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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第11話 Landscape with a red tower

 翌日、ユージーンは通常通りの時間に出勤し美化委員会とともに校内清掃を手伝い、朝の校門前挨拶運動をして、いつものように授業をした。

 何も変わらない、彼の日常の風景である。

 彼の受け持ちの体育、今日はバスケットボールだったのだが、その間に首刈峠の地図を見ていたようだ。

 授業が終わると、次の一時間は首刈峠に出掛けてしまった。

 3時間目のはじめに、恒はおそるおそる職員室を覗きに行った。

 彼は何事もなかったかのようにプリントを作っている。

 恒はほっと胸を撫で下ろした。


「先生、無事でしたか。てっきり何かあったかと……」

「やあ、恒君。また会えて何よりだ」


 彼はどことなく上の空のように見えた。まるで別人のような、そんな感じだ。


「現場に行って何か感じましたか?」

「正体不明の違和感はあったよ」

「えっ、お体は大丈夫ですか」


 その土地に何か異常が起こっているのだとしたら。恒は彼の身が心配だ。


「身体には異変はないよ、ありがとう。ただ眠いだけだ」

「あ、でも! 巧も死ぬ前に同じ事を言ってました。巧の母さんがそう言ってたんです、頭がふらついて眠いって。ユージーンさん、死ぬんじゃないですか?」

「そうか……」

「しっかりして下さい!」


 受け答えがおかしい。

 これは死の兆候なのだろうか? 

 何日か後には死んでしまう運命なのだろうか。

 首刈峠で彼に何が起こったのだろう。認知機能をやられたのだろうか。


 恒はせわしく頭を働かせた。

 ユージーンが崩れては、なすすべもない。

 もっと心強い味方、例えば最強にして最高の智を持つと謳われる荻号などに助けを求めていればよかった。

 彼は若い神なのだ……いくら恒からは完全のように見えても、神々の序列で上から数えたほうが早いほどの実力者であっても、未熟な点も多々あるのだろう。

 経験も知識もある誰かに相談をすべきだった。

 このまま衰弱して死んでしまったらどうしよう。

 恒は歯の奥からの震えが止まらなかった。


 次の授業の冒頭、恒はユージーンが教壇に立つことが出来ないだろうと想定して、自習と黒板に書いて彼を保健室に連れていって寝かせた。

 保健室にたどり着くまでの間、段々と恒に寄りかかり脱力している。

 指先はだらしなく伸びきって、顔にもなんとなく生気がない。

 保健師はどう対応していいのかわからず、ただ氷枕だけを用意する。


 念のため熱をはかったが、45度もあるので目をまるくした。

 体温計が壊れたのかしら、と体温計をケースから出したり入れたりして振っている。

 保健師の名は佐々ささき 和子かずこ、縁厚のメガネにパーマのおばちゃん先生である。


「まあ、やっぱり45度? 沸騰しそうな大熱じゃないの」


 隣のベッドで38度の大熱を出して寝込んでいた下級生の女の子が心配そうに、そして恥ずかしそうにカーテンを開けた。

 自分より熱を出している生徒が来たのかと思ったのだろう。

 恒は愛想笑いをして、寝ておいで、と言いながらカーテンを閉めた。


「これ多分、平熱です。45度って測れるんですね」


 それを聞いていたのだろうか、またシャーッ! とカーテンが開いた。

 45度が平熱だと聞いて、反応したようだ。佐々木は苦笑しながらカーテンを閉める。


「前島さんは熱があるんだからね、平熱じゃないから。こっちの人は気にせず寝てなさい」

「先生はもともとすごく温かいので、熱は出てないと思います」

「こんな珍しい事もあるんだね」

「そうなんです……平熱を聞いておくべきでした」

「ところで藤堂君。今授業中じゃないの? 戻っていいわよ」


 恒の授業の抜け出しに気付いた佐々木に促され、仕方なく自習中の教室に戻った。

 ユージーンはこれまで一日休職した以外には、欠勤したり自習にすることはなかったので、クラスの子供たちは何があったのかと様々な憶測を巡らせている。

 やれ、皐月とデートだの、風邪をひいて帰っただの、下らないことばかり聞こえてきたので、恒はそういえばと思い出して職員室に戻り、彼が直前まで作っていたプリントを取り上げた。


”社会実力問題集 日本地理 プリントNo.3”


 あった。

 プリントは3枚あって、完成していた。

 見ると、今日の日付と3時間目との文字がある。

 ユージーンはどちらにしてもこの時間は自習にして、このプリントをやらせるつもりだったのだ。

 また首刈峠に出かけるつもりだったのだろう。

 とすると、あれで一応理性はあったのかもしれない。

 恒は印刷室で大急ぎでコピーをとると、廊下をドタバタと走り、全部で100枚近くものプリントを教室に運び込んだ。

 教室で騒いでいた男子が配るのを手伝う。


「恒、先生はどうしたんだ?」

「先生いないんなら外でサッカーやろうぜ」

「知らね、このプリントをやってろってさ。あ、これ今日中に提出だからちゃんとやれよ。先生は忙しいんだろ、きっと」


 恒はうつむきながら適当にそんな話を作った。

 そして次の行動に悩む。

 ユージーンはこのまま眠っているしかない。

 かといってこのまま眠らせておいて、回復するという保証もない。

 それでもユージーンの一大事を知ったクラスメイトが保健室に殺到すると彼にとっても彼らにとってもよくない。

 徐々に衰弱してゆく彼の姿を、クラスメイト達には見せたくない。


 皆ユージーンが大好きだった。

 彼を止める機会がありながら、危険な場所に行かせてしまった。

 何故止めなかったのかと、責められるだろう。

 いや、責められたっていい。

 それで彼が助かるのならば。

 自分には彼を救う力がない。

 どうすればいいんだ、今自分にできることは何なんだ、と恒は苛立ちを必死でこらえながらプリントを回していた。



 一方、保健室のユージーンはしだいに正気を取り戻してきた。

 恒がもう少しつきっきりで看ていればわかったのだが、彼は横になって少し楽になったようだった。

 懐中時計を取り出し、ぼんやりと眺める。

 時計を逆さに見ている事に気づき、ひっくりかえした。

 1時間も寝ていない。

 ユージーンはここが保健室であるということを察すると、カーテンをちらりと開けて、佐々木の様子をうかがった。


 佐々木は背を向けながら、脱脂綿をアルコールに浸している。

 隣のベッドから、少女が彼を見つめていた。

 ユージーンは彼の唇に人差し指をあてると、少女はこくりとうなづいた。

 熱で真っ赤な顔をして、のぼせている。

 彼はベッドから抜け出しかけたが、思い出して、少女の額に優しく手を当て、さらっと撫でてやると、彼女の熱はひいたようだった。

 少女の表情は明るくなって、ありがとうと言いかけたが、彼がしーっとやるので約束を守って、口をつぐんでいた。彼はベッドから降り、靴を取り上げた。

 そして中庭に繋がる窓から、音も立てずに出て行った。



 恒は給食の時間、配膳を終えて席に着くところを皐月に呼び止められた。


「藤堂くん。ユージーン先生がいらっしゃらないの。何か知らない?」

「え、それが……」

「3時間目までは、保健室にいらっしゃったんですって。佐々木先生からお聞きしたわ。でもその後、忽然と消えてしまったらしいの」

「知りません」


 ユージーンは意識を取り戻し、保健室から脱出したのだ。

 ひとまず無事だと分かって嬉しいが、また首刈峠に行ってしまったということは明白だった。

 こうなると、もう恒にはどうにもできない。

 できるのはただ、学校で待つ事だけだ。


 結局彼は、放課後まで帰ってこなかった。

 時間にして、4時間以上になる。

 恒はこれ以上学校で待つのは諦めて、あれほど自粛するようにと言われていたにも関わらず巧の見舞いに出かけた。

 首刈峠には近づけないのだから、巧との会話から手がかりを得るしかない。


 巧はベッドの上で起きていて退屈そうに、皆からもらった手紙を読んでいた。

 一日でもソフトボールの練習を欠かさなかった巧のことだ。

 暇をもてあますだろうということはわかりきっていた。


「よう。恒、やっぱ来てくれたか。もう、暇で暇でよ。オセロしよーぜ」

「先生には来るなって言われてるんだけどな」

「さっき石沢と波多野、それから天野も来たぞ」

「あのさあ」


 女子三人で、抜けがけして。

 これではこっそり一人で来た自分が馬鹿みたいだと恒は悔しがった。

 見ると、巧の好物のうまい棒が1ダースほど病床に飾られていた。

 巧は自分の短髪をじょりじょり撫で回しながら、手紙を読んでいた。

 ほら、食うか、といって親戚からの見舞いの品であるサクランボをすすめてくれた。

 巧は口いっぱいに頬張っている。

 恒も一ついただいた。旬の果実の味が口一杯に広がり、気が紛れる。巧は学校の事をしきりに気にしている様子だったので、今日も何事もなかったと報告する。


「なあ、恒。俺って死んでたの?」

「へ?」

「いや、あいつらもそう言ってたし、手紙にもそう書いてあるんだよ。ユージーン先生に生きかえらせてもらってよかったな、って。皆の手紙だけなら信じられないけど、あのクソ真面目な隼人とかもそう書いちゃってるしさ。俺ガチで死んでたの? なんで?」


 なんで? と聞かれても恒は困る。

 それが分からないから、彼は命を懸けてその謎に挑もうとしている。

 恒は安全な場所で帰りを待っているだけだ。

 巧もユージーンも命の駆け引きをしてきたというのに、自分だけ何もしないのは卑怯だ、と恒は思いつめていた。

 神々に目をかけられて、ADAMにアクセスする権利を有している。

 そこで得た知識を、今直面している事態に生かさなくては、何の為に神々の知識を学ばせてもらっているのかわからない。


 恒が得た知識は、恒のものではない。

 類稀なる偶然によって神から人に授けられたこの奇蹟的な贈り物は、人間社会のために最大限に活用されなくてはならない。

 恒に今できることは、思考することだけだ。

 ADAMの歴史書を読み解く事によって、誰も知らなかった風岳村の正史を知っている。

 巧との会話から、手がかりを引き出すんだ。


「お前さ、首刈峠に行った覚えはないか」

「は? 首刈峠? あんな所誰が行くかよ」


 恒は大事な事をユージーンに報告していなかった。

 巧は怖い話マニアでありながら、異常なまでの怖がりだ。

 心霊スポットと呼ばれる場所には詳しいが、一人で行ったりはできない。

 村の肝だめしでも一人だけ最後まで出発しない。

 とうとう出発したかと思えば女の子に引っ張られて帰ってくる有様。

 根っからの怖がりだった。


「覚えてないのか?」


 ユージーンが記憶を読み間違えたのではないとすると、巧は無意識にそこに行ったのだ。

 首刈峠で巧が何に襲われたのか、突き止めたい。

 行けば死ぬかもしれないという可能性さえなければ、行って調べてみたい。

 あの峠に行くと死ぬ。

 あの峠に行くと……。そう考えている隣で、巧ははたと手を打った。


「思い出した。夢の中で森みたいなとこに行ってた。嫌だなー、って思っていたら目が覚めた。それがここだった」


 そういやそうだった、と巧は呟いた。

 恒は若干興奮してきた。


「お前、その夢を見てる間に首刈峠に行ってたんじゃないか?」

「え? 俺夢遊病ってこと?」


 恒は高まりはじめた興奮が一気にさめてゆくのを感じた。

 それがわかったからどうだというのか。

 ますます謎が増えてゆくばかりだ。

 巧は夢うつつのまま何者かに首刈峠に導かれた可能性がある。


「その森に、何か変わったところがなかったか?」

「俺あれ、首刈峠だとは思えないんだけどなあ。……赤い大きな鉄橋みたいな、鉄塔みたいなのがあった」


 赤い、鉄塔か鉄橋? 

 すぐに目を泳がせ、恒は記憶の引き出しから手がかりを手繰り寄せた。

 ……あった、知っている。

 昭和初期まで風岳にあった軍事用の鉄橋だ。

 付近に武器工場があったついでで敵機の標的にされ、何年だったかは定かではないが、崩落している。東京タワーみたいな形といっていたのは、鉄橋の橋脚の部分だろう。

 もし巧がその事を言っているのだとしたら、巧がいくら記憶をほじくりかえしても、今はそんな鉄橋はない。

 村の年寄り連中は知っているかもしれないが……。

 それで、首刈峠は途中から峠道がぷっつりと途切れている。

 工場のあった付近の峠道が、爆発により崩壊したからだ。

 今は突然断崖絶壁になる危険な峠道が残されているだけだ。

 鉄塔などない。


 巧は赤い鉄橋の見える昭和初期の時代の風景を見ていたのか? 

 彼の言うよう、夢なのだろうか。

 だが現実だったとしたら、とても信じられない。

 巧は昭和初期のかの時代に行って、戻ってきたということになる。


 ユージーンはこの不自然な話を、巧の記憶の中から引き出しただろうか? 

 ADAMから得た恒の記憶と照合して、巧の行動と比較していた彼には、この赤い鉄橋の光景に注目していなかった可能性がある。

 巧は夢の中で森をさまよっていたとしか認識できていないのだから、巧の心の機微までは察していないのかもしれない。

 ただ巧の身体がどこを通って現場まで行って、どこを通って帰ってきたかというような類の事だけが見えていたのかもしれない。


「だとしたら、これは大変だ」


 今頃、ユージーンはひとりで首刈峠に行っている。

 彼は無事なのだろうか……? 彼がいくら力を持つ神だとはいっても、死から逃れられないという事は彼がこの村にやってきたその日にはっきりしている。

 だからといって恒が応援に行ったところで何か役立つとは思えない。

 むしろ足手まといだ。

 そこに行ったら死ぬかもしれないと分かっていて行くと言い張っているのだから、相当力には自信があるのだろうし、枢軸叙階一覧にも武闘派を示すAAという略号がついていた。

 フィジカルレベルが優れているということも文献を読んで知っている。

 つまり彼は神々の中でもとりわけ強い神だということ、それもよく分かっている。


 この問題は、どれだけ力や身体能力が優れていようとも、まったく意味をなさない種類の問題のような気がする。

 もしも時空間的な異常があの付近で起こっているのならば、不可抗力だ。

 巧が現代にわざわざ戻ってくることができただけでも奇蹟といっていい。

 まさかもう、ユージーンはこの世から消えてしまって……恒はユージーンが心配だった。


「どうしたんだお前。暗ーい顔して」

「そうか? 別に暗くないけど。お前を心配してただけさ」


 自分は根っからの嘘つきだな、と恒は自覚する。

 親友の事はもちろん心配だったが。


 もしも恒の考えている物理法則がこの世の全てを支配しているのならば、過去に遡上するなどということはありえない。

 物理的に可能なのは、未来に行く事だけだ。

 それも、光の速さよりうんと速い速度で移動することができたらという条件がついている。

 タイムスリップ、これはありえない。


「おい、恒!」


 巧は急に低い声を出した。

 恒は肩がびくっと震えた。


「行って確かめようなんてするなよ。お前の悪い癖だ。行かなければ死にはしないんだろ?」


 まるで考えを見透かされたようで胸がすく。

 恒はいつでも巧の事を、第一の親友だと思っている。

 耳の痛い事を言ってくれるのは巧だけだ。


「ありがとう。お前がそう言ってくれなかったら、俺も行ってたかもしれない」

「お前はいっつもそれだ。頭がいいんだか悪いんだかわからん」


 巧はほっとしたようにサクランボをつまんだ。

 夕方の病室に、真っ赤な西日が差し込んでくる。

 ユージーンが首刈峠に行ったと思われる時間から、既に6時間が過ぎようとしていた。


「で、なんで首刈峠に行こうと思ったんだ?」


 巧はしばらくサクランボの茎をいじっていたが、真面目な顔で切り出してきた。

 ここは個室なので会話が外に漏れ聞こえる事はない。

 首刈峠という言葉が発せられる事そのものが、病院内では忌み嫌われるものだ。

 首刈峠という言葉は、村の多くの者にとって死のメタファーだった。

 口に出して話題にするような事ではない。


「それを行ったお前が言うかー?」

「俺は別に、行こうと思って行った訳じゃねーもんなぁ。俺は行ったから死んだんだろ? てか、死んでた覚えもないんだけどなぁ。三途の川も見えなかったし。まあ皆が死んだっていうから死んでたんだろう。じゃあ逆に、行かなかったら死にようがないって事だ」

「だろうな」

「首刈峠に行かなきゃいけない理由でもあるのかよ」


 巧は恒がまた行ってしまわないかと訝しんでいるのか、眉根を寄せている。

 巧は記憶障害などはないし意識もはっきりしているが、まだ時々血圧が下がったり心拍数の乱れがあるので退院には慎重になっているのだそうだ。

 巧の指先には心拍数を監視するセンサーがまだ取り付けられていて、それはナースステーションにモニターされていた。

 点滴だか注射だかの痕や、小さなテープも腕についていて痛々しい。


 あまり巧に心配をかけてはならないという事は、分かり切っていた。

 皐月やユージーンの言うよう、見舞いも自粛すべきだったしそんな配慮のない自分は人として最低だ、それでも、巧から聞いたことは貴重な情報といえる。

 なにしろ巧の主観の入った夢の光景は、ユージーンが巧の記憶中に見いだしたであろう現実の風景と違っている。


”巧、ごめんな……。俺は親友であろうとしてくれているお前に対して、誠実ではない。でもお前が命と引き換えに教えてくれたこの手掛かりを、決して無駄にはしないから……”


 恒は確かこんな言葉を心の中で繰り返していた。

 巧には絶対に首刈峠には行かないという事だけ約束すると、親友は満足そうな顔を向ける。


「おや。もう学校は終わったのかね」


 背後から声がしたと思えば、上島がやってきた。

 恒は上島の顔を見て、ようやく張り詰めていた思考回路が少しだけ緩んだような気がした。

 少しもほっとしている場合ではないのに、だらしなく白衣を二枚着て、鼈甲のふちのある老眼鏡をずらして恒を見下ろす上島が目に飛び込んできたとき、急に力が抜けてしまっている自分がいた。


 上島ならば全てを聞いてくれ、そしてどうすればよいのかを親身になって考えてくれそうだ……そんな事さえ思ってしまったのだから、恒の精神は不断のストレスと不安によってもう一人で考える事も限界だったのだろう。

 荷をともに負ってくれる誰かが必要だった。


 恒は迷わず上島に相談することに決めた。

 巧には何も気取られぬようようわざと明るく別れの挨拶をし、回診の終わった上島についてそそくさと病室を出た。

 上島はカウンセリング室に恒を連れ込んで鍵をかけ、外から人が入らないようにした。


「上島先生、ど、どうしましょう。神様がおひとりで首刈峠に行ったまま帰ってこないんです。巧の死の原因を調べると仰って……でも、巧はそこに行ったから死んだんです! 何かあったのではないでしょうか」


 脈絡のない説明になってしまっていた。

 自分らしくもない、と恒は思う。

 早く、早く何とかしなければ、という思いだけが空回りしているような気がする。

 上島はできるだけ恒を落ち着かせるような口調と物腰で、粘り強く話を聞く。

 村の大半の人間にこんな事を話しても理解してはくれないだろうに、上島は怖ろしく速い頭の回転で、いくつもの事を同時に理解した。

 この村におぞましい何かが起こっていること、それは村人の生命と安全を脅かすものであり、その禍の起点は首刈峠である可能性が高いということ。

 恒とユージーンはその禍の謎を突き止めるために行動しようとしていたこと。

 ユージーンは一度死んだ巧を蘇らせた罪で、近日中に逮捕され天国に連れ戻されるかもしれない、そうなれば、もう風岳村に戻ってくる事はできないであろうということ。

 ユージーンのこの村での滞在は今日が最後になるかもしれないということ。

 彼は最後に残された時間で手がかりをつかむため首刈峠にひとりで乗り込んで、一度はかろうじて戻ってきたが、意識が朦朧としているようだ。

 再びそこに行ったまま、まだ帰ってこない――。


 上島は大筋の話を理解すると、携帯電話を取り出し、ユージーンに電話をかけた。

 静まり返った室内にくぐもったように響く呼び出し音。

 上島の口がいつまでも動かない。

 彼は通話圏外にいるようだった。

 ユージーンの携帯は改造されている。素直に圏外だとは思えない。


 ユージーンの携帯電話は圏外になることがない。

 上島はそう聞かされていたし、普段の間に連絡を取るときも、圏外になったことなどなかった。

 彼は緊急の事態が起こったら連絡するようにと言ってくれていた。

 この番号はホットラインのように、電池切れで通じないことも圏外になることも決してない特殊なシステムの携帯電話につながっているからと教えてくれた。


『現在電波の届かないところにいます』


 この案内は根本的におかしい。

 上島はあきらめて電話を切る。


「駄目だ、繋がらない」

「やっぱり……」

「妙だな。一体どこにいらっしゃっている。この番号にかけて、圏外という事はありえないんだ。首刈峠じゃないんじゃないか?」

「上島先生、神隠しに遭遇してるんじゃないでしょうか。巧はぼんやりと、死の直前の記憶、首刈峠に行った時の事を覚えていました。その記憶の中に、赤い鉄橋が印象深く残っていたそうです。首刈峠から見える赤い鉄橋、これは昭和初期の風岳だと思うんです。荒唐無稽かもしれませんが、首刈峠に行くことによって、昭和初期の風岳に飛ばされているんじゃないかと思うんです。未来にいる存在が過去に行くこと、これは物理的に矛盾しています。このパラドクスをどう解決するか……だから現代に戻ってきた巧は、その存在矛盾に耐えられず、死んだんじゃないかと思います。そう思えてならないんです」

「そんな事があるのか? でも、神様は一度学校に戻ってきた時には、まだ生きていらっしゃったんだろ?」

「神様は現在、181歳だそうです。昭和初期に飛ばされていたとしても、その時代には100歳頃でいらっしゃるはずで、存在していないというパラドクスは起こらないと思うんです。だから巧のように死に至るほどの存在矛盾にはならなかったのでは……」


 上島は恒の話に同意しかけたが、また何かを思い出したように舌打ちをした。


「いや……そうだとすると、矛盾が起こっているのは神様の方じゃないのか? 過去に自分自身が二人存在しているという逆説が起こっておる。巧君とは異なる影響が出ているのかもしれない……戻ってこられないということは、より深刻な状況だと思う。亡くなっているから戻ってこられないのではないだろう。携帯電話の圏外通知が不自然だからの。風岳のことを思って無謀な事をしてくださったのだろうが、法律違反で逮捕された方が神様にとってはよかっただろうに……」


 過去のユージーンと未来のユージーンが同時に存在する世界があるとすれば……それはもう、明らかに矛盾している。

 法務局の監察官は、首刈峠のユージーンを見つけてくれるのだろうか。

 そしてきちんと彼らの法に則って逮捕し、断罪してくれればまだましだ。

 彼がまだ、無事であるならばだが……。


「これはもう、我々の手に負える問題ではない」

「でも! ユージーンさんを見捨てるんですか?」

「誰か見識のあるしかるべき人物に、すがるしかない。たとえばその法務局の神様だ」


 見識のあるしかるべき人物……。

 ユージーンは、枢軸神である自分の逮捕に充てられるであろう人物は法務局最高の業績を誇るゲイル=リンクスワイラーであり、彼を手ごわい切れ者だと評価していた。

 面識はないが、聡明なゲイルならばユージーンを助けてくれるというのだろうか、いや、まだ見ぬ神を酷評するようで申し訳ないが、ミイラ取りがミイラという事態になりかねない。

 犠牲者が増えるだけのような気がする。


 安心してとはいかないが、唯一希望を持ってすがることができるとしたら、最高の智と力を併せ持つと絶賛され、陽階神が恐れる最強神、陰階参謀 ウィズ=ウォルター、つまり荻号 要しかいない。

 恒は一縷の望みにすがる。

 今必要な能力は力でも知識でもなく、経験と直観力だ。

 荻号はそれを持ち合わせている。

 ユージーンは荻号を警戒していたが、恒にとって彼は悪い人物のようには見えなかったし、気さくで鷹揚な性格だと感じた。

 彼が最適のような気がする。


 彼が恒の話に、耳を傾けてくれるのならばだが……。


「上島先生、その携帯からメールが打てますか? おひとりだけ、力になっていただけそうな神様のメアドを知ってるんです」

「神様のメールアドレスを? お前さんという奴は……」


 上島はすぐさま荻号にメールを打ってくれた。

 文面はこうだ。上島にはよく分からない内容だったが、とにかく言われるままに打った。


【宛先】 wizwalter4@first.negative-states.ddmin.org

【メッセージ】

藤堂恒と申します。

ADAMの件ではお世話になっております。

大変ご多忙のところ申し訳ありませんが、実はご相談したい事があります。

陽階神 ユージーン=マズロー様が、風岳村の首刈峠という場所に行かれたきり、お戻りになりません。

御身に何かあったのではと思い、心配です。

なにとぞ、お力をお貸し願いたく存じます。



 荻号 要は13時間の会議を終えて、会議室から出てきた。

 長時間だが、これが神々の会議というものの平均時間だ。

 表向きには陰階神第4位闇神、その職務はよく知られていない。

 公的にも私的にもだ。

 彼の正体を知るものはひとりもなかった。

 彼は最高神であることを少しも鼻にかける事もなく、飄々としていた。

 だが彼は生きる事に疲れきっていた。


 煙草ケースから手製の麻薬入り煙草を取り出し、ライターで火を点けた。

 ふかり、と猛毒の煙が重たく陰階の回廊に垂れ下がる。

 じっとりと湿気を含んでいて、暗鬱な空気だ。

 彼はこの数百年間というもの、一睡もしていなかった。

 神にもある程度の睡眠は必要だし、睡眠不足だと疲労する。

 例えばいくら昼は教師、夜は軍神の二重生活を続けていたユージーンだって週に一度は寝ているし、他の神々は多忙でなければ毎日寝る。

 荻号がいつ寝ないことを決めたのか、何故寝ないことにしたのかは誰にもわからない。

 彼は常に神体を覚醒状態にしておくために、この麻薬入り煙草が手放せない。

 荻号はけだるそうに大きな息をついた。


 荻号が喫煙場所とする外回廊は、年中霧が立ち込めている。

 霧の下には生物階が見えるかというとそうではない、生物階と神階は”事象の地平”という物理学的境界によって完全に隔てられている。

 下に見えるとしたら宇宙空間、つまり星空だ。

 だが実際にはそれが見える事はなく、何十万年も前から未だに建設が続いている巨大な建造物が視界を塞いでいる。

 神階はまるで内側に閉塞したひとつの迷宮だ。

 そこには何ら希望も見出されない。


 神階は終わりを迎えつつあると荻号は思う。

 不変である神々の世界……それは生きながらにして死んでいるも同然だ。

 それに引き換え、生物階は常に命が芽吹いて、生命活動が盛んに行われ、進化が絶え間なく続いている。

 羨望のようなまなざしで、いつからか生物階を見下ろしていた。

 つくづく思うに、神には向いていないのだろう。

 荻号は今日もそんな事を考えていた。


 その時、シザーケースの中で携帯電話が暴れるのを感じ、煙草を口に咥え、メールをチェックした。

 荻号のメールアドレスは、ごくごく限られた者にしか教えていない。

 誰かメールをしてきそうな人物がいたかと訝り、恒だと確認すると少しだけ興味を持ったようにその場で開いた。

 メールを開いてその内容を読み、荻号はひどく落胆した。


”遂に、動き始めたか……盲目の時計職人(ブラインド・ウォッチメイカー:Blind Watchmaker)の意図も酌まず”


 荻号はこういう面倒をしなければならないぐらいなら、もう一秒だって生きていたくないと思った。

 死ぬ事ができるというのなら、今すぐに死んでしまいたかった。

 だが今日も、彼は死ねない……。

 荻号の顔には積年の疲労がこびりついていた。

 億劫そうにしながら、メールアドレスから推測される電話番号にかけなおす。



 上島の携帯電話がけたたましく鳴った。

 着信音はバッハの”主よ人の望みの喜びよ”だ。

 恒は荻号がかけてきたのだと確信して、その電話を取らせてもらった。


「はい、もしもし。藤堂 恒です」

『俺だ。大変な事になっているようだな』

「荻号様! 助けて下さい、ユージーンさんが死んでしまいます」

『お前の言うユージーンさんがユージーン=マズローのことなら、心配はいらんだろう。奴はああ見えて……』

「過去に飛ばされたとしても、ですか?」

『過去?』

「首刈峠という場所は、時間と空間の流れがおかしくなっている可能性があります。ユージーンさんがとても優れた神様だという事は存じ上げています、でも、時間と空間が歪んでいるとしたら、とても太刀打ちできるとは……」


 恒はユージーンを助けて欲しい一心で、まだ確信も持てない事をさもそうであるかのように力説した。荻号の興味を引きそうな、効果的でインパクトのある言葉をちりばめる。

 恒はこういうはったりが得意だ。

 電話向こうの荻号は相槌を打つ事もなく、何か口をさしはさむこともなく、ただ聞いていた。


『だから、何だ』

「命に関わります」

『お前は、死んでほしくないのか』

「え?」


 つまり荻号は、ユージーンを見殺しにしろと言っているのか?

 荻号は陰階の所属で、敵対する陽階に所属するユージーンを快く思ってはいないのかもしれない。

 だがそれでも、時と場合によるのではないか。

 そんな言葉を投げかけるなんて、鬼畜すぎる。

 恒は唖然としてしまったが、ここで切るわけにもいかなかった。


「あなたがユージーンさんをどう思っていらっしゃるのかはわかりませんが、本当に優しく思いやりのある神様です。人に優しくしてくださって、ご自分は傷ついて……今だって命の危険を顧みず、この村のために謎を解こうとして下さっていたんです。俺はあの方を助けたいと思います、でもそのための力がありません……もしもあなたが助けて下さらないというなら、俺が行くしかありませんね」


 恒はできるだけ哀れで無力な、そして愚かな人の子を演じながら、荻号の同情心を駆り立てる作戦だった。

 隣で聞いている上島も、固唾を飲んで見守っている。

 神を相手に交渉をしているのだ、気が引けてしまっているだろうが、しっかりとした口調で神と話している。

 その度胸はどこからくるのだろう、到底真似はできない、と上島は思った。


「そうやって俺を挑発してるのか焚きつけてるのか知らないがね、助けなんていらないと思うぜ。神ってのはな、長く生きただけ人より生命に対する執着が薄い。たとえ死んだって、奴は後悔なんてしないだろう。このたびのユージーンの失態は、ユージーン自身に責任があるように思えるしな。それに、ユージーンという神は危険だと分かっていて何も考えずに行く様な馬鹿じゃない。奴は若いが周到で、計算高い」

『とてもそうとは……何も考えずにふらふらと行ってしまったんじゃないかと』

「まあもう半日待て。それでユージーンが帰ってこないようだったら、そちらに行こう」

『今すぐではダメなんですか? こうしている間にも……』

「陰階神が生物階に降下するには、手続きが厳しくてな」



 馬鹿か、と荻号はうんざりした。

 ここで荻号がしゃしゃり出て行ったら、恐らく極秘裏に勅令を下した陽階第一位神の面目が丸つぶれだ。

 陽階にも有難くない事だろう。

 生きている事すら面倒なのに、無意味な仕事を増やすなんてばかげている。

 ずば抜けた能力を持ってしまった荻号にとってこの世界はたまらなく窮屈だった。

 たかだか時空間歪曲の現場に居合わせたぐらいで、あれほどの大騒ぎをする。

 ユージーンだってきっと無事だ。何故なら……


「ユージーンは、絶対に死なん。約束したっていい」


 どこからくるのか、荻号には確信があった。


『わかりました。ではもう半日だけ待ちます。今日本時間の午後6時35分です。今から6時間後にユージーンさんが戻られなかったら、ご連絡します』

「ああ、そうしてくれ」



 半日って、6時間だったよな。

 12時間じゃないよな、などと思いながらも、恒は荻号に強く圧されて引き下がった。

 上島に電話を返す。

 話はまとまっていないということは、恒の表情を見て分かった。

 恒に悩みが増えた。

 荻号のあの自信はどこからくるのだろう? そして何故荻号はあんなにユージーンを買いかぶっているのだろう。

 恒はユージーンの実力がよくわからないし、彼が力を行使する姿をまともに見たこともない。

 荻号はユージーンの何を知っているのだろう? 

 ユージーンならば大丈夫だとでも言いたげだった、荻号は何を知っていて、そしてこの村で何が起こっているのか? 

 恒はひとり、社務所に戻って待つ事にした。



 一方の荻号はその場で執務室へ電話をかけ、自身の第一使徒であるかぶら 二岐にきに命じて、生物階降下の手続きをさせた。

 どうせ無意味な書類を書かせる事になるのだろうが、幼い恒の勇敢さに報いる為だ。

 ふと手元を見ると、煙草の火が消えていた。

 彼は名残惜しそうに見つめた後、それを携帯灰皿に詰め込むと、軽い失望感と疲労を覚え、なんとはなしに腕組みをした。

 黒いシャツの下に、つまり胸元の辺りで指に金属が当たったので、ようやくその存在を思い出した。


”さすがに、これを使うまでではないだろう”


 荻号は久しぶりに懐に入っていた首のネックレスのチェーンを持って、トップを聖衣の外に引っ張り出した。

 鈍い銅色の薄汚れた金属、月と星の不気味なレリーフが3本の環の中におさまっている。

 この不気味なアクセサリーにはちゃんと由緒正しい名前がついている。

 相間転移星相装置そうかんてんいせいそうそうち(SCM-STAR:System of Correlative Mobile Star )、荻号はもっと短縮して相転星そうてんせいと呼んでいる。

 この直径8cmのペンダントトップが、現在最強の神具として認定されている。


 それが創出されてから荻号の手に渡るまで、代々の持ち主候補を即死させてきた。

 荻号が最後にそれを手にし、その荒ぶる力を捻じ伏せて、完全に自らのものとした。

 禍々しい雰囲気を身に纏っている。

 荻号の首に、それはあまり丁寧に扱われる事なく、ただぶら下がっている。

 この数百年というもの、起動することもなかった。


 相転星――その神具が内包する能力は一万ほどあるが、特徴はといえばたった一つだけだ。

 だがこの一点の為に、決定的に他の神々の持つ神具と異っていた。

 時間と空間を統御する能力。

 それはこの世界の創世者、名もなき至高の力……それが存在者である他者と絶対者である自らを分かつ、原始の能力とされていた。

 この神具は唯一絶対の能力を持つ存在によって生みだされた。

 最初は時空間統御能を持った一片の金属だったという。

 それを練成して、様々な機能を付加していったものがこれだ。


 かの金属は、INVISIBLEの残したものであった。


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