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Anecdote 5 God and 2nd Apostle 1

挿絵(By みてみん) 


 軍神下第8層、公獣番役。653歳の紫檀に与えられていた役職は、正確にはそういった。

 伝馬(でんま)と呼ばれる、十大使徒が用いる天馬を広大な牧場で飼育するのが主な仕事だ。


 神階には神と使徒以外に、厳密な意味での生物は存在しない。だが創造神や遺伝子を司る神々によって創出された模擬生物は数多く存在した。

 岡崎 宿耀らが生物階の生物をベースにDNAを設計して模擬生物をクローン化し、植物や動物など、多種多様な生物種が育まれた。

 長きにわたり生物階を観察するうち、神々や使徒が窓辺には花を飾り、アトモスフィア以外の食物。つまり穀物や野菜などを食してみたいと、そう考えるようになりニーズが出てきたからだ。

 彼等の気紛れによって育まれたこれら生物は、使徒たちによって厳密に管理されていた。


 神階に住まう使徒はどの神に所属する使徒も階層に分かれて暮しており、小さな空間に隔てられ、丁度ひとつの街レベルの規模で暮している。

 いくつの階層に分かれているかは、従属する位神が何名の使徒を擁しているかによる。

 上位使徒から順に1階層から8階層まで、ひと階層に3万名までの使徒が住まう。

 紫檀が従属する軍神は22万名の使徒を擁しており、階層は8階層まである。

 紫檀がいるのは最下層にして最底辺の8階層だ。


 生まれてこのかた、神の姿など見たこともない。


 紫檀たち馬番役が預かる伝馬は全部で15頭で、10頭が十大使徒たちの馬で、残りはスペアだ。

 紫檀はその半分の世話をやいていた。

 毎日毎日擬似陽光も昇らないうち、彼は先輩衆の誰より早く出勤する。

 自分の担当の馬ばかりか先輩の馬にも飼料を与え、丁寧にブラッシングをして馬小屋を掃きホースで水を打つ。

 先輩方が出勤する頃には一仕事終えて息を切らせ、エプロンで両手を拭いながら先輩を出迎える。


 彼は物心ついた頃からこの牧場で働いている。

 退屈な仕事だが、愚痴をこぼしたことはないし馬番役に不満がある訳ではない。

 しかしちらりと隣のケージを見遣ると、思わず溜息が出るほど魅力を備えた、軍神だけが搭乗する光獣が控えている。

 光獣の佇まいを目に焼き付け神の気配だけを感じながら、彼は日々を過ごしていた。


 光獣オフィシャルバードは枢軸神と呼ばれる高位の神々に与えられる神獣であり、光速飛翔を可能とする、枢軸神の乗り物だ。

 飛ぶためだけに設計された巨大な模造生物。神々は瞬間移動を使うが、アトモスフィアを削る上に、イメージできる場所、つまり記憶がある場所にしか移動できない。

 多忙な枢軸神が未知の場所に消耗することなく移動できるので、何かと便利なのだろう。


 光獣は見たこともないし生涯関係することもないであろう軍神、ユージーン=マズローだかいう神の所有物だ。

 白いハヤブサのようなシルエットの巨大な鳥で、凛とした大きな黄色い瞳に、長く逞しい風きりの双翼。

 斑紋も美しく整っていて、鋭い爪先と丈夫な両脚を誰もが羨望のまなざしで見つめる。

 300年以上を生きるこの白隼の名は、ほうといった。

 この鳳に強い憧れを抱いていた紫檀は、いつか光獣の世話係になりたいと、常々希望していた。


 努力次第では光獣番役も不可能ではないと聞き、毎日毎日熱心に自分の仕事をこなしてきた。

 それでも先輩に叱られてばかりで、紫檀のやることなすこと全てが気に入らないとみえる。

 完璧でこまやかな仕事ぶりに賛辞を送る事もなく、隔日の休暇を嫌がって馬舎の掃除を押し付ける先輩方の為に、紫檀が春休暇を返上して今年で5年目になる。

 牧場から異動になった同期の朋友が、春休暇にはベルギーに行ったといって、写真をみやげ物の入った封筒一杯に送ってきた。

 新緑の萌える馬場の柵に腰掛けながら、大麦のクッキーを頬張り手紙を読む紫檀は、例年になくもの寂しさを覚えた。牝馬のアーデンが隣で慰めてくれるが、少しも気が晴れない。


 生物階。人間の住む世界など見たこともなく、神階から一歩も外に出たことはない。人は努力次第で自由に職業を変えられる、手紙にはそう書いてある。

 羨ましい。

 紫檀は正直にそう思った。職業を自らの意思で選択できるなど……。


 しかし使徒は神々のアトモスフィアという物質を得るがために、身分を生涯違えることなく、彼等に死ぬまで尽くさなければならないのだ。

 紫檀も半期に一度、軍神のアトモスフィアを何百倍も何千倍も希釈しに希釈した透明な溶液の注射をされるが、とても注射だけで基礎代謝を賄っていると考えられなかった。


”神様。あなたは本当に存在しているのだろうか。この身に受けたアトモスフィアは、本当にあなたのものなのだろうか”

 

 たった一本の、薄めに薄められたちっぽけなアンプル。

 それが紫檀にとっての”神”だ。

 いつも考える。本当にアトモスフィアは必要なのだろうか? 

 使徒はそれなくしては生きてすらゆけないか弱い生命なのか。

 高位の使徒ほど能力が高いのは、アトモスフィアの希釈率が低いからだとも言われる。

 第一使徒に至っては希釈もなしに直接与えられ、それだけの理由で彼は神に準ずる地位を手に入れているのだろうか。

 全ての使徒は神の為に尽くし、そして神のために死ぬのが道理とされる。

 このアンプルの代償は、それほどまでに重いか。


 鳳の檻を徹夜で見ていればいつかは神が現れるのではないかと思い、紫檀は数ヶ月もの間、睡眠も惜しみ鳳の檻を見守っていた。


 ある夜。

 紫檀がいつものように見張りをし、うたた寝をして起きた直後。

 鳳の檻は静かに開かれていた。

 はっとして夜空を見上げると、疾風と風切音が降り注いで、アトモスフィアを含んだ風を感じた。

 どれだけ目を凝らしても神の姿は見えなかったが、神は確かに紫檀の頭上にいて、鳳に跨り夜空を飛翔していた。

 その他にも紫檀が神の存在を感じた瞬間は多々あれど、その存在を直接的に感じたのはあの夜が最後で、その後1年を経ずして先輩使徒に見つかり、こっぴどく怒られたおかげで二度と光獣の檻の傍をうろつけなくなった。


 紫檀は鳳を諦めることにして、馬番に精を出すしかなかった。

 そうは言っても、馬も好きだ。

 彼等は賢いし素直で、瞳にはどこか温もりがある。

 他のどの使徒も馬に乗る事が禁じられていながら、馬番だけはそれらの調教のためと、運動をさせるために騎乗することが赦されていたので、馬に乗って草原を駆けると鬱々とした気分もいくらか晴れる。

 馬番役の誰より巧みな馬術によって気を紛らわせてきたものの、ふとした瞬間に鳳のことが頭をよぎる。

 そして未だ見ぬ、神のことも……。



「紫檀! どこで油をうっとるか!」


 思索に耽っていると、先輩の声が聞こえる。

 紫檀は慌てて柵から飛び降り、クッキーを口に放り込んだまま馬舎に駆けて行った。困ったものだ、いつも怒られている。

 紫檀は馬番役としては下積みになるのだが、他の馬番役の誰より馬に懐かれ、当然ながら紫檀自身の馬術も先輩使徒のそれを凌駕していた。

 それで紫檀は何かと辛く当たられる。


「はい、ただいま参りました」


 馬舎には先輩使徒の桟利 糧道(さんり りょうどう)がいて、憤慨している。

 失態をした覚えはないのだが……。


「テスラの毛並みが悪い! きちんとブラッシングをしているのか? サボっていないで今すぐブラッシングをしろ!」

「は、はい」


 テスラとは第二使徒、川模 廿日の駿馬である。

 グレーの上品な毛並みを持ち、利口で大人しい優秀な馬だ。

 紫檀からすればテスラのブラッシングは今朝一番に丁寧に仕上げたつもりで、平日と比べても手抜きをした覚えはないし、テスラの毛並みは普段通り。


 だいたい、テスラの担当は桟利だ。

 それを紫檀が代わりにやらされている。

 サボっているものだから、普段の馬の状態も掴めていない。

 さては今日、川模 廿日が乗るというのだな。それで不手際がないかと焦っているのか、紫檀はピンときた。恥かしげもなく横暴ができるものだな、と彼は正直腹立たしいが、歯向かうのはもっと不毛と感じて、すみません、と頭を下げながらブラシを取ってきた。


 桟利はしきりにテスラの鞍に汚れがないかと気にしている。

 それが許されるなら、川模に先輩の怠慢ぶりを密告してやりたかった。

 だが、紫檀はおろか桟利すら、川模 廿日に会うことはかなわない。

 十大使徒は神と同じく尊く清らかなものであって、低位の使徒が相見えたり話しかけて穢してはならないとされていた。

 川模に会えるのはこいつ、テスラだけだ。

 テスラの大きな瞳が、全部見ているからと紫檀に語りかけているような、そんな気がした。


 身体全体を使って尻尾の先に至るまで、つやつやに仕上げる。

 ブラッシングが終わる頃には、すっかり汗だくになって作業服を脱ぎ、腰に捲きつけた。結局これで、二度目の手入れである。


「終わりました」


 紫檀がタオルで顔を拭いながら報告のために詰所に駆け戻ってくると、桟利は馬番役詰所でコーヒーを飲んでいたので、これには失望する。

 彼が生涯仕える上司がいるとすれば、間違っても桟利ではない。

 紫檀は地道に仕事をし、早く認められて出世をしたかった。

 少なくとも尊敬のできる上司と出会いたかった。

 あっけに取られていると、万年欠勤がちな桟利以外の先輩衆が、珍しくぞろぞろと出勤してきている。


「紫檀、今日は第二使徒様がテスラにご騎乗されるのだそうだ。今日の午後二時に、馬をお届けせねばならん。お前は7層の入り口にまでテスラをお届けしろ、いいな」


 最下層から第7層に馬を届けるのは、いつもは桟利が率先してやる。

 手柄だけは一人占めにしたいからだ。

 しかし今日はどういうことか、届けたがらない。

 テスラの毛並みがいつもより悪いのを、気にしているのだと紫檀は勘付いた。

 馬は最下層から第1層にまで順にリレー形式で届けられる。

 馬の管理が悪いと当然、上層階使徒から大目玉をくらう。

 監視の目が多い分お叱りも倍に、倍になって届けた者に還ってくる。

 テスラは1ヶ月前から皮膚病をわずらい、痒いので馬体を柵に擦り付け毛が擦り切れてしまい、生え揃っていないので毛並みが悪く見える。

 報告書に何度も書いたのに、一度も報告書に目を通していないことは明らかだ。


 川模 廿日は憤慨して、馬の管理をしていた紫檀を罰するだろうか。

 正直に話せば解ってくれるだろう。

 テスラの管理者は紫檀ではないし、皮膚病も完治して騎乗には差し支えない、と。

 しかし正直に話す機会などあるものだろうか?

 そこで先手を打つべく、川模にひっそりと手紙をしたためた。


『第二使徒、川模 廿日殿……』


 皮膚病に至った経緯と、最近のテスラの気分の良し悪し、馬体の様子、脚力などについて細かに記述し、よってテスラの騎乗に何ら差し支えはありませんと締めくくった。

 小さな手紙を鞍と馬体の間に滑り込ませた。

 鞍に手紙を挟んだとき、テスラが紫檀に目配せしたような気がした。


「頼むよ、誰にも見つからないでくれ」


 午後になって、紫檀は身を清め、クリーニングされた馬番役の制服を着用した。

 あとは畏まって第7層の係の者に馬を届ければいいだけだ。

 川模 廿日に会える幸運は勿論ないし、川模が彼か彼女なのかもわからない。

 彼等とは隔絶された世界に生きるしかない、下位使徒の悲しいさがだ。


 午後2時の15分前。

 門の前にテスラの手綱を取って直立をしていると、約束通りの時間に係の使徒が引き渡しに応じた。

 係の者は愛想もなく無言で馬を受け取り、バタンと早々に第8層と第7層の境界である大きな門扉を閉ざした。

 ありがとう、ご苦労だったの一言ぐらい、言ってくれてもいいものを。


 引渡しの直前、手紙はまだ鞍に入っていた。

 あとは川模 廿日が読んでくれるといい。そう考えて紫檀は、妙な感覚に陥った。

 誰も相見える事ができず、神に最も近しい存在に、彼(彼女)にしか解らない方法で手紙を送っているのだ。

 考えてみれば、これは紫檀にとって単調で退屈な生活を打開する契機となるものかもしれない。

 何かが変わればいい、川模 廿日は返事をくれはしないだろうか? 


 期待に胸膨らませながら門に背を向けたとき、門は僅かに開いて、中から紙きれが飛び出してきて、ゆらりゆらりと空中を漂ったあと、地上に舞い散った。

 確認するまでもなく、紫檀のしたためた手紙だった。


 紫檀は絶望する。引渡し係は紫檀の顔を覚え、不正があったことも発覚した。

 不具合があれば真っ先に引っ立てられ、お縄を頂戴するのは桟利ではなく紫檀だ。加えて川模に手紙を出そうとした罪も上乗せされる。

 紫檀は悲嘆にくれながら馬舎に帰り、愛馬の様子を見て回ったがそれでも落ち着かない。

 桟利はそんな紫檀を物陰から見ては面白がって、同期の者たちと馬鹿にして笑いあうのである。


「どうしていつも、こうなるんだ」


 手柄は奪われ、他者の不始末は自分に回ってくる。

 7層の使徒がその夜血相を変えて紫檀を召喚しにきたのは、予想ができていたことだった。

 先輩衆は笑いをこらえながら、まるで葬送の列を作るかのように沈痛な面持ちでずらりと居並び、紫檀が引き出されて直立しているさまを上目遣いに見ては、目配せしあうのであった。


「お前が第二使徒の御馬、テスラの馬番役だな」


 7層の使徒は白髪の男で皺が深く刻まれており、瞳も白目がちで衰えが目立つ。

 先輩衆は口裏を合わせていたらしく、紫檀に罪をなすりつけた。


「そうです、この者にございます」

「いえ、わ、私めは……」


 どうか全てを打ち明けてしまいたい。

 紛れもなく潔白だ。

 しかし矢のような視線が背後から突き刺さり、否定すれば命の保障すらない。

 先輩衆は大声で、口々にこいつがやりましたと申し立てる。

 嵌められた、とは思えど、多勢に無勢。どうすることもできない。


「第二使徒がじきじきにお前をお呼びだというのだ。心して第1層にまで参内せよ」


 一瞬その場は静まり返り、馬場の松明の炎だけがそ知らぬ振りで湿気た木炭を爆ぜ、パチパチと揺れていた。


「川模 廿日殿が直々にお前をお呼びだというのだ。聞こえぬのか!」

「御、御意!」


 思考は停止し、理解が及ばず。川模 廿日に会う。

 それが何を意味するのか、その意味すらも知らされないまま。

 7層の使者は、泥濘に膝をついた紫檀を高い視線から見下ろして顔をしかめた。

 夜が更けるまで働いていた、汗のにおいがする。


「三度禊をし、身なりを整えて参内せよ」


 使者は言い捨てると、足早に帰っていった。

 今夜8時、馬を引き渡したあの7層と8層の境界の門の前に来い。そう言い残して。


「第二使徒様は、相当のお怒りに違いないぞ。直々にお呼びになってまで処罰をしたいんだからな。それもこれも、第二使徒様の御馬を皮膚病にしたお前が悪いんだ」


 桟利の声が、遠くに聞こえた気がした。



 紫檀はその後、宿舎に戻り、自室のバスルームで作法に則った禊を三度もすると皮膚が剥げて擦れ、その痛みは大変なものだ。

 ほてった皮膚を清潔なタオルで拭う。

 自室の西側に位置する寂しい窓辺に彩を添えるため、飾っていた野辺の花の花弁を、なにとはなしに一片とってみた。

 花弁は頼りなげで、儚く息に吹かれて飛んでゆく。

 配給制のランプの油が足りないので、灯りもなく薄暗がりの中、紫檀はひどく心細かった。


 このまま、なす術なく殺されてしまうのだろうか……。

 どこか遠くへ逃げたい。だが、どこへ――?

 神の卑近で伺候する、十大使徒。

 その第二位にある川模 廿日という存在。

 神と会話をし、その姿をいつも見ては守っているもの。

 彼、あるいは彼女は、神をどう語るのだろう、神の言葉を、神の祝福をどう語るのだろう。


 第8層という下賤の者にも、神は祝福を与えるか。

 そうは思えなかった。見えるものならば神と見えたいと思ったし、神々が完全無欠の存在だというのならば、彼らの無力を暴いてやりたかった。

 彼らは誰も救わない。地の底で蠢くものを、少しでも憐れんでくれただろうか。

 違うはずだ。


「行こう」


 例え断罪され屍とされても、紫檀は神の代理者に会う価値があるのではないか、そう思いなおした。

 紫檀は末期の水だと思って、よく冷やした泉水を口に含んだが、緊張でからからに干上がった喉が渇いた音を立てるように軋んで、湿気た風の吹き抜ける窓辺からは、先輩衆の妙に弾んだ声が聞こえていた。


 紫檀は決心して、午後8時に指定された門の前に呆然と立っていたが、その足が竦まないのが不思議だ。

 考えれば、今日というたった一日の生き方を間違えてしまったが為に生死の問題を突きつけられることが不満で、紫檀の感情を映し取るかのように、移ろいやすい第8層の天候は、いつしか小雨の降り敷く陰惨な空へと姿を変えていた。


 ランプの薄明かりとともに顔を出した生気のない使者は、紫檀を一瞥する。

 紫檀は襤褸の黒いフード付きコートを脱ぎ、それを片手に携えていたが、濡れ滴るコートが廊下を汚すのでその場に捨てろと命じられる。

 クリーニングをしてアイロンをかけてきたそれを、彼は渋々手放した。


 雷鳴が轟き、紫檀の前面に鮮烈な陰を落とす。

 禊はしてきたかと、使者は紫檀の周りを回りながら、まるで生ごみでも前にするような顔で嗅ぎまわる。

 三度も作法に則った禊をさせておいて、この扱いなのかと紫檀は落胆する。


「宜しい、ついてきなさい」


 これから紫檀は、現在の第8層から川模の居住する第1層までの門を8つも通らなければならない。

 隔絶されている各層をつなぐのは、門と呼ばれる転移装置だ。

 紫檀と上位使徒ははなから住む場所も違って、門がなければどう足掻いても彼らに会うことはできない。

 使者は年経た、何の特徴もない能面のような顔をした男。

 深く刻み込まれた顔の皺から、軽く千年は生きていると見える。

 紫檀は漠然と、彼の過ごした千年という年月に思いを巡らせた。

 だが逆に千年を経ても最下層に近い第7層の使者でしかいられないという事実、陽階の完全実力制を裏付けているようでそら恐ろしかった。


 実力のない者はいつまでたってもよい思いはできないのだと、彼の背中が語っているような気がした。

 第7層から第6層への引渡しが行われる部屋で、6層からの迎えの使者を待っている際に、紫檀はこの男に何故自分が第1層に召喚されたのか聞いてみたが、彼は何も知らされていないようだった。

 この世界の上意下達は、情報を細分化する事によって全体的な組織力を高めているように思われる。


 全体として機能するが、各々はどの部分を担っているのか知らされない。

 彼は紫檀を第7層から第6層へと引き渡せといわれただけで、それ以上知らず、知る必要もないのだ。だから彼は永久に出世できない。

 役割を果たしたからといって、彼の仕事は極度の細分化のため、仕事としては認められないのだ。

 複数の仕事を与えられ、仕事の成功という喜びを得ることができるのは、ごく一部の上位使徒のみだ。

 認められもするし、昇進もありうる。

 陽階のシステムは秩序に守られているので、簡単には揺るがない。

 人間社会の治世の危うさとは違って、陽階の為政者たちの頭脳が格段に違う。


 さて、各層を隔てる”門”は、所謂大きな扉のような形状だ。

 金属製の大きな扉をくぐると、突然場の空気のまったく違う同じような廊下が出現する。

 門は厳重に開閉を管理されているらしく、いかめしい門番と守衛が10名以上も不寝番をしていた。

 第6層も、第5層も、使者の雰囲気にさほど変わり映えはない。

 制服こそ明度が段々と明るくなってゆくようだが、誰もお仕着せのデザインの服を着て、一様に不機嫌で、そしてそこそこの高齢であった。


 第1層に近づくにつれ、紫檀は息苦しさを覚える。

 それは接触する使者のアトモスフィア濃度の上昇に対する、気圧の差なのだと、第3層の男から教わった。

 この3層ほどから、紫檀はあまり使者の近くに寄りたくないと感じた。

 撥ね付けられるような圧力を感じる。各層が亜空間として隔てられている事実、その理由に”気圧の差”があるという。

 下層に行くにしたがって、使徒に与えられる神のアトモスフィアの量が減ってくる。

 3層の男は1/30の希釈量がなければ、基礎代謝を賄えないが、紫檀はたった1/1000でも十分に基礎代謝を賄っている。

 そういうわけで、非力な紫檀が第二使徒である川模と会うなら、まさに命がけなのだそうだ。

 3層の男は、紫檀を見て、


「生きたまま1層に入れるかどうか……」


 と懸念していた。既に時間は午後10時を回っており、川模と面会するのは午後11時になる。


 最も巨大で最も壮麗な第1層の門をくぐった時、紫檀は足を踏み入れた途端、意識を失いかけてよろめいた。

 20名を超える守衛の一人が脇を支えた。

 紫檀は遂に1層の地を踏んだのだ。

 隣にいる守衛の発する気圧が紫檀の全身を軋ませ、猛烈な苦痛が襲う。

 彼は紫檀を助け起こし、肩を貸しながら、控え室に案内した。


「ここで、身体を慣らすといい。第8層から来たのだから、暫くは辛いだろう」


 使者は部屋に紫檀を残し、消えていった。


 息苦しい。動悸がする。

 四方八方から気圧の壁に押しつぶされそうだ。

 控え室を見渡すと、清潔だが広く殺風景な部屋だ。

 白い内装に床は大理石、クリスタル製の大きな応接机とソファーがあり、天井には豪奢な白い唐草模様のレリーフが広がっている。

 控え室の壁には涼しげな水時計があり、いつの間にか11時を指していた。紫檀はソファーには座ってはいけないものと弁え、壁に備え付けられた大きな鏡で、ひたすら制服に乱れがないかをチェックすることに腐心した。


「はあ……」


 息苦しさはとれないが、少しすると身体が第1層に馴染んできた。

 紫檀はこの控え室に通されたであろう者たちの末期について思いを馳せる。


 川模は、紫檀を裁くためだけにこんな世界の果てとも思えるような場所に呼びつけたのだろうか。 

 それほど、大きな過ちを犯したとは思えない。

 川模が些細な事によほど不寛容であるか、もしくはテスラが川模にとって相当な愛馬だった場合には仕方ないかもしれないが。

 川模は紫檀に対し、これっぽちも良心をいためる必要がなく、彼か彼女かからすれば紫檀は居てもいなくてもよい虫けら同然の存在であり、殺害したとて何の躊躇も感じないのだろうが。


 静かに、扉が開いた。

 彼女は自ら扉をあけて入ってきた。

 川模が入ってくるとしたら、てっきり轟々とした気圧の渦巻く中を従者を引き連れてやってくるものだとばかり思っていたので、大人しい女性使徒が川模だと気づくまでに暫し時間を要した。

 紫檀は彼女が川模 廿日だと思っていなかったのだが、そのあまりに完全な容姿にため息が出た。


 彼女は紫檀ではなくとも、美しく映っただろう。

 高位使徒のみに着用の許される青衣を清楚なワンピースのように仕立て、華奢な白い手で花束をかかえていた。

 彼女は花束を控え室の花瓶に生け、丁寧に整えた。


「そこに、おかけなさい。ずぶ濡れですね……8層は雨でしたか」


 彼女は紫檀と目を合わせ、ソファーを指差した。

 紫檀は促されて席につこうとしたが、差し向かいという状況が恐れ多く腰が萎えたので、床に跪き思い余って自己紹介し、謝罪もはじめた。


「私は第8層の卑しき馬番役、紫檀 葡萄めにございます。このたびの私の失態を、さぞやお怒りでしょう。管理を怠っていたと仰られれば返答のしようもございません。御馬を預かっておきながら皮膚病を患わせてしまいましたのは私の責任でございます。謹んで謝罪申し上げます」

「一体、何のことです」


 川模は見栄えの悪い葉を指先で摘んでいた。

 彼女は美しく花瓶を飾る。


「は?」

「もう一度申し付けます。そこにおかけなさい」


 彼女は再び穏やかに、同じ言葉を繰り返した。

 紫檀はもはや、何故呼びつけられたのか分からなくなった。


「馬を手入れしていたのは、あなたですね?」

「はい、今日手入れさせていただきましたのは私めにございます」


 紫檀は項垂れた。

 もはや運命は決定しつつある。やはり馬の件で呼び出されたのだ。

 少し勘違いしただけで、川模が馬の事で腹を立てたのは確実だ。

 もう、いっそ早く楽にしてほしい。


「とはいえ、間違いないようです。私にはわかります。紫檀と申しましたね。私は川模 廿日、第二位の使徒です。馬番役の仕事は如何ですか」

「は、はい。責任ある仕事と身が引き締まります。高位使徒のご騎乗なさる御馬をお預かりいたしておりますので」


 ようやく花瓶を整えた川模もソファにかけて、肘掛にゆったりと身体をもたせ掛ける。

 光沢のある青いワンピースが、優雅なひだをつくって官能的に見えた。

 川模の腰の柔らかな曲線美は、男性使徒ばかりの牧場で暮らしていた紫檀に刺激的だ。

 彼女の肢体からほのかに花の香がする。


 それにしても、紫檀は第二使徒の気圧にやられない。 

 彼女が手加減でもしているのか、紫檀はそう思い込んだ。


「満足しているのなら無理にとは申しませんが、他の仕事をしてみるつもりはありませんか」


 川模はいたずらっぽく目配せをする。

 その笑顔には裏がないのか、紫檀はその微笑を素直に信じていいのか迷った。


「他の仕事、でございますか」


 落ち着け、不用意な発言で首が飛ぶ。

 答えたくない。紫檀は返答を渋りたかった。

 川模の目的が分からない。すると、彼女は花束と一緒に持ってきた大きな手提げ袋から、ごっそりと書類の数々をテーブルの上に乗せた。

 そのうちの一冊には、意外な文字が見えた。


「あなたさえよければ、第1層、第16位使徒へと推薦しようと思うのです。既に第一使徒にも了解をとりました」


 推薦者の名前だけ空欄となった、川模 廿日の認証による高位使徒推薦状。

 よく見ると、第一使徒、響 以御のサインも入っている。

 紫檀は彼女が冗談を言っているとしか考えられない。

 第1層の居住者となるばかりか、16位という高位を与えられるとは、一体自分に何の権利があって? 


 夢物語も甚だしい。


「何故だと思いますか?」


 川模は混乱する紫檀に、優しく穏やかに尋ねる。彼は小さく首を振るばかりで、今にも気絶しそうだ。


「馬にあなたの気配が染み付いていたのです。驚きました。気配が生き物に染み付くということは、珍しいのですよ。あなたがそれなりの力を持っているからでしょう。潜在能力を見込んで16位に推薦します。但し、資格試験を受験してください。推薦状を書きますので、受験に有利にはなると思います。あなたならできると信じています」


 彼女は紫檀の荒れた手を厭いもせず取り上げ、両手で包み込み、いたわるように彼を正面から見据えた。

 その瞳の透き通っていたこと。


 川模はまさに天使のように微笑みかける。

 紫檀は……正当な努力を、正当に認められた。

 心を込めてテスラに二度もブラッシングをし、馬に思いを込め、幾度となく触れてきた。

 その努力を川模はそっと見出し、彼女は分け隔てなく最下層身分の紫檀に手を差し伸べた。


 いま全ての歯車がかみ合った。

 桟利が紫檀にテスラの世話を押しつけず、テスラが桟利の杜撰な管理によって皮膚病を患わず、テスラの毛並みが悪いと見咎めず、紫檀がテスラを再度念入りに手入れせず、桟利が紫檀を庇わず使者の前に突き出していなければ。この瞬間はなかった。


 何一つ無駄な要素はなかった。

 底辺にあった紫檀の前に、天上から思いもかけない光が注がれたのだ。


「上位使徒資格試験は1ヶ月後です。私の部屋の一室を与えますから、そこで勉強をするとよいでしょう。16位を空けて待っていますよ。……とはいっても、あなたの意思を聞いていませんでしたね。いかがですか?」


 川模 廿日は書類を広げながら、紫檀 葡萄に説明する。

 千載一遇の機会とはまさにこのこと。

 第二使徒からの申し出など、奇跡が起こってもありえない。

 返事は決まっていた。いかがですか、と問いかけた川模の瞳が、穏やかに笑っている。

 このひとを、絶対に失望させてはならない。紫檀は強く胸に誓った。


「光栄の至りでございます。ご期待に添えるよう、精一杯つとめさせていただきます」

「それはよかった。ではその制服を脱いでこれをお召し下さい。それと、あなたのIDカードです。写真は後で入れさせましょう」


 廿日は小さなプラチナのカードを手渡す。

 写真と名前の欄は空欄になっている。

 そして廿日の与えられたのは第1層の中でも高位使徒にのみ着用の許される青衣と、各階層フリーパスのIDであった。

 これでどこでも好きな階層にいけるらしい。

 夢のような権限が与えられた。

 紫檀はまだ、意識がふわふわとしている。


「これから私の居室に案内しますが、第8層に取りに戻りたいものがありますか?」


 ありません、と言いかけてその言葉を飲み込んだ。

 宿舎に残っているもので執着するものはないが、馬だ。

 伝馬たちに別れを告げなくてはならない。

 馬達との別れは辛いが、川模の恩に報いなくてはならないと思った。

 紫檀がいない方が、先輩たちも働くかもしれない。


 絶望の日々から救い出した天上の使徒、川模が彼を憐れんだのならば、彼女は真実の神の代理者だといえる。

 第1層に召されたからには、十分に身を整えていつか神と見えなければならない。

 例え神が、傲慢な暴君だったとしても。


「では、8層から戻ってきたらまた私をたずねて下さい。お待ちしていますよ、何か質問が?」

「あの……ひとつお伺いしたいのです。貴重な機会を頂き、平に感謝しております。身に余る栄誉です。ですが、神様がお許しになるでしょうか。神様は馬番役の出の卑しい私など、穢らわしく思われるのではと……」


 紫檀にとって神とは、効果があるともないとも知らない、ただのアンプルに過ぎなかった。

 神と聞いた川模の表情が引き締まり僅かに空気が変化したことに、紫檀は敏感に気付く。

 物言わぬ馬たちの面倒をみてきた彼は、相手の感情を慮ることに長けていた。

 川模にとって神は、それほどに大切な存在なのだろうか。

 安易に神の名を出してしまったことを悔いながら、紫檀はうつむく。


「いいえ。軍神下使徒間に貴賎はありません。神様の名のもとに平等です」


 彼女の瞳には、怒りの色すらも滲んで見えた。


「私はあなたの能力を認めましたが、性質を知りません。もしあなたが自らを卑しいと言いたいのなら、それはあなたの怠慢です。公式掲示板を一度も見なかったのですか。神様は使徒に均しく就労の機会を下さいます。各層の居住者となるための試験が、定期的に行われています。600年間にわたり最下層身分のあなたは、一度も試験を受けなかったということです。法制すら学ばなかったのですか」


 反論の余地もないほどに、第二使徒、川模 廿日は紫檀を打ちのめした。


「誰のせいでもありません。600年もの間8層に留まり続けたのはあなたの固き意思であり、希望であり、責任です。なのに、馬番役を二度も卑しいと言いましたね」

「……も、申し訳ありません」


 紫檀は恥ずかしくて、ただ彼女の顔を見ることもできないほど恥ずかしくて川模の足元に平伏した。

 悔しくて、涙がぼろぼろあふれた。

 彼なりの努力をしたと、その見返りだと思っていた。

 実際は何もしていなかったのに……。

 馬場の柵の上で、まだ見ぬ生物階を羨み、神階に生まれついたことを呪った。

 同じだったのに。

 生物階と同じく、軍神下使徒は平等だったというのに。


「やり直したいと思うのなら、これから死に物狂いで励むことです。私にここまで言われて踏ん張らなければ、その時こそはあなたを軽蔑します」


 権利を進んで放棄していたのは、紫檀自身の責任だったのだ。

 神階の公式掲示板は詰所のすぐ横に設置されていた。

 確かに、定期的に昇進試験が行われていた。

 それをはなから受けようともしなかったのは彼自身だ。

 応募条件を読もうともしなかった。告知を見ようともしなかった。何百年も。


 それで神を傲慢と言っていたかと思うと、何と愚かだったのかと胸が痛い。

 救いを求める権利すらも、最初からなかったのだと。


「恥をしのんでもう一つ、ご質問を。神様とは、どんなお方なのですか?」

「神様は152歳ですが、信念のおありになる方です」


 152歳だと? 

 紫檀よりどれだけ若いというのだろう。

 先代の軍神が崩御したというのは分かっていた。だが、代わって軍神を襲名した神が、これほど若かったとは……枢軸神というからには少なくとも500年は生きて、経験も十分に積んだものだと考えていた。

 しかも彼はうろ覚えだが陽階枢軸第7位に叙階されている、位神となるには少なくとも100歳までは受験できない筈なので、わずか半世紀未満の間で7位まで上り詰めたことになる。


 とんでもない業績だ。

 彼より何倍も年上の紫檀が一体、何を残してきたというのだろう。

 そう思うと紫檀は怠慢により失った年月の長さをひたすら悔いた。


 神を見るために毎晩毎晩、鳳の檻を見張っていたあの頃、神は努力もせず怠惰であった紫檀を見て、姿を顕さなかったのかとさえ思われる。

 物心ついた時から馬番役でいて、勉学はおろか、武芸のたしなみもない。

 途端に膨らみすぎた希望は風船のしぼむように萎えて、川模の期待に沿える自信がなくなった。

 学もない、力もない、何ができる、と再び弱気な心が頭をもたげてくる。


 川模は次の予定があるといって、部屋から出て行った。

 そうだ、彼女だって多忙だ。

 とにかく自信があってもなくとも猛勉強をし、そして猛特訓をして必ず合格しなくてはならない。


 誰もいなくなって室内で川模の置いていった書類を捲る。

 手続きの書類は上の一枚だけで、試験予想問題集が大半をしめていた。 

 陽階高等使徒認定試験の概要はこうである。


 論文を3つ、基礎学力を問う問題、性格適性、法学、そして軍神下使徒の専門分野である兵法学が主なところだ。

 実技試験は基礎体術、応用体術、武具操術、そして現代兵器使用法などであった。

 基礎的な実力もない彼には膨大な量だ。


 早速勉強をしはじめなければ、1ヶ月後に間に合わない。

 紫檀は支給されたばかりの青衣を纏うと、頬をパンと平手打ちにして気合を入れた。

 パスカードを使って7つのゲートをくぐり抜け、8層に戻ってきた。

 第8層の天候はますます荒れて、到着した頃には空を龍が駆け巡るような落雷を伴う大豪雨のような様相を呈してきた。

 だが先輩衆、特に桟利には二度と会いたくなかった彼にとって、足音を消してくれるよい雨夜だった。

 彼は数時間前に脱ぎ捨てたコートを見つけて纏った。


 雨風をしのげれば、何だっていい。

 彼は雨に打たれながら徒歩で宿舎に戻った。

 遠くに自分の小さな宿舎が見えると立ち止まった。

 おかしい、何故か煌々と明かりが点っている。

 彼は確かに戸締りをし、明かりを消して出てきた筈である。


 胸騒ぎがして我が家へ走り、部屋のドアを蹴飛ばすようにして開けると、桟利をはじめ数名の先輩使徒たちが部屋に土足で踏み込み、物色され、様々なものが略奪され、そして事もあろうに陽階使徒に禁じられた酒を持ち出して、酒盛りをしているではないか。


「こいつ、帰ってきやがったぞ」


 桟利は悪びれもせず、ただ紫檀の帰還について面白くなさそうな表情を浮かべていた。


「処刑の日取りは、決まったのか?」


 桟利の言葉に、今度という今度は紫檀の怒りも頂点に達し、桟利の胸倉めがけて飛び掛った。

 そうやって頭に血が上っていくら彼が暴れたといっても、数の利で先輩使徒たちに捻じ伏せられ、リンチに処されるにそう時間はかからなかった。

 長靴を履き、拍車をつけたまま蹴られた紫檀の顔は切り刻まれ、腫れ、そして目の周りは充血して真っ赤になった。


「俺らにたてつくとは、一体どういう神経をしてるんだ?」


 繰り返される彼らの行為の卑劣さや醜さが逆に紫檀の目を覚ました。


 世界の極みともいえる場所に足を踏み入れ、神の代理者である川模に声をかけられ、叱咤され、道を正された。

 急速に、まるで外の落雷のように鮮烈に開けた新しい道の前に立ち彼らの行為に触れ、彼らに怒りを向ける動機を失ってしまった。

 やはり居場所はここにはない。

 彼らに再認識させられるにとどまった。

 もう後には引けないという覚悟が沸々と沸き起こってくる。


 そんな紫檀の決意も察することのできない桟利は、這いつくばった彼のブラウンの後頭部を踏みつけると、彼が身に纏っているコートを引き剥いだ。

 たった今足蹴にし、嬲りものにしたこの男が身に纏っているものが、第1層の中でも特に高位の者にのみ着用の許される青衣であると桟利が気づいた時には遅かった。


 紫檀は次の瞬間の彼らの掌を返したような対応も、居直りや疑いも、予測されるどの行動を見るのも虫唾が走るほどに拒絶したかった。

 彼は跳ね起き、馬鞭と、泥に汚れた親友たちからの手紙を握り締めると、コートもかなぐり棄てて、割られた窓から土砂降りの雨夜の草原へと飛び出していった。


「第1層に、召されたのか……何であいつが」


 酔いのすっかりさめた桟利がつぶやいたが、誰もそれに応じるものはなかった。

 彼らは凍りついた死体のようにその場で立ちすくむ。

 これから本当に処刑の日取りが決められ罰せられるのは、彼らかもしれなかった。


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