Anecdote 4 Thousand and one nights 1
「てことは、そっちは10時か」
「ああ、ここでは夜だ」
闇神、荻号 要は満足そうに誰よりも一番高い、神の視点で罪に染め上げられたかりそめの街を見下ろし、それに対してもなお死神は念をおす。
「マン・ハッタン(人工島)に、夜や闇なんてあるかよ。あんたも、あと百年で廃業かもな」
織図 継嗣は受話器ごしに親友を皮肉って言ったのだろう。
この100年で真の闇夜が、驚くほど侵食されてしまったのと引き換えに、ニューヨークのマンハッタン、夜の底の人工銀河が何の危機感もなく人間の手を離れてその栄華を誇っていた。
このピッチでの開発や再開発が続けば、百年どころか、次のディケードで一般にいう海と夜がなくなってしまうだろうというのも、あながち冗談でもないらしい、織図はそう断言していた。
荻号のこの地区での仕事が激減してゆくに反比例して、織図のそれはこの地区では有史以来というピークに達していた。
「何、東京も似たようなもんだろ。俺はしばらく廃業はなさそうだ、と思うが」
織図からしてみれば丁度東京都庁上空からの着信である。
鳴り止まないヘリコプターの騒音が不穏な曇り空を掻き乱すのに一瞥をくれた、強がりかとも思える発言の真意を、もう数百年の付き合いになるこの親友は、十分に踏まえていたのだった。
「そりゃまた……救えねえ」
どうやら人間というものは、手当たり次第に闇を潰して行く代わりに、心の闇を深くしてゆくだけの生き物らしい。
一方的に着信し、一方的に受話器を切る織図 継嗣から連絡があった事など、何年ぶりだろう。彼はこのところ生物階での仕事に忙殺され、連絡もメールでしかよこしてこなかったのに、生物階に降下したとたん、絶妙のタイミングでの連絡だ。
荻号はこの街にすっかり緩和されゆく携帯の、不通を告げる電子音の鳴る携帯を切ることもせずに、眠らない街を見下ろした。
夜の喧騒の中にその姿を調和させ、最後の麻薬入り煙草を苦々しそうに喫するのだった。
「街の明かりが増えたとて、夜は更けゆく一方だと思うんだがなあ」
*
とくに任務があって生物階に降下したのではなかった。
彼は今からおよそ500年前に、1000年分の仕事、つまり西暦2500年までの仕事のノルマを片付けてしまって、日がな一日何をすることもなく煙草を吸い、本を読み、ぶらぶらとしていた。
また500年後に仕事をすればよいだけだ、彼がまだ生きていようと思えば、だが。
13柱分の定員を奪うのかといって神階の門から厭味を散々言われながらも降下して、何をするでもなく地上を見つめていた。
「上から見ているだけじゃ、面白くもないな」
煙草を吸い終えると、荻号はそれを律儀に携帯灰皿におさめ、マンハッタンから少し離れた場所にある、セントラルパークへと足を運ぶ。
巨大な森のような公園は、ひっそりと静まり返っていた。
荻号は露店で買ったメントールの煙草をふかして、セントラルパークのベンチでだらしなく寝そべっていた。
人の煙草は様々な味があって嗜好品としては面白い分、軽すぎて吸った気にはならないのだが、人間社会で麻薬入り煙草は違法だ。
このあたりはよく訓練された麻薬犬が、私服警官とともにうろついていたりする。
公園を通り掛かる多くの歩行者から見れば、彼は不審者のようにしか見えなかっただろう。
犬には吠えられるし、子供には指をさされた。
荻号は小一時間の間、通り掛かる人々を漫然と見ていた。
夜空を見上げると、ひっきりなしに飛行機のランプが往来している。
″なんだ、ここは星が見えねえんだな″
人間は宇宙に浸ることを、とっくに忘れてしまっていた。
それで彼等は宇宙の中のいち生命体にすぎないという分というものを忘れ、これほど傲慢に振る舞う。
だらんと足を伸ばしていた荻号は、すぐ後ろの低木の繁みから、男が勢いよく飛び出してくるのを見た。
彼は息をぜいぜい切らせながら、もつれる脚を懸命に動かし、全速力で走り抜けていった。
男はヒスパニック系の顔立ちで、まるでマフィアのような派手でセンスの悪いスーツを着ていたが、何かに怯えきっていた。
男の思考回路があまりにも混乱していたために、マインドブレイクすらできなかった。
荻号は異様な光景にベンチからようやく起き上がり、男が走ってきた先を見た。
赤いレーザー光が、ちらちらと繁みの影からのぞいて、どこまでも男の背に向けられている。レーザーサイトの光が足を止めた男の背中に停まった。
「いかん……」
荻号がそう呟いたのと、銃声がしたのは同時だった。
銃声が聞こえた瞬間、男は頭をかかえてうずくまった。
だがいつまでも男に苦痛は訪れない。荻号が男の背を守るように背後に立ったからだ。
ガアン!
ガアン!
銃声はすぐさまたて続けに2発も続いて、さらに5~6発は発射されている。
弾丸は荻号のフィジカルギャップに一つ残らず粉砕され、彼等から随分離れたところに砕け散っていた。
「おい、銃を寄越せ!」
男は振り向き、自分を庇うように立っている浮浪者のように髪をのばした個性的な男を見上げた。
どうやら無事のようだ、狙いが外れたのか、あるいは彼が防弾チョッキでも着ているのだろうか。
「聞こえなかったのか、まだ狙われているぞ。俺の額に、赤いのが止まってやがる。銃を寄越せ、お前が懐に忍ばせているやつをだ」
「な! どこから狙われているのかもわからねーのに」
「見えている。あのビルの屋上に二人。アサルトライフル SR15だ」
「う、撃ったって届くものかっ!」
「いいから貸せ。逃げている間に撃たれるぞ!」
男は荻号に拳銃とマガジン(弾倉)を渡した。米軍で広く使われているベレッタM92SB-fだ。
なるほど、盗品というわけか……。
荻号は盗品であることを見抜いたが、それ以上に何も思うところはなかった。
マガジンをリロードしてゆっくりとスライドを引き、はるか上空に向けてぴったりと銃身の照準を合わせた。
彼が目標としている距離は数百メートルはある、ハンドガンの射程距離である数十メートルをはるかに超えている。
しかし彼はそんなこともお構いなしに、片手で銃を構えると、フロントサイトとリアサイトで照準を合わせることもなく、カツンとトリガーを軽く引いた。
ダーン!
荻号は天にたった一発の弾丸を放った。
荻号の額に蛍のように止まっていた赤いレーザー光はその瞬間、ぷつっと途切れてなくなり、辺りは硝煙の煙がまだ漂っていた。
ようやく静かになったので、ハンドガンを彼に返してやった。
拳銃は一度だけではなく必ず二度撃つものだ。
荻号は一発しか撃たなかったが狙いを外さなかったらしく、木の上で眠っていたらしい鳩が何羽か飛び立った羽音がした以外は静かになった。
「や、殺ったのか!?」
「殺らねえよ。銃口に弾をぶち込んでやっただけだ。手ぐらいは怪我したかもな」
「射程が、届く筈がねぇ!」
男は恐れおののいている。
「届いたよ。もう撃ってこないだろ? さ、早く行け。ぼやぼやしてると警察が来るぜ」
荻号は銅色の長い髪の毛を雑に撫で付けると、また煙草に火をつけた。
男は信じられないといった顔をして、そして這いつくばって荻号の脚にしがみついた。
「あ、兄貴! 助けてくれぇ!」
彼はだだをこねる子供のような声を上げ、がっしりと掴んで放さない。
荻号は迷惑そうに帽子に隠された眉をひそめた。
「断る。俺はお前の兄貴でもなんでもねぇし。赤の他人だ」
「じゃあ、何故助けてくれたんだ」
「スナイパーが下手糞だったからな、あんなに無駄に撃ってたら民間人が怪我すんだろ?」
彼は引っ張っても踏み付けても離れようとはしなかった。
力ずくで引きはがす事はできるが、荻号の握力では骨折させてしまう。
銃声を聞いた市民が通報したのか、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「おい、勘弁しろよ。俺まで警察に世話になりたくはない」
荻号は兄貴、こっちですと呼ばれながらイエローキャブに乗せられ、暫く郊外に走った後、古いアパートの一室に連れて行かれた。
これ以上関わり合いになりたくはなかったが、腕を握って放さないので仕方がない。
ガタガタと揺れるエレベーターで案内されたのは、廃屋のような汚い部屋だった。
狭い間取りには、テーブルとベッドしかなく、貧しさが見てとれる。
壊れかけたベッドには、頭まで布団をかぶって誰かが寝ていた。
布団の膨らみは大人ほどのものではなく、小さな子供であろうという事がうかがえた。
「こんな所に連れてこられても困る。お前は見るからに堅気ではないからな、早々に暇を乞いたいところだ」
「堅気でないのは、お互い様だろ兄貴。俺に雇われてくれないか? 金ならある!」
「雇う? 俺をか?」
男はキッチンのオーブンの中に隠してあった金庫の中から、大量のドル札を取り出してきて荻号の前に積み上げた。
全て新札ばかりで、帯がついていた。
荻号はそのうちの一つをとりあげ、本物かを確かめるようにピンピンと指ではじく。
男は荻号の顔色をうかがっていた。
偽札ではないようだが、荻号にとっては人間社会の紙幣など紙切れのようなものだ、まったくもって金というものに興味がないのだから、報酬として成立しない。
「これはきれいな金じゃないだろ。壁のはがれ掛けた寒々しい部屋には似つかわしくない、過ぎた額だ。強盗でもやってきたんじゃないのか」
「さ、さすが兄貴。当たらずとも、遠からずといったところだ。これは俺のいるグループのヤクをバラして売りつけてきた金だが、本物だ。兄貴頼む、これでボディーガードをしてくれ。あんたは腕の立つスナイパーだ、あんたの力が欲しい」
「ほう、それでお前は狙われていたのか。俺はスナイパーではないし、金だとか地位だとか名誉、さっぱり興味がなくてね、他を当たっとくれ……それからお節介かもしれないが、裏稼業なんてやめちまいな。息子を泣かせるか死なせることになるぞ」
荻号はこんな話をしている時間がばからしい、と思って席を立った。
何を急いているわけでもないが、何の義理があって裏稼業の手伝いをせねばならないのか。
下手に助けてしまったものだから、面倒なことになった。
いつもそうだ、と荻号は思う。
彼が何かをするたびに、周囲は過剰に反応する。
先ほどだってたった一発、銃を撃っただけだ。
それ以外の事は何もしていない。
フィジカルギャップに弾丸が当たって砕けてしまっただけで、荻号自身がした事は人差し指を2cmほど手前に引いただけだ、それなのに……。
やはり生物階は億劫だな、と彼はまたため息をついた。
「その子のためなんだ! 俺達は命を狙われている!」
席を立った荻号は男にがっしりと肩を掴まれて、強引に席に戻されてしまった。
どこからくるのかと思うほど強い力で、男の剣幕には鬼気迫るものがあった。
荻号はちらりとベッドの上の息子を見遣った。
彼は先ほどとまったく同じ形の小さくこんもりとした山を作っていた。
「自業自得、という言葉を知っているか? お前はどこででも撃たれて勝手に死ぬがいい、だが、息子には生きる権利がある。遠く離れた、施設に入れるんだな。親はいなくとも子は育つ、お前のような親なら居ない方がいい」
「兄貴、話だけ、話だけでも聞いてくれないか」
その男、ダニエル=ストーンはやはり、とあるマフィアの下部構成員で、これまでは悪行の限りを尽くしていた。
殺しもしたし、麻薬も強盗もやった。
しかし血も涙も知らなかった彼が、抗争中のある組織の男を殺した事により大きく運命を狂わされてしまった……。
バスルームで彼の頭を撃ち抜いて殺した時、たったひとりの彼の息子がバスルームの隣の寝室にいた。
ダニエルは息子の隣で父親を、殺してしまったのだ。
息子は父を殺した殺害者に怯え、泣きじゃくっていた。
その声があまりに大きいので、銃殺を試みるも弾切れ。
仕方なく彼は泣き止ませる為と口封じにシーツを頭からかぶせ、その場から連れ去ってかえってしまった。
少年は生きるために、父親の敵と共に暮らし始めた。
ダニエルは結局、少年を殺せなかった。
少年はダニエルに憎しみの眼差しを向けることもなく、徐々になついていった。
幼すぎた少年には、父親の死が理解できなかったのだ。
4歳になった少年は、ダニエルの事を実の父親だと思っている。
そんな無垢な少年にすっかり汚れてしまっていた心を洗われたような気になったダニエルは、下らない因縁で彼の父親を殺してしまった事を、いつか彼が物心がついた折に打ち明け誠意をもって謝罪し、父の敵を討つかを選ばせなければならないと思っていた。
少年が頭痛を訴え嘔吐を繰り返し、やがて足が麻痺し遂にはベッドから立てなくなってしまったのは、そんな事をダニエルが考え始めた矢先の事だった。
病院に行かなければならない、しかし、裏世界に生きるマフィアである彼が、病院などという場所に彼を連れてゆくなど、できる筈もなかった。
無知なダニエルでも、その麻痺が脳や神経からくるもので、手術を必要とするという事ぐらいはわかった。
身寄りのない少年の人生を、ずっとベッドの上で過ごさせたくない……そう考えたダニエルは彼の所属していた組織の金に手をつけ、高額な報酬を要求する闇医者に手術を依頼したのだそうだ。
「だから、俺はどうなってもいいんだ! この子を助けたい! 手術が終わるまでの間、この子を守ってくれ、兄貴!」
荻号は無言で席を立つと、軽く腰に手をあてたまま少年の熟睡しているベッドの傍に歩み寄り、彼が目を覚まさないよう配慮しながら布団を少しだけめくり、大きな手を少年の小さな頭にそっと置いた。
「Medulloblastoma(髄芽腫)、ステージ Ⅲ。小児に多く発生する脳腫瘍だ、播種もある、運動野に影響しているんだろうな。水頭症状も出ているようだし……」
「なっ……何で分かるんだ!」
「医学を多少かじっていてね」
荻号はそう言ったが、彼は頭に手をやっただけだ。
占い師や霊能者の類ならお断りだが……彼は至って医学的な知見を述べている。
ダニエルが依頼した闇医者の診断と同じ見立てだった。
「俺が、俺が病院に連れて行かなかったから――! 手術は1週間後だ、それまでもちこたえてくれれば……」
「無理だな……手術をしたとしても、もってあと数ヶ月だ。手遅れだよ」
荻号は腕組みをし、歪んだ愛情と親心が芽生えた、この哀れな人間を無感傷に見つめていた。
「その闇医者ってのは、この状態を診てオペをやると言ったんだな?」
荻号は何かを確認するように、それだけを尋ねた。
*
荻号はダニエルの1時間にもわたる説得の末、しかたなく警備を引き受けることにした。
生物階に降下していられる期間はわずか10日だけだ。
特に何かをしようと思って降りたわけではなかったが、他の国もぶらりと寄ってみるつもりだった。
悩みを抱えた人間は世界にごまんといる。
神がこの人間だけに慈悲をかけ、彼を救おうとすることは自己満足以外のなにものでもない。誰を選び、誰を救うか。
それを決めるのは陰階神ではなく陽階神の仕事だ。
そういうわけで、たった一件の面倒ごとに7日も時間を割かれるのは心外だ。
「ひとつ言っておくが、一週間後の開頭を伴う大手術は、成功の見込みはないだろうぜ。闇医者は脳外科なんてやらないだろうし、正規の医者でも無理だ。播種が多すぎる。命を狙われながらも汚い金を積み、安静にしていればまだPSのあるこの子のQOLを著しく下げてまで、殆ど望みのない可能性に賭けたいのか?」
「そうだ……兄貴にはわからんだろうさ」
ダニエルは荻号をその風体から、ミュージシャンかクラバーだと思っていた。
まだ20歳代に見えなくもない荻号に、子供を思う男親の気持ちなど分かる筈がないと考えていた。
もっとも、ベッドですやすやと眠っているこの小さな布団の塊は、彼の息子でもなんでもない、赤の他人だ。
ダニエルにとってこの小さな塊が、はじめて彼を必要とした唯一の存在だった。
幼い少年は、ダニエルの保護と愛情を求めていた。
たかだか二人の人間のために……とは思えど、荻号は子供の命に免じて引き受けることにした。
そうなると、先ほどは金などいらないと言ったものの、やはりただ働きはごめんだ。
荻号は彼から何か対価を得るべきだと考えたが、よい事を思いついた。
「俺は慈善事業というものが、死ぬほど苦手でね、報酬はきっちりいただく」
「これで、足りないのか?」
ダニエルは机の上に積み上げたドル札をぽんぽんと叩いた。
ざっと見ただけでも数万ドルはある。
「金はいい。お前の持っているLSDで手を打とうか。ブローカーまがいの事をしていたんだろ?」
「ヤクはもう売っちまって、持ってねえ!」
「自分で使う為に別にとっておいたのがあるだろう」
この男は、何故そんなことを知っているのだろう?
ダニエルは彼に心のうちを読まれているかのような薄気味悪さを感じた。
「あれはもう使わねえ。俺の分じゃない、この子が俺の手を離れるまでの金にしようとして……」
「じゃあ尚更、いらないだろ。ヤクは俺が引き受けてやる。手術が終わったら子供は施設に預け、お前は刑務所に行って更正するんだ。その後はヤクなんか売らずに真面目に働き、子供を養うんだな」
「くっ!」
荻号はダニエルの持っていた麻薬を要求した。
それを最近味が薄くなってきていた自分の煙草に新たにブレンドして味を変えてみようと思ったのだ。
荻号の持つ麻薬は人間が吸うと、5秒も経たないうちに死んでしまう猛毒だ。
人間の使うLSDなど、荻号にとってはほんのスパイス程度にしかならない。
パスタにチーズをかけるかかけないか、ステーキに胡椒を振るか否か、その程度のことだ。
LSDがあってもなくても、手に入っても入らなくてもよい、彼にとってはそれだけのことでしかなかった。
だが荻号はダニエルの為にも、これを機に裏稼業から足を洗った方がよいと考えた。
麻薬があれば、必ず犯罪に巻き込まれるか自分から起こしにゆく。
違法性のあるものは没収だ。できれば拳銃も没収してやりたいが、護身用の銃なのだろう、命を狙われている今取り上げるわけにもいかない。
「兄貴、これを使ってくれ」
先ほど荻号がダニエルから借りてスナイパーを撃ったベレッタM92Sを渡された。
陰階神 4位 闇神、荻号要には玩具のような道具は必要ないのだが、イミテーションとしてなら使える。
これを相手に向けて構えたり突きつけたりするだけで、相手より優位に立てる。
荻号はマガジンを受け取り、だらしなく着た黒い聖衣をめくって背中にぐいっと差し込み、腰に巻いた白いひらひらとした神気遮蔽布できつく縛った。
荻号はその強大なアトモスフィアを自制するため、神気遮蔽布を常に身に帯びている。
ハンドガンの隣には、荻号の所有する第二の神具、慎刀が差し込まれていた。
荻号はこれで三つもの武器を身に帯びたが、どれ一つとして彼に必要なものではなく、彼自身の持つ戦闘能力に及ぶものはなかった。
荻号はカーテンもなく寒々しい窓の外をしきりに気にしながら尋ねた。
「それで、ここに1週間いるつもりか?」
「この場所は一味の誰にも知られていない。ここで一週間耐え切ればいいんだ! 頼んだぜ、兄貴!」
「兄貴じゃないと言ってるだろ」
「じゃあ……」
「ウォルターだ。細かい事は訊きっこなしだ、お前だって、だろ?」
荻号は置換名でなく、通名を名乗った。
生物階に関与する機会の少ない陰階神がこの名を名乗るケースは殆どないが、ここは日本ではないのだから日本名のような置換名を名乗ると不自然だ。
ダニエルは荻号の手をとって硬く握手をした。
このチンピラは誰の右手を握っていると思っているのだろう、と荻号は眉をしかめた。
「よろしくな、ウォルターの兄貴」
「……まあいい。いくつか訊きたい。お前は一味の誰かに、この子の話をしたことがあるか、次に、麻薬をバラして売ってから、何日目だ?」
「話した事? ああ、そりゃ子持ちの舎弟には話した事がある。麻薬を売ったのは2日目だ」
「お前……もうちょっとその頭、何とかならないのか? 闇医者に金を払うためにヤクをバラすなら、できるだけ直前、最悪手術中にバラせ! 何故そんな早くにやったんだ! 一週間も逃げ惑わなくてはならないんだぞ。しかも現金を家に置いておく神経が信じられん、殺しに来てくれと言っているようなものだろう!」
「ここは俺のセカンドハウスだ、家にしては殺風景だろ? この場所は誰にも知られていない。この子の病室用にレンタルしたんだ。その辺の事は、一応は考えた」
荻号はとてもこの男が”一応考えた”とは思えなかった。
人間とは何と愚かな生き物なのか、荻号がもし大金を調達するとしたら、こんな馬鹿な方法は取らない。
至って合法的に、しかし脱法的に調達するだろう。
「もう一つ質問がある。その闇医者ってのは、ニューヨークに何人いる?」
「そのドクターだけだ」
荻号はふん、と鼻を鳴らした。
じゃあ、そこじゃないか。逆に言えばそこしかない。
子供が病気を患っている事が知られていて、ここには追っ手がこない。
マフィアである彼、病気の子供、そして盗まれた麻薬、闇医者はNYにひとりだけ……追っ手は一週間後の、手術の日を狙って金を取り返しにくる!
わざわざダニエルを追跡をして金の隠し場所を調べたり吐かせたりするより、耳をそろえて金を持ってきたところを奪う方が手っ取り早い。
確実にだ。
恐らく一週間後、手術室の扉を開けると、数十人の銃を構えたマフィアの一団が中に居て闇医者を殺すか縛るかして黙らせておいて、次の瞬間にはダニエル自身も子供も蜂の巣にされる。
彼等が持ち帰るのはトランクに入った札束だけだ。
「ダニエル。今頃奴らは闇医者と通じるか脅すかして、お前をおびき寄せる算段を整えているだろうぜ……手術室の中に入った時が、お前とその子供の最期だ」
「何だと!」
「そうだろう、外でお前を殺したって何のメリットもない。金の在りかも吐かないだろうし、金を探すのも面倒だ。さっき撃って来た奴らは頭に血が上った馬鹿な連中で、少し考えのある奴なら、お前が闇医者に金を渡す時に金ごとお前を殺す方が賢明だと気付く筈だ。俺の言う事が正しければ、明日以降、まったく追っ手はつかなくなるだろう」
「……そんな……!! それじゃ、手術だってやってもらえねえ! この子は、ジョンはどうなるっていうんだ!」
「万事休す、だよ」
荻号はダニエルの顔を一瞥し、非情にもそう言って捨てた。
ダニエルは少年、ジョンの枕元に据え付けた小さなロザリオをにらみつけていた。
主なる神は、何の罪もないたったひとりの幼子までも、手にかけることをお望みなのか。
彼が思いついたのはそんな恨みごとだ。
「くっ……だから嫌いなんだ。ジーザスとその偉大なるパパは。俺が生まれてからこのかた、ずっと奴ら親子は俺を見放してきた。俺だって好き好んで堕ちる所まで堕ちてきたわけじゃない。奴らは偽善者だ、悔い改めよと仰せの割りに、悔い改めても何も褒美をくれようとはしない。あまつさえ俺の一番大切な者を、奴らの家に奪って行きやがるのか……!!!」
幼くして母親に棄てられた時も、父親の再婚相手に虐待された時も、初めて万引きをした時も、初めて人を殺した時も、神はダニエルを救ってはくれなかった。
ダニエルは絶望し、ロザリオを壁から引き剥がし、打ちっぱなしのコンクリートの床にがっくりと膝をつき、そしてロザリオを床に投げつけて壊した。
磔になったジーザス=クライストがダニエルを虚ろに見上げていた。
"So why do you call me `Lord,' when you won't obey me? ”
(なぜ汝はわたしのいう事をきかないのに、わたしを主と呼ぶのか)
どこからともなく、頭に響き渡るような低い声が聞こえてきた。
一瞬、床の上にダニエル自身がうち棄てたジーザスからの天の言葉なのかと思ったが、すぐにダニエルはそれが背後の男から発せられた言葉だとわかった。
「それは……何だ?」
「Luke 6: 46(ルカによる福音書46節)だ。聖書を読んだ事がないのか?」
知らなかった。
ダニエルはまともに聖書も読んだ事もない。孤児院で洗礼だけは受けていたが……。
聖書も知らないのに、神に救いを求めていたのかと自分が浅ましく、愚かしく感じられた。
「ジーザスは、お前のこれまでの行いを棚に上げて救いばかりを求めるなと言ったんだ。そしてこうも言った筈だぜ」
”And remember, I am with you always, with you.”
(見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる Matthew 28:20)
この、信仰心や教養などなさそうな男から、救いの言葉が紡がれる。
ダニエルは背後にいる彼が、まるでダニエルの罪をずっと見つめてきた偉大な何者かのように感じられた。
不思議だ。
この男にこう諭されると、八方塞がりで絶望的になっていた心に光が差したように落ち着く。
心臓の動悸が、おさまったような気がした。
「そうなんだろうか……」
「神ってのは想像もつかないような場所で、ひょっこりお前さんの事を見ているのかもしれないぜ。今の瞬間だってな……」
ダニエルにとってこの、得体の知れない男が言った一言が、生涯忘れられない言葉となった。
荻号は少しだけ待っていろと言い残して、アパートから出て行った。
ダニエルは不安だった。
一体何を待てばいいというのだろう。とにかく、彼の話を信じるとすれば、一週間後まで命を狙われる事はない代わりに、闇医者のもとには行けなくなってしまった。
ダニエルは何も知らずに眠る、ジョンを布団の上から優しく撫でつける。
手術の予約は一週間後までいっぱいだと、闇医者は言っていた。
どうにか早くしてもらえないものだろうか、そうすれば息子の命は助かるのかもしれない。
だが、そんな事を気にするような医者ではないということは、黒い噂で厭というほどわかりきっていた。
どうして日陰者の自分のために、ジョンまでが日陰の道を歩まねばならなくなったのだろう。
彼が生まれてこのかた知らなかった改悛という行為は、このことなのかもしれなかった。
荻号はそれから1時間後、大きなバッグを抱えてアパートに戻ってきた。
中をあけてみると、ドリルや鋏、妙なチューブ、見慣れない道具ばかりだ。
その中にメスと輸血パックを見つけた時、ダニエルは彼の正気を疑った。
「あ、兄貴……もしかして……!」
「そうだ、ここで手術をする。道具はそこいらの総合病院から拝借してきた。深夜だったので、オペ室ががらがらでな。後でまたこっそり返しておく」
「兄貴! 俺はあんたにジョンを殺されなければならないのか! 正規の医者ですら助かる見込みは殆どないって、あんたがさっき言っただろ!」
この男はやはり、頭が相当イカレてしまっているに違いない。
これからダニエルが目撃しなければならないのは手術などとは程遠い行為、殺人だ。
そうはさせない、この気違いの思いつきに、ジョンをつき合わせてたまるものか!
ダニエルはジョンの前に立ちふさがり、もう一丁持っていた拳銃を荻号の額に当てた。
彼はそれをちらりと一瞥し、全く気にする様子もなくつぶやいた。
”There is no doctor can save him ,……without me…….”
(こいつを救える医者はいない……俺を除いてはな)
「さて。本物の闇医者ってのがどんなのか、教えてやるよ」
陰階第4位、闇神にして外科医、荻号 要は不敵に笑い、手術着を身に纏った。