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Anecdote 1 Perfect Clipper

既に収録している外伝をここに移動させました。

挿絵(By みてみん) 


「主よ! なにとぞ執行をお急ぎ下さい! 伝染が拡大します」


 彼の使徒たちの悲鳴にも似た要請が死の街に飛び交う。

 数百人という無視できない規模で苦しみ悶えながら人々のバイタルが尽きてゆくという奇病が横行し、死神 織図 継嗣が外務省の要請により生物階に降下したのは、西暦にして1695年の12月のことだった。


 夜の帳を落とすように死が次々と村や町をのみ込んでゆく。

 先代 極陽 、倫理神 ジーザス=クライストは織図に先立ち自ら望んで生物階降下し、それまで備蓄していた自己血のすべてと彼の生身の神体を切り刻みながら衰弱した者たちに血液を分け与え、渾身の力を振り絞って一人一人を回復させてゆく。

 彼の手首に穿たれた杭の痕は、再び紅く染まっていった。


 その間織図がしていたことといえば、死因を調べるついでにジーザスの救いの手に預かることができなかった感染者達の亡骸から漫然と生前の記憶を回収していただけだ。

 ジーザス=クライストは目に映る最後の一人まで救ってやりたいと願ったに違いない。

 しかし彼がそう気負えども、全盛期よりはるかに落ち込んだ彼の体力は限界を迎えていた。

 織図 継嗣は血染めになった白衣を着てうずくまる偉神を見かね、その老いた肩をそっと叩いた。


 織図の黒衣と彼の白衣ははっきりとした対象を為している。

 人に与えるもの、人から奪うもののコントラストだ。

 織図は口に出してこそ言えなかったが、内心ではジーザスの慈悲を疑っていた。

 だが今日のこの光景を見る限り、彼の行動は偽善などではない。

 それを確信してなおさらに、織図から見た救世主キリストは眩しすぎた。


「……もう、やめましょうや。外務局からの達しがきた。救世主が救いきれる人数キャパシティを超えてる」

「まだだ……。ひとりでも諦めたくはない」


 彼は昔から殊こういうことに関しては強情っぱりだ。

 織図が彼の言葉がまったくの強がりであるということを見透かすのは、職業柄それほど難しいことではなかった。


「限界だぞ。もう、血が枯れてるじゃないか」


 ジーザスの治癒血は553を超える疾患を癒すことができるうえ、治癒血を持つ神々が概してそうであるように常神をはるかに凌ぐバイタルを秘めている。

 ジーザスは外傷からの出血が尽きたあとも神具 The Grail(聖杯)の“逆杯”という業によって、聖杯の中に彼の血液を転送し続けている。

 命の杯を惜しげもなく衰弱した人々に傾ける。

 彼が救世主を名乗らずとも、癒された人々は口々に神の栄光と慈悲を賛美しはじめていた。


 一方、すぐ隣でその姿を見守る織図はODFに阻まれ人々の視界には入らない。

 同じ神でありながら織図には決して与えられない感謝の声が聞こえてくる。

 それらを織図はまるで音楽のように聞き流しながら、じっと傍観を決め込んでいた。


「強力な造血剤を打ってきた、……もう少し待てば回復する」


 ジーザスは織図の殺戮をけん制するように言い訳をしながら、諦めるそぶりを見せない。

 彼がもういいと言った瞬間、織図は死神としての仕事をはじめるだろう。

 逆にいえば織図はジーザスが諦める瞬間を待っていた。

 それは瀕死の獲物を見下すハイエナの姿にも似ていると、客観的に織図は自らを卑下する。


「教えてくれ、どうしてあんたは人の為にそこまでやれる? 傷ついて、裏切られて、それでもあんたはその身を削って人に与えてきた。何があんたをそうさせるんだ」


 人々には姿すら見えない織図からの問いかけは、群衆の熱気にかき消されそうだ。

 しかしジーザスは一語逃さず聞き取って織図の潜む空間に視線をちらりとくれてから、無言のまま元のように群衆に向き直る。

 彼が見つめているものは今も昔も、常に神々ではなく人々であり続けた。


 織図はジーザスが答える意思がないとみると指先で空に真一文字を書き、落ちてきた神具 Living Twibil(命の刈鎌)を手に取った。

 ジーザスは背中越しに感じるその禍々しい気配に僅かに肩を強張らせた。

 二神の間にいいしれぬ無言の緊張が漲る。


「俺はあんたのようになれない……あんたのお気持ちはよく分ったが、そろそろ俺の仕事させてくださいや。理性的に計算して、あんたの治癒能力が追いつかない。どのみち助からんのなら、せめて安楽死を……」


 織図はLiving Twibilと携帯端末、そのうえ彼の頚のジャックポットと端末を接続し、正確に死の宣告を行う対象者のリストをチェックしてゆく。

 法務局から転送されてきた赤いリストを射程圏内にいる進行性衰弱症者達のデータにオーバーラップさせる。

 白と赤の光がスライドして一致する、しっかりと認識された名前は赤い点滅となって織図の執行を待っている。

 そこから先はジーザスの顔を見ることもなく、躊躇すらなかった。


 ジーザスはがっくりと項垂れた。

 一度決断を下した織図をとめるすべは、彼にはなかった。

 織図は彼自身が殺戮機械そのものであるかのように、よどみなくコマンドを紡ぎだす。


”Sentence of Death, initiation.”

(死の宣告始動)


“Refer to Death-EXE folder for more information on execution!”

(DEATH-EXE Folderを参照の上、執行せよ)


”Count Down, 3, 2, 1……and passed away”

(秒読 3,2,1……執行)


 死の宣告はバイタルレベルを不可逆的に切断し、正常に臨終を迎えた場合とは異なり蘇生は不可能である。

 全ての衰弱者たちが救済されると信じていた生存者達からは悲鳴が上がり、天の非情を憎む声やジーザスを罵る涙混じりの叫び声があたり一面を地響きのようにいつまでも揺らしていた。

 ジーザスに向かって礫を投げる心ないものもいた。

 織図は姿を顕さないながらにさりげなくジーザスの前に立って、礫からの攻撃と非難の矢面に立った。

 この呪詛の声を受けるべきはジーザスではないと、織図はそう思ったからだ。


 ジーザスはしかし今にも泣き出しそうな顔で首を横に振ると、両手をそろえて深々と頭を下げ黙して謝罪をした。

 彼はいつまでも頭を上げようとはしなかった。

 ざわめきは落胆の息にかわっていった。

 一人、また一人と彼らは家路につく。救世主の再降臨などありうる話ではなかったのだと、口々に吐き棄てながら……。

 そんな彼らの中から、飛び出してきた者がいた。


「あのっ! ありがとうございます」


 若い女がジーザスに駆け寄ってきた。


「あなたが悪いんじゃないわ……あなたはとてもよくしてくれた。皆! どうして石を投げたの……」


 彼女はありったけの感謝を述べると、手押し車に父親の遺体を載せた母親とともに、帰っていった。



  織図 継嗣の絶対的な決断を止めるすべはない。

 生物階の生命に対する権限は完全に織図が掌握していたことをジーザスはまざまざと思い知らされる。

 ジーザスは誰も必要としなくなった血染めの杯をその手から取り落とした。

 カラン、カラン……と不用となった神具は姿を顕さない織図の足元に転がってくる。

 織図は触性免疫に焼かれないようハンカチで包みそれを拾うとジーザスの手に渡そうとしたが、ジーザスの視線は織図にも、神具にもそそがれてはいなかった。


「織図。見よ……」

「ああ?」


 織図はいっこうに彼の持ち物を受け取ろうとしないジーザスの足元に、コトリと杯の形をした神具を置いた。


「助けを求めて並んでいた者たちの列……この者より後ろは、救われなかった」

「仕方ないでしょう、どこかで区切りをつけないと。あなたにそれが出来ないなら、俺がそうするまでだ」


 ジーザスは手を差し伸べて、あわやというところで生還したが、誰かにより縋って泣いている少女を抱き上げ祝福した。

 長い列を作って並んでいた人々のうち、彼女より以降の人間は織図の死の宣告によって物質へと変貌していた。

 彼女の後ろは誰だったか? そう、彼女の後ろは――


「後ろはこの子の、母親だったのだよ。汝がもう一刻猶予を与えたなら……間に合った」

「……そうでしょうな」


 織図は腕組みをし、悪びれもせず無感情に頷く。


「織図よ、死神とは人々の生死を司る重要な役目だ。覚えておくがよい、汝は神階で唯一、人々や生物階の生命の選択が許されている。命を、汝の心ひとつで選ぶことができるという恐るべき事実、これがどういう意味かわかるか? この子は汝の選択により母親を失った。だが、この子とその母親の順番が前後していれば、子を失った母親がここに佇んでいるだろう。とてつもなく重い決断だ、……少なくともわたしには選べない」


 だから、命の軽重を決められないから。

 彼は全ての人々を救おうとする。

 織図は間接的に、先ほどの問いの答えを訊くことができた。


 夕陽の残照に朱く染まったジーザスの横顔には、拭い去れない絶望と憂いの色がさしていた。

 ジーザスはそう言いながら、織図の決断が正しかったと納得している。

 母親を救った後はどうすればよいのか、次は父親が並んでいるかもしれない。

 結局、偶然や無作為という力で引き裂く以外には、生命の尊賤を決することはできないのだ。織図は無作為かつ無感傷に審判し、だからこそ公正である。


 そして死神という存在は、それほどまでに厳然たる中立性を保ちながら人の死に臨む存在でなければならなかった。

 これで、よいのだ。

 織図が正しい……ジーザスは自身に言い聞かせるしかなかった。


「あのまま苦しみながら息絶えるよりよっぽど、EVEは快適だと思いますがね」


 飢えも貧困も病苦も死の恐怖すらもない理想郷。

 EVEにあって、人々の記憶は死後の時間を穏やかに暮らしている。

 たゆまぬ努力で、彼は人々が夢見た理想郷を維持し続けてきた。

 織図は自信をもってシステムを誇ることができた。


「……どんなに環境が快適で整っていようと、EVEは人生の代わりにはならない」


 人々に死後の平安を説いてきたジーザスは、そうやって死後の楽園の価値を切って捨てる。

 彼は人心を引きつけるために理想郷の存在を仄めかしたが、本当の個という価値はその一度きりの人生の中でこそ見出さねばならないのだと、1600年前、人々の前では説けなかった。


 ジーザスのそんな言葉はどれほど多くの人間を落胆させるだろう、ジーザスが今も抱きよせている子供に、“母親は天国で待っている”と言うだけで彼女は救われるというのに……。

 天国の存在は死んだ者よりも残された者たちの心の拠所なる。

 人が死を迎えれば肉体は物質へと還る。 

 その単純な仕組みが全てだと、彼らはどのみち受け入れることができないのだから。

 織図はそんなことを思った。


「その子は、どうするんです?」

「生物階に滞在するわたしの使徒に愛情深く育てさせよう。わたしは日常的に生物階へは入れないのでな……それとも、汝が引き取るか?」

「俺に何が出来ましょうか? 俺にはこいつを脅えさせ、泣かせることしかできません。できることといえば……」


 少女はなおもジーザスに抱きついたまま離れようとしなかった。

 硬直して離れられないといった方が正しかったのかもしれない。

 背後を振り返ると彼女の母の遺体が転がっている。

 その更に後ろには累々と死者の列が連なっている。

 その事実を再認識しないでいたいがために、少女は無言の抵抗をしているのだと、それが人の心の正常な反応なのだと織図は察した。

 織図はODFを解除し彼女の前にその姿を顕すと、彼女の頭にはいささか大きすぎる褐色の手を優しくかぶせた。


「今回の事態の原因を突き止めることだけです」



 事態は一旦の終息をみた……しかし織図が真相追求の手を止める事はなかった。

 今回犠牲者となった全ての死者の記憶の中から情報を集めたのは言うまでもなく、実際にその足で生物階に踏み入り、聞きこみなどで手掛かりを集めた。

 また、織図はその後数日というもの、大量失血から回復中のジーザスの見舞いがてらに彼の部屋に寄るのが日課のようになっていた。

 ジーザスが療養を行っている居室は彼の執務フロアの一角にある。

 吹き抜けの天井から注ぎこむ採光がセンスよく植えつけられた種々の観葉植物に降り注ぎ、ベッドも宙に浮いていて空中庭園のような幻想的な間取りになっている。

 織図はベッドに向けて伸べられた浮遊螺旋階段をつかうこともなく、直接跳び上がってジーザスの枕もとに立った。

 ジーザスは偵察衛星から配信されるデータを膝の上に載せた水鏡式モニターに映し出し、生物階の各地の映像を頻繁に切り替え、心配そうに目をくばっていた。

 これでは先日と全く同じ状態だ。

 一睡もしていないように見える。

 ジーザスは織図に気づき、挨拶がわりにこんなことを言った。


「また来たのか。アポイントを取れば訪ねてよいというものでもないぞ」


 しかし面会予約の許可を出すのもジーザスなのだ。

 織図はそのあたりの掛け合いは適当に、見舞いの品として生物階で買ってきた書籍をジーザスの膝の上に置き、同じく西欧で仕入れてきた花束を彼の枕元の花瓶に生けはじめた。


「そりゃあいにくどうも。どうせ療養中で予定もないんだろ? 毎日毎日、飽きもせず人間観察ですか。もう少し回復してからにすればいいってのに」


 彼は花束をひとしきり興味深そうに眺めてからまたうつろな視線で水鏡に目を落とした。

 とりつかれてやがる、と織図は眉を顰める。

 彼は美しい花より、珍しい書物より人を見ていたいのだ。

 人間観察は趣味だろうと、織図はいつかジーザスに冗談めかして尋ねたことがあるが、どうやらそれは本当だったようだ。

 ジーザスの御大は隠居してもご立派な救世主をやってるよ、織図は彼を熱心に信仰する人々に伝えたいものだ。


「汝と違ってわたしは生物階に頻繁に入れる立場にはないのでな……人々の様子が気にかかる。特にあのような事があった後では……」

「今回だけじゃないだろ。あんたの場合いつもだ。だいたい、人間なんざいつ見ても同じだぜ?」

「本当に、同じだと思っているのか」


 ジーザスはようやく水鏡から視線を上げて織図に向き直り、織図がいましがた生けたばかりの花瓶をおもむろに手に取った。

 一本一本。

 彼はじっくりと時間をかけ鑑賞を……というより、どちらかというと観察をしている。


「汝が買ってきたこの花束はほとんどがもはや原種ではない。人為的に、高度な品種改良が行われている。大学では学者達が、次第に精度を上げてきた物理学的数式を捏ね繰り回している。それに先日、こうして生物階を見ている間に、さる実験を行ったフランス人が現われた」

「実験?」

「実験は成功したようだよ」


 ジーザスは感動のあまり録画しておいた水鏡の映像を再生して、見てみろと織図に寄越した。

 ガラスのボウルいっぱいに張られた青い水の中に記録されていたメモリーが映りこんでくる。

 石炭を炉にくべている男の後姿のように見えた。

 これだけでは何をしているのか分からない。


「……これは?」

「蒸気機関を発明したのだ」


 織図はへえ、と感歎の息を漏らした。

 蒸気機関といえば紀元1世紀代には既に存在したといわれているが、当時の人々にはそれをうまく利用するための頭脳がなかった。

 実に17世紀という時間を経て熱エネルギーを力学エネルギーに変換する者が出てきたのだ。

 これは人類にとっておそらく、革新的な発明であった。

 その技術を正しく利用する事ができるというのなら……。


「反射望遠鏡で夜空を見上げる学者も現れはじめた。彼らはいまに宇宙の姿を理解しはじめるだろう。彼らはやがてあらゆるものを従え、未知という闇を刈り取ってゆく。激動の時代がくるぞ、織図! ……我々は彼らの歩みに、ついてゆけるのだろうか」


 ジーザスは興奮気味にそう語りながら、人類の未来に思いを馳せて目を爛々と輝かせていた。


「何で俺らが人間様の歩みに、ついていかせていただかなきゃならないんですか。神階の科学力に、そのうち人間のそれが追いつくとでも?」


 へそで茶が沸くぜ、と織図は一笑に付した。

 いつか神々が、人々に劣り砂を噛むような思いをさせられる日がくるとでもいうのかと。


「神々は、この何千万年という時間の中で、少しでも進化をしただろうか? 愚かで怠惰な生物とは、我々のことかもしれぬ」


 彼は自嘲気味に述べる。

 あのジーザスが人々に劣等感を押し付けられている、その意味を織図は、あまり深刻に考えたくはなかった。

 織図はジーザスを尊敬していた、だがその彼が尊敬してやまないものは、非力な人間だったというのだから。



 織図を現実に引き戻すように彼の携帯が鳴ったのは、ジーザスとそれなりに有意義な雑談をし時間をつぶして、まさに部屋を出ていくらも歩かない頃だった。

 設定された着信音から、あまりよくない知らせだと勘付く。


「何だ?」

『主よ! またです……! 現場はG221.35.266.42です。大至急降下願います!』

「ああ……すぐ行く」


 織図は多忙のあまり手入れを忘れて少し伸びた顎鬚をざらりと撫でて覚悟を決めると、ジーザスに知らせることもなく、神階の門に直行した。



 使徒に指定された座標は北アフリカの砂漠地帯に面した部族の集落だった。

 現場の周囲は竜巻を伴う砂嵐が激しく吹き荒んでいる。

 既に数十人規模での犠牲者がますます激しさを増す砂嵐に引きずり込まれるように熱砂の中に沈んでいった。

 織図はその砂嵐の中心に神経を研ぎ澄ませる。中にいるのは、何だ……? 

 すぐさま生命反応を確認する。

 織図は盲目の瞳を見開いた。

 当然あってしかるべきものが、どこにもみあたらなかったからだ。


”バイタルが……ないだと……?”


 動いているのに、気配があるのに生命反応がない。

 視力のない織図はより正確に対象を認識するため頚のジャックポットにケーブルを繋ぎ、DA-インディケータのカメラを起動する。

 砂を噛んだケーブルはなかなか映像を結ばない。

 織図は強引にケーブルを神経の奥深くに差し込むと、耐え難い激痛と共にケーブルを介して飛び込んできた情報が織図の脳内に視覚再現されてきた。

 画像を認識して愕然とした。

 何の偏見もなしにそれが何かと尋ねられたとしたら、誰しもがそう言うだろうと織図は思う。


 それは黒い光沢のある皮膚を持った、裸の子供だった。

 織図は彼が信頼をおく掌サイズの生死判別装置、DA-インディケータを握り締める。

 画面上で解析対象者をロックオンすれば対象のバイタルレベル、予定寿命を瞬時にして割り出す高性能装置だ。

 DA-インディケータは同じ価を表示し続けている。

 その値は-2500000 pts。

 見間違いでも故障でもない、少なくとも織図はDA-インディケータが-(マイナス)という記号をつけた対象を一度も見かけた事はなかった。

 何だというのか……。

 とてつもなく悪い予感がする。

 いかにジーザスが人類の科学の進歩を強調すれど、この時代にはまだ神階で一般的に用られているクローン技術は存在しない。

 人の形をして、人にあらざるもの……。


”……ホムンクルス?”


  DA-インディケータと視界を一体化させた織図にはしっかりと見えていた、この異形は周囲のバイタルを奪いながら動き続けるバイタルのない非生命体だ。

 人、動植物、神や解階の住民の別もなくバイタルを搾取し、動き続ける。それが過ぎ去った後には、生命の気配は掠め取られている。


 ぐん……と織図のバイタルまでもがホムンクルスに引き寄せられてぎょっとした。

 目も鼻もない黒い子供の口に似た窪みが、にやりと微笑んでいるかのように吊りあがった。

 Living Twibilの影響力を排除するために常時バイタルロック(生命力施錠)を行っている織図でなければ、傍に近づいただけでバイタルを吸収されてしまっただろう。


”こいつ……! なんてことしやがる、死神だけだぞ、こんなことができるのは!“


 死神しかいない。

 織図はやっとのことでそう判断した。

 死神のみが人間および動植物のバイタルを加減するすべを心得ている。

 それは他の神々には明かされておらず、解階の住民にも能わない。

 アトモスフィアとバイタルは全く別のものだ。

 アトモスフィアならば他神や使徒にも加減や吸収、放散はできるが、バイタルだけは誰にも動かせないものだ。

 このバイタルを奪うためだけに存在するホムンクルスは、死神によって創られたのは間違いない。

 断定してもよかった。


「DA-インディケータ、検索しろ。Living Twibil(命の刈鎌)以外の過去死神が所有した神具の形状を出力しろ、全てだ!」


 ところで後に織図が愛用するXVI Von Louisという神具は、フランスのルイ16世の処刑を見た織図がそれまで愛用していたLiving Twibilより切れ味のよく高性能な神具を創出したものであって、1695年時点ではまだ鋳造されていない。

 そういうわけで織図はLiving Twibil以外の死神専用神具の存在を知らなかったし、はたまた興味すらなかった。


 このホムンクルスは性能だけ見るとしたら、バイタルを奪うという点で死神の持つ神具に共通するものがある。

 過去に現存した神具が何らかの誤りで誤作動を起こし、稼動をはじめたのだとしたら……辻褄は合う。

 織図はそう自らに言い聞かせながらも、頭の隅でその可能性を疑っていた。

 何故なら、神具を起動できるのはその所有者のみだ。

 そして過去全ての死神は例外もなく殉職している……記録上では。


「なんてこった……誰の仕業だよ」


 待ちかねていたDA-インディケータの検索結果が織図の意識上に上がってきて視界に反映する。

 織図は全ての神具を精査する。

 どれだけ見直しても、人形タイプの神具の該当は過去数十万年にまで溯って一つもなかった。

 織図はひどい悪夢を見ているような気分になった。

 バイタルを搾取するだけの存在……。

 この存在そのものを死神といわずして、何と言うだろう。

 そしてこの悪意ある存在はどのようにして生まれてきたのだろうか。


「死神の真似事にしては、お前は少し殺しすぎだ」


 判断材料に乏しかったが、とにかく織図はこれ以上の犠牲者が出るのを阻止する必要があった。

 彼は嫌な予感を払拭するように、既に携えていたLiving Twibilを肩に担いでコマンド入力を行った。

 身長を優に上回る巨大な黒い大鎌を軽々と担ぐ織図は、その扱いに慣れている。


“Break out the Fallen Clipper!”

 (いでよ。堕者を裁つもの)


 織図は筒状のリミッター芯から抜くと、セーフガードを外しLiving Twibilの大きな刃を剥き出しにする。


“Judgment of the Killer Queen’s”

 (殺戮の女王の審判)


 コマンドと共にLiving Twibilの刃先が真っ二つに分かれ、鋏のような形状を取る。

 Living Twibilは状況に応じて様々な可変能力がある。

 彼は大きく振りかぶって反動をつけ、鋏の形状を取った二本の刃をホムンクルスに繰り出した。

 攻撃対象の周囲を縦横無尽に暴れ狂う巨大鋏は対象を完全に裁断し一塊も残さない。

 このLiving Twibilは文型として登録されている織図の所有物でありながら、攻撃的神具として認知されている。


「いったか?」


 ホムンクルスは確かに一瞬にして切り刻まれ、塵となって熱砂の上に散っていった。

 織図が基空間にLiving Twibilを戻そうとしたとき、今しがた粉砕した塵はどろりと溶け、タールのような質感の水たまりを作ってゆくのが見えた。

 砂漠の燃えるような太陽光線が、あるいは50℃を超える外気温がホムンクルスを溶かしたというのではない。

 それは明らかに物理衝撃を吸収したという意味を持った。

 どうやらこれは、液体と固体の中間の性質を帯びているようだ。

 ホムンクルスはこともなく同じ形を成し、もとの黒い子供に戻った。


「はい物理無効」


 織図はひとりでおどけたが、その一方では余裕を奪われていた。

 バイタルロックをかけている限りホムンクルスから織図に害が及ぶ事はなさそうだが、相手が不死身となると手の施しようがない。


「どうすっかね……」


 織図が思案していると、その間にオアシスの水汲みから帰ってきた部族の少女が一人、運悪くばったりとホムンクルスと鉢合わせになってしまった。

 水汲みに出ていた少女は村で起こった惨劇を知らないので、ホムンクルスを見て気持ち悪そうに後ずさるだけで逃げようとはしなかった。

 ホムンクルスは少女をみとめるとじりじりと彼女に近づいてゆく。


「ば、バカ離れろっ!! 早くっ!」


 織図が血相を変えて怒鳴りつけた時にはもう遅かった。

 少女は重い水甕をかかえたままうずくまり、あれよあれよという間にバイタルを奪われて息果てた。

 織図は即座に彼女から記憶を回収しながら、DA-インディケータにたった今再現された静かな殺戮を解析させた。

 彼女の死を利用するようでしのびなかったが、織図は一刻も早くこの異形を葬り去る必要があった。

 この少女に遅れること数百メートル、何も知らない何人かの子供たちが砂丘の向こうからわいわいと雑談をしながら帰ってきているからだ。

 この村では水汲みは子供の仕事なのだ……水汲み当番だったことが結果的に、彼らの命を永らえさせる事になればよいのだが。

 それは織図にかかっている。


 織図は更なる犠牲を出さない為にも、DA-インディケータが映じた映像にいっしんに神経を研ぎ澄ませ、数秒もしないうちに違和感に気付いた。


「待て……あの子から奪ったバイタルはどこにいった?」


 驚くべきことに、再生映像の中のホムンクルスは少女のバイタルを奪った後も、そのバイタルレベルは先ほどと同じように-2500000ptsであり続けた。

 ホムンクルス自体がバイタルを必要とし吸収しているのではないと、確固とした証拠を突きつけられた。


「なるほど、そういうことか」


 織図は納得すると、淀みなくLiving Twibilに一連のコマンドを入力した。


“Vital Lock Unlocked”

(バイタル施錠解除)


“In 10 sec, Vitalize this object by withholding 2500001pts from my Vital”

(10 秒後、対象に2500001pts のバイタル を供給せよ)


 Living Twibilは忠実に織図から、彼の2500001pts(ポイント)のバイタルを差し引いてホムンクルスに与える状態に入った。

 Living Twibilは時限式コマンドを受け付けていて、準備が調えば他のコマンドと共に倍がけする事ができる。

 織図は、すぐに死の宣告のコマンドをかぶせにゆく。

 このたった+1ptsのバイタルが、生命を持たないホムンクルスにとって致命的なものとなるのだ。

 織図は発動までの時間を正確にカウントしていた。


“3, 2, 1, ……Vitalized”

(バイタル供給)

“3, 2, 1, ……passed away”

(死刑執行)


 ホムンクルスとLiving Twibilの間を相互に落雷のような衝撃が行き交ったのち、それはどろり、と先ほどと全く同じように黒い液体を砂の上に染み込ませ、今度は完全に沈黙し起きあがる気配もなかった。

 この間に何が起こっていたか、知性のない下等なホムンクルスには理解ができなかったかもしれない。

 織図は-2500000ptsのバイタルを持つホムンクルスに+2500000のバイタルを転送し、一度0という状態にした。

 生きていないが死んでもいないという状態だ。


 しかし許容限界よりたった+1pts上回ったバイタルによって、ホムンクルスはLiving Twibilにより“+1ptsのバイタルを持った生命である”と認識された。

 生命なきものを“殺せる”状態にすること、これこそが重要だった。

 この状態がいかに重要であるかということは、ホムンクルスの製作者にもよく理解できていたのだろう。

 その証拠に、織図が先ほど少女の死と引き換えにえた情報から推測するに、ホムンクルスは吸収したバイタルをコンマ1秒すらも備蓄しないよう、即座にどこかへ転送するよう造られているらしかった。


 それは陰陽階それぞれの極位神がアトモスフィア吸収環を帯びることにより、アトモスフィアを一度吸収環に吸収されその後神階中枢に自動転送される原理と、基本的には同じだ。

 何ら転送速度にこだわる必要のないアトモスフィア吸収環とは違い、ホムンクルスにとってはこのバイタル転送速度こそがきわめて迅速でなくてはならなかった。

  ホムンクルスは織図に与えられたバイタルをいづこかへ転送して再び-2500000ptsという元の値に戻るより早く発動された死の宣告で、片をつけられ殺された。

 ホムンクルスの物性を理解した織図の勝利だった。


 その代償として織図は彼の-2500001pts……概算すれば480年分の寿命を確実に削ってしまった。

 残りいくらあるとも知れない寿命のうちの、確実に480年分をだ。

 その取り返しのつかなさに気付いたのが、少し遅かった。


「……やっちまった……480年が一瞬にして吹っ飛んだ……」


 正直いって後先など、考えていなかった。


「それもこれもすべて――! まてよ……?」


 織図はわれに返ってそう呟くと、DA-インディケータを用いて更なる検索をかけた。


「DA-インディケータ、過去6000年以内に在位した死神のうち、火葬されなかった神を抽出しろ」


 非生命型でありバイタルを吸い取るこの異形を創り出したのは、死神以外にはありえない。

 すべて崩御しているというのなら、その遺骸は一体残さず火葬されている筈だ。

 火葬されなかった死神が……堕天したままどこかで生きている。

 神々の寿命が3000年というなかで6000年という無茶な数字をインプットしたのは、“彼”が、人々のバイタルを何かに利用しているからだ。

 そうでなくて、バイタルだけを奪いつくし、それをどこかへ転送する奇妙な装置を開発する意味などない。

 彼は人間のバイタルを自身の寿命へと変換する仕組みを開発でもしたのかもしれない。

 それは織図の強引で直接的な決め付けでしかなかったが、彼にもっともらしい説明を与えてくれた。

 そしてDA-インディケータは織図の期待通りの結果をはじき出した。


“一致! それみろ……”


 火葬されなかった死神の名はたった一柱だけ抽出されていた。

 水くみの子供たちがもうすぐに帰ってくるという頃、織図はどことなく哀愁を漂わせるどす黒い液体を裸足の子供らが踏む事のないよう丁寧に砂の中に埋め込んで、真の敵を追うべく灼熱の空に舞った。



 彼の居場所は、どこだ……。

 織図が推測するに、一度崩御したと発表された神が他の法務局の偵察衛星の監視の目をかいくぐり生物階で生きてゆく事は並大抵のことではない。

 しかし事実としてそれを可能としてきた相手もさるもの、アトモスフィアの放散を完全に絶っているらしく、生物階にはそれらしき気配すらも感じられない。

 それもそうか、と織図は彼の見通しの甘さに呆れた。

 少しでも怪しい気配を感じようものなら、生物階降下中の他の神々やアトモスフィアに関しては高感度センサー並みに敏感な使徒が気付かずにはいられなかっただろうから。

 誰にも見つからずアトモスフィアの放散を隠し生存を可能とする場所があるというなら……それは地下だ。

 アトモスフィアが化学物質である限り、地下深くの、たとえば分厚い鉛の壁に囲まれたような部屋の中でなら見つからないということもありうるか――。


“彼”はまさに鉄壁の要塞に守られているのだろう、生に対する執着が強く、しかも臆病な性格だ。

 追跡転移を日常的に使う織図は、“彼”がどんな辺鄙な場所にいようとあまり関係がない。

 “彼”のアトモスフィアを感じることさえできれば……。

 だがその至極簡単なことが、困難をきわめている。


 織図は生物階の地形をもとに見当をつけながら、四日四晩というもの“彼”を捜してくまなく飛び回った。

 その甲斐あって織図はとある不審な場所を突き止めることができた。

 織図はとうとう“彼”のアトモスフィアを感じることはできなかったが、アトモスフィアではなくあるものを目印にして捜していたからだ。

 それはほんの少しの、しかしよく着目していれば一目瞭然の変化だった。

 織図はDA-インディケータを起動し、礫による圧死者の記憶を回収するために開発された技術を応用したコマンドを入力する。


“Analyze the stratal organization with the use of gravimetric prospecting procedure”

(重力探査法を用い、地層構造を解析せよ)


 DA-インディケータはピ・ピ・ピ……と規則正しく小気味よい電子音を鳴らしながら、上層から下層へかけて逐次解析像を結んでゆく。

 30秒ほど待つと、巨大な空洞が50mの深度に存在するという結果が現われた。

 詳細な鉱物構造解析によれば、金属質を多く含む洞窟のようだ。

 織図は周囲をゆっくりと歩みながら、洞穴への入り口を捜す。

 入り口は必ずある、何故なら最初に入るための入り口がなければその後に瞬間移動を用いる事もできなかっただろうから。

 DA-インディケータの画像をもとに、入り口とおぼしき洞穴を見つけた。

 だが同時に、その上には岩盤が崩落し、入り口は封鎖されているという一喜一憂の状況だ。


 織図はさも面倒だというように一つため息をつくと、何を思ったか、洞穴の近くの岩穴の巣で寝ていた子ツバメをみつけて一羽捕獲した。

 子ツバメは怯えることも暴れることもなく、きょとんとしたあどけない顔で織図の顔を見ている。


「お前、すまんが少し使われてくれるか?」


 織図はツバメの脳が唯一理解できる磁気という言語を用いて、彼女に洞穴の中を偵察してほしいと頼んだ。

 彼女を両手で洞穴の奥に差し入れて放つと、子ツバメは不本意ながら織図に操られる形で、よたよたと暗い洞窟の隙間に入っていった。

 5分後、子ツバメはまたよたよたとほこりをかぶりながら、ぴょんと岩の隙間から出てきてピィと鳴いた。


「よし、よし……何が見えたか、説明してくれ」


 織図はツバメが解する磁気という情報をDA-インディケータで画像変換する。

 しだいに、子ツバメが見た洞穴の中の風景が再現されてきた。

 織図は真剣な面持ちで頷きながら、その間に子ツバメをまたもとの巣穴に優しく戻してやった。

 子ツバメが見た光景を磁気に変換し、磁気をまた画像に再変換し、織図の脳に正確なイメージを映じる。

 “見たことのないものを見たことにできる”織図のポテンシャルは先天的な視覚障害があってこそ獲得したもので、他神は持ちえない非常に個性的な能力だった。


“同調転移”


 織図は曲芸的な試みで、洞窟の内側に潜入する。

 彼は足場の悪さを警戒して浮遊しながら、DA-インディケータで位置情報をはかり安全を確認しつつ進んでゆく。

 さすが隠者の住まいらしい趣きで、硬い鉱石の鉱窟は地層の隆起により天然にできた空洞のようだ。

 なにげなくペンライトを向けると、何かしらの鉱石が反応して青い残光を湛えている。


 織図は急な傾斜を下り地下水脈に潜って、正確無比のナビゲーションを頼りに何度も分かれ道を選びながら深奥へと分け入っていった。

 そうやって1時間ほども進むと突如、洞穴の天井が高くなり、頭上にこれまでにはなかった竪穴が出現した。

 構造解析を行うと、竪穴の奥は広いスペースが存在する。

 その頃にはもう織図は、ようやく漏れ出してきた“彼”のアトモスフィアを感じ取っていた。

 織図はずぶ濡れの黒衣の裾を両手できゅっと絞って気合を入れなおすと、怯むことなく跳びあがり、暗闇の中に捜していた人物の姿をみとめた。


 彼とは……紀元前34世紀、生物階において古代中国では伝説の王、伏義が生き、シュメール文明が栄華を誇り、楔形文字が発明された時代に死神として在位し記録上では崩御したとされている神だ。

 50世紀もの悠久とも思われる時間を、彼は神階の目から逃れ続けてきた。


『エア(Hyy)、だな』


 織図は古代アッカド語で彼に話しかけた。

 より新しい言語であるエジプト語(コプト語)でも通じたのかもしれないが、彼はわずか紀元前3380年から3250年までの在位期間の後に崩御したということになっており、当時神階で置換言語として用いられたエジプト語を知らない可能性があった。

 織図がアカデミーの教養課程で学んだ古代語を使うのは初めてだが、彼が後世の言語を知らないのだから織図が合わせるほかない。

 彼は外見だけ見れば5000年以上も生きた老神のようでもなく、青年神と呼んでも差支えがなさそうだった。

 彼がどうやって生きながらえてきたのか、織図にはそのからくりにぴんときた。

 皮衣からはみだした素肌は瑞々しく張りがあり髪の毛にも艶があるが、落ち窪んだ眼窩と光を失った瞳だけは間違いなく老神そのものだった。


“なるほど、義体ね……”


 彼は全身の殆どを義体化し人々のバイタルをホムンクルスに奪わせて転送し自らのものに代え、僅かに残った肉体のバイタルを増強させて維持していた。

 その機巧を見た織図は醜い、生に対する彼の執念に心底ぞっとさせられた。


『死神か……何故ここに辿り着いた』


 どこか機械じみた声というよりは音声に近い耳障りな音が、喉の辺りから振り絞るように聞こえてくる。

 織図はそのみすぼらしく哀れな有様に、ひどく失望した。


『普通は大先輩に意見するのも憚られるもんだが、そうもいかねえ。雀の涙ほどもない人間のバイタルを奪ってまで生きながらえて、何が満足なんだ……?』


 どんなに道を違えても、人々や神階の為に尽くす事がどんなに理不尽であろうとも、神はこう成り果ててはならない。

 神としての誇りにかけてなどという高尚な美学を掲げずとも、人にも動植物にも、そして神や使徒にも、踏み越えてはならない一線というものがある。

 青々と生い茂った葉は、つぎの葉のために散って朽ちなくてはならない。

 その時がくれば譲らなければならない。

 次の世代の未来の為に生命活動の場を譲り、未来への希望を託す。

 たとえ一枚一枚の葉は散っていっても、それらは幹を太らせ、美しい花を咲かせるために必要なことだ。

 それが死という過程の意義だと、織図は考えている。

 そして一枚一枚の葉は均しく生きたいという渇望に満ちている。


 だからたった一枚の葉が全ての葉を枯らして犠牲にしてはならない。


『盗るなよ、ヒトのもんを……もう二度と、返ってこねえんだぞ。あんただけが、生きたい訳じゃないんだ……』


 織図は突き放すように、冷静に言い放った。

 すると、エアはギリギリと義体の軋む音を立てながら、織図を見下げたように小首を傾げてみせた。


『たかが、人間の命だ。何が悪い。100年もせぬうちに滅ぶもの、何の実りを結ぶ事もなく、本能に身を任せて雑草のように蔓延り、這い蹲う醜い虫けらだ。そんなものに何の価値がある? わたしは生命の農夫だ。黙って刈らせろ……汝が腹を立てる道理もない』


 しわがれた、生気に乏しい声だった。

 織図はぴくり、と片眉を吊り上げた。

 自らをけなされたわけでもない、何故不快に思わなければならないのかも釈然としないが、ただ聞き捨てならなかった。


『ああそうか、そんな道理はないよな。だがな。あんた神階を逃げ出してから人間の何を見ていた……俺はジーザスみたいな愛好家でも慈善家でも何でもないがな……飽きるほどせせこましくて、愚かで小さな営みも、バカやってるのも、ない知恵を振り絞ってるのも、毎日見続けてきたんだよ。あんたみたいな下衆に命を奪われ、死してなお侮辱される道理だってないんだ……!』


 織図は胸元の黒衣を鷲掴みにしていた。抑えきれない怒りが、爆発しそうだった。


『奪った命は贖ってもらう!』


 織図の怒声が洞穴にこだました頃には、Living Twibilを抜いてエアにおどりかかっていた。

 重力加速度と全体重を浴びせかける。

 重いハンマーのように振り落とされる彼の威圧感は……現役の死神が本気で懐いた殺意に触れては、エアといえども逃れる事は不可能だった。


「天誅殺!」


 エアはその義体を織図のLiving Twibilに雲母片のように薄く薄く粉砕されてゆきながら、彼の意識が消えはてるその瞬間まで、何故織図の怒りをかったのか、とうとう理解できなかった。

 織図は無残な姿となって瓦礫の中に埋もれてゆく、エアを振り返る事もなく見殺しにして洞穴をあとにした。



 ひとしれずエアを葬った織図は静かに、地上の空気を吸いこんだ。

 ふわりと、花の香が肺の中に滑り込んでくる。

 見渡す限り一面の花畑の中で、彼は誰にともなく呟いた。


「何故俺がここを見つけたのかと、訊いたな。……神という存在は本来、奪うものではなく与えるものだ。それを忘れた奴だ、気付く筈もなかっただろう」


 無数の人々の命を奪いながら、この土地に染み付いた彼のアトモスフィアは、不毛の大地に命を芽吹かせた。

 穴の中に引きこもっていたエアには見えなかったのだ。

 地上では草花が幾重にも咲き乱れ、豊かな緑に覆われている。エアは知らなかったのだ、彼が長きにわたり育んでいたものを。

 彼が奪った命は大地に還元され、大いなる生物階の生命活動の一部となっていたということを。


「地上のどこを探しても、春夏秋冬の花々が一度に、一茎も枯れず咲いている場所などないんだよ……」


 ひとつの仕事を終えた織図はようやく、おあずけにしておいた煙管にたっぷりと刻み煙草を詰め込み火を入れようとしたが、凛として咲き誇る花々に煙を浴びせる無粋さを厭い、名残おしそうにもとの煙管ケースにおさめた。

 彼は岩肌に、黒衣に包まれた褐色の身体を横たえると、久しぶりに安心して睡眠をとった。



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