第1節 第17話 The MATH, Fatina MATHEMATICA
陽階神第9位、数学神 ファティナ=マセマティカ(Fatina Mathematica)は臨時議会の閉会後、陽階から手当てのついた自分の部屋に戻るため、とぼとぼと帰途についた。
ますますもって、あの居候には出て行ってもらわなくてはならない。
身分上格上だから気が引けるが、絶対に負けてはならないんだから、と気合いを入れなおす。
へクス・カリキュレーション・フィールド(六方魔方陣演算空間:Hex Calculation Field)、そこは六方形の部屋の中に設置されたスーパーコンピュータールームであり、ファティナの神具だ。
この神具は陰陽階に現存する神具を含めても最大の大きさを誇る。
幾重ものパーソナリティチェックを受けてシステムのコアとなる、コンソールの部屋の中に入る。
この中はファティナしか入れない……筈だった。
コンソールは薄暗く冷え切っており、黒曜石のような質感の壁面や床はファティナから発せられるアトモスフィアの光をうけて、鈍い反射をみせている。
ファティナは靴音を響かせながら更に奥の部屋に入ると、ポケットの懐炉を擦ってかじかんだ白い手を温める。
息を吐くと白い湯気がたつ、室温は氷点下だ。
ファティナが椅子のようなコンソール台を見ると、専用のグローブとゴーグルをつけた荻号があおむけに寝ている。
正確に言えば荻号の抜け殻、本体だ。
荻号はこのコンソールから神体を電子化させて仮想空間に転送し、仮想空間の中で超速演算を行っているようだ。
ホログラムのモニターの中には、仮想空間に潜行中の電子化された荻号の姿が、緑のグリッドの間に極彩色のノイズにまみれて映っている。
荻号はファティナの進入に気づき、指先だけデータに集中しながら、モニターに顔を向けた。
これが現実空間と仮想空間をつなぐ唯一の窓だ。双方向の通信ができる。
”どうしてお前は、浮気者なの”
荻号だけが持つ特異体質、”全神具適合性”を知っていても、彼女は自身の神具の裏切りに嘆息する。
長年苦楽を共にした神具がファティナを差し置いて他神にいいように扱われているのであるから、屈辱を味わう。基本的に、神具というのは本来の持ち主が扱っても、熟練にはかなりの年月を要するものだ。
てこずるのは当然だし、力を暴発させて大怪我をすることも稀ではない。
取扱説明書も莫大な量が添付されている。
荻号は説明書を参照することもなく、彼自身の圧倒的なアトモスフィアで神具の持つ触性抗体をねじ伏せ、簡単に従えてしまう。
しかもファティナを立腹させることに、ただ力で支配するばかりではなく、持ち主よりも性能を最大限に引き出して使う。
ファティナはオーナーだということも忘れて、これはもともと彼の神具だったのではないかと思ってしまったほどだ。
ファティナの知らなかった機能やシステムが荻号に駆使されているのを見るにつけ、ファティナは自信を失っていた。
彼女は咳払いをすると、踊るように鮮やかにデータの波を操る彼に、勇気を振り絞って声をかけた。
「あの、荻号様。非常に申し上げにくいのですが、そろそろ神具を返していただけないでしょうか」
「占拠して悪いな、ファティナ。もう少しだけ使わせてくれ」
「これ以上は、私の仕事にも差し支えます」
「あんたの仕事? 並走させてるから問題ないよ」
「あなたが、私の仕事を? 複雑系シミュレーションですよ?」
「あんたがやりかけていて、やりたかったことは全部やってるよ。間違ってる箇所があったから修正もかけておいた。29890時間までやってる。これでも邪魔はしていないつもりだぜ。あんたもたまには休んだ方がいい……俺の本体のポケットにポイント貯めてもらったカフェの無料券があるから、ケーキセットでも食ってこいよ」
29890時間だと!? ファティナは数字を聞いて目を丸くする。ファティナの処理だとせいぜい178時間といったところだ、つまり彼の情報処理能力はファティナの160.8倍! それも片手間で!
たった半日で29890時間分ものシミュレーションをやってくれているのだから、もういっそ荻号に任せた方が効率的だ、まである。
仕事の効率にして換算すると、ファティナの1週間分ぐらいの仕事が片付いてしまっていることになる。
荻号という神は何者なのだろう?
陰陽階はINVISIBLEの研究などに力を入れるより、どちらかというと荻号自身の研究をした方が有意義ではないのか。
彼がいつから生きていて、どんな過去を持っているのか、神階に真実を知るものはない。
齢3000歳を超える神階最長老の神ですらも彼がいつからいたのか分からないという有様だ。
かの長老が物心がついた頃から荻号は既に神階にいて、今とまったく同じ姿をして既にこの調子だったという。
荻号は一体どのぐらい生きているのだろう?
3000年は生きているということになる。
だが、荻号の外見は人間で言うところの二十歳代にも見えるし、神とて少しずつ老化をしてくるという中で、微塵も老化をしていないようだ。
彼は生体時間を止めながら生きているのだろうか。
そしてどうやって、彼がこのようにずば抜けた能力を得たのかということも疑問だ。
彼は神の皮をかぶったまったく違う生き物のように思われる。
一体どんな生き方をすれば荻号のようになれるというのだろう。
いや、誰も彼のようになれはしない。
それが分かっているからこそ神階は、これほど素性の分からない荻号を後生大事にしてきたのだ。
彼ならばINVISIBLEが現れたとしても、いつものように飄々としていて、何とかしてくれそうな気がする……些少の希望が、神々をINVISIBLEに対する無力感から救ってきた。
だからといって荻号が神々の味方なのかというとそれも疑問だ。
成熟した神が2-3層という中で、荻号のマインドギャップは33層もあり、看破しようという気力さえ奪われてしまう。
誰も彼の心を看破できず、下心を読むこともできない。
ファティナは荻号が何を考えているのかをマインドブレイクで看破しようとはなから思わなかった。
ファティナの横には、意識を仮想空間に転送し自我を失った荻号の神体がある。
これだけ近い距離にいるのに、何もわからない。
ファティナは荻号の腰のあたりにあるポケットから、言われたとおり無料券を取り出した。
「これは、ありがたく頂戴しておきます。でも、見学をさせていただけませんか?」
「ん? いいけどそこは寒いでしょ」
「あなたの解析結果を、私も陽階神として見届ける義務があります」
「まあこれはユージーンのものだしな、解析が終われば返してやるつもりだ」
現実空間にある荻号の抜け殻は、一振の杖を抱えていた。
陽階神ユージーン=マズローの固有の攻撃的神具、G-CAM(分析的宇宙依拠現象把握機構:Grasp the Context by Analytical Microcosm)である。
荻号はこの中に詰め込まれたデータを解析するためにファティナの神具を使っている。
荻号の神体は、へクス・カリキュレーション・フィールド、G-CAM、相転星、そして慎刀。
合計4つもの神具を帯び、制御下に置いている。
ファティナはつい先日を振り返る。
荻号がG-CAMを持ってへクス・カリキュレーション・フィールドに現れた時、ファティナは丁度仮想空間から出たところだった。
ファティナの上司であり、後輩でもあるユージーンの手にではなく荻号の手にそれがあるのだから、ユージーンが死んでしまったのかと気が動転してしまった。
陽階神である彼が陰階神である荻号に、死の瞬間まで所持し続けるであろう神具を預けた事は、それほどの意味を持っていた。
しかもユージーンから直接預かったのだと聞いて、彼がどれほど逼迫した状況下にいるかという事が窺えた。
それでファティナは自らの仕事もとりあえず、荻号に快く神具を貸したのだ。
荻号の能力をもってすれば、G-CAMの解析など一瞬ですみそうなものだ。それほど難解な、あるいは膨大なデータなのだろうか? G-CAMの中には、何が入っているのだろう?
ファティナは疑問を抱えるが、荻号はいっこうに教えてくれようとはしなかった。
また、今回の一件でユージーンは法務局に拘束され処刑中だというのだから、尚更不審なデータだ。
中を窺い見てやりたいが、荻号はデータと痕跡を消しながら解析を行っている。
ファティナが後で解析ログを辿っても、永遠に手がかりなど見つかりはしないだろう。
心理戦をやるよりは、直接聞いてみたほうがいくらか可能性はあるかもしれない。
単刀直入に、ファティナは尋ねてみた。
「荻号様、そのデータは何ですか?」
「ああ、これ。空間異常が起こっていた地区の時空間歪曲状態の観測データだ。ユージーンが必死こいてとってきた」
「それは、生物階でですか?」
「そ」
荻号は回答をよこした。
ファティナは短いやりとりをしただけで、精神的にも肉体的にも消耗をする。
彼がたとえ何も考えていなくても、不必要に勘ぐりばかりをしてしまうからだ。
「これまでのデータからいえるのは、再びその地区に異変が起こるだろうって事だ」
荻号はファティナが何も知らないと思って不明瞭な物言いをしてくるのだろう。
だが今日の議題にあった言葉、”グラウンド・ゼロ”との関連を疑ったファティナは、踏み入って尋ねてみた。
「グラウンド・ゼロ の事ですか? そうなんですね?」
「そうだな。もう一度行って、調べてみるべきなのかもな」
「残念ですが、それはできませんよ」
「何故?」
「今後、グラウンド・ゼロには陰陽階所属の全神が介入禁止との勅令が出ています」
「いつ」
「本日付けでです」
「それは、極陽が決めた事じゃないだろ。比企が焚きつけ、誰かが推した」
ジーザス=クライストが極陽に強いて通した命令だ。
極陽はユージーンをうまく動かして、グラウンド・ゼロへの介入を望んでいた。
比企と極陽のいざこざ、ジーザスの仲裁、そんな構図が彼には一瞬にして見えたことだろう。
荻号は少しも動じている様子はなかった。
「まあいいさ。陰陽階所属の神はだろ?」
他にあてがある、そんな口調だ。
陰陽階に所属していないといえば、ファティナも確かに思い当たるふしがあった。
陰階神第9位、死神、ダグラス=ニーヴァー(Duglass Niever)、置換名 織図 継嗣だ。
死神である彼なら、陰陽階所属者として勅令に縛られる事はない。
彼は陰階に所属しているが、人間や動植物の生死を司る彼は中立であるために、彼の身分は陰陽階から独立していた。
しかも法務局の監査対象外という特権を持っている、その彼がグラウンド・ゼロに行くのは合法、言うなら完全犯罪だ。
荻号は織図と懇意にしている、織図も頼まれれば断りはしないだろう。
「織図様をグラウンド・ゼロへと遣わせて、何をするつもりですか。荻号様! 誰を代理に立てたにしても、神階の意思に反します」
「このままあれを放置しておくと、人死にが出るぞ。神階の意思とやらに、無実の人間を巻き込むつもりなのか? いや、人死にだけでは済まされない。いずれあの綻びから……」
「そんな……そんなに、大変な事が起こっているんですか……? グラウンド・ゼロとは、何を基準にしたゼロですの?」
「グラウンド・ゼロっていうのは、震源地だろ? 神階にとってのグラウンド・ゼロがあるとすれば、それは何だ?」
神階にとっての大災厄、それはINVISIBLEの介入しかありえない―― 。
荻号が最後まで言わずとも、ファティナは諒解する。
ファティナはこの話を、聞かなければよかったと後悔した。
INVISIBLEとは原始のエネルギーであり、空間創世を成し遂げた力。
それが今、何の目的を持ってか、あるいは何の目的も持たないままに生物階に介入しようとしているのだろう。
「そんな……」
宇宙の創造と破壊はどこででも起こりうる。
それがたとえば、教室の中であっても、トイレや引き出しの中から、缶ジュースの中からだって、原理的にはブラックホールが生まれもする。
宇宙はどこからはじまっているのか、空間はどこにあるのか。
神々も人々も、自らが宇宙の中に漂っている塵芥であるということを忘れている。
グラウンド・ゼロを基点に起ころうとしている事は、誰にも想像などつかない。
この空間にある者は均しくこの空間での思考に縛られているので、新たなる宇宙と接する境界面ではどんな空間法則が支配しているのかもわからない。
しかしひとつだけはっきりしている事がある。
それは破滅だ。
INVISIBLEからの介入が入るという事は、この時点で起こっている何かを変えようとしている。
「ブラインド・ウォッチメイカー(盲目の時計職人)がグラウンド・ゼロで何をするつもりなのか……時計職人は一体、この世界の何が気に入らないのか……」
モニターの中で電子のノイズはとぐろを巻き、火炎の嵐のように荻号を灼いていた。
神々は来るべきINVISIBLEの介入に、十分に備えてきたのだろうか――?
*
天野 凛はパジャマ姿のままスケッチブックをかかえ、とぼとぼと夜道を歩いていた。
街灯がないせいか、風岳村の夜は他の村と比べて深い。
のっぺりとした深淵がまとわりついてくる。
夜風が田畑を撫でるざざりという音でさえも、臆病な凛を震え上がらせる。
一瞬でも気を抜けば闇に引きずり込まれてしまうような危うさ、それを振り払うようにして、歩道もついていない車道を歩いていた。時折車のヘッドライトがぱあっと凛の影を浮かび上がらせたが、それほど勇気付けられはしない。やはり、彼に会うまでは……。
またしても父親の出張で一人ぼっちの自宅を飛び出し、逸る気持ちを抑えて走ったり歩いたりを繰り返しながらここまでやってきた。
ユージーンは今日は欠席だったが、夜まで社務所にいないということはないだろう。
きっと社務所には誰かがいる、それが神様でないにしても、きっと誰かがいてくれる。
凛にとって社務所は灯台のように、どんな闇の中でも光が点っている場所だった。
凛が顔を上げたとき、風岳神社入り口のバス停が見えた。
一日に5回しかバスのこないバス停だ。
深い杜の中にある神社、その傍らの風が吹けば飛ばされてしまいそうなプレハブが社務所だ。
砂利道を踏んで参道に入る。虫や蛙の鳴く声が聞こえた。
湿った玉砂利が、つっかけの裏にゴリゴリとした感触を伝えた。
真っ暗な参道の奥には、白熱灯の光が優しく点っていた。
神様は平日は寝ないらしいので、ここは交番の如く、24時間営業だ。
寝るのは土曜日だけと決めているのだそうだ。
凛はほっとして、社務所の中に駆け込んだ。
時間にしてその少し前だが、メファイストフェレスと皐月は社務所に戻ってきていた。
メファイストフェレスはユージーンが残していった端末を開くと、コンセントを繋いで電源を入れ、それと同時にファンクションキーのF10 を押した。
ユージーンのアトモスフィアを認証して起動するこのパソコンは、メファイストフェレスでは起動できない。
だが、持ち主以外が強制的に起動させることのできる、強制コードというものがある。
セキュリティのため1年毎に更新される強制コードの番号はユージーンに教えられていたし、法務局のゲイルに逮捕される前に、必要ならばこの端末を起動してもよいとの許可をもらっていた。
複雑な暗証コードを素早い操作で入力すると、制限モードで起動する。
これは持ち主以外のログインを認めたもので、プライバシーの保護のため、メールなどは閲覧できないモードになっていた。
皐月はぼんやりと、石沢 朱音のことを考えていた。
あの子が、天使だったなんて……。それを言うなら、藤堂 恒が、神様だったなんて……というのもある。今後皐月は教師として、彼らにどのような進路指導をすべきなのだろう? 人間として生きる事ができるなら、そうさせてやりたいものだが……、メファイストフェレスの話を聞く限り無理なようだ。
こんな悩みを持つ教師は、世界中にきっと皐月しかいない。
昨日から今日にかけて、あまりにも多くの事が起こりすぎた。
皐月は混乱する頭をかかえながら、ひたすらにしっかりしなくては、と心の中で繰り返した。どちらも大切な生徒のことだ。担任である自分がしっかりしなくては、子供たちを護れはしない。人間である皐月には何の力もないし、ユージーンや彼女のように誰かを護れるなどとは思っていないが、真実を知る事が身を護る事になる。智は力なり、先人はよく言ったものだ。
何か解る事があれば、少しずつ謎を解いてゆくしかない。
ふたりは並んで腰掛け、ふたりでモニターの視界を分かち合った。
昨日会ったばかりなのに、もうすっかりこのふたりは仲良しだ。
真剣な面持ちで端末に向かうメファイストフェレスに、皐月は控えめに尋ねてみた。
「何をするんですか?」
「とりあえず、神階の動きをさぐることね。敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、よ」
「敵って……神様たちが?」
「そうよ、ここまで証拠が挙がっているんだもの。主は何者かにハメられたのよ。恒も、ついでに朱音もね。この村で何が起こっているのかは分からないけれども、でもそれを見越して主を、恒を、朱音を利用しようとした者が神階にいる。彼にはわかっている筈よ……この村で何が起ころうとしているのか……」
「でも、ここで神様たちの動きをどうやって……」
「これよ」
メファイストフェレスはインターネットを立ち上げ、アドレスを打ち込んだ。
皐月の目の前に現れたのは、何語で書いてあるのかも分からない、夥しい文字列だ。
これは何の言語なのだろう。象形文字のようにも見える。
「お前には読めないでしょうね。これは神語といって、神階で用いられている表意文字なの」
メファイストフェレスはこれだけは皐月が唯一読めた、ページトップの【English】と書いてあるボタンをポチッと押した。
「英語ぐらいは、読めるでしょうね」
「大丈夫です」
皐月が見たのは、GL-ネットワークという文字だった。
神階情報連絡網(Gods Linkage Network)と横のほうには小さく正式名称が出ている。
官公庁のホームページのように用いられている、神々の公的なウェブサイトのようだ。
法務局からの通達という欄に、陽階7位枢軸 軍神 ユージーン=マズロー、 死者蘇生の罪により逮捕との見出しがついていた。
かなり大きな取り扱い、ヘッドラインだ。
「軍神って……何ですか?」
「面倒くさい質問はまたにして頂戴。戦争と平和を司る神のことよ」
メファイストフェレスはそれ以上は説明してくれようとはしなかった。
皐月は神は神というものなのだと思っていた。神話や伝承には確かに軍神という言葉もあるけれど、なんとかの神、という前置詞があるとは思わなかった。
軍神……ということは、戦争の神なのかしら……皐月の心は一気に暗くなった。
脳裏に、エドマ=ムスタフィを殺せと言っていたユージーンの言葉がまざまざと蘇る。
あれはやはり、殺害指令だったのだ。
教室をうるさく飛び回っていた蝿をも、殺さず外に逃がしてやっていた彼が殺人者だなんて。
余計な事を考えている暇はなかった。
ユージーンが帰って来た時に、直接聞いてみよう、思い煩う時間が勿体無い、脱線をしている場合ではないわ、と皐月は首を小さく左右に振った。
死者の蘇生は重罪。
法務局がユージーンに下した処分が掲載されていた。
身体罰、49日。メファイストフェレスはそのヘッドラインに目を細めると、さっさと読み飛ばした。
死んだほうがましだと思われるような刑を24時間、延々と49日も科せられるのは気の毒だが、ユージーン自身が決めたことだ。口出しをするつもりはない。
しかも執行猶予などというものはないから、もう既に刑を受け始めている頃だろう。
「フィジカル・パニッシュメント、49日間って、何ですか?」
「神階の刑法は選択式刑罰なの。主は最も短期間で済む身体罰を選んだのでしょうね、49日間、24時間の虐待のこと」
メファイストフェレスは丁寧に答えてくれる。
「虐待だなんて……本当に?」
「そうね、考えられる限りのありとあらゆる虐待が行われるわ。古典的なものから、現代的なものまでね。神々が博愛に生きるもんだと思ったら、大間違いよ。そんなことより……これはどういうことなのかしら」
メファイストフェレスがコツンとディスプレイを指した、記事は赤字で書かれていた。
読めと言われているのだと思って、皐月も顔を近づけて読む。
英語は論文で読みなれているが、神々特有の専門用語が多くててこずる。
まったく和訳になっていないな、と思いながらも苦労して訳してみた。
「ええと……アルティメイト・ポジティブの勅令、により、今後オーガニックフロアのエリア8936にはポジティブ・ネガティブにかかわらず、全ての神が介入禁止。……私にはさっぱり」
「下手糞な和訳ね。エリア8936とは、この村のことよ。そこにどんな神であれ今後は一柱も立ち入ってはいけないと、書いてあるのよ。神々の最高位にある者アルティメイト・ポジティブ(Ultimate Positive:極陽)の勅令でね」
これは一体、どういうことなのだろう。
確かユージーンをこの村に派遣したのは極陽だということだった。
自分で下した勅令を、自分で否定するなんて……。
あるいは、彼か? 極陽がユージーンをはめたのか? メファイストフェレスは渋い顔になった。
だとしたら、太刀打ちできない。
極陽は主神(Lord of Gods)、神階で最も権力を持つ。
実力だって神々の長たるものに相応しい……。
急に彼女がしかめっつらをして黙り込んでしまったので、他に手がかりはないものだろうかと、皐月は皐月で別の記事を見ていた。
こうなってくると、何から考えていいのかわからない。
メファイストフェレスもさすがに参ったといった顔をして、長い髪の毛を神経質そうにいじっていた。
メファイストフェレスは突然はっとして、胸の谷間のマクシミニマを取り出した。
「何かひらめいたんですか?」
「違う! たった今、この村に神が降臨したわ。どういうことなの? 神はこの村に介入禁止と、ここに書いてあるじゃない。誰が来たの? マクシミニマ、特定しなさい」
メファイストフェレスは神々の気配を察することができる。
いや、マクシミニマが胸の谷間でバイブしていたから気づいただけだ。
彼女はマクシミニマを哨戒モードにしており、この村に起こる異変を観測させていた。
皐月もすっかり見慣れた髑髏が、緑色の光を吐き出しながらカタカタと歯音を鳴らす。
"個別照合できません"
何故解析できないのかメファイストフェレスはすぐに思い当たった。
光学迷彩だ。
マクシミニマは光学情報を基に解析をしている、光学サーチモードが撹乱されているとしたら、光学迷彩を身にまとっているからだろう……すると降臨したのは陰階神だという証拠だ。
陽階神は光学迷彩能のある聖衣など着ない。
このタイミングで、陰階神が来るとは……。
彼は味方なのか、敵なのかすらもわからない。
面倒な事になったな、というのは皐月も察知した。
メファイストフェレスが小さく舌打ちをした時、ガラガラと社務所のドアが開いた。
メファイストフェレスは反射的にマクシミニマをそちらに向ける。
髑髏の目が赤く輝き、敵味方判別を行っている。
入ってきたのは、パジャマを着た少女だった。
「天野さんじゃないの」
皐月がそう声をかけ、メファイストフェレスも面識があった。
そう、天野 凛が社務所を訪ねてきたのだ。
皐月は立ち上がって、彼女を招き入れた。
天野は皐月を見てほっとしたような顔をしていたが、すぐにきょろきょろと辺りを見渡す。
ユージーンを捜しているのだという事ぐらい、すぐに見当がついた。
ここに住んでいるのは彼しかいない。
明かりがついているので、彼がいるとでも思って来たのだろう。
「どうしたの?」
条件反射から敵意をむきだしにしていたメファイストフェレスもとりあえずはマクシミニマを胸の谷間にしまって、天野が座るための椅子を寄越した。
これでも副担任代理だ。
一般人の子供を怯えさせてはならないと、さすがの彼女も心得ていた。
「私達でよければ、話してくれない?」
この一大事だというのに、という思いはおくびにも出さず、皐月は優しく彼女に語りかけた。
それよりも悩みだか用事だかを訊いて、早く帰ってもらわなくては。
こんな夜更けだから、自宅まで送っていかなくてはならないかもしれない。
ユージーンがいないので、凛は話すことを渋っているようだった。
「……うーん」
「妾達には、話しにくいような事? 何でも言ってくれていいのよ、力になるから」
メファイストフェレスは端末をスタンバイモードにして閉じてこちらの件に集中し、彼女の顔を覗き込んだ。
天野は安心したのだろうか、脇にしっかりと抱えていた緑色のスケッチブックを取り出した。
「前もなんですけど、無意識のうちにおばけみたいな、鬼みたいな絵を描いていて……でも、全然記憶にないんです。ユージーン先生なら、何か分かるかと思ってきたんです」
「とりあえずそれを、見せて頂戴」
凛はスケッチブックを、できるだけ自分では見ないように目をそむけながら、社務所のテーブルに置いてページを繰った。
メファイストフェレスと皐月はそれらを一つずつ見ていった。
皐月はそのスケッチのような絵を見て、信じられなかった。
凛はこんな絵を描くような子ではなかったのだ。
美しい自然の風景や、幻想的で抽象的なイメージを、独特の鮮やかな色彩で表現する子供だった。
それが、どのページを見ても怪物じみたおぞましい顔を描いている。
メファイストフェレスは頬杖をついて、ページを繰りながら一つずつ見ていた。
凛は震えながら二人の様子をうかがった。
「ど、どうですか?」
「どうして、こんな絵を? 全然、覚えていないの?」
凛は何も知らないと首を振るばかりだった。
メファイストフェレスは凛のために一杯の熱いお茶を入れ、おかきを皿に入れて、凛の前に置きながらこう言った。
「どうして、この絵を鬼だとかお化けだとか思ったの? 妾にはそうは見えないわ」
「だって、どう見たって鬼みたいじゃないですか。この子は怖がっているのに、そんな言い方……」
皐月が震える凛の肩を優しくさすってやりながら、代弁する。
するとメファイストフェレスは最初のページに描かれたこの世のものとも思えない異形の絵を、真っ赤なマニキュアで丁寧に塗られた長い爪のついた指で指した。
「よく見てごらんなさい。ここ、ここも、ここも……」
そしてその指をつい、と凛の方に向け、どこから取り出したのかも知れない黒い小さな手鏡を渡した。
「この怪物はとても詳細に描いてあるから、細かい部分がよく分かるわ。鏡でよく見てごらんなさい。ここに描いてある黒い点と、あなたの顔のほくろの位置と、まったく同じよ。先入観は時に、人の目を狂わせる。これは怪物や鬼なんかじゃない、天野さん自身の姿よ。自分がこんな顔をする筈がないと思い込んでいるから、自分の脳が判断できなかっただけでしょうね」
鏡を見て気づいた凛はもう既に恐怖のあまり、大声で泣き出していた。
皐月は必死で凛を抱きしめるほかなかった。
何も知らない筈の人間が、自分の未来の姿をこのように描いている……偶然だとは思えなかった。
危険がすぐそこまで、迫ってきているのだ。
「よく、この絵を持ってきてくれたわ……。自分をこんな顔に描く事は、ありえないものね。怖かったでしょうに」
メファイストフェレスは、また一枚ずつ絵をめくっていった。
皐月はティッシュを凛に渡すと、凛は盛大に鼻をかんだ。
「これは、阿鼻叫喚の地獄に遭遇している、あなた自身の絵よ。人間だって生き物だからね。危険を察知する本能が残っている。その本能が、未来を予知しているのかもしれないわ。ここから逃げろと、繰り返し警告している。よくわかったわ。人間達にも影響が出はじめている。荻号という神が空間を補正したけれど、これで終わりではなかったようね。皐月、妾はちょっと出かけてくるわ」
「私も行きます!」
「その子を置いてゆくつもりなの?」
メファイストフェレスは一応、凛を気にしていた。
どこに行くと言わなくとも、メファイストフェレスが風岳に降臨したという神のもとに行くという事はわかりきっていた。
ひとつずつ、少しずつ解らないことから片付けていくしかない。
村に来たその神が、何かを知っているのかもしれないと思ったのだろう。
情報交換に行くのか、それとも偵察に行くのかは状況によるだろう。
皐月は教師として、凛の傍から離れないのが正解だと思った。