第1節 第13話 The DARK, 荻号 要
メファイストフェレスは地図で確認した首刈峠という場所に直行した。
夜空を疾風のように翔けながら、彼女は髑髏のついた笏杖のような物体を携えている。
彼女が手にする小さな笏杖は魔法の杖などではなく、解階の科学力の粋を集めて造られた多機能装置だ。
この装置が斥力を発生させ、握るだけで飛行を可能としている。
ゴシックな髑髏のデザインは彼女の趣味であろう。
″高度250JTW、座標423・112・34、接近しています″
カタカタと気味の悪い歯音をたてながら、髑髏は彼女にナビゲーションをする。
メファイストフェレスはナビゲーションされた付近の地形を見た。
谷合いの風景に、糸のような峠道が敷かれている。
だが ……光が吸い込まれているかのように、周囲が暗い。
「暗闇は好きだけど、度が過ぎるのは気に入らないわ」
その時、握りしめていた笏杖についている髑髏がカタカタと音を立てた。
驚いて睨み付ける。
″時間および空間歪曲率、Level 5645、5646、5647 上昇中″
「何ですって!? 止まりなさい!」
メファイストフェレスは咄嗟に叫んで中空に静止した。
髑髏はエマージェンシーを示す赤い光を吐き出している。
接近を躊躇させた理由、それは時空間歪曲という言葉だ。
この周囲にユージーンの気配が残っていたので油断していた。
時空間歪曲は神階や解階で用いられている技術だが、実行するには時空間歪曲装置を必要とする。
今この場の現象は、解階や神階所属者が行使する時空間歪曲と似ているようで根本的に異なる。
広範囲の地域が、自然に空間歪曲を起こしている。
異常だ。
「こんな事が……自然現象でこんな事がありえるの?」
メファイストフェレスは千年余りを生きてきたが、こんな前例はない。
ユージーンはこの歪みの中心にいる。
恒に偉そうな事を言った手前、二の足を踏むのは癪にさわるが、ここに飛び込むべきではない。
″時間および空間歪曲率、レベル 5679、5678、5676 低下中″
メファイストフェレスは演算中枢である王冠髑髏、マクシミニマ(Maxi‐Minima)が故障してしまったのかとさえ思った。
この一帯の不自然な歪みは、拡大と収縮を繰り返している。そんな答えを導き出している。
メファイストフェレスは今、首刈峠に開かれた真っ黒な深淵を目の前に、判断を下す事ができないでいる。
″愚かな……考えなさい、メファイストフェレス。解階屈指の学者が聞いてあきれるわ″
「マクシミニマ、3秒ループで妾の代謝固定を行いなさい」
代謝固定は、生体時間を固定して進ませない解階の技術だ。
首刈峠の時間の流れは狂っている。
周囲の環境の時間の流れがどのようになっても、自身の生体時間を停止させておけば、生体が時間的な影響(老化や若返り)を受ける事はない。
しかし実際に生体時間を止めてしまうと動けなくなるので、彼女は3秒間だけの生体時間を切り取り、それをループさせる事で動けるようにするというのだ。
メファイストフェレスは髑髏を見つめながら思い出す。
ユージーンのG-CAMという神具には、生体時間を一時的にだがループさせるような機能があった筈だ。
更に神具というのは解階のツール(Tool:多機能装置)より多彩かつ高度な機能を持つので、ユージーンは対策はうってここに来ただろう。
メファイストフェレスは髑髏を大きく振りかぶると、歪みの中心へと潜っていった。
彼女はふわりと森の中に着地した。
履いていたピンヒールが腐葉土に食い込む感触が妙に気持ち悪く、すぐに浮遊して地上から少し距離をとった。
露出している肌も、総毛だっている。
生体時間をループさせているので何も感じないが、生身であったならとぞっとする。
森の中は静まりかえっており、夥しい虫や鳥、獣の死骸が散乱して殺伐としていた。
どれもこれも干からびている。
極度の乾燥のためか、腐敗バクテリアまで死んでいるとみえる。
現在首刈峠にいる生物は異常な時間の流れに耐えられず、死滅してしまったのではとメファイストは考察する。
メファイストフェレスは樹木の表面に触れ、コンコンと叩いて感触を確かめた。
炭のような感触をしていた。
この異常は何年も前から始まった訳ではないのだろう。
数ヶ月、二週間、いや、一週間以内の変化だ。
余計な事は後で考えるとして、こんな場所からは一刻も早くおさらばしたい。
早くユージーンを見つけなくては。
「主よー、どこにいらっしゃるのですかー?」
彼女の呼び声が空しく死者の森に吸い込まれてゆく。
ユージーンの気配が弱くなってきており、段々と方向感覚を見失う。
彼女は髑髏に命じて、生体反応の座標特定をさせようとしたが、今はメファイストフェレスの生体時間をループさせている最中だ。
タスクの増加はシステムを不安定化させる。
たった一度の判断をたがえただけで、いつでも自分は足元の死骸に追加されてしまうだろう。
結局は肉眼でユージーンを捜索する。
だが彼女がいくらも捜さないうちに、暗い繁みの中から、明らかに彼のものと分かる足がにょっきり出ているのが目に飛び込んできた。
メファイストフェレスは心臓を早鐘のようにうち鳴らしながら、思いきって繁みの中を覗きこんだ。
いた! ユージーンは木に神体をもたせかけて、意識を失っていたが、一振の杖だけは手放していない。
彼の固有の神具であるG-CAMが、せわしく明滅を繰り返している。
彼のアトモスフィアを極限まで奪い取り、解析が行われている。
ユージーンは生体時間のループにメモリを割くことをも放棄し、全メモリとアトモスフィアを空間異常解析につぎこんでいた。
「主よ。あなたはどうしようもない馬鹿だったのね。この異常を突き止めたって、帰ってこられなければ意味がないじゃない」
彼の生命をかけて解析はまだ続いている。
ここで救出して帰っては、彼のしたことが無駄になる。
メファイストフェレスはユージーンに寄り添いながら、髑髏にループをかけさせた。
″対象者解析中。対象者の生体代謝時間、昂進中。+454年、455年、昂進中です″
今この場所ではどうやら、時間の流れが早くなっているらしい。
彼はわずかの時間に450年も加齢している。
少し外見が老けて見える。
彼は彼の身が181歳の若い神である事を見越して、生体時間のループを断念したのだ。
神の寿命は3000年ほどあるので、死に至るような歳までにはならないと考えたのだろう。
彼は今現在、637歳の肉体年齢になっている。
メファイストフェレスはいたたまれず、すぐにループをかけた。
解析は殆ど終わっているようだ。
あと一息なら、こちらのメモリも彼のアトモスフィアももつだろう。
彼は一気に齡をとってしまったことで、筋肉が衰えていた。
450年間も体を動かさずに座っているのと同じ現象が、彼の神体に起こっているからだ。
「あの子の言うとおり、大変なことになっていたわね」
*
皐月は、恒が茫然自失としたまま動けなくなっているのを見て、彼の受けた衝撃を慮った。
皐月はというと、恒が神だと言われても心の底では納得できた。
彼は普通の子供と明らかに違っていた。
皐月は不登校児だった恒を学校に連れてくるために、どれだけ恒と駆け引きをしたかわからない。
その中で、恒は他の子供にはないカリスマ性と無限の可能性を持っている。
皐月は恒を奮い立たせるしかなかった。
「藤堂くん。もしあなたが神様だったしても、ここでくじけてしまわないで。私はあなたの味方だから」
「……皐月先生、俺……どうすれば」
「メファイストさんがユージーン先生を助けに行ってくれているでしょ。彼女を信じて、私たちが今しなきゃいけないことは何なの? それをしましょう、一緒にね。あなたは一人じゃないわ。時間と空間が歪むって、藤堂君はさっきそう言ったわね。それをもう一度説明して」
「何をするんですか?」
「何が起こっているのか、解を導き出すの。やってみせるわ」
皐月の瞳の奥が、まるで星空のように輝いていた。
恒はもともと皐月をあてにしていなかったが、それは大きな間違いだ。
時間と空間に対する解釈なら、これほど頼りになる人物はいなかった。
2年前、理論宇宙物理学界に彗星のように現れた若き天才が、科学雑誌の権威ともいえるサイエンス誌に、この10年間で最も美しいと評価されたある証明を掲載した。
著者は名だたる業績を持つ著者達の中にたった一人、何の業績もない日本人の女子大学院生。
その名を吉川 皐月といった。
かの証明は時間と空間の在り方に新たな解釈を与えた。
彼女の理論を応用する事によって、行き詰まりかけていた他の理論は命を注ぎ込まれたかのように大発展を見せた。
物理学分野から大いなる期待を寄せられながらも、彼女は二度と論文を出すことはなく、かねてより夢であったという小学校教師として今は教壇に立っている。
村人はこんな輝かしい業績を知らないが、恒はユージーンから聞いて知っていた。
インターネットからダウンロードした彼女の論文を読んだが、はじめの1ページ目で挫折した。
恒は彼女の学説が難解すぎて、まったく理解できなかった。
読めなかったのだから評価をする事ができず、そのまますっかり忘れていた。
付け加えて、恒がサイエンス誌の価値を知らなかったというのもある。
「皐月先生がいくら天才物理学者でも、初期値も実際の現象も仮定できないのに、どうやって……」
「おおざっぱだけど、仮説くらいならたてられるわ。構想だけを考えるしかないけれどね」
「皐月先生は理論系です。ならばしかるべきシミュレーションができるような環境がないと論は組み立てられない。例えば大学の研究室です」
「神様ともあろう方がそんなに簡単に諦めるの? あなたの事よ、藤堂君」
「からかわないで下さい」
「未来の研究者となる藤堂君の最初のテーマは、これを考えることよ。研究者はどんな分野においても、医学、化学、生物学、物理学、文学から考古学に至るまで、たった一つのことを解き明かそうとしているのだから」
「一つのこと?」
「そう。たった一つのこと。この世界は、どう在るのか? 自然の姿はどうあるのか、それを暴こうとしているの。藤堂君、諦めないで考えるのよ。神様だってまだ、この謎を解けないでいるに違いないわ」
皐月の探求心と真っ直ぐに伸びた剣のような頭脳は、2年のブランクの間に少しも衰えてなどいなかったのかもしれない。
そして皐月は、今日この日を迎えるためにこの村に導かれていたのかもしれないと感じていた。
「恒君、今、ユージーン先生は生きているのかしら?」
皐月は怖ろしいことを口にした。
皐月は今、おそらくユージーンを物体Aぐらいにしか思っていない。
それは彼女が非道だというのではなく、科学者としての冷静な仮定だ。
彼女は、すでに初期値を求め始めているのだろう。
「そんな事を聞くなんて……」
「ユージーン先生はメファイストさんが確認するまで、生きても死んでもいないわ、そう、彼女が彼を発見した瞬間に、波動関数は収束するの」
「シュレーディンガーの猫、ですか……」
これは比較的有名な話であり、恒も知っている。
量子力学の先駆者、エルヴィン・シュレーディンガーの時間の認識のしかただ。
猫を箱の中に入れる。その箱には放射性物質が入れられており、その放射性物質がα粒子を出すと毒ガスが箱の中に放出され、猫が死ぬ仕掛けだ。ただし、その放射性物質が一定時間後にα粒子を出すか出さないかは確率の問題であるとする。
一定時間が経過した後、箱の中の猫はどうなっているのか? 箱の蓋を開けてみるまで生きているのか、死んでいるのかわからない。
では、猫はいつ死んだと分かるのか。
……それは対象を観測者が観測した瞬間である。
それまでの間、猫は生きているともいえるし、または死んでいるともいえる。
一匹の猫が、生きている状態と死んでいる状態が同じ時間軸上に重なり合っているのだ。
皐月はその仮定を持ち出している。
「藤堂君。ユージーン先生は、観測者が観測をした瞬間に、生きているという現実に繋がるのよ。それまでは、ユージーン先生は刻まれたΔ《デルタ》ユージーン先生、つまり生きている状態と死んでいる状態が無限に続いている、おかしな状態になっているの」
「コペンハーゲン解釈ですね。観測者の存在が、実在を決定するという……」
「つまり、メファイストさんがユージーン先生を確認しに行かなければ、彼は死んでいたかもしれないわ」
「なんか……皐月先生は哲学者に転向したんですか?」
「まずは構想が必要なの。証明は後から行うものよ。藤堂君がさっき話してくれた現象は、それまでこれと決められていなかった時間の解釈を、いくつか潰したわ」
時間論に関する解釈は、山のようにある。
だが、恒の説明はそれらのうちいくつかの矛盾を一瞬にして暴いてしまった。
検証するとしたら、それほどの学説は残っていない。
皐月はまったく新しい学説を立てようとしているのではなかった。
今あるツールを用いて、最も確からしい学説を導き出す。
最初から証明をしようとしていたら時間が足りないし、大体、時間に関する真実がわかったところで、それを活かす術は彼女にはない。
「時間は既に、首刈峠から分岐しようとしているの。その場所は、Δ時間の状態になる。時間の末端と末端、つまり豊迫君の見た昭和初期の時間から、現代という間の時間までが、Δ時間になろうとしているのよ。豊迫君があの場所に迷い込んだ時、彼の生きている確率と死んでいる確率は揺らいでいたはず。そして観測者によって、彼の死が決定されたの。藤堂君、観測者は、どこに存在しているのかしら……」
皐月は宙を仰いでいる。
その頭脳に、何が閃いているのだろう。
「歴史的な時間の流れが、変わろうとしているわ。そこはきっと、修正された唯一の正しい歴史。観測者が観測した瞬間、私達の時間は固定されるのよ。つまり、私達は存在しなくなるかもしれないわ。時間の流れと真実は常に一つしか選ばれない」
「皐月先生は、怖ろしいことを考えますね……でも、観測者って誰なんですか? それは人間ではないし、神様でもありえないと思います」
「猫の入った箱を観測している私達がいる空間(部屋)の、ドアが開くわ。観測者がドアを開けてこの空間(部屋)に入ってこようとしているのよ。猫は死んでいたのか、生きていたのか、もしも観測者が死んでいたという現実を決定したとすれば、ドアは開かない。つまり私達は存在しなくなるわ。観測者によって選ばれた歴史がその瞬間、唯一の歴史となるの……私達は今、Δ時間の中にいるのよ」
「だとしたら、観測者は何を観測しにくるんですか? 死んでいた猫とは、生きていた猫とは、一体何を指しているんですか?」
「死んだ猫、生きた猫というのはあくまでも例えよ。実際には観測しにくるわけじゃないわ。真実の時間を決定するのよ。密室に閉ざされた私達から見て、そのドアは開くのかしら?」
恒は途中から皐月が何を言っているのかわからなくなったが、皐月らしくもない哲学的思考だと、一笑に付す事ができなかった。
皐月が言っているのは、”ウィグナーの友人”のパラドクスをさすのだろう、と恒は思った。
シュレーディンガーの猫の生死を観測している部屋に人がいて、密閉されていたとする。
実験が終わった頃に、その密室を訪ねてくるよう予め友人に申し伝えておく。
もし中の猫が死んでいるという現実が密室の外の人によって選択されたなら、密室の中にいて猫が生きているという現実に直面している人はどうなるのか。
消えてしまうのだろう。
もしくは猫が生きているいう現実に直面している密室の中の人からみれば、密室から外に繋がるドアはいつまでたっても開かない。
この場合は、密室の外の人が消えてしまったということになる。
これは密室の中の人と外の人が観測者として対等な立場の人間である場合だ。
だが、真の観測者が密室の外にいる場合にはどうなるのだろう。
消えてしまうのは密室の中の人間だ。
この現象が、首刈峠で起こっているという仮説を、皐月はたてている。
皐月の頭脳と才能を、恒が軽んじてよいはずがなかった。
恒は最近ちらっと読んだADAMのある文献が、頭の中を掠めていった。
神階の歴史において、空間創世者というエネルギーが、観測されているらしい。
創世者といっても、知性を持って考える存在ではないし見えないので、INVISIBLEと呼ばれている。
それは創造と破壊に転じる純粋なエネルギーであり、エネルギー保存の法則に基づいて、消失したりすることはない。
エネルギーは収縮すれば放散される。
シュレーディンガーの猫が死んだり生きたりするのと同じように不確定な確率によって、創造と破壊が決定されている。
INVISIBLEの確率的な選択によって、この世の全てが決められているというのだ……。
それが、神々の現時点での創世の解釈だった。
INVISIBLEが無慈悲な確率というまったくの偶然によって、Δ時間の扉を開こうとしているのか、もしくは永遠にその扉は、開かないのか?
「皐月先生、首刈峠は局所的にΔ時間化しているのでしょうか?」
「……違うと思うわ。ここは基点なのよ、首刈峠には禁断のドアがあるんだわ。それが開いた瞬間、もしくは開かないと決定された瞬間、この世界全体が滅亡すると思うの。私達の歴史は切り捨てられるのよ、何者かによって」
……INVISIBLE……それは、観測者なのだろうか?
*
荻号はもう一度懐中時計を見直した。
日本時間で12時半だ。
恒から電話がかかってこないということは、ユージーンは無事だったのだろうか。
第一使徒である鏑 二岐が、生物階降下の書類を用意して手続きを整えた。
荻号ほど影響力の大きな神だと、生物階に降下できる神の定員のうち13柱分のカウントとなり、法務局に迷惑がられる。
原則として生物階に干渉してはならない陰階神がそれだけの定員を占める事となれば、それだけ陽階の任務を妨げるので当然お咎めもある。
現在、生物階降下中の神はユージーンを含め3柱だそうだ。
ユージーンは4柱分の定員を占めるので、荻号が降下すれば残りの枠は3柱分しかない。
とすると必然的に降下中の残りの2柱は潜在的に定員2柱以上のカウントを割く枢軸神ではない非枢軸神だろう。
厳密に言えば恒もカウントされなくてはならないが、法務局が認識していないので仕方がない。
とにかく、そんな面倒な事になるので荻号は滅多な事がない限り、生物階降下ができなかったし彼自身も億劫だった。
生きているのも億劫な彼の事である。
それに、荻号が生物階降下を厭がるのは他の理由もあった。
生物階降下中の神は法務局により監査を受ける。
自由であろうとしてきた荻号はこれも不満だった。
二岐はそういう訳で、事実久しぶりに生物階降下の申請書類を書かされる事となった。
「珍しいじゃない。主が降下するなんて」
「まだそうと決まったわけじゃない。降りなくて済むもんなら御免願いたいものだな」
「それも、陽階神のためにだなんて」
「まあそう言うな。ユージーンが要請してきた訳ではない」
二岐に書かせた書類には、降下理由を空間異常の矯正としておいた。
実際にはユージーンの救助を目的としているのだが、陽階神が陰階枢軸に助けられるということは、ユージーンの不始末であり陽階上層部に大目玉をくらう。
恩を売るつもりはないが、配慮はしておく。
恒が荻号を必要としていないのなら、生物階降下は中止したかった。
荻号は待っているよりは連絡をした方が早いかと、携帯をとった。
さきほどかけた携帯電話の番号は、借り物なので、と恒から連絡先である社務所の電話番号を教えられていた。
*
深夜の社務所で、黒電話が鳴った。
恒が時計を見ながら受話器を取る。
そういえば、約束の時間を10分も過ぎていた。
こんな夜中にかかってくる電話のことだから、出る前から相手がわかっていた。
皐月と一緒に紙とペンを取り出して、方程式をたてている最中だったので、忘れていた。
『おい、連絡がないが、ユージーンは帰ってきたのか?』
「ごめんなさい、ちょっとたてこんでまして」
『生物階降下の手はずは整った。で、どうなんだ?』
「それが……まだなんです」
『わかった。今そこにいく。瞬間移動はできないから、ちょっと時間をくうがね』
「できない?」
『瞬間移動ってのは、自分の記憶にある場所にしか行けないものさ。ユージーンだって最初は交通手段で来ただろ?』
確かに。
ユージーンはこの村に電車に乗ってやってきた。
だから恒と出会うことになったのだ。
あの時恒が電車で彼に会わなかったら、今のこの状況はない。
ユージーンの趣味らしい、アンティークな茶色の時計が柱にかかっていた。
一体何の時間を刻んでいるのかわからない時計の針が5つもついているが、一番長い針と一番短い針がこの村の時間だ。
何かの交通手段で来るとしたら、タクシーぐらいしかない。
だが、神階から生物階まで、どれぐらいの距離があって、どれぐらいの時間がかかるのだろう?
「どのくらいで着きますか?」
『そうだな……10分ってとこだ』
「え! そんなに早く? 何で来るんですか?」
『タクシーだよ』
「わかりました。では、お待ちしています」
恒はさっぱり理解できないので、通話をきった。
荻号がどんなタクシーで来るかを考えるより、皐月と議論した方が有意義だ。
皐月は少しも手を動かす事をやめないまま、紙に猛烈なスピードで数式を書き付けていた。
皐月のいう、”構想の次は証明”、という段階なのだろう。
パソコンも専用のソフトもないが、皐月にはあまり関係がないらしかった。
恒も手伝える演算は分担しようと、席についた。
目の前にいる皐月は、学校で見る教育者としての皐月とはまったく違う表情をしている。
皐月先生は能ある鷹だったんだなあ……と、恒は知っていた筈なのに今更のように思う。
ひょっとすると自分は足手まといなのではないかとすら思えてくる。
皐月は恒の視線に気づいて顔を上げた。それでも、指先は止まらない。
「藤堂君、誰がくるの?」
「違う神様です、ウィズ=ウォルターさんという方で……半日前に救出を要請していたんです」
「その神様に、現場に連れて行ってもらうことはできる?」
皐月は、誰が来ようがどうでもいいといった顔をしていた。
ただ、彼女は目で見たことしか信じられない主義だ。
現場がどのような状況になっているのか、それを確かめようとしている。
おそらく彼女の命に代えても……研究者はたったひとつのことを解き明かそうとしていると力説していたぐらいだから、世界の在り方がどのようであったのか、それを目の当たりにする事ができるチャンスの代償が、彼女の死だったとしても躊躇はしないだろう。
「やめておくべきだと思いますけど」
社務所の外の木々が激しく揺れる音が聞こえてきた。
風速は60mほどあるのではないだろうか? 風岳神社の鈴が、ガラガラと鳴り響いている。
強風が吹いているのだ。
こんなプレハブ、吹き飛ばされてしまう……恒と皐月は驚いて、社務所を飛び出した。
台風が来たのではなかった。
恒と皐月は、月夜に浮かぶ真っ白な鳥を見た。
それは何の偏見もなく見れば、白いフクロウのように見える。
だが、サイズが違う、桁外れだ。通常の白フクロウの何十倍もある。
翼長だけでも15mはあるのだ。
フクロウの目玉だけでも、マンホールの蓋ほどある。
吹きすさぶ強風は巨鳥の羽ばたきによって生み出されている。
フクロウの首の付け根あたりに、人影があった。
一度会っていたので面識はある、荻号 要だ。
それを見ても、これが荻号のタクシーだったのか、と気づくまでにしばらくの時間を要した。
荻号は10m近くの高さから飛び降りて、フクロウは地上に降りることもなく、そのまま飛び去っていった。あとに残ったのは荻号だけだ。
「よ、お疲れさん」
陰階神第4位、闇神にして陰階参謀、最強神の荻号 要は、また今日も権威とはかけ離れたような実にだらしない格好で伸びをした。
生物階、すなわち地上で遭ったのは初めてだ。
皐月は初対面ながら、そのインパクトに面食らっていた。
彼は黒いシャツを着て、だらしなく髪を伸ばし、擦り切れそうな古いパンツをはいている。
首には趣味の悪いネックレス、腕や首にはこれまた趣味の悪い紐を巻きつけている……本当に陰階の権威なのかと疑わしくなるほど、何とも頼りがいのなさそうな風貌だ。
だが彼を知る者なら、言葉を交わすことすら羨んだだろう。
荻号要と直々に会うことができて、そして彼が願いを聞き届けてくれるのだとしたら、それは奇蹟だと。
皐月はとにかく、自己紹介しておくことにした。
こんな柄の悪い神様が、あてになるのかしら、などと思いながら。
「あー、自己紹介はいい。それより簡単な話と、現場はどこなのか教えてくれ」
「ですが、自己紹介ぐらい……」
皐月にとって、彼の第一印象は最悪だ。
荻号は少し無礼だったかと、気づいたようだ。
恒とは面識があるが、皐月とは面識もないし一般人だ。
あまり神が無礼な事をしていると、陽階の評価にも響いてくる。
法務局の査定も悪くなるだろう。
「じゃやるか? 俺は荻号 要、こんなだが一応神だ。そっちは藤堂 恒に、吉川 皐月だ。ん? 恒は自分が何者であったかを、ようやく理解したようだな」
一方的な自己紹介が終わってしまった。
「はい、ショックでしたけど……」
「まあそれは今考える事じゃない、お前が陽階神として叙階されるのはまだまだ先だし、ゆっくり考えるといいさ。それより、ユージーンのことだ」
荻号は社務所の中に自分から入っていって、勝手に皐月の飲みかけの茶をすすりはじめた。
荻号は皐月が途中まで書き付けていた紙をぴらりと手に取り、眺めていた。
皐月はどぎまぎしたが、荻号は彼女の動揺に構わずペンをとり、続きを書き始めた。
すらすらと、荻号の手が難解な数式を紡ぎだしてゆく。
その紙を返してくれないかしら、めちゃくちゃにされたら、今頭にあることが台無しになるじゃない、などと思ったが、皐月は口に出せなかった。
2分後、荻号は紙面の裏まで書き付けると、皐月に紙を戻す。
難解な数式が単純な仮定に置き換えられてすっとばされていた。
代わりに立てられたものは、神技としかいいようのない芸術的な証明だ。
皐月ははっとして目を見張った、外見に惑わされてはいけない。
この神様はこんな格好だけど、もの凄く頭がいいんだわ、と皐月は感心した。
「なかなか、冴えた頭をしているな。あんたのお陰で何が起こっているか分かった」
「”ウィグナーの友人”が開こうとしている密室の中の、シュレーディンガーの猫は、どうなってしまうのでしょうか?」
皐月は彼をはじめて神と認めた。
まだ恒はいきさつを説明していないが、数式だけでそれを読み取ったのだろう。
「さあな、そのドアを開かせなければいいんじゃないか?」
「ドアが開かないと、この時間は切り捨てられてしまうかもしれないんですよ?」
「そこにドアがあったことを、”ウィグナーの友人”に忘れさせてやるのさ」
「どういう事です?」
「”ウィグナーの友人”が、観測できないようにする」
荻号のすべてのやり取りは緩慢で、だらしない。
しかしそれがどこか余裕を感じさせる。
その不敵な様子が、恒には頼もしかった。
「ええっ! 観測者を消すのですか? そんなこと……」
「それができるんだよ」
「どうやって!」
「どうやって!」
皐月と恒は同時に尋ね返した。
時間と空間、そして確率をも変化させることのできるものがこの世に存在するとはとても思えない。
「こいつでだ」
荻号は首に掛かっていた趣味の悪いネックレスを、チェーンの付け根を持ってつまみ上げた。
3つの環の中に、不気味な月と星が入っている。
よく見ると月には顔が描いてあり、その目が皐月にぎょろりと向けられていた。
「相関転移星相装置(SCM-STAR)、こいつが600年ぶりに働いてくれるだろう。錆びてないといいが」
「それは何なんです」
「この世で唯一、時間と空間を統御する神具だ」
「私も、連れて行ってください」
「そりゃできないな。お前らはここで留守番してろ」
「行きたいんです!」
千載一遇の機会を逃してなるものかと、皐月は強く申し出た。
「吉川さんよ、あんたが行ったって巻き添えくって死ぬだけなんだわ。そういう死に方は、人間として不本意なんじゃないかね」
「あなたは! 帰ってこられますよね」
恒はこれが荻号の最期にならないかと煩悶する。
だが荻号には一片の迷いも感じられない。
荻号という神は外れ値のようだ。
いつから生きているのか、何故代々の所有者候補を即死させてきた最強の神具を、いとも簡単に身に帯びているのか、誰も知らない。
恒はだからこそ彼を信じられる、と思った。
闇には闇、謎には謎をもって迎え撃つしかない。
彼は複雑な系を、いとも簡単な値に変換することができる。
単純な構造ほど、真実の姿に近づく。
彼は世界の仕組みを知っていて、それを思い出しているだけなのかもしれない。
「帰ってくるさ」
荻号は二人を安心させるように力強く頷くと、社務所の扉を開け、静かに闇に紛れていった。