Anecdote 3 Beyond the Gate 2
メリーはマクシミニマを握り締めた。
戦闘用モードもついているが、扱った経験がない。
解階よりはずっと安全だとされている生物階でまさか命の危険に見舞われるとは思いもしなかった。
しかも、こんな形で待ち伏せをされていたとは……。
相手は軍神だと名乗った。
体格はメリーより少し背が高いぐらいでそれほど大きくはないし、筋骨隆々といった風でもないが、余分な筋肉をすらそぎ落としたしなやかな身体のラインは洗練され、戦闘のプロだと見てとれる。
解階の住民と互角以上に戦える委任執行官という立場であるということから、かなり腕のたつ神だと予想される。
たとえ逃げても、必ず追いつかれる。
下手に逃げて背後を見せるのは危険だ。
ユージーンと名乗った神は決して神らしき威光もプレッシャーもなかったが、疑わなくとも本物だとわかった。
彼は本物の神で、そして彼女は今まさに殺されようとしているのだと。
助けを呼んでも無駄だ、ゲートに駆け込みたくとも、彼はどうやらゲートを壊してしまっているらしかった。
どうやら生きては解階の門をくぐれない。
命乞いをするつもりはないが命は惜しい。
メリーは近づいてくる冷酷な軍神に怯えて、足がすくんで動けなくなってしまった。
”考えなさい、何か、危機を脱する方法はないの”
メリーは必死に考えを巡らせる。
ああ、どうしてこんな簡単な事を思いつかなかったのだろう。
これはまさに一時凌ぎに過ぎない……生物階に逃げ場などないというのに。
追跡転移などされてしまったらひとたまりもないというのに、それ以外に何も思いつかなかった。
メリーはマクシミニマを構えると、転移で消えてしまった。
追跡転移の心得のなかったユージーンは面食らった。
まさか神でもない解階の住民が転移を使えるとは思わなかったからだ。
だが……たしかメファイストフェレス家は人類学者の家系で、頻繁に生物階に出入りしている。
セルマーが神の用いる転移方法を研究しツールに反映させることは、それほど難しくはなかっただろう。
殺害を躊躇していたので隙を与えてしまった。
彼女は明らかにユージーンを見て怯えていたし、武術の心得がなさそうだった。
無力な彼女を殺害することは、ユージーンには痛ましく感じられたのだ。
遺言ぐらい聞いてやろうと思った甘さが、隙を生んでしまった。
「まあいい……どこへも逃げられはしない」
ユージーンの心情としては、できることならこのまま見逃してやりたかった。
だが、そういう訳にもいかないのが陽階神の悲しいさがだ。
主神の御璽の入った令状を出しておきながら違反者を神階がみすみす逃したとなれば、神階の面目は丸つぶれだ。
ユージーンは危機管理マニュアルの通りに携帯電話で法務局に連絡をし、生物階へ入階中の解階の住民と法務局の使徒に捜索の協力を要請した。
捜索には少々、人手がいる。
世界中からたったひとりの魔女を見つけることは、ユージーンの手には余る仕事だ。
神階、そして解階の両側面から魔女狩りをする。
逃げられる筈がなかった。
一両日中には発見され、そして処刑されるだろう。
たとえユージーンが手を下さなくとも。
解階からの刺客、同類に同類を殺させるより、ユージーンが早く彼女を見つけ出して殺してやる方が彼女のためだと思った。
解階からの刺客が、彼女と顔見知りではないとも限らない。
ユージーンはもう一度念入りにゲートを破壊すると、G-CAMに検索をさせた。
彼女のやろうとしていることはわかっている。
生物階に現存する太古のゲートを見つけ出し、解階へと逃げ込むことだ。
ADAMからダウンロードしたG-CAMの検索結果によると生物階に現存するインプットゲートは3つ。
そしていずれもが使用不可能だ、修理をして使えるようになるまでには1日はかかる。
それだけを確認し安心すると、ユージーンはしらみつぶしにゲートの周辺を捜索する事に決めた。
メリーは瞬間移動でドイツの郊外の村に転移した。
ここには、古のゲートがあるのだ。
壊れているが修理をすれば使える可能性がある。
メリーは必死だった。
こんなところで殺されてなるものか。
父を裏切ってしまうこととなり、メファイストフェレス家は断絶する。
自分はとんだ親不孝娘だと何度となく悔いた。
今日、どうして生物階へ来ることを思いとどまらなかったのだろう。
生物階にもう来ないとさえ思っていれば、こんな風に命を狙われる事もなかった。
軍神は追いかけてくるだろうか?
今のところ追跡転移をされている感触はない。
まだ、大丈夫よね、と彼女が後ろを振り返った瞬間、彼女は凄まじい衝撃を受けて吹き飛ばされた。
背中からG-CAMでしたたかに殴られたのだ。
メリーはもうその一撃だけで肋骨を何本か折られ、吐血をした。
やぶれかぶれにマクシミニマを振りかざして電磁波を撃って抵抗したが、てんでデタラメに撃った攻撃は彼には一発も当たらない。
スピード、パワー、そして身体能力、彼は神具の能力を一切使用していないのに、まるで相手にならなかった。
彼女は下手に抵抗してしまったがために、まるで雑巾のように嬲られ、蹴りつけられ、そして全身を骨折させられ血だるまになった。
全身をのた打ち回らせたい程の苦痛に苛まれる。
か細い息、あふれ出す血液、そして朦朧とする意識。
信じられない、こんな目に遭わなければならないなんて……。
もう抵抗などできなくなってしまった時、彼は上から覆いかぶさって両手を塞ぎ、彼女を覗き込んだ。
彼は息も上がっていない。
悔しい……強くあるために生きているような解階の住民が、神に負けるなんて。
彼に押さえつけられた手首は熱く、体中が痛めつけられて熱でほてった。
折れたアバラが肺を貫通して苦しい。
「……もう抵抗はしないのか」
「……き……気が済んだわ。こ、殺しなさいよ、早く! 早くしなさい!」
「最期に、お前が何故生物階に来たかったのかを知りたい」
彼はメリーの瞳の奥を覗き込むようにして、メリーはその空色の瞳を何故かしっかりと見つめていた。
何をされているのかわからないが、ついと、彼女に覆いかぶさった軍神の後ろから見える空の色と重ねる。
ああ、妾は……この青い空のもとで、死んでゆくのか……。
それなりに悪くない生涯だった。生物階の青い空の下で、死んでゆけるのだから。
心残りは父親に恥をかかせ、悲しませてしまうことだけだ。
だが、こんな親不孝な娘なら、居ない方がいいのかもしれない。
メリーは覚悟を決めて静かに目を閉じた。
いつまで待っても、最期の一撃はやってこなかった。
軍神はメリーから身体をどかせ、傍らに座した。彼は呆然としているように見えた。
「早く……殺してよ。じらさないで、痛いんだから」
長く苦しませる事が目的なのか?
メリーはこの世のものとも思えない激痛の中、掠れた声で彼に死を乞うた。
失血死か、衰弱死はごめんだ。解階の貴族の死に様として不名誉だ。
潔く貫かれて死にたい。
「お前は魔女ではない。お前の心は……」
彼はポケットから小さな小瓶を取り出すと、彼女の傷口から出る血液を集めて蓋をした。
小瓶の数は5本あり、5本分をいっぱいに血で満たした。
彼はそれを懐におさめると、今度は彼の手首を切って、メリーの口に押し当てた。
口の中に、彼の血液が滴ってくる。
何だこの嫌がらせは。
何たる屈辱と不名誉。メリーは恨めしそうに彼をにらみつけた。
彼はメリーの髪の毛をそっと撫でていた。
この神は一体、何をしようとしている? そんなことを考えていたとき、メリーの身体から苦痛が消えた。
そして徐々に、身体が楽になってくる。
彼は手首を彼女に噛ませたまま、そっと彼女を抱き起こした。
口の中が彼の血でいっぱいだ、気管に入り、むせそうになる。
「そこのゲートを修理して解階に帰れ。お前を殺したしるしに、その血を法務局に提出しておく。わたしの血を飲めば傷はやがて癒されるだろう、その後は二度と生物階には出てくるな。戦争はじきに終わる、いや、終わらせてみせる――わたしが不甲斐ないばかりに、このような目にあわせてすまなかった」
「え……え?」
軍神はメリーに憐憫のまなざしを向けると、なんとも悲しげな顔をして立ち上がり、どこへともなく消えてしまった。
彼の心に何がよぎって、殺すのを思いとどまってくれたのだろう。
メリーは彼に言われたとおり傷が跡形もなく回復しているのがわかった。
彼の血はメリーの薬になるようだ。
おそらく治癒血というやつだ。
彼は血を与えて傷を癒し永遠の命を授ける、まるで古い伝説にある神のようだ。
彼は何だったのだろう? メリーには理解ができなかった。
彼女は漠然とすっかり回復した腕でインプットゲートを修理しながら彼は慈悲というやつをくれたのではないか、と思った。
もしかして、メリーが多くの人間を助けようとしていたから助けてくれたのか?
彼はメリーの心を読んで殺さなかったのか?
神は何故メリーを殺さなかったのだろうと、反芻するようにメリーは問い掛け続け、あれこれと考えてしまってゲートを修復する手がおぼつかなかった。
口の中に残る神の血、そして自らの血。
それらは混ざりあい、ひとつとなってメリーのか細い身体の中に溶ける。
あれほど冷酷そうだった神の一片の慈悲を受けて命をとりとめた。
メリーは解階の住民であり、信仰などにははなから興味がない。
だが彼女はひとつの命の駆け引きをし、圧倒的な力によって命を略取されかけ、次にそれを諦められた。
学者で戦闘能力のないメリーとはいえ解階の住民をしのぐ生物学的スペック、存在感、致命的な怪我を癒しうるその神秘性。
どれをとっても敵わない、ただ強いだけではない、彼はまさに神の気品に満ちて、気高くすら感じられた。
彼にもう一度会う必要があると感じた。
軍神、ユージーン=マズロー。
忌々しくもあり、感慨深いその名前だけは忘れていなかった。
命からがら自宅に戻るなり、玄関先で父親に頬を撲たれたのは当然だ。
信じていたのに、と泣かれた。
これからアルシエルのもとに謝罪に引きずって行って、許しが得られなければ父親の手でメリーを殺すと言われた。
彼女は決死の覚悟でアルシエルの皇宮に参内し、父に恥をかかせ、悲しませた事、解階の貴族としてあるまじき行為をしてしまったこと、アルシエルが維持してくれている神階との均衡を破ってしまったことを深く懺悔し、一度は殺害を許可したアルシエルは父親の業績と顔に免じて特別にということで聞き届けてくれた。
この時アルシエルはユージーンがメリーを殺したものとして法務局に報告している事を知らなかった。
法務局からの通達が届いていなかったということだ。
罰として10年間の自宅謹慎を命じられたメリーは、謹慎中のため研究の中断を余儀なくされた。
父親はメリーがすっかり腑抜けてしまって、顔つきも変わってしまって生気のない表情になってしまったことに深く心をいためていた。
彼女を狙った神が、彼女に癒しきれないトラウマを与えたのだそうだ。
カウンセラーを呼べど医者を呼べど一向にメリーの鬱病じみたトラウマは治らなかった。
メリーもこれではいけない、家は断絶し自分も潰されてしまう、と危機感を持ってはいた。
彼女はとにかく彼女の心に重くのしかかってとれない蟠りを何とか取り除くためには、彼にもう一度会わなければ進めない、と結論づけた。
しかし彼と会う機会は次にはもう二度とはない、会った時こそがメリーの最期だ。
メリーは何とか彼に会うすべはないものかと思い悩んだ末、彼の使徒にしてくれと手紙を出して頼む事にした。
解階と神階間の民間の通信手段は郵便がメインだ。
月に一度、神階と解階の間を通信使が往来するのでその便でユージーンに短い手紙を宛てれば検閲もなく届くだろう。
殺した筈のメリーが宛ててきたと解ればユージーンの立場がないから、宛名がきには適当な名前を書いておけばいい。
メリーは何かにとりつかれたように彼に手紙をしたためた。
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陽階 軍神
ユージーン=マズロー様
拝眉の機を得ておりませんが、書簡をあてさせていただく失礼をお許しください。わたくしめは解階の住民、メファイストフェレス=メリーと申します。先日はあなた様の格別なご高配により、わたくしごとき者の命をお救い下さり、まことに有難うございました。あなた様の寛大な御心に触れまして、感謝の言葉もございません。
解階に戻りましたその後は、わたくしめの犯した罪の重さを振り返り、自宅にて謹慎してございます。
爾後、わたくしめの生物階への入階は断固としてなきことを、固くお約束申し上げます。
命をお救い頂いたご恩にわずかばかりでも報いたく存じまして、書簡を宛てさせていただきました。まことに厚かましい事とは重々存じておりますが、謹んでお願い申し上げます。
わたくしめをあなた様の使徒として召抱えていただくことはできませんでしょうか。末席にても喜んで、わたくしの罪の懺悔といたしましても誠心誠意、身を粉にしてもご伺候申し上げたく存じます。
甚だ勝手で、かつ厚顔なお願いで恐れ入ります。大変お手数ではございますが、ご返事いただきたくお願い申し上げます。
謹言
1942年 5月 9日 メファイストフェレス=メリー 印
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この短い書簡は、第二次世界大戦の戦局操作の真っ只中にいるユージーンの執務室に届いた。
長く続いた戦争により経済は疲弊し、農地や街は廃墟と化して人々は焼け出され、世界中では数百万人もの犠牲者を出していた。
彼は連日連夜の作戦会議で心身ともに疲れ果てていた。
そんな時に送られてきた空気を読まない文面、拍子抜けのする手紙を受け取って、彼はがっくりと肩を落とした。
以御も立ち入らせずひとりで手紙を読みながら、最後まで読む頃には深い深いため息をついた。
「折角助かったのだから、おとなしく謹慎していればよいものを……」
彼にとってその一通の手紙は、ありがたいものでもなんでもなく、ただのおせっかいかそれ以下のこと。
ありがた迷惑でしかなかった。
あわやユージーンに殺されかけた解階の魔女が、凝りもせず書簡を宛ててきた。
しかもよりによって、使徒にしてくれという。
折角法務局を欺いて命拾いをさせてやったというのに、彼女はユージーンの立場というものを少しも理解してはくれないようだ。
ユージーンはこの申し出をしっかりと断っておかなければ後々面倒なことになるとわかっていた。拒否をせず下手に無視をして神階に押しかけて来たら最悪だ。
そして解階の住民はそれを躊躇などしてくれない。
ユージーンはメファイストフェレス家の住所をADAMで調べて、正式な書簡を直通で宛てた。
内容も格式ばって、解釈の相違など与えないように慇懃な言葉でこんな内容をしたためた。
まず、メファイストフェレスが使徒になるなど不可能だ。
何故なら神と使徒の関係は相利共生に基づく特別なものだ、したがって解階の住民であり何ら利害関係もないメファイストフェレスとは関係が成立しない。
メファイストフェレスは自分が既に殺した事になっているので神階から隠れているべきだ。
付け加えて使徒にするには実力不相応だ、と。
これほど冷たい言葉を受け取って失望し、自分を憎んで、諦めてくれればよいとユージーンは思った。
ユージーンは血も涙もないそんな内容の書簡を宛てて、激務の中ですぐに彼女の事など忘れてしまった。
だが彼女は、少しも諦めてはいなかったのである。
彼女はユージーンの書簡を読んで、彼はメファイストフェレスに努力をしろと言っているのだと考えた。
今の彼女では、何もかも彼に劣っていてつりあわない。
努力をして、彼の使徒となるに相応しい強さを手に入れれば振り向いてもらえるのだと感じた。
メファイストフェレスは謹慎中に名門の武家であるバフォメット家の武術指導も行ったという一流の武術師範を雇って、イロハのイから武術を教わった。
彼女はペンという剣で解階の実力社会を生き抜いてきたのだが、武術の才能が皆無だった為に学者になったのではない。
父子ともに学者としての道を歩んできたので意識をしたこともなかったが、メファイストフェレス家は解階の女皇、アルシエルの血を引いている。
武術の素養は彼女にも備わっていた。
ただそれを忘れていただけだ。
彼女は研究を禁じられて自宅謹慎を余儀なくされていたがために、ひたすらに強く己を鍛え上げる事に集中すればよかった。
多くの解階の貴族達が所有しているのと同様に、メファイストフェレス家も遅ればせながら、自宅の地下に巨大な武道場を造らせた。
セルマーはあれほどうつ病じみてため息ばかりついていた娘が、ユージーンを超える事を目標にして少しずつと前向きになってきたことを最初は喜んでいたが、少しずつ深刻に考えるようになった。
7年前は5分とまともに動けなかったというのに、師範と1時間も組み手を教わっている娘を、セルマーは怪我でもしないかとはらはらと見守っていた。
執事は観覧席のセルマーにティーセットを給仕しながら、こう言った。
「お嬢様は上達がお早いですな。すっかり逞しくおなりになって」
「武芸を磨く事はよい事だとは思うがね。親としてはなんとも複雑だよ、娘がまさか神に熱をあげているとは……もう7年もだ。飽きっぽい娘が……これはゆゆしき事態だぞ」
メリーはひゅっと息を吸い、練成していた気圧を師範にぶつけた。
細い腕が硬直し、鋼のような筋肉がじっとりと汗ばんだ肌にしなやかに隆起する。
巨大な泡が弾けたような音とともに衝撃が波となって伝播する。
その凄まじさときたら、装甲の強化された武道場の床に爪あとが走るまでになっている。
師範が飛び下がって避けるのを予測して、メリーは素早く移動し、上空から肘で狙いを定めて師範の背中を狙って叩き落とす。
叩き落された師範がまた武道場の床を割る。
セルマーはティーカップを置くと愛用の電卓を取り出し、今日の戦闘によって受けた損害を算出した。
また今月も、バカにならない金額が飛んでゆく。
地下武道場を、この7年で3回も増改築をした。
メリーと師範の日々の戦闘によって、何度壊されたかわからない、とセルマーは振り返る。
マクシミニマというツールを用いずに生身の拳だけで、今はどんな硬質の物体も砕く事ができるようになった。
さすがはアルシエル家の血筋というか、彼女の飲み込みの早さは異常でもあった。
特注のバトルスーツを着て引き締まった身体をしならせ、長く艶やかな黒髪をたなびかせた彼女はまるで修羅のようだった。
それでこそ解階の上流貴族の品格だ。
師範は迎撃しながら多様性を増す彼女の攻撃を見て、満足そうに頷いた。
彼女は武道場に掛かった大時計を見て訓練の時間が終わった事に気付くと、物足りなそうに着地をし、間合いを取って深呼吸をした。
「メリー嬢、卿はどこまで強くなるつもりなんだ?」
「あの軍神に、目にものを見せてやりたいのよ」
「それならもう充分だぞ。この7年の間に、枢軸神と対等に戦えるレベルにまで達している。神ってのは解階の貴族ほど強敵ではない」
メファイストフェレスも確かに、7年前までは足元も見えなかった軍神に対して、もう勝機は見えたと感じた。
だが辛勝というのでは物足りない。
あの軍神には何が何でも、圧倒的な力の差というものを体感させてやりたい。
かつて自分が砂をかむような思いをしたように。
彼を捻じ伏せ、遠慮もなく軍神の上に乗って勝利に酔いしれたいのだ。
解階の貴女に恥をかかせ、本気にさせてしまった罰を与えてやりたい。
メリーは力を手にして、自信を取り戻しつつあった。
「ただ勝つだけではだめなの、たっぷりと痛めつけてやらなきゃ気がすまない。甚振られて、殺されなかったのよ。妾にとってこれ以上の屈辱はないわ。同じ屈辱を味わわせてやらなきゃ」
「はは、これは頼もしい。メファイストフェレス家は二代目から武家を名乗った方がよさそうですな」
文字通り百戦錬磨の武術師範も顔負けといったようだった。
セルマーは武道場の修理費に苦しめられつつ、それから更に3年もの間、彼女は打倒軍神をのみ目標に据えて、一日も休まず訓練に勤しんだ。
*
1952年11月2日、126歳の軍神 ユージーン=マズローは、エニウェトク環礁上空にいた。
おととい、この場所で人類初の水爆実験、アイビー作戦(Operation Ivy)が行われた。
十数年前、ユージーンが人類に齎した核の知識は、神の手を離れて人の手に渡り、一人歩きをはじめていた。
彼は未熟であったがために、核での戦争終結方法しか思い至らず、その後の影響を考えなかった。
結果としてこのような事態を招いてしまったのだと強く後悔した。
技術は一過性のものではない、発展し、進化してゆく。
この恐るべき兵器は、ユージーンが身を以って体感した人類初の原子爆弾の出力15キロトンをはるかに上回る10.4メガトンもの出力を発揮した。
人類は、どこへゆこうとしているのだろう。
彼等は平和であることを、平和であろうとすることすらも望まないのか。
ユージーンは夕空のもと、切なくなって首をふった。
突如、誰も居る筈のない背後から声がした。ここは上空一千メートル、人間ではない。
「戦争は終わっても、平和とは程遠いわね。軍神さん」
物思いにふけっていて、気配を察知することができなかった。
ユージーンは振り向きざまにアーカイブからG-CAMを抜いた。
背後には、黒いドレスを纏い、ビロードの帽子を目深に被った女が、長い黒髪を気持ちよさそうに風に遊ばせていた。
魔女、メファイストフェレス IIとの再会である。
「ひとえにわたしの力量不足だ。お前とは約束したな、戦争を終結させ平和な世界を取り戻すと」
「おひとりでできないなら、やはり妾の力が必要なのではないかしら……ねえ?」
彼女は帽子の先を指先でちょいっと上げて、不敵に微笑む。
自信に満ちた顔だった。
解階の女性は戦いに身を置き続けることによって美しくなるという。
ばっちりと決まった濃いメイクが派手な印象を受けるが、彼女は以前より格段に美しくなっていた。
自信と誇りが彼女を磨き上げたのだろうか。
10年前、ユージーンの目の前で怯えることしかできなかった彼女とは別人のようだ。
ユージーンは彼女に興味を引かれる以前に、法務局の偵察衛星によってこのやりとりを監察されている事を気にした。
彼は目をそらし、偵察衛星を探した。
高度3000メートルほどの、地上とごく近い距離に、光学迷彩を纏って周回している。
メファイストフェレスは自分以外のものに興味を引かれて目をそらしているのが気に入らなかった。
「こんなにいい女がいるっていうのに、何にうつつを抜かしているのかしら……。法務局の偵察衛星が気になっているのなら、妾が破壊しておいたわ」
ユージーンは胸をなでおろした。なかなか気がきいている。
もしも偵察衛星にばっちりと撮影されていたのなら、すぐに法務局監察課から執行官が逮捕状を持ってやってくるだろう。
十年前に殺していると報告した筈の魔女が生きている。
公文書虚偽記載および背任の罪だ。
「配慮に感謝する。わたしに何の用だ。生物階にはもう出て来るなと言ったはずだが」
「決まってるじゃない。あなたの使徒にして欲しいのよ」
「それは出来ないと返事をした。その後、お前から返事が来なかったのは、了承したからだろう? 問題は十年も前に終わったはずだ」
ユージーンは冗談ではなく、本当に終わったのだと思っていた。
返事が来ないということは、彼女が納得したからだろうと思った。
気が移ろいやすい解階の住民が十年も自分に固執しているとはどうしても考えられなかったのである。
「あなたが提示した条件を、クリアするために修練を積んでいたからよ。あなたはこう宛てたわ。使徒となるには実力不足だ、と」
条件はそれだけではなかったとユージーンは思うのだが、彼女はそれだけしか印象になかったようだ。
彼女はようやく待ちに待ったこの時がやってきたかと思うと、嬉しくてたまらなかった。
これから始まるめくるめく時間に、体中がほてってくる。
「さあ、訓練の成果を見せてあげるわ」
「……わたしは、無益な争いは嫌いだ。この間は勅令によりお前を討伐しなければならなかった。だが今は争う理由がない」
「馬鹿にしないで! 妾は、あなたに殺されかけたのよ!? 今更そんな事を言わないで!」
戦う理由がないだと?
メファイストフェレスはその言葉を聞いて、許せなかった。
この十年間を何だと思っている。力不足だと言われたから血を吐くような訓練を積んできた。
戦闘などという野蛮な事から身を引いて、学問に全てを捧げ、貞淑に生きてきた貴女だったのに。
学者生命十年を棒に振ってだ。それを、争う理由がないだと?
「……許せない! 思い知らせてやるんだから!」
メファイストフェレスはマクシミニマを戦闘モードにして構え、起動した。
彼女は風を切って踏み込み、ユージーンの懐に飛び込む。
速い!
ユージーンはG-CAMの起動が間に合わず、G-CAMのうちで最も固い部分、金属のエンブレムの部分でマクシミニマでの攻撃を受け止めた。
ギリギリと押し付けられる彼女の攻撃を、防ぎきれずに圧されている。
腕力で、彼女に負けているのか……?
ユージーンは身の危険を察知し、マクシミニマの攻撃を力任せに弾き飛ばすとかなりの距離をとって飛び下がった。
G-CAMにコマンドを与える時間を用意しなければならなかったからだ。
高度一千メートルの戦いが、突如として始まった。
ユージーンは手加減は無用のことと、G-CAMを起動した。
彼は早口で立て続けにコマンドを与え、G-CAMの基盤が赤く青く脈打ち始める。
”Grasp the Context by Analytical Microcosm system consol open !”
(分析的宇宙 依拠 現象把握機構、開戦)
彼は冷静にコマンドを与えながら、体勢を立て直し、G-CAMを斜に構えて突進した。
”Circle of War! 8 Th Tune Close Ring! Concentration!”
(展戦輪! 第8閉環集積)
激しい8色の光と共に、G-CAMを中心に直径10メートルほどの光の円陣が展開された。
現れた陣形は、軍神のシンボルである展戦輪。
外部磁場を撹乱させ、相手の生体内リズムを破壊し気絶あるいは死に至らしめるものだ。
ユージーンは短期決着を狙い、彼女を気絶させようと試みた。
彼女の身体は色とりどりの8色の光の環に包まれ、光は彼女を基点に収束をはじめる。
光に締め付けられながら、彼女はビロードの大きな帽子の下で薄くあざ笑った。
”Elohim-Elohim-Dictor-Enomas-El-Es-Olimuk ……”
(エロヒム-エロヒム-ディクトル-エノマス-エル-エス-オリマク)
彼女は呪術じみたコマンドをマクシミニマに与える。
彼女のツールの演算髑髏が、まるでカウントダウンをするように赤い明滅を始めた。
暗号化されたコマンドは攻撃を類推させない。
古来より魔女や悪魔が呪文を唱えるのは、ツールの性能を機密にするためだ。
ツールによって異なるコマンドがあり、それを他者が類推する事は不可能だ。
解りやすいコマンドを与える神具とは違い、相手を確実に出し抜く事ができる。
ユージーンは起動をして2tにもなった重い神具をしっかりと抱えて構えながら、その様子を不気味そうに遠巻きに見ていた。
彼女は何のコマンドを与えたのだろう。
彼女は光の環に包まれながら、ゆっくりと、ユージーンに向けて髑髏を掲げ持った。
刹那、レーザー光のような赤い光がショットガンのように放出され、G-CAMの絶対圏内を突き破って、更にユージーンの神体を覆っているフィジカルギャップを破壊し、彼を撃ち抜いた。
10数箇所もの被弾をくらって赤い光が貫通し、それらによって直径5cmほどの風穴を開けられた。
神はくぐもったうめき声を出すと、まっさかさまに海面に堕ちていった。
ツールは使用者の精神力やオーラの潜在量を素直に反映する。
そんな……体力ばかりでなく、精神力においても彼女に劣っているというのか。
墜落しながら、彼はそんな事を思った。
ユージーンが集中を殺いだことで、G-CAMから放たれていた光の環はメファイストフェレスから解けて落ちていった。
まだだ、まだまだ……足りない。
メファイストフェレスは容赦なくユージーンを追った。
ユージーンが海面との衝突し、大きな水柱が上がる。
その水柱をまっすぐに追いながら、メファイストフェレスはマクシミニマを握り締めた。
彼女はもう次のコマンドを与えている。
”Magi-Ql-La-Vadra-Incu-De-Sel-Or”
(マギ-クル-ラ-ヴァドラ-インキュ-デ-セル-オール)
ユージーンはG-CAMの重みにもっていかれて、海底に沈んでいた。
それでも彼は、激痛の中でも神具を手放そうとはしなかった。
明るい海面から、魔女が自分を追って落ちてくる。
ユージーンは傷口に潮が滲みて苦悶の表情を浮かべたが、意識は驚くほどはっきりとしていた。
ひたすら苦痛に耐えるという訓練はアカデミー時代に受けている、ユージーンはこれしきの事で諦めたり意識を失ったりはしない。
まだ戦えるはずだ、と彼は思った。
彼は降りかかってくる彼女の攻撃を受け止めるために、G-CAMを掲げる。
彼女はマクシミニマの推進力をジェット噴射のように使いながら、凄まじいスピードを乗せて海水の中に突入してきた。
ズシン、と禍々しい重粒子光を灯した髑髏の衝撃が、真っ向からそれを受け止めた彼を打ちのめした。
彼の神体は海底に数十メートルもめり込み、そこを基点にかなりの震度の海底地震が発生したはずだ。
被弾した創傷からは神血があふれ出し、神体中の骨という骨が骨折したのがわかった。
彼は何とかその衝撃に耐えたが、攻撃に転じる事ができなかった。
骨が砕けて、重いG-CAMを扱えない。
彼女は髑髏を振り上げ、猶も攻撃を続けようとして思いとどまった。
彼はG-CAM を手放し、戦闘を放棄したからである。
よく見ると、もう動けないようだった。
このまま海底に放置していれば、間違いなく死んでしまう。
”つまらない……こんなにあっけないものなの? 神ともあろう者が、こんなに簡単に?”
彼女は十年もの間に、自らを鍛えすぎてしまったのだと思った。
神を這い蹲らせて命乞いをさせて、それを哀れねと見下してやりたかったのに。
こんなのつまらない。黙って死を悟って諦めてしまうなんて。
武術師範から、神がある程度以上に強くなれない理由を聞いた事があった。
解階の住民は、鍛えれば鍛えただけ強くなれる。
それは戦い続けるうちに、小進化を遂げてゆくからだという。
解階の歴史は淘汰、選択によって築かれた進化の歴史といっても過言ではない。
より強く、より優秀な遺伝子が選択され、弱き者たちは淘汰され、強き遺伝子のみが受け継がれてきた。
願えば、鍛えれば鍛えただけ身体が応えてくれる。
しかし神は違う。
神という生き物は不変だ。
彼等は解階の住民とは違って成長も進化もできないのだという。
生まれついた環境が全てなのだそうだ。
そして100歳までに鍛えて強くなれなければ、それ以上成長することはできない。
人間の子供が成長期を逃すと身長が伸びないように……。
神は進化より安定を望む生き物なのだそうだ。強くあり続けようとする事は、訓練により成長することのできない彼等には大きな負担なのだという。
神は全知全能だという先入観に、メファイストフェレスは支配されていた。
だが等身大の彼は絶対的存在でもなんでもなく、ただの一個の生き物だった。
期待していた命乞いの言葉もない。
死を覚悟した彼を柔らかく抱えて、G-CAMも忘れずに拾うと、海面へと浮上していった。
ダメだ、ダメだ、こんなの認められない。仕切り直しだ。
メファイストフェレスは周辺の孤島に彼を運ぶと、看病をしなければならない羽目になってしまった。
彼女には医学的知識などないし、ましてや神をどうやって手当てしてやればよいのかなどわからない。
彼女はユージーンに勝つ事ができると確信していた、だが傷つけた彼をどう手当てしてやればよいのかまでは、考えていなかったのだ。
彼女は彼の傷を癒せるような特別な血液を持っていない。
何も考えていなかったのだから、当然の結果だった。
更に悪い事に、失血が止まらない。
マクシミニマに簡単な介護ナビゲーションをつけておけばよかったと思った。
こうやってじわじわと苦しめられて失血死をする事は、彼にとってこの上ない屈辱だろう。
まだ意識は失っていないが、そのうち貧血で意識を落とす。
彼は神階へはもう戻れない。
メファイストフェレスが法務局の偵察衛星を破壊したからだ。
偵察衛星は神々の行動を監視すると同時に、神々の危機を察知してくれる。
もしもこの様子が記録されていたなら、神階からの助けがくることだろう。
だが助けは来ない。メファイストフェレスはドレスの裾を破いてきつく傷口を縛りながら、彼を励ました。
「……しっかりしなさいよ! 神ともあろう者が、情けない。そんなんじゃ、人間に信仰してもらえないわよ!」
彼女は狼狽しながら、十年も焦がれた相手が目の前にいるというのに、彼を失わなければならないのかと思うと悔しかった。
何がいけなかったのだろう、強くなりすぎた自分がいけなかったのか? それとも争うつもりがないと言った彼の言葉を聞かなかったから?
使徒になりたいなどと思ってしまったから?
血を流させる攻撃を仕掛けてしまったから?
どれを思い起こしても納得がいかない。
「……強くなったなメファイストフェレス……」
彼は遺言のようにそう言った。
「そうよ! 強くなったでしょう。この十年、あなたの事を考えない日はなかったんだから。あなたの為に強くなった。それに、まだ始まったばかりでいくらも戦ってないわ。つまらないじゃない。だから、死なないで……続きをさせてよ、ねえ!」
「わたしは……、随分……お前を苦しめてしまったようだ。すまなかった……な」
「もう喋らないで」
折角嬉しい言葉を投げかけてくれたのに。
少しも嬉しくなどない。
彼は血の気が引いてどんどん青ざめてゆく。
出血が止まらない。こんなにも脆い神という生命。
彼女はおろおろと困惑した。
「どうすればいいの」
神には輸血もできないので、失血をすれば死ぬしかない。
十年前、瀕死のメファイストフェレスを救った彼の血液。
それを持つ彼自身が自分自身を救えないなどと、笑い話だ。
彼は力尽きて静かに目を閉ざし動かなくなった。
殺してしまった……神を。
メファイストフェレスは彼の隣に寄り添うように横たわった。
やっと手に入れたと、思ったのに……。
やがて夜が訪れ、海原から吹き込んでくる僅かに放射能を含んだ潮風がメファイストフェレスの頬を撫でていた。
海辺から穏やかな潮騒音が聞こえてくる。
メファイストフェレスは彼の亡骸の隣に横たわって、彼に子守唄を聞かせるように古い童謡を口ずさんでいた。
無人島に取り残されたふたり。
彼女は何かをしてなければ不安だった。
生物階で古くから謡われている歌だ。
死んだ筈の彼の神体は、まだ温かかった。
いや、もう温かいのかもよくわからない。
メファイストフェレスが触れている部分に体温を感じているだけなのかもしれない。
だが彼女はその温かさから、離れることができなかった。
彼女は彼に覆いかぶさるようにして保温をしてやりながら長い夜が更けていった。
メファイストフェレスは翌朝、潮騒の音に紛れるようにして彼が息をしている事に気付いた。
嬉しくて、つい揺さぶってしまった。
「生きて……いたの?」
「……ん……」
彼はうめき声のような一言を返した。
先日までは息の根もなかったと思うのだが、彼は少しずつ回復をはじめている。
「よかった……生きていたの……」
彼女はその日も、彼とともに横たわって空を見上げていた。
ユージーンは動けないながらに段々と意識が戻ってきて、簡単な会話ができるまでに回復した。
メファイストフェレスは彼と寝物語をするように、彼女の長い生涯の間の知見を少しずつ話した。
父親の代から人間に興味があったこと。
人間の行動を間近で研究したいと思っていただけで、違法なゲートで生物階の秩序を乱そうと考えていたわけではなかったこと。
彼はじっと聞いていた。
「あなたの話も、聞かせてほしいわ」
「……話すほどの内容もない。わたしは神となってまだ10年ほどしか経っていないんだ。今のところ、何も成し遂げていない」
「だから妾が手伝うって、言ってるじゃない」
「必要ない」
彼は冷たく言い切った。
だが動けない今では子供じみた強がりのようにしか聞こえない。
彼はまだ成体になったばかり、一人前の神というよりまだ未熟な学生のようだ、と彼女は思った。
「強情なのね。あなたは何名の使徒を御しているの?」
「何故そんなことを聞く」
「聞きたいの」
「18万だ」
「あなたは大勢の使徒を従えているというのに、誰も助けに来てくれなかったわ。だって使徒たちはアトモスフィアを与えてくれる神に仕えているのであって、それはあなたでなくてもいいのよ。代わりはいくらでもいるの。ほら、だから純粋にあなたに仕えたいと思って、利害関係を超えてあなたでなくては嫌だと思う妾が必要でしょう……わかる?」
彼女は彼が使徒として召抱えてくれたなら、他のどの使徒たちよりも早く彼のもとに駆けつけようと思った。
いつもは一緒でなくともいい。
彼が自分を信頼して、彼の必要な時に必要なだけ呼び出してくれればいいと思った。
彼はそれを聞いているのか聞いていないのかわからない。
「あなたが好き。魔女はすぐにセックスをして子供を作りたがるから、警戒するのも当然だと思うけれど、あなたには性別がないって解ってる。あなたという存在が好きなの。……妾は強かったでしょう? この力をあなたを傷つけるのではなく、守る力に変えるから」
彼女の言葉は、ユージーンの身にしみた。
確かに使徒達は雇用主と契約をしているのであって、神のアトモスフィアがなければ生きてゆけないからだ。
使徒の生命に関わる究極のギブアンドテイクの関係で、神階は維持されている。
薬神は現在でも、神のアトモスフィアの構造について研究したり、合成したりしてはならないと定められていた。
合成不可能な物質であるという建前のアトモスフィアがもし合成できてしまったなら、使徒は神を必要としなくなる。
甲斐甲斐しく神に尽くす事も、忠誠を誓う事もないだろう。
それほどまでに危うい、利害関係によってのみ成立する神と使徒の雇用関係。
神にとって神階とは他者ばかりの冷たい社会だった。
ユージーンは彼女の言葉を受け入れた。
「ありがとう。お前の気持ちはよくわかった」
「よかった。では勝手に使徒を名乗らせてもらうわ」
彼女は押し付けがましい割には健気で謙虚だった。
ユージーンは解階の住民に出会った事は、数えるほどしかない。
彼等は単純で自己中心的で、いつも力を頼んだ。
だが彼女は少し違う。ただ自己中心的な他の魔女達とは違うようだ。
人間心理学を研究し続けた彼女はいつの間にか、人の心に近づいた魔女となったのだろうか。ユージーンはほんの少しだけ、この人間くさい彼女に興味が湧いてきた。
「ではメファイストフェレス、お前を軍神下第0位使徒として擁する。解階の住民であるお前には神の代行権は付託できない。だが、頼りにしている。それでいいだろうか、お前に与えられるものは何もないけれど」
「それだけでいいわ」
彼はそう言って、また目を閉ざして眠りについた。
メファイストフェレスは実力で最高位使徒の座を得て、満足そうに微笑んだ。
本当は何位であっても構わない、彼が必要としてくれるならば。
彼女も今は彼に寄り添って嬉しそうに目を閉ざした。