第1節 第15話 Passion
皐月と恒は結局一睡もできず社務所からそのまま登校して教室に入ると、巧が登校している。
子供たちに興味本位で聞かれてとり囲まれている。
三途の川がどうだとか、霊界や天国はどうなっていたのかとか、子供ならではの話題だ。
恒は巧の元気そうな顔を見てほっとしたが、そんな話には興味が持てなかった。
恒にはこれから考えるべき事が山積みだった。
神になると決めた以上、彼らと同じ生活をし、苦楽を共にして歩む事ができるのは今だけだ。
すぐにではないが自分の人生は終わりに近づいている……ならば人生最後の日々を彼らのような、よき親友たちと過ごせる幸せを噛み締めるべきだ、と恒は思った。
物心がついた頃から、彼らとはずっと一緒だった。
村には娯楽が少ないので誰からともなくつるんでは野山を駆け回り、大自然の中を心身ともに成長してきた。
彼らはかけがえのない仲間だ。
彼らと別れなければならないということは、心を引き裂かれるように感じられる。
それでも、神々の世界に行かなくてはならない。
恒は複雑な思いを噛み締めながら彼らの輪の中に加わった。
「よ、恒。やーっとの事で病院抜けてきた。昨日は見舞いにきてくれてサンキュな」
「元気そうだな」
「だろー、なのに上島先生が帰らせてくれなくてよ。融通きかねーよな、昨日も夜から事故した怪我人が二人も来たらしくて、夜中3時ぐらいまで処置やってたのに俺の病室に来て、俺が寝てるか確認してるでやんの。まったく、医者っていつ寝るわけ?」
ついこの間まで死体だったというのにこの饒舌ぶりはどうだろう。
恒も少しは巧のバイタリティと底抜けの明るさを見習った方がよいのだろう。
巧の話で、上島は上島なりに昨日は大変な一夜を明かしたようだということがわかった。
石沢や波多野などのクラスメートも加わって、くだらない話に花を咲かせる。
彼らには何も話すことはできなかったが、彼らの笑顔を見るだけで久しぶりに恒の心は癒された。
教室には笑い声が響き、皐月はたまったテストの採点に勤しむ、ユージーンがいない事を除けば何もかもが元通りの朝の光景であった……はずだった。
突然、廊下をピンヒールのカツカツという音が響き渡り、こちらに近づいてきたかと思うと、勢いよく教室の黒板側のドアが開け放たれた。
ドアに貼り付けられた掲示物が、何枚かパラパラと床に落ちた。
「ちょっと! 皐月に恒! どうして起こしてくれないの!」
そうだった! 彼女がいたのだった。
恒と皐月は彼女を社務所に置き去りにしてきていた。
声の主には一斉に視線が向けられ、あれほど騒がしかった朝の教室が静まりかえる。
メファイストフェレスは仁王立ちになっていた。
「ご機嫌よう、おちびちゃんたち。今日から妾が副担任代理の教師よ。そうね、メリー先生とでも呼んでもらえるかしら」
何がメリーだ、「メ」しか本名と一致してないじゃないか、と恒はあいた口が塞がらない。
それより何より児童たちが目のやり場に困ったのは、彼女の派手な私服だった。
深緑色の斑模様のある黒いビロードの帽子を目深にかぶり、紅い紐のような素材が織りかさなったものが首の位置で束ねられている。
胸も露になり、腰もきゅっとくびれて惜しげもなく露出されている。
子供たちには刺激が強すぎるわ、と皐月は慌てて彼女を廊下に連れ出した。
「メファイストさん、困ります! そんなへそ出しの胸の谷間も見える服で、帽子までかぶっていらっしゃっても。授業は私が全部やりますから、間に合っています」
「何がいけないっていうの? 授業がやりたいの。やらせて頂戴」
「ここは文科省管轄の教育機関なんです。資格を持った教師が……」
「面白半分でやりたいって言ってるんじゃないわ。妾は人類心理学者なの。小学生の心理に興味がある、学問的な意味でよ」
「心理学者? あなたが?」
「そうよ」
「いやでも資格がないと無理です」
皐月にはとてもそうは見えなかったが、彼女は真剣だった。
教室の中から、子供たちが様子をうかがっていた。
ありとあらゆる窓の隙間から、子供達の真っ黒な目が覗いていた。
中ではきゃっきゃと騒ぐ声が聞こえてくる。この格好で教室に入れるわけにはいかない。
「じゃあ私の補助でいいですから、せめて教師らしい格好をしてください」
格好はともかくやる気だけはある様子だったので、任せてみる。
皐月はロッカーに替えのスーツを持っていたので、メファイストフェレスに手渡した。
教師は子供相手の仕事なのでとにかく服は汚れるし汗もかく。
替えのスーツを1着はロッカーに入れるようにしていたのが役立ったようだ。
彼女は渋々、といった顔で着替えはじめる。
「この服……サイズがあわないわ」
「でも丈はあってますし」
「胸がきついの」
人の服を貸りるだけでも有り難いと思ってほしいところなのに、そんな愚痴を付け足す。
メファイストフェレスのスタイルは抜群だった。
くびれた細い腰、豊かなバスト、長い脚にはほどよく添えられた筋肉が引き締まっている。
その体脂肪率は10%もないだろう……まるでスーパーモデルのようだ。
日本人体形の皐月と比べるとまるで人形のように均整がとれている。
「あら、ごめんなさいね、悪気はなかったの。貸してくれてありがとう」
メファイストフェレスはシャツのボタンを上から2つ外すと、ポーズをとってみせた。
はいはい、似合うから、と皐月は頷いた。
まだ胸が見えているが先程よりはいくらかましだ。
メファイストフェレスは再び颯爽と教室に入ってきた。
5分も遅刻をしてしまったが、一時間目は社会だ。
長い爪のついた指で、気取って教科書を開いた。
彼女にまともな授業ができるのだろうか……そんな心配は無用だったようだ。
彼女は皐月が懸念したような非常識な事は何一つなく、そつなく授業をこなしたので、最初はその強烈なキャラクターに面食らっていた児童たちもすぐに馴染んだ。
この村の子供たちの適応力はすさまじいし、もう大概の事には驚かなくなっているようだった。
*
「どうしても、気になる点がひとつだけある」
ゲイル=リンクスワイラーは腕組みをし、神経質そうに口元をいじった。
ユージーン=マズローは陰階と陽階のちょうど中間にある法務局に移送され、裁判が始まっていた。
壮麗な外観の法務局は第二種公務員である57柱の神々と、法務局に在籍する3000名の使徒から成っている。
刑の執行の前には形式ばかりの罪状認否が行われ、事実と異なっている場合には釈放されるが、故意に否認すれば更に刑罰は重くなる。
法務局は犯行の現場を録画して押さえてから拘束するので、いくら否認してもあまり意味を成さない。
弁護士もいないので、自分の弁護は自分でするしかない。
人間相手の弁護士資格は持っているが、ユージーンはあまり弁が立つほうではない。
ユージーンは拘束されたまま後ろ手に廻されて、被審議者として壇上に立たされていた。
ゲイルは監察官であるため横の監察官席に座り、正面の席には裁判官が裁判長を含めて26名座っていた。
枢軸神の裁判など久しぶりなので、同情も半分、物珍しさも半分といったところだ。
枢軸神の裁判といえば陽階より陰階神の方が件数が多く、荻号が常連組だ。
彼は46回も犯罪に手を染め、極刑も8回受けている。
これでよくクビにならないと思うが、極陽も極陰も荻号の存在を重視していたがために、100位には左遷されるものの追放はされず、彼の首はいつも皮一枚で繋がっていた。
彼は100位に降格しては、またたった一度の位申戦を経て4位に復活してくる。
罪を重ねる事がなければ、早々に極陰になっていた器だといわれている。
荻号にとって実力制という神階のシステムは都合がよかったことだろう、彼はいくら左遷されてもまた彼自身の力で地位と権力を取り戻すことができた。
陰階にはそんな例があるとしても、陽階神は滅多に法をたがえる事はなかったし、罪を犯す事は神として最も恥ずべき行為だという共通の認識があった。
ゲイルはユージーンの経歴に目を通していたが、品行方正で絶対に法を犯すような事はしてこなかった彼が、今回は一体どうしたというのだろう?
神が人の子を蘇らせるなんて……こんなケースは長い神階の歴史においてもはじめてだ。
「短絡的であり衝動的というか……軍神として任じられてより数十万からの人間を躊躇なく殺してきたというのに、たかだか少年ひとりのために、何故突飛な行動を?」
「監察官、我々は彼の罪を裁かなくてはならん。余計な尋問はするな」
ユージーンに問い詰めようとするゲイルを裁判官がたしなめた。
裁判長が書類に目を通しながら、今度はユージーンを見遣った。
判決は4時間の審理の末に、今にも下されようとしていた。
生物階でなら許されない、スピード判決だ。
「被疑者は何か申したき事があるか?」
「いいえ、ありません。罪を犯してしまい、深くおわびいたします」
ユージーンは自らの弁護も、情状酌量をしてもらうための弁明も一切しなかった。
鎖に繋がれたまま、ただ彼は全ての起訴事実を肯定しただけだ。
そんなに簡単に認めていいのかと、ゲイルが不安になったぐらいだ。
ユージーンが判決を待っているようだったので、裁判長は結審した。
「では判決を言い渡す。主文、被告は懲役165年、禁固122年、身体罰49日のいずれかの刑に処す。また、神具剥奪、位階の降格は陽階極位神の意向により免除された」
ユージーンは迷わず体罰を選んだ。
神は圧倒的な力を持つため、一つの罪が各方面にもたらす影響がはかりしれない。
犯罪を水際で防ぐのが法務局だが、生物階降下中の神に対してはどうしても犯罪を未然に防ぐということが難しい。
したがって生物階降下中の犯罪は量刑が重くなる……妥当な判決といえよう。
本当は身体罰は50日の規定だが、1日分は情状酌量で減っている。
ユージーンは判決には満足だった。
ゲイルは退廷後、判決の下ったユージーンの頚を鎖で繋ぎ、刑場にまで連行すると、次々と枷を嵌め込んだ。
これでいかに彼が力を振るおうとしても無効化され、抵抗ができなくなる。
虐待に耐え兼ね、暴れ狂うのを防ぐために彼の神体には33の枷が取り付けられた。
その鍵は法務局の金庫に保管され、刑を全うするまで外れる事はない。
第一種公務員の枢軸神が、格下の第二種公務員にこんなことをされて屈辱的だろうが体罰を選んだ以上、これより先は彼には何の権利もない。
これから49日間の虐待が始まる。
想像を絶する苦痛を与える事により、もう二度と犯罪に手を染める事のないようトラウマとなるまで叩き込む。
受刑服を着せられ、最後にヘッドギアのような目かくしをされた。
自らに虐待を加える者の姿を見ないようにしなければ、刑期が終わった後に逆恨みの対象となりかねない。
監察官ゲイル=リンクスワイラーの仕事はここまでだった。
それにしても……と余計なことを考えていて、とっくに慣れたはずの拘束の過程がもたついてしまう。
最初の虐待は、過電圧からはじまる。
神経が焼ききれる限界の電圧を、10時間もかけ続ける。
彼にブリーフィングをして早く退避しなければ、巻き添えをくってしまう。
ゲイルはユージーンが犯した罪が、とうとう最後まで理解できなかった。
「たかが人間一人のために、こうなる事を望んだのかね」
「よいのです。後悔はしていません」
ユージーンは頑ななまでの決意があったようだった。
そしてゲイルが知りたいような事など何も語る意思がないのだと、わざわざマインドブレイクをかけなくとも推測することができた。
ゲイルは諦めるしかない。
「ではもう何も言うまい。私もこれが仕事でね……悪くは思わないでくれ。では刑罰の内容を説明する。あなたはこれから24時間かたときも休む事なく、49日間の虐待を受け続ける。他の百年単位の刑罰に相当するのだから、それぐらい苛酷なのは当然だ。枷にはセンサーが組み込まれていて、意識が失われるとブザーが鳴る。刑は意識を失っている間は執行中と見なされない。あなたには余さず苦痛を感じていただく。意識を失えば失う程刑期は延長されてゆくから、早く解放されたければ気を確かに持つことだ。脳波は常時測定されていて、苦痛を感じていないと見なされれば虐待はエスカレートしてゆくだろう。また、刑の執行中はあなたの神体を著しく傷つけるため、大量の失血が見込まれる。瀕死になれば医療班が責任を持って処置にあたるが、輸血が必要となるだろう。普段から自己輸血用に定期的に採血しているものを使用する可能性があるので、その件は了承してもらいたい。ああ、それから心配しないでもらいたいが、刑を全うした暁には受刑中にできた創傷を跡形も遺さず治療すると約束する。説明はこのぐらいだ、何か質問は? なければ了承したと見なす」
ゲイルは何度となく言い聞かせてきただろう口上を淀みなく述べ聞かせる。
「了承しました」
「では、執行官に刑の執行を付託するものである、よいな」
「はい」
「ユージーン=マズロー……壊れなければいいが」
ゲイルは最後に僅かばかりの憐憫の眼差しを向け、枷を巨大な環の中に鎖を連結して彼を宙吊りにすると、環状の拘束器に拘束されたユージーンはまるでレオナルド・ダ・ヴィンチの人間のデッサンに描かれているような状態だ。
ゲイルは更に全ての鎖を弛みなく引き絞った。
吊された彼を見上げながら、珍しい神がいるものだと思った。
神がたった一人の人間のために自らをこれほどまでに犠牲にするような事は珍しい。
荻号も何度かこの手の罪を犯したが、彼の犯行動機は明確で、理路整然としていた。
もしユージーンの性質が生れつきのものだとすれば、どうしてもひっかかる……。
それは、自己犠牲の精神。
一見、全ての神々がそうであるように見えるが、根本的に違う。
神は首尾一貫した行動をとるものであり、なんとなくで衝動的な行動に及ぶ事はない。
陰陽階神法で義務と定められていない事で自らの不利益となるような事を敢えてはやらないものだ。
付け加えるなら、一人の人間を救うより、一人の人間を見殺しにしてでも大義のために働こうとする。
ゲイルは監察官だ。
心理学的にどのような葛藤が起こり、そして衝動的な行動に結び付いたのかがどうしても引っ掛かった。
そのような特徴を持つ神などいなかった。
彼に会うまでは……。
彼のやっていることといえば、群れから離れた一匹の蟻が重いブルドーザーなどの下敷きになろうとしている時に、蟻を轢き潰すなら自分を轢きなさいとわめきながら飛び出していって、事実轢かれてしまうのと同じだ。
誰もそんなことはしない。
そんな事をしていたら本質を見失ってしまう。
蟻は何匹か轢き潰されたとしても、蟻という種は維持されているのだから気にすることはないし、それよりも残った蟻の群れのためにそっと角砂糖を置いておくべきだというのが、一般的でかつ健康的な神の思考回路である。
ユージーンはかなり病的な思考回路をしている。
どうしてもこの点が気になる。
この神は、誰かに似ている。ゲイルの知る誰かだ。
そんなゲイルの懸念を妨げるように、処刑の開始時刻を告げるサイレンが鳴り響く。
いつもはそんな事など思ったことはないのに、今日はひどく不吉に聞こえた。
この神は一体、神々の、そして人々の未来に何を齎そうとしているのか――?
彼はきつく戒められたまま、ぎゅっと口を結んで吊り下げられている。
杞憂だと自らに言い聞かせ、足早に刑場を後にした。
*
「何、これ……」
藤堂 志帆梨は小さな声をあげた。
立て付けの悪い藤堂家のドアを修理するため、街の西急ハンズに行こうとしていた。
街の銀行のATMで、現金をおろしていたところだった。
街に出るのは久しぶりだ……10年ぶり、とまではいかないが、入退院を繰り返していた志帆梨にとって、病院に関係のない場所を自由に歩けるという事はもう数年はなかった。
通帳に記帳をしていたが、なかなか通帳が出てこない。
恒には100万ほど、生活費を入れた口座を作っておいてやったから、恒はその口座から生活費をおろして一人暮らしをしていた。
志帆梨の口座は自分のものだ、もう数年間も出納をしていない。
だから、記帳してもこんなに時間がかかるとは思えないのに、志帆梨の通帳は8ページも記帳して出てきた。
志帆梨は信じられないと叫びだしてしまいそうになりながら、通帳を握り締めた。
最も新しい記録は、つい3日前だ。
7月8日に50万の入金。
その前は6月1日に50万の入金……志帆梨はペラペラとページをめくっていった。
毎月、50万ずつの入金……3年前からだ!
つまり……残高、総額 2570万3922円!
この残高の中には、志帆梨自身が貯金していたものも含まれているが……2000万以上は振込みによるものだ。
志帆梨は頭を冷やして考え直すために、一度ATMから出た。
宝くじの3等か4等でも当たった気分だ。
これは何の間違いなのかしら、とトイレに駆け込み、もう一度中で通帳を開く。
入金をしてくる相手はいつも決まっている。
”株式会社 レイメイ”
聞いた事がない。
この会社は誰かと間違えて、志帆梨の口座に入金してきているのだとしか思えない。
後で問題になったら困る。
志帆梨は仕方なく銀行に戻り、入金をしてきた会社の電話番号を問い合わせてみた。
……電話番号は架空のもので、繋がらない。
これではその会社に連絡もとれない。
どんな会社なのかは分からないが、経理や事務職の社員が間違えて振り込んできているのだとしたら、会社に2000万の損失をもたらすこととなる。
やはり連絡しなくてはならない。
しかし、どうやって? 志帆梨は新規口座開設をして、もともと自分が貯金をしていた300万円をそちらに移し、残りの金は、元の口座に残しておいた。
風岳警察署に届けなくてはならない。
折角街に来たのだから、買い物はして帰ろう、そう思って新規口座から5万だけ引き出して、西急ハンズで日曜大工道具を買い、恒の下着を買ってやって、久々に自分の服を買った。
志帆梨は街の中をぶらぶらとショッピングをし、3時にはアフタヌーンコーヒーでコーヒーを飲み、シフォンケーキを食べた。
こんな生活が送れるのも、風岳村の神様が不治の病を治してくれたからだ、と彼女は一日一度、おやつの時間に、彼に感謝して祈りをささげるようにしていた。
この日もシフォンケーキを口に運ぶ前に、お祈りの言葉を忘れなかった。
”神様、私はあなたのおかげで、今日も元気です。このような贅沢なシフォンケーキを食べられます幸せを、お許しください”
ペロリと食べ終えると、恒とユージーンに土産のケーキを買い、店を出た。
店を出てすぐのデパートの地下に食品を買いに行くと、兼橋 佳代子の姿があった。
「あら! 藤堂さん! 早くしないとなくなるわよ!」
「はい、あと1分となって参りましたよー! そこのお母様も、お早くお買い求め下さい。はい、国産牛肉霜降り、国産牛肉が今だけこのお値段! お急ぎ下さいよー!」
見ると、タイムセールで国産牛肉の叩き売りが催されていた。
主婦たちが血相をかえて手を伸ばしている。
肉はついこの間夕食で出したからいいわ、と志帆梨は遠慮した。
一人1パックの激安卵もあったので、佳代子の分もとってやった。
息子はいるが主婦暦が短いので、どうしても他の主婦たちのたくましさと比べると貧弱だ。
帰りの電車で、やっとこさ席についた二人は、一息ついた。
佳代子が買いこんでいたらしい1本54円の缶入りオレンジジュースをくれた。
この主婦は、買い物上手だ。見習わなくてはならない。
「藤堂さん、もうすっかり元気そうね」
「ええ、おかげさまでこの通りです」
「恒ちゃんも、学校に行き始めたんだってねえ」
「そうなんです。これまでは恒が皆様にご迷惑をおかけしていたみたいで。入院中だったもので、そんなことを全然分かってなくて……親として恥ずかしいです」
志帆梨は、恒が不登校児だったということも、そして村人に迷惑をかけていたということも何一つ気づかなかった。
彼女の周囲は彼女の病状が悪化しないようにするために、気をつかってそのような情報をシャットアウトしていたのだ。
隣村の病院の医師を含めてである。
村には上島医院があるが、病床数も少なく、医師ひとりという事から高度医療は期待できない。
隣村の総合病院に入院していた事が、このような奇妙な事態をもたらしていた。
育児放棄とののしられても仕方がないところがある。
おまけに、恒は自活できるといって、施設にすら入りはしなかった。
自分が病気だったとはいえ、息子には随分迷惑をかけた。
「仕方がないじゃないの、あなたも色々あったんだしねえ。……でも、私は恒ちゃんがいい子だってこと、分かっていたつもりよ」
「ええ、兼橋さんにはお世話になっていたみたいで……これからも、お世話になります」
「何を言っているの、遠いお隣さんどうし、助け合いましょう! 私だってお世話になると思うわ。それに今年は火星人+が大殺界の年なのよ。もう私、気が気じゃなくってさあ」
「占いですから、気にされなくても」
「藤堂さんは、芽吹きの年ね、きっと」
佳代子は志帆梨の空き缶を小さなレジ袋にしまいながら、しみじみとそう言った。
「ねえ、再婚するつもりはないの? あなたはまだ若いし、父親の存在は恒ちゃんのためにもなるわ。すぐには考えられないかもしれないけど、あなたの将来の事もあるし……」
「再婚?」
結婚した事などないから初婚なのだが、つまり結婚など考えた事もなかった。
恒は父親がやってきた方が喜ぶのだろうか?
「でも……恒は神様のことを、父親のように思っているようです」
「社務所の神様? あの方、面白いわよねえ。普通は神様っていえば神社にいるものなのに、社務所にいらっしゃるだなんて」
しめ縄を神社と社務所のどちらにまけばよいのか、そういえば総代会が困っていた。
「恒は毎日会いに行ってますし、恒に色々な事を教えて下さっているようです。最近の恒はどこか満たされているように感じるんです。恒は恒なりに、父親の代わりを見つけたんじゃないでしょうか」
「でも……じゃあ、藤堂さんの老後はどうなるの? あなたが大財閥の令嬢だったらいいけど、そうじゃないでしょ? あなたが今から仕事を見つけて、定年まで病弱な身体で働くわけ? 主婦は楽よー、気兼ねがないわ」
佳代子のオバサン丸出しの打算的な言葉の影には、志帆梨への同情が見え隠れする。
2000万の金が、ふと頭の中をよぎった。
あれだけあれば……。
いやいや、あれはきちんと警察に届出なくてはならない。だいたい、あのような大金をもらえる覚えなど、ひとかけらもないのだ。
懐にしまってはならない。
第一そんなことをしても、神様にはお見通し。
お金にがめつい人間をわざわざご自分を傷つけてまで助けたなど、思いたくもないでしょうに……。
これからどうやって生きてくか。すぐにではないが、ぼんやり考えてもいられない。
就職先を見つけて、それから。
”結婚かあ……”
風岳村行き列車は志帆梨の不安など気にも留めず、いつものように軽快な音を立てながら草原の中を駆け抜けていた。
*
その数時間前、小学校では掃除の時間にさしかかっていた。
メファイストフェレスは給食を大盛りで平らげ、残りのプリン争奪戦にも加わっていた。
まったくおとなげがない、と皐月は思うが、彼女は無邪気で子供のように子供達と接し子供の視線に立って遊ぶので子供達には人気だ。
昼休憩が終わり、掃除の時間。
メファイストフェレスはしゅろ箒を持って、中庭の塵を掃いている。丁寧な仕事ぶりだ。それにしても彼女は魔女というだけあって、箒がよく似合う。
大きな帽子を片手で押さえながら、そのまま箒にまたがって飛び去ってしまいそうだった。窓を開け放った理科室の中から、クラスの子供達の声が聞こえてきた。
「理科準備室のそうじ当番、誰ー?」
「あそこやだー、変な標本とか置いてあって気持ちわりーの。巧行けよ、ホラー好きだろ」
「えー、俺? 俺こないだもだったじゃん」
「しょうがないね、私がやるよ」
石沢が手を上げた。男子はなんとなく体裁が悪い。
「じゃあ俺がやる」
手を上げたのはクラスいちの長身の坂下 実だ。それを見た巧は、なんとなく悔しかった。
坂下は石沢に思いを寄せているライバルのひとりだ。巧としてはおいしいところを譲るわけにはいかない。
「じゃあ俺も!」
「どうぞどうぞ」
巧が手を上げた途端、手を上げていた二人はさっと手を引っ込めて巧に譲った。どこかで見たお笑い芸人トリオのネタだ。これで前回も巧がひっかかった。
狙ってもできないのに、素でひっかかってしまうので、巧は馬鹿だ。狙ったって合わせられないタイミングを、ドンピシャの間合いでフリにあわせてくる。
巧は将来ソフトボール日本代表を目指しているらしいが、難波グランド花月あたりが就職先だろうな、そして売れるだろうな、と誰もが思っていた。
メファイストフェレスと皐月は理科室の外の中庭で、ちりとりを持って掃除の仕上げをしていた。
皐月は手際よく塵取りを差し出しながら、ユージーンの代打教師としての彼女を評価しはじめていた。
これなら、ユージーンの不在の間、安心して副担任を任せられるかもしれない。メファイストフェレスはきついからといって、3つめの胸ボタンを開いた。
胸の谷間が顔をのぞかせている。
子供達は掃除を終えて、教室に戻っていった。
中庭には人気がなく、中庭の池の鯉が口をあけて餌をねだっていた。さきほど子供達が中庭で取れた野ミミズをたくさんやったのに。
メファイストフェレスは箒を両手で握り締め、何かを考えながら水面を見下ろしていた。
皐月も掃除を終えて、声をかける。
「メファイストさん、お疲れさまです。子供達に人気ですね。でも、プリンは生徒に譲ってあげてください」
「皐月、この村はどうなっているのかしら」
「どうしたんですか?」
メファイストフェレスは胸の谷間からマクシミニマを取り出した。
この前フリだと胸の谷間から取り出すだろうと思った。
はいはい、もう胸が大きいのはわかったから、と皐月はお腹いっぱいだ。
この杖は警棒ほどの長さで短く、どこにでも仕込めそうだった。
「これはマクシミニマといって、多機能装置よ。こいつのお陰でわかったわ」
「何がですか?」
「神階に上げなければならない子供がいるの」
メファイストフェレスが給食の間、口いっぱいにパンを頬張りながらも子供達の顔をつぶさに観察しているように見えたのは、こんな事を思っていたからだろうか。
皐月は何のことを言っているのか、しばらく考え込んだ。つまりそれは恒のことだ。
今更何を言っているのだろう?
「藤堂くんの事ですよね? 神様だから」
「違うわ、恒は神にならないという選択肢も用意されているの。神はどこでだってひとりで生きてゆける存在よ。でもその子は違うわ。使徒なの。使徒って知ってる? お前達のいう天使のことよ。使徒は、神の傍らにいなければ飢えて死んでしまうわ。地上では生きてゆけない。今は恒に生かされているようなものだけど、恒が神になると決めて神階に上がったら、その子は死んでしまうわ。妾の滞在もずっとではないから、今言っておいた方がいいと思ってね」
「え……」
「それも、第二次成長期が終わるまでに上げなくてはならないわ。成長しきって翼が生えはじめてしまうと、もう無理ね。見た目にもそうだけど、莫大な神のアトモスフィアを必要とする。恒みたいに半神の、アトモスフィアの貧弱な神のもとでは生きてゆけないのよ。主も長くはこの村に滞在しないでしょうし。アトモスフィアの供給はいずれ断たれる」
「そ、そんなことが、この村でまた……偶然にでしょうか?」
「偶然なんかじゃないわ。何者かが偶然の姿を借りて、周到に組まれた計画の通りにやっていることよ。神が神階の目を逃れて生物階降下させられているというだけでもありえないことなのに、その傍らに偶然、使徒がいるなんてありえないわ。恒を神として覚醒させ、何かをさせようとしている。使徒の子供は利用されているのよ。この事を恒が知ったらどう思うと思う? その子の命を守る為に”神として”強くなってアトモスフィアを分け与えようとするわ。親友だもの、そう考えるわ。その子が人間社会で生きてゆけないのなら、自分も神階に上がってその子を助けようとするでしょうね。つまり、恒を神階に手繰り寄せて何かをさせようとしているのよ。そのために、主をこの村に派遣させ、神という存在をちらつかせた……温厚で、尊敬に値する神をね。神という存在に憧れさせるために、故意によ。とても卑怯なやり方だわ、断じて許されない。妾の美学にも反するわ、勿論、利用された主の美学にも……」
メファイストフェレスは悔しそうだ。
丁寧にケアされた真っ白な歯が、ぷっくりとした真っ赤な唇の間から見えた。
鯉はメファイストフェレスに餌をねだるのを諦めて、向こうに泳いでいった。
水紋が無神経に彼女の姿をかき乱す。
皐月の黒いスーツの背中が、直射日光を吸収して痛くなってきた。
「そ、それは誰なんですか? その、天使の子は」
「恒と親しい子よ。言ってもいいのかしら?」
皐月は鳥肌が立つのを感じながら、小刻みに首をふって頷いた。豊迫 巧なのではないか、皐月はそんな予感がした。彼らは幼少期からずっとかたときも離れた事がない。お互いに無二の親友と認めているらしい。
「豊迫君ですか?」
「使徒は、生まれつき高い知性を持つわ。成績優秀、容姿端麗、冷静沈着な子といえば、このクラスには一人しかいない。そうでしょ」
皐月の脳髄に、稲妻がはしったように思考回路が痺れた。
「石沢 朱音――それが使徒の名よ」
皐月の予想通り、メファイストフェレスの口からは少女の名がつむがれた。
水紋はまだ午後の強い日差しを照り返しながら、ゆらゆらといつまでも揺れていた。