Anecdote 3 Beyond the Gate 1
人間社会においてどれほど御伽噺にしか思えない神話や伝説でも、元を正せばある部分は事実であることが多々あるものだ。
人々はそれを偶然に見出したとき、驚愕するとともに、畏怖し、あるいは開き直り、様々な反応を見せる。超自然的だと彼らが決め付けたものを空想の産物にしてしまいたいという自己防衛反応、人々にとって認めてはならない現実を必死に否定しようとする思考回路は、彼にとっては興味深い謎だった。
1790年代における生物階入階の際。
限られた時間で人間社会のありのままの姿を視るため、音楽、科学、文学、政治経済に関するあらゆる資料を集めていた。
詩人、劇作家、小説家、科学者であり哲学者でもあるゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の著作を手に取ったとき、解階の人類心理学者、メファイストフェレス=セルマーは非常に興味深く、彼の戯曲を研究した。
一人の紳士の姿でゲーテの前に現われたセルマーは、それから1年にわたりゲーテと交流を持った。
彼は自らの広い見識を彼らの科学力に即した範疇で与え、また彼の内奥と問答をかわす。この間、解階の住民であることを名乗れなかったセルマーが、科学者であったゲーテにすら悪魔と混同されていたことは遺憾でもあったが、だからこそ興味深かった。
人はどれほど学識のある者でも、受け入れられない現実は認めない。
セルマーは悪魔というその呼称に甘んじて、静かに詩人を見守り続けた。
彼が古代の伝説、ドクトル・ヨーハン・ファウストゥスの物語を元に、セルマーを悪魔 メファイストフェレスとして登場させ、老博士の使い魔として描き始めた時には、何という事をするのだろうと思ったものだ。
紳士的に接してきたと自負していたセルマーを悪魔として登場させるとは、何とも無礼。
さすがのセルマーも不愉快に思ったが、腹が立ったのと引き換えに、セルマーは人という生物が未知の存在に出会った時、それを崇めるか貶めるかしかできないのだとまたひとつ人間を学んだ。
神階の神々は人間の本質をうまく利用し、創造主を名乗っているのであろう。
そういう戦法で神々は生物階の住民から崇められ、逆に解階の住民が存在を正しく名乗らない為に、人々は悪魔として罵ったのである。
偽りを広める事と、欺かず沈黙を守る事のどちらが誠意ある対応だと思うのかと、人間達に聞いてみたかった。
しかし既にセルマーの滞在したヨーロッパの社会では、キリスト教が強固な宗教圏を形成していた。
悪魔の存在を予言したジーザス=クライストはうまくやったものだな、とセルマーは思った。
生前に神を信じ、よき道を歩んだものは天国の門を通り神の国へと入ることができ、さもなければ悪魔の住まう地獄で審判の日まで永遠の責め苦を受けなくてはならないという陽階神が人々に提示した飴と鞭、天国と地獄、神と悪魔の概念が浸透している限り、解階の住民はどうあっても悪魔として扱われなくてはならないようだ。
ゲーテから得られた貴重な資料を生物階で何とか整理し終え、セルマーは娘の待つ解階へと帰っていた。
どうやら彼の愛娘と過ごすより多くの時間を、人間達の研究に費やしてしまったようだ。
研究者としては大成していた彼だが、親としてもそうであったかというと、残念ながらそうではなかった。
愛娘への手土産と土産話を古いトランク一杯につめて、彼は解階の門を42年振りにくぐった。
解階の門(Hell's ゲート)は階の女皇、アルシエル=ジャンセンの直轄機関であり、20名までの解階の住民の生物階への出入りを許していた。
有名な悪魔の名をファーストネームに持つアルシエルだが、5800年にも及ぶ彼女の治世が悪魔の名にそぐうものであったかというとそうではなかった。
彼女は最強者でありながら自由であることを至上とし、一切の強制をせず、崇拝を求めず、解階の民は各々の力と肉体で物質的な昇華と発展を目指すがよいと説いただけだった。
アルシエルが定めた神階とのいざこざを回避するための簡単な法律以外には、解階には法治制度が一切といっていいほどなかった。
解階が開放された階としての意味を持ちしばしば混沌の階と表記されるのは、アルシエルをはじめとする代々の皇たちが、ひたすらに住民の生命力の有無をのみ求めたからである。
生命の本質は生き抜くこと。
生きるためには生物的な強さや生存競争に勝ち抜くための知恵が要る。
弱きはくじかれ、強きは助けられる。
何百世代もの間に弱者や繁殖力に劣っていた者たちが、そして遂には衰えたY染色体を持つ男性という性までもが自然淘汰された頃には、解階の住民には弱者というものがいなくなっていた。
優れた者たちによる無駄のない世界を運営するにあたって、統治者アルシエルが学問の価値を見失うことはなく、非力ではあっても知能の優れた者たちは手厚く保護することも忘れなかった。
力か、智か。
解階屈指の人類学者であるセルマーは、どちらかというと前者よりは後者に当てはまった。
そして幼い頃からそんな父親を見て育った娘も、父と同じように人に興味を抱き、父と同じ道を歩み始めていた。
セルマーはアルシエルの住まう首都の鄙びた路地を歩いていた。
生物階では地獄を示すアビス(ABYSS)との名を持つこの惑星には死が蔓延し、殺戮も当然、死体片付け屋という商売も成り立っているぐらいだが、戯曲や聖書で怖ろしげに書かれている荒廃している焼け野原のような場所ではない。
貨幣も企業も、公的機関もあり、大規模な経済社会が成り立っている。
生物階もなかなか退廃的でよいが、ここはここで住み慣れた都だ。
アルシエルの定める簡単な約束事以外には法律も規則もないという気ままな暮し。
要するに、愚か者と弱者が損をする社会ではあるのだが……。
たった42年間留守にしていただけなのに、首都の街並みはずいぶん変わってしまっていた。
恐らく店主や家主が殺されて、新たな建物が建ったりひっきりなしに立ち退きが起こる。
メファイストフェレス=セルマーの家の表札にはアルシエルの紋章があり、強盗の侵入、家族の殺害や誘拐などのあらゆる危険から保護されている。
逆に言えばアルシエルが保護しているという徴がない建物は侵入したり、略奪、家主の殺害も許されるということだ。
アルシエルの保護のもとにあるからといって、我が家が安全であるとは思っていない。
家などどうなっていてもいい。
崩れかけていても、壁が落ちていても、高価な調度品が多少盗まれていてもいい。
娘さえ無事であるならば。
セルマーはつきあたりに我が家の見える路地の曲がり角から、ひょいと首をのぞかせた。
広大な敷地を持つメファイストフェレス邸は、42年の年月を経ても朽ち果てずに堂々と佇んでいる。
黒いポストの前には、長く使ってきたメイドが箒を持ってきれいに門扉の前を掃き清めていた。
「留守をご苦労だった。リンドバーグ、今帰ったぞ」
「だ、旦那様! お帰りなさいませ」
主人の帰還に、黒髪の艶やかなメイドが応じる。
メイド服のスカートの裾をたくりあげて恭しくお辞儀をする。
「メリーは?」
「お嬢様はヴィルナ様とご会食に」
セルマーは、1年前に娘から単身赴任先の生物階の宿屋に届いた手紙を忘れてはいなかった。
メファイストフェレス=メリーは暗殺された妻との間にもうけた子であり、メファイストフェレス家の跡取り娘である。
1年ほど前、ヴィルナという男と付き合っていると手紙に書いてあった。
ついこの間まで子供であったと娘もそんな年頃になったのか、と喜んだものである。
娘の幸せを願う気持ちは生物階でも解階でも、どの世界の親でも同じだ。
「お嬢様に旦那様のお帰りを、お知らせいたしましょうか」
「いや、よいのだ。交際ぐらい、自由にさせてやれ」
メファイストフェレスはおもむろに頭に手をやると、埃ひとつない赤いビロードの羽根帽子を取り、リンドバーグに手渡した。
ふわふわと大きな孔雀の羽根が従順なメイドの顎のあたりをくすぐる。
「生物階はいかがでございました」
「あいもかわらず人間たちは、おもしろい行動をする」
「それはさぞかし研究成果を上げられたことでしょう」
メイドは主人の成功を喜んだ。
「学会からどう評価されるかはわからんがね」
よく手入れされた中庭には芝生が青々と生い茂り、噴水のある池は清んだ水をたたえている。
セルマーは懐かしいわが家の土をしっかりと踏み締めながら歩く。
石畳を踏むと、セルマーの真上に影が落ちてきた。
この惑星の周囲には恒星がないので、いつでも暗闇が地上を支配している。
首都は公共設備として上空200メートルに等間隔で照明台を設置しており、LEDとグラスファイバーネットワークで反射パネルが空に敷かれ、生物階の日付変更線の時間を基準として朝7時から夜7時までの間首都の空を太陽とほぼ同等の光度に保っていた。
夜7時になると発電のため消灯となり、夕焼け空もなく急に深夜の闇が訪れる。
現在午後6時半、明るい照明台の光に逆光となった影はどんどんと大きくなってきたので上を振り仰ぐと、一振りの笏杖を持った女が落ちてくる。
彼のたったひとりの愛娘の帰還だった。
セルマーはトランクを投げ出し、大きく手を広げた。
「あら。お嬢様」
「メリー!」
「! パパ?」
娘は懐かしい父親の姿をみとめると、父の胸に飛び込んだ。
ふたりはしばらく抱擁しあったまま離れなかった。
「お嬢様、お早いお帰りで」
「いいのよ、彼とはさっき別れたの」
父は少し落胆した半面、また少しほっとしてもいた。
どんな理由があって別れたのかなど、今は追及しない。
娘にはそのうちよい縁談があればいいと思う。
彼女はたったひとりの後継ぎなのだが、そんな事にこだわらず、家の血筋も学者の血筋も滅ぼして嫁に行ってでもよいから、そのかわり幸福になってほしいと思っていた。
「良縁でしたのに、お嬢様」
「妾が決めたことだもの、気にしていないわ。彼、やっぱり養子にはならないって」
「この家の事など、気にする必要はないのだぞ? 好きあっていたのならそんなことで別れるな」
セルマーは娘の頭を撫でてやりながら心配そうにそう言った。
しかしメリーは父親の頬に軽くキスをして、それ以上何も言わせてはくれなかった。
「妾はパパのものだから」
「お前……」
「それよりパパの仕事の話を聞かせて頂戴。リンドバーグ、上等のケーキを買っておいてよかったわね。まさか今日パパが戻ってくるとは思わなかったもの」
幼い頃に母親をなくしただけあって、メリーは筋金入りの父親っ子だった。
生物階での単身赴任の仕事が多く留守がちな父親でも彼女は慕って尊敬している。
娘は父の留守の間、寂しさを紛らわすように父の論文を読み漁っていた。
生物階の風習、生活文化、宗教、それらは全てメリーには新鮮だった。
父の業績にふれるたび、生物階への憧れが日々彼女の胸を焦がしていった。
「お前の話も聞かせてもらわないといけないな、土産をたくさん買ってきたぞ。リンドバーグ、勿論お前にもだ」
「パパ、怒らないで聞いてね」
「怒るものか」
「妾も人類心理学者になったわ。もう学位も出たの」
父親には内緒でとった学位だった。
メリーはアカデミー在籍中、経済学を専攻して既に学位を取っていた筈だった。
アカデミーは20年制でほんの数%の成績優秀者しか学位をもらえず、卒業ができない。
42年前にメリーが経済学の学位を取ったとき、父セルマーは安心して生物階への単身赴任へ戻った。
留守にしていた間にもう一度アカデミーに行きなおし人類心理学で学位を取ったのだとすれば、父は娘の空白の20年を知らなかったということだ。
セルマーはいかに彼が娘の内面を蔑ろにしてきたかを深く恥じた。
娘の興味も知らず、親としてのつとめも果たさず、生物階での仕事に明け暮れていた。
「メリー……許しておくれ。わしは父としてお前の何を知っていただろう。お前のことを何も分かってはいなかった」
「いいのよ、パパ。言わなかったのは妾の勝手だもの」
「し、しかし、人類心理学者とは……」
「生物階に行ってみたいのよ、パパ。どうしても行きたいの。パパが解階に帰ってきたということは解階の門が公認する定員の枠も空いたわよね。妾も1年でも、いえ数ヶ月でいいから、生物階に行って人間を見てみたい。研究者が調査の為に生物階に行くのならお咎めもないわよね」
セルマーはメリーが家の中に入る事も忘れてはしゃいでいるので、事実を告げることを躊躇われた。
しかしこれ以上娘の期待を膨らませるのは残酷だ。
「残念だが、もうわしの後任の枠は決まっている。これはアルシエル様がお決めになったことだ、また機を待つのだ。待っている間に業績を作れば、少しは優先して次の枠に選ばれるかもしれない。まったく業績のない今のままでは機会は巡ってこないぞ」
「そんな……」
メリーは学者になれば調査のためといって、おおっぴらに生物階に入階できるものだと思っていたらしかった。
彼女はひどく落胆して俯いてしまった。
「残念だったな、だがまだいずれ機会はある。さあ、家に入って土産をあけよう。お前好みの服も買ってきたからな、香水もだ」
「ねえ、パパ……。人間を見た事もないのに妾は人類学者を名乗れる? 諦められないわ」
セルマーはなおもくいさがる娘の頭を二、三度撫でてやりながら、玄関のドアを開いて彼女を導きいれた。
リンドバーグは恭しくトランクと大きな帽子を持ってふたりのあとから追従しつつ、またお嬢様が突拍子もない事を考えなければいいと、いつものように気をもんでいたのだった。
”諦められない、絶対に……妾だってもう子供じゃないんだから”
メリーの父親譲りの真っ黒な瞳が、まるで闇の中に置き忘れた真珠のような光を宿していた。
*
光陰、矢の如しというか、月日の過ぎるのは早いもので、父親が生物階から戻ってより150年以上もの歳月が経過した。
メファイストフェレス親子はこの分野に飽きる事もなく人間達の行動を研究し続けてきた。
メリーが生物階に入階したことは、まだ一度もない。
彼女は諦めたわけではなかった。
生物階への入階が認められるとしたら、メリーより父親が優先されるだろう。
それは親子ともども同じ学問分野に興味をもってしまった事の代償だった。
何か他の分野に長けていたなら、これほどまでにチャンスが巡ってこないこともなかっただろう。
アルシエル=ジャンセンの任命する生物階の定員はいつも満員で少しの隙もないようだった。
これまでは数名分の空きがあるのが常だったのだが、このたびアルシエルが任命した勅使は学者ではなかったため、一気に6名分の定員を占領していた。
さらに不運なことに、任期が200年という長期にわたっている。
大人しく順番を待っていてもなかなか巡ってくるものではない。
既にいくつかの著名な論文を発表し、人間学者として父親と並ぶ名声を手に入れていたメリーは焦っていた。
人間学分野の父親が赴任していたため、人間学分野に対する調査の指令はしばらく出ないだろうと思われたからだ。
父親の往来した解階の門は、メリーには固く閉ざされていた。
彼女のフラストレーションは日に日に高まる。
メリーは口に出しては不満を述べないが、セルマーは心の中に不満を溜め込む娘を不憫に思えど、なすすべもない。
「メリー、わしが買ってやったドレスを見てくれたかね」
「え? ええ、パパ。気に入ったわ」
「次の舞踏会では、お前が主役だ」
「ありがとう。パパの期待に沿えればいいのだけど」
セルマーはこのところ、まだ結婚適齢期にさしかかったばかりの娘に、しきりに縁談や見合い写真を持ってきていた。
どの相手も選りすぐりの粒ぞろいだったのだが、メリーはあまり興味を示さない。
解階は進化のるつぼと喩えられるように、より強い子孫、より優れた知性を生み出すために結婚、出産は必然だった。
未婚や独身など社会的に許されはしない。
結婚をして子供を産むか、さもなければ社会的に抹殺されるかのどちらかだ。
行かずの娘を出す親は万死にも値するか、恥じ入って腹を切るしかなかった。
それほどまでに”すぐれた子孫を残すこと”、に対して貪欲な気風があった。
セルマーは早々に娘の婚約相手を決めてしまって、精神的にも社会的にもひと段落したかったし、恋愛をして美しくなろうとしたり相手に愛されようとすることで、娘にも心のゆとりや支えを取り戻してほしかった。
毎月のように盛大に催される舞踏会は良家の子息、子女が集う場所だ。
今度こそ、いい相手を見つけて欲しい。
メリーも、父が彼女の気を紛らせてくれようとしているのは痛いほどに感じていた。
メリーは恋愛より断然仕事、といった性格でもなかったのだが、一度でいいから生物階に行ってみたいという思いの方が、恋愛などよりずっと勝っていた。
生物階への思いは日に日に強まるばかりで、高級な料理に舌鼓をうっている時も、論文を書いている時も、父親と庭の手入れをしている時も、一日でも忘れたりどうでもよいと感じる日はなかったし、悪い病気に罹ってしまったのかと思うほど、彼女は生物階に執着してしまっていた。
生物階に恋をしている、そんな表現がぴったりだ。
父親の言葉を二、三言聞き流して、彼女は2階の奥の書斎に入ってデスクの上に突っ伏した。
唇を上等の生地の部屋着につけてしまって、口紅がついたわ、と慌てたが、今日は口紅すらつけていない。
身だしなみにも気を配れないほど、彼女はただ漫然と一日を過ごしていただけだった。
”このままではだめになってしまう。パパにも心配をかけているし……大体、そんなに固執することなのかしら。妾は本当に人間に興味があるの? 実は興味もないのに、パパの影響ではじめただけなのかもしれない。妾は人間を見たことがない、もう、人間が何なのかすら、わからなくなっている……百聞は一見にしかず、と思ったからだけど。叶わない事なら、いっそのこと願わない方がいいのかしら……”
メリーはいつになく憂鬱だった。
ベッドに寝転がって読みかけの本を取る。
『我は学んだ、哲学を、法学も医学も。おまけに神学も究めんとした。徹底的な努力によってだ。だが我は未だに哀れな愚か者だ。少しも利口になどなってはいなかった。思えば修士だの博士だのと称して、もう十年来も学生たちの相手をしてきた。挙句の果てに僅かながらに理解できたのは、われわれは何を知り得ないのだということだけだったのだ』
ファウスト、第一部の”夜”の冒頭である。
メリーはもう本を読まずとも諳んじることができた。
まさに彼女はファウスト博士が自らの代弁をしてくれている、そして彼の言う通りだと思った。
メリーは生物階、そして人間という不思議で愛らしい生物についての知識を、極めれば極めるほど、何も解らないのだと思うようになった。
メリーがこの数百年で知った事といえば、無知の知だけだったのかもしれない。
「時よ、止まれ。汝は美しい……」
物語の結末で、ファウスト博士が悪魔メファイストフェレスから魂を奪われる筈だった言葉を紡いでみた。
何の意味があってのことかわからない。
ただ口にだしてみたかっただけだ。
美しい黄昏が、老博士を包み込んだ。
メリーは物語の中での父がファウスト博士の魂を奪って、ここに連れてきてくれればよかったのに、とひとりごちた。
手段はないものか。
生物階の入り口は、一つしかないのか?
直接行かずとも、通信手段はないか。
……いや、そうではない。
アルシエルが神階との協定で、神階の門の設置と並行して生物階への入管の役割を果たす解階の門を設置したのは、それほど昔の話ではなかった。
少なくとも人類が誕生するまでにはそんなものはなく、生物階への出入りもかなり自由だった。
生物階へと繋がる私設のゲートは数多く建設され、それらは解階の門への統合の過程で封鎖されていった。
”まだ、解階のどこかに何千万年か前の使えるゲートがあるかもしれない”
アルシエルにより管理されている解階の門の警備は鉄壁だが、生物階に入階する解階の住民のチェックは行われていない。
どこかから一度生物階に入ってしまえば監視は行き届いていないのだから、絶対にアルシエルに発覚する事はないだろう。
問題は数千万年前の遺跡であるゲートが使い物になるかどうか、そこにかかっている。
あっても原型をとどめていないほどに壊れているか、奇跡的にあったとしてもそのまま機能するという可能性はない。
完全なるゲートを見つけ、更にそれを修理し、起動させなければならないことになる。
しかも彼女がゲートを起動して生物階に入るまでの間、誰の目にも触れてはならなかった。
彼女は良心が疼きながらも驚くほどの手早さで、古い文献からゲートの存在していた場所を突き止めた。
普段から文献を探すのが日課となっていたおかげだ。
首都には70の遺跡があり、郊外には31、母星アビスを出たところに2つの遺跡があった。
こんなに数多くの私設ゲートができていたのは、旧家の貴族たちがステータスシンボルとして作らせていたからだそうだ。
生物階への入階は、以前は人間たちのいう海外旅行のような感覚で頻繁に行われていた。
生物階の自然や動植物は解階のそれと比べて独特で、美しく魅力的だ。
貴族達はリゾート気分で出かけていって、好き放題の振る舞いをして略奪だってしたことだろう。
そしてその自由で奔放な振る舞い、神を恐れない様子から、彼等は生物階において悪魔として貶められることとなったという経緯がある。
新しい家柄であるメファイストフェレス家はメリーで二代目であり、当然のごとく私設ゲートなどもってはいなかった。
新しい家ではだめだ。
旧家で、取り潰しとなった貴族を探す。
今も現存する家柄ならば遺跡とはいえ敷地内のゲートを利用する事は不法侵入となり、それだけ侵入のリスクも増えて何度もは生物階を行き来できないだろう。
どちらかというと荒れ放題で、誰の目にもつかないような薄気味の悪い廃墟のようになってくれていれば一番ありがたい。
メリーはそんな条件に適合するような郊外の遺跡を3つに絞込み、最も条件のよいものに目星をつけた。
理性では止めようとしても、彼女のあふれ出しそうな感情はとっくに駆け出してしまっていた。
「パパ、ごめんなさい。妾は悪いことをしようとしているわ……いいえ。悪いことを、するの」
彼女は翌日、父には古い文献を取りに行くと偽って、目星をつけておいた遺跡に足を運んだ。マクシミニマで座標を確認しながら向かったので間違いはないのだが、いくら探してもそれらしきものはない。
座標指定した場所はもはや貴族の大邸宅があったなどとは思えないほど殺風景で、荒涼たる草原となっていた。
足元に転がる瓦礫が点在している。
ゲートはどこに……。メリーは寂寞とした風の吹く草原を見渡した。
この場所ならば、誰かに見つかる心配はないかもしれない。
肝心の、モノがあればだが。
メリーはつい、と強い風の吹きすさぶ空を見上げた。
この風はどこから吹いているのか?
解階には日照がないため地表と上空の温度差が殆ど起こらず、照明装置は熱を発しない。
したがって解階本来の自然は穏やかな環境だ。
風など殆ど吹かない。
首都では熱を発生させているため風が吹くが、照明装置のみのあるこんな郊外の草原では、自然な環境ではのっぺりとした空気の層が広がっているだけだろう。
レースを多用した黒いドレスを纏ったメリーは、黒い羽根帽子を飛ばされないようしっかりと押さえながら、風上へと歩いていった。
どれぐらい歩いただろう。
まるで鉱脈を探すように、メリーはただただ歩き続けた。
「記録に残っている遺跡の場所は、違っているのかもしれないわ」
ヘルズゲートを建設するためにアルシエルが命じて調査させた私設ゲートは、アルシエルの勅使による取り壊しを待つばかりだった。
ヘルズゲートは生物階への入階を厳しく制限するためのものだ。
今まで何度も往来をしていた貴族が、急に生物階への入階を制限をされて納得するものだろうか?
メリーならばお断りだ。
文献を調べて、取り潰しとなった大貴族がとりわけ生物階への入階を頻繁に繰り返していたということは解っていた。
生物階フリークの彼等は、ヘルズゲートに統合された後も、自由に生物階への入階をしたいとは望まなかっただろうか?
メリーはそんな可能性を思いついた。
だとしたら記録に残された場所の遺跡はダミーで、本当のゲートは今でも生物階へと繋ぐ風を発生させているのではないか?
それにしても一体何年前からだ?
少なくとも数千万年が経っている。
装置は何を動力として動き続けている?
メリーはマクシミニマでの飛翔が困難だとわかると、数時間も歩きに歩いて、草原の端の古い墳墓にやってきた。
風はどうやらこの墓の入り口に繋がる谷間の穴の中から吹いているようだ。
メリーは帽子を離さないよう握り締めると、マクシミニマの結界で暴風から身を守りながら、注意深く中に入っていった。
墓を荒らすつもりはないし、侵入するつもりだってない。
風はどこから吹いているのか、それを突き止めなければ帰れないような気がした。
奥に進むにつれ段々と明るくなってくる墳墓の中……いくつの分岐点を曲がっただろう。
墳墓内は石造りであったが、しっかりとして風化もしていなかった。
誰の墓なのだろう……解階では墓を建てるという習慣がない。
石室から一段と強くなった風がパンドラの箱を開けたように吹き出している。
メリーが巨大な石室に入ると、風はぴたりと止んだ。
メリーは思わず前につんのめって、がくっと膝をついた。
「何なの……ここ」
そこには青い照明に照らされた石の棺がひとつ、無造作に置いてあるだけだった。
メリーは石柩の前の台座に書かれた古代文字をたどるように指で追った。
こんな事もあろうかと、と思って学んだのではなかったが、古代文字を学んでいて役に立った。難しい文字を読み飛ばしながら読むと、どうやらここはアルシエル以前の解階の皇の王墓のようだ。
台座の最後には当時の皇の好んだ図柄なのか、見慣れない植物が描かれていた。
解階にはこんな花弁の大きな植物などなく似ているとしたら生物階の植物、ユリ科のヤマユリだ。
メリーは他に読める古代文字がないか、石室を見渡した。
よく見ると無数の生物階の植物のレリーフが彫刻されていた。
メリーは一つずつ図柄をあらためる。
何か法則性がないものか。天井にまでみっちりと彫り込まれたレリーフを、もうあと一つというところまで調べ上げた。
それらのレリーフが暗号であるとは断定できない、だが、かつての解階の皇の墳墓の中にゲートがあったとしたら、これほど取り壊しにくく、そして発見されにくいことはないだろう。
希望的な考えだが、何もしないで帰るよりは随分ましだ。
墳墓を維持するための仕掛け、その動力はアルシエルの配慮により電力供給されているようだった。
その電力を引いてゲートの動力として利用しているのだとしたら……。
メリーは最後のレリーフが、チューリップであることを確認した。
チューリップ……これは……ユリとは似ても似つかないような形だけど……
「チューリップは……ユリ科だわ。これらのレリーフの中で唯一!」
メリーは俄然嬉しくなってきて、そのレリーフを中に押し込んだ。
天井のど真ん中に刻印されたそれはすんなりと、壁が抜けてしまった。
狭い入り口に、細いウエストをねじりこむ。
天井の裏には、見渡す限りの巨大なゲートが潜んでいた――。
ゲートは朽ちたりほころびたりしている様子はなかった。
侵入者や盗掘者を遠ざける、草原一帯に吹き荒れるほどの風を生み出す装置を駆動させるため電力供給がなされていたお陰で、当時の旧家、サマエル家が皇の墳墓の中に脱法的に移転して隠したアウトプットゲート(生物階への入り口)は、あるじなき後も完全な機能を遺していた。
ゲートはシャボン玉の膜のようにその境界面は様々な色に偏光していて、駆動状態にある。
メリーは口紅を中に放りゲートの反対側を確認した。
「ない……」
リップスティックはいくら探しても、どこにも落ちていなかった。
このゲートは確かに生物階へと繋がっているようだ。
メリーはすぐに飛び込みたい気持ちにかられたが、慎重な彼女は飛び込んだ後の事にも思いを巡らせた。
帰って、これるのだろうか?
こちら側のゲートは駆動しているが、向こうからこちらへ戻るためのゲートはまだ動いているのか。
動いているとしたら電力供給が行われているだろう。
もともとあった電源は長い月日の間にさすがに尽きているだろうから、電力供給が行われているとしたら人間のしわざだ。
だとしたら何故、一度も人間がこちらに入ってこないのか?
メリーは足元を探したが、人間の足跡や死体、遺留品などはなかった。
ゲートで向こう側に行ってしまえば、一方通行で解階に帰って来れないのではないか?
そんな気がしたのだった。
どうしても帰るには公的なヘルズゲートを使わなくてはならない。
ヘルズゲートを使えば事は明るみに出る。
そうなればいくら名家といえど、お家取り潰しになってしまうだろう。
メリーは、ここは飛び込みたい気持ちをぐっと我慢して、生物階側の(おそらくバッテリー切れを起こしている)ゲートを充電するための電源と工具を取りに戻るべきだと考えた。
生物階で調達できればいいのだが……生物階では西暦1940年、電気はある。
だが、電気を手に入れる為の貨幣の持ち合わせがない。
メリーはふと、彼女の首にかかった宝石のネックレスの存在を思い出した。
これはセルマーが生物階から土産に買ってきてくれたかなり高価なもので、これを金にすれば電気を買うくらいの事はできるだろう。
父親には悪いが、これを使わせてもらうことにしよう。
そうと決まればここには用はない。
まだ見ぬ人間世界をこの目で見るのだ!
メリーは長いドレスの裾を両手でたくり上げると、物理学的境界、光すらも捕捉する巨大な穴の向こう、私設ゲートをくぐって生物階へと入っていった。
メリーの身体は一度分子レベルにまで分解されてトンネル効果で空間を抜けると、ゲートにより分子転送され、生物階で分子再構成されてもとの姿に戻った。
分子崩壊―再編成の形式をとる解階の門は、生体分子の転移がうまくいかなければ死んでしまうこともある。
その点では神階のゲートは形而光学的転移といって、分子崩壊を起こさない転移形式をとっていてより安全だ。
メリーは首をかしげたり、腕を鳴らしてみたり、駆け足をして、どうやら異常がないことを確かめた。
足踏みをするとコツーン、コツーンと音が反響して響いた。
”思ったより、あっけなかったわ”
メリーは周囲を見渡した。
真っ暗闇だ。
しかも音の反響からして、どこかの洞窟か地下道のような場所だ。
ここは、どこなのかしら。サマエルという悪魔が登場するのは、確かイスラエルの方だったから、その伝承を信じるとすればサマエル家の貴族はイスラエルの辺りにゲートを設置していたということになるが、そうばかりともいえない。
たまたまイスラエルで姿を見せただけなのかもしれないし……。
メリーは彼女の愛用するマクシミニマを取り出した。
こいつも、壊れていなければいいのだけど……。
これは一流のメーカーに作らせた特注の品なので、そう簡単に壊れてもらっては困る。
父親もこれの類似装置を持って生物階へと入階していたから、大丈夫だとは思うけど。
「位置座標を特定しなさい。地球の経度、緯度で計算して」
生物階では解階のように通信衛星のない時代だが、マクシミニマの演算髑髏は生物階でもきちんと起動した。ほっとして胸をなでおろす。
"ここは、東経34度、北緯32度です"
「やっぱり、イスラエルだったわ。マクシミニマ、対応するインプットゲート(解階への入り口)はこの付近にあるのかしら?」
”対応するインプットゲートはこの付近にはありません”
マクシミニマの答えには落胆したが、正確なナビゲートに勇気付けられた。
アウトプットゲート(生物階への入り口)と、インプットゲート(解階への入り口)は、転移先に作られる事が多い。
つまり今回の場合は、生物階に出たこの場所、普通はここにゲートが設置されている筈だ。
だが、セキュリティーを万全にするためアウトプットとインプットをずらす貴族も稀に居て、サマエル家はどうやらそのタイプのようだった。
とりあえず、外に出なければ話にならない。
何日も外出をするとは言わなかったので、今日のところはインプットゲートの所在を突き止めてから、一旦家に帰らなくてはならない。
そして父親に長期の旅行に行ってくると言って、もう一度ここに来る。
今日は下見ができればそれでよい。
メリーは通路のような場所を歩き続けた。
解階の住民である彼女は暗闇には目が慣れていて、足をとられることはない。
だが光を渇望せずにはいられない。
この陰鬱な場所から外に繋がる、そして人間世界への扉を開いてくれるその光を。
インプットゲートの所在は半径5000km圏内に近づけばわかる。
何時間も飛び回れば必ず見つかるだろう。
マクシミニマのバッテリーは満タンにしてきたから、飛んでいる間に力尽きる事もないだろうし。
それほど歩かなくとも、天井からはいくつもの光が筋となって差してくる場所はあった。
まだ見ぬイスラム社会のバザールのテントの下を歩いているような気分だった。
上をよく見ると何やら小さな出口が見える。
メリーはひょいっと飛んでハッチをあらためた。
ハッチの裏側には、インプットゲートの正解な位置情報が古代文字で記載されていた。
探す手間が省けたというものだ。
それによるとインプットゲートの場所はどうやらネパールにあるようだ。
ハッチを開けて出た所は、古びた倉庫だった。
倉庫の外に出ると、彼女の待ち望んだ人間社会が広がっていた。
イスラエルにはパレスチナ人がイスラムの、独特の風景を作り出していた。
メリーは彼女が女性だったことに気付き、すぐに持っていた黒いストールで顔を覆って目だけ出して、イスラム社会に順応する。
エキゾチックな顔立ちのメリーは、イスラム女性の中でもそれほど目立ちはしなかった。
初めて目にした市場の人間達のせわしく行きかう様子、声を張り上げる様子、物乞いの少年、親とはぐれて泣く少女。
香辛料の香り、水煙草を飲む老人。
決して豊かな国ではなかったが、メリーには魅力的だった。
アラビア語は勉強していなかったので、何を話しているのかわからない。
メリーが勉強した言葉は英語やフランス語、ドイツ語などの欧米の言葉だ。
ここで話しかける事はできなかった。
インプットゲートの場所を世界中を飛び回って探さなくともよくなったが、慎重なメリーは先にゲートの状態を確かめたくなって、人目のつかない場所にまで行くと、マクシミニマを持ち飛び立った。
メリーは途中のとあるイギリス植民地で身に着けていた指輪を売って金を獲ると、ネパールまでの国々をマクシミニマで飛ぶ間に、新聞をいくつか購入し、世界地図も入手した。
家に帰って翻訳して、現在の世界情勢を知るためにだ。
どうやら生物階では第二次世界大戦というものが勃発していて、随分と長い間戦争が起こっているということがわかった。
平和な国を訪問するか、それとも激戦区に行ってみるか。
どの国を何日の日程で訪問するのかも、綿密に計画をたてたかった。
家に帰ってじっくり考えたいところだ。
まずは家に帰るためにインプットゲートを探さなければならない。
メリーが心配しなくとも、ネパールにあるゲートは壊れてなどいなかった。
名家、サマエル家の私設ゲートはさすがに当時の技術の粋を集めて作らせたもので、ソーラー発電モードと電力セーブモードがフル装備されていた。
人を寄せ付けない天然の立地条件と乾いた気候がゲートの腐食を妨げ、見通しのよい風吹く断崖絶壁の丘に設置されたゲートは太陽の光を燦燦と浴びて、バッテリーセーブを示す青い明滅を繰り返していた。
メリーはほっとして、その日の大冒険を終えた。
*
メリーがヨーロッパの様々な人々に触れながら、生物階への入階を繰り返して暫くが経った。
彼女はナチスドイツの台頭と虐げられるユダヤ人の姿に、とりわけ興味を引かれた。
ゲットーや強制収容所に送られるユダヤ人の子供達の列を見送れど、どうすることもできない。
人々を助けようと思っても、解階の住民であるメリーには彼らを養うことはできないし、ひたすらに無力だった。
たまたま生物階に来ることのできた時代が平和な時代ではなかったことを残念に思ったが、それでも、メリーはできるだけの事をしようと考えた。
金を解階から持ってきて生物階で貨幣交換する、この方法でだ。
解階では、金は石ころほどの価値しかなく、またそこいらに転がっているものだったから、金を大量に持ってくればかなりの額にはなるだろう。
その莫大な資本で工場や事業主を買収し、ユダヤ人を雇う。
市場での金の価値を下げるほどに金を持ち込まなければ、目立つようなことはないだろう。
なんのことはない、この発想はナチス党員でありながらその莫大な資本で千人以上のユダヤ人を救ったオスカー=シンドラーに影響をうけたものだが、それでも資本力でいうならシンドラーよりメリーの方が勝っている。
彼女は終わりなき戦争の犠牲者たちのために、少しでも何か救いの手を差し伸べたいと思った。
アジアで台頭する軍国主義国家である日本と、植民地化された人々も気になった。
だが、困った事にメリーは日本語をはじめとする、極東アジアの言葉を学んでいなかったので、それは困難だった。
それに、エスニックな顔立ちをしているメリーでは、アジア人社会に警戒されると思ったのだ。
残念だが、できる事をするしかない。
メリーは数回に分けて金を解階から持ち込み、ドイツの貨幣へと交換して財力を蓄えていった。
生物階に入階した回数が20回を超える頃には、買収する先の企業も見つかった。
あとは買収した企業主にナチスと交渉させて、ユダヤ人を大量に雇えばいい、手はずは整ってきた。
*
その頃、第二次世界大戦の戦局に介入するため生物階降下中だった軍神、ユージーン=マズローは法務局から勅旨を奉じた使者より、ある指令を受け取った。
法務局局長 サドール=レクタムの法務局印、 陽階極陽、主神、ヴィブレ=スミスの御璽、そして解階の皇 アルシエル=ジャンセンの印もある、二階間で取り決められた条項に違反した公的な指令だ。
”違法に生物階に入階を繰り返す魔女、メファイストフェレスIIを神階−解階 不可侵条約 第12条により抹殺せられたし”
武型神であるユージーンはこういった汚れ仕事をよく依頼される。
軍神はどちらにしても手を汚すので、ついでに始末してくれといったものだろう。
ユージーンだって好き好んで軍神になった訳ではなかったから、嬉々として殺しをするような性格ではなく、命を奪う事は躊躇する。
”魔女とて生きる権利はあろうに、警告もなしに抹殺とは……”
彼女を殺害すべき場所も指定されていた。
彼女はヘルズゲートではなく違法な私設ゲートを使うそうだ。
陽階の偵察衛星によってインプットゲートの詳細な場所も特定されていて、待ち伏せをしていて抹殺しろというのだ。
法務局の命令に逆らう事は出来ない。
ユージーンは仕方なくネパールに向かった。
*
メリーはその日、彼女の企てが思うような軌道に乗り始めている事に対して嬉しくて、いつになく気分がよかった。
今日も一仕事終えて、夕方になる頃にはマクシミニマで時折飛行機とすれ違いながらネパールの山頂を目指す。
生物階への入階は3日に1回の割合になってきた。
父親にも気付かれていないし、全てが順調に思えた。
ネパールの秘境にあるいつもの山頂、人も動物も寄り付かないゲートがある場所に、彼女は鼻歌を歌いながら降り立った。
するとどこからともなく、岩陰から黒いスーツを着た金髪の男がビリヤードのキューのようなものを持って現われた。
メリーは特にそれが誰だと思わずに、登山用の杖を持った欧米系の探検家だろうとぐらいに思った。
登山家にしてはスーツを着ているのが妙だが。
メリーは何も言わず、彼と一定の距離をとって対峙した。
「ごきげんよう。登山家かしら? スーツを着てご苦労さんね」
メリーは微笑みかけたが、彼は悲しそうな顔をしただけだった。
登ったはいいが下りられなくなって、心細くなっているのだろうか。
メリーは手助けするつもりで、男に語りかけた。
「ふもとまで、下ろしてあげましょうか?」
男は僅か数メートルの距離にまで近づいてきて、なにやら数枚の書類を掲げて見せ付けた。
「その必要はない。メファイストフェレス=メリー、お前を神階−解階 不可侵条約 第12条違反により、委任執行官である陽階神第73位、ユージーン=マズローが処刑する。量刑は死刑だ、いかなる恩赦もない」
「か……神……?」
「抵抗しなければ楽に殺してやる。だが抵抗すれば、苦しむ事になるぞ」
彼は冷徹にそう断罪した。
彼の提示した勅旨には、アルシエルの名も入っていた。
神階と解階の条項に違反するとはそういうことだ。
アルシエル=ジャンセンも味方をしてはくれないし、憐憫の情を向けてくれる事もない。
罪の意識を忘れ、いささか調子に乗りすぎた。
彼女は生涯で初めて神と対面して、恐ろしさのあまりメリーがあとずさった時には、ユージーンという神はG-CAM(Grasp the Context by Analytical Microcosm)という攻撃的神具を戦闘モードで起動していた。
見たこともない凶暴なエネルギーが、彼を中心に収束している。
ゲートまでの距離はあと20メートル。
死が、神の姿を借りて唐突に降り注いできた。