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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
23/117

第1節 第22話 The LEGISTLATION, 比企 寛三郎

 メファイストフェレスはその日の朝、職員室で皐月を見かけるなり、いきなり抱きついた。


「おはようございます、メリー先生。どうされましたか? あ、また朝顔が咲きましたか? たくさん咲いたんですか?」


 メファイストフェレスはこの時期毎日のように社務所に咲く朝顔の花を楽しみに育てていた。今日はいくつ咲いた、何色がいくつだと皐月に報告するのが日課のようになっていた。


 彼女は社務所を模様替えして、村の雑貨屋で買った涼しげなガラスの風鈴を軒先にぶら下げ、日差しが入らないよう窓には簾をかけていた。

 そんな彼女と一緒に、皐月は社務所でそうめんなどを食べたりして夜の時間を過ごす事が多くなった。

 夜になるといつの間にか、スケッチブックと宿題を持って天野凛もやってくる。

 凛がどうしても一人で寝るのが怖い夜は、社務所でメファイストフェレスと一緒に寝ているそうだ。

 すっかり彼女も村に馴染んでしまった。

 メファイストフェレスの腕力は強いので、ギブギブ、とやらなければ皐月は窒息してしまいそうだ。


「違うわ、皐月。主の刑期が短縮されて釈放となったの。GL-ネットワークのヘッドラインに出ていたわ」

「え、ユージーン先生が!」


 皐月の顔が綻んだ。


「でも、ユージーン先生はもうこの村には戻って来れないのですよね」

「そうね、今この村に降下できるのは織図 継嗣という神だけよ」


 皐月はメファイストフェレスに聞いて、恒が織図の教育を受け始めたという事を知っていた。織図にはまだ一度も会った事はない。


 なんでも藤堂家に夕方に来て、朝には帰ってゆくのだそうだ。

 恒は神としての修練の道を選び、それに向けて歩み始めた。

 皐月がどう諭しても、もう止める事はできないのかもしれない。

 だがユージーンなら彼の凝り固まった決意を解きほぐし、恒を止めてくれそうな気がした。

 ユージーンにもう会えないというのだろうか。

 巧のことが原因で逮捕されてしまったとはいえ、これでお別れなんて、あまりにも勝手すぎる。


「もう二度と、ユージーン先生にはお会いできないのでしょうか。皆待っているのに、子供達も……」

「そうね……あの日を境に、主との連絡は途絶えたわ」

 

 皐月はこれが今生の別れとなることに納得がいかない。

 子供達だって皆彼の帰りを待っている。

 口に出しては言わないが、どの子供達もふとした拍子にユージーンの名が出たとき、寂しそうな表情を見せていた。

 恒だけは、ユージーンの話を口に出さない。

 彼は地上で彼の帰りを待とうとは思っていないようだ。

 恒は織図の教育を受けるようになって、日ごとに精悍さを増してきたように思える。

 本人は何も語らないが、人格の成熟を思わせる。

 皐月は放課後、帰宅途中の恒を引き止め、校庭の見える高台のベンチに呼び出して二人で腰掛けた。

 恒はまた更に背が伸びて皐月を追い越して、以前より逞しく見えた。

 恒は皐月の思った以上に心身ともに成長していたようだ。


「お話って何ですか」

「ユージーン先生が釈放になったみたいなの」

「え! ……そうですか」

「嬉しく、ないの?」


 恒は少し困ったように俯いた。

 嬉しくないはずがない、だが恒が考えている事は感情を超えたもので、もっと複雑な事情だ。


「でも……彼はもうこの村には戻って来れません。帰ってきたら相談したい事が、たくさんあるのに」

「相談したいこと?」


 恒はこの悩みを、皐月には素直に話すことにした。

 朱音は彼女の生徒でもあるのだから、話しておいた方がいいと思ったのだ。

 その後の朱音のことだが、織図は恒を通じて上島に小さなカートリッジを1ダースほど渡していた。

 下位の使徒に支給される神のアトモスフィアを希釈した薬剤だ。

 黒いカートリッジには織図のアトモスフィアが希釈されて製剤化され、自己投与できるようセッティングされている。

 もう恒のアトモスフィアでは彼女を養いきれないし、まだ朱音とは面識を持っていない織図と接触させるのは難しかった。

 月に一度の投与、1ダースということは一年分が用意されていた。


 このアンプルが彼女の命を繋ぐ秘薬だというなら、もっと大量にこれをもらえば彼女は天上に上がらなくてもいいのではないかと恒は安易に思ったが、そうではないのだと織図に叱られた。使徒が長く地上に留まる事はアトモスフィアの問題だけではなく、かなりのリスクを伴う事なのだという。


 それはある国連下部組織の存在があるのだそうだ。

 使徒の存在は太古より知られてきた。

 宗教画に出てくる天使や、天狗として人々は昔から使徒を目撃していた。

 それらは神秘現象として片付けられていたが、とうとう科学が神秘を暴こうとしはじめた。


 使徒を生け捕りにした一人の研究者によって使徒の実在が明らかとなり、この数十年間で六十名もの怪我をして衰弱したような使徒が研究のため彼等に囚われたのだそうだ。

 単純に年間一名以上が捕まっている計算となる。

 そうやって捕らえられた使徒を神階は切り捨て、救出には乗り出さない。

 神と神階の存在は現代の主神によって秘匿されているからだ。

 囚われた使徒はアトモスフィアの供給を断たれ、餓死するのみ。

 彼等は強い忠誠心に支えられ、彼らの正体を決して明かさずに絶命する。


 検体を生きた状態で確保するため、人類による使徒たちの捜索と捕獲が日常的に行われているのだそうだ。

 その組織は、人間と使徒を区別する装置を開発していて、いくら翼を不可視化していても見つかってしまうという。

 つまり朱音が地上で人間として暮らす事は不可能なのだ、と織図は断じた。


 こんなド田舎なのに、と恒は閉口したが、監視装置は世界中のあらゆる都市に各国の国家予算を投じて設けられており、例えば朱音が修学旅行に行っただけでも複数の監視装置に検出され発見されてしまうのだという。


 しかも風岳小学校の修学旅行は来年で、場所は京都だ。

 主要都市から設置されはじめたという監視装置は、まず設置されているといっていい。

 朱音は新幹線や飛行機に乗った事がないと言っていたので、これまでは大きな都市に行った事がなかったために見つからなかったのだろう。


 最近では大都市のみならず、市町村にも監視装置の設置を始めているらしい。

 人間以外の知的生命体が人間社会で暗躍していて、しかも何をしているのか解らないとあっては、国としても放ってはおけないのだろう。

 文部科学省の大きな予算がついて、使徒を燻り出すためのローラー作戦は国家によって大規模に、だが極秘裏に行われていた。


 そのうえ、朱音の血液型は確かO型だ。

 O型という血液型は、A型の抗原もB型の抗原もないというだけで、それが直接人間であるという証拠にはならない。

 つまりO型の人間は人間でない可能性がある。


 Rh型の検査も行われているのだろうが、恐らく抗原を持たない朱音は(-)だ。

 その組織は人間と使徒とを区別する為に、O型Rh(-)を持つ血液型に注目して、健康診断と銘打った血液検査のデータを集める事によって、人間社会に紛れ込んだ使徒をあぶりだしているのだという。

 O型の人間を調べるだけでも、随分とソートがかけられる。


 人間である母親の血を半分受け継いだ恒の血液型はA型で、精密検査の対象にはならないだろう。

 だがO型Rh(-)の血液は精密検査が行われる。

 使徒の血液成分は人のそれとはまったく異なるため、精密検査では必ずばれる。

 監視装置か血液検査、どちらも回避できない。

 そんな情勢の中、国家が血眼になって捜している使徒を地上に置いてはおけないだろう、と織図は言うのだ。


 さらに、彼女は世界で一例もサンプルのない翼の生えていない子供の使徒だ。

 研究者が手に入れたくならない筈がない。

 皐月は恒から聞かされた事の深刻さに、途中からひどい頭痛がした。


「どうしましょうか。俺、最近の悩みはずっとこれです」

「藤堂君。あなたはいつも何かに悩んでいるのね。確かにこれは、とても難しい問題だわ。でも私は石沢さんを守りたいし、その為なら何だってしたい。修学旅行は違う行き先を提案してみるわ」

「ありがとうございます、助かります。でもいつかは、知らせないといけない時が来ます。それはいつなんでしょう、俺には決められません」


 恒は時間がきたといってベンチから立ち上がった。

 強い日差しが差して、彼の表情は見えなくなった。


 約束をしていた時間に巧と隼人が恒を迎えに来たので、皐月は彼を見送る。

 恒は友人らと合流するころには明るい表情に戻った。

 大人顔負けの精神力だな、と皐月は脱帽した。


 皐月は誰もいない放課後の教室に戻ると、デスクの中からピンクの花柄の便箋を取り出し、さらさらとペンを走らせはじめた。

 美しい楷書体で、彼女は「ユージーン先生へ」と宛て、手紙を書き始めたのだった。

 一枚だけと思っていた手紙は10枚にもなり、教室の中がすっかり暗くなって手元が見えなくなった頃、彼女は最後の行に吉川 皐月と署名をして終えた。

 外ではメファイストフェレスが陸上部の練習を終える号令を発していた。


 皐月は残った職員に挨拶をして帰りの支度をすると、ピンクメタリック色の自転車にまたがって夜道を走った。

 目指すは風岳村のはずれ、山の中腹に位置する一軒家、藤堂家だ。

 皐月は坂道の下に自転車を置いて、徒歩で坂道を上っていった。

 山道は真っ暗だが、皐月は迷う事はなかった。


 恒が不登校だった時期に、毎日のように通った山道だ。

 むしろ懐かしくすらある。

 最後のヘアピンカーブを曲がると、外灯が暗闇の中に眩しい。

 皐月は志帆梨によって修理された新しいインターホンを押した。

 建てつけの悪かったドアは修理されていて、すぐに恒がドアを開けて出てくる。

 夕飯の準備をしていたのか、香ばしい匂いが皐月の鼻をくすぐる。


「どうしたの、先生、わざわざ」

「ごめんなさいね、突然お邪魔して。神様にお会いできる?」

「え? はい。いらっしゃいます。お会いしますか? お入り下さい」


 皐月は志帆梨が戻ってすっかり生活感のある部屋になった居間に通された。

 皐月が来たというので志帆梨が驚いて出てきて、その節はどうも、とやるのだった。


 皐月も志帆梨とは病室で会ったきりだったので、彼女の元気そうな様子を見て安心した。

 恒は今、神として自身を鍛えながらも、母親と幸せに暮らしているのだとわかってほっとする。

 居間のテレビの前には、魔法使いのような黒い衣を纏って寝転んでいる織図という神がいた。


 皐月は荻号に会った際に、神の実力は必ずしも見た目で判断してはならないのだと了解していたので、お気に入りの番組を見てニヤニヤしている神を見ても、もう驚かなかった。

 織図はいつもと違う気配を察して振り返る。


「織図さん、俺の担任の吉川先生がお会いしたいそうです」

「ん? ああ」


 織図は今気付いたというそぶりで身体を起こすと、ゆっくりと振り返って皐月を見上げた。


「はじめまして。吉川 皐月と申します」


 皐月は謙って、畳の上に正座をして丁寧にお辞儀をした。


「そうだろうな、確かに吉川皐月だ。間違いなく、完璧に。さらに独身なうえに、彼氏もいないときた。愛媛県出身、趣味は……」

 

 それ以上喋らせないためにはどうしたらいいのか、と皐月が赤面する。


「おみそれいたしました。神様にお願いがあって伺いました」

「俺は死神だが、モノ申す相手を間違えていないか?」

「いえ、織図様、あなた様にお願い申し上げます」

「昔から死神に何かを願うなんざ、ろくな内容じゃない」


 少なくとも織図は、死の今際に人々が願うことといえば、寿命の延長と命乞い以外の願いを耳にしたことはなかった。


「大変不躾で厚かましいのは承知しております。この手紙を、ユージーン様にお届けしていただけませんか?」


 恒はあっ、と吃驚した。

 どうして思いつかなかったのだろう。

 こういう方法でなら、いくらでもユージーンと連絡をとることができただろうに。

 さすが、皐月は目の付け所が違うな、と黙って様子を見守っていた。


「よりによって死神に使いを頼むとは、いい度胸だな」


 使い走りに使うなど、聊か無礼にあたるかもしれない。


「ご無礼の段は平にご容赦下さい、しかしあなた様にお頼り申し上げるしかないということもお察しいただきたいのです」

「俺は郵便配達じゃないからな、無償でというわけにはいかない。そうだな……何をいただこう」


 織図はわざとなのか、素の顔なのか底意地の悪そうな顔をしてみせた。

 皐月は彼が死神だということで、当然何か代償を取られるとしたら当然、自分の寿命なのだと思っていた。

 これはどんな伝承でもお約束だ。

 死神と取り引きをする時には、自分の命を削らなくてはならないと、皐月はそんな覚悟でやってきていた。

 そうやって皐月の命を縮めてでも、この手紙だけは彼に届けて欲しかった。

 志帆梨ははらはらとして、両者の顔を交互に見守っている。

 皐月の顔色は青ざめて緊張しているが、たじろがなかった。


「私の寿命でも何でも、お好きなものをお取り下さい、しかしその手紙だけは」

「先生……後悔しますよ」


 恒が横から口を挟む。


「藤堂君は黙っていて。後悔なんてしません! お願いします」


 恒は呆然と皐月を見つめた。織図の欲しいものは決まっている。

 よいのだろうか。

 皐月は大変な後悔をすることになるだろう、そして織図は一度約束を取り付けたら反故になどさせない。

 皐月にはその覚悟があるのだろうか?


「そうだな。決めた。渡鬼のDVDBOXを全話、耳をそろえていただこうか」


 皐月はあいた口が塞がらなかった。

 志帆梨もほっとして、後ろでくすくす笑っている。

 そうだ、織図 継嗣という神はドラマや映画のDVD収集に余念がない。

 恒はどうせその類の事を要求するのだと思っていた。

 しかも短編ではなく、より手に入りにくいシリーズものだ。


「だから後悔するって、言ったのに……何十本買わなきゃいけないんですか。一本一万円ぐらいするのに…皐月先生のお給料がぶっとびます」

「いーんだよ、公務員で独身貴族は金貯めてんぞ」


 織図は地方公務員をひどく誤解している。

 国家公務員の話なのではないだろうか。


「………! ……ちゅ、中古でもいいですか?」

「中古? それが手に入らないから言ってるんだろ」


 何を取られるのかと緊張して固まっていた皐月はやはり後悔しながらも、少しはほっとして織図に手紙を託した。



「……猶予はあと3年、確かに3年あるのですね」

「確かにそうだ。俺の演算でもそうだし、お前が極陽から与えられた勅令からもいえることだ。極陽は3年以上の滞在を命じなかったか?」


 ユージーンはあまりにも重大な局面に際して、逆に自分の思考が冷静になってゆくのを感じていた。

 波立っていた水面が凪いだかのように、穏やかな気分だ。

 荻号の話は一貫していて、少しも疑うべきものではなかった。

 確かに極陽から与えられた任期は5年間だ。


 全ての謎の答えは、自身の中にあった。

 彼はあらゆる事をいくつも同時に理解した。

 やはり、そうするしかないのだと、何度も彼は彼自身に問いかけ、確認した……。


「極陽はお前と恒を引き合わせ、お前が恒に強靭な精神力を身につけさせることを望んでいた。そうして3年をお前と共に過ごした後、恒は全てを飲み込む理解力と、お前を封じる事を受け入れるだけの精神力を備えた状態でグラウンド・ゼロにいる、そんなシナリオができていたのだろう。その後はINVISIBLEがお前の中に収束するのを待っていればいい。……お前にはあと3年の猶予がある、その間にお前自身が世界をどう導くか、よく考えるんだな」


 荻号はできるだけ早く事実を告げ、ユージーンに与えられた短い猶予期間のうちに、彼に考える時間をやりたかった。

 彼に全てを押し付ける事になってしまうが、それがあるべき未来へと向かう一番自然な形だ。INVISIBLEに選ばれたユージーンが誰に強いられる事もなく、彼の決断した通りにそうすることが重要だ。

 たとえその結果が三階の滅亡であっても、どれだけの物が滅んでも、滅びは必ずINVISIBLEの意思によって再生へと繋がる。

 荻号はありのままの世界を受容すべきだと考えていた。


「荻号様、わたしのとるべき道は一つです」

「お前、ちっとは考えろよ。世界の存亡に関わる問題なんだぞ」


 ユージーンはきつく唇を結び、背を正して凛として、もう何を言っても説得に応じそうにはない。


「わたしは、命を絶ちます」


 荻号に全てを告げられてから僅か10分後、第四の選択肢を見つけたユージーンはもう自らの運命を決して、選択肢を全て放棄してしまった。

 荻号は彼の答えを聞いて、何で早まったことを言い出すかな、と額を押さえた。

 そしてコメントする。


「ユージーン、それは……無駄だと言っておくぞ」

「よいのです、あなたは先ほど、どんな結末を選んだとしてもそれを受け止めて下さると仰いました。わたしの決断を尊重してください」


 荻号はとんでもない決断を下してしまったユージーンを引きとめようとした。

 何にも考えず、そんな事をされては困る。


「だがな……」

「命の価値は平等です、誰かだけを特別だと思った事はありません。多くの犠牲を人々にも使徒達にも強いてきました。わたしが死ぬ事で三階が救われるというなら、躊躇する理由などありましょうか。もう決めました、後悔などはしません。ですが…少しだけ生を振り返る時間を下さい。ほんの数日でいいのです、逃げ出したり隠れたりはしませんから」


 彼の言葉は堂々として、とても死の淵にあって喉元に刃を突き立てようとする者のようではなかった。

 彼は人々を殺してきた、使徒を犠牲にしてきた。

 その罪を忘れてはいなかったのだ。


 自分の命を差し出す機会が来たら、いつでも身を投げる。

 彼は最後まで公益のために生きる公僕であろうとした。

 しかし満足な最期を迎えるため、彼は自らの存在と向かい合うためのほんの僅かな時間を欲したのだ。

 彼が命を懸けて下した決断を、荻号は尊重することにした。


「そうか、では俺はもう何も言うまい、じゃあ、な。ユージーン。残念だ」

「荻号様、今まで本当にありがとうございました。あなたのような偉大なお方と今生の出会いができましたこと、光栄に存じます」


 彼は立ち上がり、荻号に向かって今生の別れを惜しむように深々と金色の頭を下げた。

 荻号はもう何も言わず、振り返りもせず執務室を出て行った。


 荻号は丁寧にドアを閉めると、ふと足を止めた。

 執務室のドアの裏には、以御が張り付いて何もかも、全てを聞いていた。

 荻号はそれをも最初から知っていたかのように、以御の胸の辺りに、とんと彼の手の甲を当てて声を潜めた。


「聞いたか、そういう事だ」

「………しかし」

「いい。やりたいようにさせてやれ」


 荻号は薄く微笑むと、以御の腕の辺りをぽんぽんと叩いて、そのままどこへともなく歩いていった。

 ユージーン帰還の知らせを受けて出張から飛んで戻り、参内をしようとしていた廿日が、思いがけず訪問していた荻号に深く一礼をしているのが視界の端に見えた。

 廿日は荻号の姿がすっかり見えなくなるまで微動だにしない礼をして見送ると、立ち尽くした以御の傍に駆け寄ってきた。

 廿日は状況を理解できていないが、一つだけ解ったことがある。


「何があったか知らないけど、荻号様は、全てをご存知のようね……」

「……昔いまし、今いまし、荻号要という神は全ての事をご存じでいらっしゃる」

「荻号様は、一体何者なのかし……」


 廿日がそう言いかけたところで、以御はその口を塞いだ。

 神階にはそれに触れるだけで消されてしまうという、三大タブーというものがある。

 神階の三大タブーはINVISIBLEに関する事、神々の出生に関する謎、そして荻号の正体だ。

 その謎に迫ろうとした者は、消されてしまう。

 誰もその謎を解いた者はいない――。


「その謎を、解いてはならない」


 以御は荻号の姿がない事を確認してから、やっとそれだけ言った。



「では、私はこれで……」


 皐月は織図にまた深々とお辞儀をして、いとま乞いをしようとした。

 食事どきなので、これ以上お邪魔をしていたら迷惑だ、と思ったのだ。


「吉川先生、どうぞお夕飯を食べて帰ってください」


 志帆梨が気を回す。


「いえ、お気持ちはありがたいのですが、もう私はこれで失礼します。ご飯どきに上がりこんでお邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」

「構いませんよ。さ、こちらへ。ね、織図様もよろしいですよね?」

「んー、ここは俺んちじゃないからな、奥さんがいいんなら俺がどうこう言う権利はない」


 皐月は志帆梨に強く勧められ、多少遠慮をしながらもテーブルについた。

 案内されて食卓を見ると、会席料理のような豪華なご馳走が並んでいる。

 野菜の炒め物、天ぷらから、季節の酢の物、手作りの豆腐、手作りの漬物、くずもちのデザートまである。

 志帆梨の料理の腕はなかなかのもので、料亭に出しても恥ずかしくないような上品な盛り付けだった。


 恒がここのところ、思い出したようにすくすく成長しているように感じられるのは、この料理のおかげなのかな、と皐月はほほえましく思った。

 箸を付け、天ぷらからいただくと、さくっ、ふわっ、と皐月の口の中で料亭の味がした。


「お母様、失礼ですがお料理がお上手ですね。お店に来ているみたいです」

「実はですね、お恥ずかしながらこの冬から、村の商店街に創作料理の店を出そうと思っているんです」

「ええっ! おめでとうございます!」


 皐月は志帆梨の報告を聞いて、自分まで嬉しくなって小さく拍手をした。

 恒と、その母親はそれぞれの人生を歩み始めているようだ。

 皐月と志帆梨は雑談をしながら二人で食事をとった。

 恒と織図は先にすませていた。

 皐月は料理好きだったので、二人でレシピを交換したり教えあったりして意気投合していた。


「吉川先生よ、食べ終わったらちょっと面白いものを見ないか」


 織図に呼ばれ、志帆梨がどうぞどうぞ、とやるので、皐月はすすめられるがまま織図の隣に座った。


「教え子の鍛錬の成果を見てけよ」

「え?」

「恒、おさらいだ。吉川先生の今朝食べたものを全部当ててみろ」


 皐月は織図の軽い調子の言葉を聞いて、背筋がぞっとした。

 表情のこわばった皐月に困惑して、恒は安心させるようにへらっと微笑みかけた。

 こんな笑顔を見ると、彼がたった10歳の子供だったのだなと思い出す。


「そんなに怖がらなくても大丈夫です」


 恒は皐月が頷くのを見るなり、これ以上ないほどに集中した顔を見せた。

 皐月の目を見ているのか、頭や髪の毛のあたりを見ているのか解らない。

 だが確かに、覗き見られている。


「わかった。今朝の先生の食事は、ベーコンエッグ、納豆、ヨーグルト、トマトのサラダ、そしてフランスパンだ。すごくバランスのとれた食事ですね」

「と………と、藤堂君!」


 皐月は自分の朝食が何だったかをすら、もうすっかり忘れてしまっていた。

 恒の言葉によって思い出す。

 朝食は皐月のアパートで一人で食べた。

 誰も皐月の朝食を知る者はない。


「今やったのがマインドブレイクです、先生。マインドギャップが3層になって、遂に昨日できるようになったんです!」

「ふふ。私も何度実験台にされたことか」


 志帆梨が食器を片付けながらそんなことを言っている。

 少し見ない間に、こんな事が、訓練によりできるようになるだなんて。

 彼の教師でいることすら、もうじき許されなくなるのだろう。

 彼は神々の世界に近づきつつある。

 自分は神になる、ならなければならないのだと泣いていた無力な人の子であった恒と迎えたあの朝が、もう遠い日のように感じられた。


「それから、ちょっとだけですけど」


 恒は跳ね起きると、両手を拡げて片足立ちをし、爪先立ちになり、最後に爪先を畳から離した。


 皐月は絶句した。

 恒は宙に浮いているのだ。

 皐月は確かに恒の足先が床から離れて宙にいるのを目撃したのだった。

 織図はぼんやりと恒を見上げて、確認するように手をかざした。

 先ほどからこの織図という神の視線は、焦点が合っていないように思える。


「おい、また右側が集中できてないぞ」


 彼女は思わず首筋の辺りに手をやって、皮膚を少しつまんでつねってみた。

 やはり痛……、そう思った時、織図のわめく声が聞こえる。

 恒はバランスを崩して織図の上に墜落していた。


「あたた、痛えぞ!」

「あ、ごめんなさい。見ました!? 皐月先生、俺、飛べるようになったんです」

「それは飛べるうちに入らねえって、10秒もできねーんだからよ。はー、やっぱりお前は純血の神じゃねえから、なんつーの? センスが悪いっつか? その分、マインドギャップはタケノコみたいにすぐできるし。もっと均一にならなかったものかね」

「藤堂君……あなた、本当に藤堂君なのよね?」

「そうです」

「……いいえ。あなたはあなたね」


 皐月は恒を様々な角度から眺める。

 何度見つめても恒は恒のまま。

 鍛えられ、学び、常識では考えられないような事が次々とできるようになっても、恒は恒だ。


「あなたは、きっといい神様になれるわ、藤堂君。もう、止めないから」


 恒は絶対にそうなってみせる、と力強く頷いた。



 陽階第3位、智を司る女神、リジー=ノーチェス、置換名 彌月みつき 天鵬てんほうは切れた細糸をたぐりよせて検めた。

 彼女の神具、漂泊者の竪琴(Wanderer Silverlyrar)の弦が切断されたためだ。

 陽階参謀である彼女の漂泊者の竪琴は銀色の竪琴型の神具であり、あらゆる情報を同時に記憶し把握する諜報機能を持つ。

 人々や神々の行いを識るための諜報行為は合法だった。


 彼女は一度生物階降下をした折から、絹索によって衆生を見守る不空絹索観音として生物階には知られている。

 だがその姿は、仏像などに表現されているような多面多臂だったりはせず四肢は一対のみだ。

 観音としての姿は彼女がそれだけ膨大な智を一度に統べる事ができるという比喩であろう。

 彼女はミルクティ色の緩いウェーブのついた髪の毛を腰まで伸ばして、純白のウェディングドレスのような聖衣を身に纏う、美しく愛らしい女神だった。


 リジーはインフィニティ・ストリング(果て無しの弦)と呼ばれる竪琴の弦を陽階や生物階に張り巡らせて諜報活動を行っていた。

 先程から繰り出していた弦が、何本か切られて竪琴が不協和音を奏でている。

 ユージーンとファティナの執務室に繋げておいた弦だ。

 荻号はここ最近陽階に滞在しているらしく、彼が存在しているだけでその強大なアトモスフィアで弦に負荷がかかり、ブチブチと彼の足跡をたどるように切れるのだった。

 その弦を張り替えるのには、多大な労力を要した。


「おのれ我が神具を、いとも簡単に切ってくれる」


 少女のような顔をして言い草は猛々しい。

 ゆったりとしたソファーに腰掛けた彼女の隣で分厚い本を読む白髪の男は陽階第2位、立法神、比企 寛三郎だ。

 彼は静かにリジーをたしなめた。

 物腰の柔らかな神だ。


「やめておけ、荻号はお前の手に余る」

「もう少しでユージーンとの会話を盗聴できましたものを」


 リジーは切られた弦を繕いながら悔しがる。

 彼女の手に携えた弦は、遠い場所の音声を拾う事ができる。

 彼女が漂泊者の竪琴を起動している時には、無数に盗聴を仕掛けているような状態だ。

 比企はそんな彼女を見遣る事もなく、手にした分厚い本を読み耽っていた。


 彼の聖衣はまるで日本の宮司のような和服だが、着付けるのに時間がかかるのと動きづらいので、今日は簡素な私服を着ている。

 ここは陽階上層部第142階にある比企の執務室で、比企を慕うリジーは日課のごと彼のもとを訪れていた。

 彼は読書家で、常に何か分厚い本に目を落としている。

 仕事の書類だったり、資料だったりした。

 彼はいつも何がしかの本を読み、24時間働いていた。


「荻号に盗聴など不可能だ」

「気付かれるからですか」

「そうではない。荻号は発音をしていない、盗聴できる筈がないのだ」


 比企は穏やかにつぶやいた。

 リジーは切れた弦を繕う事をやめ、比企の話に耳を傾ける。

 比企はもともと陰階神で、荻号が唯一認めた弟子だった。

 比企は荻号のもとで半世紀あまり学んだが、ある日突然陰階神を辞し、陽階神としての叙階を希望した。

 実質、陰階神である師の荻号とは袂を分かった形だ。


 だが何故彼が誰もが羨む最強神、荻号の弟子という立場を自ら放棄してしまったのか誰も知る者はなく、彼も荻号に関して口を開いた事はなかった。

 荻号の謎は、三大タブーに触れることだ。

 比企と最も懇意にしているリジーにすら秘匿していた。

 比企はリジーより随分年下だったが、彼女は心から比企を尊敬していた。

 比企がこんな話をしたのは初めてだ。


「今、何と?」

「荻号は声を出さない。彼は相手の脳に彼の意志を直接送り込んでおる。荻号は口を同時に動かすので発音していると錯覚するのだが、実際のところ、彼は話せない」


 完全なる身体を持つ神といえども、障害を持つ者はいる。

 織図は発見された当初から目が見えなかったそうだし、耳の不自由な神も少ないが確かにいた。

 だが神は他の能力に長けているので、それはまったくハンディキャップとはならない場合が多い。

 織図は視覚に頼らない物事の捉え方をしているし、耳の不自由な神はちょっとした空気の流れや振動を肌で感じる事で、健常な者と遜色ないほど音を感じる事ができた。


 荻号は声を出せない神だ。 

 それを補う為に、思念を直接脳に伝えるという方法を編み出したのだろうか……どちらにしろ、リジーは初耳だった。

 比企はどうしてこんな事を話してくれる気になったのだろう。

 荻号はこの何百年も、全くといっていいほど何もしなかった。

 それがグラウンド・ゼロの問題が起こり始めたこのタイミングで、これまでの彼としてはありえないほど積極的に活動を始めたのだ。

 それを比企は警戒しているのだろう。

 彼は敵対しながらも、荻号という謎に神階で最接近できた神だった。


「そういう、障害ですか?」

「わからん」

「……やはり、謎多き神ですね」

「彼は神などではない」

「神ではないと? あなたは彼の弟子だったのでは? 神ではない、とはどういう事ですか?」

「汝は歴代の極陰の名を少し挙げる事ができるか? そこに書いてみるがよい」


 リジー=ノーチェスは、比企に手渡されたまっさらのメモ用紙に、まだ生物階に人間がいなかった頃、つまり置換名も通名もなかった時代の極陰の名を20名ほど神語での名を書いて挙げてみた。

 比企はずらりと並んでゆく名前のうち半分ほどの名前に、赤ペンで○をつけはじめた。

 おかしい、○がつかなかった名前は違っているというのだろうか。記憶は確かだ、そうでなくて智神など務まらない。

 リジーはそう不服に思いながらも、比企には不快感を露にしない。


「それ以外は間違っている、ということですか?」

「己が印をつけた名を持つ極陰、それは全て同一人物だ」

「……ま、まさか!」


 比企は深く頷いた。


「そう、彼は記録に残るだけでも8万年以上前から神階を暗躍し支配している、名もなき怪物だ。己は神階と生物階を、かの者から我々の手に取り戻したい。彼は神ではないのだ。誰かが怪物を屠るべきだ」


 リジーは比企が、荻号をいつか殺すつもりなのだと震え上がった。

 最強と謳われ続ける荻号と、彼の唯一認めた弟子である比企との間の、最強の師弟間での壮絶な謀略と殺し合いが。


 これから行われると知ったから。

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