第1節 第20話 Mind Gap and Mind Break
体育の授業中、恒は気が付けば朱音に視線がいってしまう。
朱音は体育の時間、いつものように大記録を作っては女子たちとハイタッチをして喜んでいた。
恒は彼女に異変がないかを、いつも見守らなければならなくなった。
激しい運動をすると、飢えを感じる。
恒のアトモスフィアをそれだけ必要とするということだ。
アトモスフィアの与え方は対象に触れるだけでいいのだと織図から聞いた。
これまでは何日かに一度、朱音に触れる機会があり、恒の何気ない行動が彼女の命を繋ぎ止めてきたのだそうだ。
しかし今に、恒の貧弱なアトモスフィアでは賄いきれなくなる。
朱音は最近バレエのレッスンを週2日から4日に増やしたのだと話した。
それを聞いた時、恒は絶望的な顔をしてしまったが、彼女は笑って
「そんな顔しなくても、皆と遊ぶ時間はちゃんとあるから」
そう言ったのを思い出す。
彼女はバレエダンサーになりたいのだそうだ。
″朱音、その夢は絶対に叶うことはない″
恒は体育の時間、彼女の背中に語りかけた。
恒はもやもやとした気持ちを振り払うように、思い切り走って幅跳びをする。
記録は4メートルは出た。
朱音が喜んでハイタッチをしにきたので、その時恒は一瞬の間に集中して朱音の掌に自らのありったけのアトモスフィアをねじ込むように触れた。
″これで何とか、命を繋いでくれ。俺はもっと強くなって、お前にひもじい思いをさせないようにするから″
バレエのレッスンを増やし、朝のジョギングも始めて運動量が増えてしまった朱音を餓えさせないために、恒はこうやって何かと偶然を装いながら彼女に触れる必要があった。
あまりおおっぴらに触れるとクラスの子供たちに変な噂をたてられてしまうので気をつかう。
恒は夜な夜なADAMに通い、着々と神々の知識を身につけていた。
夕方になると闇を纏い現れる織図からも、マインドギャップの作り方を学んでいた。
とはいえ、まだ導入研修のようなものだという。
昨日は何だっけ、カルネアデスの板という命題について議論した。
恒は人生経験が少ないぶん、こういう答えの出ない類の問題は苦手だ。
どう答えたとしても、それは正解ですらない。
カルネアデスの板というのはこういう話だ。
紀元前2世紀のギリシャで、船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。
ある男が命からがら、一片の板切れにつかまったが、そこへもう一人、同じ板に掴まろうとする者が現れた。
しかし、二人も掴まれば「板が沈んでしまう」と考えたその男は、後から来た者を突き飛ばして、おぼれさせてしまった。
彼は正しいかということだ。
恒は答えられない。
でも恒ならまず自分が手を離して、二人で助かる方法を考えたと思う。
織図にはこうやって答えの出ない難しい問題を考える事でまずは心を鍛えるのだと教わった。
人間でもある恒は神として半人前で、武型の神ではなく知識を重視する文型の神になるのだそうだ。
織図いわく知識に長けた文型の神はXX、武力に長けた武型の神はAA、文武両道の神はAXと表されるそうだが、恒は間違いなくXXだろうと織図は断言した。
XXを自称するからには、XXの神に位神戦を挑んで勝ち上がってゆかなければならない。
だから、武芸よりも精神力を鍛えなければならない。
XXの試合は知恵比べのようなものだ。
専門的命題について相手を論破した方が勝ちとなるらしい。
つまりマインドギャップを十分に備え、マインドブレイクの能力を身につけ、さらに哲学的なバックグラウンドがあって多面的に物事が考えられるようにならないと、太刀打ちできないのだ。
織図からは不向きな事より、向いている事を身につけた方が出世できるし楽だ、とのアドバイスを受けた。
恒の場合は力を身につけるより知識を身につけ心を鍛えるのが優先だということだ。
だが恒は自分のアトモスフィアの量を増やすため、知識を身につけながら、体力づくりも始めていた。それはもちろん自身が朱音の糧となる為にだ。
神階に漂着する神は、5歳ごろから神階の運営する教育機関に入れられ、神としての教育を受け始めるそうだ。
恒も本来なら今すぐ神階に上がり、学校に通わなければならないところだ。
神々の知的発達は著しいが、成体となってからはほとんど成長も老化もしないらしい。
肉体年齢も、力も知力もほぼ100歳になるまでに頭打ちになる。
100歳までにいかに心身を鍛えることができるかが鍵となっていた。
成長の著しいこの時期にはわずか1年の教育の遅れが大きな差を生む。
恒も神を目指すなら、もう学びはじめなくてはならない。
だが朱音はまだ地上を離れられない。
ユージーンが恒に真実を隠した気持ちが痛いほどわかった。
こんな事、将来の夢の実現に向かって努力を積み重ねる彼女には話せない。
彼女はその瞬間に、人生を奪われるのだから……。
恒は彼女の背中に呼びかける。
″だから、そんなに走らないでくれ、お願いだ。今の俺じゃお前にたらふく食わせてやれないんだ″
ピピーッと笛の音が聞こえてきた。
ジャージ姿のメファイストフェレスが指導用の笛を吹いたのだ。
「石沢さん、あなたさっきからはしゃぎすぎ。授業中は静かになさい」
メファイストフェレスがうまく彼女をなだめてくれたようだ。
だが皐月もメファイストフェレスも朱音の体調に気を配っている。
さらに、彼女の背中には翼が生えようとしている。
第二次性徴期から始まり、徐々に生えてくるそれを切除することはできない。
大切な太い血管が翼をつくる骨の周りを取り巻いているし、切除できたとしても使徒にとって翼は大動脈のようなものだ。
翼を失った使徒はひとりとして生きてはゆけなかった。
神階には翼を不可視化する装置があり、使徒たちはいつもそれをつけている。
翼を不可視化すれば社会生活を送る事はできる、だがいずれにしても神のアトモスフィアを必要とする。
使徒という生物はこの脆弱性のために、過去何億年にもわたり神に従属するしかなかったのだ。
そう急ぐこともないが、悠長に構えてはいられない。
彼女には真実を話すほかにない。
それがいつなのか、誰が話すべきなのか、恒にはわからなかった。
体育の授業が終わり、次は社会の時間だ。
朱音は窓に近い日の当たる席でうとうとと眠りこけている。
恒はその時間を黒板の上の時計で計っていた。
もうすぐ15分……。
恒はわざと机から筆箱を落として地理資料集について何か解説しているメファイストフェレスを振り向かせた。
朱音がずっと寝ていると、指を指す。
「じゃあ、輪中で有名なここ、ここは何県でしょうか。はい、石沢さん」
メファイストフェレスは手を挙げている他の子供に目もくれず朱音を指した。
朱音は気付かない。メファイストフェレスはヒールをコツコツいわせて奥の席までやってくると、ちょんちょんと彼女の肩をつつく。
ぐらり、と朱音の顔が机に転がった。
メファイストフェレスは慌てず、恒を呼んだ。
「石沢さんが、気分が悪いみたいね。藤堂くん、保健室に連れていってあげて」
「先生、私が保健委員です」
保健委員の子供が手をあげている。
「あら、そうね。でも藤堂君は背が高いから、藤堂君に頼みましょう」
俺の方が背が高いのに、と朱音をひそかに想う坂下実が悔しがった。
恒は朱音を背負うと、保健室とは逆の方向に走り出した。
家庭科準備室だ。
どうすればよいのか、恒にはわかっていた。
とにかく、急いで……。
恒は準備室に中から鍵をかけると、意識のない朱音をありったけの思いを込めて抱きしめる。
夏の湿気で、じっとりとふたりの肌が汗ばむ。
「朱音、朱音……目を覚ましてくれ」
恒は彼女に囁きかけた。
しかし、彼女の意識は戻らない。
足りない。
恒のアトモスフィアでは成長しつづける彼女の代謝量を補いきれない。
さっきあんなに走ったからだ、朝のジョギングだって、バレエの練習だってやりすぎだ……。
恒はそう思いながらも、わかっていた。
彼女には非がない、そんな制限をかけるのは酷だと。
恒は悔しくて、自らが不甲斐なく唇を噛み締めた。
”俺はどうして、彼女を助ける事ができないんだ、これのどこが神様なんだ、自分には何の力もなく彼女を飢えさせている。誰が彼女を助けられるのだろう?”
それは残念ながら自分ではない。
恒は辺りを見回した。準備室の壁には、電話が一本かかっている。
恒は大事に朱音を横たえると、受話器をとり、ダイヤルを回した。
相手は決まっている。連絡先を覚えていてよかった。
「織図さん、助けてください」
「自分で何とかできねーのか」
「俺にはどうにもならないんです! 助けたいけど」
「お前の他に誰か困ってる奴がいるのかい」
「そうです! お願いします、来てください。学校の、ここは」
「家庭科準備室な」
後ろから声がした。
密室を破って織図が真っ黒な聖衣を纏ってそこにいた。
「瞬間移動では来た事のない場所には、来れないのでは?」
「俺は目が見えないんでね、場所を覚えていても意味がない。お前の気配をたどって来ただけさ。追跡転移というやり方だ。陰階でこれができるのは俺と荻号さんだけだ」
「荻号様は来たことのない場所には来れないと言っていました」
「あの人は宇宙の果てまで行くぜ」
また荻号に騙されたが、今そんなことを言っている余裕はない。
織図はゆっくりと朱音を見おろした。
織図は仕事中だったらしく、フードのついた黒衣を着て巨大な鎌を持ったままだ。
その姿はまさに死神そのもので、威厳があり恐ろしい。
彼は朱音を抱き起こすと、ゆっくりと自らの胸に抱いて黒衣で包んだ。
朱音はしばらくすると気持ち良さそうに伸びをしたので、織図は彼女をそっと恒に引き渡し、光学迷彩能のある黒衣を着込んで姿が見えなくなった。
朱音は瞼を開いた。
目の前には恒がいて、自分を抱きかかえている。
彼女はぱあっと頬を赤らめた。
「や、何。恒君……」
「あっ」
「ここ、どこ? こんな所に私を連れ込んで……どうするつもり」
「や、これは違うんだ、もうひどい誤解で」
「……ひどい誤解なの?」
朱音はじわっと目を潤ませると、鍵をあけて走っていった。
織図のアトモスフィアを分け与えてもらったのだから、走ろうが飛ぼうが構わない。
「おいおい、お前も隅におけないな。あいつ、お前にちょい惚れじゃないか」
織図はフードをとったが、あとは光学迷彩で隠れているので首だけ浮いているように見える。
「ありがとうございました」
「しかしだなあ、お前の使徒ぐらいお前が養えるようになれよ。たったひとりだろ?」
「朱音は俺の友達です」
「強情なのもいいが、果たしていつまでそうしていられるかな。もうお前のアトモスフィアは足りなくなってるんだぜ。女子の成長は男子よりずっと早いからな。精神的にも肉体的にもだ。ちゃんと言うことを言って運動なんかを控えてもらわないと、お前の力じゃ養いきれんぞ」
「俺には無理です。織図さんにお願いできますか?」
「お前がいいってんなら、俺のを分けてやってもいいが、不甲斐ない。あの子はお前に惚れてるってのに、本望じゃないだろうぜ」
「いいんです、それでも。ひもじい思いをさせたくないから。でも俺もっと、もっと強くなります」
「まあ、向上心は大事だ」
風岳村に織図がいる間は、朱音は織図にアトモスフィアをもらった方がいい。
彼は179,552名の使徒を従えて全員を養っているそうなので、今更ひとり増えたところでどうというものでもない。
それと較べ、恒はひとりの使徒をも養いきれない。
どちらが朱音にとってよい事なのかは、明白であった。
だが織図はいつもこの村にいるという訳でもなさそうで、夕方になるとどこからともなく現れ、朝になると帰ってゆく。
常駐しているわけではない。
朱音はその後も、なんとなくそっけなかった。
声をかけようとしてもタイミングを失ってしまう。
それはそうだ、人目のないところに連れ込まれて押し倒された上、あの言い訳。
恒は友達と帰ってゆく朱音をじっと見送りながら、なんにしろ命が助かってよかったと思うのだった。
「ただいま」
家に帰ると、志帆梨が机の上いっぱいに、彼女が新しく開店する店のたたき台の設計図を広げている。
恒もそれにくぎ付けになる。
志帆梨は家や自分の事など気にせず、恒の進みたい道を選びなさいと告げた。
志帆梨は恒が母を置いて神となる道を選んだ場合に彼の足枷とならないよう、極陽の振り込んだ慰謝料を使って、村の真ん中の小さな商店街の一角で小料理店を営む予定だという。
観光客も稀にしか来ないが、村にはそういった料理店がないので村人の憩いの場になるだろう。
息子が母を置いて行く事になっても、安心して自分の道を貫いてほしいという親心からだ。「創作惣菜屋 しほり」の間取りを考える母親を横目に、恒は玄関から入ってきた織図を出迎えた。
志帆梨はもう慣れたもので、さっさと図面を片付けると、こしらえておいた夕飯の支度をし、テーブルについた織図に大盛りのごはんをよそう。
「いつもすまんね、奥さん。これは何という料理だ?」
「特製田舎汁と、鯖の味噌煮です。小松菜のあえものもありますよ」
「うまそうだ。いただきます」
「織図さんって、いつも思うんですけど、目、まるで見えてるみたいですね。ちょっと焦点が合ってないぐらいで」
恒はいつも不思議だった。
織図は器用に箸を使ってごはんつぶを食べ、豆をつまむ。
普通に豆をつまむのだって難しいのに、彼は簡単にやってのける。
「蝙蝠がどうやって飛ぶか知ってるか? 奴は目なんてほとんど見えてない。目が見えなければ、他の感覚野がその機能を補おうとするのさ。音とか、空気とか、あとは電気の流れや微妙な温度の差、目は見えなくともお前がどんな顔をしているかだってわかる。書類だって読めるぜ。今日はお前に、脳の話をしてやろう。奥さん、あんたの料理は日に日に精彩を放っているな。この柚子を入れてるところなんて、センスが感じられる。あんたの店は流行るだろう」
「ありがとうございます。励みになります」
「あんたの料理はすばらしい。開店したら、常連になるからそのつもりでいてくれよ」
織図はしきりに味をほめ、そんなことを言っていた。
神は食べ物など食べなくても生きていけるというのに、毎日夕飯時になると律儀にやってきて志帆梨の手料理を欠かさず食べようとするのは、おいしいからだろうな、と恒は思った。
志帆梨は毎日やってくる織図のために、毎日新しいレシピを考え出し、店のメニュー候補に加えていった。
人生に絶望することしかできなかった志帆梨がはじめて自分の力で何かをやってみようと思ったのだ、新たな人生を再スタートするために。
それが極陽の援助によるものであったとしても、そんな彼女を、織図も応援しているらしかった。
織図と恒は夕食後、ふたりで皿を洗って食器をしまう。
志帆梨はまたテーブルに色々な広げて設計図を見ている。
織図は母親の横で恒と雑談していた。
母親はもう織図が鎌をもってこようが、聖衣(黒衣)で来ようが気にしなくなっていた。
志帆梨は織図が死神だという事を理解できたようだ。
織図が大きな鎌を畳の上に放り投げているので、神具に焼かれないよう手に軍手をはめて、軟らかい布できゅっきゅっと磨いていたのを見て織図とふたりで驚いたものである。
母は強しとはこのことだな、と恒は思った。
織図はただ飯と鎌を磨いてくれたお礼に、志帆梨が死んでEVEに来た時には奮発すると口約束をしていた。
織図に生前恩をうっておくと、死後によいことがありそうだった。
恒は神なので、生物階の記憶データベースであるEVEには入れないのだと教わった。
母と同じ場所には逝けないということだ。
神の死は物質的な死以外に何も残らない。
記憶と神体はそのまま滅ぶだけだそうだ。
織図は服装と持ち物が死神らしいという事以外は、その話し口調も何もかも、人間によく擬態していた。
唯一死神らしいことといえば、織図には全ての死の記憶があることだ。
古今東西、過去から現在に至るまで。
死神は特殊な記憶領域を使うので、できるのだという。
なので志帆梨の母、恒の祖母がいつどうやって死んだのか、何月何日の何時何分に死んだのかも詳細に覚えていた。
そして彼は死者と生者を繋ぐ事ができた。
仮想空間EVEでの志帆梨の母の記憶を、織図の持つ専用のPSPほどの大きさのDA-インディケータ(Dead of Alive Indicator)携帯用端末に転送し、会話をすることができた。
志帆梨はここ数日、織図にこの端末を貸りて、志帆梨の母の記憶と話していた。
志帆梨が彼女の母、つまり恒の祖母に、自分の病気を治してもらった事、恒の成長の様子、恒が神になるかもしれないこと、自分は小料理屋を出すことなどを一生懸命画面の中に報告しているのを見て、恒は涙が出てきた。
母にはこれから、もっともっと幸せになってほしい。
よい伴侶を見つけて欲しいと思う。
そして自分も、今のところは彼女のたったひとりの息子なのだから、神となっても母を見捨てて去るのではなく、盆と正月ぐらいは彼女のもとに何とか帰れるようにしよう、と誓った。
織図に聞くと、生物階降下はそう簡単には認められないのだそうだ。
やはり上位の神々から定員の枠を使うので、下位でいる限りは生物階降下のチャンスは巡ってこない。
織図はもともと定員にカウントされていない。
それは特殊任務従事者として神階と解階から認められているからだという。
何だかんだいって織図は親切だった。
恒はそんな織図と打ち解けていった。
「この女優、最近出てなかったよな」
「え、歯磨き粉のCMとかに出てましたよ。こないだの月9とかにも」
「うそ、俺それ見てない」
「ふたりとも、もう9時ですよ。お勉強はどうしました?」
志帆梨が雑談に花を咲かせる二人に注意を促す。
織図はいかんいかんと思い直したらしく、テレビの音を小さくした。
恒を一人前の神として育てる事が、荻号との約束なのだそうだ。
サボっていてはいけない。
「さて、そろそろやるかな。なんだっけ、今日は脳の話をするって言ったな」
「そうです。俺、いつになったらマインドギャップができるんですか?」
織図は思い出したようにいきなり、ぱちぱちと拍手をして、いよっ、とやって恒をおだてた。
「おめでとう、喜べ! お前にはもともと1層だけマインドギャップがある! これはすげーことだぞ」
「え、1層ですか?」
「バッカ、おめ、1層できるってのがどんだけ凄い事か! 俺だって何百年も生きているってのに5層なんだぞ。たった10歳で1層あるだけでも御の字だ」
「俺、いつできたんでしょう」
「お前が自活していた頃だろうな」
志帆梨はふむふむと、彼らの会話を聞きながら果物をむいていた。
織図はこそこそと恒をどこかに引っ張っていって教えることはしなかった。
彼女の息子に何を教えているのか、聞かせた方が彼女も安心するだろうと考えていた。
神々の秘密がおおっぴらに明かされる中、母親はマイペースに家事をする日々が続いていた。
志帆梨はこれはこれで、恒の父親か年の離れた兄がやってきたようで悪くはないと思っていた。
食後のデザートに果物の盛り合わせを置く。
「どうも、奥さん。ここで奥さんも講義を聞いていくかい? 今日は脳の話だから、いくぶん分かりやすいと思うぜ」
「いえ、難しいので結構です。どうぞお構いなく」
志帆梨は遠慮して、風呂に入るといった。
恒と織図は師弟のやりとりをする。
「そろそろ、教えてくれませんか。どうして、何事にもさきがけてマインドギャップを作る必要があるんですか?」
「マインドギャップ、マインドブレイク、マインドコントロールができるようになること。これが神となる前の準備段階で最低限できなくてはならないことだ。これが出来ない限り、神々の世界に入ることはできん。だってお前、どうする? 会う神会う神に考えが筒抜けなんだぜ、サトラレみたいなもんだろ? ……サトラレ、懐かしいな。あれ俺好きでさあ、DVD買っちゃった」
「すみません、生まれてないです」
「そっか」
織図はすぐに脱線してしまう。
彼はドラマや映画好きのようで、生物階に降りてはDVDを買ったり映画を見ているそうだ。
神階にはあまり娯楽がないのだという。
「まずは心で何を思っているかを相手に悟らせないこと、これは初歩の初歩、イロハのイだ」
「マインドギャップを作るとはどういう事ですか?」
「そもそも相手の心を読む、読心術は、誰にでもできることだ。例えばごくごく簡単な例でいこうか、ケーキがあって、それを子供が身を乗り出してじっと見ている。子供は何を考えている?」
「ケーキを食べたいと」
簡単な例えだ。
読心術というより、推理でもある。
「そうだ。これが人間にも出来る読心術であり推察だ、行動学的に状況から推し量るということだ。これも読心術のひとつだろ? だが神の行う看破術、マインドブレイクは違う」
「マインドギャップの話はどこに?」
「黙って聞いてな。話が繋がってくるから。どんな人間でも動物でも神でも、脳を使って考えるだろ、思考するとはどういう現象だ?」
「シナプスで繋がった脳細胞間で情報をやりとりする事です、よね?」
「その情報とは究極のところ何だ」
「活動電位です」
「そうだ。思考回路は、電気信号が神経細胞を伝わったか伝わっていないか、究極のところ0と1の組合せだ。それが複雑にやりとりをして脳領域を活性化させる。神の行うマインドブレイクとは、精神活動電位を読み、どこの脳領域がどの細胞と情報を交換しているかを読み解く技術だ。マインドギャップとはそれを読ませない技術。オフェンスとディフェンスだよ」
「技術!」
恒は落胆する。
「なんでそこでがっくりくるかな。この世には魔法も奇跡も呪いも、んなもんはない! お前が目にしてきた全ての奇跡は、神が己を鍛えて身につけた技術であり、そうでなければ培ってきた科学的知見によるものだ。神になれば手をかざすだけで不思議な力が使えると思ったか? そりゃ残念でした!」
ユージーンは手をかざすだけで恒の怪我を癒したが、あれも何かタネがあったのだろう。
神は決して仕掛けを見せないマジシャンのようだ。
恒が控え目に頷いたので、織図はかーっ、と大袈裟に額に手を当てて馬鹿にした。
「怪しい宗教団体みたいだな、おい。んなことがあるか。この世のあらゆる現象は全て科学で説明できる。マインドギャップというのは、精神活動電位を推測しようとするマインドブレイクを防御するために、神が故意に思考回路を撹乱する電気的、化学的シールドだ。マインドギャップはどうやって作るか、それはお前の脳をお前自身がコントロールする事によってだ。脳をどうやってコントロールするか、それは、心を鍛えることだよ。俺がお前に今日まで問いかけてきたような問題は、全て同時に2つ以上の事に思いをめぐらせる事ばかりだ。昨日の例でいうと、板を奪って助かった男が正しいとする場合と、奪われた方が助かるべきだったという場合の二つの場合がある。二律背反だな。そういう命題に取り組むお前の思考回路を見ていた。お前は独立に考え、それを最後に組み合わせ、結局結論を出せなかった。お前のマインドギャップは問題なく機能してる、より複雑な思考を組み立て思考の層を増やしてゆくことが課題だ」
織図は一気に喋って喉が渇いたらしく、自分で急須に茶葉を入れてポットに湯を注ぎに行った。
織図の言いたい事はつまりこうだ。
マインドギャップとは、傍流演算のようなもので、脳の表面に複数の電位を発生させて、本来の思考回路で発生してしまう電位の流れを撹乱することだ。
実際に複数の電位を発生させるにはどうしたらいいのか。
それは同時に二つ以上の事を考えればよい、この状態がマインドギャップ(心層)が一層以上あるという状態だ。
同時に二つ以上の事を自我のある状態で考える事は人間にはできない。
勿論、人間は無意識下で様々な身体機能の調節を行っている。
呼吸をし、心臓を動かすのは無意識の反応だ、これは一度に複数の事を考えているとは見なされない。
何故なら、身体の反射や調節で使用する脳領域は分かり切っているので、そこで電位が発生していても無視すればいい。
看破されるのは自我を持って思考する脳領域だけだ。
自我を持って考える間、脳では複雑なクロストークが起こっている。だから人間は一つの事しか考えられない。
あれこれと物事に思いを巡らせているようでも、実際の思考の対象は一つだけで、意識も一つだけだ。
複数の思考を走らせるときには、単独の思考の細切れを使う。
これが人間だ。
だが神は二つ以上の意識を持ち独立に物事を考える事が訓練次第で可能となる。
恒は織図の見たところ二つの意識を持っているそうだ。
マインドギャップはコンピューターがメモリを少しずつ割いて同時に独立の計算をすることに似ている。
「さあ、今日は第三の思考回路を必要とする命題だ」
マインドギャップとはあらゆることを同時に多面的に考えることだな、と恒は理解した。
だとしたら、こうやって織図との雑談の中でこそ学んでゆくことなのかもしれない。
死神、織図 継嗣と雑談をしながら、毎夜毎夜、恒は複雑な思考を組み上げてゆく訓練に勤しんでいた。
*
”1555522,1555523,1555524……”
ユージーンは薄暗い処刑場で、身も引き裂かれそうな苦痛の中、時折何かを呟いていた。
執行官は彼が継続的に何かを呟いているので、不審がって顔を見合わせていた。
枢軸神が精神を病んでしまったのだとしたら、陽階にとっては痛い損失だ。
法務局は陰階にも陽階にも肩入れをしているわけではないが、神階と生物階を動かす神々としてどちらかというと陽階神の方が重要視されていた。
「刑期満了だ、釈放」
ゲイル=リンクスワイラーが執行官に指示を飛ばす。
あらゆる虐待を受け続けてきたユージーンの神体は血まみれで、今は太い鉄の杭が何本も穿ちこまれている。血も流れては乾き、乾いてはまた傷つけられて、人型をした血の塊となってる。
彼は一瞬も意識を失うことなく、延々と耐え続けていた。
「あなたは刑期を全うされました。これから釈放の手続きに入ります。まず、ICUで傷を治療させていただき、傷が癒えれば公務復帰となります。傷が癒えるまでは入院となります」
「わたしはまだ規定の日数受刑をしておりません。何故釈放なのですか」
ユージーンは釈放までの時間を、静かに数えていたのだ。
彼は強い意志を持って、刑が終わる瞬間を待っていた。
ゲイルはちらりと時計を見やった。
「超法規的措置がとられました。私があなたを優良受刑者として減刑を求める嘆願書を提出しました。二柱の陽階枢軸神、更に一柱の陰階神も減刑の嘆願書を提出しました。これらの嘆願が聞き届けられ、あなたの刑期は1/3に短縮されました。釈放します」
「ゲイルさんが……? そして、三柱の神々とは……」
「一柱は主神で、もう二柱のうち陰階神は荻号様です。あとの一柱の御方はお見舞いにいらしてますよ。ICUにご案内しましょう」
「ゲイルさん……本当に、お世話になりました」
ユージーンは拘束されたまま深々と頭を下げた。
ゲイルはそれに応えることができなかった。
ユージーンは50年間保存してきた自己輸血用の血液を55%以上も使ってしまうほどに失血していた。
完膚なきまでに痛めつけられた彼は、そんな極限状態でもゲイルに感謝することを忘れてはいなかった。
圧倒されていたゲイルは彼に敬意を表して静かに黙礼した。
法務局は嘆願を出したゲイルを諌めてそれを取り下げさせようとしたが、陰陽枢軸神の三柱がゲイルの嘆願に相乗りして嘆願を出してきた上、その三柱がまた錚々たる面々だったので軽視することができなくなった。
そこで刑期の短縮が認められ、しかも異例の速さでユージーンは釈放となった。
頭の硬い法務局の連中とゲイルとの壮絶な駆け引きの結果がそこにはあった。
ユージーンは安心したように意識を失うと、拘束器から降ろされ、集中治療室に運ばれていった。
集中治療室では創傷の治療が行われ、神階で医神により処置が行われる。
それでも全治3日以上はかかるとのこと。
ユージーンは意識を取り戻すと、医師達の話をぼんやりと聞いていた。
瞼は腫れてしまって開かなかった。
失明しているのではないから、安静にしていればいいのだが……。
「妙ですな、やはり回復が際だって遅い。これでは退院のめどがたちません」
担当となった医師は点滴を打って、損傷の説明するとまた後で回診に来るといってそのまま去っていった。
点滴の痛み止めが入っているので、先程の意識が千切れ飛びそうな痛みはもうない。
ユージーンは何も考えず寝ようと思った。
風岳村の事も気になるが、今は意識が朦朧として考えられない。
もう25日もまともに寝ていない。
しかし、また誰かがやってきたようだ。
顔を少し上げて、近づいてきた足音の主を見上げた。
そういえば、嘆願を出した枢軸神がICUに見舞いに来ると言っていたっけ……すっかり忘れていた。
「汝は受難によく耐えた」
ユージーンの目が見えるならば、陽階神第10位、先代極陽、ジーザス=クライスト(Jesus Christ)がそこにいるはずだった。




