探すか、だ。
血液である以上、冷蔵庫か冷凍庫に保管してあるのかもしれない。
上島の記憶をマインドブレイクして血のありかを探り出す事はもうできない、彼の脳は活動していないのだから。
だとしたらどうする、自分にできることは何だ?
FC2-メタフィジカル・キューブを使っても彼の脳を元通りにする方法はわからないし、試している時間もない。
頼りになるのはユージーンの治癒血だ。
「少しだけ静かにしてください! お願いします!」
恒は上へ下へと騒ぎ立てる看護師たちを制して、一度静粛にしてもらう。
こちらが呼んでも呼び寄せる事ができないものだから、彼の血から呼んでもらうしかない。
彼の血が発しているもの、それは彼のアトモスフィアだ。
消えてしまいそうに微量ではあるが、適切に保存してある限り、なくならない。
恒は極限まで集中力を高めると、陽炎のように立ち込める彼のアトモスフィアの気配を感じ取った。
恒は目を閉じ息を止めたまま、歩き始める。
基子もそのただならぬ様子につられて、恒の後ろに追従した。
恒がたどり着いたのは今は使われていない給湯室の物置だ。
懐中電灯で照らすと、忘れられたその冷蔵庫は暗闇の中、無造作に置かれていた。
「藤堂君……どうやって……?」
「ここです」
「ありがとう! よくやったわ!」
恒は冷凍庫を開くと、血液パックに紛れて、彼の血液が奥からどっさりと出てきた。
基子はそのうち一つを奪い取るようにして、輸血の準備に取りかかった。
恒はこれで助かったと、薄く微笑んだ。
本当は血液を体温にまで温めなければならないが、そんな時間は許されない。
この治癒血は、血栓溶解剤のように治療薬として投与するほかない。
”ユージーンさん、あなたはいつも、どんな時でも助けてくれる。俺もいつか、あなたのようになれたら――”
処置室に行ってみると基子の適切な処置により輸血が行われ、上島の瞳孔反応は元に戻っていた。
基子は恒に、”もうなんと言ってお礼をしていいのかわからない”、と言い、恒は俺の手柄ではないのでと少しだけ照れくさく感じた。
頬に赤みの差した上島の顔を見て安心すると、死神として織図が降臨する前に、約束の一時間までに20分を残して藤堂家に戻った。胸を張っての帰還とはならなかったが、精一杯の事はやった。
「どうだ、恒、行けばわかったか?」
「俺の力では、なかったけれど……ユージーンさんが、助けてくれました」
「自分にできる事をする、それで十分さ。神は全能じゃないからな。お前のお手柄だよ」
恒にとっては自力で解決したものではなかったので後ろめたく思っているようだが、皐月と志帆梨には十分彼の成長が眩く感じられた。
*
相模原は電話を切って2時間後、居ても立ってもいられず、自分の発表演題が終わるとすぐに国際電話で上島医院に電話をかけた。
先ほどは悠長にしていたが、気になって仕方がない。
残った看護師にでも警備員にでも誰でもいいから、上島の安否と現在の状況を確認せずにはいられない。相模原の受話器を持つ手が震え、コールの時間がやけに長く感じられた。ガチャッ、受話器の向こうから待ちわびた音がして、落ち着いて誰かが電話を受ける。
「もしもし、上島です」
相模原は、幽霊にでも出くわしているかのように膝が震えた。
「じょ、上島君……かね?」
「その声は、相模原か。久しぶりだね」
「上島君は、倒れたと……命の危険が、と」
上島の声は落ち着いて、三年前に話したとおりの口ぶりだ。
おかしい、自分は時差ぼけで白昼夢を見ていたのだろうかと、相模原はそんなことも考えたが、まだ耄碌はしていない歳だ。これは一体どういうことだ……? 何故先ほど倒れた筈の上島が、電話口で話している?
「上島君、まさか、まさか”神の血で”?」
「”神の血”? はて、妻が寝ぼけて、なんぞ言いましたかな?」
上島はすっとぼけたが、相模原は確信した。
上島が送りつけてきた液体、それは謎の液体、”神の血”。あらゆる疾患を癒す、奇跡の液体だ。
相模原はたった今、ここで奇跡を目撃したのだ。
検証と並行して、上島が送ってきたサンプルを一滴でも無駄にすることなく解析をしなければ。
研究者人生を賭け、大学の総力を挙げてでも。
神の秘跡を暴きつくす!
*
荻号のもとをジーザス=クライストが訪ねてきたのは、彼がちょうど以御の電話を切った時だった。
まったく以御といいジーザスといい……陽階の奴らは勘がいいな、そんな事を考えながら煙草の火を消した。
居留守を使おうかとも思ったが、二岐がすでに応接間に通してしまっていたので、出迎えない訳にもいかない。
生物階には頻繁に通っても、陰階にはとんと立ち寄らないジーザスが陰階にわざわざ白鳩の盟という光獣でやってきた事など初めてだ。
あまりにもジーザスからのお召しがないので、盟はもう少しで飛び方を忘れてしまうところだっただろう。
陰階参謀である荻号の周囲は破格の警備体制が敷かれていて、面会をするには数日前からのアポイントを要する。
この警備の厳重さは陽階参謀のリジー=ノーチェスにもいえることだ。
荻号は面会の約束など知らなかったが、正式な面会要請だということだから数日前から予約していたということだ。
二岐は荻号に間違いなく報告をしたと言っているが、どうやらユージーンや恒にかまけっきりですっかり忘れていた。
正式なアポイントで逃げ道を潰されて、荻号は吸いそびれた煙草の火を名残惜しそうに見つめつつ腰をあげ、仕方なくジーザスの待つ応接室に入る。
中に入ると、ジーザスは30分ほど待たされていた。
彼はいつも居住まいを正して、何事にも厳格な性格だ。
それでいくと待たされるのは我慢がならない筈だが、今日はそれを気にしてはいないという表情。
応接机の上を見ると、二岐が茶を出してもてなしをしている。
荻号は陽階の重鎮を待たせていた事を悪びれもせず、だらしない座り方で席についた。
「わざわざ足労させたな」
「なに。私が訪ねたかったのだからよい。雑然とした部屋で少し片付けをしようとは思わないのかね。だから書類をよくなくすのだ」
もう30分待たせていたら、ジーザスは断りもなく部屋を片付けてしまったかもしれない。
荻号は意識して覚えたことは全てを記憶できるので、メモを一切取らない。
別に整理されてもかまわないしそんなところから陰階の機密が漏れる事もないが、出来れば勘弁してもらいたいところだ。
ジーザスには散らかっているように見えるかもしれないが、これはこれなりに意味がある配置であって、荻号の使いやすいように必要なものをよい按配に広げている。
自己管理の徹底しているジーザスの部屋は整理整頓が行き届いて塵一つ落ちては居ないが、だからといってとやかく言われたくはない。
陰階神は陽階神と違って見てくれは気にしないのだから、陰階神に陽階の作法を強いるのは無粋だ。
「それで? わざわざ何だ」
「ユージーンの遺体を陽階に引き渡してもらおう」
「それを俺に言うのか」
何の根拠があって、荻号がユージーンを匿っていると断定しているのだろう。
ジーザスは確信もなしにそう言っている、という雰囲気ではなかった。
彼は本気で返せと言っているのだから、誤魔化しは通用しないようだ。
「汝がユージーンを焚きつけ、死に至らしめたのだろう。ユージーンの遺体は間違いなく汝が持っておる」
「そうか。ユージーンが自己血をバンクから引き出したことで、勘づいたか。他神の血を輸血できない神にとって自己血のストックは必須のものだ、手放す理由がない……か。見事だ、その器は先代極位だけはある」
荻号は淡々と分析をしながら、煙草の火をつけた。
ジーザスは荻号がユージーンの死について特に何を感じてもいないのだと、見せ付けられて声を荒らげた。
「その言い草は何だ、ユージーンは汝の手駒ではないのだぞ!」
「俺がそう仕向けた、と言うのか? そうすることで俺に何のメリットがある、陰階神が陽階神を暗殺する事は法によって……」
「いい加減にしろ。汝はいつまで神を騙るのだ」
陰階神としてどうこう、そんな白々しい言葉はもう訊き飽きた。
ジーザスは荻号という神階最大にして最強の敵と対峙してきて、彼と問答を繰り返す事の馬鹿らしさを、長い月日の間にうんざりするほど思い知らされた。
いくら滅ぼしたと思っても、彼は滅びはしなかった。
名を変え、姿を変え、悠久の歴史の闇を生きてきたこの怪物を、ジーザスは見失っていない。
ジーザスが極陽として在位していた頃には、彼には守るべきものがあり、また神階の混乱を恐れて荻号に深入りはできなかったのだが、今となってはもう何も失うものもなければ、立場とて気にする必要もない。
ジーザスはたとえ今日が彼の命日になろうとも、ユージーンを荻号の意のままに操られた末に殺されて、黙ってはいられなかったのだ。
救世主は旧き友に語りかけるような口調で、穏やかにこう言った。
「汝は我々をどこへ導こうとしておるのか。汝はこの二千年というもの、ついぞ覚らせはしなかった。のう……荻号、名もなき超越者よ。いい加減神々を苦しめ、甚振っただろう。そろそろ真意を、垣間見せてはくれないのか」
「また、えらく弱音をはいたな。極陽だった頃の勢いはどうしたね」
「いかにも私は汝をこそ神階の敵として、汝の全てを見てきた。二千年間の間、片時も目を離さず監視し続けてきた。私のみならず、古今東西、あらゆる神々が汝という謎に挑み続けた。それでも何ぴとたりとも、汝の真意には近づく事ができなかった。私はいつしか、こう考えるようになっていた……INVISIBLEに抗し、彼奴の支配より三階を解放せんとして最前線にいる筈の汝がだ」
彼は一度そこで言葉を区切り、きっぱりと言い放つ。
「――あるいは汝こそが、INVISIBLEなのではないかと」
荻号は無言で空色の瞳を細め、その言葉に耳を傾けた。
彼の瞳に映っているものはなんだろう……積年の疲労と、失望の色だけだ。
煙草の煙が重く彼の周囲を取り巻き、荻号の姿をおぼろげにさせている。
「……あんたが延々と問いかけてきた答えは、あんたの中ではたった一つだ。だが”水槽の脳”を持つあらゆる生命は、無数の宇宙の中に生きている。あんたが俺を創世者だと思うのなら、あんたの世界ではそうなのだろう」
水槽の中の脳というモデルは、1982年哲学者ヒラリー・パトナムによって定式化された仮定だ。
ある科学者が人から脳を取り出し、脳が死なないよう培養液で満たした水槽に入れる。脳の神経細胞を電極を介して操作できる非常に高性能なコンピューターにつなぐ。
意識は脳の活動によって生じるから水槽の脳はコンピューターの操作で通常の人と同じような意識が生じよう。
現実に存在すると思っている世界はこのような水槽の中の脳が見ている、仮想現実なのではないか、と。
またか、またこの繰り返しなのか。
……とジーザスは切なくなってきた。荻号はこうやって本題をはぐらかす。
この間は荘子の胡蝶の夢の喩えを持ち出してきて、ジーザスが欲しいのはそういった哲学的な考察ではない。
「荻号。私が欲するは、かような形而上学的な答えではない。厳然たる事実のみだ」
ああ、ああ、わかっているとも。
ジーザスがもうその手のはぐらかしにはうんざりきているという事を、荻号も分かっていない訳ではなかった。
彼をからかっているのではないし、信用していないのでもない。
だが、それだけは教えてはならなかった、何より彼の為にだ。
「ジーザス、俺は教え渋っている訳ではなく、あんたを無駄死にさせたくないだけだ。俺が誰であって世界がどのように創造され、そしてINVISIBLEがどういう存在なのか、俺は全てを知っている」
「だろうな」
「世界の姿を明かす事に何ら抵抗もない。だがINVISIBLEが、それを望まない。創世の秘蹟を自分だけのものにしておくためにだ。俺が全てを語れば、あんたがそのドアを出てゆくまでにあんたの命は断たれる。それを無駄死にだとは言わないかね? 解ったら、この謎には近付くな」
「それは、汝がINVISIBLEだからであろう? 三大禁忌に触れんとするあらゆる者を、汝が消してきたのだ。夥しい屍の上に汝は謎のまま、過去も現在も未来も、永劫に不滅の存在として生きながらえておる」
「違う、俺が殺しているのではない。これだけ教えてやる……あんたは充分苦しんだからな。俺の中に”この世界の創世者”、INVISIBLEはいない。これは真実だ」
ジーザスは二千年という長き時間の果てに、閉ざされ、拒まれ続けた彼の口から聞くことのできた誠意ある答えに、感慨深そうに聴き入っていた。
彼は創世者ではなかった、その事が訊けただけでも満足すべきだった。
だが一つの真実を知れば、より深い謎が姿を現す。
ジーザスは禁断の領域の、一線を越えようとしていた。
「ではINVISIBLEは、何故汝を生かし続けるのだ? 汝はいつから生きている? 何万年前からだ? この世に初めて絶対不及者が現われた時、それ以前から汝は存在してきたのだろう」
「……何万年ってか、何百億年前からだな。何故INVISIBLEが俺を殺さないか? 殺せなかったからだろう。あらゆる手段を尽くして自殺を試みてきたがこの有様さ。今は陰階神、荻号要として生きているがね……もっとも俺は、既に死んでいるのかもしれん。さあ、このぐらいにしておけ。これ以上の話は、命取りになるぞ。俺はあんたが命を賭けて追求するような大した存在じゃない。あんたという救世主を失うのは惜しい。それから俺は、ユージーンを苦しめるつもりはない、話せるのはそこまでだ」
「……そうか……ありがとう。ようやく私は、汝を信じることができそうだ。もう思い残す事はない。ユージーンを頼むぞ」
「まるで、今から死ぬような口ぶりだな」
荻号はジーザスの言葉が気になった。
お喋りが過ぎたが、まだ決定的な真実を明かしてはいない。
ぎりぎりの線で危ういが、命を絶たれるようなことはないはず。
何故このタイミングで遺言のように、不吉な言葉を? 彼は高齢だが、荻号の視る限りバイタルはまだしばらくは尽きないというのに……。
「私はいささか、汝への質問が過ぎた。無が私を、迎えに来る――。のう、父よ……」
その言葉を受けて、荻号の表情がゆがんだ。
「汝は無より神々を創り出し、世界を護っておられるのだろう? 神々は全て汝の創造物に過ぎんのだ、そうだろう?」
「いかん! 言うな!!」
荻号は目を見開いて席を立ち、直後。
まるで生命線を切られて人形のように崩れ落ちたジーザスを抱きとめた。
曇りない茶色の瞳を見開いたまま彼は既に、事切れていた。
彼のバイタルは、何者かによって瞬時に断たれたのだ。
ジーザス=クライストは、気付いてはならないことに気付いてしまった。
荻号は不用意に彼と問答を交わしてしまったことを悔いた。
荻号は殺しはしなかった……禁忌の事実を知ったものはすべて、この世から抹消される。
こればかりは、荻号には止められなかった。
荻号にできたことは、せめてその謎に触れることがないよう、予め自らの存在を疑わせないように神を創り上げたことだけだ。
長い生涯の中で彼の魂に触れたものは、こうして存在を根こそぎ絶たれて、荻号は幾百億年もの間、永遠とも思われる孤独を過ごした。
彼は誰も失わないために、自らの真実に近づこうとする者を遠ざけてきた。
それでもジーザスのように荻号に近づこうとする者はいて、彼らを失わなければならない。
彼は永劫の孤独の中、真の理解者を作ることすら許されなかったのだ。
[……またか……。汝は生を、何だと思っている……ジーザスは汝に不当に奪われてよい者ではなかった。かの者は人々の光であり希望であった……吾の我慢も、限度があるのだぞ]
荻号は彼が荻号であることを忘れ、このような事を口走った。
彼は怒りのあまり、荻号でいることを、ほんの一瞬だけ忘れていたようだ。
荻号は苛立ったように舌打ちをすると、彼の頸に縫いこまれた制紐を自らの手で切った。
白い制紐を皮膚から引き抜くと、彼は静かに深呼吸をした。
[吾はこの死を、看過する事はできん。禁視(Forbidden-visibility)を啓く]
荻号は空色だったその瞳を、一気に見開いた。
彼の瞳の虹彩の部分が金色に変色して、風貌がみるみるうちに変わってゆく。
そこには最早荻号とは言い難い、太陽のような瞳を持つ、金色の光に満たされた眩い者がある。
彼は断たれたバイタルの断片を探し、命脈に自らの圧倒的な生命力を捻じ込もうと試みる。
彼はこれまで幾度となく禁断の力で、神の死をも捻じ伏せてきた。
……だが、如何に最も全能に近い彼がジーザスを救いたいと願ったところで、彼をも支配する存在がジーザスの命を奪うと決めたのだ、……強大なる創世者の力には及ばなかった。
姿は見えない創世者は確かにこの光景を観察していて、あらゆる試行を許さなかった。それは無情なまでに。
[吾が力も、今は及ばぬのか……]
相当な時間を費やした果てに、禁視の力も及ばない事を見せ付けられ、諦めざるをえなかった。
彼は彼の無力をひたすらに呪いながら、ジーザスが磔刑に処された際に穿ちこまれてできた手首の古傷に触れ、憐れむように優しく擦る。
彼が蘇生を断念した事によりたった今、ジーザス=クライストは苦難に満ちた生涯を終えたのだ。
あらゆる人々を導いてきた彼に、平安はあっただろうか……。
その亡骸をソファーに横たえると、手を胸元で組ませ、そっと目を閉じさせた。
神々の創造主である彼は、死の果てには虚無の他に何もない事を悪びれた。
親らしいことなど、何一つとしてできなかった。
穏やかな祈りの果てに冥福など、ある筈もなかった。
どこか満ち足りたような微笑を浮かべるジーザス=クライストの瞳にはうっすらと、涙が滲んで伝った。
*
荻号はジーザスの亡骸を陽階に引き渡し、数時間に渡る検屍の結果自然死であることが確認されると、陽階はジーザス=クライストの崩御を発表した。
かくて人類の救世主として人々に光明を授けた、偉神 イエス・キリストは二度死んだのだ。
しかし彼が最期に面会をした人物が荻号であった事から、荻号に殺されたのではないかと誰もが疑わざるをえなかった。
荻号は疑われ、罵られる事を当然のごとく受け止めた。ただ彼はひどく疲れていた。
生きることに、そして生死をただ延々と見守り続ける事に。
空色の瞳を取り戻した荻号は世界の果てのような実験室の片隅で、ユージーンの浸る赤い培養液を見つめていた。
彼自身の自然治癒力で、順調に回復はしているように思われる。
荻号の力を使えば、彼は一瞬で回復できるだろう。
だが、それではユージーンの死を冒涜しているようなものだ。
彼の記憶は余すところなく荻号の頭の中にあって、一かけらも失われてはいない。
「ユージーン……お前は決して、俺達の道具ではない」
荻号は彼と契るように、寂しげに呟いた。
*
陰陽階の全神が彼の死を悼む葬送の義は位申戦の日程を延期させて、何事にも先駆けて執り行われる事となった。
比企は荻号がジーザスを殺したのだと信じて疑わなかった。
比企にとってジーザスは敬愛すべき偉神だった。
彼のような陽階神となるべく比企は学び鍛えてきたのだし、彼の厳格さと公正さはそのまま比企が受け継いだ。
”やはりあの怪物は、己が手でくびり殺さねばならん……どんな手を用いてでもだ”
比企の荻号に対する怒りはジーザスの死を契機に、いま頂点に達しようとしていた。