第1節 第1話 The foreigner came to the village
西暦2007年5月13日。
風岳村へ向かう電車に揺られていたユージーン=マズロー(Eugene Mazrow)は、手に持っていた英字新聞を読む振りをしながら、対角線上に座る少年からの視線に戸惑っていた。
”やけに見てくるな、あの子”
猜疑の眼差しで見つめてくる少年は十歳かそこらだろうか。
一日に六本しか運行されない府川線途中の鹿又駅から乗車した時には、乗っていなかった。
察するにそれ以降の駅から乗車して、切り離された車両から四両列車の先頭車両までやってきたのだろう。
”服に何かついてるか?”
アンティークの革のスーツケースをひとつ足元に置いて、漆黒のスーツ、襟元にはうす汚れた金茶色のネックレスといういでたちだ。
派手だとは思えないし、島国日本では幾分外国人が目立つものだという事を差し引いても、あれほど凝視されるのは気持ちよいものではない。
普段なら気にする事ではないのだろうが、これから赴く任地へ何一つでも不安を持ってゆきたくはない。
初夏の陽光が、少年に静かに影を落としている。
一時間が経ってとうとう乗客が二人きりになっても、少年は降りない。
少年はスポーツバッグのような大きな荷物を下敷きにして座っていた。
”まだ見てる……何でだろう。今は看破もできないし困ったな”
彼が能力を制限されているのは、懲罰環をつけられたときから分かっていた。
列車が快速で次々と鄙びた無人駅を通過する間、少年は時折怯えきった視線を投げかける。
三つの車両が切り離されやがて一両になり、心なしかスピードを上げて草原の中を切るように駆け抜けてゆく。
JR府川線、終点にして目的地の風岳村へは、ここから三つの駅を停車せずに通過する。
ユージーンの嫌な予感が確信に変わっていった。
少年は風岳村の村民なのだ。これではまずいことになる。
「こんにちは」
彼は敢えて視線を合わせ、驚かせないように気を配りつつ声をかける。
たった二人きりの車両の片隅にいた少年は逃げ場を失って目礼だけ寄越した。
「風岳村に行くの?」
少年は愛想笑いを浮かべながら頷くが、肩が小刻みに震えている。
「外国人は珍しいかい?」
「ご、ごめんなさい」
「よろしくね、わたしも風岳村に行くんだ」
少年の大きな瞳に、さあっと絶望の色が浮かんだ。
少年が返事に困って俯いていると、助け舟を出すかのように終点到着のアナウンスが車内に鳴り響いて、彼にとっては一瞬の隙が出来た。
ドアが開くと同時に、少年は荷物を慌てて引っつかみ、弾丸のように飛び出して、高い段差のあるプラットホームを鹿のように飛び跳ねて降りると、あっという間に視界から消えた。
無人駅で、切符を検められることもなかった。
”えー……そりゃないよ”
ユージーンは少年を見送るしかなかった。
二人きりになった車内で英語で話しかけられるのを恐れているのかと思っていたが、そうではなかったようだ。
彼のような子供がこの村にいては、仕事に支障が出かねない。ユージーンとしては興味を持たれる事で特に困ることはないのだが、怯えられるのは都合が悪かった。
彼は怪訝そうな顔で運転室からこちらを見ている運転手には会釈をし、ゆっくりと足元に置いていた荷物を担ぎ、今しがた少年の去っていったプラットホームに降り立った。
律儀に切符を錆びたブリキの回収箱に入れ、土ぼこりを被って崩れかけた石階段を下りていると、脇の草むらに黒い小さなものをみとめる。
つややかな革の財布だ。
その軌跡から、少年がプラットホームを飛び降りたまさにその時に落としたのだということは、疑う余地もなかった。
少年の持ち物とはいえ、立派な財産だ。
見て見ぬふりも出来ず、少年に届けなくてはならないだろう。
ユージーンは財布を拾い上げたその右手の手首にある、薄汚れたブレスレットを睨みつけるように目を落とす。
例の懲罰環だ。
”これのおかげで、随分と不自由をさせられる”
恨言を言っても仕方のない話で、素直に警察に届けるほかない。
落し物が財布である以上、他の拾得物のように目立つところに置いて少年が取りに戻るのを期待するのも非常識で、金額的にはいくら入っているのかなど、確認するのも億劫だ。
”まあ、こんなときは警察だ。というか、警察署あるのかな。駐在所だろうか”
彼は警察の所在地を村の中心部と推測していたが、駐在所だとすれば必ずしも中心部にあるとは限らない。どうも裏目裏目に事が運んでいるような気がした。
そのとき、横の畦道からまたもや十歳ばかりの少女が自転車に乗って飛び出してきた。
少女はユージーンに気づかないまま、ペダルを力強くこいで風のように十字路を通り過ぎてゆく。
ユージーンははっとして大きく手を振りながら叫んだ。
「ちょっと、まって!」
ユージーンは通過していってしまった少女に、走って駆け寄った。
背後から突然声をかけられて驚いたのか、急ブレーキをかける音がして、彼女は畦道の上でややバランスを崩したが、もちなおして足をついた。
彼女が笑顔で振り返ったのが、冴えない事続きのユージーンには唯一といってもよい嬉しい出来事だ。
少女は水色のワンピースを着て、髪の毛を肩のあたりに切りそろえ、茶目っ気たっぷりの瞳でこちらを見ている。
子供から向けられるのがいつもこういう視線なら、有難いのだが……。
「あー! 外人さんですか? 初めて見たー! あっ、外人さんって言っちゃダメなんだった」
「こんにちは。ちょっと道がわからなくて、警察に行く道を聞きたいのだけれど」
ユージーンは彼女のペースに持っていかれないように、淡々と話を続ける。
「知らない人と話しちゃダメって学校で言われてて」
「たしかに先生の言う通りだね。警察署のある方向、どっち? それだけ教えてくれたら嬉しい」
「道に迷ったとかですか?」
「男の子の財布なんだけど、拾ったんだ。警察に届けなきゃね」
「あ! これ! 見たことある。恒君のかもしれないです」
少女は例の少年と面識があったのか、財布を覚えていたようだ。
親の財布をそのままもらったような、あまりにもオーソドックスで落ち着きすぎたデザインだ。
「私、明日届けておきましょうか」
「財布だから今頃困っているだろう。すぐ警察に行くよ」
彼女は左腕のかわいらしいピンク色の腕時計を見遣り、時間を気にした。
「警察より恒君の家の方が近いです。この道をまっすぐ行って、あの坂を上ったところにあります。木でできた古い家で、藤堂って書いてありますから。でも漢字、読めます?」
「藤堂、ね。読めるよ、大丈夫。ところで……君は恒君の友達なんだね」
「あ、はいそうです」
山村の子供達は、横の繋がりが期待できる。
ユージーンは妙に彼の事が気になっていた。
少年少女には懐かれる事こそあれ、怯えられた経験など皆無に等しかったからだ。
「先ほど見かけたとき、何か様子が変だったけれど。いつもあんなのかな」
「あんなのってどんなのですか?」
「恥ずかしがりやとか、怖がりとか」
「? あの子は村一番のガキ大将なんですよ。学校にも行っていないのに、頭だけはすごくいいんです。天才的な頭のよさを、悪だくみにばかり使ってしまって……怖がりだなんて、ありえないです」
彼女はまくし立てるように話すと、面喰ったユージーンを見て体裁が悪そうに微笑んだ。
聞かれていないことまで喋ってしまったからだろう。
「義務教育期間なのに、学校に行っていない?」
「サボってるだけだと思いますけど」
「そ、そう。では、財布を届けに行ってみるよ」
「ありがとうございます。日本語、とてもお上手ですね。発音も完璧でびっくりです」
「日本に来て長いからね」
「そうなんですね!」
少女はそう言うと、自転車のカゴからはみ出しかけたピアノの楽譜を力任せに詰め込みながら、手を振ってよこした。
ユージーンも愛想よく手を振り少女の後姿を見送りながら、投げ出したスーツケースを取り上げ、轍のついた畦道を歩き始めた。
義務教育期間中、親が子供を学校に行かせなければ日本では罰せられるはずだが。
少し、家庭事情が気にかかる。
田植えを終えたばかりの稲の上を澄んだ青い風が撫で付け、じりじりと腕を焦がす太陽が痛いほどに注いでいる。
ここ、伊辺郡風岳村は高山盆地で、この地形に特有の光景が広がっている。
南北に風岳川が流れ、周囲を日真山脈、伊辺山脈らがぐるりととり囲み、のどかな田園風景がふもとの景色を彩っている。
吹き下ろす空気を胸いっぱいに吸い込み、深呼吸をして心を落ち着かせる。
少年に財布を届けて、話しをすればよいだけだ。
手間ではあるが、予定通りだった。
*
藤堂 恒の家は、険しい山道を行った先にあった。
少女の説明した通り古い大きな農家で、よく使い込まれた昔の農具などが無造作に置かれている。
広い畑がすぐ傍にあって、トタンでできた鶏小屋が隣に見えた。
保護者が出る事をわずかながらに期待しつつ、ユージーンは日に焼けてボロボロになったプラスチックのインターホンを鳴らす。
インターホンが鳴るとすぐに、奥の方から足音がした。
返事の声はない。彼が足音を注意深く聞いていると、すぐ間近にやってきて、ガラガラと立て付けの悪い玄関をこじ開けるようにして少年がおずおずと顔を出した。
ユージーンは愛想よくひらりと手をふってみた。
「やあ」
どんな反応を向けられるかは分っていた。
恒の表情は凍りつき、すぐさま扉を閉めようとしたので、ユージーンも閉められてなるものかと無理やり手を挟み込んだ。恒はそれを見て分かっていても容赦なく閉めたので、ユージーンはしたたかに指を挟みこまれた。
ガツン、という形容しがたい鈍い音がした。
「確かに不審者だけど、君の財布が落ちてたんだ。財布を渡すから、ここを開けてくれないか、藤堂 恒くん」
恒はしぶしぶといったように、玄関扉を半分ほど開いた。
ユージーンは挟まれた左手の指を抜いてまず財布を渡してやると、今度は扉を閉めようとはしなかった。
ユージーンは恒を根本的に性根の悪い子供だとは、どうしても思いたくはなかった。
この年頃の子供は扱いが難しい。
「ありがとう」
「どういたしまして。……君は、過去に外国人に酷いことをされたことでもあるの? いきなり手を挟むなんて……あ、いやまあ一人で留守番中には来客があっても開けないのが正解だな」
「……ごめんなさい。気が動転してしまって。上がって下さい。お詫びにお茶を入れます」
「いや、おうちの人がいないなら上がれないよ」
「母がもうすぐ帰りますので」
「そう? わかった」
障子の間からは殺風景な和室が連なっている。
恒はお茶を煎れるからと言って、襖を必要以上に閉め切ると、奥の間に消えていった。
恒は襖を閉めると、茶を出すといった先ほどの様子とはうってかわって必死の形相で、唐突に箪笥からありったけのものを手早く、しかし音を立てず引っ張り出してはぶちまけた。
音の出ない衣類から順に、郵便物なども座敷にあらん限りぶちまける。
冷静さを失った彼自身を客観的に振り返っているのか、暫くの間肩で息をしながら狼狽していたかと思うと、大きく息を吸い込んだ。
そして何やら覚悟を決めたように台所に駆け込み、まな板の上に置きっぱなしにしてあった出刃包丁の柄を腹部のシャツを巻きつけた手で掴み、左腕にざっくりと創傷をつくったのだ。
激痛をこらえつつ出血をタオルで押さえ、勝手口から音を立てずに出ると、彼は血痕を滴らせながら裸足のままひた走りに走った。
石ころに躓きながら坂道を石ころのように駆け下り、ふもとの民家の勝手口に転がり込む。
家の中には遠いお隣さんの、兼橋 佳代子が糠漬けの漬物樽の上に漬物石を置いたところだった。
突然勝手口から現われた恒にまず驚き、苦悶の表情と、赤黒く真っ赤に染まったタオルを見て、佳代子は悲鳴を飲み込む。
「恒ちゃん! どうしたの、その怪我!」
「おばちゃん! 家に、ご、強盗が! 切りつけられて……早く通報して!」
佳代子はすぐさま110番と119番に通報した。
恒の負傷は深く、血がだくだくとあふれ出してくる。
「も、もしもし! 強盗です。すぐ来てください! 住所は……」
佳代子は真っ青になって受話器を握り締めながら、へたり込んでガタガタと震えていた。
警察も消防も、緊急出動の模範のように、驚くほど早く現場に到着した。
この村は小規模な村でありながら警察署があり、ユージーンの見込みははずれていた。
西伊辺郡風岳村警察署の管轄区域は、西伊辺郡南部の伊辺町、風岳村、松澤村、中州江村、雨龍村の一町四村である。
警察署が設置されているのが、管内のほぼ中央に位置する人口およそ3500人の風岳村だ。
いかにも地方予算で建てましたといった小粋な外観の、村に似つかわしくないほど立派な警察署は、屋根に赤瓦を載せた平屋建てが多いこの村でも異彩を放っていた。
彼らが仕事らしい仕事をしているのを、村民の殆どはパトロールか隣町への出動以外に見たことはない。
そんな田舎の警察でも佳代子にとって、彼らの到着がどれほど心強かったことか分らない。
恒の体を毛布でくるんで温め、励ましながら一緒に救急車に乗り込んだ。
消防士が、警察は犯人を捕まえたようだと報告した。
犯人は風岳署に護送されたとのことだった。
恒はその話を聞いて、ほっとしたように頷いた。
*
二時間後、ユージーンは風岳署の取調室2にいた。
手首には手錠がかかっており、腰紐で椅子に縛られている。
恒が戻ってこないと思っていたらけたたましいパトカーのサイレンの音がして、藤堂家の前で止まるのだ。
何事かしらと思うより先に、事情も分からぬまま丸腰で出てゆくと即座に取り押さえられ、現行犯逮捕だとかでパトカーに詰め込まれ、今に至るというわけだった。
「わたしが一体何をしたというのです?」
彼は本当に何故現行犯逮捕されたのかが、何度説明されても理解できなかった。
確かに不審者ではあるし、両親の留守中の少年宅に上がり込みはした。
しかし不法侵入以上の罪状が思い浮かばない。
「しらばっくれるな。強盗に入った上、男の子の腕に15センチの傷をつくってくれたな。危うく殺されるところだったそうだ」
「子供を殺そうなど、恥ずかしいと思わんのか。室内には荒らされた形跡があり、凶器も見つかっている! 逃げられんぞ!」
二人の刑事に交互に責められ、凶器といわれる出刃包丁も見せられたが、一体何をどうコメントしてよいのかユージーンには分らなかった。
知らないものは知らないと言ってやりたかったが、よく状況を見てから答えたほうがいいな、と彼は言葉を飲む。
迂闊に発言すると不利益になりかねないからだ。
「いや、何のことですか」
「あのな。現行犯逮捕なの。今から指紋を照合してやるからな。ここに指をつくんだ!」
有無を言わさずスタンプに全ての指を押し付けられ、特殊な台紙にまたぐりぐりと指を押し付けられたが、そこにはのぺっとしたインクの黒い指型がついただけだった。
その指には10本が10本とも、指紋がない。
ユージーンはしまったという顔をしたが、それを見た刑事の顔色が変わった。
「なんだ、これは……さては、指紋を消してやがる」
「照会してみる必要があるだろう」
ユージーンはようやく事の重大さに気付かされた。
真犯人を見つけない限り、この村に滞在することなどできよう筈もない。
そして少年の虚言が証拠として挙げられてしまっている以上、身の潔白を証明する事も難しい。
よそ者、外国人、強盗傷害の容疑、どれをとっても彼には不利だ。
今回の任務は開始一日もたたないうちに頓挫してしまった。
ユージーンはそれを受け入れるまでに、警官たちの怒鳴り声を聞きながら暫し時間を要した。
*
「恒くん。これは痛かったなあ……。犯人は酷いことをする」
「はい……」
「命からがらだったってのに、犯人が憎くないのかい?」
「え、ええ……」
搬送先の上島医院の処置室にて恒は縫合の処置をしてもらう。
恒はどことなくうわの空だった。
常勤外科医にして院長の医師 上島 肇が、恒の処置にあたった。
彼はひと仕事を終え、縫合糸と針をメディカルボックスに廃棄する。
「いかんな、恒くん。いかんよ……」
「……」
「嘘をついちゃいかん」
「え?」
恒は思わず尋ね返した。
恒は巧妙に状況証拠をつくり上げ、誰にも見破られない自信があった。
だが上島は簡単に見破った。
「他のもんは騙せても、わしの目は騙せん。これはゆっくり切った傷だ。だからほら、ためらい傷になった。……ありえるか? 逃げ惑う恒君をこんな風に傷つけることができるかのう」
「……」
「シャツの腹の部分も不自然に切れとる。これは柄を内側に持ってきたんじゃろう」
冷房が苦手で白衣を二枚も着込んだ上島は、黙々と余った包帯を巻きながら、目を合わせることもなくぽつりとつぶやいた。
兼橋を別室に行かせたのは、恒の傷を見てすぐに見破ったからだ。
「おまえさんのためにも、真実を話さなければならない。わしが警察に行って、事情を説明してきてやろう。本当のことを、言ってもいいな?」
「……」
「行って来るぞ、いいな」
「駄目です!」
「駄目か。お前さんも辛かっただろうが、こうしている間にもその人は、警察で取り調べを受けているんだ。無実の罪でだぞ。これは相当に重いことだ。何故、その人を陥れたりしたんだね」
上島は厳しく問い質した。
恒の表情は怯えきっていた。
上島は恒のこのような顔を、記憶にある限り一度として見たことはない。
「だったら普通に言って信じてくれますか? あいつ人間じゃないって! 最初は見間違いかと思ったんです、でもよく見てると、まったく別の生き物が人間の恰好をして電車に座っているのが分かりました」
恒の目には恐怖からか、涙がにじんでいる。
「人間じゃない何かが人間のふりして、この村にやってきたんです! 奴を何とかこの村から追い出したかった。嘘をついたことは些細な事です! 俺の自作自演だったと先生が警察に言ったりしたら、奴は釈放されるでしょう。でも、奴をこの村に野放しにしてもいいんですか?」
上島は答えず、恒の真剣なまなざしに尚更心を痛めた。
彼の身体にこれほど大きな傷を入れてまでも訴えねばならなかった事なのだろうが。
「わしと共に署に行こう、彼が人間か否か。医者のわしにはごまかしはきかん。なぁにすぐわかる。そしてもし人間だったなら、恒君はきちんと謝るんだよ」
「……解りました。行きましょう。兼橋のおばちゃんには先生がお話ししてください」
恒はようやく納得をした。