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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第三節  A story about nature, science, civilization, and humankind
107/117

第3節 第4話  Arrival of June 24, 2011

 2011年6月24日。


 X-デイと名付けられたその日の訪れを、セウルの隔離した切離空間内の神階にて迎えた人々は、使徒階各層の草原にひしめきあって、パブリックビューイングのモニタに映された神階中枢部のセウルからの情報を待っている。

 人々も神々も使徒も関係なく、生物種と立場を異にしてはいても、恐らくは同じ心境を味わっているのだろう。

 審判の日を待つ咎人のように。


 滅亡のときは来るのか。

 その瞬間の先も、時間は続いてゆくのか。

 あるいは、時間の端を覗き込むことになるのか。ただ、彼らは身を寄せ合って答えを待つ。


 彼らが元いた空間、恒が臨んでいるであろうグラウンド・ゼロ付近の映像を、切離空間内から見ることはできないのはもどかしかった。

 セウルも、向こう側で何が起こっているのかを正確に把握するのは困難なようで、詳報は出てこない。

 空間を隔てれば千里眼の見通しも悪い。せめて未来を見通せる方法があれば、とセウルは考え、切離空間内の時間をワームホールを用いて元空間より遅らせることも思いついたが、実行には移さなかった。


 あと24時間、10時間、1時間、30分と、カウントダウンクロックの読み上げが放送されるたび、溜息や悲鳴が上がる。

 残り30分になったとき。それまでにもセウルは人々の懸念を取り除く為に何度も切離空間を取り巻く環境の安全性を強調してきたが、彼に注目するすべての人々を安心させようと、改めて言葉をかけた。


「どうか不安にならないでください。この空間はグラウンド・ゼロとはつながっていません。何も起こりえません」


 心細くなった人々が最後に崇め、縋るのは、結局はセウルのような超越者なのだ。

 元絶対不及者のセウルに対していかなる歴史的反発があろうと、彼を頼りにするしかない。

 なお、藤堂 恒の最後の計画は、生物階の人々に明かされることはなかった。

 知っているのは、神階中枢部に招聘されたわずかな有識者たちだけだ。


「あなたがたは生き延びます、この先もずっと。わたしがあなたがたを守ります」


 元絶対不及者セウルは、彼を信頼した人々と契りを交わすように、確信に満ちた口調でカメラに向かって断言した。

 ただ、切離空間はおよそ2万年の間もちこたえるとしても、全てが元に戻るのならば……それが最善であることは言うまでもない。

 セウルは願わずにはいられない、INVISIBLEの齎す結果が奇跡であることを。

 恒の持つ絶対不及者抗体という免疫システムが絶対不及者に対して効果を発揮する筈だ。

 人と神の間に何の遺伝的因果関係もなければ、恒の抗体が効果を発揮するわけがないが、実際はある可能性が高い。

 同様に、神に憑依するINVISIBLEも、人間と共通点が多少はあるだろうとセウルは予測している。


 最後の最後まで、セウルは計算をやめなかった。

 とはいえ何かが間違っていたとしても、もう修正できる段階にはない。

 向こう側に残してきた恒に、伝える手段もない。それでもセウルは目を閉じ思考する。

 これまでの計算に間違いはない。グラウンド・ゼロへのINVISIBLEの収束まであと3分だ。順調すぎて、恐ろしい……見落としはないか、何か。

 高須賀の結果をもとに、INVISIBLEとレイアの通信を傍受していたセウルは、やはりINVISIBLEがレイアに自身を”人間だ”と自己紹介しているのだと気付く。辛うじて読み取れたシグナルは、そこまでだった。


 INVISIBLEはレイアに何かを伝えたがっている、ところが、その次に続く言葉がセウルには分からない。

 ただセウルの聞いた限り、穏やかな呼びかけだった。

 破滅につながるものではない、と信じたい。


「嵐が過ぎ去ります。ただそれだけです。落ち着いて追報を待ってください」


 やれることはすべてやった、やりつくした。


 一方、もう戻ってこないかもしれない、我が子をグラウンド・ゼロへと置いてきてしまった志帆梨は、セウルのコメントも聞かず、ただうなだれて、玄関に鍵をかけた自室でその時を待つ。

 セウルは最新の情報を伝えてくれるだろうが、それが喜ばしいものばかりではないと、志帆梨は知っていたからだ。情報をシャットアウトして、その時を迎える。

 恒の決断と、彼に寄せられる世界中からの無責任な期待に、志帆梨が口を挟むことはできなかった。

 たとえ止めたとしても彼は残るだろうし、彼は絶対に満足しないのだ。志帆梨も一つ決めていたことがある。

 それは願掛けも兼ねて。

 恒が戻ってこなければ、私は死のう。


 息子がいなければ、この世界で生き永らえたとて仕方がないのだ。しかし――


「藤堂 志帆梨さん。それだけは、思いとどまってくださいね」


 部屋の隅で小さくなってうずくまっていた志帆梨の横から、彼女を心配そうにのぞきこむ遼生と目があった。

 神を相手にすればいくら部屋に鍵をかけても無駄、遼生は瞬間移動で現れたのだ。

 志帆梨は心を読まれないよう、そそくさと視線をそらす。

 それでも遼生には、簡単に見透かされていたのだろう。


「い、何時の間にいらしたのですか」

「彼に頼まれているんです。あなたが、心配だからと」

「恒が……?」


 志帆梨の瞳に、一瞬光がさしたが、すぐに消えてしまった。


「早まったことを考えないように。もしそんなことをしようものなら、僕が止めますからね」


 柔らかな口調ではあるが、有無を言わせる様子はなかった。


「私のことは、放っておいてください。もう、いいんです。一人にしてください」


 志帆梨は力なく項垂れる。


「志帆梨さん。僕はあなたと恒に謝りたい。あの場所に行くべきは、僕だった」 


 悲しむ母親を置いていかなければならなかった恒と、遼生はかわってやりたかった。

 最初からそのつもりだった。だが今それを言ったとて、何になるだろう。


「いいえ。恒は……あの子は話してくれましたよ。何故、自分がそこに行かなければいけないのか。皆の為に、自分に何ができるか。私は納得しています、納得するまで時間をかけて話をしてくれましたから。自分でなくてはいけないんだと、恒は言っていました」


 志帆梨が彼の口から聞いた最後の言葉は「生んでくれてありがとう」、だった。


「志帆梨さん。その時まで、ここにいていいですか」


 返事がなかったが、拒絶の意思もなかったので遼生は志帆梨の傍に座った。

 遼生はうずくまる志帆梨に何か言葉をかけられるでもなくただ寄り添いながら、虚脱感と罪悪感に苛まれる。


”まさかこれほど、蚊帳の外にされるとは思わなかったな”


 恒にAnti-ABNT Antibodyを破壊されたために、二人でINVISIBLEに立ち向かうことができなくなった。

 せめてその場に立ち会いたいと考えても、ただ何もできないまま原子の藻屑にされに行くようなものだ。

 それならば、自己満足で死んでくれるな、と恒は遼生に諭された。

 恒がとどめに言い残した言葉が、最後の約束が遼生を縛っている。


”ときどきでいいから、母や朱音の様子を見てあげて”


 そして、朱音が生物階で暮らせるようにしてあげてくれ。

 何か、二人とも滅多な事を考えていそうだから。

 そう添えて。朱音という少女には、先ほど会ってきた。

 彼女は彼女の家族と一緒だったので、ひとまず恒の義理の兄だから、何か困ったことがあったらいつでも連絡して欲しいと伝えてきた。

 朱音は、恒の最後になるかもしれない任務について、殆ど知らされていないようだった。

 彼女の家族が隠したのだ。よい判断だと遼生は思う。


 遼生は志帆梨と朱音にいずれ渡さなければならない、かもしれないものがある。

 もし恒が戻らなかったらすぐに彼らに渡す手紙と、十年後に彼らに渡してほしい、という手紙。

 二通ずつ預かった。


 それは遺書と、そして、未来の彼らに向けての手紙。


”俺は今まで、それなりに楽しかった思い出もあるからさ。あ、それとこれは兄さんへ”


 そして、思い出したように遼生に差し出したもう一通。

 やはり十年後の遼生に宛てたものだった。


――みんなの思いを俺がまとめて持っていくから、来なくていい――


”完全に、恒の方が上手うわてだったな”


 朱音と志帆梨を守ってやってくれ、そして手紙を渡してくれ、という、無碍には断れない理由をつけ言いくるめ、遼生の特攻的で無謀な行動を制したのだ。

 最後に見せつけられた彼の優しさ。

 生まれつきのずるさでもあった。


――あと、俺は帰って来るつもりだから。手紙はあけなくていいよ――


 彼はとうとう最後の最後まで、嘘つきだった。

 彼の覚悟がどれほどのものか、遼生にはMRIで簡単に分かってしまうと言うのに。

 帰って来るつもりなど、可能性など1%も満たないくせに――。

 死後の段取りをつけられてしまっては……無駄死になどできなくなってしまった。


 それを頼むのは、何も僕じゃなくてもよかったろう!

 彼は完全に上手だったのだ。

 でも約束をしたからには、守らなければならない。

 戻ってきたら、辛気臭い手紙を彼の目の前で遠慮なく破り捨ててやろうと遼生は思う。


――だから、戻ってこい、恒。手紙は絶対にあけないから――


 *


 防護服を着て、もうバイタルロックはかけない。

 これが最期と退路を断った、そんな殊勝な心意気ではなく、不思議と彼の心境は凪いでいた。

 それどころか、彼は肌の上を薄く覆い尽くす、喜びに似た感情に驚きを感じていた。


 恒のいる宇宙空間は、レイアの背から離れたスティグマが固定されている座標だ。

 防護服の外にあるのは身を切るような宇宙温度と、こんな日にも変わらず注ぎかけられる太陽の熱と放射線の放射。

 燃える太陽の、なんと明るいことか。

 結局、大質量ブラックホールはセウルの言った通り三次元世界に影響を及ぼすことはなかった。

 セウルはこれまでのところ、計算を狂わせていない。

 それは吉川皐月の助言も大きい。

 この銀河世界、太陽系も見納めかと思えば、恒は時計を見ながら暫し感傷に浸る。

 切離空間内に移動したものは、地球、月、将来的に質量を利用できそうな木星、太陽の代わりとなる手ごろな大きさの赤色矮星。

 それで十分だった。当初、太陽系すべてを転移させるなどと言っていたが、全ての太陽系内の惑星を移動しても、人間は満足するだろうが、あまり意味がない。

 それよりは、有用な天然資源や燃料を持つ、手ごろな大きさの星を転移させて今後の神階、生物階双方の備蓄資源とした方がいい。

 というわけで、特務省職員たちによって数々の星や小惑星らを、国連との摺合せのうえで移動させた。

 木星を移動させ、自らの質量を捻じ込み赤色矮星とすると息巻いていたであろう遼生を恒が「今から星を造っても放射が安定しないから」と説得し、太陽の代わりに軽い赤色矮星を真っ先にセウルに、遼生には予定通り木星を移動してもらった。

 太陽を移動させるのは骨が折れた1/8エネルギー準位のセウルも、赤色矮星の移動には問題なかった。


 地球の切離空間への転移は、陽階主神たる比企によって責任を持って先日行われた。

 

 超空間転移で切離空間に浮かべた数個の惑星は、事前のNASAの科学者たちの緻密な計算にも関わらず、恒星の小ささの影響もあってか上手く軌道に乗らなかった。

 乗ったとしても、そのままではハビタブルゾーンにならない。

 そこで、遼生が軌道を曲げ、切離空間内の7/8のセウルが調整し、ようやく地球を生物の生存できる世界に落ち着けた。

 地上の動植物たちは、数十日間短くなる1年に戸惑うだろうが、それも時間をかけて元の地球環境に近い状態に調節してゆけばよいとの当面の見解を、セウルは出している。


 最後に避難したのは、神階だ。

 神階から地球への帰還を望む人々は、早くもゲートを介して帰還をはじめる準備が整っていた。

 農業、畜産、漁業関係者のほか、ペットを家に残してきた人々も戻るだろう。

 彼らの見上げる夜空に、もはや銀河の星は瞬かない。夜空にあるのは数十の、見慣れぬ星だけだ。

 その状況を彼らは寂しく思うだろうが、やむなしと諦めてもらう他にない。


 向こう側への移動は基本的に一方通行だ。

 向こう側の世界がどうなっているのかは、こちら側にいる恒には分からない。

 が、セウルや神々が、全力で生存戦略を図ってくれるだろう。


 恒は彼らに別れを告げ、最後の三日間、NASAの保有していた生命維持用カプセルの中で、誰もいなくなった宇宙空間に一人、その時を待っていた。


 遂にここまできたのかという、達成感にも似た思いが、恒の意識を無の境地に導く。

 どちらかといえば、切離空間をセウルが創世したその時のほうが緊張をしていたように思う。

 準備は整っている、神階と地球は切離空間によって安全に切り離され、恒の大切なすべての人々、恒の愛する故郷も安全な場所に切り離されている筈だ。

 この空間に残っているのは恒だけだ。全世界の人々と、そして神々からの熱い希望を背負ってはいるが、彼は自分の為にここにいるのだと言い聞かせた。

 共にこの場に立ち会いたいと言った神々……遼生や比企、織図らを説き伏せ、切離空間に送った。

 彼らは新しい世界を、セウルと共に守ってゆくという仕事がある。

 それに、絶対不及者抗体を持っているのは恒だけだ。

 どのみち、その瞬間を目撃することも抗うこともできないのだ、なら一人でいいと言って。


 もっとも、逃げられないわけではない、切離空間に超空間転移をかければ逃げることはできる。

 自らの意志で彼はグラウンド・ゼロにいるのだ。志帆梨の言葉を思い出す。



 ――人間が一生に一度でも世界中のみんなに必要とされて、

  皆のために役に立てることって、ふつうは一度もないものよ――


 その通りだ。と、恒は同意する。畏れはない、むしろ嬉しいのだ。

 誰かの役に立てることが、たまらなく嬉しい。


 レイアやユージーンも同じ心境を経験したのだろう。


 恒の見つめる、いつもと変わらぬであろう太陽は、朝日だろうか夕日だろうか。

 陽の光はもう、地球を照らさない。

 恒の頬を強烈に照らしている。


 今の自分は、三年前、泣きながら太陽に誓ったあのときの自分とは違う。

 神とはそう生まれつくものではなく、血反吐を吐いて努力してなるものなのだとメファイストフェレスに教えられたあの日。


”あれから、俺は少しでも神様らしくなれたのかな”


 満足とはいえないが、こうしてこの場に穏やかな気持ちで臨めるのは、それなりに意味があることだとは思う。

 残された日数、セウルに手伝ってもらって抗体の活性強化も怠らなかった。

 岡崎や人間の遺伝子工学の研究者たちとともに発現の活性を上げる方法も模索してきた。

 今日と言う日を、INVISIBLEの収束するその舞台に、ユージーンと二人で立つと約束していた。

 いま、恒はたった一人でここにいるのだけれども、一人ではない。

 やっと彼らに会えると思えば万感の思いだった。

 

”久しぶり、ユージーンさん。そして、レイア。俺は約束通りここに来たよ”


 すぐそこに彼らの存在を感じる、確信を懐いている。


 耳を澄ませば、レイアの存在もユージーンの声も、その呼吸すらも耳元に聞こえる気がした。

 いるのだ、存在する次元は異なっても彼らはそこに。


 ――見えないが、そこにいる。

 だからここにいるのは四柱だ。

 そう思うと恒は決して孤独ではない。

 それに、数多くの人間と神々に今も異世界から支えられている。


 結局のところ、生命と宇宙は切り離すことができないが

 人も神も、宇宙に依ってではなく誰かに依って生き、そして誰かのために満ち足りて死にたいのだ。


”はじめましょうか、恒。そろそろ時間になります”


 恒の脳の片隅でセウルがささやく。

 彼もついてきてくれた。

 セウルは切離空間の中に移動する前に、共存在で彼の意識をごく小さく分け、その欠片を恒の脳の中に残してくれた。

 恒の全神具適応性という特殊な体質と、改造された相転星、さらにはセウルの相転星の操作技能が、恒という神体の中に結集している。


”いきましょう、セウルさん”


 恒は酸素ボンベをくわえ、防護服を脱いだ。

 もう息はしなくてもいいが、意識は最後まで持ちこたえなければならないからだ。


 神具は素手でないと扱えない。

 アトモスフィアを纏わせている限り、指先が凍えることはない。

 指がかじかんで、コマンドを間違えては困るのだ。


 いつだって、頼りになるのは相転星こいつだ。

 荻号要、ユージーン、荻号正鵠らにとってのアトモスフィアをたらふくに吸い、彼らのよき相棒でもあったこいつ。

 使う者を選ぶという超神具を、恒は掌中に収めている。

 比企の手によって修理された相転星の三環の、最外殻のロックを外す。

 カチン、と手ごたえだけを指先に感じる。

 相転星の入力方式は直接入力。

 音声によるコマンドを破棄。

 7/8セウルによって予め充填されたアトモスフィアを原資に、無詠唱コマンドにて直接入力から超神具を起動する。


 ぎょろりと、相変わらず不細工な「ザ・パーフェクトムーン」が開眼し、超速演算中枢が目覚めコマンドの受理をはじめた。


 シミュレーションでしかないが、練習は入念に、何度もしてきたのだ。

 焦らなくていい。

 角度入力はゆっくりでいい。

 セウルも、1秒間に1コマンドのペースで、相転星の観を組換え、角度を入力してゆく。

 HEIDPAの軌道をずらすための全てのコマンドは、セウルが予め皐月らと共に計算している。

 恒はセウルに意識を渡して、彼に指先を貸すだけでいい。

 相転星はHEIDPAのコンソールだ。しかし比企の修復が、以前の相転星と完全に同一であるかはわからない。

 ひょっとすると、修復時に何かのミスが起こりHEIDPAが動かないかもしれない。

 規則的に恒の手に伝わってくる振動が、時計の秒針のように聞こえる。


 数式入力ではなく角度入力のみのコマンドの入力は、およそ10分間も続いた。

 恒の与えたコマンドは、600を越える。

 相転星の超速演算中枢……月と星のレリーフが、その不細工な口を震わせながら、インプットからの演算を続けている。

 相転星の超速演算中枢が赤黒い輝きを放ち始めた。

 沸々と煮えたぎるマグマのように赤みを帯びてきた。そのような相転星を見るのは初めてだ。

 反応してくれ……祈るような気持ちで


 ガチガチ……ン。

 最後のコマンドを与える。


”相間転移せよ”


 恒は意識の中で鋭く呟いた。

 相転星を御した超越者にのみ許される、発動の一言。

 パーフェクトムーンは、コマンドを受理した。

 コマンド完成と共に真空中にリング状に飛び出した、虹色の波紋を恒は微動だにせず見送る。

 その輝きは暴力的なものではなく、赤や青、翠などと変化を続ける光の帯、オーロラのようだ。

 相転星の制御情報を伝える光のシグナルは、瞬く間にHEIDPAに届くのだろう。


 相間転移星相装置(SCM-STAR)の出力結果が、ノーボディによって敷設されていた超エネルギー星間暗黒加速器(HEIDPA:Hyper Energy Interstellar Dark Particle Accelerator)の二本のビームラインの軌道をほんのわずかにずらす。


”反応したようです、HEIDPAの軌道は……動き始めています”


 セウルが恒の脳裏で嬉しそうに成功を告げる。

 マクロスケールでの観測は、セウルの俯瞰的千里眼あってこそだ。

 星間レベルで建設された暗黒物質加速器の中を巡る素粒子は、闇神の飴原いもとの報告した通り、小惑星や衛星、いくつもの星の間を少しずつ内向きに曲げられながら抜け、その強力な電磁パルスによって超加速され、何百年も前から大きな円を描くように既に駆け巡っている。


 二本の暗黒物質のビームラインの軌道をコントロールし、加速した素粒子を正面衝突させ、グラウンド・ゼロを特異点の向こうに押し出するための超エネルギーを、このグラウンド・ゼロの座標に抽出する。


 成功すればINVISIBLEの収束から三階を保護せしめ。

 それがたとえ、一時的なものであっても。

 しかし、グラウンド・ゼロのまさに爆心地に立ち会う恒の命はというと――。


 どう楽観的に見積もっても、生還はありえない。

 生還にはもう固執していない。

 全ては1秒の何千万分の1の間の、束の間の出来事となるだろう。

 グラウンド・ゼロは隔離される。


 全てが始まるか、全てが終わるのだ。


 そして――セウルの組んだコマンドはグラウンド・ゼロと現空間を結ぶEinstein-Rosen bridge(アインシュタイン・ローゼン橋)を僅かな間ではあるが、保持するだろう。

 グラウンド・ゼロは現空間から見かけ上は切り離され首の皮一枚で繋がることとなる。

 その橋を繋ぐ僅かな時間が、ゼロではない限り、INVISIBLEはやってくれるはずだ。

 切り取られた座標の中で、INVISIBLEは誰にも、どこにも被害を及ぼすことなくグラウンド・ゼロに収束することができるはずだ。


 閉じた時空の中で、彼の自我の修復は完成するだろう。


 INVISIBLEは意識を取り戻し思考を立て直したなら、この世界に戻ってきてもらわなければならない。

 生還すべきは恒でなく、時空の狭間でいまも悲鳴を上げているであろう、彼だ。


 恒は役割を終えた相転星を平面に戻し、パチンと閉じる。

 意識の続く限り、HEIDPAのビームラインの衝突するその瞬間まで、満点の星空をその目に焼き付けた。

 幻燈のようにまたたく星屑の銀河を、白く燃える太陽の輝きを何と美しい、と彼は思う。

 絶景の中で、その時を迎えられるのは、彼にとって最高の幸福だと思った。既に、指は凍り付いていた。


 それでも、死と引き換えに放たれる恒のアトモスフィア、

 INVISIBLEに対する最後の制御機構、Anti-ABNT Antibodyは、間違いなく発揮できるだろう。



”帰ってきてくれ、俺はここにいるから”


 空間を貫き世界を支持し、聳え立つ巨大なひとつの柱……。

 INVISIBLEが世界にもたらすのは再生か、あるいは――。


 ぱっ。


 HEIDPAの二本のビームラインの、正負双方向からの暗黒物質の衝突と共に、恒の見開かれた双眸に、無尽の閃光が飛び込んできた。

 そしてそのまま、閃光は拡大して彼の視野を覆い尽くした。


 いま、この瞬間に。

 波動関数は収束する。


”教えてくれ。答えは、どっちだ”


 ああ、これでは眩しすぎて何も見えない。

 この目が潰れて結末を見届けられないのだけが、心残りだ。


 少年神、藤堂 恒の時間は、極限にまで歪曲された時空によって、痛みすらなく切断された。


 *

 

 築地と長瀬はまた、切離空間内での生物階と神階再建のために激務に追われる比企や神々たちを遠巻きに見ながら、


「ど、どうなってしまうんや。手伝えることないんかいな」 


 気持ちは焦れど、彼らはあまり戦力にはならない。

 そもそも、あと残り10分という時間まで切羽詰まってしまったら、あとは冷静にこれまでの人生を振り返り、走馬灯でも巡らせるのが、歴史的には由緒正しいハルマゲドンの迎え方だろう。

 だが、奔放な築地とお転婆な長瀬がそんな雰囲気になるはずもなく


「思えば、ギャンブルに始まり、ギャンブルに終わる人生やったな」


 築地の大学時代に入り浸ったパーラーでの日々を回想していた。

 満面の笑みで千両箱を抱えて換金した……思い出などは殆どないので、やはり摩った日の方が多かったのだろう。

 彼の本分である研究では比企のおかげで当たりを引くことが多かったが、浮き沈みの激しい人生だったな、と思い起こす。


「まだ終わらないってば」


 長瀬が頬を膨らませる。長瀬は築地に比べ神階で様々な功績を残していた。

 持ち前の度胸で神階中枢部に入り込み、分子系統解析に明るい高須賀 滋を送り込んだのも、彼女の功績の一つだ。


「頑張って! 何かよくわからないけど、藤堂くん頑張って! あきらめちゃだめ!」


 長瀬は跳んだり跳ねたりその場を回ったりと、色々と興奮も絶頂の様子だった。

 高須賀 滋らが急遽組織したゲノム解析チームは、人間と神々が遺伝コードこそ違うもの、同一の遺伝的由来を持っているということを突き止めていた。

 卵が先か、鶏が先か。

 相関関係も緻密な解析とクラスタリング解析によって迅速に判明した。


 人が、先だった。


 神、そして使徒という種は、遺伝的にホモ・サピエンスから分岐した異種族である。

 これは人類と神階生物の間には全く相関関係などないと信じていた神々にとって、革新的な発見となった。

 何故、これまで一度たりとも相同性解析を行わなかったのかというと、岡崎ら歴代の遺伝子神らがノーボディのマインドコントロールの影響下にあったからだ。

 そう、神々は自ら生まれ出ずることができない生物であり、人類の祖先が類人猿の祖先と種を分けたのが僅か数百万年前であるという時間的な錯誤、そして人間と起源を同じにする筈がないという神々側の先入観も手伝って――真実は驚くほど長期間、秘匿され続けていた。


 次なる問題は、その時間的な錯誤がどうやって生じたのか。

 神階の時間はどうなっているのか。

 その原因を、神階と生物階の物理学者らが頭を付き合わせて今も検討を続けている。


 築地と長瀬には物理学的バックグラウンドがないため、神階中枢部にいながら、藤堂の成功を祈るぐらいしかできないことがもどかしい。

 それに引き替え、セウルや比企らと何やら話し込んでいる、藤堂 恒の担任だったという物理学者、吉川 皐月という日本人は大活躍だな、と築地・長瀬は感心する。

 とはいえ、もっぱら築地と長瀬が案じているのは藤堂のことだ。


「にしても人類と神々の代表が、12歳の日本神の男の子か……これをギャンブルと言わずして」


 なんというのか。

 築地は苦笑する。

 セウルの守りがあるが、この空間もどうなるのかさっぱりわからない。


「でも。最後まで希望を持って、その確率を引くために台の前に座ってるのが正攻法なんじゃなかった?」


 長瀬は、築地も忘れていた必勝法を改めて思い出す。

 そういえば、学生時代に相模原に茶化されたものだ。

 外れ台に座っていたとしても、この台はでるのだと延々信じるような、築地はそんな向こう見ずな男だった。

 いつの間にか彼もその頃を忘れ、守りに入った人生を過ごしていたが。


「せやなあ」

「あはは、そらツッチーだけったい」


 長瀬の自慢の彼氏にして築地の親友の高須賀も、愉快そうに笑っていた。

 高須賀は、あまり悲観的な見方をしてはいないようだ。


「あたふたしても、仕方なかと」

「せやな!」

「大丈夫だよ! 備えあれば、憂いなしだっていうし。きっと私達は……ううん、皆備えたよ」


 がしっと、彼ら三人は一列に並んで肩を組んだ。

 最後の仕事を終え、暇にしていた科学者たちも、混ぜてくれ、だの、悪くないねなどと言いながら築地たちの肩組みに加わる。

 人は歴史的に、大きすぎる試練に立ち向かうために信仰する神々に祈るのだろうが、世界観を覆されてしまった今では、少しでも誰か隣人と繋がることを望んだのかもしれない。

 吉川 皐月もその動きに加わり、右隣の見知らぬ神と肩を組む。ボストロフ教授は皐月に向かってお茶目にほほ笑み、やはり無言で肩を組む。

 吉川 皐月はそっと目を閉じる。静かにその時の訪れに、耳を澄ませていたい気分だった。


『教え子が、私たちのためにあの世界に残ったのですから』


 創世者がスーパーストリングによって奏でる天上の音楽を、この耳で聴くのだ。


『吉川君。私たちには聞こえるだろうか、真理の奏でるハーモニーが』


 人々の祈りと願いは、どこへ届くのだろうか。


「そろそろです。瞑目して、静かに待っていましょう」


 セウルの呼びかけとともに、誰もがそっと瞳を閉じた。

 もはやカウントダウンは必要ない。錯乱したり喚きたてるものも、この場にはいない。

 受け入れるべき、アポカリプスの日が訪れたのだ。



 *


【わたしの正体はただの、ちっぽけな――なんだ。あなたと同じ】


 レイアの動揺を置き去りにしたまま、INVISIBLEは彼女という意識だけの存在に語りかける。


”も、もう一回言ってください。何だと仰いましたか”


 聴覚すらも失ってしまったレイアだが、聞こえていたはずだ、理解もできている。

 しかし、それではあまりにも――。そんな筈はないと、拒絶したくなる。


【人間、と言ったんだ】


 レイアの意識の真上から降り注いだINVISIBLEからの答えは、レイアの予期したそのままのものだった。

 レイアが僅かな間に見た地上の人々は、肉の身体と有限の命を持ち、大地にしがみつき、寄り添い、心優しいが……とても弱くて頼りない。

 それでも、レイアは彼らを忘れない。

 彼女のはじめての友達、未来みきのことも。

 彼らは友を求める。

 彼らは孤独ではいられない。

 人であるという彼も、理解者を求めているのだろうか。


【さあ、時間だ】


 HEIDPAの二つのビームラインが恒の操った相転星によって捻じ曲げられ、反物質と素粒子が交わり衝突した直後、上位次元との通路が開き、四次元大質量ブラックホールの特異点が三次元上に出現。

 グラウンド・ゼロの時間は凍りついた。


 その座標は恒のいた世界から一時的に泡だち隔離され、アインシュタイン・ローゼンブリッジを通じ、恒を内包したまま袋状の空間となる。

 意識体となって上位次元を漂うINVISIBLE、レイア、

 そして下位次元にいるスティグマと恒が、同一座標上に重なったのだ。


 運命の時刻が訪れ、INVISIBLEはスティグマを介して物質世界に降臨する。


【あなたの中で、少し休ませてもらうよ】


 モラトリアムの終わりを告げた。



挿絵(By みてみん)



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