第1節 第26話 The Empress, Alsiel Jansen
藤堂 志帆梨は、村の中心部の商店街を歩いていた。
恒は天国で外泊しているというが、もうあれこれと気にはならなかった。
あまり心配しすぎるのも彼の負担となるのだろうという思いもどこかにある。
織図 継嗣という神にも信頼がおけた。
織図が一緒なら、心配する必要はないと自分に言い聞かせる。
勿論、母親として心配がないわけはない。
恒は彼女の息子であるとともに、人々を救うことが使命の神である。
何とか折り合いをつけていくしかない。
子は子の、母は母の人生を掴まなければならない。
商店街の顔なじみの店主達に、ここの一角で小料理屋を営む事になるからといって挨拶回りをしていた。
この商店街には鉄板焼きの店や激安ラーメン店はあっても小料理店はなかったので、競争相手の同業者に疎まれることもなかった。
どの店の店主も歓迎してくれて、仕事終わりに一杯やりに行くから、と気を遣ってそんなことを言ってくれる。
わけても”創作料理 しほり”の両隣とお向かいさんには手作りの抹茶ロールケーキを持って行って念入りに挨拶をした。
商店街の全ての人々に挨拶をして、あと挨拶をしていないのは店舗の右隣だけだ。
右隣の店は、ミカサのサカナという逆さ文字のような店名の魚屋だ。
鄙びた店内を外からのぞくと、店主が刺身を作っているようだったので、カラカラと引き戸を開けて入店する。
「あい、いらっしゃい」
「こんにちは。わたくし、左隣の空き店舗で小料理屋を出そうかと考えております、藤堂志帆梨という者です。本日はご挨拶に参りました。これ、つまらないものですが、お近づきのしるしに。手作りのロールケーキです。お口に合えばいいのですが」
店主はイカ刺を作っていた手を止め、おしぼりで手を拭って店の奥から出てきた。
背の高い、よく日焼けした、30代頃の爽やかな青年だ。
志帆梨はこの村にこんな青年がいたかしらと混乱し、少し照れくさくなってもじもじとした。
「へえ、どうも。今日は三代目の親父が魚の買い付けに行っていまして、俺でよければ。四代目店主、三笠 和成です、こちらこそよろしく、これは結構なものを」
志帆梨は彼の笑顔を見て、素敵だなと感じる。
彼はイカ刺しを放り投げたまま志帆梨と30分ばかり世間話をした。
大きな声で、朗らかに笑う。
控えめな性格の志帆梨は思えば20歳にして妊娠、出産を経験したもので、こんな風に異性と長々と立ち話をしたことはなかった。
この気持ちの昂ぶりは何かしら、まだ初対面の相手なのに、と志帆梨は顔を真っ赤にしながら俯いてしまった。
「ところで、お店はお一人でやるんですかい?」
「はい、私一人で。従業員なんかは考えておりませんの」
「女性一人での経営は大変でしょう、何か力になれることがあったら、手伝いますから」
三笠は社交辞令なのか何なのか、親切そうな雰囲気だ。
「あ、ありがとうございます」
店主はお絞りで拭いたイカくさい手を差し出してきた。
志帆梨は彼の手を両手でしっかりと握り締めた。
「お料理にお出しする魚は、ここで買い付けてもよいでしょうか」
「おおっ。そいつはありがたい! 親父も喜びます」
志帆梨はこの青年のいる隣の店で、新たなる人生のスタートをきることができることを嬉しく思う。
志帆梨がこの青年に感じる感情がなんというのか、彼女は知らなかった。
だが、気さくでよい人そうでよかったな、彼女の理解できた感情はそれだけだった。
*
IEIIO(国際知的生命研究機関)日本支部の早瀬主任は、今日もいつものようにモニターを見ていた。
早瀬のチームは、全員で10人。
エリアごとに担当が分かれている。
早川と井村は関東エリアだ。
人間と天使との吸光度の差を利用した測定装置から、異常値を示すログが表示されてくる。
それを直接目視で確認して、天使が人間社会に紛れ込んでいないかをチェックするのが早瀬たちのグループの仕事だ。
今日も目薬が手放せない。
「もっと地方に行かないと、天使は発見できないんじゃないか? こんな都会ばっかり調べても……」
「うおっ!」
井村がぼやいたのと九州エリア担当の野々村が悲鳴を上げたのは、ほぼ同時のことだった。
井村の独り言以外にはほとんど私語もなく、思い思いの格好でだらだらとモニターを見ていた研究員たちは立ち上がり、野々村のデスクに駆けつけた。
この研究所では、まだ一体も天使を発見していない。
日本にはいないとして半ば諦めている、そんな感じだった。
「いたぞ!」
ここ日本は、終戦以来平和だ。
戦地に現われる車輪型紋章を持つ使徒は、今では中東でよく捕獲されている。
どんなタイプの天使が見つかったのか、誰もが気になった。
それより、日本で初めて発見された天使がどんな姿をしているのか、それを確かめたい一心で彼らは飛んできた。
「な……なんだこれは?」
そこに映っていたのは、一人の日本人の女の子だった。
姉のような女性に手を引かれて、博多市内を嬉しそうに歩いている。
だが吸光測定器という目を持つ彼等には見えていた。
この子は、人間ではないと。
「主任、これは何ですか?」
「どけっ!」
早瀬は後輩の野々村を突き飛ばすと、かじり付くようにモニターに飛びついた。
測定値は明らかに隣の人間と異なっている。
そしてスペクトルは一様で、少女の背部はのっぺりとしている。
早瀬は驚嘆した。
「間違いない……天使だ。しかも、翼がまだ生えてない、子供だ」
「隣は人間ですね。かあわいいなぁ……この子が天使なら萌えられる!」
早瀬はモニターをスクロールして解像度を上げる。
「この子は紋章を身につけてないぞ、珍しいタイプだ。服装も、普通の日本人の女の子が着るような服だし、間違いない。この子は人間社会に溶け込んでいる」
「……これは貴重なサンプルだぞ! 遂に我が研究所から天使が見つかったか! 次のコードは何だ? ラジエル、ラジエルだ!」
「主任、確保の指令を出しますよね」
「いや、だめだ!」
早瀬は両手を大きくクロスして振りかざしながら、モニターだけは目を離さなかった。
捕獲の指令を出そうとしていた今中は、前につんのめってこけそうになる。
「確保はだめだ、捕獲班に追跡させろ! 捕獲班がうるさい事を言うようなら買収してもいい。どうせ奴らは元傭兵だからな。どれだけ研究費を使ってもいい、追跡装置をつけてもいい! 天使がどこに住んでいるのかを突き止めるんだ! これから我がグループは世界に先駆けて、天使を捕獲せず行動学的なスタディを行う、捕獲はいつでもできるだろう? 彼女の行動、食習慣、そして主の存在、それらが全て解ってから確保するんだ。そうすれば彼女を殺す事なく飼育ができるだろう!」
天使がどこに住んでいて、どんな暮らしをしているのか。
それは研究者の本能が疼く調査だった。
天使を見つけたら即捕獲というスキームが研究所の決まりで、違反すれば服務既定に違反だ。だが業績を突きつけて見返してやる。
捕獲してもどうせ1ヶ月ともたずに殺してしまうことになるのだ。
どうやら家族もいるらしい、愛くるしい少女を捕らえて殺す事は避けたかった。
彼等は研究員であるとともに、人の子供の親である。
早瀬の提案に反対する者はなかった。
早瀬は研究員達の顔を見回すと、すっと手を差し出した。
白衣を着た彼等はそれぞれ手を差し出し、野球部のように円陣を組んだ。
「望ましくは、彼女の安全を確保したうえで接触したい」
「ですね」
「やるぞ。我々は世界で初めて、天使の生活と文化、そして”主”の存在を調査するんだ」
研究員たちは思い思いに声をあげた。
それは先ほどのように死にかけた鮒のような顔ではなく、彼等の頬は紅潮し瞳を輝かせ、興奮していた。
*
石沢 朱音は従姉妹の姉に例の野外コンサートに連れて行ってもらって満足していた。
限定Tシャツも買ったし、ポスターも買った。
それに前の方の席で、好きなバンドがぶちまけた水が頭にかかった。
天気もよかったし、申し分ない。
野外コンサートから帰った後は温泉に入り、そして約束していた有名なラーメン屋に連れて行ってもらって替え玉までした。
恒やクラスの皆、村の遊び仲間に、お土産の限定キーホルダーも買った。
勿論バレエの先生にもだ。
彼女が従姉妹の姉とともに博多市内の横断歩道を横断しているとき、向こう側から来たスーツを着た中年男とぶつかった。
「った!」
「ああ、ごめんなさい」
振り返ったが、あっというまに雑踏の中に消えてゆく。
男は軽く謝罪をしてそのまま通り過ぎていった。
帽子を深く被っていて顔は見えなかったが。
朱音は従姉妹の姉に大丈夫、と言われて大丈夫、と笑顔を向けた。
彼女の小さなバッグの裏には、先ほどぶつかった男によって小型発信機が取り付けられた。
朱音がその時をもって、コードネーム ラジエル(神秘の天使)と名づけられ、IEIIOの監視下に置かれた事など、知るよしもなかった。
*
その頃、恒は荻号の部屋で根を詰めて猛特訓中だ。
荻号のベッドは寝心地がよく、こんなふかふかのベッドでどうして荻号が寝ないのかさっぱりわからない。
二岐の作る手料理もおいしかった。
暇でもないのに相変わらず織図は傍にいて、暇そうにネットをしていた。
荻号がこれをやってみろと本物の神具で見本を見せ、その通りにおもちゃを使って恒が組み替える。
数時間も練習をすれば、もう思いのままにルービックキューブを組み替えられるようになってきた。
荻号は大体恒が操作できるようになってきたのをみとめると、今度はおもちゃのルービックキューブを貸せといってきた。
「恒、ここまでは人間界の技だ。ルービックキューブの世界記録は1分を切ってるしな。だが、ここから先は神にしかできない、よく見ていな」
荻号は全面の色が揃った恒のキューブを手にとった。
彼は宙にそれを放って、両手をかざしてその間に浮かせた。
瞬きもせずに見張っていると荻号はくるっと両手を半回転捻る。
キューブには触れていない。
しかしどうだろう、まるでキューブの目は荻号に組みかえられているように崩れ始め、ばらばらと一つずつのブロックに分解された。
恒はあっと叫びたいのを我慢してさらに見ていた。
荻号は恒をちらりと見やると、くるりと指先を回転させた。
キューブの色が変わってゆく……全面が赤になってしまった。
色を塗ったわけではないのに、おもちゃのルービックキューブの色が異なる色に変わってしまった。
「これが存在確率の変化、この世に存在するものを存在しないものとして扱う、逆に、存在しないものを存在するものとして扱う。今俺はルービックキューブの面が赤であるという確率を発生させている。これは特別なコマンドでな、形而立方体という意味がわかっただろう」
恒がぽかんとしているのを見て、荻号は理解できているかと不安な顔をした。
「ところでお前、形而上学はADAMで勉強してるんだろうな? 存在は存在する、しかし存在を証明できるものはない。わかるか? これができれば特殊コマンドの入力ができる……お前の親父と同格ぐらいにはなれるだろうぜ」
「すごい……俺にできますか?」
「お前が奴をどう思っているかは想像がつくが、血は争えないもんだぜ?」
荻号はぽいっとそれを恒に投げ返す。
恒はくるくると全面を廻してみた。
そこにあったのは、恒が荻号に渡した時と同じ状態、全面の色が異なるおもちゃだ。
「存在を疑え。それは果たして、”ある”のか、と」
荻号はここに哲学的概念を、事実として証明していた。
*
解階の中核、母星アビス(ABYSS)。
……生物学的な強さのみが追求されてきたこの世界において、長きに渡り大カーストの頂点にある女皇アルシエルの住まう帝都の一画に、伯爵家メファイストフェレスの住まいはあった。
メファイストフェレスは恒に呼び出され急いで生物階に入階し、家への連絡は事後報告だったので、父親にこっぴどく叱られるだろうなと覚悟している。
アルシエルの庇護を受けた大豪邸は瀟洒なつくりの洋館だ。
よく手入れされた花が咲き乱れる美しい花壇の脇を通って玄関までの長い小路を魔女は歩く。
我が家に入るなり、メファイストフェレスが生まれた時から仕えている老執事が恭しく出迎える。
父に挨拶をしてからアルシエルのもとに馳せ参じようと思ったのだが、父親は先に女皇のもとへと行ってしまった。
メファイストフェレスはひとりで心細いながらに、屋敷に戻って身支度を整えると、ただちに解階の皇の皇居を訪ねた。
メファイストフェレスは失礼のないよう盛装をし、生物階でコレクションをした心ばかりの貢物を持って厳重な警備によって護られた皇居の門をくぐる。
謁見手続きをし、贅沢な調度品や高価な宝玉が惜し気もなく使われている広い廻廊へと入った。
地中の財宝は悪魔のものとの伝承があるほど、解階には石ころのごとく歩けば足につまずくほどの財宝が溢れている。
アルシエルの宮闕は築五万年を超えて当然老朽化した部分もあるものの、解階の建築技術の粋を集めて作らせた城は今も頑として揺るぎなく、手入れも行き届いており並みの建造物のように崩落の心配はないそうだ。
皇居兼総務府に勤務している家臣はざっと一万名を超え、解階の中枢としての機能を兼ね備えていた。
家臣、とはいっても全てはアルシエルに対しての雇用契約という形態がとられているので正確には家臣ではないが、解階での有識者や実力者で構成されている。
父と共に、久しぶりの参内だ。
案内係に通された控え室で、気もそぞろな父親と合流した。
父はタキシードを着て正装して、いつも家の中ででも被っているトレードマークの赤い羽根帽子を脱いでいた。
緊張した面持ちで、ガチガチになっている。
「パパ!」
「おお、メリー、心配したぞ」
彼女の父親、メファイストフェレスI=セルマーはもう緊張してしまって、生物階に行ってしまった彼女の勝手な行動を咎めるのも忘れている。
解階の皇に親子揃って呼ばれた理由は、彼にもとんと見当がつかないのだという。
悪い用件でなければよい、というふたりの意見は一致した。
父親には叱られるような事をしてしまったメファイストフェレスIIだが、とりあえず今回は社会的には違法な行為ではない。
生物階への解階の門の定員は空いていたから入階したのだし、滞在も合法的だった。
何故呼ばれるようなことがあるのだろう、気が休まらないので早くお召しをいただきたい、と思ったが、待ち時間が長かった。
2時間ほど控え室で待たされた後、やっとのことで謁見が許されたが、最強者アルシエルと謁見するため玉座の間にたどり着くまでには、更に時間がかかった。
メファイストフェレス親子は頭を冷たい床にこすり付けるように身を投げ出して平伏し、顔を上げる事を許可されて遥か遠くを見やると、彼女、アルシエル=ジャンセン(Alsiel Jansen)は気味の悪いゴシックな彫刻がびっしりと彫り込まれた、吹き抜けの天井にも届かんばかりの巨大な玉座に腰掛けている。
黒のレースのあしらわれたロングドレスで腰は浅めに玉座に座し、赤いピンヒールを履いた細い足を置き台の上に無造作に投げ出している。
彼女の尊顔は、胸元まで下ろされた黒く薄い御簾によって隠されており、父も娘も一度も拝顔したことはない。
御簾の下から見える、艶やかな長い漆黒の髪の毛を細い指先で弄んでいた。
彼女は人払いをしていた。
「只今、陛下の御前に参内いたしました」
セルマーが彼女に挨拶をした。穏やかで、なおかつ厳かな声が聞こえてくる。
「その方たちも大儀であった」
「滅相もございません」
父親は声が震えている。
メファイストフェレスに至っては、恐縮してしまって声も出せない。
メファイストフェレスにとってアルシエルは雲の上の存在、畏怖の対象だった。
アルシエルは長きにわたり最強であり続けたばかりでなく、美貌を兼ね備え、その賢たるや信仰にも価する。
彼女はほんの戯れに全て違う解階の貴族たちとの間に98子もの皇女、皇子をもうけ、最強の血族を成していた。
力、富、地位、そして女性としても、彼女は全てを掌中におさめている。
その彼女の直々のお召しだというのだから、親子ともども縮み上がってしまう。
いつもはずらりと控えている侍従たちがいないことを考えても、深刻かつ重要な話をしたいのだということは二人とも察知していた。
「余が汝らを召喚したのは、他でもない。さる重大な任務についてもらいたいのだ」
「陛下の勅令とあらば、何なりと慶んで」
「さて、メファイストの娘よ。汝の肩にはさる神に従属した証たる御璽があるそうだな」
軍神下使徒を示す御璽を見咎められないよう、露出の少ない服を選んできたのだが、どうやらそんな努力は無駄だったようだ。
この馬鹿娘はまたしても! と怒りでわなわなと震える父親の隣で、メファイストフェレスは顔を青く変えて平伏した。
解階の住民がアルシエル以外に忠誠を誓ってしまうというのは言語道断だ。
これを理由にアルシエルに殺されても文句は言えない。
「汝は人間のみならず、神にも並々ならぬ興味のあることと見ゆる」
「寡臣の不始末につきましては、申し訳の言葉もございません」
アルシエルは暫く沈黙を守っていたが、ふっ、と御簾の奥で息を漏らす音が聞こえた。
アルシエルに弱みを握られてしまった。
メファイストフェレスはこれからどんな処罰が下るのだろうとしなやかな身体を硬直させた。
「その神を余の前に連れてくるのだ、汝の忠誠を余に示すまたとない機会を与えてやる」
メファイストフェレスは固唾をのんでアルシエルを仰いだ。
彼女の真っ黒な瞳には、絶望と、そして懇願の色が見えた。
いやだ、できない。
「かの神を、如何になさるおつもりですか」
「それは汝の関知すべき事に非ず。余の指令を完遂するまで汝の父には、此処で手厚くもてなしをさせよう」
ユージーンを連れてくればユージーンを殺す。
できなければ見せしめに父を殺すのだということぐらい、賢明なメファイストフェレスには理解できる。
しかもこの指令は解階の女皇の勅令、固辞することすらできない。
父を裏切るか、ユージーンを裏切るか……よくよく考えずとも、答えは出ていた。
しかしアルシエルに遵う事しかできない彼女自身が、たまらなく情けなく無力だった。
メファイストフェレスは追い立てられるように皇居から出され、父親は皇居に監禁された。
アルシエルは何故、ユージーンを殺そうとするのだろう。
アルシエルが神に興味を持った事など、初めてにも均しい。
神々は生殖行為そのものができない、進化を放棄した下等な存在だと認識しているはず。
神を潰したいのなら7位のユージーンなどにちょっかいを出すより、それこそ極陽や荻号を潰した方がよほど早いし効率的だと思うのだ。
神階を実質動かしている神というなら、むしろ荻号かもしれない。
それなのに何故彼等には目もくれず、ユージーンを殺そうとするのか。
アルシエルはユージーンを狙い、それをいうなら神々は恒にそれこそ異常なまでの関心があるらしい。
恒と、ユージーン……。このふたりの関係、一見何の関係もないように見える神々。
彼等は何者なのだろう。
彼女はユージーンの第0位使徒として仕えながら、何一つ彼の事など理解できていなかったのかもしれないと思った。
*
恒は荻号の後について、厳重に封鎖された明かりのない研究室へと入っていった。
暗闇に慣れた荻号とは違い、恒は暗闇の中、彼の灯した真空斑の御璽のあるライターの火だけを頼りに、奥へ奥へと入って行く。
途中、腕に様々な器具類が触れ、饐えた試薬の臭いと消毒薬のにおいが鼻について、じめじめと薄暗く床の上から水音がしていた。
おいおい、もっと爽やかな実験室にしてくれよ、研究もこんなんじゃ煮詰まってしまうだろうに、と恒はリフォームを提案したかった。
荻号はどれだけの時間を何の研究のために、この洞窟のような暗黒の研究室の中で過ごしたのだろう。
鬱屈した中世の怪しい錬金術師のような研究室で、どんな実験をしていたのかは暗くて窺い知る事すらできなかったが、ひたすらに不気味だった。
恒はあまりに中が静か過ぎるからか、得体の知れない生き物が暗闇の中に潜んでいるかのように心細くなって、先を歩く荻号の腰のあたりに捲かれている長い羽衣を両手でしっかりと掴み、はぐれないように気をつけた。
前をよく見ておらず暗かったのと、あとは荻号が急に止まったので、ドン、と彼の背中にぶつかった。
激しくぶつかってしまったから、フィジカルギャップで木っ端微塵だ……と思いきや。
荻号は恒と共にいるときにはフィジカル・ギャップを解除して、恒の頭は彼の丁度肩甲骨のあたりにめりこんだ。
ふたりきりになって大丈夫なのだろうか、織図にもついてきてもらえばよかったと考えたが遅かった。
ここは基空間に荻号が創り出し、荻号の部屋の書斎と繋げた亜空間だ。
絶対に漏れてはならない機密がぎっしりとこの研究室には詰まっているのだろう。
荻号が決めた手順を守ってドアを開かない場合、つまり侵入でもしよう者があればこの亜空間は自動的に消滅するように設計されている。
ちなみに、彼と最も親しい織図 継嗣もこの中には入れてもらったことがないそうだ。
恒は地上に帰る前に、そんな秘密の場所に連れてきてもらったというわけだった。
ユージーンはこの陰惨とした研究室の奥にいるのだという。
いくら半死半生とはいえ、こんな真っ暗な場所に監禁されているのかと思うと恒は胸がいたむ。
荻号は研究室の最奥の扉を開き、スイッチを入れて明かりをともした。
暗闇に慣れ始めた瞳孔に差し込んだまばゆい光が、恒の目を射るようだ。
カムフラージュをするように前室は古びた機器や怪しい装置ばかりが置いてあったが、奥の間は恐らく最先端の装置がひしめいている。
さきほどの埃っぽいじめじめした環境とは違って、中はクリーンルームとなっているらしく白く清潔で、50畳はあって広く感じられた。
荻号の指が示した先には、ひと一人入れられるほどの巨大な円柱の水槽が聳え立っている。
赤い液体の培養液の中にいるのは、……多分ユージーンだろうが、自信がない。
頭部がないから解らないのだ。
恒はそのグロテスクな姿を見てがっくりきて、研究室の床にへたりこんだ。
荻号は毎日治療にあたっているらしく、水槽の周りを廻って何か異変がないかをチェックしていた。
「やっぱり、あの時のままですか」
「少しずつ生えてきてるぞ。ほら、一昨日は頸なんてなかっただろ、今は頸と、顎も少し生えてる。この調子だとそうだな、1ヶ月というところか」
「とても信じられません……この状態で、生きているなんて。ユージーンさんは、特別なんですね」
「そういうことだ」
恒はできるだけ彼の頭部を見ないようにしながら、漠然とユージーンの入れられている水槽を見つめていた。
死なない、特別な神……恒はそれがとても彼にとって幸福だとは思えなかった。
あれほど止めようとした彼の自殺が失敗して嬉しいか、というと今は複雑な心境だ。
既に神体からは致死毒は抜けたので、徐々に回復へと向かっているのだという。
蘇った彼は、恒の事を覚えているのだろうか。
いや、恒のことばかりではない。
脳が一度すっかりなくなってしまった状態から彼が誰で、どう生きてきたのかという記憶まで取り戻す事ができるものだろうか。
ゾンビのように生き返っても何の意味もない、彼の心は失われてしまってはいないか……。
特別な徴は他にもあった。
彼の背中には、びっしりと奇妙な幾何学的な金色の紋様が描かれており、しかもそれは生き物のように蠢いていた。
胎動している、そんな表現がぴったりだ。
背中を這う寄生虫のようにおぞましく蠢く紋様……恒は荻号の袖をつかんだ。
「……これ、何ですか? すごく気味が悪いんですけど……」
「それは存在確率の鍵、スティグマ(聖痕)だよ」
「スティグマ? 何の? もしかしてユージーンさんは、それに気付いて……死にたくなっちゃったんですか? これがあるから特別なんですか?」
「ユージーンは知らないさ、奴の背を見たものだけが知ることになる」
荻号が何を言っているのかはわからなかったが、恒はもう、それ以上聞く必要はないと思った。
教師として、ひとりの神として尊敬した彼と、このグロテスクな怪物が同一人物だとはとても思えない。
恒は目の前の現象を受け止めるだけで精一杯だ。
”あなたは……誰なんですか、ユージーンさん。俺はどうすればいいのでしょう”
その答えは、彼ですらも知らないのかもしれなかった。
*
皐月は、これ以上はできないというほどの節約生活をしいられていた。
夏場だし、家庭菜園をはじめるしかないのかしら、という思いだ。
死神、織図 継嗣に渡鬼DVDボックス全巻を謹呈して今月の給料は吹き飛んだ。
しかも肝心のユージーンは顔だけ見せに戻ってすぐに逃げるし……。
大出費の理由はまだあった。
この夏、皐月は現金で新車を買っていたから、公務員の預貯金がどうこういう以前に実は殆ど貯金がからっぽだ。
貯めた金は資産運用中でおろせないし……。
貯金に手を付けたくはなかったから、繰り越していた食費で何とか間に合わせようと思っている。
ともあれ、あさってからは倹約倹約の夏休みだ。
皐月は新車でドライブがてら、少しでも食費を浮かそうと隣村にある安い野菜市場に向かっていた。
よく考えたらガソリン代の方が高くついてしまったかもしれないな、と途中で気付いたが、時既に遅しだ。
隣村との境目の、離合しなければ通れないくねくねと細い一本道を対向車の大きなワゴンがやってきた。
後続車がいるので皐月がバックをしなければならず、おっかなびっくりバックをして車幅の広い場所まで下がると、恨めしげに対向車を見送った。
白いワゴンの中にはひしめき合うように男たちが乗っていて、最初は土木や配管業の車かと思ったが、乗っている男の顔触れはなまっ白くて妙だ。
一番窓際の席に、眠りこけた髭づら男が乗っている。
皐月はその男に見覚えがあった。
社会行動学者、井村 博道、大学時代のテニスサークルの先輩だった。
彼の特徴的な髭づらを見て、皐月の頭は真っ白になった。
彼は確か某研究所に就職したとは言わなかったか!
OB会で一緒に飲んだ時に聞いた話だ。
社会行動学分野の研究職はあまり募集がなく、やっとこさ決まったのだと喜んでいた。
まさか……恒の言っていた、天使を捜しているという研究機関とやらが、朱音を見つけだしたのではないだろうか。
胸の動悸はおさまらない。
皐月は特価野菜を諦めると、すぐに車を切りかえして先輩のワゴン車を追った。