第1節 第24話 Was the apple tree happy?
"恒くんが……マインドギャップを3層とマインドブレイクを習得している……"
ユージーンはすがるような目を向けてくる恒を直視できなかった。
十歳の少年には、なしえないほどの技巧だった。
主神、極陽の息子である恒を侮ってはならなかったのかもしれない。
ユージーンは恒の成長が嬉しい反面、恒の将来を決して見守る事ができないことが心残りだ。
恒を、そしてこの村を守りたいと強く願う。
恒の成長を見届け、神としての道を歩むのか人として生きるのか、その決断を見届けたかったし、尊重してやりたかった。
それもどうやら、叶わないようだ――。
ユージーンは授業を終えると、子供たちが席を立つのと同時に逃げるように消えてしまった。
子供たちは彼を見失って唖然としていた。
学校でのんびりするつもりがないという事はマインドブレイクにより看破していたので、恒は授業を終えたら逃げるだろうとは思っていた。
恒は意識を研ぎ澄まして彼の気配を探る。
授業中に、彼がどこに消えても追跡できるようにユージーンのアトモスフィアの質感は覚えた。
彼のアトモスフィアは明るく鮮やかで、穏やかだ。
彼本来の性格がアトモスフィアに滲み出る。
死神 織図の重厚でこくのある感じとは違う。
近い!
しかもまだ校内にいる。
どこだ? すぐ上だ、六年生の教室のまだ更に上、屋上だ。
屋上には鍵がかかっていて、出られない事がわかっていたので、屋上に走る事はしなかった。
恒は天井を睨み付けた。
屋上で辞世の句でも詠んでいるのなら、ぶん殴ってやりたいところだ。
皐月とクラスメイトはユージーンを外に捜しに行って、教室に残ったのは恒だけ。
恒は誰もいない教室の窓を開け放ち、外に乗り出して上を見上げ、下を見下ろした。
腰の下を強い風が吹き抜けている。
ここは3階だ。
相当の高さがあり、落ちたら大怪我どころでは済まない。
真っ直ぐ上を見上げると、体を更に乗り出して窓を右足で蹴り付けた。
恒の身体は空中に投げ出され、ふっと腹のあたりが軽くなる。
空気音が響き、足の下には中庭が小さく見える。
恒は両手を広げ、ふわりと空に舞い上がった。
人間には持ちえない、飛翔能力は確かに恒に備わっていた。
視床下部にある斥力中枢を強い精神力でコントロールし、揚力を生み出す。
毎晩の訓練で、何度もおさらいした手順だ。
恒は昨日、家の屋根ぐらいの高さまでようやく飛べるようになったので、ここ、校舎の三階から屋上まではたった二階分。
体調もよいので、いつも通りにやれば届かない距離ではない。
恒は両手をぴんと上に伸ばしてぐんぐんと迫ってくる屋上を見逃さないように、目を見開いていた。
速度のコントロールがきかないので、しっかり前を見ておかないと行き過ぎてしまい、屋上に落ちてケガをする。
恒は目の前に見えて、すぐに通り過ぎそうになった屋上の手摺りをつかんだ。
手すりにぶら下がりながら屋上を見渡すと、やはりユージーンはそこにいて風岳の景色を見つめていた。
恒が手摺りからずり落ちそうになってジタバタしているのを見つけて、彼は少し困ったような顔をしながら恒を屋上に引き上げる。
ようやく生きた心地がして、固いコンクリートの床にがっくり膝をついた。
「ユージーンさん! まさかここで死のうってんじゃ、ないですよね!?」
「君は成長が早いね。マインドブレイク、マインドギャップを3層も作り、そして飛翔ができるようになったんだね。織図様の教育もあるのだろうが、君自身の努力もたいしたものだ。君はわたしなどより、素晴らしい神になれるだろう」
恒はユージーンが自殺できないよう腹のあたりにしがみついて抵抗する。切腹でも何でもできるものなら、やってみろといったものだ。
恒は身長が伸びたが、まだまだ彼と比べると小さいと感じられた。
「どうして死のうなんて思ったんですか! あなたはりんごの木になろうとしているんですか? あなたは途中で授業を終えたけど、あの話には続きがあります。りんごの木は死んだわけじゃない、切り倒され切り株となっても生きていて、年老いて帰ってきた少年の腰掛けとなるんです。あなたに何があったのかは解りません、でも死なないでください! 死んだら何も残りません! 切り株ですらも!」
ユージーンはしがみついて放そうとしない恒の頭に、ぽんと彼の大きな手を置いた。
何気なく置かれたその手は重く、熱い。
「恒くん、わたしは犠牲となるために死ぬのではない」
ユージーンは穏やかに述べた。
彼の心はもう固まっていて、そのための覚悟は出来ているようだ。
彼は天上で過ごした間に、何を知ったのだろう。
そして誰が、何が彼に死を強いているのか……。
恒はマインドブレイクをかけていたが、彼はそれを許さない。
恒はもはや自身のマインドギャップを解除した、こちらはありのままをさらけ出しているのに。
彼が恒を人間ではなく、一柱の神として見なして油断なくいることに深く傷ついた。
こんなの、酷いじゃないか……恒はユージーンに、ただ会いたかっただけなのに。
「俺はあなたが何を考えているのかわかりません。あなたがしようとしていることは間違っている! どんなに辛くても生きなきゃいけないって、あなたが教えてくれたんじゃないですか! どうして死にたいんですか!」
「君たちの幸福を願うのみならず、わたしがわたしであるために死ぬんだ」
「あなたを悩ませている問題を、俺にも聞かせてください。力になりたいんです! 俺はもう、以前の俺ではありません!」
ユージーンは言葉につまり、恒を抱きしめる。
黒いスーツが、真夏の太陽の光を受けてことさら温かく感じた。
恒は彼を引き留めることができないのではないか、そんな予感が沸々としてくる。
最後に顔を見せにきてくれてありがとうと、本当はそう言った方が彼は幸福だったかもしれない。
駄々をこねて嫌だ嫌だとしがみついて、それでも恒は彼を失いたくない。
「生きることは、満足に死ぬ事でもある。恒くん……君の行く道は決して平坦なものではないだろう。君は極陽の息子だったそうだね。でもその事に囚われずに、君の周りの人々の事もよく考え、そして君自身がどうありたいかを考えて歩むんだ。人として、そして神として――。さあ、わたしの選択も尊重してもらおうか。この手をはなしておくれ」
恒はしがみついたまま小刻みに首を振った。
絶対に放してやるつもりはない。
彼が呆れて、自殺を思いとどまってくれるまでは、手が千切れても放さない。
「恒くん、マインドブレイクを習得した君に、これを教えてあげよう。これはマインドコントロールといってね。対象の神経回路を、神のアトモスフィアで書き換える。距離が近いほど、施術には有利なんだよ」
恒の手は意思に反して、ギリギリとユージーンから離され、そのまま手を突き出した形で硬直してしまって動かなくなった。
いくら抗おうと思っても、ユージーンの強大なアトモスフィアにやられて、もう身動きがとれない。
アトモスフィアを駆使する事に長けた武系枢軸神と、神と名乗るにもおこがましい少年神との格の違いを見せ付けられている。
恒はもう一生力が使えなくなってもいいから、身体よ動け、動いてくれと祈った。
恒の無責任な祈りはどこにも届かない。
「さよならだ、恒くん。君と会えてよかった」
ユージーンは最後に微笑んで瞬間移動で消えてしまった。
彼が消えると同時に、恒はすぐに彼のアトモスフィアを探る。
彼は強力なアトモスフィアを備えているので生物階にいる限りは探知できる。
恒は織図から生物階に降下している神のアトモスフィアを探知する訓練を受けていた。
ユージーンのアトモスフィアは現在、生物階に降下している神のうち最も強大なものであるはず。
最も強い気配として感じる事ができる。
四方を見渡して彼のアトモスフィアを辿ると、僅かに感じる。
かなり遠くにいるが、生物階にいた。
だが、それは海をひとつ隔てた場所、日本ではない……。
恒はああ、と絶望的になった。
今からこの気配を辿って追いかけても、着いた頃には彼はもうこの世にはいないだろう。
彼の気配は感じるのに、そこにたどり着く事ができない。
織図から追跡転移を教えてもらっていればよかったと思った。
……いや、待てよ、織図は確かこういっていた。
追跡転移のやり方、恒は全神経を使って記憶の糸を手繰り寄せる。
『追跡転移なんてなおめ、まず無理だぞ。やり方は簡単なんだがな、え? 教えろって? 相手のアトモスフィアを感じたら、自分のアトモスフィアを相手のものと同調させる。同調ってのは、アトモスフィアの組成を変えるってことだ。同調したら、あとは瞬間移動をするときと同じだ。場所、この場合は場所じゃなくて対象だな、それを思い浮かべて転移するだけだ。だがお前はまず瞬間移動が出来ないんだから、無理だ』
恒は瞬間移動の方法を知らない、だが場所を思い浮かべて転移するという言葉は織図からもユージーンからも、荻号からも聞いた。
願うだけで叶うとは思わない、それでも、イメージをするというのは大切な事だ。
不可能とも思えるあらゆる事を可能とする。
恒はどこに何を集中していいのか分からないまま、彼のアトモスフィアを見失わないように意識を研ぎ澄ました。
彼のアトモスフィアを追跡して、転移するんだ!
”……俺がもしあなたの息子であり創造物だというのなら、せめて出来損ないにはしなかっただろ?”
恒はまだ見ぬ父親を挑発する。
恒は極陽の創造物に過ぎない、だがわざわざ彼の手によって恒を創ったのなら、決して悪いようには設計しなかっただろう。
その証拠に、恒には普通は10歳では決して備わることのないマインドギャップを3層も持っている。
実力などではない。
極陽がそういうスペックで設計したからだ。
恒は憎むべき父親が、せめて出来損ないに設計したのではないことを信じる。
瞬間移動という技術は、元来危機回避の技術だったそうだ。
危険な状況に置かれたとき、本能的にできるようになるのだと、織図が教えてくれた。
”使えないモノを創っても仕方がない、そうだろう。俺は追跡転移が、できるよな?”
恒は咆哮し決心すると、屋上の柵を飛び越え、屋上からまっさかさまに転落した。
”俺の中の本能、目覚めろ! 目覚めなければ死ぬぞ! 転移するんだ、ユージーンさんのところまで!”
恒の頭が中庭の岩に激突しそうになった瞬間、恒の姿は消えていた。
中庭で鯉に餌をやっていた生徒が、驚いて彼女のメガネを池の中に落としてしまった。
*
恒の身体は空間を越え、やはり中空に突然現われて墜落した。
ドスン、としたたかに地面に頭をぶつけた。
どの国に飛ばされたのかは解らないが、ここは山中で、腐葉土の上に落ちたおかげで怪我もなくすんだ。
初めての瞬間移動が成功したのかどうかは、彼の姿を見るまでわからない。
彼の姿を見るまでは、追跡転移が成功しているという保障もない。
恒は目に入った土をごしごしと拭いながら彼の気配を探した。
彼のアトモスフィアは確かにここにある、追跡転移は成功し、手を伸ばせば彼の身体に届きそうだ。
だが、この違和感はなんだろう。
恒はようやく土を目からかきだして、立ち上がった。
「ユージーンさん!!」
恒は倒れた彼の足を見つけた。
生きていてくれ、と思いながら這いつくばって顔を見ようとして、恒は膝から崩れ落ちた。
安否を確認しようとして見ようとした彼の顔は、そこにはもうなかった。
そこにあったのは、頭を粉々に吹き飛ばされた、彼の亡骸だった。
したがって脳下垂体から分泌されるアトモスフィアは失われ、頭のない死体は無言で蒼白となった恒の前に、ふかふかで温かな腐葉土の上に、ただただ物質として横たわっていた。
こんなものを見るために、恒は屋上から飛び降りたわけではない。
彼を死の淵から引き上げるために追いかけてきたのに!
恒がユージーンを追跡転移するまで、おそらく1分もはかかっていないだろう。
秒殺とはこのことだ。
彼は全ての手はずを整え、死に場所を選び、転移をしてここで息絶えた。
恒が最も敬愛した軍神 ユージーン=マズローはたった今、誰にも看取られないまま、誰の目からも隠れて、自殺により崩御したのだ。
”あなたは、幸福だったはずがない――! ユージーンさん!!”
恒は慟哭し、嗚咽した。
*
恒は携帯電話を持っていなかった事を死にたくなるほど悔いた。
恒ひとりで止めに行かずに、織図か荻号を呼ぶべきだった。
実力行使のできる荻号の方がよかっただろう。
恒は脳を吹き飛ばしたこの状態で助かるものではないとは百も承知だったが、あらゆる手段を尽くさず後悔をしないように、こんな状態だからこそ誰か見識のある神を呼ぶべきだと思った。
恒は今や追跡転移ができるようになった、生物階に降下しているほかの神々の気配をたどって転移することはできる。
だが彼、あるいは彼女が枢軸神ではなかった場合、できる事は限られている。
織図の気配は生物階にはない。
彼は昼間は神階にいて、夜になると恒を教育するために生物階に降りる。
織図が降りてくるまでは、あと8時間以上は、これを待っていたら間に合わない。
彼を助けたい、恒の気持ちはそれだけだった。
はっと、思い出したように、胸に手をやる。
ADAMから精神体でログインして陽階に入り、荻号に連絡を取る事はできないだろうか。
荻号のゲストカードは確かに恒の首から掛かっている。
いや、だめだ、だめだ。荻号は陰階参謀という特殊な立場で、連絡を取ろうとするだけで半日はかかるし、下手をすれば不審者で逮捕だ。
それよりはまだ、どこの外国なのかわからないが民家に入って電話を貸してもらって荻号の携帯にかけた方がいくらかましだ。
だがユージーンが最期に選んだ死に場所はどこを見渡しても木しか見えず、集落が近くにあるとは思えなかった。
恒はユージーンの亡骸とともに山中に取り残された。
恒は自宅の電話台まで瞬間移動を試みようとして思い留まった。
瞬間移動は追跡転移の下位術だ、もう恒は記憶にある場所なら世界中どこでも行ける。
だがこの場所に帰ってこれるのだろうか。
ユージーンは追跡転移ではなく普通の瞬間移動をしてここに来たのだから、この場所の特徴はどうにかすれば覚えられるのだろうが、それができるという確信が持てなかった。
この場所を見失ってしまうぐらいなら、ここから動かない方がよい。
恒はここから荻号が呼べないものかを考えるしかなかった。
彼の持ち物に何か携帯電話のようなものが入っていないかポケットをあらため、顔のない神体を裏返して、彼が何か持っていないかを必死で探した。
彼は手ぶらで来たようで、いつもなら肌身離さない携帯電話も何も持っていなかった。
彼の持ち物といえば、軍神固有の神具、G-CAMだけだ。
亡き主の命令を待ち続けるG-CAMは、主の亡骸に寄り添っていた。
「これしかない」
アトモスフィアの性質の異なる神具を扱うと、酷いやけどを負ってしまう。
それはユージーンが恒のDNAシークエンスを試みた際に、岡崎 宿耀から借りた神具がひどく彼の手を傷つけていた事から学んでいた。
素手で他神の神具に触れると火傷をする。
これは恒でも知っている常識だった。
だが恒はその常識を一旦忘れてしまう事にした。
神具はアトモスフィアの増幅、そして力学変換装置である。
フィジカルレベルが一桁台の恒のアトモスフィアでは、とてもこの神具を扱うには足りるものではない。
この神具に触れればどうなってしまうのか、余計な事はこの際考えないようにするしかなかった。
この神具を扱えるのかどうかもわからない、99%無理だ。
それでも、やらなければ確実に何も起こらない。
恒はユージーンの手に握られている神具にそっと手を翳した。
G-CAMは細く青い明滅を繰り返す以外は、何も反応を示さない。
"それでも俺は、お前の力を借りたいんだ。お前の主を助けたいんだよ! 頼むよ……"
恒の手はG-CAMの赤い柄の部分に触れた。
焼け付くかと思った手は、神具の柄をしっかりと握り締めていた。
恒は体中の汗腺からどっと汗が噴出すのを感じ、冷や汗が額から鼻先を伝って腐葉土の上に滴り落ちた。
”全神具、適合性――?”
恒は憎しみしか向けられなかった父親にこのときばかりは感謝する。
父親はどうやら、恒に全神具適合性をオプションとして付けておいてくれたようだ。
これがなければ、起動することはおろか、神具に触れる事すらできない。
神具に触れる事ができ、アトモスフィアの型が一致すれば、神具は基本的にいう事をきくものだ。
今G-CAMは、主ではない恒の手に渡ったという事に気付かず、ユージーンが大怪我を負うか何かでアトモスフィアが最小になっているものと錯覚している。
ユージーンのアトモスフィアを元手に、G-CAMを騙して、荻号と連絡をとる。
そこまでできれば、それさえできれば――。
恒はユージーンの手を外すと、足を広げて踏ん張って、恒の体重より重いG-CAMを持ち上げた。触れる事ができれば、あとはあの機能に頼るだけだ。
織図について学んでいてよかった!
「システム、ナビゲーションモード、オープン。音声コマンド入力を許可してください」
これはどの神具にもついている音声コマンド機能だ。
織図の神具、16 von Louis(ルイ16世の鎌)を眺めて色々質問をしていたお陰だ。
はじめて神具を手にした神は、神具の使い方が解らない。
取扱説明書もついているが、紛失した時の為に音声ナビゲーションモードがどの神具にもデフォルトでついていると織図が教えてくれていた。
ナビゲーションに従って操作すれば使えるようになる筈だとのこと。
織図は恒が少し疑問に思って質問した事に何でも、面倒くさがりながらでも必ず答えてくれた。
織図がいなければ、自分はこの瞬間も教室でユージーンの姿を捜しているしかできなかっただろう。
”System console, accept."
(システムコンソール 了解しました)
恒はG-CAMが恒の言葉を受け付けたことで、もう飛び上がって喜びたかった。
そんな事をしている場合ではない。G-CAMのどこからともなく聞こえてくる英語の音声は女性の合成音声で、柔らかな口調だ。
「神具間連絡機能をナビゲートしてください。連絡対象は相間転移星相装置です」
”Accept."
(了解しました)
恒のアトモスフィアでは到底足りない筈だが、ユージーンの亡骸の傍にまだ漂っているアトモスフィアが駆動を手助けをしてくれているのだろう。
G-CAMは全神具適合性を持つ恒とユージーンのアトモスフィアの残りかすで、恒をユージーンだと錯覚している。
G-CAMの基盤が頼もしく脈打つように光り、演算をしているのがわかる。
恒はがっくりと膝をついた。
何という重さだ、肩が抜けてしまいそうだった。
”Creating a connection with the System of Correlating Mobile STAR……connected."
(相間転移星相装置と接続中……接続しました)
荻号はユージーンの危機に気付いて、必ず来てくれるだろう。
恒は力尽きてその場にぐったりと倒れ込んだ。
ユージーンの隣に倒れ、異国の夏草が口の中に入りながら、生物階に強大なアトモスフィアが突如現われたのを感じた。
アトモスフィアを感じる事ができるようなって、初めて感じた荻号のアトモスフィアは強大といったものではない。
もう他の位神の気配が吹き飛んでしまうほどの巨大な気配の塊だ。
こんなに恐ろしい神だったのか、と恒は再認識する。
その気配が恒の頭上に現われた時、恒は疲労困憊で意識を失ってしまった。
*
どれほどの時間が経っていたのだろう。
意識がブラックアウトしていた恒は、ふかふかの布団の中で目を覚ました。
瞼をぎゅっと閉ざしたまま感じるのは僅かに漂う古い本の匂い。
このまま何もかも忘れて眠ってしまいたかった。
だが、何かを忘れているような気がする……決して忘れてはならない大切な事を。
「ユージーンさん!」
恒は思い出して、ガバッと布団から起き上がった。
古い洋館のような部屋の奥のソファーに、織図と荻号が座ってお茶を飲んでいた。
図書館の中にいるのかと思うほどの聳え立つ本棚の下に、二柱はくつろいでいる。
ここは生物階ではない、ということはすぐにわかった。
織図や荻号の気配のみならず、無数の神々の気配が恒の周囲を360度取り巻いて存在感を放っている。
恒は二柱の顔を見てほっとして、しかしすぐにベッドから跳ね起きた。
織図は大きな両手を拡げて恒が飛びついてくるのを待っていたので、遠慮なくいかせてもらった。
「よう、恒。お疲れだったな。さすが俺の弟子だ、G-CAMを使って荻号さんを呼びやがった。お前は天才か」
見慣れた織図の顔がこれほど、懐かしいとは思わなかった。
織図は仕事着である黒衣を纏っていて、恒をまるごと包む。急速に冷たくなってゆくユージーンの体温を感じていた恒は、織図の温かさにほっとした。
「よしよし、怖かったな」
「織図さん、あなたから教わった全ての事を尽くしました……それでも、ユージーンさんを止められませんでした」
織図は褐色の手で頭をぐりぐりと撫でる。
織図の黒衣の間から見えた荻号はいつもの冷静な表情で、生物階からG-CAMを拾って持ってきていた。
恒はどんな経緯でここにたどり着いたのかは想像もつかない、だが荻号が迎えに来てくれたことだけは確かだ。
「ユージーンさんは……自分で頭を吹き飛ばして」
「ああ、G-CAMに自殺プログラムをセットし、彼自身が開発した猛毒を服用したようだ」
荻号は紅茶など飲んで本を読んでいる。
それはないんじゃないか、と、恒は思った。
一柱の神が自殺により崩御したというのに、その態度はないだろう。
沈痛な面持ちの織図に比べ、荻号には彼の死を悼む様子はない。
荻号は長く生き過ぎて、感情が麻痺してしまっているのか?
恒はどうしても尋ねなくてはならないことを見失うことなく、荻号に尋ねた。
「ユージーンさんは、やはり亡くなられたのですよね」
「死んでみないと、納得しないだろうからな。勝手にさせたまでだ」
味気ない口調の荻号をたしなめるように、織図が恒に配慮する。
荻号の寛ぎようからすると、ここはどうやら荻号の書斎のようで、古い洋館のような間取りに、アンティークな家具類が取り揃えてセンスよく配置されていた。
恐ろしげな絵画や、書棚には医学書や物理学書、心理学の本、あとは辞書類が所狭しと並んでいた。
彼は確か勤勉な読書家だ。
闇を好むようにカーテンを閉め切り、薄暗がりのランプの下には、ページがめくれたまま置いてある分厚い本があった。
「恒、ユージーンは死んでいない。爆発した脳みそも残らず持って帰って、さっき荻号さんが処置をしたから。毒も奴自身の自然治癒力で解毒しやがるだろうし、安静にして回復を待っていれば百万回死んでもまた蘇る」
荻号は外科医だというが、脳を吹き飛ばした状態でどうやって手術をしたというのだろう。
相転星の機能を駆使すれば不可能ではないのだろうか。
恒は零れ落ちそうになっていた涙を、また目の中に押し戻した。
「え?」
「ユージーンは不死身だからな。死なないのさ。いかんせん、奴はそれを知らなかった」
恒はその意味を反芻して考える事もなく、へなへなと力が抜けて織図に再びしがみついた。
荻号は彼が百万回死のうと試みたとしても、全く興味がなさそうだった。
荻号には最初から、ユージーンが決して死ぬ事ができないという事が分かり切っていたのだろう。
自殺をしたければさせてやればいい、その程度に思っていたようだ。
つまりりんごの木は、決して切り倒す事のできない木だったということだ。