第1節 第12話 Mephistopheles
恒は母親に電話をかけていきさつを報告し、ご飯はいらないからと言うと、ひとりで社務所に戻り湯をわかした。
上島もユージーンの安否を気にしてはいたが、今日は当直医がいないので病院を離れられないと、申し訳なさそうにそう言った。
上島は重症患者をユージーンに送ったりしていたから、彼にとっては久々に気の抜けない夜になるのだろう。上島をあてにするのはお門違いだ。
「まだ、お帰りにならないの」
突然声がして振り向くと、皐月が社務所に入ってきた。
あれからユージーンが学校に戻らないので、心配して見に来たのだろう。
今日は陸上部の部活の日だったのだが、顧問がいなかったので生徒達も不審がっていた。
皐月はESSの指導が終わったあと、巧の見舞いに寄って、一度アパートに戻り、今朝がた鍋にあった肉じゃがを持って、すぐにこちらにやってきたのだそうだ。
「藤堂君、今日豊迫君のお見舞いに行ったでしょう」
「あ、ごめんなさい。ばれましたか」
「豊迫君が言っていたわ。首刈峠にだけは、行かせないでくれって……何を言っているのか分からないけど、そこに何かよくないものがあるのね。それをユージーン先生は調べに行かれたまま、帰ってこない、そうなの?」
「……そうです」
「とにかく、藤堂君が無事でよかったわ……」
皐月は心が晴れないまま、そう呟いた。
肉じゃがを社務所の冷蔵庫に入れると、皐月は恒を気遣った。
恒は学校でずっと塞ぎこんでいた。
休憩時間は明るく振舞っていたが、授業中の気の抜けたような様子を見て心中を察していたのだ。
「藤堂君、今日はもう家に帰るといいわ。ユージーン先生なら大丈夫よ」
「俺は、大丈夫じゃないと思います……」
「だからってここで何ができるの?」
皐月にだって何もできないのだ。
「皐月先生だって、ここで待つつもりじゃないんですか?」
「待つわ……先生が待っているから、藤堂君は帰りなさい。こんな場所で一人で待っていたら、危険だし……心細いでしょう」
「では、一緒に待ちましょう。そうすれば、心細くありません。ここには布団もあるし、夜を明かす事もできます。ここに一緒に泊まりましょう」
「明日は学校があるのよ?」
「では、一緒に学校に行けばいいでしょう」
皐月は冷蔵庫の中の肉じゃがを再び取り出し、社務所にあるレンジにかけた。
白米はないが、二人分の夕食には充分な量がある。
「夜は長いわ。まずは身体に何か温かいものを入れましょう」
皐月の手製の肉じゃがは、疲れ切った恒の胃袋を温めながら落ち込んでいった。
遅い夕食を終えると、恒と皐月は風呂をいただいた。
社務所は村長のはからいで増築されていて、シャワールームがあり、湯が出るようになっている。
疲れを癒してほしいということで、浴槽も設置されていた。
恒は無駄に社務所に来ては風呂を借りていたので、勝手は知っていた。
ボディーソープ、シャンプー、洗顔料などがある。
というか、恒が揃えてやったものだ。
彼は冷水で沐浴をすることが多い。
皐月は躊躇したようだが、一泊させてもらうのだからと、仕方なく風呂を借りる事にした。
皐月のアパートまで戻ると、恒をこんな一軒屋に一人にさせてしまって危険だからだ。
シャワールームからは、水音が聞こえてくる。
恒はこの間にも落ち着かなかった。
神が今朝まで寝泊まりをしていた室内は、まるきり生活感がない。
冷蔵庫の中にも恒が置いておいたウーロン茶以外には、何もなかった。
彼の荷物はといえば、ベッドの横にある古い革のトランクだけだ。
そのトランクの鍵が開いていた。
無用心なのか、何も貴重品がないから開いているのか。
もしくは、留守中に社務所に入る者などいないと安心しているのだろう。
恒は社務所のドアをピッキングで開けていたから、立派な不法侵入だ。
不審者は不審者らしく、ということで恒は手持ち無沙汰な事も手伝って、中を覗かせてもらった。
期待した程には、殆ど何も入っていない。
パソコンと、顔を拭くのか銭湯に行くのか何枚かのタオルがあった。
洗顔道具に、手帳、筆記用具に、ハードディスクなどの記録媒体。
神語で記された書籍。
計算式の書かれたノート。
下着を身につけていないのか、着替えの下着などもない。
私服はわずかながらにベッドの上に置いてあった。
そして丁寧に折り畳まれた一着の白衣。
神の装束らしく純白で、金色の透かし模様が入っている、しなやかな素材である。
こういう装束を見ると恒は彼が神であったと思い出すが、そうでなければ気さくな外国人であり、優しい教師だ。
明日彼が失踪したと知れば、生徒たちはどんなにか悲しむだろう。
恒は特に目をひくものが何もなかったのでがっかりして、それらを元のようにしまい込んだが、白衣の下から思いがけないものが出てきた。それは小さなコインのように見えた。
部分的に赤い錆のようなしみがついて汚れている。
恒はそのコインの染みが白衣を汚しては大変だと思ったので、コインを流しできれいに洗った。
鉄錆びのような汚れを洗い流してゆくと、コインの色は真っ黒だという事がわかった。
一体、何に使うのだろう? 恒は妙にこのコインの事が気になっていた。
神階には貨幣がない。
だから神階で彼が普通に使っていたとは考えられない。
だからといって、こんな黒い貨幣を使う国が地球上にあるとも思えない。
これはユージーンのお守りか何かだろうか?
それにしては汚れていたし……あまり大切にしてはいないようだ。
恒は困っていたが、ふとコインがはめられそうな場所を探しはじめた。
きっとこのコインは、どこかに嵌まるはずだ……不思議な直感だった。
コインの対となるものはこのトランクのどこかに入っているのだろう。
恒は勝手に物色するのは悪いとは思いながらも、必死になってそれを探しはじめた。
彼のトランクにはたくさんポケットがあるが、慌てず落ちついて一つ一つあらためた。
何でもいい、気がつく事は全てやってみよう。
直感はなるだけ大切にした方がいい。
他に方法が思いつかないのならば、結果はどうなるのかわからないが、何もしないよりましだ。
恒は自分にそう言い聞かせながら、何やら怪しいものを見つけた……それはマッチ箱ほどの小さな黒い箱だ。だがその表面には、コインが一つ嵌まるほどの窪みがある。
恒は意を決して窪みにコインを嵌めこむと、思いがけず一回転捩って奥に嵌め込む事ができた。
あまりにもすんなりとそれが嵌まり込んだので、期待して暫くそれを凝視していたが、何かが起こる様子もない。
マッチ箱のような黒いそれは金属でできており、小さい割にはずっしりと重かった。
一体何に使うものだろう。
コインを嵌めたあと、何かをしなければならないのだろうか? ユージーンが何の意味も機能も持たないオモチャのような物を持ち歩いているとも考えにくいが、これまでのところ何も起こらない。
恒が諦めてコインを抜き取ろうとした時、社務所の窓から視線を感じた。
はっとして振り向くと、窓の外には真っ黒な衣装を身に纏った背の高い女が音もなくこちらを見ていた。
彼女は整った顔立ちで美しかったが、深淵のような双眸が、人とは異質な何かを感じさせた。
目深に被ったスエードの帽子が季節外れだが、夏だからか、真っ白い肌をこれでもかと露出している。
惜し気もなく露出された腹部、女豹のような腰つきが官能的でもあった。
見るからに人間ではないと解ったが、恒はばっちりと目が合ってしまっていたので、目をそらすこともできず、窓を開けるしかなくなった。
彼女が会釈したので、警戒しながらも先に挨拶をしてみた。
「こんばんは」
「こんばんは、おちびちゃん。変ね。主に召喚されたと思ったのだけど」
「主ってどなたですか?」
「ユージーン=マズローという方よ。おちびちゃんは知らないかもしれないわね」
「藤堂 恒といいます。あなたのお名前は?」
「名乗る必要があるのかしら。妾はメファイストフェレス(Mephistopheles)、軍神下第0位の使徒なの」
軍神下第0位使徒、と言ったのだろうか。
彼女はウエーブが丁寧につけられた髪の毛をくるりと指に巻き付けた。
彼女は恒の手の中にコインがはめ込まれた小さな箱をみとめた。
「ああ、それ、おちびちゃんが嵌めたの。それは妾を呼び出すための発信装置だから、用がなければいたずらに呼び出さないでね」
メファイストフェレスとは変わった名だ。
まるでゲーテの代表作、ファウストに出てくる悪魔のような。
使徒ということは天使であろう彼女が、悪魔の名を戴いている。
恒は敢えて訊くのは失礼かと思ったが、彼女がユージーンの第0位使徒だというなら、そんな無礼ぐらいで腹を立てたりはしないだろう。
それより、今は気になったことを全て解消したほうがよい。
「メファイストさんて、変わったお名前ですね。まるでゲーテのファウストに出てくる……」
「それは別に見当外れではないわ。ゲーテのファウストに出てくるメファイストフェレス(メフィストフェレス)とは、妾の父の事だものね」
「え? じゃああなたは」
「魔女、と呼ばれる事もあるわね」
これが何かの冗談でなければ、神が魔女を側近に仕えさせている……しかも第0位ということは最上位使徒だ。
使徒は上位になるほど優れている。
軍神下第一使徒は響 以御であるということは分かっていたし、通常、神々は第0位使徒など定めない。
あまりよくない気配がする。
表立っては最高位として任命できなかった使徒ということだろう。
ユージーンの影の切り札といってもいい、恐らくはそんなポジションだ。
恒はもう、何がなんだかわからなくなってしまった。
荻号のいうよう、彼は確かに周到で、計算高い神なのかもしれない。
彼の闇を見たような気がした。
「でも……魔女なんて、いると思う?」
メファイストフェレスは優しく微笑みかけた。
その微笑は謎めいていて、かつ穏やかだった。
彼女は自らを魔女と呼びながら、思わせぶりなことをいう。
彼女がユージーンの最高位使徒なのは間違いないだろう、彼が持っていたコインによって呼び出されたのだし、恒を害しようとしてはいない。
発信機で合図を送ってから、現れるのが早すぎる。
ユージーンと同じく、瞬間移動を使えるのだろう。
無駄に呼び出されたことにもそれほど腹を立ててはいないようだ。
「今あなたにお会いするまでは、いないと思っていました」
「それでいいのよ。迷信に満ちた世界の中で、本質を見抜く目は、いつでも研ぎ澄ましておくことよ」
恒はユージーンが彼女がたった今説明してくれたように、自分は神と呼ばれるが神ではないと話していたのを思い出した。
彼女も恐らく、そういうことだ。
人智の及ばない能力を備えていて、そうであるが故に魔女として畏れられてきたのだろう。
恒はこの見た目はいかにも怪しい妖艶な女が、至って常識的で聡明だという事に感心した。
「わかりました」
「間違って召喚したのなら、戻るわね。主にもお会いせずに帰るわ」
「待って下さい! あなたの主が、大変なんです!」
「今、何と言ったの?」
メファイストフェレスはそれを聞いて、明らかに狼狽しているようだった。
シャワールームの水音が止まり、脱衣場で着替えをして、皐月が丁度風呂から上がってでてきた。
ほかほかの湯気の立つ皐月の肌を見ることもなく、恒はメファイストフェレスを見上げていた。
*
メファイストフェレスは話を真剣に聞いてくれたので、恒は心強かった。
真っ黒で光を吸収するような双眸も今はどことなく優しげに見える。
風呂上がりの皐月も話のこしを折るような事をせず、化粧水を塗るのも忘れて、恒の話に耳を傾けた。皐月は訊きこそしなかったが、彼女が人間ではないということは察していた。
メファイストフェレスは解階の住人だ。
そこは混沌の階層(カオティックフロア:Chaotic Floor)と呼ばれ、混沌と暴力が法であるという世界。
弱者に一切の生存権を認めないかの世界は、不変の神階、生命のゆりかごである生物階と比して、変化と進化の著しい世界だ。
万物は流転するという自明の理を、早回しで観察することができる。
解階は生物階より下の階層に位置し、生物階では地獄と混同されている。
解階の住民は自然淘汰と進化が著しいために、グロテスクな形態をとるものも中にはいる。
それは生物階でも突然変異体としてしばしば見られる現象だが、ずっと頻度が高い。
だが彼らは異形の怪物ではない。
核酸とタンパク質に基づいた肉体を持つ、DNA、RNAワールドの住民である。
彼らの遺伝情報は人の遺伝情報と同様に、遺伝情報を解読する事すらもできる。
解階とは、現在の生物階の何百万年、何億年後かの世界を暗示しているのかもしれない、というのはよく言われている。
メファイストフェレス、正確には父親と区別して”II”がつくのだが、彼女は解階の皇アルシエル =ジャンセン(Alsiel Jansen)の膝下に暮らす解階の特権階級の貴女である。
といっても、解階の住民は生物学的な意味ではもう殆どが女性だ。
性別を決定するY染色体はとうの昔に滅んでいた。
これは現在の生物階にもいえる事だが、Y染色体は遺伝子として対合する事のできない孤独な染色体で、対合しエラー修復をするということができず、ジャンクのようになった。
実際に人のY染色体も、現在では性を決定する以外にはわずかにしか機能を持たない。
あとは広大な遺伝子の残骸であり、人類においても男性の滅亡は避けられない宿命とされている。
生物階よりずっと進化速度の速い解階でも、男性は滅亡していた。
代わって現れたのが、性決定の遺伝子をX染色体上に持つ生物、それがメファイストフェレスを含む特権階級である。
彼女らのうち半数は、雄型の表現型を発現し、X染色体を持ちながら、男性の役割を担う。
見た目にはまったく完全な男性でありながら、彼らの染色体は女性である。
それでも慣習に倣い、男性型表現型を持つ者は男性として扱われている。
さて、メファイストフェレス親子は父(母でもあるが)、娘ともに権威ある人類心理学者で、父は研究のため生物階に滞在し、その際に出会ったひとりの作家に影響を与えることとなった。
作家ゲーテによるファウストの物語である。
解階の住民は感情に乏しいため、父親は人に対してかなり冷淡だ。
冷淡ではあるが、冷静で無口な研究者タイプの父親がどう間違って、お喋りで狡猾な悪魔メファイストフェレスのモデルにされてしまったものか、メファイストフェレスIIはゲーテの著作を読みながら首をかしげたものだ。
人の感情というものは理解しがたく、また複雑で興味深い。
いつしか娘も人類心理学者として父と同じ道を歩むようになっていた。
解階から生物階への出入りは統治者アルシエルの管理する解階の門(Hell's Gate)により厳しく制限されていたが、人類研究者という肩書を利用して彼女は生物階への出入りを頻繁に繰りかえした。
これを見咎めたのが神階である。
神階と解階は互いに、生物階への介入と出入りを最小限にするよう協定を結んでいた。
生物階という階層が、ちょうど神階と解階の中間に位置するためだ。
神階と解階は対立していたが、全面戦争は無益だし、解階も神階の支配や領土拡大を望んではいなかった。よって生物階は神階と解階の緩衝地帯として、できるだけ介入のないように制限しておく、と神階と解階は協定を結んでいた。
そして生物階の平和を維持してゆくための最小限の干渉は、アルシエルの意向も反映した上で、神階が行う、とも。
神階では、一度に生物階に降下できる神の定員を20柱までと定めている。
神が生物階に降下する際にはまず法務局に届け出て、20柱の定員に入るよう手続きをしなくてはならない。
定員オーバーだと、定員があくまで待たねばならないこととなる。
これに対し解階も20名までだ。
特権階級にある者は解階の中でもとりわけ強い力を持つため、生物階に与える影響は甚大であり、最低でも定員2名分と換算される。
メファイストフェレスが管理局である解階の門を経由せず、頻繁に生物階への出入りを繰り返した事が神階の法務局に通達され、危険因子として掃討されることとなった。
この時彼女の討伐に充てられたのが、攻撃的神具を所有し、かつ高い戦闘能力を誇る軍神、ユージーン=マズローだったというわけだ。
神階は違反通知を解階に提出し、アルシエルの検印によりメファイストフェレスの処罰が申し付けられた。
メファイストフェレスはユージーンと解階の刺客にすんでのところまで追い詰められ、手負いにさせられた。
彼女はもはやこれまでと死を覚悟したが、ユージーンはとどめをさす事ができず、法務局に討伐の証として彼女の血を提出し、傷を癒して解階に戻してやったのだった。
解階では父親の嘆願が聞き入れられ、アルシエルからは軽い罰で済んだ。
慈悲という行為に初めて触れた彼女は、ユージーンに何か報いたいと考えるようになった。
それには使徒として召し抱えてもらい、彼のために働くのがよいだろうと考え、そう申し出た。
彼は正式な書類にて丁重に断ってきた。
神と使徒の関係は相利共生に基づく特別なものだ、だから解階の住民であり何の利害関係もないメファイストフェレスとはうまくいくとは思えない、それにメファイストフェレスは既に殺した事になっているので神階から隠れているべきだ、付け加えて使徒にするには実力不足だ、と。
メファイストフェレスはせっかく解階の貴族というプライドを投げ捨てて申し出たのに相手にしてもらえなかったのが悔しかったらしく、その後の10年間でがむしゃらに力を求めた。
特権階級の貴族としてはそれほど力もない学者であった彼女だが、解階の連綿と受け継がれて来た優秀な遺伝子にも助けられ、めきめきと力をつけた。
10年が経ち、ユージーンがメファイストフェレスを忘れかけた頃、彼女は再び使徒となる事を申し出た。
ユージーンは困って適当にあしらおうとしたが、今度はそうもいかなかった。
何と彼女はたった10年の間にユージーンをも遥かに凌ぐ力を手に入れていたのである。
ユージーンは打ち負かされ、さらに彼女のひたむきさにも負けて、非公式に使徒として認めた。
神は生物として成長する事ができない、不完全な存在だ。
たとえばユージーンや他の神々が10年間メファイストフェレスと同じ訓練を積んでも、神体はもともと完全な個体であるがゆえに、成長することができないのだ。
つまり訓練により強くなることができない。
ユージーンはいつまでたってもメファイストフェレスに追い付く事はできない筈だ。
ユージーンは神という生物の脆弱さをよく知っていた。
メファイストフェレスは鍛えれば鍛えるだけ強くなれる。
軍神下第0使徒、メファイストフェレスIIはこうして誕生した。
とはいえ、法務局の目もあり、神階に常駐させる事もできないし、結局は力を貸して欲しい時に呼び出すからという形でメファイストフェレスは解階に戻された。
それでも、ユージーンは見識と実力を備えた彼女を頼りにしてはいたようだ。
彼はメファイストフェレスを解階から召喚するための発信機とそのキーを常日頃から持ち歩いていた。
この発信機を作動させると、解階の門に連絡を入れたうえで、定員にあきがあれば彼女を生物階に召喚できる。
*
恒はその発信装置を見つけて召喚し、しかも丁度よく解階の門の定員が空いていたというわけだ。
目の前にメファイストフェレスがいるのは、いくつもの偶然が重なった結果だった。
メファイストフェレスは恒の話を理解すると、席を立ち上がった。
彼女は一度も表情を緩めることなく、きりっとした眼差しで窓の外を見つめる。
恐怖など知らないかのようなその表情は、生物階の女性のそれとは異なっている。
「とにかく、行ってくるわ」
「早まらないで下さい。被害が増えてはいけません! 荻号様を待ちましょう」
本当に、早まらないでほしかった。
「平気よ。何故なら、それほど遠くない場所に主の気配を感じるもの」
「ユージーンさんは、まだ首刈峠にいらっしゃるんですね?!」
皐月と恒は立ち上がって喜んだ。
まだ彼はこの時間の首刈峠にいる、それだけ分かって幾分心が落ち着いた。
「時間がかかっているのは、何かを調べているからじゃないかしら。でも確かに、少し混乱していらっしゃるようね。気配が乱れている」
「そんな事まで、分かるんですか? 」
「急いで行ってくるわ。油断はしないから」
「待って下さい! 危ないです、荻号様が来るまでは……」
メファイストフェレスはその言葉に何かを感じたらしく、恒を真っ直ぐ見据えた。
険しい目つきだが、思いやりのある深いまなざしだと思った。
「そうやって何かを待っているばかりでは、何も救えないし、何もできないわよ。他力本願はやめることね。お前は救われる立場ではなく、これから多くの者を救わなければならない立場になるのよ。幼いとはいえ神の端くれなのだから、よく考えなさい。では、主をお連れして戻るわ」
メファイストフェレスはそう言い残すと、最後にひらりと手を振って外に出ていった。
恒はひと言も返す事ができなかった。
途中までは同意できた、だが最後のあたりの言葉がよく聞き取れなかった。
恒はむしょうに心細くなって、皐月にすがるように尋ねた。
「皐月先生。今、メファイストさん、最後に何て言いましたか? 俺、ちょっとよく聞こえなかったんです。何を言いましたか?」
恒は皐月の表情が凍りついているのを見て、さらに唖然として、いつまでも窓際を見ていた。
隣でしっかり聞いていたはずの皐月も答える事ができない。
皐月はそれほど集中して彼女の話を聞いていたわけではないが、あまりにも自然にそう言ったので、思い出さなければ聞き流してしまっていただろう。
彼女は確かこう言ったと思う。
神のはしくれなら――と。
恒の中で、時間が止まってしまったかのように感じられた。