Anecdote 5 God and 2nd Apostle 2
帰る場所を失った紫檀にとって、進むべき道は一つであった。
現在時刻1時45分、各層を繋ぐ全ての門が閉ざされるまでに残された時間は僅かに15分。
寒さと雨が身にしみる。青衣一枚で疾風のようにがむしゃらに走った。
紫檀はひた走りながら、馬舎に寄って馬達に最後の別れを告げなかったと悔いたが、後悔はすぐに雨が洗い流す。
いつか十大使徒にまで上り詰めて会いに戻ればいいのだ。
可能性を閉ざさない、これ以上、自らの手で不可能にしない。
門限の2時までに間に合うかが鍵だった。
2時に間に合わなければパスカードを持っていても門は開かないと、門番に念押しをされていた。
雨の中の野宿を強いられることとなり、打撲や切り傷で満身創痍のなか、体力を消耗する。
桟利も追っ手を差し向けているかもしれない。
彼は紫檀が青衣を纏っているのを目撃し、紫檀が第1層に召されたと知っている。
暴行を加えた証拠が上司に審らかにされることを恐れ、紫檀を足止めしようとするかもしれない。
息を切らせ、顔を打ち付ける大粒の雨が傷口に染みたが、先を急ぎ走る彼にはさほど痛みを与えなかった。
草原を一直線に流れる川の橋を渡る。
雨で濁流に飲まれる川に架かる橋を駆け抜けようとした時、彼の視界の端に白い布にくるまれた何がしかが映った。
気付かなければ通り過ぎたものを……紫檀は見てしまったのだ。
離れ小島となった中州に横たわる白い人影。顔までは見えないが、白いローブを頭からすっぽりと纏った使徒が倒れているように見える。
足を止めて遠目にそれを見つめ狼狽した。反射的に腕時計を睨み付ける。
聞こえる筈もないのに、秒針が時を刻む音ばかりが脳裏に響く。救助し介抱していては、どうやっても門限に間に合わない。
紫檀はもう第8層とは関わりがなくなるのだ。
門の中には天上の生活が待っていた。
放っておいても死にはしないだろうし、明日になれば誰か救助がくる。
もしくは第一層に戻ってから、8層に誰か倒れていたと報告しても遅くない。
万が一死んでしまったとしても、それは仕方がない……紫檀は都合のいいように解釈しようとしたが、白い物体は沈黙したまま依然として倒れている。
助けを求めていないのは、よほど具合が悪いということだ。
川の中州。
孤立無援の場所に、雨晒しになった重病人だか怪我人がひとり……。
心なしか雨音が強く紫檀の耳に鳴った。
急いで門に戻るんだ。
いや、助けるんだ。
紫檀の良心と暗い心が交互に交錯する。彼は首を振って川の中州から目を背け、歩みを進めようとした。
しかし彼の足は鉛が入ったように重く、一歩とて動かない。
彼は暗闇の中雨に打たれながら、再び川の中州に目を向けた。
病人の足が、川の水に浸っている。
雨足が強まり、水位が上がってきているのだ……。
それほど広くはない中州が川の水位上昇によって川底に沈むまで、いくばくもなかろう。
駄目だ、明日まで放置しては溺死する。救出しなければ。
「うわああ―――!」
訳もわからず咆哮をあげながら濁流渦巻く川に飛び込み、彼は激流に流されそうになりながら必死に腕をかいてようやくのことで中州に泳ぎ着いた。
普段の運動不足がたたり、肩が外れてしまったような気がする。
そういえば使徒は翼を持っているが、自由に拡げることが許されていない。
下位の使徒は翼を拘束する制御装置で制御され、飛翔能力を奪われていたからだ。
ぬかるんだ中州から周囲を見渡すと、川の流れは激しくなる一方だった。
重病人と思しき人物を裏返して顔を隠していたフードを取ると、若い男のようである。
しかし紫檀はその男を見た瞬間、体中を稲妻に打たれたように衝撃が走って、思わず顔をそむけたくなった。
うまくいえないが、圧倒的な触れがたさがあった。
そんな感覚は、はじめてだった。
しいて似ているものをあげるとすれば、つい先ほど一層で体験した”気圧の差”なのかもしれない。
それはアトモスフィアの希釈率に依存ずるものであって、高位の使徒ほどアトモスフィアを多く与えられている。
彼はどこに所属している、誰なのか……。
悠長に考えている時間もない。
紫檀はふらつく足を踏ん張って彼を背中に負い、首まで濁流に浸りながら川を渡りきり、嵐の草原へ引き上げてへたり込んだ。
縋るように腕時計を見る。門限まで残り1分、どう走ってもタイムオーバーだ。
紫檀は彼を負ったまま再び立ち上がった。
とにかく、今日はどこか雨風が凌げる場所を見つけて野宿だ。
しかも怪我人だか病人だかがいる。
紫檀は彼を負ってとぼとぼと歩き回り、橋の傍にあった襤褸の廃屋にたどり着いた。
軋んだ扉をあけ廃屋の中を見ると、古い農具などが置いてある。
湿った藁もあった。
ここで嵐の一夜を明かせそうだ。
紫檀は自分のことをさておき、まずそのあたりにあった襤褸布でずぶ濡れの男の身体を拭う。ついでに首筋をまさぐった。
使徒はプラチナのIDプレートを首からかけていて、それを見れば何階層のどこのエリアの所属の誰なのか分かる。
しかし彼の首にかかっていたものは規定のIDプレートではなくただのネックレスのようにしか見えず、名前が入っていない。
ID不携行は軽犯罪だが……紫檀は何も見なかったことにして、ネックレスをローブの下に戻した。
それにしても……と、紫檀は彼の身元を詮索する。
彼は何故、川の中州などに倒れていたのだろう。
あれこれと思いを巡らせながら、濡れた上着を脱がせた。
額に触れると熱い。熱病にでもかかったのだろうか?
彼は撥水性のある上等の素材を纏っていたようで、濡れていたのは白いローブと、そして中の一枚だけだ。
何枚も着込んでいたので、真っ裸にはさせず済んだ。
濡れたローブを絞って納屋に干し、紫檀はようやく身体を拭くと、古いランプを見つけて油を注ぎ点した。
寒がっているようなので、藁をかけてやる。
紫檀の分はないが、傷だらけで体がほてって寒さは感じない。
それより彼の方が紫檀よりも深刻な状況だった。
傷があれば手当てできるが、ない場合には紫檀ができる処置がない。
紫檀は思い出して脈をとったが、脈拍を感じない。
既に死んでいたのだろうか? だが彼は呼吸をしているし、生きている。
気のせいかもしれないが、ランプで照らさなくとも僅かに光を纏っているように見えた。
夜勤担当か何かで、光を発する素材を着ているのだろうか? 疑問は募るばかりだ。
紫檀は改めて、光を纏った男に得体の知れない恐怖が沸き起こってくるのを感じた。
こんな気味の悪い男と、夜を明かすのか……。
そういえば思い出したように、傷ついた頬の傷口がずきずきと痛みだす。
雨水と泥が入って、傷口が膿みはじめているからだ。
手当てをした方がよいのだろうが、命には別状がないので今は捨て置く。
早く夜が明けないものだろうか……心細くなりながら、紫檀は頬を押さえた。
その時、がさごそと物音がしたので振り向くと、男は意識が戻ったらしく天井を見上げていた。
紫檀がランプを持ってきて照らすと、わずらわしそうに顔を向ける。
ランプの光のもとで、青い瞳はひどく澄んで見えた。
一瞬、紫檀は息を止めた。
この男は何だ?
彼は何か違う、使徒とは違う。
しかも決定的にだ。
紫檀は恐る恐るにじり寄って、気まずいので彼にまた温かな藁を追加した。
医療知識のない紫檀が彼にできることといえばこれぐらいだ。
「だ……大丈夫ですか?」
「ここは……」
「第8層の廃屋です。僕は紫檀と申します。あなたは意識を失って、川の中州に倒れていらっしゃったのです。大丈夫ですか?」
「……ありがとう。大丈夫だ」
感謝の言葉を述べ、彼は手をついて身をもたげる。
衰弱はしているようだが、瀕死というわけではなさそうだ。
紫檀は一気に安心して、安堵のため息をつく。
彼はふと気付いて紫檀の顔をまじまじと見つめた。
紫檀の頬が腫れあがっているのを見つけたのだ。
「それはわたしを助けてくれようとして負った傷なの?」
申し訳なさそうに、紫檀に手を差し伸べる。
気持ちだけで十分だ、と紫檀はのけぞる。
この廃屋には腐った水はあるだろうが、清潔なガーゼも消毒薬もない。
明日になればきれいな水で手当てができる。それまでの辛抱。
この傷は桟利たちに殴られてできたものであって、彼を助けようとして負ったものではない。
「いえ、これは別件で」
「ちょっと診せて……殴られたみたいだ、喧嘩でもしたのか」
彼はかざした右手を紫檀の頬に宛がい、傷口をなぞるように撫でた。
気休めはいいが、傷口に触れられると雑菌も入るし余計に痛くなる、と思いかけて紫檀ははっと目を見開く。
痛みを感じない。それどころか彼の手は撫でられていると嘘のように腫れが引き、痛みも和らいでゆくのだった。
薬も用いず、ただ触れるだけで……?
信じられない気持ちで頬に触れると、既に傷跡はなかった。
「今、どうやって……何も持っていないのに」
紫檀が驚いていると、彼は更に紫檀のこまごまとした負傷に気付いた。
「肩、外れているね。あと、翼の小さな骨がいくつか骨折してる」
彼は紫檀の外れていた肩も、打撲や骨折も手早く見事に癒す。
紫檀が何度注視しても、彼は何も器具を持っておらず素手だった。
素手でどうやって治療ができる。医者だったにしても、信じられない。
「お医者さまですか? 所属はどこに……それに、何故倒れていらしたのですか」
紫檀はそう言いながら、彼は本当に医者なのだろうかと首をかしげる。
医者が中州に倒れて身動きとれない状態になっていたなど……笑い話にもならない。
「雷に当たったようなんだ。おかげで神経が切れてしまった、手術道具がないと治せない」
第8層で誰かが雷に当たったなんて話、聞いたことがない。
珍しいこともあるものだ、8層には高い建物などいくらでもある。
彼はその後も一切事情を話さないまま、夜が明けたらある場所に送ってほしいという。
彼を背負って何キロも歩くのか……億劫だが仕方がない。
足が立たないのだから、どうにか送り届けるほかない。
「本当にすまないね、恩にきるよ」
とにかく夜があければ門は開く。
紫檀は些細な頼みを聞きとどけることにした。
傷を癒してもらった恩もあるし、どのみちこの8階層に来ることはない。
戻ってくるなら、それは十大使徒として昇進したときだ。
8階層への恩返しだと思って、最後の奉公をしておくことにした。
翌日は昨日の雷雨が嘘のようによく晴れた。
紫檀はすがすがしい気持ちで第1層に戻る前に、彼を指定の場所に送ってゆく仕事が残っていた。
足が動かないというので負うと、殆ど重さはない。
昨日はそれなりの重さがあった筈だが、紫檀の体力が回復したせいだろうか。
振り落としていないかと何度も振り返った。
彼はその度に、すまなそうな顔を向けた。
「それ、8階層の所属ではない青衣だね。第1層の使徒が何故ここにいるの」
「もともと第8層の馬番役だったのですが、昨日第二使徒の方からお召しを受け、青衣はその時にいただいたもので、正式な第1層の使徒ではありません。でも、来月の試験を受験してみるつもりでいます」
「そう……廿日が」
彼は紫檀の背中でぶつぶつ言っていた。
そして彼はやはり、一向に自ら名乗ろうとはしない。
普通は第二使徒の名を呼び捨てになどしない。
陰口だとしても憚られる。それなのに、彼らに対する敬意というものもなさそうだ。
彼はよほど高位の使徒なのだろうか、それにしても第二使徒より高位である筈がなかろうに。
一体誰なのだろうと、ますます気にかかった。
昨日はただひたすら体調が心配だったが、今度は身元が気になる。
「ところであなたは何層の所属なんです?」
「後で教えるよ」
彼は適当にごまかして返答をさけた。
「まさか犯罪とか、してませんよね?」
身分を名乗れないところをみると、犯罪者で、逃走中なのでは? ふとそんな可能性が脳裏に過ぎったので率直に訊いてみた。
彼は笑って「それは心配ないよ」と返した。
草原をわたり数時間、彼を負って歩きながら、沈黙は気まずいとあって紫檀はひとり、身の上話をはじめた。
馬たちとの思い出のことや、牧場での生活のこと。
第8層から第1層への抜擢によって一変する生活への不安、川模 廿日の期待を裏切らないようにしなければならないという意気込みを、紫檀より随分若いと思われる青年に、隠さず語った。
彼はいちいち相槌を打って、興味深そうに紫檀の話を聞いていた。
紫檀は8層で初めて誰かに理解してもらったような気がする。
思えば紫檀の話をこうやって水を差さず、最後まで聞いてくれたのは彼だけだ。
会話といえば一方通行の命令ばかり、それが第8層の原則だ。
真摯に耳をかたむける。
相手と対等に通じ合うことのできる喜びを、紫檀は久しぶりに噛み締めたのである。
しかし彼に理解されていると感じれば感じるほど、紫檀も彼を理解したくなってきた。
彼とは本当の意味でよい関係が築けそうだ。
それは第二使徒の廿日に抱く感謝と敬愛の気持ちとは違う、友達になりたいという純粋な気持ちだった。
彼は相変わらず、一向に名乗ろうとはしなかった。
紫檀の背中に乗っておいて徒歩で何時間も歩かせているのに、名も名乗らないのは聊か無礼だ。
紫檀は何度も名を尋ねる機会を失った。
紫檀が聞き出そうとするたびに、彼は違う話題を振ってきた。
まるで紫檀の心を読まれているように。
「なんかごめんなさい、自分のことばかり」
しかし、彼が身の上話をしないからこちらの話ばかりになってしまうのは仕方がない。
「いや、そういった話を聞いたことがなかったから、興味深いよ」
「あなたの話も聞かせてくださいよ! 今のことが話したくないなら、小さい頃の話でも何でもいいから。ご両親とかの話でも何でも」
「両親もいないし、子供の頃からずっとひとりだ」
なるほど、孤児なのか……。
幼少期の暗い思い出が、彼を寡黙な性格にしてしまったのだろうか。
紫檀は気の毒に思った。
「こんな風に話しかけられたの、初めてだよ。凄く新鮮だ、あそこに倒れていてよかった」
「友達とかは? 同僚とか」
「友達か……考えてみれば一人もいないな」
「ひとりも?」
紫檀は驚いて立ち止まる。
「多分、これからもいないんだろうね」
何と寂しいことを言うのか……紫檀は遣る瀬無い気持ちになった。
紫檀は所属が離れているが何名か気のおけない友達はいるし、ここ最近は会えなくとも手紙で遣り取りなどもしている。
この青年とは話をしやすいし、彼は聞き上手だ。友達ができない、などとは思えない。
紫檀は彼をはげました。
「友達なんて一人できたら、二人目もすぐできますよ! でも、それにはあなたが変わらないと。もっと心を開いて明るくならないと!」
「そうだね、……でもそれは、来世での話になりそうだ」
「来世?」
「もし生まれ変われるとしたらね」
急に来世の話になって紫檀が困惑していると、彼はこう言った。
「生まれ変わったら、人間になりたいんだ。そのときには、たくさん友達を作りたいな」
憧れるような眼差しを、漠然と空に向けている。
何でよりによって人間になってまで? と、紫檀はツッコミをいれそうになった。
友達を作るのが、彼にとってはそんなに難しいことなのか……。
「ていうかそれ、人間じゃなくても今すぐできますから。それに、そんな調子だと一生独身ですよ」
紫檀は独身の自分をさておき、彼の行く末を心配した。
使徒は友達どころか婚姻を禁じられていないし、恋愛も自由だ。
友達作りも、彼が諦めなければ絶対に不可能などではない。
それを”来世で”と言ってしまうあたり、よほど彼が自身の性格を変えられない頑固者なのか、何か深い理由があってのことか。
寂しい生涯を送り、寂しい老後を送る。
そんな将来が見えるような気がしてならない。
「では手始めに、折角なので僕でよければ友達一号になります」
紫檀は軽い気持ちでそう言ったが、彼はやんわり拒絶した。
「ありがとう。気持ちだけ、もらっておくよ」
「ほら……そうやって壁を作ってるから、友達いないんですよ」
「そういう君の夢はなに?」
「僕にも夢ができたんです、つい昨日の話ですけど」
「いいね、それは?」
彼は楽しそうに紫檀に尋ねる。
「神様にお会いすることです。あなたも使徒ならそう思いませんか? 一度だけ、僕は神様の存在を感じたことがあるんですが……。光獣に乗って、夜空を風のように駆けてゆくのを地上から見上げていました。本当の神様はどんなお方なのだろうと思って……一目だけでも、お会いしてみたいんです。僕、昨日まで神様のこと半信半疑で、恥ずかしいことに神様の御力を疑ったりもしました、でも第二使徒様にお会いして、目からうろこが落ちました。僕は今まで不信感を懐いていたことが恥ずかしい、神様は全てをご覧じて、僕たちを救ってくださっていたのに」
「……そう」
「あれ、そんな変な夢でしょうか」
無言になった気まずい空気を読んで、紫檀は、何かまずいことを言ってしまったかと体をこわばらせた。
もしかして、神と会うという発想そのものが不敬の極みなのだろうか。
もしくは、羨やんでいるのだろうか。
彼が下層の使徒ならば、複雑に思うに違いない。
彼は一生、神と会うことはできないのだから。
彼は考え込んで、ぽつりと述べた。
「恥じる必要なんてない、恥じるべきはこちらの方だ」
「え?」
彼の表情がどことなく沈んで見えたのは、紫檀の気のせいではない。
何か、神に個人的な恨みでもあるか、神が嫌いなのだろうか。
彼の言葉の意味を解せないまま、指示通りに進んでいると、見覚えのある建物が見えてきた。つい昨日そこを飛び出した、馬舎に戻ってきていたのだ。
紫檀は身の危険を感じ思わず物陰に身を潜めた。桟利がどこを歩いているか知れない。
今度見つかったら、殴られる程度ではすまない気がする。
口封じに殺されて、ひっそりとどこかに埋められるに違いない。勿論彼も巻き添えになる。
「ここに御用ですか? ここはまずい、危険です」
「いや、その隣」
彼は馬舎を左に見て、猶も進んで欲しいと言う。
この先にはシロハヤブサ、鳳の檻しかない。
紫檀が何度も憧れながら、決して踏み入ることの許されなかった神の領域だ。
踏み入った時点で重罪は確定する。
「ここ、立ち入り禁止ですよ」
小声で彼にそう教える。これ以上は絶対に進めない。
紫檀は足を止め背を振り返った。彼は檻を見つめている。
ひょっとして、光獣番役だったのだろうか?
確かに紫檀は光獣番役とは面識もない。彼が何百年も光獣番役として務めていたとしても、話したことすらなかった。
いわれてみれば光獣番役の制服は白く、目がかぶるほどの深いフードを被っている。
少し違うような気もするが、彼のローブが似てないこともない。
「あ、もしかして光獣番役だったんですか?」
紫檀は心得て、光獣番役の彼と一緒ならと檻の前にやってきた。
鳳は檻の中で相変わらず凛として、すっくと首を伸ばして前を見つめ、白く巨大な翼を折りたたんでいる。
いつもよりすましているように見えた。
「立派ですよね……こんなに近くに来たのは久しぶりです。あの背中、一度でいいから触れてみたくて。でもあなたなら、羽を整える時なんかに触れたりする機会もあるのでしょうね」
「触れる機会は確かにね。このまま中に入ってくれないか?」
いくら第1層に召された紫檀でも、これ以上は進めない。
「でも、僕はこれ以上は……。それにあなたも、光獣の世話よりまず医務室に」
「責任はとるし、君に害は及ばない。それにここで降ろされても困るんだ」
どうしてもそう言うので彼を負ったまま檻の入り口に近づくと、彼は認証番号を知っているようで、慣れた手つきでナンバーを押す。
檻の扉はこともなく開いた。紫檀は白隼の檻の中に入り、巨大な雄姿を見上げる。
我も忘れ、その至近からの姿を目におさめる。
彼は、ふらふらと足をもつれさせながら入り口の操作パネルに触れる。
紫檀は彼の腕を支えながら、シロハヤブサに魅入っていた。
ふと電動音がして、檻の天井が開く。
真っ青な8層の空が、紫檀の視界いっぱいに広がった。
彼の要求はエスカレートして、タラップまで連れて行ってくれと紫檀に頼む。
「まさか、鳳に乗る気ですか」
いかに光獣番役とはいえ彼のしようとしていることは大罪だ。紫檀は急に怖ろしくなってきて、必死に首を振った。
「い、いけません。たとえ光獣番役でも、光獣を侵してはいけません!」
紫檀はこの男をどうしても止めなくてはならなかった。
シロハヤブサは大きな黄色い眼球を向け、彼を見つめている。
その鋭いクチバシでつつかれるのではないか、紫檀はもう既に及び腰になって、ひたすら檻から出ようともがくが扉が閉ざされている。
光獣は首環を取らなければ、飛び立たない。
青天井の下、タラップは鳳の背中に伸びていた。
「どうしても、行かなければならないんだ」
紫檀は彼が梃子でも言う事を聞きそうにないので、やけくそになってタラップに連れて上がると、何も見なかったことにして逃げ出そうとした。
彼は紫檀の腕を握って放さない。
紫檀の血の気が引いた。
この場に留まれば共犯だ、一刻も早く逃げなくては。
しかし紫檀がその手を振りほどこうとしても彼の力は強く、もがけばもがくほど腕に食い込む。
彼は既に鳳の背に腕力でよじ登った。
よく懐いているのか、鳳は危害を加えることもなくツンとすまして彼を背に乗せている。
紫檀は小声で、しかし強い口調で彼を叱った。
「いいですか。これは! 犯罪! なんですよ! 鳳は神様の乗り物です! ふざけてないで気が済んだなら今すぐそこから降りて下さい! まだ間に合いますから」
「これ、何かわかる?」
彼はふと、袖をたくり上げて左肩をあらわにしてみせた。
軍神の御璽、展戦輪の金色の御璽が繊細な光を編んで輝いている。
しかし紫檀は今はそれどころではない。
「展戦輪の刺青? そんなどうでもいい自慢は後にして、早く降りてください、見張りが来てしまいます!」
紫檀たちは軍神下使徒なのだから、展戦輪をモチーフとしたものなど、そこかしこにある。
というか、軍神下使徒は全ての持ち物に展戦輪の刻印の入ったものを持つ。
それを肩に刻んだからといって、別に褒められたものではない。
何か意味があるとすれば、一生を軍神に仕えるという意思表示だというぐらい。
……紫檀はそう思っていた。
「へえ……」
それを知らないことに、彼は驚いているようだった。
「へー、じゃないです。早くそこから降りてください!」
「紫檀。本当はもう少し、名乗らないで君と友達のままでいたかった。でももう時間がない」
「先ほど君が言っていた夢、実は今かなっているんだ。わたしの名はユージーン=マズロー……君の会いたがっていた、神だよ」
寂しそうにそう言う彼の言葉を理解できず、紫檀は急に体が脱力するのを感じた。
背筋を氷でぞわりと撫でられた気分だ。意識が体から抜けそうになった。
「え……?」
彼はいつの間にかその手に、真っ直ぐな杖を持っていた。
分析的宇宙依拠現象把握機構(G-CAM)、軍神の神具を携えシロハヤブサの背から真実を告白する。
「介抱してくれて、ここまで連れてきてくれてありがとう。斥力中枢がやられていて飛翔できなかったんだ。そして半日間だったけど対等に話せて、友達でいてくれて嬉しかった」
紫檀は血の気が引いて、今にも卒倒しそうだ。
くずおれそうになる紫檀の手を強く引いて彼は鳳の背に紫檀を乗せ、間髪いれず光獣に命ずる。
「さあ翔べ、鳳。生物階へ連れて行ってくれ」
鳳の首に取り付けられたフライトレコーダに繋がるマイクに、彼はすらすらとこう述べた。
「テイクオフ時間、GTC(神階標準時)1422。進入コードは1088、座標は生物階・北緯38度、西経77度。現場空域3kmで滞空、ODF(視覚郭清フィールド)を展開後、高度800mで広帯域MCFを展開する。テイクオフは座標2241にて。ゲートは第一ゲート利用を申請」
神の手によって鳳の首輪が解き放たれ、光獣が一柱の神と混乱する使徒を乗せ飛び立った。
第8層の空に舞い、やがて使徒階の青い気圏を突破し光獣専用ゲートへと向かう。
宇宙空間にエントリする。鳳の展開する防護シールドが真空の寒さからふたりを守ってくれる。
鳳は使徒階層間と陰陽間を繋ぐ光獣用ゲートウェイを飛んでいた。
光獣はもともと宇宙空間をも飛翔できるように設計されている。
宇宙空間飛行中は真空を飛ぶことになるが、真空中では羽を羽ばたかせてもあまり意味がないので、足輪についた電磁石の電圧を搭乗者がコントロールしつつゲートウェイのレール上を飛ぶ。
呼吸以外は二酸化炭素も吐かないこの素晴らしい乗り物の燃料は、わずかな飼料だけ。
ジェット燃料もロケット燃料もいらないが、それほどの速度が出る。
ゲートウェイの分岐点を何度か曲がったあと、陽階の広大な公獣エアポートに到着した。
エアポートは広大な面積で何千ヘクタールもある。
手前が伝馬、奥が光獣の発着場所だ。陽階の玄関口ともいえるエアポートは、全ての陽階神とその使徒が利用している。
ユージーンはエアポートに鳳を乗り入れ喉もとをさすると、鳳はピーッと汽笛のようなさえずり声を上げた。
光獣がゲートを使用するという合図を送ったのだ。
枢軸神のテイクオフを告げるサイレンが鳴り響き、他の公獣たちがユージーンに空路を譲るために慌てふためいて着陸し、空港スタッフが鳳を見上げ、光獣がゲートを通過するまで全ての公獣の発着を控える。
枢軸神の乗り入れに空港官制があわてふためき、空港内に離発着禁止の放送が流れる。
エアポートの上空にぽっかり、進入コードを受け付けた出階ゲートが空を穿つ窓のように開いている。
公獣の離発着を制限し空をあけておかないと、鳳は巨鳥であるため翼で他の公獣を引っ掛けてしまい、空中で衝突事故が起こるのだった。
指示がいきわたると官制官が管制塔に青いランプを点し、空港から数百メートル上空に転々と数十メートル間隔で電磁加速ガイドの青い光が浮かび上がった。
鳳は電磁加速のアシストによって準光速飛翔速度に達し、生物階への転移速度に達したままゲートをくぐる。
光速オーバードライバによるダイナミックな空間転移。
鳳が光獣と呼ばれる所以である。
「紫檀、生物階に降下するよ」
彼はぐったりと意識を失った紫檀に呼びかけたが、返事はなかった。
仕方なく彼は進行方向を向くと、ガイドにそって鳳の足環の電磁加速が行われ、凄まじい加重を体感しつつ光の速度となってゲートを駆け抜ける。
ゲートを抜けたとき、光獣は空間を跳躍し下には青い海がいっぱいに広がる。
まだ意識を取り戻さない紫檀を見やる。
「まだ友達でいてくれるなら嬉しいけれど、きっとそっちからお断りだろうね」
どれだけ意識を失っていたか、覚えていない。
一枚一枚美しく手入れされた巨大な羽毛に包まれて、紫檀は意識を取り戻した。
ふわふわとして、とても温かい。
これほど柔らかな感触が、他にあっただろうか。
紫檀がこれまで寝泊まりをしていた宿舎の、壊れそうな硬いベッドと一枚きりの肌布団ではこうはいかなかった。
あと他に思いあたる柔らかいものといえば、馬だ。
だが馬の毛も短いし、尻尾はざらざらとして少し違う。
他には紫檀の背中にも薄紫色の翼があったのだが、不可視化装置により目には触れないまま、触れる事もできず長い年月が経ち、もう彼自身に翼があったことも思い出せずにいた。
陽階では逃亡を防ぐため、使徒が翼を使って飛翔できないようになっていた。
彼らは翼を奪われ、神々の僕として使役されていた。
そうして考えてみると空を飛んだのは、初めてかもしれない。
見たこともない、壮大で美しい景色が矢のように飛んでゆく……。
「意識が戻ったら自分でつかまって。片手での操縦は難しいんだ」
紫檀は必死で鳳の背にぶらさがっていたロープを掴んだ。
しかしその手を放して、飛び降りたほうがよいのではないか。
そうも思った。
よりによって軍神に、数々の無礼をはたらいてしまった……一つ一つ思い返すと、取り返しのつかないことをしてしまったと分かる。
説教じみたことや、立ち入った話もしてしまった。
「か、神様……僕はあなたをそうと知らず、大変なご無礼を。ここから飛び降りて死んでお詫びしたい気持ちです」
彼はその言葉を聞いていたが、まっすぐ前を向いたままこんな言葉を返してきた。
「薄暮色の、風情ある翼色だね。もう、飛び降りても死なないと思うよ」
そう言われて気付いた。
紫檀の背の、不可視化装置と拘束具が解かれていた。
いまはっきりと、紫檀の背には翼が見えた。
彼がその権限において、拘束を解いたのだ。
「制御装置が、外れて……」
たしか拘束装置の制御を解かれるのは、十大使徒だけだ。
仕事のために飛翔が必要だからだといわれている。
「少し羽根を伸ばして、見ているといいよ。操縦をよろしく、馬の騎乗と同じだからできるだろう」
ユージーンが鳳から手を離したので、紫檀は慌てて鳳の手綱を取る。
憧れの光獣を紫檀が飛ばせているのだとしたら、信じられない。
ユージーンは手を離して鳳の上に腰をおろし、両手をG-CAMに添えて起動した。
丁寧に杖にアトモスフィアを通じ、杖は黄金色の光の層を纏う。
神のなす業を至近距離から目撃する。
紫檀の目に焼き付けた。忘れがたい神秘的な光景を。
"Grasp the Context by Analytical Microcosm (G-CAM).Open. "
(分析的宇宙 依拠 現象把握機構 G-CAM、展開)
"System consol open, access to program No,121."
(システムコンソール展開、プログラムNo,121へ接続)
”Apply the Mind-Contol Program, Electric Range 20 miles square, Speed 1.5 km/sec, Specific Absorption Rate 0.8 W/kg"
(マインドコントロールプログラムを適用、作用範囲20マイル平方、速度 1.5キロメートル毎秒、人体頭部吸収比 0.8 ワット毎キログラム)
よどみなく紡ぎだされるコマンドワード。
計算しつくされたプログラム構成。
紫檀はその見事な業に見とれて息を呑む。
「すごい。これが神通力……ですか」
「残念ながら、わたしは神通力なんて使えないよ」
神具でできる大抵のことは、大電力さえあれば誰にでも出来ることが殆どだと、彼は自嘲する。
例えば、マインドコントロールは神具を基点に厳密にコントロールされた電界を立ち上げ、人の思考回路を電気刺激とシーケンスにしたがって書き換えるテクニックなのだと。
マインドブレイクもしかり、マインドギャップもしかり。
それを奇跡のように受け止められ過大な反応をされると、居心地が悪いのだと彼は率直にそう述べた。
「がっかりしただろ。だから”神様”として崇められたり祈られたりすると、無力感を覚えるんだ。信仰にたえるほどの力をもっていればよかったのにと、時々思うよ」
ユージーンはすっと杖を撫でてコマンドを確定しG-CAMを最後に一振りすると、半径500mを基点に展戦輪のライトワークが雲間に投影される。
緩やかに重なった光環は波を立ててベトナムの大地に拡大して浸透する。
人々の心を束ね、鎮め、憎しみの連鎖を断ち切るために。
神の名は明かされず、ひっそりとその地に記された奇跡を目撃し、紫檀は知らず、涙がこみ上げてきた。
「平和への祈りにこたえるのが、軍神の仕事だ」
人の思いは神や使徒のそれより強い。
そして助けを求める人々の祈りはとりわけ、彼には、大きな叫びとなって聞こえるのだという。
戦場にはそんな人々の、神への祈りが渦巻いている。
亡くなった犠牲者を、泣き叫ぶ子供達を上空から見下ろすたび、彼は地上に姿を顕して直接停戦を呼びかけたい衝動にかられるという。
だが、生物階への神の存在を秘匿することが、主神ヴィブレ=スミスの方針だ。
人々を神の支配に怯えさせるのは、生物階のあり方として望ましくない。
「一日でも早く彼らに笑顔が戻るように、全力を尽くすことはできる」
時は西暦にして1962年。
第二次世界大戦が終結し、ベトナム(仏領インドシナ)から日本軍が撤退すると、コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンはハノイに首都を置いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ共産主義による国造りを目指していた。
これを阻止しようとする旧宗主国のフランスが背後に絡む南ベトナムと、北ベトナムの対立は続いていた。
1960年にはベトナム戦争が始まり、アメリカ軍は南ベトナム軍事援助司令部(MACV)を設置し、資本主義国と共産主義国の代理戦争は本格化しようとしていた。
ユージーンはベトナムの独立を手助けするため、腹心の精鋭部隊を介入させていた。
しかしマスコミの発達した現代社会において、姿を隠しながら軍事介入をするという手段での介入は難しくなってきていた。
ODF(視覚郭清フィールド)を展開できない、使徒はカメラに映る。
一方、ODFを纏った神の姿は、誰にも見えない。
ユージーンが足の神経が切れた状態でなお生物階降下を急いだのは、一刻も早く戦争を終結させるためだった。
そのために取った最終手段は、マインドコントロールフィールドによる穏便な解決。
「ごめんなさい。神様。あなたがこんな……」
紫檀は泣いて泣いて、とにかく悔しくて腹立たしくて泣いた。
神の姿を目にして、そして同時に孤独な、等身大の青年の姿を見たから。
神としての名と責任に苦しみ、それに懸命にこたえようともがく。
あの夜、8層の空から飛び去った幻影は、決して使徒たちが羨望の眼差しで見上げてはならなかった。
興味本位に神の姿を訊ねたとき川模の表情がこわばった理由が、今更のように身にしみて分かった。
川模は彼が、全能の神ではないと知っている。
18万名の軍神下使徒たちにとって、たった一柱の絶対的な存在。
空を覆いつくすばかりに強大なものと考えていた神の威光。
だが実際に会ったその存在の、何と心細く頼りないことか。
だからこそ、彼は尊い。
生涯を8層で潰え、ただ漫然と日々の不満を神になすりつける。
そんな日々が、ずっと続いていたかもしれないと思うとぞっとする。
まだ、遅くないだろうか。これからでも、取り戻せるだろうか。
生きる意義を見つけた。
卑近にいる、彼の為に、そして廿日のために何ができるだろう。
彼らに全てを奉げようと思った。
紫檀は彼と川模の為にこそ仕えたいと、先日とは違う決意を懐いたのだった。
「……一層に戻ろうか。ちょっと疲れたよ」
G-CAMを夕焼けの空に放り投げ、神はそう言った。
紫檀の頬を打つ風がやけに、冷たく感じた。
*
その頃、響 以御ら十大使徒と各軍事部門の代表者たちが、オペレーションルームにおいて今後の軍事介入のための戦局会議を行っていた。
先に作戦会議を行い練った案を神に提出し、棄却されれば再審議を繰り返す。
連日10時間にも及ぶ会議が行われていた。
響は忽然と姿を消したユージーンが心配だった。
こんな非常時に、とんずらされては困る。
数十あった作戦案から、工作部隊が生物階への介入を図るという案に一本化され閉会となった。
「まだ、見つからないのか? あの野郎、どこをほっつき歩いてる。決済すべき書類が山のようにたまってるんだぞ。書類山、標高3メートルだ。これ以上積み上げてはなだれが起きる」
「以御、口に気をつけてください。主には深いお考えがある筈です」
長い廊下を、廿日とふたりで歩く以御は苛立っていた。
以御は背の高い使徒で、ウエーブのかかったブロンドの髪を肩まで伸ばし、袖のないロングコートを着ている。
廿日のハイヒールの音と、以御の軍靴の音が廊下に染み入ってゆく。
軍神下第一使徒を示す黒い御璽が、彼のむきだしの右肩に入っていた。
「あいつがいないと、戦局が動かない。どれだけの人間が犠牲になると思っているんだ」
「主はきっと今ごろ何かをお考えなのだと思います。主はお若いのに、よく頑張っていらっしゃるではないですか」
「若い若くないは関係ない。軍神は軍神だ、若いというだけで奔放にされてはたまらん。書類の山もあるし」
「作戦書類も、今度からペーパーレスにするべきですね」
廿日は決してユージーンをけなしたりはしないが、彼女も同感だった。
戦時中には軍神は常に執務室にいてもらないと困る。
彼がいないと介入もできないし、戦局だって動かせない。
せめて以御に職権を付与するという言葉をもらえないと、以御は彼の代理として指令を出す事もできないのだ。
以御は神の代理者としての地位を得ているが、彼の言葉がなければその権限を発揮できない。勝手に指令を出すと背任の罪で以御は殺されてしまう。
するとそんな頃合をみはからったかのように、伝達員が廊下を叫びながら走ってきた。
よほど慌てているのだろう。
彼は以御と廿日の前にひざまずくと報告する。
「響様! 主がご帰還です。落雷に遭って、足の神経が切れたと……」
「神経が切れた!? 神体はどうでもいい、脳に異常は!?」
以御は大声を上げた。
以御の言葉を聞いて、廿日は眉をつりあげた。
まるで、仕事さえできればそれでいいという冷酷な態度。
以御は仕事にストイックであるあまり、知らず知らず神を追い詰めているような気がしてならなかった。
「精神系に問題はなしとのことです。斥力中枢に麻痺がありますが、回復する見込みとのことです」
「以御。あなたがそんな調子だから、主はあなたに黙って行動されるようになったのよ。主はおひとりで生物階に降下されたのかもしれない。光獣に乗って」
「はい、生物階でMCFの発動が観測されました」
以御の記憶が正しければ、神階の門の定員はぎちぎちの筈だ。
それは主にベトナム戦争開戦を受けて、各陽階神が介入しているからなのだが、軍神は戦時中は執務室にいて、全ての指揮をとらなくてはならない。
もし落雷を受けて神経が切れているのなら、相当なダメージを負っている。
それでも彼は根性で生物階降下を強行し、MCFをかけて戻った。
ユージーンの乗る光獣は陽階最速を誇るので鳳を利用して、直接戦局操作に乗り出したのだとしたら……。
一日でも早く、戦争を短縮させたいとの思いが先走ってのことか。
だが、局所的MCFをかけてもその効果は限定的だ。
今回の戦争は、アメリカとソビエト連邦の代理戦争のようなもので、ベトナム本土が単独で戦争を行っているわけではないのだ。
戦争は終わらない。必ず、更なる火種が起こる。
「勝手な行動を……。医療チームからの引渡しが終わったらあいつを確保し、ベッドにくくりつけとけ。説教だ」
「川模様、主から書簡にございます」
伝令使は、廿日にユージーンから廿日宛ての書簡を手渡した。
廿日は手紙を受け取りながら、それが以御宛てでないことに、これはあまりよい兆候ではないなと懸念した。
第一使徒と神の信頼関係が、少しずつ壊れつつある。
近日中に、以御の解任もあるかもしれない。
もしくはユージーンの性格からすると、解任もできず以御に相談もせず単独行動が増えそうだ。
単独行動はユージーンの身を危険に晒し、軍神下使徒の統制を欠く。
軍神は以前にもまして、寡黙に、そして孤独になった。
アジア情勢が不安定になってからというもの、仕事一色の毎日だ。少しガス抜きもしないと……廿日は軍神と直接話したいが、第一使徒を差し置いて神から打ち明け話を聞くなど、許されていない。
書簡を読むと、ユージーンは紫檀に助けられ、彼とともに戻ったそうだ。
廿日は紫檀が通されているという控え室にその足で向かった。
今日はこげ茶色の髪の毛を小奇麗にまとめてコサージュでアップにして止め、空色のワンピースを纏っている。高位使徒が正式に着用する青衣は、いつもは着用しなくてもよい。だが廿日は神の守護者であるという自負を忘れないでいるために、いつも青を基調とした服を選ぶ。控え室のドアを開けると、達者な様子の紫檀は廿日を見つけて立ち上がり、一礼をする。
「あなたの運のよさには驚きました。8層で、主にお会いしたそうですね」
廿日はおっとりと紫檀に微笑みかける。
「まだ、現実のこととは思えません。ですが、呆けている場合ではないと思いました」
「その気になってくれて何よりです。辞令です。本日より、あなたを第五使徒に任じます。任命権者になりかわって、あなたを徴用します」
潜在能力十分、性質もすぐれて良し、頭脳明晰、状況把握能力も鍛えれば身につく、だがその才能を今は無駄に潰しているとのこと。少し鍛えて錆びを落としてやってくれ、と廿日への手紙には添えられていた。
書簡の二枚目には軍神の裁可による御璽印をついた辞令。
それを廿日にどんと見せ付けられ、紫檀は絶句した。
「! ……え?」
「もはや試験の受験は必要ありません。ですがあなたの教育係は私に、しっかりしごいてくれとのことです。異例中の異例、大抜擢です。よほど神様の御心にかなうことをされたのでしょうか。介抱して差し上げたのはさておき、他に何か思い当たるふしはありませんか?」
「恥ずかしながら、これといって、思い当たるふしはありません。僕は神様には失礼なことばかりしてしまって、処刑されてもおかしくないと覚悟をしていたんです」
「また、”ざっくばらんに話をしてほしい”と仰っていますよ。何のことかはわかりませんが」
もしかして……ひとつ心当たりがあるとすれば……彼は”対等に話せて、嬉しかった”と言わなかったか。紫檀は複雑な気持ちになった。
神はマインドブレイクを、ほぼ日常的に用いている。
神の前では全てを審らかにされ、下心は通用しない。
神をして紫檀を第五位の召したいと思わせた理由を、廿日は無性に知りたくなった。
馬に彼の気配がつくほど愛情を込めているような男だ。
裏表のない、誠実な使徒なのだろうか。そうに違いないと、廿日は信じていた。
「よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよろしく」
2021/9/13追記
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EP1(A.D. 2007) INVISIBLE-インヴィジブル- https://ncode.syosetu.com/n8234j/
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