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Anecdote 4  Thousand and one nights 2

 所見。髄芽腫、ステージIII。

 頭蓋内圧亢進(ICP)。

 水頭症状。眼球の外転により6脳神経の麻痺をみとめる。


 この場所はなんとも不衛生な環境だが、病院の手術室に不法侵入して手術をすることはできない。

 陰階には手術ができる環境が整っているが、人間を陰階に連れてゆく事はなおさらできない。放射性物質である荻号のアトモスフィアで雑菌を選択的に破壊し、無菌状態を保ちながら執刀する。

 術式は肉眼的全摘術(gross total resection, GTR)、この一択だ。

 彼の執刀した症例数は、今回で1万2453例になるだろうか。

 荻号はディスポーザブルの手袋をはめながら、自身の手首をちらりと見やった。

 これで癒せたら、楽なのにな。そんな事を思っていた。


 荻号が気にしたのは、自らの血液である。


 位神は即位する際に身体検査が行われ、血液成分測定も詳細に行われる。

 神は稀にだが、その血液成分が生物階の特定の疾患を癒すケースがある。

 血液といっても、究極のことをいえば化学物質の水溶液だ。

 例えば癌を癒す血液を持っている神は、たまたま血液成分に抗癌剤の成分が入っていたというだけだ。

 逆にまったく治癒成分を含んでおらず病を癒せない神もいて、こちらの方が大多数だ。


 マイノリティである、病を癒す血液――治癒血を持った神がどの疾患を癒す事ができるのかを、神階は即位する際に正確に把握していなくてはならない。

 治癒血を持つ神は稀にしか現われないからだ。

 陽階だとヴィブレ=スミス(疾患数301)。

 ユージーン=マズロー(疾患数11294)。

 ジーザス=クライスト(疾患数 553)。

 陰階だと紺上 壱見(疾患数644)。

 そして荻号の治癒血で癒す事のできる疾患数は569だ。

 陰陽階で治癒血を持つ神々は現在6柱しかなく、その中ではユージーンが最も治癒能力に長けている。

 治癒血を持つ神は自らの傷の回復力に乏しい。


 桁外れの治癒能力を持つユージーンの血は殆ど薬で出来ているようなものだ。

 それと引き換えに彼自身の傷の治癒速度は神階でも最も遅い。


 荻号の治癒血では、たまたまこの病を癒せない。

 歩く万能薬、ユージーン=マズローがこの近くをうろついていれば彼の治癒血をくれと頼んだだろうが、あいにく彼は戦争の起こっている地区にしか現われない。

 他にもやりようはいくらでもあるが、監視衛星が入っている。

 目立つことはできない。現実的に、荻号に出来るのは外科的手術しかなかった。そして荻号にはこの手術を成功させ、回復させられるという確固たる自信があった。


「あとは俺に任せて、向こうの椅子にでもかけて見ていな。そこいらで動かれると清潔が破られる」


 正規の医者ではないから闇医者というのだろうに、ダニエルは自分でも馬鹿な質問をしてしまったと思った。

 彼はマスクをして、表情が消え彼の青い瞳だけがのぞく。

 この男は地毛と思われる銅色の髪の毛に、空色の瞳をしている。一体どこの人種なんだ?


「あんた、……本当に医者なのか? 手ぐらい洗えよ」

「さっき洗ったし、俺の手につく雑菌がいるなら、お目にかかりたい」


 人体には無害な、だが強烈な放射線を纏う荻号の手に付着して生存しるう細菌は、存在しない。

 神の手が穢れないと言われる所以だ。


「俺が医者かそうでないか、信じる信じないはお前の自由だ」

「成功するのか?」

「さあな、信じる者はなんとやら、だ」


 ダニエルは思考回路が止まってしまって、もう何も言えなかった。

 何だかひどく疲れた気分だ。

 彼に任せるほかに、手立てはない。

 彼の医者としての経歴がどんなものだったのかは知らないし、闇医者だというのだから免許など持っていないのだろう。

 だが彼はどうすれば手術ができるかという事を知っているようだったし、準備してきた(というか盗んできた)ものも、一応は専門的な道具のようだ。

 彼はもう反論する気もうせて、荻号の言うとおり、部屋の隅の小さな椅子に腰掛けた。


 荻号は眠っているジョンに痛みのないよう注射を打って予備麻酔をかけ、バリカンで頭をつるつるに剃って消毒をした。次に、全身麻酔の準備をする。さて、鼻からいくか。開頭するか。


「開頭だな」


 麻酔医と装置がないので、術中正確な意識レベルの管理はできないが、荻号のアトモスフィアで患者の意識レベルをコントロールできる。

 手術は単独で行わなければならないのだ。

 更に言うなら、ナビゲーション役の医師も機材もない。


 CTもMRIも撮っていないし、腫瘍の正確な位置をどうやって探るか……荻号には秘策があった。荻号は腰に挿していた第二の神具、慎刀を抜いた。

 慎刀とは慎ましやかな刀という意味で、刃がない柄だけのカッターだ。

 刃はないが、あらゆる種類の刃をコマンドにより生成することができる。

 金属刃から、至るに、放射線なども放出する優れものだ。


”Doppler Echo Mode(DEM)open”

(ドップラーエコーモード)


”Measure the depth from top to neoplasms.”

(表面から腫瘍までの深度を測定せよ)


 荻号は慎刀にそう命じると、ジョンの頭の表面を髭剃りで撫で回すように綿密に柄をあてて中の腫瘍の大きさや、深度を計測した。

 計測を終えると、彼はマジックを取り出し、ジョンのつるつるの頭にどうメスを入れるかを書き込みはじめた。

 大体のメスの位置が決まって、彼は神妙な顔つきでジョンの頭を見つめていた。


「おいダニエル。運動神経野や言語野にも腫瘍がある。覚醒下開頭術をしなければならないが、いいか?」

「覚醒下……?」

「大事な脳領域を傷つけるわけだからな、障害が出ない事を確認しながら行うために、ジョンの意識を覚ましたまま手術をする。心配するな、腫瘍を取ったらまた麻酔をかける。そういうことだ、開頭をしたらジョンを起こすぞ。声が聞こえても、取り乱すなよ」


 あっさりと言うが、この上なく残酷に聞こえた。

 ジョンは眠りについたまま、手術をするということすら知らされていなかったのだ。

 ダニエルは頭を抱え込んだ。だがもう荻号の言うようにするしかない。

 ちなみに、開頭は一般的な脳外科手術の術式だとも説明する。

 インフォームドコンセントというにはあまりにいい加減だが、一応はする。


 知らないから酷いと思うが、荻号には医学的知見があるようだった。

 ダニエルはしぶしぶ同意する。

 ジョンの親でもないのだが、一応保護者ではある。


 皮膚を切開。素早く筋膜、腱膜を剥離。

 ドリルと電気のこぎりによって頭蓋を開き、続いて硬膜を露出させ、鉗子で切開。クモ膜を視とめ、脳へと切り込む。


”内減圧を開始”


 荻号は開頭後、腫瘍によって上げられたジョンの脳圧を減圧する。


 ダニエルの耳には時折ドリルの音が聞こえ、様々な器具類の音が聞こえたが、まともにそちらを見ることができなかった。


「ジョン、聞こえるか? 目を覚ませ」


 荻号は開頭されたままのジョンに呼びかけるが反応がない。

 聴力損失……腫瘍は小脳へ浸潤ありと見立てる。


”ジョン、起きてくれ”


 荻号は声をかけず、解離性意思伝播法で直接ジョンの意識を呼び覚ます。


「………う、うう」


 どれくらい時間がたっただろう、荻号が突然喋りはじめたかと思えば、次にジョンの声が聞こえてきた。

 ダニエルは思わず椅子から立ち上がったが、荻号は電気メスを持った手でダニエルを制した。

 ダニエルは立ち上がることもできず中腰となったまま、また席についた。


”痛みがあるか?”

「……痛くないよ、どうして? ここは、どこ?」

”ここは夢の中だ。少し俺に協力してくれ”

「誰?」

”目を覚ましたら覚えていやしないさ。さあジョン、俺のいう事を聞いてもらおう。まず、右手を動かしてくれるか? ずっと動かしていてくれ”


 さてと、病変はどこだ。

 小さな手がぴくぴくと動く。

 荻号は自らのアトモスフィアでジョンの苦痛を抑えつけながら、メスを入れていった。

 手が動かなくなったら、神経を切っているということだ。

 ジョンの手はいつまでも動き続けた。


”よし、では左足を動かしていてくれ”


 荻号は大事な神経を切らないように気をつけながら次々と腫瘍を摘出していった。

 3つの腫瘍を摘出すると、荻号は麻酔をコントロールして意識レベルを下げ、ジョンの意識を落とした。


「ダニエル、今のところはうまくいっている」


 荻号は心配しているであろうダニエルを振り返ったが、彼の座っていた椅子はからっぽだった。

 集中していたので、出て行ったことにも気付かなかった。


 荻号はあんぐり開いた口をまた元のようにきゅっと閉める。

 いたたまれなくなって出て行ったのだと思われる。

 荻号が苦痛を管理して痛みなど微塵も与えていないのだが、仕方なく荻号はまた向き直り、黙々と手術を続けた。


 荻号はひとりで順々に腫瘍を摘出していった。

 出血を防ぐため、時折傷口を電気メスで焼く。

 熟練した腕を持つ彼の手技は見事で、今のところ殆ど出血もない。

 順調に行けば、後数時間で予定より早く手術を終えることができるだろう。そう思っていた。ダニエルが出て行ってから20分が経過。


 あいつ、どこに行ったんだ? などと手を動かしながら心配したが、彼がどこにいるのかは、部屋に居ながらにして把握できた。


ガーン!

ダーン!

パーン!


 窓の外から、しかもすぐ近くから複数の銃声がしたからだ。

 外では銃撃戦が始まった。荻号は予定を狂わされて舌打ちしたが、メスを握る手先は狂わない。

 ダニエルがジョンの手術に立ち会うことがいたたまれなくなって外に出たところを、待ち伏せされていたのだ。


 鍵がなければアパートの入り口には入れないから、待ち伏せするならアパートの入り口しかない。

 今ダニエルはそこで銃撃戦をしているということだ。

 相手は誰か、荻号は慎重に耳をそばだてる。

 ダニエルの銃声、そして残りは2人が発砲している。

 先ほどダニエルを狙った二人組だろう、荻号に撃たれて、血の上っていた頭に更に血が上って追いかけてきたのかもしれない。


「これだから、バカどもは」


 荻号は彼等の頭の足りなさを嘆いた。

 何事ももう少しスマートにこなそうとは思わなかったのか、と。

 ボスの命令を聞きわけて、一週間後の闇医者の手術室で待っていればよかったものを。

 人間の感情というものは単純であるが故に複雑だ、考えられないような行動に出る場合がある。


 それにしても、このまま銃撃戦を繰り広げていたら数の利でダニエルが射殺されてしまうことは確実だ。

 いや、射殺せずにダニエルを脅して金の在りかを吐かせるためには、この場所に踏み込んでくる可能性すら否めない。


 カビ臭く古びた部屋は、今はささやかだが手術室だ。

 何人たりとも、医療行為を妨げるのは許さない。

 術中の荻号は、患者の安全を確保するため、彼等を強制排除するしかなかった。


「さて、どうしたものか……」


 荻号はメスを置き、ディスポーザブル手袋を外し、手術着の下からベレッタM92Fを抜いた。

 ベッドから一番遠い窓を開けて、ひょいと顔を出す。

 窓のすぐ前は隣のアパートの壁だった。

 表通りにいるダニエルと追っ手の姿はここからは壁に挟まれて見えないし、ここから撃ったとしても壁に当たって届かない。


 荻号は壁に隔てられた表通りに意識を集中し、ダニエルの足音を聞き分けた。

 こうしている間にもひっきりなしに銃撃音が聞こえてくる。

 ダニエルの持つ拳銃スプリングフィールドアーモリー・オメガからの発砲音と、二丁の拳銃の発砲音、一つはパラ・オーディナンスP12だが後のもう一丁はわからない、とにかく3人の人間が銃撃をしている音がする。

 荻号は人差し指と親指で壁を測るようなしぐさをし、マスクの下ではぶつぶつと計算をしていた。


 荻号は計算を終え、空色の瞳を見開く。

 コンクリートの向かいの壁に銃口を向けた。

 拳銃を握った手術着姿の外科医は、躊躇なく夜闇の中の一点を見つめている。

 荻号はダニエルの足音に耳をそばだて、音が止まったところで狙いをつけていた壁に向けて一発だけ発砲した。


ダーン!(ダーン!)(……ーン!) 


 銃声はビルとビルの間を山彦のように反響して凄まじい銃声を上げる。

 硝煙の煙が部屋の中に入らないよう直ちに窓を閉め、どこに着弾したかを確かめる事もなく、あとは落ち着き払ってまた先ほどの手袋をはめ、手術の続きに取り掛かった。



「おい、お前が撃ったのか?」

「い、いや、俺じゃねえよ……誰かいる、誰かがどっかから撃ってきやがった!」


 目出し帽をかぶった革ジャケットの追っ手の二人組は、呆然としてお互いの顔を見合っていた。


 彼らは確かに、セントラルパークでダニエルを仕留め損なってから、予め突き止めていたセカンドハウスの前をうろついていたダニエルと、銃撃戦をしていた筈だった。

 ダニエルはダストボックスや店の看板に隠れたりしてうまく弾をしのいでいたが、突如鳴り響いた銃声によってもんどりうって倒れたのだ。


 二人組のうち一人が、先ほどライフルの銃口を荻号に撃たれて暴発し、手に傷を負い包帯をぐるぐる巻いた手で、倒れたダニエルを揺さぶり生死を確認した。

 おそるおそる胸のボタンを開くと、心臓のど真ん中に銃創ができ、穴が開いて、どくどくと血が溢れていた。


「死んでる……」

「どこから、誰が撃ってきやがったんだ? 上から銃声がしたぞ!」

「おい……あいつじゃないか、さっきの変な男。お前の手をそんなにした奴だ」

「じゃあ、どこから! ここは壁ばっかで、窓もねえ! 撃ってこれるような場所なんてないんだぞ! 見ろ!」


 男のひとりが上を見上げた。確かにここはビルばかりだが、射撃してくることのできるような窓など一つもない。

 そして銃声は上からしたのだ。

 しかもこの界隈のアパートは屋上には登れないようになっている。

 屋上から撃ってきたわけでもない。


「跳弾……じゃないのか? こんだけ壁がありゃ……」


 黒人の男は、震える唇でやっとそれだけつぶやいた。

 跳弾とは、銃弾がコンクリートなどの堅い壁や床などに跳ね返って飛ぶ現象であり、間接射撃のテクニックだ。

 だが、跳弾を利用して的確に心臓を射抜くスナイパーがこの業界にどれだけいることだろう……殆ど居ない。


 跳弾を起こすためにはほんの一度のミスも許されない角度計算が必要だし、それを利用して見えない場所から相手の心臓をぶち抜くなど、文字通り神業だ。

 つまり相手は殺しのプロだ、かなう筈がない。

 今だってきっと、どこかから狙われているに違いない。

 男達はすぐさま乗り付けてきた車に乗り込み、全速力で逃げ出した。

 男たちはガタガタと震え上がった。


「殺されるっ! 今度は俺たちの番だ!」



 男達が逃げ出した車の発車音を聞いてから数時間。

 長い時間が経過していた。

 荻号はできるだけ出血を抑えながらジョンに輸血をもせず、いくつもの腫瘍を摘出した。


「しかし腫瘍が多すぎるな……マメに取りすぎて術後緊張性気脳症(tension pneumocephalus)なんざになったら笑える。それに機能不全が過ぎるな……ちょいと、再生かけとくかね」


 摘出した腫瘍が多すぎる場合、腫瘍を切除した際に脳内に残った僅かな空気が膨張して脳圧を上げてしまうという合併症を起こす場合がある。

 彼は陽階の監視衛星から不正行為を捕捉されないよう、こそこそとアトモスフィアを込めて指先で細胞を弾きジョンの脳細胞に分裂シグナルを与え、急速な脳細胞再生を行い脱気する。


「よし。一応、シャント(shunt)留置しとくか」


 彼は水頭症だったジョンの脳圧が上がらないよう脳室腹腔シャントを構築し体内に留置する。術後のケアもこれで大丈夫だろう。

 最後に綿密に硬膜を縫い合わせる作業に取り掛かっていた。

 ステープラというホッチキスのような縫合機を借りてくれば楽だったが、拝借できなかったので代わりにチクチクと原始的に縫合糸を走らせる。

 縫合が終わると、骨窓に頭蓋骨を併せチタン製の金具をはめ込む。

 この手順を以って手術は終わるが、荻号はここにきて再び慎刀を抜いた。


”γ knives dose 30Gy, 8000J irradiation settle”

(γナイフ30グレイ、8000ジュール照射準備)


 荻号は刃のない刀の柄をジョンのこめかみに宛てがった。


”Irradiation”

(照射)


 パン、パン、と軽快な音と光が室内に溢れる。

 荻号は腫瘍のあった場所にγナイフ、ガンマ線を局所的に照射する技術でジョンの脳の腫瘍があった場所に次々と照射し、腫瘍の再発を防ぐ。


”Boost, 15Gy”

(追加線量、15Gy)


 手術には万全を期したが、細胞レベルでの全摘は難しい。

 再発させれば患者の負担は重くなる。

 荻号は絶対に再発をさせないため、念入りにガンマ線を照射してゆく。

 執刀する機会がなく腕を錆付かせていたが、久々の手術を彼は愉しんでいた。


「よし……終わった」


 荻号は満足そうにそう呟くと、慎刀を持っていない方の手でジョンの頭をくりくりっと撫で回した。

 武士のようにチン、と金属音を鳴らして慎刀を鞘におさめ、手術着を脱ぐ。

 荻号はそのまま窓を開け放ち、4階の高さから階下へと飛び降りた。


 音もなく着地をし、ビルとビルの間を通って表通りに出ると、血まみれになったダニエルが誰の目に触れる事もなく横たわっていた。

 荻号は彼を抱き起こすと、追っ手によって開けられたシャツから覗く胸元の傷口をあらため、荻号の放った弾丸がきちんと胸の裏から貫通している事を確かめた。荻号はそれを見ると、満足そうに微笑み、トントンと傷口を指先でノックした。


「狙い通り、ここに当たったな」


 彼は持って降りた縫合糸でダニエルの胸と背中の傷口を手早く縫うと、彼の頬をパンと平手で打った。

 わずかに呼吸の音が聞こえ、ダニエルは凄まじい胸の痛みに耐えながら唸り声を上げた。


「よう、気分はどうだ」

「兄貴……俺を撃ちやがったな? 殺されるかと思ったぜ……」

「心臓と肺の隙間を狙って撃ったからな、死ぬ筈がない。だが追っ手には、お前が死んだように見えただろうぜ。もう追っ手も来ないだろう、これからはデッドマンウォーキングにならないようにひっそりと暮らすんだな」


 ダニエルは今日からマフィアたちの間では死んだ男として扱われるだろう。

 これからは日陰の道を歩んでゆかなければならない、もうここは引っ越すしかない。

 ダニエルは皮肉っぽい笑いを浮かべたが、不意に何かを思い出したように目を覚ました。


「兄貴、ジョンは……」

「ああ、成功したよ。お前が外で追っ手をひきつけてくれたお陰でな」

「俺あ……何もしちゃいねえ。煙草を買いに行こうとしていただけだ……」


 ダニエルはそれだけを言うと、ぐったりと力尽きた。

 荻号はダニエルを軽々抱え上げると、彼を部屋に連れ戻り、ジョンの傍に横たえた。

 ダニエルもジョンも、大きな血管を傷つけたわけではないから、傷口は明日になれば癒えるだろう。


「ついでに化学療法も併用しとくか」


 骨転移に備え、念のためジョンに強力な抗癌剤を処方する。

 また、開頭し腫瘍をいくつも摘出したジョンの傷の痛みは相当なものだろうから、と彼はシザーケースに入っていた黒いアンプルを一本、ポキッと折ると、中の液体を注射器で吸って投与した。


 アンプルの中に残った薬は、指につけて、ダニエルの表と裏の創傷に塗る。


 神階で広く使われている鎮痛剤だ。

 神経ブロックをしている荻号は痛みなど感じない体になっていて必要ないが、この鎮痛剤は生物階でやたらと出会う、怪我人のために持ってきたものだ。

 荻号の訪問する場所は平和な場所ばかりではないから、降下中にはとにかくよく怪我人と出会った。


 特に苦痛に泣き叫ぶ子供は嫌いだ、いたたまれなくなる。

 この鎮痛剤は優秀で、人間ならば、例え心臓を抉られていても痛みなど微塵も感じないほどの効果だ。

 これで、ジョンは傷が癒えるまでの間、一切苦痛を訴えはすまい。

 一仕事を終えた荻号は手術道具を手早く片付けると、彼等を残し、そのまま部屋から出て行った。


 翌朝、ダニエルとジョンは目を覚ました。

 何故だろう、痛みはないし、身体が嘘のように軽く、気分も爽やかだ。

 長い夜が終わったような気がした。

 窓からは朝日がいっぱいに注ぎ込み、ジョンの頬を赤らめさせている。

 一枚の紙切れがダニエルの尻のあたりに無造作に置かれていた。


”Claim if you want to knock the gate.”

(門を叩きたくば叫ぶがよい)


 その下には、ありえない桁数の携帯電話番号が記されていて、LSDはちゃんともらったからなと書かれていた。



「ジョン、今日は日曜だからミサに行くぞ」

「うん、パパ」


 健康的に日に焼けた黒人の10歳ほどの少年は、パパと呼んだヒスパニックの男の手を取り、教会への長い坂道を嬉しそうに登っていた。

 ここはフロリダのとある街。

 太陽をいっぱいに浴びて、少年の首にかかったロザリオが揺れていた。


 神は俺達とともにある。

 ダニエルは最近、そう信じる事ができるようになった。

 ダニエルの出会った青年が誰だったのか、それは結局わからなかった。

 だが彼は神がダニエルに遣わせてくれた最高のご褒美に違いない。

 彼に繋がる携帯電話の番号は、一度もダイヤルをしたことがない。


 彼が実在したのかしなかったのか、それは今となってはどうでもよかった。ただ確かに言えることは、彼と出会うことがなければこうやって今日という日をジョンと共に迎える事もなかっただろう。


「僕はパパとともに」

「また、俺達は主とともに……エイメン」


 彼らは晴れ渡って天上に届きそうな空を仰いだ。


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