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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第21話 The ETHICS, Jesus Chirist

 ジーザス=クライストは世界的に彼の名として知られた陽階神だ。

 ヘブライ語ではYhoshuah ha-Mashiah(香油を注がれた者であるイエシュア)として知られている。

 彼の秘蹟は2000余年という歴史を様々な言語で伝えられてきた。

 世界にも彼ほどその名と略歴を知られている人物はそうそういないだろう。

 英語であるジーザス=クライストという呼称を受け入れて、今ではそれを名乗っているようだ。


 最近の彼はアラム語・ヘブライ語に加え、英語も好んで話すようにもなった。

 生物階降下をした際に何かと便利だからだそうだ。

 彼はよく生物階に出入りをしていて、教会で彼らの祈りを聞いている、などという事も冗談ではなく本当にあった。

 彼の名もライフスタイルもすっかり変わってしまったものの、彼が世界三大宗教であるキリスト教創始者であり、生物階の歴史において最も重要な人物のひとりであり、更に先代極陽であり神階、および生物階の重鎮であるという事実には間違いがない。


 彼は彼自身が生物階に降誕したとされる日から始まった西暦にして1300年頃まで極陽を務めた後、当時第2位であった現代極陽のヴィブレ=スミスに極位を実質譲り、意図的に10位に降格し、枢軸神としての立場を守りつつ、隠居生活のような事をしていた。

 彼が今も昔も人を深く愛し、人に救いを与えてゆくその為には、生物階への降下が極度に制限される極位という地位は邪魔だったのだろう。

 その彼が、ゲイル=リンクスワイラーの嘆願書に嘆願を重ね、絶大なる影響力で法務局を動かし、結果として予定より随分と早く刑期を終える事となったユージーンのもとに見舞いに出向いてきた。

 身分上はユージーンより下位の神だが、格として青二才のユージーンと比するものではない。


「ジーザス=クライスト様、このたびは嘆願を頂戴いたしました事、深く御礼申し上げます」

「わたしにのみならず、極陽と荻号、そしてゲイル=リンクスワイラーにも左様に伝えるがよい。それに……汝の受難は、聊か不当なものと見受けられた」

「いえ、偏にわたしの不始末にございます」


 あくまでもそう言い張る彼を憐れむように見下ろすと、ジーザスは基空間から右手に金属製の杯を呼び寄せた。

 ジーザス=クライストの固有の神具、聖杯(The Grail)である。

 彼はアラム語で何かをつぶやいていた。


”utethmratha atwatha an theymnuwn la tekhzuwn la ”

(汝は徴や奇跡を見なければ信じることはない)


 彼の言葉を受けるように、空っぽだった筈の聖杯は液体をたたえはじめ、やがて聖杯を溢れて零れはじめた。

 聖杯は特殊なコマンドにより、毒薬から薬に至るまでありとあらゆる組成の水溶液を作り出す神具だ。

 ジーザスは聖杯を傾け、ユージーンに聖水を飲ませる。

 まだ滾々と湧き出てくる聖水は、彼の傷口に少しずつ零すと、薬では癒されなかった傷が嘘のように癒されてゆく。


「さすがは聖杯の秘儀。ありがとうごさいます」

「これはよい。だが汝は大きな苦難を負ってゆかねばならぬ身にある。これはわたしからの忠告だ、かの地には二度と降下するな」

「……?」

「これはわたしが以前極陽を務めた身であるからこそ心得ておることだ。わたしは汝を不憫に思う、避けられるものならば汝を運命から逃してやりたいのだ」

「しかし、戻らねば……それがわたしの任務です」

「かの地には戒厳令が布かれた。極陽の名での発布だ。降下はできぬ」

「罪なき人々が、理由もなく殺されてゆくかもしれないのです。あの村を災厄から守らなければ……」

「汝が降下すれば、更なる犠牲を強いるであろう。汝が災厄を齎すのだ」


 ジーザスは厳かに断じる。

 彼の言葉は難解だが、今度ばかりはユージーンはその真意がわからない。

 彼は何を言っているのだろう。

 今の今、風岳村が災厄に見舞われていたというのに、それがまるでユージーンが原因だとでも言いたげだ。


「わたしが、あの村に災厄を齎すと仰せなのですか?」

「そうだ。汝は誰に促されようと、暫くは神階を離れてはならぬぞ」


 ジーザスはユージーンの一切の疑問を解消することなく、会話を打ち切った。

 そして次に、彼は両手を静かに併せ、ゆっくりと瞳を閉じ片膝をICUの床につけた。

 何だ、これは……ユージーンはジーザスに癒されて腫れの引いた瞼をもたげ彼の姿を見守った。

 彼は聖印を切り送っているのだ。

 誰にそうしているのだろう、とユージーンは思わず背後を振り返ってしまう。


 背後には点滴とワゴンがあるだけだ。

 ジーザスは彼が後ろを向いている隙に、ユージーンの背中に目を凝らした。

 ジーザスの慈悲深いまなざしはユージーンの背の上を泳いでいたが、やがて何かを認めたようにただ一点を凝視する。

 ユージーンは背後に何もないとわかってまた振り向いた。

 ジーザスは先ほどとは違って、刮目していた。

 聖印とは最高敬礼のようなもので、贈る相手に至上の敬意を表し、それぞれの神に固有の動作がある。

 神は敬うべき者がいないので、聖印が定められていても誰かに切り送る機会はなく、その行為は形骸化している。

 位神と極位の関係は上司と部下の関係であって、主従ではない。


 聖印を切り送る対象は、神を超越したものだ。

 黙してユージーンの前で最高敬礼を切り送ったのは、特別な意味を持つ。

 これは隠喩だ。

 ユージーンは確かにジーザスの上司ではあるが、このような事をされる道理はない。

 ユージーンは不安が津波のように押し寄せて、流されてしまいそうになった。


「な、何を、わたしに何を……なさったのですか?」


 ジーザスは答えず、何事もなかったかのように立ち上がると、ゆっくりとICUを出て行った。


「お待ちください!」


 彼を引き止めて、今の行為について説明を求めたい、だがユージーンは点滴に繋がれて動けなかった。



「主任。ザドキエルが死んだと、UK(英国)の研究所から連絡がありました」

「わかった、ありがとう。こんな時間までご苦労、正岡君」


 秘書の報告を受けた中年の男は、何十台ものモニターをひとつひとつ丁寧に巡回しながら返答する。

 男は腕時計を見て21日間とメモをとり、その回りをぐるぐると赤いペンで徒に囲んだ。

 男の目は充血し、目薬の空き箱が彼のデスクに散乱していた。


「やはり、こんなやり方ではだめだ。これでは貴重な検体を無駄死にさせている」


 男の名は早瀬はやせ 雄大ゆうだい。 IEIIO(国際知的生命研究機関:International Extraterrestrial Intelligence Investigative Organ)、日本支部の主任研究員である。

 現在、日本時間で夜11時。

 UKでは昼過ぎということだろう。

 彼はもう3日もろくに寝ていない。

 千葉にある研究所の窓から、朝日を何度見た事かわからない。

 日本各地から転送されてくるデータを細やかにチェックする事もまた、彼のグループに課せられた大きな仕事であった。

 何度も繰り返され失敗に終わってきた結果を、UK支部のグループは増やしたに過ぎなかった。


 1942年、第二次大戦中、ナチスが行った非人道的犯罪を暴く為ナチスの負の遺産の調査が行われていた。

 とりわけユダヤ人に対する生体実験で裁判にかけられようとしていたナチス親衛隊の医師の研究室内の調査をした際に、夥しい胎児の奇形や動物の死骸のホルマリン標本の中に紛れ込む形であるものが見つかった。

 それは翼を持つ痩せた女のまるごと一体のホルマリン標本であった。

 調査員の日記にそれを見つけた時の驚きと興奮が記されている。


″それは私のあらゆる高慢なる知見を覆し、懐かしく純然たる感情にたちかえらされた……すなわち、信仰である″


 ドイツ人医師の研究ノートには彼女を入手してから一ヶ月後に彼女が息たえるまでの観察が克明に記載されていた。

 研究ノートからは次のような記述が見つかっている。

 医師はナチス軍の歩兵部隊から戦地に奇妙なものが転がっていたので調べてほしいとの依頼を受け、件のサンプルを入手した。

 それは腹部を負傷した若い女のようであったが、背部に鳥のように大きな翼を持っていた。

 この翼は飛翔するためのものではないらしく、女の体重を支える程の揚力は得られないと計算されている。

 腹部の傷を処置した後、優性学を修めていた医師は彼女を希少な変異個体として檻の中で飼育しはじめた。

 彼女には充分な水と食事が与えられたが一ヶ月後、痩せ衰え、餓死してしまった。

 標本つきの研究ノートがあるので、調査員たちも信じない訳にはいかなかった。

 そのひとつの標本によってはじめて、翼を持つ、人間ならぬ者の存在が明らかになったのだ。


 彼女はその印象的な姿から″天使Raphaelラファエル″と名付けられた。

 現代になって、発達した遺伝子解析技術と画像解析技術をもってしても、ラファエルからは核酸とタンパク質の類が検出されず、複数の研究者の間で地球上の生物ではないとの結論が繰り返し導き出された。

 傷ついた”天使”なるものはその後も大規模戦争や紛争が起こるごとに、それに巻き込まれる形でたびたび発見された。

 ベトナム戦争、中東戦争、イラク戦争などを経て、ラファエルに続きUrielウリエルMichaelミカエルGabrielガブリエルらが発見され、戦地とはいえないような場所からもある法則性を持って天使達は捕獲された。

 天使の数は五十体以上にも及び、捕獲された彼等はいつも決まって衣服や持ち物に紋章を帯びていた。

 研究者たちはこの紋章に注目し始めた。


 現在までに見つかっている紋章は十種類。

 最も多いのが車輪型、次が植物型、そして剣型と続く。

 天使たちはその紋章を旗印とした何らかの各組織に所属しているのではないか、という仮説がたてられた。

 紋章の種類によって、天使の分布する場所が異なっていたからだ。

 例えば車輪型と分類された紋章を持つ天使は、戦争や紛争地区で必ず見つかる。

 流れ弾などに当たって負傷するため、傷ついて捕獲される個体が多いということだ。

 植物型の紋章を持つ者は山間部で多く見つかるし、剣型のものは海岸沿いで発見される事が多い。

 彼等は役割を与えられていて、それに従って分業して何かをしている。

 だとしたら一体、何をしているのか……。

 研究者の中でも、早瀬のような社会学者はそのような関心を持っていた。


 彼等は高度な知性を持ち対話が可能でありながら、行動学的な研究は一向に進まなかった。

 どんなに人間さながらに手厚く保護、飼育をしても、高カロリー輸液やビタミン剤の補給を行っても、全ての個体が痩せ衰えて餓死し、1ヶ月以上の飼育はできなかったためである。

 暴れてジタバタ動き回った者ほど早く死んだ。

 彼らは死の間際に、


″主よ、わたしは渇く″、


 といった有名な聖書のくだりを様々な言語で口々に叫んでは息たえる例が殆どだった。

 彼等の求める主とは何か、そして彼等はどこからやってきて、何を糧にしていたのか……彼等は結局、死の間際にまで彼等の正体について口を割ることはなかった。

 歴史の表舞台には現れる事のなかったこのひそやかな現実は、人類に課せられた大いなる謎のままとなった。

 このような謎に包まれた知的生命体の実体を解明するため、国際的、学際的な研究機関が1978年に国際連盟の下部組織として設立されていた。

 それがIEIIO(国際知的生命研究機関)である。

 IEIIOは世界中に87の支部を持ち、日本にも千葉県の某所に日本支部が存在する。


「井村君」


 早瀬は同じく隣のデスクで、早瀬と同じようにモニターを見ていた井村という部下に呼びかけた。

 早瀬よりほんの少しだけ若く見える井村という男は、あまりに長時間モニターを眺め過ぎてもう頭痛がしているらしく、頭を押さえながら話は聞いていると手を振ってよこした。


「井村君。我々は社会行動学者だ。こんな事をする為に、この研究所にやってきたわけではない」

「主任……もう僕、限界です」


 井村という男も、優秀な研究者だった。

 その彼が弱音を吐かなければならないほど、彼らの研究は暗礁に乗り上げていた。

 IEIIOの全職員に与えられた課題は、現代科学のあらゆるツールを用いても、解決するには難解すぎた。

 早瀬は3歳になる愛娘とも、もう2ヶ月も逢っていない。


 そんなこんなで精神的にも荒みきって、研究が進まない事に対するフラストレーションを募らせていた。

 今回のUKのグループの報告で、早瀬の中の何かが吹っ切れた。

 先ほどの報告をもって、IEIIOの保管する天使の死体は、記念すべき60体目を数えたこととなる。


「そう、私も限界だ。やはりアプローチが間違っている。捕縛するのは間違いだ」

「まあ、生物屋さんはそうするでしょうね。採集しなければ、材料にならないわけですから」


 何を当然のことを、と井村は早瀬に顔を向けようともせず、鼻の頭をいじくっている。


「2万人という研究者が日夜研究に勤しんでいながら、誰もそれが間違いだと気付かなかったのかね」

「それは、僕達も含まれているんですよね」

「そうだ! 井村君。私はこれまで通り彼等を捜す」


 早瀬は何か得意げに、大声を張り上げて胸を張った。

 その異様な姿に、井村はばりばりと頭をかいた。

 井村は膨らみかけた希望が、急にしぼんでゆくのを感じた。


「今までと同じじゃないですか」

「それが違うんだ。彼等を見つけてももう捕獲はしない」

「それじゃ、研究になりませんよ」


 職員は天使を発見し次第、特殊部隊に命じて捕獲しなければならなかった。

 職務にも違反してしまうこととなる。


「逆転の発想だ。捕獲して1ヶ月も生き長らえさせる事ができないのなら、彼等をまず先に見つけて、それを観察すればいい。彼等が何を食べどうやって生活をしているのかを、彼等の言う”主”というものが何なのかを、観察していればいいじゃないか。捕獲するから殺してしまうんだ」

「……なるほど」


 立ち上がった井村は、蛸足コンセントに足をとられて派手に転倒した。

 そのついでに、ペン立てに無造作に詰め込まれたボールペンにシャープペン、定規などが彼の頭からあらんかぎり降りかかる。

 コンパスの針も彼の指先に刺さる。

 それにも構わず早瀬は続ける。


「私は思うに、彼等が普段は主と呼ぶ者と相利共生をしているんじゃないか? だとすれば、彼等を殺す事なく彼等が生活している姿が解明できる、そして彼等の目的も……」

「天使は一体、何を食べて生きているのでしょうね」

「主とやらと共生している天使を捜し出すんだ、何としてでも!」


 早瀬は徹夜で血まなこになってしまった彼の瞳に、最後の一滴の目薬を滴下した。



 陽階、上層部枢軸位執務棟、ユージーンは明るくだだっぴろく、そしてひたすら長い回廊を歩いていた。


 陽階の11290階は軍神に割り当てられたフロアになっていて、執務室、使徒階第一層、軍神の居住区や会議室、ホール、訓練所などがある。

 このフロアにいる神はユージーン一柱だけで、ほか全員が彼の使徒だ。

 ここには3万名の使徒が働いている。

 彼の帰還は秘密というわけにはいかなかった。

 執務室に戻る回廊のどこを歩いても使徒がいて、心配そうにあれやこれやと話しかけてくる。特に身体罰の直後なので、ユージーンの体調や精神的疲労を慮ってのことだ。

 悪気はないのだろうが、煩わしく思いながら、彼は足早に歩いていた。


「主よ、身体罰による傷はいかがでございますか」

「お疲れ様でございました」

「ありがとう、心配をかけたね」


 刑期短縮が発表されはしたが生物階での犯罪を犯した後すぐ逮捕され、執務室に戻る間も顔を見せる間もなかったので、顔を見るまで心配だったのだろう。

 長い闘病生活の末退院した芸能人のように、彼はパパラッチのような彼の使徒達に取り囲まれながら歩いていた。


 ジーザス=クライストの治癒を受けたユージーンは快復し、釈放されたその日のうちに公務復帰を望んだ。

 自分がなすべき事は何なのか、ユージーンは見失っていた。

 極陽からの勅令を完遂する事もできず、風岳村も見捨てることになった。


 何一つ満足にできていない。

 そんな後ろ向きな思考回路にもなる。

 多くの使徒のねぎらいの言葉や花束、貢物を受け取りながら執務室に入ると、彼の最も信頼する右腕、第一使徒の響 以御が軍神のみに座る事の許された椅子にでんとふんぞり返っていた。

 ユージーンの恙無い様子を見てほっとしてから、椅子を彼に譲った。


「おつとめ、ご苦労だったな」

「お前にも苦労をかけたな、以御。クレームが凄かっただろう」

「ああ、まあな。でも見舞いの電報や激励の手紙なんかも届いていた」


 ユージーンは以御に荷物を預けると、倒れこむようにして執務室の椅子に腰掛けた。

 彼は疲れきっていた。

 シャワーを浴びてこびりついた血は落としただが、まだ傷口から滲んでくる血のせいで、聖衣に血痕がついている。


「少し寝ろ。くたくたじゃないか。フィジカル・パニッシュメントの後にすぐ働こうとする奴がいるか」

「寝てなどいられない、すぐに極陽に報告に行く。荻号殿にも御礼を述べなくては」


 嘆願を出して刑期を短縮させてくれたのは錚々たる面々だ。

 返礼を怠ってはならない、それを彼は重々承知していた。

 それに、荻号にはG-CAMを預けたままだ。

 神具がなければ執務もできない。


「嘆願を出してくれたようだからな。優良受刑者の刑期短縮なんて措置があったんだな。陰陽階神法にはそんな記述、ひと言もなかったぜ。史上初の適用だろ? あんたは史上初だらけだ、そのうちレコードホルダーになるぞ」


 冗談めいた彼の言葉を聞いているのか聞いていないのか、ユージーンは以御の言葉に乗っかってこう言った。


「極陽に謁見のアポイントメントを取ってくれ」

「わかった。だがそれは明日だ」

「……急いでくれ、以御、頼むから」

「極陽にお見えするのに、体調を万全にして行かない奴があるか! 看破で破られるぞ」


 以御は正論を述べている。

 極陽は精神攪乱系の神具FC2-マインドキューブを持ち、看破能力に長けている。

 風岳村での事が彼に筒抜けになってしまうのは構わないが、恒と志帆梨のことは伝えたくない。

 どこに敵がいるか、分からないからだ。

 今日のこのこ会いに行った所で、彼の思う壺だ。

 恒と志帆梨の事などすぐに見破られてしまうことだろう。


「それから、荻号殿から連絡が入ってるぞ。戻ったらまず自分の携帯に電話でいいから連絡をくれと、番号も教えて下さっている。あの方にはあれほど迂闊に近づくなと口すっぱく言っていた筈だが、どうしたことだ? まったくあんたは、やっちゃいけないという事を敢えて、ご丁寧にやってきてくれる。このたびの逮捕にしたって俺には理解ができない。たかだか一人の人間を蘇らせて、ご自分が痛い思いをしたいっていう神経もな。だがそれも明日にして、少し寝ろ。話はそれからだ」


 以御は口では厳しい事をずらずらと並べ立てながらも、温かいおしぼりを与える。

 頬に滲んだ血を拭いながら、ユージーンは先に荻号に電話で連絡をとる事に決めた。

 直接対面しない電話でなら、マインドギャップを破られる心配はない。

 G-CAMを返還してもらい、ついでにデータの結果も聞きたいところだ。

 先ほどジーザスの謎の行動の意味も、ひょっとすると彼なら分かるかもしれない。

 陽階の長たる極陽に挨拶をするより先に陰階神の荻号に連絡をとるのはどうかと思ったが、電話ぐらいなら勘弁してもらいたい。


 ユージーンはメモとペンを用意し、アナログな執務室の電話を取ると、22桁の荻号の番号に電話をかけた。

 3コール目に受話器が取られ、口を開きかけたところで意外な声が聞こえてきた。


「もしもし、ユージーン様ですか?」


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、柔らかな口調のファティナ=マセマティカの声だ。

 荻号ときたら携帯を落としてファティナに拾われてしまったのだろうか、まずいな、これではファティナに荻号と通じていることがばれてしまったな、とユージーンは額を押さえた。

 陰階参謀である荻号と通じる事は陽階では固く禁じられている。

 咄嗟の事だったので言い訳も出てこなかったユージーンをフォローするように、受話器むこうのファティナの声が慌てて早口になった。


「この番号にあなたから連絡があったら取り繋いでくれと荻号様に申し付けられているのです。荻号様は私の神具内にいらっしゃいます。今御呼び立てしますのでしばしお待ちを……あの、ユージーン様。お怪我の方はいかがですか」

「ご心配ありがとうございます。もう大丈夫です」


 ユージーンは事情を察した。ファティナもまた、被害者だ。

 荻号はファティナの神具へクス・カリキュレーションフィールドまで使っていたのだろうか。一つでさえも持て余す神具を、一度に4つも帯びる事ができるなんて……と恐ろしい。


 ユージーンは暫く待つ。

 演算空間にダイヴをしていたのなら、荻号は意識を仮想空間から実体に戻さなければならない。それには少しばかり時間がかかる。

 突如、ユージーンの執務室に荻号が現れた。


 以御が驚いてとっさにユージーンを庇うように前に立つ。

 この部屋に荻号を通した事は一度もなかったから、追跡転移というやつを使ったのだろう。

 ユージーンはしてやられたといわんばかりに受話器を置いた。

 以御は怯まずずいっと前にでしゃばった。

 荻号は壁のように立ちはだかった、彼より随分背の高い以御を見上げて涼やかなな瞳で見つめる。

 以御はきわめてビジネスライクだ。


「畏れながら、以後アポイントもなしのご訪問はご遠慮いただきたい」


 慇懃無礼は、以御の得意とする分野だ。

 荻号はでかい壁が何か話しかけてきやがったな、という顔をしただけで、歯牙にもかけなかった。


「ああ、次からそうする。お前の主に用がある、そこをどきな」

「以御、外してくれ」


 荻号ほどの相手だと、体調のよいときならマインドギャップが万全か、など考えても詮無きことだ。

 彼にはいつ何時も100%看破されている。

 ユージーンはもうマインドギャップを立て直す事を諦め、腹を決めた。

 思考看破をされないよう、できるだけ余計な事を考えないようにしなければならない。

 抵抗する術はないのだから、無心の境地でいるしかない。

 以御は荻号を警戒してなかなか退出を渋っていたが、もう一度ユージーンに強く言われて出て行った。


「そんなビビってんじゃねえよ。話す気も失せてくる。お前が電話してきたんだろうが」


 荻号はげんなりだ。


「この度は嘆願を戴きまして、感謝の言葉に絶えません」

「お前は俺と違って虐待されりゃ痛ぇだろうし、神階で最も治癒能力のある治癒血を無駄にするのもあれだからな。そのくらいの事はしてやるさ。さて、社交辞令はここまでにして本題を話すぞ」


 荻号はG‐CAMの中の解析データをスティックメモリーに詰めてユージーンに手渡す。

 中にデータが入っていることを察したユージーンの端末で結果を見たいところだが、あいにく彼のノートパソコンは風岳に置いてきたままだ。

 荻号は仕方なく彼の真っ黒な薄型端末をどこからともなく出した。


 荻号自身が組んだプログラムによる解析ソフトが立ち上がり、解析したデータをディスプレイ上に示す。

 膨大なデータファイルが解凍され、結果を表示するための高速演算がはじまった。

 彼の端末はカスタマイズにカスタマイズを重ねて、枢軸神の持つ並のそれの数百台分の計算能力を持つ。

 結果の表示までにかかった時間はわずか1秒にも満たなかった。

 ユージーンは食い入るように見つめていた。


「結果から先に言おう。お前とメファイストがいた場所、首刈峠、いわゆるグラウンド・ゼロには今後、連続的にINVISIBLEの介入が見込まれるだろう。次回の周期は一万年以内に217回の臨界値に達する。その臨界値に達したときにグラウンド・ゼロに絶対不及者候補がいれば確実にINVISIBLEは彼の中に収束することになるだろう。最初の臨界点はわずか3年後だ。次のオリンピックが来る前にINVISIBLEの最初の収束が起こるだろう」


 オリンピックって……冬季だろうか、夏季だろうか? 

 などと訊くような無粋なまねはしない。

 4年を待たずして、という意味だ。

 荻号は解析データを移し、それを示しながら説明する。

 そのシミュレーションは簡潔で、無駄や誤差が一切といっていいほどなかった。

 荻号は乱数を発生させへクス・カリキュレーションフィールドを陣取って綿密な計算を繰り返していた。

 およそ189兆通りの乱数の中から得られたシミュレーションだ、美しいスペクトルになっている。


「それから、お前にひとつ言っておかなければならないことがある。隠し切れないと思ったんでな。本人ももうそれを受け入れているし、お前だけ知らないのもあれだ」

「え、はい、何でしょう」

「藤堂恒は極陽の息子だ。もっとも、極陽は彼を息子だとも思っていないのだろうが。ある目的のためにグラウンド・ゼロに送り込んだ模造生命だよ」


 荻号はユージーンが最も知りたかったであろう事実を簡単に明かす。

 ユージーンは彼の言葉がとても信じられなかった。

 恒をADAMに閉じ込め、一般人である藤堂志帆梨を処女懐妊させ、彼女の人生を10年にも渡り奪っていたのが、人々を正しく教え導く事が使命である筈の陽階の長の仕業だったとは……。


 嘘だ、信じられない! とは思えなかった。


 荻号は謀略を生業とする陰階の策士であったが、彼の言うことは不思議と信じられる。

 彼は些細な事ならいくらでも嘘をつくが、悪意のある嘘はつかない人物だ。

 それが陰階のうちで絶大なる人気を誇り、尊敬を集め、陽階から最も警戒されてきた理由だ。

 それに恒はどことなく極陽に似ているような気がしないでもない、


 幼い彼の中にある深慮、そして優しさ、駆け引きの巧みさ、何事にも動じない信念、それらは確かに極陽の中にあったものであり、彼が受け継いだものなのだろう。

 だが、もし荻号の言うことが真実だとしたら、ユージーンは極陽を許せそうにもない。

 ユージーンは昂る心を鎮めながら、呻くように尋ねた。


「その目的とは……何ですか」


 ユージーンは茫然自失としている場合ではないと思い、あらゆる感情を心の奥にぐいと押しやった。

 彼のいう事が本当だとすれば、ユージーンは極陽の思うが侭に彼の駒として動かされていたということになる。

 極陽はユージーンに何をさせたかったのだろう……。

 荻号はユージーンの感情の整理などには付き合ってくれず、ディスプレイを眺めたまま、話を続けた。


「恒……コウ、それは抗体を意味する名だ、極陽はとあるものに対する抗体として彼を創りだしたのだろう。そして藤堂志帆梨の母胎に完璧に設計された彼を授けた…母親が無意識的にコウと名づけたのは、彼女が極陽から夢の中ででも聞いた抗体という言葉の僅かな記憶によるものだろう。抗-絶対不及者抗体(Anti-ABNT Antibody)、それが彼の存在理由だ、恒に求められているのは、グラウンド・ゼロに現れるかもしれない絶対不及者を、彼の能力を以ってして捕捉し、封じる事だ」


 絶対不及者に対する抗体、一体どんな方法で絶対不及者の能力を封じるのかは全く解らないが、恒にそんな事をさせるのかと思うとユージーンは絶句してしまう。

 相手は神ですらない、存在ですらない、ただのエネルギーの集塊であり、不死の超越者だ。

 仮にそんな役割を押し付けられたとしても、恒の今の精神力ではそれを成し遂げられる筈もない。


「ちょ、ちょっと待ってください……恒君で、絶対不及者の力を押さえ込もうとしているのですか? そんなことが!」

「それが出来るらしいぜ、創造神ってのはよ」

「……なんという、怖ろしい……絶対不及者はまだ現われていませんし! とても現実の事とは思えません!」


 そうだ、絶対不及者はまだ現われていない。

 現われていない、これは事実だ。

 だがそう思ったところで、ユージーンは突如殴りつけられたように迫りくる不安に襲われた。

 荻号は事実を立て続けに明かされて混乱する、ユージーンの反応を無言でうかがっていた。

 冷静に。だがじっくりと。


 ユージーンの一挙一投足が観察されている。

 ふと、先ほどのジーザスの行動が彼の意識の奥から煮え立つように蘇ってきた。


 用意されていた歯車の回転がかみ合った。

 モラトリアムに、終止符が打たれるときが来たのだ。

 聖印は神を超越した者に対する敬意の動作だ、それが他の誰でもない。

 ユージーンに送られたということは、一つの意味しか持たない。


「荻号様………まさか、まさかそんな……!……」


 荻号は何に対してとも解らないまま、ただ穏やかに、ゆっくりと頷いた。


「ああ、そうだ。お前が、INVISIBLEの器、絶対不及者になるんだ」


 この一柱の神によって、世界に普く者たちは

 果て無き死の旅へと連れ去られようとしているに違いない。


「ユージーン、可能性は常に一方向にのみ用意されているものではない。三年後にお前がグラウンド・ゼロに行くのか行かないのか、絶対不及者となって世を破滅に導き最後にはINVISIBLEに殺されるか、創世者の気まぐれに賭けてみるか、それとも極陽の秘策に賭けて恒に封じられ、拘束されたまま永遠を生きるか。お前はそのどれをも選ぶ事ができ、また選ばない事もできる。未来が三択である筈がない。どんな結末になっても全て俺が後始末をつけてやる」


「恐れるな。世界を導くことを」


 荻号は突き放したようでありながら、まだユージーンを見捨ててはいなかった。


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