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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第27話 Laboratory of Complex Chemistry, Osaka University

 大坂大学 理学研究科 錯体(さくたい)化学研究室 相模原 紀夫(さがみはら のりお)先生御机下。


 そう書かれたクール宅急便が助教(じょきょう)の松林によって受け取られ、相模原のもとにやってきたのは、彼がまさに国際学会に出かけようとしたときであった。


 飛行機の時間までにはまだ少し余裕があったので、宛名書きを見る。

 懐かしい学友の名がそこにはあった。

 相模原はまたデスクに座り直し、松林ににっこりとほほえんだ。

 白髪の混じり、髭をたくわえた上品な紳士、細身のスーツが伊達な名物教授だ。

 この春から助教に迎えた同研究室出身の松林は渡すものを渡すと、ぺこりとお辞儀をして出て行こうとした。


「ありがとう、松林君」

「先生、論文についてですが……」

「ああ、見ておくからメールを送って」

「ありがとうございます、お帰りは来週の火曜日ですね?」

「ベルギーのお土産を、研究室にも買って帰るから楽しみにしておいてくれ」


 ベージュ色のワンピースのよく似合う女性助教、松林 智絵(まつばやし さとえ)は微笑んで出て行った。

 クール宅急便を開封すると、中には赤い液体パックがひとつと、手紙が、冷蔵されて入っていた。


 相模原はデスクのライトをつけ、手紙も読まずにまずプラスチックグローブを手に装着すると、その赤い液体を光にすかしてみた。

 透き通るような透明な赤色だ。

 相模原は時計をちらりと見やると、推測するのを諦めて大人しく手紙を読みにかかった。


 上島医院 院長。

 上島 肇(じょうしま はじめ)とは、同じ大学のラグビー部の同期だ。

 二人ともよく飲み、よく練習した。

 三年前に一度飲んだきり、最近は年賀状だけが行き交いして消息を確認している。

 その彼が、いきなりサンプルを送りつけてきて、何があったのだろう。

 上島の送り状には、詳細は書いていなかった。

 概要はこうだ。

 この液体が患者の病気を次々と治している。

 この液体の組成が知りたい。

 この液体はさる人物から譲ってもらったもので、もうこれ以上は存在しないのだという。

 もしこの万能薬を全て明らかにして組成が再現できれば、偉大なる業績は君のものだ、と。


「万能薬、だと?」


 相模原はいぶかしんだ。

 堅実かつ現実的な医師である上島が怪しい事は言わないとは思うが、万能薬などあってたまるか、というのが正直な感想だ。

 相模原はその組成を分析する前に、効果が疑わしくないのかを確認するのが先だと感じた。

 それよりもまず、上島に電話で入手経路の詳細を聞く必要だってあるだろう。

 相模原の飛行機の時間が迫ってきたので、電話は国際電話でかけるとして、宛名書きの上島の電話番号を控えると、助手の松林の部屋へとクールバッグを持っていった。

 松林は丁度コーヒーを入れて一服しようとしていたところだった。


「松林君。ちょっと頼まれて欲しいんだが、この中に入っている液体を10mlずつ分注して、半分は4℃、半分は-80℃に保存しておいてくれ。そしてそのうち10mlを、横津先生にお渡しして、先生の余った癌モデルマウスに適量経口投与して欲しいと頼んでくれ、悪いね、時間がないんだ」

「新薬ですか?」

「どうやら、そうらしい。ベルギーから帰ってきたらこの薬の組成を調べなきゃならん、私が帰国してから、モデルマウスの判定により、それを分析するかを決めよう」

「癌モデルマウスなら、先生がお帰りになられるまでには判定できませんが」

「うーむ、そうだな。何の病気でもいいんだが、手ごろなマウスがいないかね」

「私が、系統維持用の糖尿病モデルマウスを持っています。それに投与すれば、先生のお帰りまでには結果が出るかと」

「じゃあ、それがいい。頼むよ、松林君」


 教授は書類をかきあつめ、バタバタと出て行った。

 余った糖尿病モデルマウスに投与するだけなら、それほど手間がかかることではない。

 教授は”何の病気でもいい”と言っていたが、それはどういう意味なのだろう? 

 裏を返せば”何の病気でも効く”か、”何の病気に効くかわからない”だ。

 松林はコーヒーを飲み干し、白衣を軽く羽織ると、滅菌された清潔なピペットを取りにいった。



 井村のワゴン車を追跡した皐月は、例の研究員一行が村に一軒しかない旅館に入っていったのを目撃した。


 何やらバケツリレー方式で大量の機材を運び込んでいる。

 その大掛かりで本格的な様子から、仮に井村を説得できたとしてもプロジェクトは止まらないのだろうなと悟った。

 ユージーンもメファイストフェレスもいない中、皐月にできる事は何だろう、先輩後輩のよしみで井村に探りを入れてもあまり意味がない。

 朱音はまだ彼女が使徒であることすら知らない普通の子供だ。

 朱音を捕らえるつもりはないのだろうな、そう思いたかった。


 すぐに朱音の家に突入して捕獲したりせず、行動学的なスタディを行うつもりなのだろう。

 朱音の家に盗聴機や小型ビデオカメラを仕掛けても普通の核家族の日常があるだけだ。

 彼女は自らが使徒だ、などとは夢にも思っていないし、家族も知らないのだから。

 行動学的なスタディはすぐに行き詰る。

 彼女がまったく普通の少女の生活をしているとわかったら、あとは捕獲されるだけだろう。


 彼女にはまだ翼が生えていないため、見た目は正常な人間にしか見えないとしたら、彼女を連れ去ってしまう事は立派な犯罪であり誘拐だ。

 警察だって動いてくれる、しかし研究機関の背後に国家的なものがあれば、もう止められない。


 皐月は暗澹とした心境になりつつ、こっそりとその場を離れていった。

 明後日から夏休み。

 朱音の行動範囲は広がり、普段ならしないようなこともする……何か不吉な事が、起こらなければいいが……。


 朱音が使徒だということを、この時期に彼女に告げるのは愚かだ。

 彼女の赤い新車は、ふらふらと田んぼ道を走っていた。その時だ。


 車の上に大きな影が差し、ゴン、と車の屋根の上に何かが落ちてきた音がして、皐月は急ブレーキを踏んだ。

 慌てて外に出ると、上に恒が乗っていた。

 恒は荻号の光獣オフィシャル・バード、巨大な白フクロウの無音(もね)の背に特別に乗って、生物階まで戻ってきた。

 生物階降下とは、実際に生物階の土を踏むまでは降下したとは見なされない。

 風岳村への降下禁止という戒厳令が布かれてはいるが、荻号は無音の背を借りて大きく弧を描き、風岳村を見渡していた。


 彼は上空からグラウンド・ゼロ(首刈峠)を念入りにチェックして、異常がないことを確かめてから神階に戻ると言った。


「藤堂くん!」

「皐月先生の車が見えたから。ごめんなさい、金曜日は、学校を勝手に抜けたりして」

「帰ってきてくれてよかったわ。って、あーっつ! これ、新車なのよ、もう……屋根、へこんだ?」

「だっ、大丈夫、へこんでませんよ!」


 荻号がおろした場所が悪かった。

 悪い事をしてしまったな、と思って靴型のついた車の屋根をこすって磨いた。


「そんなのはいいわ、藤堂君、聞いて! あなたが心配していた通りのことが起こったの、石沢さんたちを狙う研究所の人達が、この村に大挙してやってきたのよ!!」


 恒はそれを聞いて即座に皐月にマインドブレイクをかけた。

 皐月の見たありのままの光景が恒の脳の中に投影される。

 皐月も、もう教え子からの看破をおそれたりはしない。


「大変だ、皐月先生!」

「どうしたらいいのか、私にはわからなくて」

「……俺がこれを、使うしかありません」


 恒はポケットの中から、FC2-メタフィジカル・キューブ(形而立方体)を取り出して皐月に示す。

 皐月にはただのルービックキューブにしか見えない。

 皐月が触ろうとしたので、慌ててさっと取り上げた。

 数学の得意な皐月も、パズルは得意だ。

 なかでもルービックキューブにはとりわけ自信がある。


「触れちゃダメです、火傷します。これは俺の神具で、荻号さんからいただいたものです。これにはマインドコントロールをかけられる機能があります。それをマスターして、研究者たちに施しましょう。ユージーンさんはこの村の全村民にマインドコントロールをかけたそうで、そのおかげで今までこの村から外に神の存在は隠されていました、俺もやってみせます。朱音を、守らなきゃ……」

「何? 神具って」

「神の持つ特別な道具だそうです、様々な機能を持っています。織図さんも持っていたでしょう、あの大きな鎌みたいなの」

「藤堂君が、神様として力を振るうための道具ってこと?」

「簡単にいうと、そうです」


 皐月は神となった恒の将来が楽しみだった。

 恒の父親は2000年近くを生きた、名実共に神々の長だということは既に知っている。

 創造神のひとり息子は父親に複雑な思いを抱きながらも神々の社会に順応し、凄まじい成長を見せている。


「ところであなたは何の神様なの?」

「大人になってから決まるみたいです。習得するまでには1週間ほどはかかりそうですが、間に合うか……」


 1週間以内に、MCFマインドコントロール・フィールドを形成できるようにしてみせる、そうすれば朱音のことを研究員たちが諦めてくれるように暗示をかけられる、と言って。


「大丈夫よ、藤堂君。彼等はしばらくは動けないわ。行動学的なスタディは数日で結論を出せはしないもの。少なくとも1週間は動かないでしょう。その間に、……お願いね」


 皐月は恒を車に乗せて、恒の家に送る。

 帰りがけ、恒は皐月から、調査中はくれぐれも朱音には近づかないようにと念押しされた。

 朱音と接触しようとする者には容赦ない監視の目が入るだろう、恒がまともな人間ではなく、しかも朱音とは異なるタイプの生き物だと、そんなことからばれてしまいかねない。

 朱音ひとりが監視されるのなら、普通の少女として生活している彼女に何も奇妙な点はないのだ。

 だが恒も付けねらわれることとなれば、神の存在が人間社会に明らかになってしまえば……恒も朱音も、命はない。


 人類はまだ”神”の存在を知ってはならない。


 皐月もはじめにユージーンという存在を見たとき、到底受け入れられはしないと思った。

 神々の人間社会への干渉が太古から行われてきて、それにより歴史が歪められてきたと知ったとき、人類は何を思うだろう。

 核兵器やあらゆる手段を講じての神の根絶を狙うだろう。

 その時、神々と人々の間の最終戦争が実際に起こってしまうのかもしれない。

 神々と人々、まともに全面戦争が起これば人類は滅亡する。

 遅れてやってきたノストラダムスの予言が、成就されてしまうかもしれないのだ。

 この真実を、知られてはならない。

 神が実在する、それは人々にとって、使徒が実在することよりはるかに危険な真実だからだ。


 しかし、皐月にはひとつの不安があった。


 恒がマインドコントロールをマスターする前に、朱音の方から恒に会いたいといったら、どうしよう、と。


 朱音は恒に片思いをしていた、というのは放課後の雑談で朱音自身から聞いたことだ。でも、なかなか告白ができないし、告白をしてしまったら二人の関係が微妙になってしまうのではないか、と相談された事があった。

 彼女は毎年、バレンタインデーにチョコを用意しておきながら渡せなかったタイプだ。

 この夏休み、朱音が恒を二人きりで誘ってきたらどうしよう。

 夏休みは告白のできそうなイベントが満載だ。


 まさか、ね。と思いながら、皐月はアクセルをベタ踏みした。



 陽階 第4位 音楽神 ケイルディシャー=ムジカは練習室で、今日もなんとなく気分が晴れなかった。

 アコースティックギター用の曲を作曲しているのだが、コード進行がいつの間にかマイナーになってしまっている。

 音楽神の精神性が乱れてしまうという事は、死活問題だ。

 彼の第一使徒、索 数喜(さく かずき)に叱られないよう、気付かれないようにしながらムジカはため息をついた。

 彼の悩みというのは、明日より始まる極陽と比企、第一位と第二位の、神階を二分する大決戦にまつわるものだ。

 20年間も極陽の第一使徒として扱われてしまったムジカは、極陽の実力をよく心得ている。


 彼はAXを名乗っているだけのことはあり、武術はAAの神と遜色ない。

 体力もあり、アトモスフィアの量も膨大だ、スタミナ切れもないだろう、陽階最強というのは間違いではない。

 XXの分野にも長けていて比類ない。

 狡猾で、慎重、そして危なげがない確かな実力を持つ、それが極陽という神だ。


 だが、位申戦を仕掛けてきた比企は極陽より若い。

 300年前はその若さが仇となり、経験が足りず文型の試合項目で判定負けした。

 今回は、比企と極陽に以前はなかったものが勝敗を分かつ事となる。

 比企にとっては時間という経験。

 極陽にとっては、時間というハンデだ。


 比企と極陽が同じ年齢で戦えば、恐らく勝つのは十中八九は極陽だ。

 だが、彼等は年齢差がありすぎる。

 比企はこの300年で経験と実力を兼ね備え、逆にこの300年で極陽の体力は落ちた。

 極陽は比企に敗れるのではないか――ムジカはそんな予感がしていた。

 

 ともあれ、明日から文字通り頂上決戦がはじまる。



 恒は帰宅すると、志帆梨を捜した。

 家の隅々まで呼んで回ったが、まだ帰っていないようだ。

 恒は少しだけ寂しく感じたが、自分が親離れしなければならないように母親だって子離れしなくてはいけないのだから、と思い直した。

 恒は将来的には神になるつもりだが、母親を見捨てて地上を去るつもりはさらさらない。

 だから母親が自立をするために店を出したりあれこれ準備しているのを見ると、何故か寂しくなってしまうのだ。


″母さんにだって、母さんの人生があるんだから″


 彼女が自由になるべきだとは思っていた。

 それでも、いざいなくなってしまうと、つい捜してしまう。

 冷蔵庫の中の麦茶を取ろうと、取っ手に指をかけた。

 触れた瞬間に僅かな痛みが走り、ふと手を見つめると、神具を扱う指先は荒れ放題で、あかぎれのように切れて血が出ている、その事に今更のように気付いた。

 神階にいたときには気が張っていて気付かなかった。

 その時、母、志帆梨の声が玄関口から聞こえてきた。


「あらー、おかえりー、恒」

「母さんも、おかえり」


 ちょうど帰ってきた母親は疲労困憊で玄関にどっこいしょと腰掛ける。

 両手にはパンパンに膨らんだレジ袋をにぎりしめている。

 恒が荷物を台所に運ぼうとして中身を覗き込むと、馬が食うほど、という表現が少しも過剰ではないほど大量の魚介類ばかりが入っていた。

 イカにタコに、マグロの切り身、鯛などの切り身、アサリとシジミがたぷんたぷんとビニール袋の中で揺れている。


「どうしたの、こんなに魚ばっかり」


 母親は恒にそう言われてはじめてビニール袋の中を覗いてみて、買い過ぎたということに気付いたらしかった。

 恒は母親が恒の話をあまり聞いておらずのぼせているのに気付いて、マインドブレイクをかけた。

 熱射病にでもかかっているのだろうか、と思ったのだ。

 最近では学校でも家でも相手から話を聞き出すのが難しい時には、ついつい看破をかけてしまう。

 彼は母親の思いをほぼ瞬間的に看破してしまって、唖然とした。


″母さんに、好きな人ができてる″


 恒はまだ10歳で幼いから、というばかりでなく、完全な人間ではないために人間的な恋愛感情が理解できない。


 まさか母親が魚屋の若い店長に熱をあげているとは……嫉妬というより、ひとりの女としての母親の姿を目の当たりにして困惑した。

 そうか、母さんは人間の女性なんだ。

 父さんなんて顔も見たことがないのだし、まともに恋愛なんてしたこともなかったんだ。

 そして彼女の病が治って好きな人ができるということは彼女の人生において当然の権利なんだ、さらに魚屋の主人と両想いとなり、結婚などということになったとしてもそれをどうこう思ってはいけないんだ……と恒は自分に言い聞かせながら、しかし途方もない不安を感じた。


 母親をシングルマザーという立場でいつまでもいさせてはいけない、ということも解っていた。

 それでも恒にとっての母親は志帆梨しかいない。

 志帆梨の心をマインドブレイクで更に鮮明に解析できるようになっていて、彼女の脳裏に浮かぶ爽やかで優しげな青年の姿も垣間見る事ができた。

 この人が自分の新しいお義父さんとなるかもしれなくても、母親の選んだ人だもの、受け入れなければならないと決意した。

 母親は恒の呆然とした顔を見て、どうしたのよ、と頬をぷにっとつねり、上機嫌で大量の魚を運んでいった。


 鼻歌まじりの母親と共に台所に立ち、夕飯は手巻き寿司にしようと息子は提案した。

 今日は夕方から織図も来るが、この魚の量を考えるとどうも彼と藤堂親子だけでは平らげられない。

 皐月先生も呼んであげなさい、と言われたので恒は電話をかけた。

 皐月はちょうど貧乏生活中だったそうで、野菜も買いそびれたようだし喜んで来ると言う。


 恒は差し支えない範囲で、神階での出来事をできるだけ母親に話して聞かせた。

 神具をもらったこと、荻号をはじめ神々は親切にしてくれたこと。

 ユージーンがありえない状況になっているとは言えなかった。

 母親は織図には恒の先生という印象を持ち、ユージーンはまた印象が違って、彼女自身がいつも崇拝しているようだったからだ。

 恒は志帆梨が、事あるごとにユージーンに対して小さく手を合わせ、お祈りを欠かさなかったのを知っている。


 一方、志帆梨は恒の教わっていることについてあれこれ突っ込まなかったし、危険だからもうやめて欲しいとも言わなかった。

 志帆梨はもう、恒を彼女だけの息子とは思っていなかったようだ。

 恒は世のため人のために、様々な事を学ばせてもらっているのだ、それを邪魔をしてはならない。そんな理解をしていた。

 恒はポケットに入っている神具を、肘で触れてたしかめた。

 これを失くしてしまったら大変だ。

 夕方から織図がやってくるが、全神具適合性を持たない織図からこの神具の扱い方を学ぶ事はできなかった。

 そして織図の神具にはMCF機能は装備されていない。

 人の生死を掌る神の任務には生きた人間の心をどうこう操る事は必要ないからだ。

 したがって織図にMCFを頼む事はできず、やはり恒の神具を用いて研究員たちにマインドコントロールを施さなければならないようだ。


 藤堂親子は手巻き寿司の準備をあらかた終え、赤だし汁を作ったところで織図を迎えた。

 織図とは今朝神階で会ったばかりだ。

 神階にいた間、織図がずっとついていてくれて随分安心した。

 ユージーンの言っていたように、荻号は確かに謎の多い人物だ。

 荻号とふたりきりだとどうしても萎縮してしまうのを織図は分かっていて、恒が怯えないよう緩衝地帯になってくれていたのに気付いている。

 荻号は遠慮もなくずけずけと真実ばかりを言うので、恒は怖ろしくなったり困惑したら織図の後ろに逃げ込んだ。


 織図はある種、恒に逃げ場のようなものを作ってくれる大きな傘のようだった、荻号が恒に怪しい事をさせないよう、忙しい中、志帆梨の代わりに監視してくれていた。

 織図は今日も死者を導くための重要な仕事を終え、疲れたのか這うようにしてテレビを点けた。

 家に来たら挨拶をして、テレビをつけ、食事の前に志帆梨からキンキンに冷えたビールをもらって一杯やる。

 これが織図の日課となっていた。

 織図のせいで藤堂家のエンゲル係数が高くなってしまったのを悪びれたのか、こないだは織図は食費、と言って100万円もの現金を志帆梨に渡した。

 そんなことをしてもらわなくても、極陽の振り込んでくれた金で生活に不自由はしなかったのだが……。


 皐月の到着までしばらく時間があり、皐月が来るまでの間に荻号にもらった端末をセットアップしてやると織図が言ったので、恒は端末を持ってきた。

 藤堂家にこんなハイテク電気機器がやってきたのは初めてだ。

 この家にはテレビゲームもなければ、パソコンも、DVDやビデオもなかった。

 10年もの入院生活を送っていた志帆梨は、パソコンそのものを見たのも初めてという有様だ。


「まあ、これがパソコンというものですの?」

「ただのパソコンじゃないぜ、奥さん。こいつは神の持ち物の情報端末な……これでやっとこさ、ここで渡鬼DVDが見れるってわけさ」

「渡鬼より織図さん、GL-ネットワークに繋げてください」

「えー、先に渡鬼見ねーの? あ、そういえば奥さん、明日の話は恒から聞いた? 俺、観戦グッズに酒とつまみ買ってこようかと思うんだけど」


 恒は後ろめたくなって顔を背けた。

 明日の夜から、極陽と比企の頂上決戦、数十年ぶりに行われる位申戦が始まり、GL-ネットワーク・オンラインにて中継が繋がる。

 しかし恒は、先ほどのマインドブレイクにより、それを志帆梨に告げる事をためらっていた。志帆梨には今、気になる男性がいて、ひょっとすると(一目ぼれに近いが)恋をしているのかもしれない。

 そんな中、お世辞にも志帆梨を幸せになどしてくれそうにはない、レイプ犯にも近い父親の姿など見せては、志帆梨は傷つくのではないか。

 志帆梨を傷つけるだけなら、いっそ父親の顔など知らないほうがいいのではないか。

 志帆梨は極陽に一度でも会ってみたいとは言わなかった……彼女は極陽を夫として認めてはいないのだから。


「明日の話って、何の事ですの?」

「そうか、恒、言わなかったんだな」

「教えてください」


 志帆梨は恒を振り返ったが、恒が何も答えてくれないので、今度は織図の黒衣の裾を引っ張りながら詰問した。

 織図は酔いもしないのにビールが好きで、彼の鼻の下に申し訳程度にある髭にビールの泡をひっつけている。

 どこぞの晩酌中の親父のようだ。


「明日の夜から極陽と第二位神の試合があるんだ、極陽のチャンプ防衛戦ってところだよ。この端末を通じて、極陽の姿が見える。だが、その姿を見る見ないは奥さんが決めればいい。極陽は奥さんにとって、決して”よき神”ではなかったしな……」


 インターホンが鳴ったので、恒は皐月を迎えに玄関に出て行った。

 織図は戸惑い、涙の滲んだ志帆梨の頭をぽんぽんと軽く撫でてやって、んー、よしよし、とやってそのまま軽く抱きしめている。

 織図はどこか包容力があって温かい。

 人が死に際に会い見える死の権化であるのに、彼の懐は暖かで深く、志帆梨はこの家にやってきたのが織図でよかったと思った。

 多少は、荻号も人懐こい神を……と配慮したのかもしれないが。


「私、……拝見したいと思います。ありがとうございます、こんなただの人間にも神様たちのお姿を見せてくださって」

「あんたも、思えば大変な人生だっただろう。何か、あんたに償いができればいいんだが……せめてこれからは、思うような人生を手にしてほしい。あんたの寿命は特別に、健康なまま100歳+αまで延長しておくよ」


 志帆梨は涙を拭うと、皐月を出迎えに行った。

 織図は端末を起動し、荻号から渡されていたセキュリティの甘く設定されたIDカードを挿入し、認識させた。

 織図はブックマークにGL-ネットワークのアドレスを追加し、ヘッドラインニュースを見た。

 位申戦は日本時間にして明日の夜20時34分から。

 織図は陽階の頂上決戦の前夜に、予想を述べる。 

 多分、今回の勝負は極陽の勝ちだな。

 そんな無責任な事を考えながら……。



 その頃、早瀬ら研究チームは、(いわお)の湯という旅館自慢の温泉に入った後、会席料理を平らげ、浴衣姿で今後の調査の方針についての会議をはじめていた。

 調査にあたって、まずは石沢家に録音機器を仕掛けなければならない。


 石沢家の家族構成のプリントが配布され、父はサラリーマン、母はアルバイトに華道教室、弟妹は小学生だと書いてあり、家を留守にする時間が曜日単位で書き込まれてあった。

 それによると、家族全員が家を留守にする時間帯は、午前中10時~午後3時まで。

 この間に調査団は石沢家に侵入し、彼等に決して気付かれないようありとあらゆる場所に調査のための盗聴器やカメラを仕掛けなければならなかった。

 解析装置も数台導入し、まず行わなければならないのは父母や家族にも天使がいるかという調査だ。

 プリントには両親や家族の血液型が載っていた。


 父B型、母O型、朱音がO型、弟と妹がB型だ。

 これによると、O型である母親が天使である可能性がある。

 早瀬らのチームは、標的を母親と石沢朱音に絞って調査することに決めた。

 調査の成功を願って、まるで江戸時代の一揆の前の一味神水のように一杯の杯に注がれた日本酒を回し飲みして、調査への士気を高めた後、ビールを手に手に握った。

 こんな飲み方をしてしまったら、明日は二日酔いで研究にならないんじゃないかな、とは誰も言わなかった。

 誰もがただ、もう飲んで鬱屈した気分を吹き飛ばしてしまいたかった。


「皆、我々に失敗は許されない」


 酒で頬の赤くなった早瀬は、温泉でのぼせてしまって更にヒートアップしていた。

 井村も大きく頷いた。


「我々のしようとしていることは、間違いました、では許されない立派な犯罪行為だ。泥棒の片棒を担いでいるものだと思い、ラジエルが天使だという証拠と、彼女の謎に満ちた生活を石沢に、いや石にかじりついてでも暴くんだ。彼女が何を糧とし、どうやって生きているのか。そして天使を生かすための糧、”主”とは何なのか、それを何としてでも暴くぞ。それでは……」

「乾杯ー!」


 早瀬が乾杯の音頭をとる前に、上機嫌の井村がういーっとやりながら乾杯の音頭をとってしまった。

 旅館の窓をいっぱいに開けて月見酒をしつつ薮蚊に刺されつつ、夜風を入れながら彼等は杯を酌み交わした宴もたけなわ、早瀬は酒もいくらか進んで研究員たちとこれからの研究について暑苦しく語っているうち、次第に彼らの子供の話になっていった。

 かわいい盛りの子供を実家に残しての単身赴任である、家族を恋しく思わない日はなかった。


「で、母乳を飲まないんですよ」

「でも俺んとこの息子は逆でしたよ、ミルクを全然飲んでくれなくって」

「本物志向っての? 赤ん坊のくせに無添加じゃないと嫌だってか」


 ハハハ、と豪快に笑って、井村はふと石沢朱音のことを思い出した。

 鹿児島出身の井村は持ち込んだ芋焼酎をロックにしてマドラーがわりの箸でかき混ぜながら、ぽつりとつぶやいた。


「俺、本当は、石沢 朱音が天使じゃなかったらいいなって思うんです」

「ん? 何でだ?」

「だって……可哀想じゃないですか」


 井村は芋焼酎を作ったまま、手をつけようとしない。

 この男は飲みすぎて、何かのスイッチが入ってしまったようだ。


「世界初、子供の天使のデータが手に入るんだぞ?」


 子供、翼が生えていない天使。

 それがどれほど貴重な検体かというのは、井村も理解している。

 だが、天使を初めてモニターごしに目にした井村は、彼女が何の変哲もない少女だということに戸惑っていた。

 心の奥底にヘドロのように溜まったモヤモヤが、酒の力を借りて出てきた。

 自分達はひっそりと暮らしている天使をどうして、ありのまま放っておいてやれないのだろう。


「でも、……調査が済んだら捕獲しますよね。自分の子供がもし、天使だったら……なんて考えてしまって。いくら天使といえど、家族と引き裂かれてしまうなんて……しかも今までは、監禁されて1ヶ月以上生き延びた天使はいません。俺っ、人の親として最悪です」


 井村は泣き上戸なのか、おいおいとそのまま泣きながら布団に行ってしまった。

 宴席に残された研究員達の間に、なんともいえない空気が流れていた。

 目に入れても痛くない最愛の我が子が、ある日突然、人間ではなく天使だったと知らされ、捕獲されてどこかへ連れて行かれて監禁されてしまったら……。

 とても耐えられない。


「……確かにな。人の親としては最悪だ、だがそれでも……やらなければならないことがある。殺してしまわないように、まず調べるんじゃないか。彼女は絶対に、死なせやしない」


 早瀬は井村の残していった焼酎を、代わりにぐいっと飲み干してあまりのアルコールの強さに目を白黒させ、うえっと吐きそうになってもちこたえた。


 研究員たちはすっかりしらけて酒がすすまなくなって、各々烏龍茶をコップに注いで、もう打ち止めにしたらしかった。


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