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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第23話 Return of Eugene

 ユージーンは意識を取り戻す。

 執務室のデスクの上に伏せ寝して、12時間が経過していた。

 中庭の見える窓の外の景色を疑似太陽が照らしていることから、日中であるとわかる。

 中庭には模造生命の青い鳥や栗鼠たちが、餌をついばんでいるのが見えた。

 もう何十年も見慣れた光景、だが今日はまた新しくより美しい。


 ともあれ荻号と約束した7日間という死の期限まで、残すところ6日半。

 もうすぐ嫌というほど寝ることになるのだから、睡眠時間が惜しい。

 ユージーンは腕時計の跡のついた頬をごしごしとこする。

 荻号に猶予期日を数日と約束したのは、決心を鈍らせないためにだ。

 それに、ユージーンが死を選ぶと知って各方面から引き止めが入らないとも限らない。

 そう決めた以上、僅かな時間の間にしなくてはならない事はたくさんあった。

 次代軍神への業務引き継ぎは以御が抜かりなく行ってくれるだろう。


 だがユージーンが崩御してから次期軍神が任命されるまでの間、生物階の治安維持業務は完全に止まる。現在、大きな紛争や戦争は起こっていないが、世界中に展開させている軍神下使徒への指示を予め発しなければ以御の権限だけでは殺害司令が出せず行動ができない。


 ユージーンが懸念しているのは、過去に実際にあったようなケースだ。

 崩御した先代軍神ミネルヴァと現代軍神ユージーンとの引き継ぎの期間(1930年代前半)に、以御はその権限で暗殺すべき対象に暗殺の司令が下せず、ファシストの台頭を許し、最悪の世界大戦へと発展させた。


 即位後すぐに窮地に陥ったユージーンは多くの犠牲を出しながらも終戦を迎えた。

 今は平和とはいかないが、比較的世界情勢は安定している。

 仕事は中途半端なまま決して満足のゆくものではなかったが、平和な世界を遺して逝ける事を誇りに思う。

 ふと、美しく整頓された透明なファイルボックスの中に、神階では見慣れない材質の封筒とメモを見つけた。


 このメールボックスはユージーンが不在の間に来たプライベートな書簡を保管しておくためのものだ。

 一体誰からだろうと取り上げ、封筒を見て驚いた。

 封筒の裏には、吉川皐月とある。

 皐月の思いや村の様子がたくさん綴られているであろう手紙を開封すべきか逡巡した。

 死の決心が鈍ってしまわないだろうか、そう考えたのだ。

 彼は封筒を開封せず机の端にそっと置き、羽根ペンを取って以御に権限を譲渡する書類にペンを走らせはじめた。

 すると外からノックの音がして、返事も聞かないまま以御が入ってきた。

 ユージーンは書類を手早く隠した。

 以御にこんな遺書じみたものを見られてしまっては、死ねるものも死ねなくなる。


「起きたか。人間からの手紙を織図様が届けて下さったが、読んだか?」

「まだ読んでいない」

「手紙ぐらい、すぐに読んでやれよ」


 以御が開封するのを待っているようなので、封を切るしかなかった。

 手紙など速読術を以ってすれば1秒もあれば読むことができるが、彼が一枚目を読み終えるのにしばしの時間を要した。

 手紙には、恒が神として生きる道を選び自らの足で歩み始めたこと、村の様子、メファイストフェレスのこと、皆寂しがっているということ、クラスの子供たちの様子、それらが皐月の繊細な筆力と豊かな表現力によってありありと目の前に浮かぶようだ。


 恒は充分な決断力もないわずか10歳という若さにして人生を終えてしまった。

 もしユージーンが恒と会えるのなら、恒に何か言ってやって欲しいと書いてある。

 5枚目を読み終えたあたりから、ユージーンは驚愕する。

 何と、石沢朱音が使徒だったというのだ。

 朱音にはまだ事実を知らせていないが、誰がいつどのように告げていいのか分からない。そして朱音が天上に上がることなく、人間として生きる道はないのだろうか、など。


 ユージーンが地上を離れた間に、風岳村では深刻な事態となっていたようだ。

 処刑されていた間に、彼らは彼らで過酷な現実に立ち向かっていた。

 自分ばかりが辛かったのではないな、とユージーンは猛省する。

 皐月の手紙の最後は、たとえ全ての神々がユージーンの行為を非難したとしても、皐月は豊迫巧を救ってくれたユージーンの勇気と深い慈悲を忘れない、という言葉で締めくくられていた。

 ユージーンは切なく感じて表情を曇らせる。


「読んだか、ユージーン。極陽への謁見のアポイントをどうするか、念のため聞いてから手続きをしようと思ってな」


 あれほど直ぐに謁見をしなければと急いていたのに、それを一旦後回しにした方がよいとの思いがもちあがる。

 一旦といっても、時間などほとんどないのだから、永遠にだ。


 恒と志帆梨を長年に渡って苦しめていたのは、ユージーンの上司にして神々の長、ヴィブレ=スミスだった。

 ユージーンは陽階神であり、極陽の勅令は完遂しなければならない、しかし何の因果か、任務が頓挫し失敗に終わってユージーンは真実を知った。

 極陽がユージーンをどのように利用しようとしていたのかもわかった。

 彼の息子である恒の人生を極陽は躊躇することもなく断ってしまったのだ。

 ユージーンは極陽が恒にした行為を許すことができない。

 極陽の思惑通りに動いてやるつもりはさらさらない。


 ユージーンは自らの死をもって最後の抵抗を見せようと決めた。


「いや、少し待ってくれ。任務の報告はあとにさせてくれ」

「俺が嘆願の提出に関する正式な礼状は出しておいた、身体罰の後だ。静養していると言えば、報告が遅れても構うことはないだろう」


 以御はそれだけ確認すると、さっさと退出していった。

 以御が去った後、ユージーンはもう一度風岳村に戻ることを決意した。

 戒厳令のさなかに、勅令を無視してグラウンド・ゼロへと降下する事は明確に違法だ。

 が、もうそんなことは関係ない。

 ユージーンを待っていてくれる人々を蔑ろにして、彼らと二度と会うこともなく永遠の別れを迎えるほうが罪深い。


 荻号の計算だとINVISIBLEが収束するまでにはまだ時間がある。

 ならばもう一度風岳村に戻り、しかるべき人々に、地上を去らなければならない時が来たと説明してから死にたいと願った。

 再びゲイルがユージーンを逮捕しにかかるかもしれないが、逮捕される頃にはもうユージーンはこの世にはいない。


 陳腐なシナリオだが、それでいい。

 それで充分だ。

 生物階降下の正式な手続きはもうしない。

 法も徹底的に違反する。

 神階の門(ヘヴンズ・ゲート)に直接申請して、以御を介さずに手続きをし、風岳に光獣の(ほう)で行く。

 一度風岳に降下すればもう神階には戻って来ることができないだろうから、そのために今日は書類を作る日に充てる。

 ユージーンは再びペンを執った。



 石沢朱音は算数の授業中、週末に大好きな洋楽のアーティスト達の集う野外コンサート行くことで頭がいっぱいだった。

 福岡にいる従兄弟の姉が、野外コンサートのペアチケットが当たったから一緒に行こうという。

 朱音の好きな歌手も来るということで、誘われた。

 新幹線の駅まで朱音の母親が見送って、博多に着いたら従兄弟が新幹線の前まで迎えに来てくれるというので、一人旅でもよいと朱音の両親も納得した。

 新幹線に乗るのははじめてだし、父親が本家の長男であり、母親もこの村の出身だということもあって、県外への旅行自体が初の試みである。


 博多に行ったら何をしよう!

 昨日はそればかり考えてほとんど眠れなかった。

 キャナルシティに行きたいし、屋台のラーメンを食べてみたい。ラーメン店めぐりもしたい。でもそんなにラーメンばかりはお腹がいっぱいで食べられないだろうし、何かは我慢しないといけないのだろうな、ああ、どれも捨てがたい。

 そんな幸せなことばかりを考えていた。


 先日、クラスでは4ヶ月ぶりに席がえがあって、恒は朱音の2つ前の席になっていた。

 朱音の事をいつも観察していたかった恒は皐月とメファイストに席を替えて欲しいと要請したが、恒だけ特別にというわけにもいかなかった。

 目が悪いので席を前にしてほしいという要望なら不自然ではないが、席を後ろにして欲しいという理由は特に思いつかない。

 皐月とメファイストフェレスは朱音から目を離さないと約束したので、恒はしぶしぶ前列の席に座っていた。


 その日、授業の終わりに、皐月は久しぶりに抜き打ちの実力テストを実施した。

 恒は彼らが手こずっている問題を誰より早く解き終わって、彼の更に前の席に座る巧の後頭部を見ていた。

 巧の単純な思考回路が、恒の訓練された目にはありありと視覚化された。

 頭蓋骨の裏に目を凝らし、わずかに走る活動電位がどこに局在して、どの細胞と連結してどんなネットワークを作っているのかを解剖学的な知見から読み解く。

 これがマインドブレイクの手順だ。

 まるで線香花火のような、巧の弱々しい思考回路が見える。

  問題が解けていない証拠だ。


”……巧、2問目がわからないんだな。そこの答えは3だ。”


 恒はあらゆる人間の心が読めるように、毎日クラスメイトでマインドブレイクの練習をしていた。

 人間はマインドブレイクを邪魔するマインドギャップがないので、この時点で全ての人間のマインドブレイクができなければ、神に対しての看破など絶望的だと織図は説明していた。

 恒はできるだけ多くの人間の考えを、できるだけ短時間で看破することが課題となっていた。恒はだんだんと、凝視しなくても相手の考えを読めるようになった。

 それはマインドギャップ(心層)が形成されてゆくのに呼応するかのように、相手の考えを看破するのが楽になっていった。


 だから恒がこの時振り向いてさえいれば、朱音の思考を看破し、福岡という大都市に行こうとしているという事を止めることができたかもしれない。

 早く終わった人から提出して休憩を取っていいと皐月に言われて一番にテストを提出し、朱音を振り返った時には、もう朱音は算数のテストの最終問題に集中していた。



 メファイストフェレスは職員室でテストの採点をしながら、気もそぞろだ。

 もうすぐ夏休みがやってくる。


 生物階の暮らしも軌道に乗ってきた。 

 職員たちとも打ち解けてきたし、クラスの子供達もかわいらしい。

 ユージーンの代理を務める陸上部の指導も順調だ。

 もうすぐ夏休みで、陸上競技の大会も目白押し。

 選手達のタイムも上がってきたし、予選通過タイムも何人か突破している。

 陸上部は目に見えて強くなってきた、今年はいける、そんな実感があった。

 彼らの今後を見届けたい。しかし、こればかりはどうしようもなかった。


 今朝、マクシミニマの電報機能を通じて、メファイストフェレスの父にあたるセルマーから連絡があったのだ。

 セルマーは解階の権威ある人類心理学者で、これまでも何度か生物階に入階した娘を心配した、やや過保護でお節介じみた連絡はあった。


 生物階は神々や使徒が屯して危ない場所だし、ユージーンに殺されたことになっているメファイストが神々に見つかれば命はないのだから、早く帰ってきなさいと父親は何度も電報を入れる。

 毎日ではないが、結構な頻度でだ。

 朝の電報チェックは、メファイストフェレスにとって段々と億劫なものになってきていた。

 すっかり住み慣れた社務所のトースターでトーストを焼き、ミルクをレンジにかけつつ電報を読んだ後、彼女は愕然とした。

 解階の統治者であり女皇 アルシエル=ジャンセンが本日付けでメファイストフェレスを召喚しているのだという。

 帰っておいで、ではなく、帰らなくてはならない。


 この呼び出しは”チチ キトク カエレ”にも匹敵する、詔勅しょうちょくだ。


 彼女の主であるユージーンの命令を破ってでも、解階の皇の勅令に従い、帰らないわけにはいかなかった。



 比企は50枚にもおよぶ書類作成に一日を費やした。

 比企の普段の仕事のペースからすると断然遅いのだが、この書類はそれなりの時間をかけねばならなかった。

 提出時期をいつにするべきか、実はかなり以前から躊躇していた。

 絶好の好機とはいかないが、やはり今をおいてほかにない。


 INVISIBLEがらみの事がなければ腰を上げようともしない彼の師、荻号 要がここまで起動を封印してきた相転星を敢えて起動し、陽階で動きを活発化させているということは、INVISIBLEがそれほどの猶予もなくグラウンド・ゼロに介入してくる可能性が高い。

 比企は水晶製の卓上カレンダーに目をやり慶日や忌日がない事だけを確認し、揃えた書類の全てにサインをし、血判、御璽印を捺し厳封して、彼の第一使徒である響 寧々《ひびき ねね》にそれらを託した。

 この女使徒は軍神、ユージーンの第一使徒、響 以御の姉にあたる白翼の使徒だ。


 寧々は弟と違って完全な白化個体であり、髪の毛や肌は雪のように白く、瞳は白ウサギのように赤い。

 DNAワールドの常識に反し、使徒の白化個体はとりわけ優秀な知性と強靭さを併せ持つ最高の血統として知られており、他の使徒と比較した際の偏差値は90を超える。

 第一使徒に白翼の使徒が多いことは、彼らの血脈の際だった秀逸性を証明している。

 白化個体を産んだ親使徒は、一人っ子政策をとる神階の掟の中で特例として多くの子を残す事が許されていた。

 響三姉弟、長女寧々は完全白化、長男以御は翼だけ白化、次男(さとる)も翼だけが白化している。

 三姉弟の中でも最も優秀な白化個体である寧々は比企の右腕として、彼を長きにわたり支えてきた。


「主よ、やや時期が尚早かと窺われますが」


 彼女は一度比企が決断したことに対して決していらぬ口を差し挟んだりすることはなかったが、今度ばかりは違った。


「荻号が動き始めている、もう少し猶予があるかと思っていたが、そうもいかなくなった」

「勝算はございますか?」

「分からぬ事を申すな」

「比企様。どうしてあなたは、極位に固執なされるのですか?」


 彼女が手渡された書類は、主神に位申戦を挑むための正式な書類だ。

 比企は再び極陽の座を獲んとして、極陽、ヴィブレ=スミスに挑む。

 二度目の提出となる。

 何故、今でなくてはならないのか。

 極位に対する位申戦は陰陽階に激震をもたらす。

 ユージーンの不祥事により極陽の責任が問われ、逆に比企の支持率は順調に上がってきているが、まだ磐石の布石とはいかない。

 時期尚早だ、と寧々は思っていた。


「己は極位に固執しているのでも、極陽に恨みがあるのでもない。だが、極位を狙うからには対外的に分かりやすいモチベーションが必要だ。己の為すべきことは荻号を殺す事のみだ。今の極陽は荻号の傀儡となっている。極陽の権限は事実上神階の意思だ、得体の知れぬ怪物に、いびつに歪められたままではならない。己は極陽となり、どんな手を尽くしてでも荻号を殺す。なすべき事はそれだけだ。したがって極位の獲得は手段であり、目的ではない。歴史を我等の手に取り返さなければならない」


 彼女の主は、いつも荻号の殺害を画策している。

 だが、法の裁きを畏れずに彼を殺そうとしたとしても、最強神荻号を殺すことなど無理だ。

 彼は力に偏っても智力に偏ってもいないAX(文武型)と呼ばれる均整の取れたバランスをしており、しかもフィジカルレベルも測定不能、謀殺も実力で殺すこともできないときている。


 さらに百歩譲って荻号を殺したところで、比企には何のメリットもない。

 ユージーンのあとに続き、罪に問われて厳罰を受けるだけだ。

 法を違えるということは、法を司る神にあるまじき行為。

 はっきり言って馬鹿げている。

 寧々は比企が荻号の名を口にするたび、またかと項垂れる。

 彼の成そうとしていることは、不死とも思われる荻号を殺し天地を覆そうとしているようなものだ。


「何故、極位を獲らなくてはならないのですか。あなた様は表向きには、生物階の直接統治を旨とされていらっしゃいます。急進派として極位を狙う事は、現代極陽を支持している大多数の陰階神を刺激します。適切な時期をお選びになられて、またの機会になさっては」


 寧々は穏やかに進言した。

 考え直してくれるのではないかと思ったからだ。


「己は極陽の生物階不干渉政策について、特にどうこう思うところはない。だが彼の荻号に対する姿勢は不適切だ。もし彼が荻号にしかるべき態度で臨むというなら、己が極位を狙う必要もない。荻号は陰階において絶大なる支持を集めている。今の己の地位のままでは、喩え荻号を殺すことができたとしても、第二位とはいえ陽階の一神が陰階参謀を弑逆(しぎゃく)したとあっては、かかる後に陰階と陽階との全面戦争になりかねない。極陽は陰陽階の統括権を持ち、戒厳令を発布できる。荻号を殺した後の混乱が少ないのは後者の方だ。とく手続きを進めよ」

「あなたは、荻号様の何を、知ってしまったのですか……」

 

 それほどまでに比企が畏れなければならない荻号という存在。

 比企はもともと荻号を尊敬して弟子となった筈だった。

 弟子であるが故に知ってしまった荻号の謎……それは比企しか知らないことだ。

 慶祝日や忌日がないので、これからおそらく数日以内に、陽階の長を決する大決闘が始まるだろう。


 極位に挑む位申戦は特殊な形式をとる。

 文型、武型の両側面からの勝負で優劣をつけるのだ。

 通常の位申戦は知恵比べか力比べで決着がつくが、極位をかけた位申戦では競い合う項目が10項目にも及び、厳然たる勝敗がつく。

 この規則が定められているのは、XXの神はXXの神にしか挑めないという掟を守ると、極陽がXXだとAAの神は挑めないし、逆に極陽がAAだとXXの神は挑めないからだ。


 神々の長、極位たるものは文武両道に優れた者でなくてはならない。

 だからたとえXXの神でも極位に挑む際には、武力での力比べが必須だ。

 そこで極位は自然とAXを名乗る神から多く輩出された。

 位申戦は1年以上間隔が開けば、何度申し込んでも構わない。

 だが、位神の体面にも関わるため、勝算がなければ挑まないものだ。


 前回の位申戦から300年が経ち、比企は格段に力をつけた。

 それでも、まだ極位を手にするに充分だとは思えない。

 主神 ヴィブレ=スミスはそれほどに強力な相手だ。


「一体、どうなってしまうのかしら」


 勝敗の行方など何一つ分からないまま、寧々は渡された書類を大事に両手で掲げ持って、位申戦を取り仕切る総務局に提出するために執務室から出て行った。



 上位使徒と偽った偽の身分証を持って使徒階8層にオフィシャルバード(光獣)を取りに行くまでの間、光獣番役に擬装した白いフードを顔がかくれるようにすっぽりと着たユージーンは道すがら、全員に別れは言えないまでも、出会う全ての使徒に声をかけた。

 彼らは顔の見えない誰かに声をかけられたと思って特に気にも留めないだろうが、それでいい。

 彼等はすぐに新しい軍神に仕え、その姿を見る機会には見舞われないだろうから。

 軍神の代わりはいくらでもいる。

 下位の使徒にとっては軍神が誰であっても、彼等の給料であるアトモスフィアを支払ってくれさえすれば気にしない。

 アトモスフィアバンクには他の神々の余ったアトモスフィアが保管されているだろうから、使徒たちが飢え死にすることもない。


 ユージーンは血液バンクからありったけの自己血を引っ張り出して、大きなバッグに詰めてきた。

 50Lはあるだろう。

 上島にありったけ渡して、不治の病に苦しむ人々や進行癌患者の治療、創薬研究の為に使ってもらうつもりだ。

 神階随一の治癒能力を持つ血液を輸血用のバンクで眠らせておくのは愚策だ。

 彼のアトモスフィアを希釈したカートリッジも持ってきた。

 これは朱音のためにだ。

 アトモスフィアは放射性物質で絶えず壊変、崩壊してゆくため消費期限は半年だが、安定剤入りのアンプルは凍結しておけば3年は使える。


 文型神である織図のアンプルをもらっているようだが、身体能力の優れた武型神であるユージーンの方がアトモスフィアの質がよく、長く代謝を補えるので、織図のアンプルを使いきったあとのために渡す予定だ。

 それで彼女が人間社会で暮らす事のできる時間、タイムリミットを延ばせるだろう。

 土産というには味気ないが、朱音にとって必要なものだ。

 上島に土産を渡して最後に社務所に行き、全てのデータを以御の端末に転送すればもうやり残した事はない。

 あとは気に入った場所で死ぬだけだ。

 物理的な死に方では誰かに見つかった場合、傷を癒され蘇生されてしまう可能性がある。

 荻号は黙って死なせてくれるかもしれないが、医神で外科医である紺上が助けてしまうかもしれない。


 確実に死ぬためには秘策があった。

 神をも殺す致死毒・RDA-92を持ってきた。

 このRDA-92は、服用すれば一秒もかからず即死する毒薬だ。

 ユージーン自身が岡崎 宿耀(おかざき しゅくよう)と共に暗殺すべき人物を出来るだけ苦しませずに殺すために開発した。


 この毒薬には解毒剤も拮抗剤もない。

 しかも生体時間を戻しても不可逆的な壊死により蘇生は不可能である。

 体に入った瞬間から細胞を破壊し、まず神経を切断して次々と臓器を出血させ、脳を破壊する。

 血流に入ったが最後、助かる手段はない。

 この毒薬は神であろうと人であろうと使徒であろうと瞬殺する。

 自分で開発したのだからその効果は知っている。

 間違いなく死ねるだろう。

 それを飲んだ直後に、予めプログラムしておいたG-CAMで脳を木っ端みじんに吹き飛ばす。

 これで完璧だ、いかに紺上が天才外科医でも蘇生などできはしない。


 ユージーンは第8層のゲートを通過し光獣の檻までやってきた。

 光獣番役が不在だったのでほっとして、檻を開け放ち巨大な白隼の鳳の背に乗った。


「さあ、鳳。最後の勤めを頼むぞ」


 白隼はピーッと汽笛のようなさえずり声を上げると、快晴の空に舞い上がった。



 皐月はメファイストフェレスの様子がおかしいことに気付いていた。

 どうしよう、彼女は何かを隠している。

 その証拠に、彼女は自習と黒板に書き、プリントを配ったまま、2時間目の国語をすっぽかしていた。

 皐月は久しぶりに国語の授業をするため、教壇に立った。

 皐月が敢えて教壇に立とうとしたのは、メファイストがもういなくなってしまうのではないか、と、そんな予感がしたからだ。

 もともと一人でこなしていたのだから、副担任であるユージーンとメファイストフェレスがいなくなったからといって、授業をするのに困るわけではない。

 だが彼等の存在は、子供達の大きな心の支えとなっていた。

 暗くなってしまった子供達の顔を見渡しながら、皐月はわざと微笑んでみせた。


「今日は私が授業をします。今日は文法をしましょう。53ページを開いてください」

「あの、先生!」

「何?」

「え、いえ、何でもありません……」


 子供達はメファイストフェレスがどこに行ってしまったのかを聞きたかったようだが、皐月が授業を始めてしまったので諦めた。

 皐月は久しぶりに縦書きの板書をしながら、教科書を脇にかかえた。


 日常が戻ってくるのだ、ユージーンもメファイストフェレスもいなかった頃の日常が……。

 寂しいなんて思いもしなかったのに、寂しくてやりきれない。

 彼等に遭えたのは奇跡だ。

 皐月は少し涙ぐんで声が震えたので、わざとらしいほど大きく声を張り上げた。

 授業中もメファイストの行方を気にしていた恒は、何に気付いたのか大きく目を見開き、ふっと廊下に首を向けて……授業中にも関わらずゆっくりと立ち上がった。


 恒が何に気付いたのか、後ろに座っていた子供達はつられて廊下の方に目を向けた。

 大きな皐月の声に紛れて、足音が教室に近づいてくる。

 

 教室の前の扉が、ゆっくりと、そして静かに開くのが見えた。

 全ての子供達がそちらに注目し、皐月も遅れて左側の扉を振り返った。

 そこに立っていたのは、黒いスーツを着た金髪の男だ。


「国語の授業を、しましょうか」


 クラス中の子供達という子供達から、割れんばかりの歓声が上がった。


「長い間留守にしてしまって申し訳ありません。授業を始めます。静かに、さあ、席について」


 ユージーンは両手をかざしてストップ、とやったので子供達は飛びつきたい衝動を抑えるのにやっとだった。

 授業が終わって休憩時間になったら飛びつきに行けばいいことだ、今は我慢するしかない。

 皐月はもう何も言えなくなって嗚咽していた。

 天上に手紙を送ってから、わずか2日後の帰還だった。


「お帰りなさい、先生」

「ご心配をおかけしました。お手紙、ありがとうございました」


 皐月はユージーンに教壇を譲り、後ろの席に行って静かにハンカチで目もとと鼻を拭っていた。

 恒も他の子供達と同じように彼との再会を喜びたかった。

 彼が風岳村に戻ってきたということは、戒厳令が解除されたのだろう。

 ユージーンには話したいことがたくさんある、そして自分の神としての成長を見て欲しい――。


 教室は先ほどの様子とはうってかわって一気に私語が多くなり、がやがやと賑やかになった。ユージーンは皐月から渡された教科書を閉じ、予め刷っておいたプリントを配り始めた。

 神階で暢気にプリントを作っていたのかと思うと、恒は気が抜けてしまった。

 プリントに印刷されていたのは、英語の童話の翻訳だった。

 恒はこの話を知っていた。

 どうして、復帰一発目の授業で、こんな題材を扱うのだろう……。


「今日は教科書はやりません。この話をしたくて、プリントを用意していました。The Giving Tree(大きな木)。シェル・シルヴァスタインという人が書いた童話です。Once there was a tree…and she loved the…」


 昔、大きなりんごの木があった。

 りんごの木は毎日のように木の傍にやってくる少年を深く愛していた。

 ある時は少年の遊び場となり、心地よい木陰やおいしいりんごを与えた。

 少年を喜ばせる事は、木にとって大きな喜びだった。

 やがて少年が成長してゆくにつれ、少年の願いは段々と大きなものになっていった。


 それは木にとって大きな代償を要求するものだった。

 少年が家が欲しいと言ったときには、自分の枝を切ってゆくように提案する。

 そしてボートを作りたいと言った少年に対し、木はもうあげられる枝はないから、自分を切り倒してボートを作ってはどうかと提案する。

 少年は木を切り倒し、木は切り株だけになった。

 それでも木は幸福だった……果たして木は、幸せだったのか。こんな話だ。


 小学生である恒のクラスメイトには解らないだろう、この本の著者は自己犠牲に対して大きな問題提起をしている。

 どうして、こんな話を持ってきたのだろう……この木はまるで、無償の愛を人々に与えるユージーンそのひとの生き方だ。


 恒は震えながら、教壇のユージーンを見上げた。

 彼はまだ英語と翻訳をかわるがわる読みながら、時折生徒達の顔を見ている。

 恒は意識のすべてをユージーンに集中した。

 どうして、どうしてこんな話をはじめたんだ……それは恒にとって無意識の事だった。

 だが不思議と、成功してしまった。

 恒は二、三度首を振り、涙が込み上げてきた。


「ユージーンさん、どうして……自殺するって、どうして……」


 そのわずかな声を、言葉を聞いたユージーンが弾かれたように恒を見つめ、5層ある彼のマインドギャップを展開し、恒のマインドブレイクから彼の思考回路を守った。

 そして逆に恒のギャップに対してマインドブレイクをかけているのがわかる。 


 二柱の神々の静かで、しかし激しい攻防は一瞬のうちに行われ、その結果、どちらの思考も看破できなくなった。

 ユージーンはまさか恒が心層看破を習得しているとは思わずに、心層マインドギャップを作っていなかったのだ。


 恒はユージーンの強い思いを看破した。

 神の思考回路を読んだのは、これが最初だった。


 彼は、この授業が終わったら、すぐに自殺をしようとしている――。


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