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Anecdote 2  Night traveler 2

 二岐は数回ノックし古い執務室の扉を開ける。


 中には70年ぶりに見る陰階枢軸神 荻号がだらしなくソファーに腰掛け、あの時とまったく同じいでたちで手製の煙草をよっていた。

 今日もまた、仕事をサボってぐうたら過ごしている彼を見て二岐はひどく落胆する。

 徹夜で作成し提出した報告書も、目を通してくれてはいない。

 二岐の目じりが上がるのを見て、荻号は体裁が悪いらしく、ひゅっと肩をすぼめた。

 天下に名を轟かせる荻号が第一使徒の二岐に怯えているのかと思えば、何とも滑稽だった。

 カカア天下というか、なんと言うか。


「70年前に主と接見を約束した、陰階第16位薬神 比企 寛三郎様がお見えですよ」

「さて、誰だったかな……」

「もう。3年もお手紙を下さっていたのに薄情者! アカデミーを卒業し、第一種公務員試験に合格し、位神として準中枢に即位されたのですよ!」


 荻号は二岐の小言を馬耳東風といった様子で聞き流し、人間が吸えば即死するほどの猛毒を含んだ麻薬をたっぷりと詰め込んだ煙草を紙に巻きながら、本当に誰だったか忘れたというように怪訝な顔で若き青年神を見上げた。


 しかし比企は見逃さなかった。

 荻号が煙草を巻いている横で開いている分厚い本の挿絵には、先ほどまで比企がいた迷路が緻密に描かれており、塀の中には比企の探り当てた扉とも見える部分も描かれている。

 そしてその隣のページには、果て無き暗い通路の挿絵もあった。

 にわかには信じ難い現実がそこにあった。


 比企はたった今の今まで、本の中に閉じ込められて荻号に観察されていた。

 その正体も能力の片鱗も知れない、敵とするにはこれほど恐るべき相手はいない。

 だがそれでこそ師と仰ぐに相応しい。

 比企は70年ぶりの再会に感無量だ。


「アカデミーを卒業したあかつきには、雑談をしていただくというお約束を」

「ああ。そうだっけかな」


 すっとぼけた顔をしてまた煙草を巻いているが、彼は比企を忘れてなどいない。

 比企は荻号に着座を勧められ、ようやく彼と対面して座する事を許された。

 全てはこれから始まるのだ。

 比企は独特な色彩を持つ荻号の瞳を凝視しながらそう思った。


「さて、何の話をしようか」


 荻号は二岐にティーセットを持ってくるよう命じると、頬杖をついて比企をじっくりと観察しながら、いたずらっぽくそう言った。

 荻号は既に、比企から立ち上る闘気ともいえるアトモスフィアを感じ取っていた。

 会話をなど二の次だということは、互いに察知している。

 比企は荻号に促されて、彼と拳を交えてみたいのだと正直に白状をした。


「失礼でなければ、手合わせをさせていただきたい。己の実力とあなたの実力がどれほどかけ離れているのか、自認しておきたいのです」

「構わんよ。紅茶がぬるくならないまでの間でよければ、相手になろう」


 荻号はそう言うなり神具も使わず指先で空間を操り、荻号の執務室から基空間内に二者を転移させた。

 真空中のアーカイブから比企は神具、G-CAM(分析的宇宙依拠現象把握機構)を抜いた。

 一万年前にG-CAMを創りだした荻号は、まるで息子を見るように懐かしく神具を持つ比企を見つめた。


「その神具は俺が昔、作ったものなのだがね。何故薬神が攻撃的神具を使う? 薬神に相応しい神具はたくさんあっただろう。それは攻撃性能を付加しすぎて防御能力が全くないものだ。無鉄砲もいいが、慎重ではないな」


 荻号はそう言ったが、3代ぶりに陽の目を見た彼の創作物が達者に起動している様子を見て、どこか満足そうだった。

 比企は現存する神具の中から敢えて荻号の創りだしたG-CAMを選んで所有していた。

 対話を通じ、あるいは拳を通じて荻号から学ぶべき事は尽きないだろう。

 彼は比企の問いかけに答えてくれ、比企の拳に倒れはしない。

 無限の可能性を持っていた原始の神々を髣髴とさせる彼に師事をし、十分に力を備えて、いつか彼と共にINVISIBLEを打ち滅ぼす。

 その長き道のりはたった今、始まったばかりだ。


 比企は真空中でG‐CAMを斜に構え、荻号に向けた。

 おろしたての白いジャケットの袖をたくりあげる。

 G-CAMは特殊な神具で、もともと60kgもあるのだが、起動した際には数十倍の重さにもなる。

 比企には無視できる程度の重量だが、やはり重力の影響を受け重さが乗算されると不利だ。

 荻号に真空中に転移してもらったことにより神具の重さは勝負に関係がなくなった、どちらかというと有利に働く。


 リミッターを外し予め入力していたプログラムを選び、思う存分に攻撃力を上げて最大出力で臨む。

 音声コマンドは真空中により封じられているため、比企はG-CAMの基盤を指先で操り、プログラムナンバーを入力する。


"Grasp the context by analytical microcosm (G-CAM).Protocol Start. "

(G-CAM、プロトコルスタート)


 比企は音声コマンドを諳んじて思い出しながら、手動プログラムを選択する。

 青い基盤がはじめは蛍の光のように明滅し、次第に脈打つように頼もしく激しく応答し、赤い信号が基盤のラインに交わる。

 プログラムアクセプト後のコマンド待機信号を意味する明滅だ。

 比企は手早く展開しながら、荻号を見逃さなかった。


 荻号は比企が仕掛けるまで、仕掛けてくる様子はない。

 待ちくたびれた、といったように欠伸をしている。

 攻撃的神具の起動を前にだらけきった緊張感のない顔が癪に障るが、荻号を本気にさせるとしたら、初日にではない。

 比企が何をしているのか、神具の作者である荻号には筒抜けだ。


 それでも敢えて真っ向勝負に出たのは、荻号に攻撃を避けてほしくないからだ。

 こちらの手の内を明かし逃げ道を塞ぐ。荻号は欠伸をしながらも悟っているだろう、この攻撃を受け止めるには、どのような動作をすべきかということを。


"System consol open , program No,8395. Access."

(システムコンソール、オープン。プログラムNo, 8395にアクセス)


 G-CAMは地味な神具だが真空中でこそ真価を発揮する。

 比企は心得ていた。

 比企がこの神具を手にした理由はただ一つといってもいい、真空中での戦いにとりわけ有利に設計されているからだ。

 大多数の位神たちのように手当たり次第に神具を触ってみてアトモスフィアの適合がよく職種にも関係する神具を安易に選んだわけではない。

 彼等とは気概が違う。


 宇宙空間に漂うであろうINVISIBLEとの戦いにまで持ってゆける神具を選んだ。

 アトモスフィアの適合が悪く手に馴染まなかったが、負傷しながらでもこれを選んだのには計算され尽くした理由があった。

 浮ついた気持ちで荻号の弟子を気取るためではない。

 相手にとって不足はなし。

 場所を気にする必要もない。

 比企は生まれてはじめて、手合わせにおいて手加減なしで対峙しようと決めた。

 荻号は薄墨色の聖衣の下の相転星に手を掛ける事もなく起動することもなく、大欠伸をした後は軽く腕組みをして比企の出方を見ている。


 比企は荻号がG-CAMをのみ見つめて注意を払っている事に気付いた。

 ここまで起動をしたのだから、完全に起動しきって第一撃を仕掛けてくる事を想定している。

 比企は荻号の視線を見て、先ほどまでの作戦であった真っ向勝負を挑むことを撤回した。

 臨機応変に対応する、隙があるのなら裏をかくこともまた戦術の一つだ。


 比企は荻号の背後に瞬間移動をかけて回りこみ、起動しかけていた神具を武器に転じて肩甲骨の下に槍として穿ちこんだ。

 真空中ではフィジカルギャップをうまく形成できない。

 攻撃は荻号に届く筈だ。

 だが荻号の神体がG-CAMに貫かれ苦悶の表情を浮かべる。

 鳩尾から大量の出血をし、もんどりうって崩れる……。

 そんなまさか! 嘘だろう!? 比企は目を見張った。

 こんなに簡単に、一撃で荻号を貫く事が出来るだなんて! 

 ……助け起こそうと思わず彼の肩に手をかけると、比企と荻号の神体が丁度前後に重なった。


 その瞬間比企の鳩尾に衝撃が走り、G-CAMに貫かれたままの荻号の真後ろに覆いかぶさるようにして、同じように荻号の背にうつ伏せに崩れた。

 荻号は負傷したと見せかけて比企をおびきよせ、自らの神体ごとG-CAMで背後に来た比企を貫いたのだ。

 串刺しになった二柱のうち、前にいた荻号はするりとG-CAMから自らの神体を抜き、比企を串刺しにしたまま鳩尾と背中から出た前後のG-CAMを両手で握り、動きを封じた。

 霞がかる視界で荻号を睨むと、先ほどまであった傷口もなく、出血も嘘のように止まっている。


「姑息な手を使うときは、気を付けることだ」


 比企は自らの神具に串刺しにされたまま、この状態からどう起死回生を図るか必死に考えていた。

 しかし真空中での出血により急速に体液の蒸発が起こり、0気圧下で体温は低下してゆく一方だ。

 比企はしだいに力を失う。

 荻号は憐れみをこめた眼差しをむけ、比企を串刺しにしたまま試合を打ち切り執務室に連れ帰った。


 比企をソファーに横たえ、慎重にG-CAMを抜く。

 途端にせき止められていた血液があふれ出し、神具が起動した際に発する熱に、傷口が内側から焼かれていった。

 ティーセットを持って入ってきた二岐が、たった数分の間に執務室の中で起こった大惨事に、身をこわばらせている。


「ぐ……うっ!」


 まともに負傷や苦痛を経験したことのない比企は、内側から神具で焼かれる痛みに耐えられず声を上げた。

 荻号は麻薬を比企に噛ませて鎮痛しながら、指先でなぞるだけで傷をいやしてゆく。

 不衛生な環境だが、神は感染症にかからない。


「どうして少し目を離した隙に、大怪我をさせるの!」


 二岐に怒鳴られて肩をすくめながらも、荻号はてきぱきと手当てをしてゆく。荻号は普段なら二岐にぶん殴られていたところだが、手元が狂うといけないので手は出ていない。卑怯な手段を使って荻号を出し抜こうとして返り討ちにあった比企は、何も言えずただ黙っているほかなかった。手の出せない二岐は荻号を怒鳴りつけているが、この結果を招いたのは比企だ。


「己が悪かったのです、荻号様を咎めないでください」


 比企はなおも説教をしようとする二岐から荻号を庇う。

 薬神である比企は傷薬を持ってきていたので、荻号の手当てが済んだ後、自ら処置をした。比企は説教の止まらない二岐に、外してくれと頼んだ。


 位神が位申戦以外で戦闘を行う事はご法度だったし、位神に怪我をさせてはならないという法律が条文化されているが法度破りをもちかけたのは比企だ。

 彼が楽しみにしていた荻号の分のティーセットは罰として引っ込められてしまって、そんな二岐を名残惜しそうに見送りながら、荻号は悲しそうに煙草を巻き始めた。

 よほど切ないのか、何度もため息をつく。


「申し訳ありませんでした、そして処置をありがとうございます」


 見かねた比企は荻号に自分のティーセットを譲ると、深く謝罪した。

 荻号は比企に譲ってもらって嬉しそうに紅茶に砂糖を加えた。

 比企にとってはたかが紅茶だと思うのに、それが飲めるか飲めないかに一喜一憂する。

 どうやら先ほどの比企の無礼は気にしてはいない様子だ。


「ん? 何が?」

「姑息な手段を使ってしまいました」

「……別にいいさ、正面からは闘わない。それでこそ陰階神だ。正々堂々と闘えと言いたいのではない。お前が何故ここにきたか忘れたか?」

「最終的には、INVISIBLEに抗すべくお教えを乞いたいと」


 忘れてはいないつもりだった。

 だが忘れていると思われても仕方のないようなひどい戦術だった。

 やり直せるものならやり直したい、彼は比企を軽蔑したことだろう。

 荻号の戦闘は位申戦の録画を見て数えるほどしか見たことがないが、決して自ら仕掛けようとはせず相手の好きなように攻撃をさせる。

 対戦相手の自滅を導き、何故その戦法がまずかったのかを彼等自身に気付かせるという、教育的な戦闘を目にしてきた。

 戦術の脆弱性は、何倍にもなって相手にはねかえってくる。

 同じ轍を踏んでしまった思いだ。


「今のような闘い方がINVISIBLEに通用するか? 殴ったり、斬ったり、貫いたり出し抜いたり、そんな事でINVISIBLEを滅ぼせると思うか? 目先の勝利に囚われて大局を見失った。次は俺をINVISIBLEだと思って、どう闘えば滅せるのか……小手先の手を出す前に、よく考えろ」


 確かにその通りだ。

 比企は荻号に一撃を与えることにこだわりすぎて、彼の本質や理念を理解しようとしなかった事に恥じ入った。


「あなたが被った負傷はどうしたのですか? 手ごたえは確かにありました、お怪我はどうされました」

「この部屋に来る前に、認識を疑うという事を学ばなかったのかね。理解ができなかったのならもう少し学んでもらおう。今日はたったの2ページだったからな、明日は10ページほど用意しておくか」


 荻号は好物の紅茶を飲むと、膝の上に先ほどの迷宮の挿絵の入った分厚い本を載せ、ほうっとため息をついた。

 味に満足しているのか、比企をからかっているのかはわからない。

 また次に比企が来訪する際に、あのうんざりするほど億劫で嫌がらせじみたダンジョンを挿絵10ページ分用意しておくといっているのだろう。


 比企は最初ぐらい、真っ向から挑むべきだったなと後悔した。

 自分のしたことは、相手からかえってくるものだ。

 今日はそれを身を持って学ばされた。


「あの一瞬の間に、己に幻覚を?」

「幻覚ではないさ、俺は確かにG-CAMにぶち抜かれたし、俺がそう仕向けた」


 比企ははっとして荻号を見ると、荻号は煙草を巻きながら紅茶を飲んでいた。

 いや、煙草を巻く荻号と、紅茶を飲む荻号の二柱が同じソファーに腰掛けている。

 何だ、これは……分身なのか? 比企は目を擦ったり頬を軽く叩いてみたが、幻覚ではない。


「こういうことだ」

「こういうことだ」


 二柱の荻号はそれぞれ異なる動作をしながら、比企の混乱を見て満足そうに微笑むと、口調をあわせた。

 比企はもはや彼がただの神だとは思えなかった、いかに時間と空間を操る最強神とはいっても、さりげなく下らない、しかし誰にも真似の出来ない芸当だ……次元が違いすぎる。

 比企が返すべき言葉を失っているので、荻号は一柱に戻って足を組んだ。

 聖衣のパンツが擦り切れてほつれ、膝が出ている。

 なんともだらしのない格好だが、超神的なスキルの持ち主だ。


「今のは分身ですか?」

「分身とはまた稚拙な発想だな。んなわけあるか、お前は認識に囚われすぎだ。共存在さ。俺が存在する確率をダブルにしていた。お前達位神はどうも鍛えれば鍛えただけ強く賢明になれると思っているようだが、大間違いだ。何もしなくても、誰より強くなれる。ルールを理解せずにチェスができないように、お前達はルールを知らないのさ……積み上げてきた思考回路を破壊し、世界のシステムを理解しろ」


 比企は荻号が100年間の修練による自己や固執してきた戦法を一度白紙に戻させるために、最初から荻号に師事させなかったのだと理解した。

 彼は100年間の間に比企を認識という鎖で縛り、その鎖を比企自身に断ち切らせるために100年間を強いたのではないか。

 荻号の言葉は単純で、しかし難解だ。

 彼は世界の根源に関わる力を手にしている。荻号はこのような言葉を、他神には授けなかっただろう。

 会議の予定がおしてきたので、荻号は比企との接見を打ち切った。

 比企は呆然として、ソファーから立ち上がれなかった。

 彼は比企を残し、執務室を出て行った。


「存在を疑え……果たしてそれは、在るのか、と」


 最後にこんな言葉を遺して。



 その日以来荻号といつでも接見してよいという約束をとりつけ、薬神として執務する傍ら毎日のように荻号の部屋に通うようになっていた。

 薬神は新規薬剤を開発し、神階や生物階の医療に役立てたり、新規化合物の合成や毒薬も開発する。

 比企は理論だけで合成経路を考案するので、手を動かして実験をすることはない。


 パソコンで薬剤モデリングを行い、合成経路を料理のレシピのように簡潔に化学合成スキームにして使徒に渡す。

 これで比企の仕事は終わりだ。

 あとは優れた技術者である彼の使徒たちが薬物の合成、精製を行い使徒階で飼育している実験動物に投与試験を行う。

 安全性が認められれば厚生局に認可を求め、認可がおりると新薬として使徒階の工場で生産体制に入り各界のニーズにこたえる。


 首尾一貫して、鍛え上げた武系能力を発揮する場面はないのだ。

 だからこそ比企は、アカデミー卒業前、薬神が崩御した時から、自らが薬神となる事を見越して必要な論文を読んで知識を修めていたので、しばらくは文献研究に追われる必要もなく毎日のように荻号のもとに通う事ができた。


 比企の将来設計は計算され尽くしていた。

 荻号のもとで100年ほどの修練を積んで皆伝したら200歳代で極位に挑む。

 極陰として即位した後は、陰階神の能力向上を義務化する。

 荻号のように日がな一日働かずぐうたらと過ごす神はクビだとの勅令を出す。


 長きにわたり彼と同等の格を持つ神が現れなかった事によりいじけてしまったというか、腑抜けてしまった荻号の闘争本能を取り戻させ、長き眠りから目覚めた最強神に影響された陰階神たちに緊張感と危機感をもたらすのだ。

 陰階の更なる改革に刺激を受けるであろう陽階にも改革の余震を……、というのが比企の目論みだった。

 したがってまずは比企自身が荻号を超える、とまではいかなくてもよいが、荻号に自らを力づくでも弟子として認めさせ、皆伝をもぎとることが不可欠だった。


 しかし先日の荻号との接見で、比企は安易な将来設計の実行が不可能だという事を知った。

 荻号から皆伝をもらえるまでには、どれほどの時間を要するだろう? 

 生涯かかっても、皆伝などもらえないかもしれない。

 荻号はだらけたりぐうたらしていたわけではないのだ。


 物質的に神体を鍛えるより、思考を鍛える方が何倍も価値あることだと気付いていたのだろう。

 それに気付かず陽階神たちは毎年行われる荻号の支持率調査を、あてつけかと思うほどのひどい支持率にしてくる。

 能力低下が指摘される陽階神たちはひたすら警戒するばかりで、荻号という神の本質に気付く様子もない。


 比企はまた今日も荻号に会うために課せられた試練である迷宮を彷徨いながら、そんな事を思っていた。

 荻号の作り出す不思議なダンジョンは日に日に追加されて、いっそう複雑化して難易度も上がってくる。

 比企はクリアして二岐の秘書室にたどり着くまでに1時間以上を費やしていた。

 まだ荻号のもとを訪れはじめて10日目にもならないが、既に30ページ、40を超えるダンジョンが追加されている、とにかく億劫だ。

 比企はようやく秘書室にたどり着き、扉の奥がどうなっているかを知らない二岐に愛想よく挨拶をすると、執務室のドアを蹴るようにして開けた。


「一体どれだけ追加すれば気が済むのですか?! 辿り着くのに時間を費やして、接見の時間が短くなります! 自重してください」


 これでは日に日に接見時間が短くなってゆくばかりだ。認識にとらわれてはいけないということは、身を持って知った。

 だからいい加減にしてほしい、これ以上の試練から、一体何を学べばよいというのか。


「やれやれ。まだ気付かないんだな。俺があのダンジョンをクリアするとしたら一瞬だ。追跡転移は使わないのか? 心得はあるのだろう?」


 荻号は迷宮の挿絵のある本から、皮のしおりを二つ抜き取っていた。

 しおりとしおりの間隔は、今日は30ページ分だったはずだ。

 荻号の持つ迷宮の本はまだ10cm以上の厚みが残っていて、背表紙には1巻と書いてある。

 ソファーに座った荻号の背後の本棚を見ると、同じ表紙を持つ本が20冊も並んでいるのだ。

 荻号は読書家で有名だが、読書をしながら何をしているかわかったものではない。


「確かに追跡転移はできますが、迷宮は亜空間にあります! できるわけないでしょう」

「空間を超えられないと誰が決めたんだね。誰がそう言った? 俺にとってはどこに転移するも同じだが」

「超空間、追跡転移……」

「むやみやたらに名前を付けるのは、陳腐化するので好きではないのだがね。気配があればどこにでも追いつけるものだよ」


 気配があればどこでも? 言われるまで考えてみたこともなかった。

 迷宮をショートカットする方法を一度でも考えてみなかった自分がいけなかった。

 比企はこの時より迷宮には踏み込まず、荻号の気配のみを追うと決めた。



 比企が荻号のもとに通い始めてから、半世紀ほどが経過していた。

 彼は薬神としての執務の合間に、薬神の執務室から直接超空間追跡転移で荻号の書斎へとやってきて荻号と雑談をし、読書をして、武術の指導を乞うのだった。

 比企は荻号自身が100年以上前に口にした、”自分に近づくと命を落とす”という言葉を実証するかのように、回数でいえば数え切れないほど荻号に殺されかけた。


 だが荻号はいつも最高の腕をもって比企を癒す。

 比企はどれだけ傷つけられても荻号を慕っていたし、荻号もそんな彼の打たれ強さに感心したのか、ようやく彼を弟子として認めたようだった。

 認めたなどとは一言も言わないのだが、他神に”荻号の弟子が”云々と言われても否定しなくなった。

 たったそれだけだが、これまで一柱として弟子を取ろうとはしなかった荻号の心を動かした、大事件だと二岐は思っていた。


 比企が毎日のように彼の書斎に押しかけるようになってから、荻号が暇を持て余す事はほとんどなくなった。

 二岐は相変わらず彼女の主の心のうちを知る事はできなかったが、以前よりだいぶましになったと思う。

 荻号が長い時間を無為に費やし何も成し遂げるつもりがないのなら、せめて優れた後継者を残すべきだった。

 遂にその気になってくれたかと思うと、二岐は嬉しかった。


「もう十分足りているだろう。どけ、重いから」

「ん……。もっと。足りないの」


 二岐は荻号に甘えるように抱きついてアトモスフィアをねだる。

 その日、比企は珍しく部屋に来なかった。

 比企が来ないので憚ることなく久々に彼女の主たる荻号を独占し彼の胸に顔をうずめた。

 アトモスフィアを受けるには荻号に触れるだけでよいのだが、敢えて抱きついて心ゆくまで貪る。


 不毛だと判っていても、二岐は荻号という主に惚れてしまっていた。

 そのことに罪悪感を感じているものだから、つい普段は冷たくあたってしまう。

 本心はそうではないのだと、いつも擁いている思慕の情をこういう時ぐらい彼には分かって欲しくて、思う存分甘えるようにしていた。


 彼は二岐の心を分かっているだろう、だがどれだけ至近距離にいても彼の心はわからない。

 荻号はあれこれと抵抗をするのを諦めて口をつぐむと、軽く腕を二岐の背にまわしてくれて気だるそうにアトモスフィアを奪われていた。

 いつもの、腕一本分の重さが心地よい。


 二岐はそうやって荻号の生命力そのものを堪能しながらも、昔は痛いほどに感じていた気圧の差を殆ど感じなくなっている事に気付いていた。

 心を許して手加減をしているのではない、カウンターストップをしているため僅かな衰えを装置では計測できないが、荻号のアトモスフィアの絶対量は年々減ってきている。


 何故か神が崩御する度にがくっと、衰えが目立つのだった。

 葬儀には殆ど参列しないくせに神の崩御のニュースで精神的に追い詰められているのか? 

 いや。一時的なショックではない、彼は立ち直れず、階段を降るように段階的に力を落としてきている。


 二岐は荻号の腕に縫いこまれている制紐の一本を指の腹で弄んだ。

 太い針で皮膚を貫き破線を描くように紐が腕の中を往復している。

 胴や脚にも13本も縫いこんである、荻号のアトモスフィアを抑制するそれ。

 一本でも切れば楽になれるだろうに。


「無理せずに制紐、一本ぐらい切ったら? またアトモスフィアが衰えたでしょう」

「そうか? いよいよ歳かな」


 荻号は気分を害する事もなく、気のない返事を返す。

 確かに年齢というと、彼は1万年以上は生きているので歳といえば歳だ。

 何年生きているのか漠然としたことは解るが、1万年以上というそれ以上の事は知らない、生まれてもいないし確かめようもないからだ。


「それから最近、よく寝るでしょう? 前はそんな事なかったのに、体調が悪いんじゃない?」

「心配いらんよ」

「主の体調管理も私たち第一使徒の仕事なのよ、誤魔化さないで」

「そうだったな……だがひもじい思いはさせていないだろう」


 二岐は首を振る。はらりと艶やかな彼女の毛が荻号の胸元に散った。


「……そうじゃなくって」

「あまり喰い過ぎると、太るぞ」


 皮肉じみた言葉も、低い声も二岐は好きだった。

 荻号は彼女の細い腰を持って突き放す。

 二岐は駄目押しのようにぎゅっと最後に抱きしめると、仕事の顔に戻って神体から離れた。比企が来なかったのは、 GL-ネットワークのニュースで神の訃報が入ったためだ。


 崩御したのは陰階第82位 死神。

 生物階の死者の記憶を一手に預かる、EVEの管理者の訃報である。

 50位以下の神の崩御では、枢軸神の出席は義務ではなかった。

 荻号は参列せず律儀な比企は死神に哀悼の意を示して参列した。

 二岐はアトモスフィアをもらうついでに甘えながら荻号に強く参列をすすめたが、彼の腰は鉛が入っているのかと思うほど重かった。

 参列をせずに書斎に引き篭もって何をするのかと思えば、中から厳重に鍵をかけた。


 鍵のかかる音を聞いて、ああ、また寝るのだなと二岐は察した。

 睡眠を必要とするほどアトモスフィアを奪った覚えはないのだが……。

 最近、荻号は睡眠をとるときに鍵をかけるようになっていた。

 寝顔なんて見ないし、身に帯びているものを盗んだりしないのに。

 と二岐は呆れただけで、中に入ってやろうとは思わなかった。

 秘書室で書類を読んでいると、耳を済ませていたわけでもないのに中から衣擦れの音が聞こえてくる。

 普段は絶対に脱ごうとしない聖衣を脱いでいる様子だ。

 就寝時には素っ裸でなければ寝られないのだろうか。

 二岐は特に気にも留めず荻号に代わって、故神である死神へ弔電を打った。



 比企は初めて陰階神の葬儀に参列して、心底空しく感じた。

 死神は300歳弱の若さで自殺により崩御した。

 間接的な死因は心身の乖離。仮想空間であるEVEへ、そして現実へとダイヴを繰り返すうちに心身喪失状態になって自己を見失い、自殺をしたのだという。

 EVEへのダイヴは精神力がとりわけ強くなければ過剰な負担がかかり、長年繰り返す事により確実に心身は蝕まれてゆく。


 死神は精神力を酷使する……完全なる過労死。

 それによる殉職だといえなくもなかった。

 死神は代々、即位してから崩御するまでに100年も経ずして不可解な死を遂げる。

 長生きができないものと相場が決まっていた。

 そんな事情を知っている神々は、空きが出ても死神に応募したがらない。


 死神となった者は不自然な死を迎える、その様子からEVEの”死者達の呪い”とまで噂されていた。

 なかなかこれといった適材がいないのに、先代の崩御に慌ててマインドギャップに乏しく、死神となる素養がなかった者を無理やり即位させた結果がこれだ。


 狂気の死相をした死神の亡骸と対面したとき、神が何故死に至るまで身を削って人々や社会のために尽くさなければならないのかをよく考えるべきだと、比企は思った。

 神は巨大な意思に、その意思の赴くがままに生かされている。

 この数十年間というもの、段々とそれがINVISIBLEの意思なのだとは思えなくなってきていた。


 とてつもない悪意が、三階を覆い尽くしている……。

 あらゆる戦術を、哲学を、理念を教えてはくれたが、荻号は根本的な問題に何も答えてはくれない。

 すなわち、INVISIBLEとは何ものなのか。


 比企は荻号が、その意思に直接的に縛られているという事に気付いていた。

 荻号は自らを縛りつけて、力を裡に押さえ込みながら生きている。

 神気遮蔽布というアトモスフィアを吸収する布を腰に帯び、制紐を自らの神体に縫いこんでまで能力の殆どを殺している。


 何のためにかはわからないが、彼はその真相を語る事すら許されていないようだ。

 荻号は絶対の孤独のうちにあろうとして、誰にも理解を求めようとはしない。

 何が荻号を縛って自由にさせないでいるのか? 比企には考えも及ばない。


 葬儀が終わっても、まだ崩御した死神の代わりに生まれるべき、神の赤子は発見されていなかった。

 神階はいつもは葬儀が始まる頃に発見される神の赤子を草の根分けてでも捜すよう、表向きは喪に服して崩御した死神の葬儀に徹しつつ、新たな神の発見に全力を尽くすよう使徒たちに厳しく命じていた。


 死んだら、次か。

 神階にとっては神も使い捨てなのだな、と比企は寂しく思う。

 比企はこれ以上死神で犠牲が出るのなら、代わりならいくらでもいると思われる薬神の位階を廃して、また登用試験を受験し、崩御した死神の代わりに自分が死神になってもよいという気になった。

 INVISIBLEに抗するべく心を鍛えるのなら、死と向かい合うこともよい修行となるだろう。


 比企は荻号に、薬神を一度廃し死神となる旨を伝えようと思った。

 比企は彼の師と同じよう、身分や職種に興味がない。

 位神は原則で終身の職種固定が行われているのだが、職種を変えてはならないという法律はない。

 一度身分を廃すれば、再び位神の登用試験に勝ち上がらなければならず、不合格だと無職になったり第一種公務員を追われ格が下がる。


 登用試験の規準となる適職率は純粋に優秀であるというバロメーターではないので、優れた力と知力を持つ神でも適職率が上がらず落第して第二種以下の公務員になってしまう可能性も高い。

 よほど魅力のある職種に空きが出たのでないかぎり、苦労して手にしていた地位を手放したくない位神がほとんどで、終身固定化しているというわけだ。


 比企は斎場を出ると、そのまま超空間追跡転移で荻号の書斎に入った。

 室内には誰もいない。

 おかしい、確かに荻号の気配は存在しているのに……。

 室内を見渡すと書斎の奥の小さな扉、彼が倉庫だと言っていた扉の隙間が開いていた。

 比企は倉庫の中を何度か見たことがある。

 確か箒とちり取りが入っていて、読まなくなった本が無造作に積み上げられて押し込まれていた。

 その他には、価値があるとも知れないがらくたばかりだ。

 几帳面な比企は、開いている隙間が気に入らず扉を閉めようとして、倉庫の中から風と光が噴き出しているのに気付いた。


 いよいよおかしい。

 こんな場所から風が吹くものだろうか? 

 不審に思った比企は小さな扉をそっと開いて中を窺い見た。

 中は広大な空間があり、扉の下は黄金色をした湖が見渡す限り拡がっていた。

 透明度が高く、湖底の白い流砂まで透けて見える。

 眩しく反射する湖水の穏やかな水面を泡で揺らせて、その下に沈んでいる男が見えた。

 比企は目をこらしたが、男を知らない。

 彼は金色をした長い髪を水中でゆらめかせながら透明な装束を身に纏い、何かを抱きかかえて湖底の砂の上にじっと屈していた。

 男の身は光に満ち、あまりの眩さに凝視しているだけで目が潰れそうだ。


 比企は男が気付いていないようなのでアトモスフィアの放散を断ち気配を消して、尚も覗き見ていた。

 金髪の隙間から見える男の背中には光で描かれたような複雑な紋様がうごめいており、強い後光が差している。

 ひどく美しく、澄明な光景だった。

 男が慈しむように抱えている小さな生き物は褐色の肌を持つ神の赤子だ。

 果てなき湖水の母胎の中で誕生の時を待つ、神の赤子が男とともに沈んでいた。

 母親のように赤子を慈しむ様子から、彼が赤子を産んで取り上げたのだと確信する。

 そして生まれたばかりの赤子の親こそが、荻号の正体だという事も。


 書斎側に散在する無造作に脱ぎ捨てられた聖衣と切られた制紐、そしてこの場所が荻号の書斎であること……証拠は充分だった。

 比企は驚愕し、絶望した。


 神々はこの広い湖底で、彼の母胎から一柱ずつ生み出されていたというのか。

 一刻も早く逃げなくてはならないと思った。

 彼は比企がやがて討ち滅ぼさんとするINVISIBLEが神に収束した姿、絶対不及者に酷似している。

 これほどまでに近くに、INVISIBLEがいたのだとは……!


 比企は半世紀間、憎き宿敵を師と仰ぎ慕っていたとは! 

 顔面蒼白になって物音を立てないようそっと扉から離れ、瞬間移動で自室に戻った。


 何故だと問い質す使徒達を説き伏せその日のうちに薬神を廃して、陽階に転階を申請した。

 その日のうちに死神下使徒階から新たに発見された神の赤子はやはり褐色の肌をしており、命名法に従って″織図 継嗣″と名付けられた。


 陽階神は荻号の戦術を知る比企の裏切りを歓迎した。

 陽階神となるため不足していた資格を取得して、立法を司る神として難無く登用試験に合格し、身も心も陽階神となって彼は再スタートをきった。

 比企は片時たりとも、あの黄金に満ちた太陽のような絶対不及者の姿を忘れられない。


 INVISIBLEは陰階神荻号要のうちに宿って一介の神を演じながら神階を影で牛耳っているのだということを、一秒の間でも忘れてはならなかったのである。

 比企は荻号に師事して得た半世紀の記憶を棄てようと思った。

 INVISIBLEの思惑通りに操られてしまうぐらいなら、何も学ばなかった方がましだ。

 比企は荻号の言葉、雑談の中から得た教えや理念、その身で知った圧倒的能力の一切を喚起することを禁じた。


 荻号の作り出した攻撃的神具であるG-CAMも執着なく手放した。

 敵に手の内を読まれていては、それに克することなど不可能だからだ。

 この200年後、準中枢11位であった比企は2位の枢軸神を指名して位申戦に臨んだ。

 この結果比企はINVISIBLEの依代である荻号抹殺を至上目標としたまま、第二位の格を持つ陽階枢軸神にまで上り詰める事となる。


 比企は陽階の頂点が見えたとき、ふとした瞬間に荻号に学んだ一時期を思い出しそうになる。古びた書物に囲まれた書斎の中で過ごした有意義な日々。

 とりとめのない言葉を、振り払いながら喘ぐように一日一日を積み重ねている。

 長き時間を自己と向かい合って過ごすうち、いつしか艶やかな黒髪は、艶のない白髪へと置き換わっていった。


 荻号とはあの日以来、まともに顔も見ていない。

 唯一荻号の弟子という場面が窺えるのは、比企の執務室に一分の隙もなく並べられた書物だ。

 彼は物質的に神体を鍛えるより遥かに長い時間読書をし、思考を鍛える事を重視した。

 比企はまだあの半世紀を自らの心の中に封じて、荻号の秘密に近づくどの神にも、荻号を語ってはいなかった。

 結果としてそうする事が、彼の命を永らえさせていたという事には気づいていない。



 比企が去って20年後。

 荻号の部屋は、またいつものように深い静寂に満たされていた。

 二岐は今日も日がな一日、読書以外は何もしようとしない彼女の主に小言を言うのが仕事のようなものだ。

 荻号は聞いているのか聞いていないのか、わからない。

 だが声をかけていないと、消えてしまいそうで二岐は不安だった。


「比企様がここを去ってから、すっかり腑抜けてしまって……ほら、カーテンと窓を開けて! 部屋が埃っぽいわ。もう……比企様、また来て下さればいいのに…寂しいものね」

「……いいんだ」

「え?」


 荻号はそう言ったのをごまかすように大きな欠伸をした。

 口には出さないが寂しいのだろうな、何気なく伏せた視線を見て、二岐にはわかっていた。

 二岐が黙って見つめていると、荻号は真空斑のライターを放り投げて落ちてくるまでの間に煙草に火をつけた。

 麻薬を含んだ重い灰色の煙が立ち込める。


「ここにはもう、誰も来なくていい」

「また、強がりばかり言って」


 二岐は今日の荻号のスケジュールの中に、こっそりとある人物の接見予定を入れておいた。

 織図 継嗣、比企が去った日に生を受けた褐色の肌を持つ少年神が、医師でもある荻号の診察を希望していた。

 医神でも治療のできなかった、先天的な盲目の少年神。

 二岐は指導教官に連れてこられた織図のみを、荻号の執務室に案内して付き添いの指導教官をアカデミーに帰した。


 緊張した面持ちでやってきた織図を見て、何も聞いてないぞと二岐に訴えたかったが、織図はアポイントを取って正式にやってきたと思っているらしかったので渋々迎え入れた。


「この部屋には誰も連れてくるなと、言わなかったかね」

「仮にも医者を名乗っているのなら、患者を診察するのが義務です。診察だけでもしてあげて下さい」


 二岐がそう言い返すと、反論できなくなったようだ。

 織図は二岐に手を貸してもらってソファーに腰掛ける。

 その動作のぎこちなさから、全盲と判る。


「何を悩んでいる。織図 継嗣」


 織図は真っ黒な瞳を開きながら、その吸い込まれそうな瞳に光は映じていなかった。

 織図は漠然と荻号に視線を向けながら訴えた。


「目が見えないのです」

「残念だが俺にも治してやれん。医者も全能ではないのでね……」


 織図は暫く言葉に詰まり、荻号の一言を受け止めると、悔しそうに拳を握り締めた。


「どうして俺は出来損なって生まれたのでしょう。目が見えなくては何も出来ません!」


 アカデミーの教官たちは目の見えない織図をどう育ててよいものか思案して持て余していた。全盲の神を育てるなど前例がなかったからだ。

 武型神としても使えないし、文型にしても書物が読めず学力が伴わない。

 無駄な努力をさせて報われず、神としての役目を果たせず辛い思いをさせるのならいっそ安楽死をという声もあった。


 織図は生を渇望した。

 生きて、生きて、とにかく生きたかった。

 その一方、真実を見通すべき神が盲目では生きる価値がないと解っていた。

 だから目が見えるようになりたい、目さえ見えれば新たな可能性と世界が開けるのに。

 と縋るような思いで憚りながらも枢軸神の前に連れてきてもらって、あっけなく最後の望みが絶たれた。

 しかし荻号の言葉は終わっていなかった。


「それは違う。お前は望まれて生まれてきた完全な神だよ」


 かえってきたのは、穏やかな言葉だった。


「望まれて生まれてきた? ……誰にですか?」

「さあ、誰だろうな。きっと今もそいつはお前を見ていると思うぜ。……お前は他の神と同様に、何でもできる」

「そんな……無茶苦茶だ……」


 織図は悲観して弱音を吐いた。

 他人事だと思われて適当にあしらわれているに違いない。

 荻号は少年の目に涙が滲んできたのを見て、ため息をついた。

 また、図らずとも他者とかかわりあう羽目になってしまった。


「ではまた診察があるといって、アカデミーの寮から抜け出して来い。視覚に頼らない認識の仕方を教えてやる。なに、そう難しくはない」


 織図は半信半疑のまま分かったと言うしかなかった。

 荻号は静かに目を閉じ、部屋を出てゆく織図の背中に語り掛けた。


[子らよ、汝らは何故吾を見んとするのか……]


 遥かなる深淵を見ようとすれば深淵に魅入られてしまう。

 比企もそうだ。

 知らなくてもよい事を、決して知ってはならない事を知ってしまった。

 それが十年後か、百年後かはわからない。

 だが比企は確実に、荻号を殺しに来るだろう、全てをなげうって……それは不幸なだけだ。


 荻号は再び鄙びた部屋にやってきた訪問者を、今度こそ不幸にさせはしないと固く誓ったのだった。


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