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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第14話 SCM-STAR

 メファイストフェレスはG-CAMの解析終了を待ちわびていた。

 もうじき、ユージーンのアトモスフィアが尽きる。

 アトモスフィアが完全に尽きてしまえば、神具は駆動できない。

 命がけで解析をしたというのに、データの圧縮が終わらないままにシステムが停止してしまったら、無駄に終わってしまう。

 ユージーンはG-CAMの全ての機能を犠牲にして、解析速度を3倍速にまであげていたようだった。

 その時、杖の先端から末端にまで一すじの赤い光が宿り、明滅して解析が終了した事を知らせていた。


「主よ、解析が終わりましたよ」


 ユージーンから返事はない。

 本当に力尽きてしまいそうだ。

 メファイストフェレスは彼の持ち物である重さ60kgもあるG-CAMを黒いスエードのスカートで巻いて焼かれないように握りしめ、マクシミニマを足で踏みつけて、ユージーンを肩に担いだ。


「ほんとに馬鹿。でもよくやったわ……」


 メファイストフェレスは彼を担いで夜空に舞い上がった。

 いくらも飛ばないうちに、凄まじい力で上空から押し戻されている。

 足で操縦しているマクシミニマが、ガタガタと歯音を立てて悲鳴を上げている。

 ユージーンやG-CAMが重くて飛べないのではない、首刈峠に引き戻されている。

 ずるずると高度が下がってきた。


”重力レベル上昇中、120.5G 130G 140.2G 上昇しています”


「何とかなさい!」


 彼女の忠実な髑髏を叱咤しても、高度は下がってゆく。

 縋るようにひたすら上空を見上げたが、地獄の底に吸い込まれてゆく。


”高度15JTW、失速しています”


「わかってるわよ!」


 ここで堕ちてしまっては二度と這い上がれないような気がする。

 ここまでやり遂げたのに、諦められない。

 気は逸るが、身体は思うように動かない。

 空間の歪みから生じる重力に、身体中の臓器が引き絞られるかのようだ。


「ぐううっ――アああっ」


 メファイストフェレスから、声にならないうめき声が漏れた。

 もう一秒も耐えられない、眼を閉ざしそう思った瞬間、ふっと身体が軽くなり、彼女は腕を掴まれたのを感じた。

 はっとして目の前を見ると一柱の神が中空に佇んでいる。


「軍神下腹心の魔女ともあろうもんが、だらしないな」

「誰……?」

「お前らのケツを、まとめて拭いてやる。できるだけ遠くに行ってろ、消し飛ぶぞ」


 彼は200Gもの重力をものともせず、涼しい顔で浮かんでいる。

 彼はメファイストフェレスを上空に放り投げるように押し上げた。

 彼女とユージーンの身体は一気に500mほどの高度に放り出され、異常重力圏内を抜けた。

 重力を断ち切り、その反対へと解放したその者は、メファイストフェレスの長い生涯にも記憶にはない。

 ユージーンも異常圏内を抜けた事で意識を取り戻した。


「メファイストフェレス……何故お前がいる? ここは……!」

「あの者に助けられたのです、おそらくは神だと思います」


 ユージーンはメファイストフェレスからG-CAMを受け取るとそれを起動し、彼女の背から離れてひとりで夜空に浮かんだ。

 眼下を見ると、荻号が彼の首からネックレスを外そうとしていた。


「助けに来てくれたのか。ありがとう」

「あの神は何者です?」

「陰階4位 荻号 要様だ。誰がお前と荻号様を呼んだんだ?」

「藤堂という少年神です」

「恒君が……」


 荻号はネックレスを外し、トップの3つの環を垂直に組み合わせ、平面を立体に組み立てた。

 それが起動するところをユージーンは見たことがなかったが、その神具の伝説だけは聞いたことがある。

 3つの環は、現在、過去、未来の時間と空間を操る環だ。

 反応中心にある月と星は超速演算装置……相転星が起動しようとしている。

 発動者の周囲にある物体の存在する確率が変えられ、生きとし生ける者は無に帰すであろう。

 荻号は前駆動を行っているのだ、これから複雑な演算式をプロットし、相転星は600年ぶりに禁断の咆哮を上げる。

 神階最強の神具、そしてINVISIBLEの能力を受け継いだ三階最強のツールでもある。

 ユージーンは神階の至宝とも呼ばれる相転星が、今にも起動しようとしているのを見て震え上がった。


「あれは……相転星! なんてことだ、メファイストフェレス! ここから離れるんだ! 消滅してしまう!」

「何が起こるのです?」


「早くどかないと、このままゆくぜ……」


 荻号はユージーンに不敵な笑みを浮かべると、彼の意図を察したユージーンはメファイストフェレスの首根っこをひっつかまえて、そこから2kmほど離れた森の上まで瞬間移動をかけた。

 荻号はユージーンとメファイストフェレスが避難したのを確認すると、相転星をしっかりと握り締め、最後の安全装置を外して垂直交差していた外環を動かし、ギリギリと組み替えはじめた。

 ガチ、ガチ、ガチ、ガチと軋むような、呻くような金属音が、規則正しい金きり声のような音を紡ぎ出してゆく。


 X,Y,Z軸を定める組み換え角度の数列と音声コマンドで、自由自在にプログラムを組んでゆく。

 荻号はその場を支配している空間法則を解き放ち、時間と空間を支配下に置くことによって、首刈峠全体の時間の流れを変えようとしている。


”微小な可逆条件においてはφ、ψ、θ時間に移行し、不可逆条件においてはσ時間に固定する。位相Δωの熱量収束はPa-lnPb(-μc-μd)=0, Rt=(lnPc+lnPd/……”


 荻号を中心に放たれた歪みの巨球は、まるで太陽がプロミネンスを吐き出すようにうねりながら首刈峠を包んでいった。

 あれは、相転星の力学作用フィールド……ユージーンは真の神というものの姿を、垣間見たような気がした。

 彼が放散しているのは、純粋な暴力とエネルギーの塊だ。

 神具は彼の力の媒介に過ぎない、つまり今見ている現象は彼自身の能力に他ならない。

 彼は時間と空間を統御する、三階で唯一の存在だろう。

 彼の力は例えれば皺くちゃになった空間に、彼自身のエネルギーでアイロンをかけて矯正するようなものだ。

 荻号は相転星のスペックだと言うが、本当は彼自身の能力だということは一目瞭然だった。


”相間・転移せよ”


 荻号は発動の鍵となるコマンドを宣告した。

 その瞬間、相転星の作用フィールドにおける演算は完成し、まるで波紋のような空間のねじれが決定され、荻号の小手先で吹き飛ばすようなしぐさにより放射状に放たれた。

 ユージーンとメファイストフェレスの眼には僅かに観測されたが、人間の目には観測できなかったであろう。

 さきほどの巨球の地獄絵図が嘘のように水を打ったように静まり返り、夜の静寂が首刈峠の森の木々を浸透していった。


 荻号は深呼吸をし、目を閉じた。

 生ぬるい夏の風が、ユージーンとメファイストフェレスの頬を撫でながら、駆け抜けていった。

 荻号は月夜に濃いシルエットを残し、風を感じるように両手を僅かに拡げていた。

 相転星はまた平面へと丁寧に折りたたまれ、そのチェーンがだらしなく、彼の右手にぶら下がっていた。


 彼は何の苦労もなく、”ウィグナーの友人”が訪問するであろうドアを、消し去ったのだ――。

 本当に彼は神なのだろうか? 

 彼は神の姿をした何者かではないのか? 

 ユージーンはそんな事をさえ考えたのである。

 荻号はぼやぼやしていなかった。

 彼は一仕事を終えると、すぐにこちらに向かって瞬間移動をかけてきた。

 ユージーンとメファイストフェレスは荻号に称賛の言葉を贈る間もなかった。


「荻号様……」

「寝ぼけてる場合か! おい、ゲイル=リンクスワイラーが来るぞ」

「そうでした」

「そうでしたって、むざむざ捕まる気か?」


 荻号はゲイルの気配がすぐ傍に迫っていること、ユージーンがこれから受ける罰を知っていた。

 ユージーンにはもう一刻の時間もなかった。

 量刑によっては、永遠に生物階降下が認められなくなるかもしれない。

 法務局からの圧力がかかればいくら極陽の勅令を受けての事といっても極陽からの法務局への嘆願も聞き届けられないだろう。


 たかが一人人間を生かした、とはいえ人間の予定運命を捩じ曲げる事は、複雑系カオス理論に基づき展開される生物階の運営に、予測できない初期値をほうり込む事となる。

 これはとりもなおさず、数学神ファティナ=マセマティカ(Fatina Mathematica)が行っている正確な複雑系シミュレーションを不安定化させ、もしくは潰してしまうという事になるのだ。

 抑止力として、死者蘇生の量刑はことさら重く設定されていた。


「わたしは陽階神です。罪を犯したからには裁かれ、罰を受けなくてはなりません」

「お前、量刑を分かって言ってるんだろうな」

「分かりませんが、想像できます。……荻号様、一つお願いがあります」

「嘆願を出せってか」

「違います。これを解析していただきたいのです。先程まで起こっていた空間異常の解析データがあります。わたし以外にこのデータに触れられるのは、全神具適合性を持つあなたしかいません。そしてこのデータを読み解けるのも……」

「いいのか? 神具は神の心臓だ。生体年齢を犠牲にしてまで必死こいて取ったデータだろ。俺なんかに託すのか」

「刑が執行されている間は、受刑者は神具を握る事ができなくなります。もしくは刑によっては神具剥奪も追加される可能性があります。拘束される前の神具の譲渡は法的に問題ないでしょう。一刻も早くこれを解析してください! あなたしか出来ないんです」

「そうか。では預かった」


 荻号はデータの詰まった重いG‐CAMを片手で受け取る。

 神具が自らの手を離れたので神具の斥力による浮遊力を奪われ、ユージーンは仕方なく視床下部下垂体の付近にある自らの斥力中枢での飛翔に切り替えた。

 メファイストフェレスは荻号の手が神具の免疫反応により焦げつくかと思って眉をひそめていたが、彼女の思ったようにはならなかった。


 全神具適合性という体質を持つ荻号は、他神の神具を手にしても焼灼されるという事がない。

 彼は風貌と口のきき方さえ気にしなければ、人類が求め信仰する全知全能の神に限りなく近い存在だろう。

 彼の存在はこの世界のあらゆる謎の扉をいとも簡単に開閉するマスターキーのようだ、とユージーンは思う。

 彼は陰階神だが、今は陰陽言っている場合ではない、協力しなくては。


 荻号は今の今までユージーンの神具だったそれを軽く小脇に抱えて彼のアトモスフィアで支配し、服従させはじめた。

 G-CAMはかつての主の事など忘れて、荻号に屈服し青い基線の明滅を繰り返していた。

 しかもユージーンが操るより数段に滑らかな駆動をしている。

 ユージーンは頬の裏にわずかな屈辱を噛み締めたが、自らが申し出た事だ、仕方がない。

 ユージーンは先程から控えていたメファイストフェレスを振り返った。

 彼女は疲労しきっていたが、まだ従順なまなざしでユージーンを見つめていた。

 そういえば彼女が召喚されたのは10年ぶりだ、彼女はユージーンの知らない間にまた強靭になっている。

 自分が刑を受けている間にこの村を守れるとしたら、彼女しかいない――。


「それからメファイストフェレス。お前は”解階の門”が赦せばこの村に常駐し、できなければ川模廿日を喚べ。わたしはこの村にはもう戻ってくることができないかもしれない。指示は刑を終えてから出す、留守を、頼んだぞ……」

「拝承いたしました」


 荻号はふたりのやりとりを怪訝な顔をして観察していた。

 荻号はそれを眺めながら、ある提案を用意していた。

 ユージーンを助けられる権力を持つとしたら、彼ほど適した者はいない。

 何しろ荻号の声は神階の女帝、極陰をすら動かす。

 極陰は法務局への影響力を持つので、その気になれば刑を撤回させることだってできるだろう。


「陰陽階神法は一度決定されればいかなる例外も認めない。お前の刑罰は位神いしん復帰を考慮され、短時間で終わる苛酷な体罰、あるいは拷問となるだろう。神具剥奪や左遷は微妙なところだな。その齡での拷問は骨身にしみるぞ。本当に俺が恩赦の嘆願を出さなくていいのか? 司法取引に持ち込めば勝算がないわけじゃない」

「仕方がありません。わたしの責任ですから受け止めます」

「……少しでも辛い思いをしたくないなら、せめて若い身体で拷問に耐えるんだな」


 荻号は相転星を再び起動すると、右手にそれを持ち左手をユージーンの胸のあたりに押し当て、相転星と同期させた。

 荻号の手を通してユージーンの生体時間が矯正される。

 彼の外見年齢はすぐに以前の通りとなった。

 若さ、それは実感こそしなかったが、必要なものなのだとユージーンは改めて思い知らされる。

 神体は筋力を取り戻し、先ほどから続いていた息苦しさも消えてきた。


「ありがとうございます」

「まあ、あれだ。生きてりゃそのうちいい事もあるだろうさ」

「耐えてみせます」


 普段は死にたいとばかり思っている荻号の口から、柄にもない言葉が出てきた。

 法務局など消えてなくなればいい、そう願ってやまない荻号はその長い生涯においてありとあらゆる刑を執行された経歴を持ついわば受刑のエキスパートであり、もうこれ以上の苦痛はないという境地にまで到達してしまった。


 神階の刑罰は体罰と懲役、拘束の三種から選択できる。

 懲役100年、禁固1000年などという刑も存在するが、位神の場合執務できない状況が長く続くと免職となるので、たいていの神々は否応なしに体罰を選ぶ。

 神階には死刑がないかわりに、死んだ方がましだと思うような凄惨な苦痛を味わう拷問が延々と行われる。

 荻号は過酷な拷問を受けすぎて、痛覚が麻痺してしまった。

 ユージーンはこれまで従順な法の遵守者であったが、初めて拷問を受ける事となるだろう。

 豊迫 巧という、たったひとりの人の子を生かしたがためだ。

 

 荻号はG-CAMを手なずけ終えると、基空間という亜空間のアーカイブにG-CAMを隠匿し、メファイストフェレスはゲイルが降下する前に社務所へと戻った。


 ほどなく法の番人、ゲイル=リンクスワイラーが図ったようなタイミングで降下する。

 荻号の目の前で逮捕状をすらすらと読み上げた。

 荻号はまったくの無関心を装いながら、神の力を無効化し激痛を齎す縛鎖できつく戒められてゆくユージーンを見下ろした。

 それを見て、ゲイルは荻号がユージーンと行動をともにしていたことを訝しむ。


「ところで、何故二柱が共にいるのですか?」

「いや、今来たところだ。陽階神の逮捕なんて久々だし、見物にな。ユージーン=マズロー、陽階の若き新星がざまぁねえな」


 荻号はゲイルに怪しまれぬようぺらぺらとユージーンを蔑む言葉を投げかけると、ゲイルはそれ以上追及してこようとはしなかった。

 こいつに捕まったら、蛇のようにどこまでも付き纏われる。

 荻号は最後にユージーンの表情を見てほっとした。

 ユージーンの瞳には後悔の色など映ってはいなかったからだ。



 風岳村は平穏な日常を繰り返そうとしていた。

 あの後、恒は生還したメファイストフェレスと荻号に経緯を聞いて、やり場のないもどかしさを感じた。

 そしてまた嫌な予感が頭にこびりつく。

 ユージーンはもうこの村には戻ってこられないのではないか――と。


 ユージーンの不在を受け、メファイストフェレスが代わりに社務所に詰めることになった。

 もっとも、重い罪を犯してしまった彼が最後にメファイストフェレスを遣わせたのは、もはや任務必達の使命感からくるものではなく彼が人々に向けた純粋な優しさだ、と恒は思いたかった。


 彼は巧を蘇生させたばかりに法務局に拘束され、拷問にかけられる。

 彼の腹心であるメファイストフェレスはそのことを少しも歎きはしなかった。

 彼女は彼女でなすべき事があり、荻号は荻号でやるべき事があった。

 荻号はユージーンから託されたデータを解析するため、今度は怪鳥のタクシーも呼ばず陰階に戻っていった。

 皆それぞれの荷を負い、日常に戻る……。


 恒は皐月とともに明るみはじめた東の空を見上げた。

 いつの間にこんなに時間が経ったのだろう。

 荻号の取り戻した日常、霧の中の黎明が、恒と皐月に生きている実感を取り戻させてくれた。

 昨夜はもう、二度と朝など来ないような錯覚に陥っていたが、それでも朝はやってきた。

 闇と夜を司る神である荻号が去るのを待っていたかのように、霧の中を満遍なく陽光が満たしてゆく。

 二人とも何を言うでもなく、ただ淡い朝の日差しの中を屹立していた。


「お前たち、少し寝なさい。今日は授業があるのでしょう? 寝ぼけ眼で教壇に立つつもり?」


 メファイストフェレスはアルミサッシの窓をガラガラと開けながら外のふたりに呼び掛け、自分はユージーンの床に居座ってひと寝入りする算段だ。

 大事にしているらしいスエードの帽子を、ベッドの傍のデスクに置いているのが外から見えた。

 無鉄砲に見えるが、これでも皐月たち二人を心配してくれているのだろう。

 何しろ昨日は長かった。

 恒は昨日ほど長い一日を、ADAMの中でだって体験したことはなかったと思う。


「メファイストさん……ユージーンさんの言った通り、今日は長い一日でした……」

「生物階の一日は24時間じゃなかったのかしら? 今日はまだ始まったばかりじゃない。どんな事があっても新たな一日はやってくるものよ。腐ってる暇が惜しいわ、早く寝なさい」

「でも、こうしている間にもユージーンさんは拷問を受けていらっしゃるんですよね……」

「拷問ではなく正当な体罰刑よ。こうなる事が解っていて、主が決めた事なの。彼の覚悟にあたしたちが水をさしてはいけないわ」


 ポジティブ思考な魔女だな、と恒は口をつぐむ。


「俺、皆に頼ってばかりで何もできませんでした」

「藤堂くん。あなたはよくやったわ」

「出来なくて当然じゃない! 何かできる事があるなんて思わない事ね。神は神として生まれつくものじゃなく、血を吐くような努力をしてなるものなの。主やあの荻号という神みたいになろうなんて思ったら、ほんの1%も可能性がないわ。解ったら早く寝なさい」


 皐月のフォローを鮮やかな切り伏せ方で台無しにしてしまうと、メファイストフェレスはバタンとベッドに臥せ、また何かを思い出してまたガバッと起き上がった。

 彼女は化粧を落としたり歯磨きをしないのかと、皐月は下らない事が気になった。

 そんな皐月の眼差しを真っ黒い大きな瞳で見つめ返しながら、彼女は思い出したようにこう尋ねた。


「皐月。妾の担当の授業は何時に始まるの?」


 昨日会ったばかりなのに、もう皐月呼ばわりだ。

 皐月は呼び捨てにされた事より、彼女が今の今口にした言葉が気になった。

 彼女の担当の授業など、あるわけがない。

 ユージーンの担当の授業は、皐月が全部こなせばいいことだ。

 だいたい本来は担任しかおらず、分担している皐月のクラスが特殊なのだ。

 校長が勝手に決めた事なので文句も言えなかったが、メファイストフェレスがしゃしゃり出てくる余地はない。

 しかもこんなに高飛車な態度で……。


「え? あなたが授業を?」

「主の代理を仰せつかっているのよ。当然でしょう」

「それも仰せつかりました?」


 さすがに彼女は教員免許を持っている様子はないが、やるといったらきかないだろう。

 断る事も難しそうだったので、皐月はしぶしぶ答える。


「8時45分からです」

「じゃあ起こして」


 起こさない方が彼女と生徒のためなのではと皐月は頭の隅で考えた。

 彼女はそのまま窓を開けて寝てしまったのだが、ただ眠たいので寝たという訳ではなかったのだろう。皐月は現場での彼女の活躍を知らないが、想像を絶する修羅場になっていたのだろうな、ということは容易に推測できた。

 あの時間と空間の歪みの中に、何の躊躇もなく飛び込んでいった彼女は勇敢だ。

 そして彼女はきっと、皐月の知らないありったけの力をからっぽになるまで使い果たし、疲れ切っている。


 波動関数を収束させ、シュレーディンガーの猫は死んではいなかったのだということを、彼女という観測者は観測してくれたのだ。

 今は感謝の気持ちにたえない。


「藤堂君、私達も寝ましょう。彼女の言うとおりだわ」

「皐月先生……俺、決めました」

「え……何を?」


 恒は瞬きもせず朝日をまっすぐに見つめていた。

 その先に何があるのかと、皐月も思わず恒の視線を追ったが、見え始めたのは霧に覆われた新緑の小径だけだった。


「俺、神様になります」


 霧に紛れてしまいそうに頼りなげな言葉だった。

 皐月は恒にどんな言葉をかければいいかわからない。

 恒の横顔から窺える瞳は、涙をいっぱいに溜めているように見えた。

 この子は何故泣いているのか、皐月は恒のこんな表情をはじめて見た。


「な、何を言っているの? 藤堂君は、人間でもあるわけでしょ? お母さんもちゃんといらっしゃるんだし……」

「俺はユージーンさんや荻号さんみたいになれる自信はありません。でも、そうなりたいと思います。この村でこんな得体の知れない事件が起こっているのに、小さくなって怯えている事しかできないなんて、何もしていないのと一緒です。俺はこの村があまり好きではありませんでした。でも不思議です。今はこの村を何とかしたいと思うんです、ただその力がない……なら……」


「何を言っているの。もう終わったのよ、私達は助かったの! ウィグナーの友人は、もう扉を開けてくることはないのよ。怖い事が続いたから混乱しているんだわ、あなたの将来は、何もこんな時に考えなくてもいいじゃない。もっと腰をすえて、落ち着いて考えるべきよ」


「そうでしょうか」


 恒は俯いた。

 涙がこぼれてしまったので、泣き顔を見られたくないのだ。

 皐月はたまらず、彼をきつく抱きしめる。

 どうしてこの子は、どんどんと自分を追い詰めていってしまうのだろう。

 たくさんの思い出とともに笑顔で過ごすべき少年時代を、彼の心はいつも囚われて陽が差し込んではこなかった。

 ようやく見え始めた陽の光を、この子はまた見失ってしまう。

 皐月はひどく不安になった。


「原因があるから首刈峠はあんな事になったんです。過去から現在に至るまでずっと……ずっとです。きっとまた、同じ事が起こると思います。皐月先生はこれで終わりだと思いましたか? 誰も終わったなんて思ってはいないんです、ただそれを口に出すのが怖いだけで。――これは始まりです、先生だって本当は分かっているでしょう? 俺が子供だと思って、それを言わないでいる」


 聞くにたえない言葉だった。


「藤堂君は、子供なのよ……自分では忘れてしまっているのかもしれないけど、ねえ、何がいけないの? あなたは子供なの! この先は、ユージーン先生やさっきの神様みたいな、特別な力を持った大人の人たちに任せるべきなの。メファイストさんも言っていたじゃない、何かが出来るなんて思わない事だって。じゃないと藤堂君だけ、あなただけどんどん不幸になってしまう! 人には幸せに生きる権利があるの! あなたのお母さんの事だって、考えたことある? あなたが神様になってしまったら、お母さんはどう思うの! 日常に戻ろうよ……」


 皐月も途中から涙まじりになってきた。

 こんな事になっているのに、どうして逃げてはならないような気がするのだろう? 

 恒はいつでもこの村から引っ越して、新たな生活を手に入れる事だってできる。

 なのにどうしてこんな小さな子供が震える足で立ち上がって、彼の全てをなげうって立ち向かわなくてはならないような気がするのだろう? 

 彼の幸福の全てをなげうって、神になるとまで言わなければならなかったのだろう? 


 この謎は、”存在のありかた”そのものを問いかけてくる謎だ。

 彼や皐月が生きてきた人生は、果たして本当に”在った”のか? 

 世界はそこに”在る”のか? 

 この謎は、まるで暗い夜の海のように静かで、底が見えない。


 世界は驚くほど悪意に満ちたものであり、そして世界を根こそぎ失わせるものは無慈悲で無機的であり、どうやっても立ち向かいようがないものだ。


 ――存在確率の変化が、世界を滅ぼす。


 逃れられない巨大な刃が、今にも彼らの上に落下せんとして迫っているのが、皐月には見えたような気がした。


「それでも俺は、神様になります……!」


 それ以上何も言わせないよう、皐月はいっそう強い力で恒を抱きしめた。

 どこにも救済はない、皐月はそう思った。

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