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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第三節  A story about nature, science, civilization, and humankind
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第3節 第3話 From Homo Sapiens to somewhere

 夕飯を食べ終わり、時計を見れば七時半。


 第五層 使徒階にも少し湿気を孕んだ風は吹き、頬を撫で、むせ返るほど草の匂いのする草原には白や黄色の花を咲かせる。

 現実感でいうと、生物階のほうが圧倒的に土くさい。

 昆虫や動物がいないからだ。ミミズも、モグラも、野兎も、飛び交いさえずる鳥もいない。


 そこは使徒たちだけのためにある、使徒たちの楽園。

 居住区から少し離れて、半袖の白いフリルのついたワンピースのまま夜の草原に寝そべる。

 思う存分草原に身を預けていても、朱音の苦手な蚊の心配もなかった。


 ここから見上げる空に、星は見えない。

 月は……ないわけではないが、小さくて青いのと赤いのがふたつ。

 いっちょまえに、満ち欠けはする。

 見上げる空は宇宙ではないから、星は見えないのだ。

 朱音の隣には数日前より一人の女使徒が付き添っていた。

 響 寧々がつかわせた、極陽下使徒の斉木さいき 真智まちだ。


 真智は黒髪でショートボブ、日本人のような容姿の、きりりとした印象の少女使徒。

 彼女は屈託のない笑顔で15歳だと、嬉しそうにそう言った。

 寧々の計らいで、同じ年頃の少女が朱音の保護係にあてがわれたのだ。

 今日の真智は白のノースリーブに黒いジーンズのパンツスタイル。

 人懐っこい笑顔と、爽やかな外見の印象とは異なる甘い声。カッコいい、と朱音は憧れる。


 真智は、響 寧々の隠し子だ。

 白化個体であり抜けるような純白の寧々とは真逆に、少し浅黒く日焼けした、健康的な肌をしている。

 翼はグレーだという。彼女の父親は極陽下第25使徒だ。16年前、比企の第一使徒であった響 寧々は職場で恋に落ち、結婚を決意し、第一使徒を退きたいという旨を総務局に伝えていた。

 第一使徒は神の伴侶となるべく、在任するかぎり独身を貫くのが伝統だ。


 だが優秀で希少な白翼の使徒であった寧々の第一使徒辞退を、総務局は許さなかった。

 引き換えに、寧々の非公式での結婚と出産を許し、第25使徒 斉木と入籍した。

 そして授かった子が真智なのだが、彼女は隠し子としての不遇の扱いを受け、アカデミーに入学することができなかった。

 籍はあるが、神階に認められていない存在だ。

 以来、真智はその存在をひた隠しに隠され続け、同年代の子供達とも遊べず真智は孤独だった。


 そこで朱音ははじめての同年代の同性の友達だ。すぐに打ち解けた。


「今回のことが終わったら、あなた使徒階に残るんでしょ? 私たち、ずっと一緒ね。仲良くしましょ」


 朱音を励まそうとポットにいれてきたホットココアを手渡しながら、嬉しそうに真智は言った。

 真智は寧々の隠し子という身の上から、死刑囚となった使徒の子として生物階に授けられ、人間として生まれ育ち生きてきたという朱音の複雑な立場に共感している。

 そんな真智に遠慮しながらも、朱音は自らの希望を明確に伝えておいた。


「いえ、私は村に帰ります。真智さんとお別れするのはつらいけど……」

「でも、誰のアトモスフィアをもらうつもり? 荻号さまは崩じられたのだし……」


 朱音は荻号の死を耳の早い村人たちに聞かされて、あるいは報道を通じて知っていた。

 彼女はその日は泣き暮らし、翌日からひどく落ち込んだが、荻号の遺体も見つからなかったとあっては半信半疑だと思いなおし、なんとなく気分を紛らわせながら日々を過ごしている。


「で、でも、まだアンプルは持ってます」

「あなたの生き方をどうこう言うつもりはないけど。個人的な意見を言っちゃうと、神階で暮らしたほうが楽だと思うよ」

「楽?」


 神様に従って生きるのが、楽しいのだろうか?

 荻号と一緒に暮らした日々は楽しかったといえるけれども、神階の生活というのが朱音には想像もつかない。


「あなたが思っているイメージは、ちょっと前時代的かもしれない。あなたは生物階で過ごしたのよね。なら、同じよ。人間も使徒も。人間だって宗教にはまって信仰熱心な人もいれば、仕事に命かけてる人もいるんでしょ? 会社のために~とか、社長に惚れこんでお仕えして~とか、四六時中仕事のことばっかり考えて働き詰めの人とか」


 確かに信心厚い人間や仕事人間を見ていると、使徒も人間も同じなのかもしれないと朱音は一部納得した。

 そういう人間は会社でも組織でもトップに上ってゆくが、そうでない人間は家に帰ってゴロゴロしたり、美味しいもの食べて楽しく遊んで趣味に精を出す。


「使徒も同じ、神様に対する忠誠心の強い人は母のように出世して働き詰めの毎日を送ってる。でも私は、母のようにはなりたくないの。将来は仕事も定時にあがって、あとは家族で楽しく過ごすのが夢よ」


 甘えたいときに寧々が仕事づくめで真智は寂しい思いをしていたのだろうな、と朱音は彼女に同情する。

 それにひきかえ朱音といえば、普通の子のつもりでいた。

 人間としての普通の子のつもり、だが。

 そういう意味では、使徒も人間とあまり変わらないのかもしれない。

 

「あ、思い出した。ひとつ大きなことが違うわ」


 思いだしたように、手を打つ。


「お酒を飲んではいけないの。陽階使徒はね、陰階使徒は構わないみたいだけど」


 真智はにこりと笑った。


「私たちはずっと人間をみてきたでしょ。知らなかったことは人間の真似をしたくなるし、知っていることはついつい教えてあげたくなるじゃない。結果、神階と生物階はよく似ているのよ」

「びっくりしたんですけど、日本語が通じるみたいですしね」


 神階で日本語が通じる理由を、何度聞いても嘘だろうと問い返したくなったものだ。

 使徒たちは日本語に非常に堪能だが、敢えて日本語を勉強しているというのではない。

 彼らの話し方は少し方言で訛っているように聞こえるが、どこの県の訛りでもないようだ。

 神階特有の訛りというべきなのだろうか。

 とにかく、彼らの間では日本語とは言わず公用語、ということで通っている。

 アメリカ人やイギリス人が海外に来て英語が通じて嬉しいような誇らしいような、多分朱音はそんな心境だ。


「そうよ。公用語が日本語でよかったね。前は中国語やエジプト語だったみたい」


 そして極め付けに、日本人のような容姿の真智と出会い、親近感がわかないというと嘘になる。


「ここが私の、本来の居場所なんですね……」


 使徒であった実の母親が罪を犯さなければ、今は落ち着かないと思われる使徒階で、それなりに楽しく平凡に生きていたのだろうか。

 処刑された母親のことを聞こうと、敢えて訪ねあるくことはしなかった。

 たとえどんな事情があったとしても、朱音の母親は育ての母、ただひとりのつもりでいたから。

 彼女の母親や弟たちは、意外に早く使徒階の生活に馴染んだ。

 特に弟たちは隣のアパートの子供達と仲良くサッカーなどしている様子だ。

 即席サッカーチームができたというので驚いた。

 ユニフォームがないので、腕章だけをつけてプレーをしているのだという。


 きらりと上空が輝いて、ふと、ふたりは同時にその場から視線をはがされて目を奪われた。

 地球のものとは異なる夜空もどきに尾を引いて駆けたのは青白い流星。願い事を3回口にするには十分すぎるほど、ゆったりとした速度ではるか上空をこちらに向かってくる。

 彗星なんてきっとないから、あれは何の飛行体だろうか。


 そう思って口をあけて見上げていると、彗星もどきが人の形をしていることに気付く。

 神の発するアトモスフィアによく似ていた。

 使徒階に誰か、神が来たのだろうかと注視する。

 神の降臨は珍しくはなかったけれど、夜間の降臨は珍しい。

 朱音の上空で、彗星は速度を緩めた。

 彼女はその見慣れたシルエットに気づいて、空に向かって両手で大きく手を振る。

 人影も朱音の声に気づいたらしく、ゆっくりと降下してきた。


「おーい! こっちだよー!」


 そして目の前に舞い降りたのは、彼女のよく知る人物だ。

 ジーンズと黒いTシャツを着てスニーカー、ときどき白衣姿も見たことがあるが、いつもよりはラフな格好をしている。

 昼間と違うのは、彼がはっきりと見えるアトモスフィアを纏っていること。

 藤堂という彼の名前の通りに、それが青みがかった上品な藤色であることを、朱音は風情があると気にいっている。


「よかった、朱音、ここにいたのか」

「藤堂さま、ごきげんよう。私、外しますね」

「あ、大丈夫ですよ外さなくて」


 真智はいいですから、と遠慮してココアを持って少し離れて、二人の会話を聞かないように気を使った。

 そうはいっても、興味本位で聞き耳はたてていたけれども。


「どうしたの、忙しいんじゃないの? そしてどうしてここが分かった?」


 一年中常春の使徒階の夜は25度ほどだろうか、意外に温暖だ。

 二人は草原の丘の上に腰をおろし、自然と親友同士の会話になる。


「お前の家に電話かけたら不在にしてて、外にいるって言うからどうしたのかと思って」


 使徒階で迷子になってしまったら、二度と戻ってくることができない。

 外は危険ではないが、何しろ広いうえに街灯がない。

 固定電話以外には携帯も使えないとなると、朱音のことが心配で彼は使徒階に下りてきた。

 恒は生物階にいた時から、一週間に一度程度は電話で朱音と話をしていた。

 主に朱音の体調の確認と、あとはくだらない雑談だ。

 彼も色々とストレスがたまるのだろう、恒はあまり多く自らのことを語ろうとはしなかったが、朱音も恒と電話をして楽しかったし、どちらかというと朱音が話す方が割合としては多かったかもしれない。


「何か変わったことがあった?」


 朱音が突飛な行動をとるときは、いつもきまって何か辛いことがあったときだから。

 恒は険しい顔で眉根を寄せながら訊ねる。

 恒は面と向かって話すと容赦なくマインドブレイクをかけてくるので、朱音は早々に本題に入った。


「荻号さんが亡くなったってこと。ニュースでやってたよ」

「そう……」


 ああ、そういえばニュースがあるんだっけな。

 と、恒は渋い顔をした。

 荻号の死は隠せるものなら、暫く隠したかったのだが……。

 彼女は彼の訃報にショックを受けただろうか。

 だが見る限り、彼女の表情はそれほど暗くはない。

 それは真智がいたからだろうか。

 一番辛かった時に、朱音の傍にいてあげられなかった不甲斐なさを悔やむ。


「荻号さん、自分で7回死ねるって言ってたのに、一回でいなくなっちゃった」


 朱音は言いながら、涙ぐんだ。

 恒は彼女にハンカチをかしてあげながら、朱音の肩にそっと手を乗せた。

 まだ荻号のアンプルはあるが……。

 アトモスフィアは放射性物質なので放射性壊変する、いつまでもはもたない。

 早急にとはいかないが、少し心の傷が癒えたら新しいアトモスフィアの供給源を探さなければならないのだ。たとえ彼女がどれほど精神的にそれを受け入れられなくとも。


「荻号さんは村に残って、村を守ろうとしていたんだよ」


 恒は途中まで荻号の傍にいたが、荻号の消滅した現場を見ていない。

 その後、地球から何光年も離れた宇宙で、荻号はブラックホールを残して逝ってしまった。

 誰にも看取られることなく。

 荻号の死は、まだ朱音にとっては曖昧で漠然としていて、死体がなかったものだから信じられなかった。

 彼が存在した証拠である枢環はまだ、朱音の指の中におさまっている。


「荻号さんのブラックホール、私たちを飲み込むのかな。荻号さんはそんなことしないと思うんだけど……皆心配してる」

「ううん、セウルさんによるとそれは大丈夫みたい。彼は凄い神だよ。あんな極限状態の最期の最期に、皆を救おうとしてくれたとしか思えない」

「そっか」


 彼女は安心したように、ほっと胸をなでおろした。

 荻号は彼女の信じていた通りの人物だった。


「これ……荻号さんの代わりに、俺が使わせてもらおうと思うんだ。壊れてたのを比企さんが修理してくれて」


 恒は荻号の形見であった相転星を手の上にのせ、朱音に示した。

 朱音は口元を押さえて、込み上げてくるものを隠しきれないようだった。

 朱音はうん、うん、と辛そうに何度も頷き、ハンカチの中に顔を埋めた。


「うん、恒くんが使って。恒くんが触れられるってことは、それが一番いいと思う」


 朱音は涙をふいて、そっと相転星の上から両手をかぶせて恒の手の中にそれを握らせた。


「でも恒くんは、頑張ってるよね。よくテレビに出るから、私録画してみてるんだよ。天帝さまと恒くんが、みんなのために引っ越しさきの宇宙空間を創ったってニュースを見たの。皆すごく恒くんのこと、褒めてたよ。天帝さまの間近にいてすごく放射線を浴びたっていうから、村のみんなもとても心配してたけど」


 神階では、避難した人々への広報のために薄型液晶デバイスが配られて毎日3回、ニュースを報道している。

 各国ブロードキャストが有志で陰階情報神 有為の協力を元にニュースセンターを立ち上げ、使徒階向けに放送を行っていた。

 英語、フランス語、スペイン語、中国語などなど。

 残念ながら日本語はなかったので、必然的にニュースにはいつも字幕がついている。


 朱音はニュースを見るたび、神々の重要な会議等の場に恒が同席していること、そしてセウルの成した空間開闢の現場に、セウル直々の指名によって恒だけが立ち会っていたことを知る。

 めまぐるしく起こる出来事の中心部に常に恒がいることを、信じられない思いで遠くから見ていた。

 そんな恒を、晴れがましい気分で村人たちも応援しはじめた。

 おらが村の出世頭、と彼らは喜んでいた。

 悪童の恒として村人から煙たがられていた彼も、遂にここまできたかという思いがある。


「俺は大丈夫だよ、防護服を着てたし。もともと、そういうのに強いみたい。凄い光景だったよ、セウルさんも渾身の力を振り絞って……言葉では言い尽くせないよ」


 ABNT抗体が、今のところ様々な局面で恒を守ってくれている。

 常神ならば耐えられないと思われる環境でも、恒は耐えることができた。

 そしてセウルも、自身の正気を保つために恒の力を強く必要としていた。


「無理しないでね、応援してるから」

「大丈夫、セウルさんもいるし皆もいるから」

「天帝さまと直接お話ししてるの? こわくない?」

「セウルさんはいいひとだよ。姿はちょっと人間ばなれしてるけど」


 セウルと面会した科学者たちが体調を崩したという話は耳に入っていた。

 なぜ、恒が選ばれたのか? という疑問と不安とは裏腹に、恒の華々しい成功がそれを払拭した。

 旧天帝セウルは使徒階に慰問に来たこともあったが、彼をひとめ見よう、奇蹟を起こしてもらおうと世界中の人々がどっと詰めかけ一部混乱も起きたというので、混雑を予想した風岳村の人々は、ぐっと我慢して慰問会場には出向かなかった。

 代わりにパブリックビューを設けテレビ中継で見たが、セウルの隣にはいつも恒が付き添っていた。

 セウルが暴走した際、それを止められるのは実質的に特務省の久遠柩か恒の抗体しかないのだ。

 特別番組では、恒のちょっとした特集というか紹介もあった。

 人間だったという出自は明らかとされなかったが、名参謀ともてはやされ、彼はすこぶる人気だった。


「レイアちゃんは元気?」


 彼女はふと気になって、恒にレイアの安否を尋ねた。

 ニュースではもともとレイアについての情報は出ていなかったが、真智も知らないと言うし、ここのところ何もレイアについては聞いていなかったからだ。


「レイアもいなくなったよ」

「いなくなったの?! 亡くなったってこと?」


 朱音は心配そうだ。

 恒から、彼女がずっと箱の中にいれられて強制的に成長を促されて育ったと聞いた。

 みんなの安全のために、彼女だけが苦しんで犠牲を払う。

 そんな話を聞いて、朱音は彼女に対する同情とともに理不尽な構図に対する怒りすら覚えたものだ。

 だから今は、彼女を応援したい気持ちだった、それなのに……。


「どこにいるかわからないんだ。生きてはいるってセウルさんが言ってるけど。大丈夫、だと思う」


 逆に、セウルの言葉だけがたよりだった。

 大丈夫だと言ったのは、自身に言い聞かせる意味もあった。


「使徒階の生活はどう?」


 恒はすぐに話題を切り替えた。

 恒にとって大切なレイアのことについては、あれやこれやと聞かれたくないのだろうな。

 と、朱音も空気を読んで話題をきりあげる。


「使徒階は空気が澄んでて、温かくて、作物も育つし風岳とあまりかわらないみたい。都会で暮らしてる人も、ここは空気がきれいだって言ってるよ。やっぱり天国っていいところだね、友達もたくさんできたよ」


 恒やレイアの激動の人生に引き換え、私はわりと平穏で幸せなほうなのかもしれない、と朱音は振り返る。

 逆の立場だったら……きっと何もかも行き詰って耐えられなかった。

 恒は実にうまくやっていると思う。

 彼はずっと不眠症や訳の分からないことで苦しんでいたけれども、その辛い日々を乗り越えたからこそ今の恒があって。

 そして比企に召抱えられ、セウルの隣にいることもできるのだろう。


 朱音は最初から最後まで、恒を支えてあげたり真の理解者になったり、相談に乗ってあげたりすることすらできなかった。

 恒は誰かに弱みを見せるより、一人ぼっちで立ち向かうことを望んでいた。


 だから朱音も、自分で身を立てなければならないと思うのだ。

 荻号は朱音を残していなくなったが、いつまでも荻号の面影に縋りついていてはいけないと。そんな朱音の心を、恒はどれほど深くまで読んでいたのだろう。

 恒はふと、まじまじと朱音の顔を見詰めて照れくさそうに切り出した。


「なあ、朱音。俺、できない約束はしたくないと思ってたけど、約束しておいたほうがいいと思ったんだ」

「なんの約束?」


 朱音は思わず首をかしげる。


「不安なことが何もかも終わって、皆が風岳に戻って……朱音が荻号さんのアンプルを使いきって、朱音さえよければ」


 セウルによる切離空間で、INVISIBLE収束のその後、神階が、そして地球が無傷で切り抜けたなら……世界は劇的な変化を遂げるだろう。

 神階と生物階は互いに手を取り合い、支え合って生きてゆくのだろう。

 そのとき、朱音と恒は別々に歩みを進めることはできる。

 だがそれは、一緒に進むことのできる道でもありそうだった。


「俺の使徒に、なってくれないかな。俺もできるだけ風岳にいられるようにするし。お前がいたい場所に、いられるようにはからうよ。前さ……俺とお前は違う道をゆくんだって、言ってただろ」


 比企の大温室で、朱音とともに過ごしたあの生ぬるかった時間。

 錯綜する二人の思いで、満たされていたあの空間は。


“恒くんと私の線路はずっと平行でね、繋がってなんかいなかったんだって……”


 朱音に突き放されたあの言葉が、忘れられなかった。

 繋がっていないと朱音に断言されたことが、恒の中で何となくくすぶっていた。


「でも、何もかも終わったら、また同じ道を歩んでいけそうな気がするんだ。それに、前も言いたかったけど。ホントはさ、お前が誰か他の神の使徒になるの、いやだったんだなって」


 勇気を振り絞って、朱音のほうから好きだと告白したのに。

 それを“ありがとう”とか、曖昧な答えで暗に断られたのに、今更使徒になってほしいだなんて。

 確かに、朱音が荻号の使徒になったと聞いた時、恒は驚いた顔をしていたけれど。

 比企に諭されたこともあって、最終的に同意したはずだ。


 何か心に秘めていた本音があったなら、今じゃなくてあのときに言ってよ……。

 それに使徒になってほしい、というのが朱音に対する告白なのかどうかさっぱりわからない。もしかしたら、ただ朱音を自分のものにしたいという保護欲にすぎないのかもしれないし。


「勝手だよな、俺」


 朱音が恒の言葉の解釈についてゆけず、フリーズしているので、恒はまいったといった顔をして頭をかいた。


「ほんと勝手だよ……恒くん」


 朱音は俯いたまま、恒の腹部に軽くパンチをして、そのままTシャツをつまむ。

 シャツ一枚ごしに、恒のアトモスフィアを感じる。

 このアトモスフィアの感覚は、荻号の包容力のあるそれとは違う。

 うまく言えないが、ちょっと子供っぽい。


「恒くんのことは好きだったけど、そんなに簡単に、気持ちは戻ってこないよ」


 朱音は恒と目が合わせられず、困惑顔だ。


「ごめん。なんかごめん。またな、朱音」


 そう言うと、恒は照れ隠しをするように二、三歩助走をつけてひらりと飛び去って行った。

 相変わらず、彼は流星のような青く美しいアトモスフィアの尾を引いた。


「あらあら、あらあらあら!」


 空気を呼んで場を外していた真智がぬき足差し足で近づいてきた。

 だが、話の一部始終を聞いていたということは、真智の表情からして朱音もお見通しだ。

 知らず、朱音の頬は火照っている。


「今、何て言われてたの? 神様にあんなこと言わせるなんて、朱音ちゃん羨ましい」

「……昔から、恒くんとは親友だったから」


 恒と朱音の線路は、ずっと並行でいつまでも交わらないと思っていたけれど……。

 今となっては、それ以上の距離の縮め方がわからない。


 *


 コンコンと玄関扉でノックの音がしたので、こんな夜分に誰が来たのかと彼女はモニタから外をのぞく。

 藤堂 志帆梨が勢いよくドアを開くと、そこには久々に姿を見たひとり息子の姿があった。


「ただいま」


 恒は朱音と別れたあのあと、母親の顔を見てゆこうと自宅に立ち寄ったのだ。

 彼は神階にいる間じゅう、時間を惜しんでできるだけ志帆梨と過ごすようにしていた。

 というのもいつ何どき、突然の別れがくるか分からない状態だったから。


「ちょうどよかった、晩ご飯食べていったら? 今日は親子丼」


 仮設住宅、F棟2階。使徒階から配給されている食料で、志帆梨は自炊をはじめていた。

 とはいっても志帆梨はトランクを忘れて生物階から手ぶらでやってきたので、調味料や必要な生活用品は恒が責任を持って調達していた。

 志帆梨の様子は、一人暮らしでも変わらず元気そうだ。


「母さんがどうしてるかなって、思って」

「私は、ほら」

「へー」


 神階で調達できる珍しい拾い物を使って、志帆梨はオブジェを作っていた。

 生物階に戻ったときに、店のインテリアにするのだそうだ。

 珍しい神階のクリスタルを集めて、センスのよいランプを作っている。

 それと、村で畑を借りたから、そこを耕したり野菜をつくったりしていると自慢する。

 まだ、収穫には程遠いそうだが。


「次々と起こっていることが信じられなくて、みんなついていくのがやっと」


 トントン、とまな板の上に刻まれる包丁の音が心地よい。

 彼女は手際よくタマネギを櫛形に切って、じゅっと炒める。

 手伝おうかというと、座ってなさいと言われる。

 香ばしい香りが部屋いっぱいに広がったところで、生物階のそれとは少し異なる種類の鶏肉を投入する。

 使徒階のニワトリは、七面鳥のような姿をしている。

 少し歯ごたえが違うことを気にしなければ味もそれほど変わらず、使徒階にもおいしい食材はふんだんにあった。

 志帆梨は思い出したようにこう言う。


「お前が神様だったってわかってから、お前の後援会ができたのよ。市長さんが後援会長でね」

「え、後援会? 別に出馬とかしないから」

「最初は村、というか広岡市をあげてお前のことを祀ろうとしていたみたいだけど、お前の宗旨がわからないからって」


 志帆梨はくすくすと笑う。

 どう見ても子供でしかない恒をありがたがって信仰するなど、母親から見れば何とも滑稽なものである。恒もあたふたと慌てた。


「やめて、ほんとやめて。俺、信徒とか抱えるつもりないし」


 恒はたじたじだ。

 比企などは十分信仰にたえる気風も心構えもありそうだが、少年神の恒のことである。

 よもや信仰される側になるとは思わなかったし、偉そうに説法をたれるつもりもないので、宗旨は何ですかと言われると、特にないですとしか答えられない。


「そう言うと思って、丁重にお断りしておいたの」

「助かるよ」

「そのかわり毎日、知らない人が私を訪ねてくるようになったわ。何か奇跡を見せてくれとか、いろんなこと言って。聖母だなんていうのよ、呆れるでしょ」


 奇蹟なんて何も起こせないから、皆ががっかりして帰るのが申し訳ないわ、と志帆梨は笑う。


「それは俺のせいかも。変な宗教に担ぎあげられないよう気をつけて」


 あまり注目されるのが好きではない志帆梨だ。

 それが志帆梨にとって嬉しいことではなく、むしろ迷惑であるということは重々承知している。

 聖母としてどこかの宗教に担ぎ出されかけたというので、何の話でもとりあえず断わってくれと注意を促す。

 迷惑をかけてごめんと謝罪すると、お前の苦労に比べたら大したことなんてないわ、と彼女は首を振って言った。

 肉のたっぷり乗った親子丼をよそいながら、彼女は以前と変わらない優しい眼差しをしていた。

 素朴な親子丼をひとくちパクリと頬張ると、恒も母子の絆を実感する。


「おいしい」

「親のつもりでいたのは私だけで、お前はもう私のものなんかではないと感じたわ」

「俺はいつまでも母さんの子のつもりだよ」


 3年前、彼が神様になりたいと言い出した時、志帆梨は驚いて引きとめたものの。

 本当は、引きとめる権利なんてなかったと反省していた。

 彼の人生だ、悔いのないように信念のままに自由に生きてほしいと、今は切に願う。


「でも、英雄になんてならなくたっていい。片意地をはらず、疲れたら帰っておいで。私はお前という人間を、そして藤堂 恒という神様を、世界中の誰よりも一番愛して、そして信じているから」


 たまらなくなって、コトリ、と恒は箸をおいた。

 親子丼を、その温かな料理を喉の奥に飲み込み、返すべきは、感謝の言葉しかなかった。


「……うん、ありがとう」

「いい、恒。人間が一生に一度でも、世界中のみんなに必要とされて、皆のために役に立てることって、ふつうは一度もないものよ。お前は何度も、自分なんて生まれなければよかったって言ったけれど、そして“母さんの人生を奪った”とまで言ってたけれど」


 一呼吸おいて、ずずっ、と志帆梨はとき卵のお吸い物をすすった。

 お椀を置いて、じっと恒を見据える。


「私はお前に随分寂しい思いをさせてしまったけれど。一度だって、お前がいなかった方がよかったなんて思ったことはないわ」


 彼女が悔やんだのは、ずっとバイタル欠損の状態で入院生活が続き、恒の面倒をみてあげられなかったこと。

 さすがに心配だったので施設に預けたが恒は脱走して、家に戻って一人で暮らしていたこと。

 施設から脱走したとき、恒が志帆梨の名を騙って手紙を書き、施設職員を騙して保護を拒んだこと。

 不登校の状態が続いていたのに、気づいてあげられなかったこと。

 そしてそれを恒が何年も志帆梨に悟らせなかったこと。

 恒はぐうの音も出ず、うなだれて押し黙る。


「お前は生まれたときから人一倍つらい思いをしてきたけど、報われる日はきっとくる。お前に、今生のうちに母親として出会えたことを誇りに思うわ。だから」


「完璧でなくていい。ただ、人の心を備えた、優しい神様になりなさい」


 それはお前にしかできないこと、とても尊いことだから、と志帆梨は微笑んだ。


「母さんが俺の母さんでよかった。本当によかった……」


 母親の肉声での言葉が、染み渡った。

 マインドブレイクを習得してからというもの、人の心を読むことに慣れすぎていた。

 人の心の全てを、理解したつもりでいた。

 それでも母親の慈愛の言葉がこれほど胸にしみるのはなぜだろう。

 彼女の声色、話し方、表情、まなざし、それらは決してマインドブレイクでは読み取れないものだからだ。

 ボールを受け止めてみるまで、球すじはわからないと巧は言った。

 だから相手と通じあうために、対話を惜しんではならない。


「泣かないの。これからのことは不安だけど、それほど悪い未来にはならないような気がするの。私はね……そうそう。昨日、ここに遼生くんが来たのよ」


 何の用もなくぶらりとやってきて、昼ご飯を食べて去っていったのだという。

 志帆梨は遼生に再会できて嬉しかったので、以前助けてもらったお礼もかねてオムライスを振る舞ったそうだ。

 彼はぎこちない動作でそれを口に運び、おいしいと味を褒め、志帆梨としばらく雑談をして帰ったという。2時間ほどの滞在だった。


「え、兄さんがここに?」


 恒には内緒で? 昨日会ったときには、遼生は志帆梨に会ったなどと言わなかったが。


「遼生くんって、お前の腹違いのお兄さんだったのね。お前にも兄弟がいたなんて……。いいことだわ、兄弟で助け合って生きて行くのよ」

「彼は使徒と神のあいの子なんだ」

「そう、それで天使みたいな翼があったの……。遼生くんは転移術に長けていて、木星の転移を任されたんだって。木星って、すごく大きくて重いんでしょ?」


 遼生が木星の担当になったとは初耳だった。

 木星は地球の318倍重く、ガスでできているので転移には困難を極める。

 だが、最初にセウルが太陽を転移させるから、その後の話ということになる。

 遼生は馬力があるので、確かに木星が適任だと言われればそうだが。


「天帝さまが行かなくてもいいように、遼生くんが最初に行くんだって」


 セウルが行かなくてもいいように? 恒はその言葉にひっかかりを覚えた。


「ま、待って。それ、どういうこと?」

「遼生くんは、皆の役に立てるのが嬉しいと言っていたわ」


 それはそのままの意味ではない。裏がある。

 木星は、その質量からして恒星になり損なった星と言われている。

 ファティナが言っていた。遼生は重いのだと。

 彼は自ら内包する重力子をぶつけて、木星を恒星にするつもりだ。そして――まさか。


「だめだ……だって兄さん、太陽になろうとしてる」



 結局ツテはなかったので、比企の名前と、彼から預かっていたプラチナのゲストプレートをえげつないほどにフル活用して高位使徒らに案内を頼み、陽階から陰階への移動には難儀したが、ようやく遺伝子を司る神、岡崎おかざき 宿耀しゅくようとの面会にこぎつけた。


 遺伝子を司るといっても、岡崎が一体人類に対してどんな遺伝的介入を行っているのかはあまり知られていない。

 それが逆に不気味でもあった。

 長瀬、高須賀、そして築地らは応接室で一時間も待たされていた。


 岡崎の面会室は、近頃の美容院やカフェといったようなスタイリッシュなデザインの、寒々しい白い部屋だった。

 椅子も机も白で統一され、出されたティーカップもシンプルな真っ白のもの。

 壁掛けの絵はモノトーンの抽象画でどれほどの価値があるとも知れない。

 比企のアンティークで豪華絢爛な執務室の雰囲気とは違う。


 このまま待ちぼうけで、岡崎は出てこないのか。

 三人が不安になったところで、ようやく岡崎が応じた。

 岡崎はセウルのバイタルステータスの遠隔監視やセウルの神体から得られた各種サンプルの解析を行っていたので、もう十日も寝ていない。

 目の下にはべっとりとクマができていた。

 モスグリーンのジャケットのジッパーを口元まで上げて、首には茶色の毛皮を巻いている。

 低温室での作業を終えてきたのだろうか、顔色もすこぶる悪かった。


 緑髪に緑の瞳の、いかにもバイオな雰囲気の岡崎は、応接室に入るなり迷惑そうな表情をする。


「何でここに人間がいる。誰が許した」

「はじめまして。私は長瀬 くらら、築地 正孝、そして高須賀 滋です。あなたのラボの解析用ソフトとか諸々、お借りさせてください」


 前置きもなく、単刀直入もいいところだ。

 長瀬はちょっとオブラートに包んで話すということを覚えたほうがいい。

 築地がそう思っていると、


「だって、マインドブレイクかけられてるのに本音隠したって意味ないじゃん」

 

 声には出していないのに、築地は小声の長瀬につっこまれた。


「帰れ。ここは人間が気軽に来ていいところじゃない」


 岡崎は呆れた顔をすると背を向け、冷たく取り合わない。

 この忙しいのにわざわざ呼び立てする客人がいるというから出てみれば、どこの馬の骨とも分からぬ小娘に小僧たちだ。

 去ろうとする岡崎をとどめるかのように、長瀬が挑発的な一言を発した。


「岡崎様、あなたは神の遺伝子、使徒のそれ、解階の住民の遺伝子、そして人間の遺伝子、全ての遺伝子のサンプルを持っていらっしゃると比企様に聞きました。それらの遺伝子を比較したことがありますね? そのデータは、ADAMにはアップロードされていませんでしたが」


 岡崎の肩が、ぴくりと反応する。

 彼女はADAMの検索システムを熟知しているというのか。


「そんなもの、試みたことすらない。ナンセンスだ。それら四者はもともと由来オリジンが違う」


 岡崎は一度なりとも試みたことがあるのだ、痛いところをつかれたに違いない。

 長瀬は岡崎の反応を見て確信した。


「では、遺伝子クラスタ解析を行いますので、進化系統樹を描かせてください、この――」


 彼女はすっと指を伸ばして、高須賀を指名する。


「分子進化系統学者 高須賀 滋に――」


「ちょ……くー」


 あまりに急転直下の展開に、高須賀は彼女の暴走を止められなかった。



 セウルは広大な隔離室に、DA-インディケータにおさめられたレイアの記憶素子のコピーと対峙していた。


 再度記憶素子のノイズを意識の中で再生する。

 間延びしたシグナルを短縮。

 失われた電子シグナルを理論的に補完してゆく。

 そしてセウルは、レイアの発言のみではなく行間も読もうと試みる。

 彼女の感情の全てを捉えながら、それはノイズの海の中に泡の飛沫を拾う試みに似ていた。

 セウルの頭脳ですら、彼は万全を期すためあらゆる可能性を疑う。

 彼らの言葉に思いを巡らし、熟考に熟考を重ね。ひとつの事実を縒り上げてゆく。


 恒と織図が出て行った後、皐月はそんなセウルとともに隔離室に残った。

 神々は切離空間のモニターに忙しいらしい。

 皐月を発端とする閃きによってX-dayの解を6月24日と見出してより、皐月はセウルと過ごすことが多くなった。

 また、何故か比企にセウルと定期的に話し合うことを勧められたというのもある。

 不思議なことに皐月は、セウルの毒気というかアトモスフィアに被爆しても、遺伝子レベルでも害されていなかった。


 平たく言えば、波長が合うのだろう。

 そんななかセウルの表情が、さきほどから険しくなってきている。


「何か、分かりましたか」


 マインドブレイクなどできなくても、皐月は彼の考えていることが漠然と分かる。

 隠しごとを切り出せない、彼がそんな表情をしていたから。

 それは彼女が小学校の休み時間の教室で、問題をかかえた子供達によく見た表情だった。


「吉川さん」

「は、はい」


 皐月はずり落ちていた赤い眼鏡をかけなおし、書類をデスクの上に置いて彼のもとに小走りに近寄る。

 彼は神々から信頼を得て拘束を解かれ、権衣は着用しているものの隔離室内部では自由行動を認められている。

 隔離室には簡単な家具が運び込まれ、セウルが落ち着いて思考できるような環境と、情報収集のためのオンライン・デジタル環境が整えられた。

 だから手錠を解かれた彼はメモを頻繁にとっている。


 セウルは一睡もせず、ずっと手を動かすことを止めなかった。

 それは演算をしているようでもあり、あるいは会話を記録しているようにも見えた。

 どちらにしても、古代神語で書かれたそれが皐月に解読できたりはしなかったけれども。


「わたしとあなたは、どこかに共通点があると思いますか」


 信じられないといった顔をして、セウルは皐月に訊ねる。

 皐月がみるに、彼はそう尋ねながら、自らの質問の意図がわからないといった様子だった。

 セウルはただ、わけもわからぬまま問いかけていただけだった。

 セウルが何を問いたいのか、皐月は把握できない。


「特にないと……思いますけれど。何か気づいたことがあるなら教えてください」


 何でもいいから、話してほしいと思った。

 まだ確信が持てないままでも、何でもいいから。できれば情報は全て早い方がいい。

 悩みがあるのなら、一緒に考えればいい。


「あなたお一人で抱え込まないでください。ここには優秀な先生方や神様たちがいます。皆で知恵を絞りましょう」


 思考能力が圧倒的に足りない。

 考えることにおいては、人間など負荷を負うべき戦力とも看做されていない。

 彼は知恵はおろか、他者の意見すらも必要としていない。

 彼の判断は殆ど完全な無謬性をもっている。

 その彼が他人に意見を求めるというのは、“調べても分からない”場合だ。


「明日まで時間をください。この情報はあまりにあなた方を動揺させる」

「今では駄目なのですか?」


 彼はまだ目覚めて間もないので、現代の言葉に疎く言葉の遣り取りに自信がないというのだ。彼らの遣り取りの検討を再度行い、その意味に齟齬がないかを、もう一度重々考えさせてほしいという。

 セウルは怖れているようだった。

 いつの時代も、神託を聞いた預言者がそうであったように。


「それが事実であろうとなかろうと構いません。今すぐに話してください、セウルさん。あなたの感じているありのままを、伝えて下さい」


 皐月の言葉に押され、セウルはそれが事実であると確かめるように一語一語、語り始めた。


「まだ途中までしか解析ができていませんが、レイアとINVISIBLEの会話の中に、特異点という言葉が出てきました」

「え? それを……、そんなことをINVISIBLEが云ったんですか?」


 特異点シンギュラリティというので、セウルは最初、物理学的・数学的特異点のことだと考えたのだそうだ。

 だが用法が違う、彼はこの言葉を知らない。

 物理学的なシンギュラリティよりもっと文語的だ。


「新しい概念か、若しくは辞書にない言葉かと思われます。吉川さん、これはどういう意味ですか? 特異点を突破して、さらに進むことができると言っているのです」


 それを聞いて皐月が真っ先に思いついたものといえば……技術的特異点テクノロジカル・シンギュラリティ

 コンピュータの情報処理能力が18カ月ごとに倍になるというムーアの法則などに基づいて数学者やフューチャリストにより提唱された、人類の科学力によって予測しうる科学の発達限界の特異点だ。

 比較的新しい言葉で、概念的なものであって学術用語ではない。


「……それについては、文献がたくさんある筈です」

「有為、聞こえますか。情報への接続を許可してください」


 セウルの言葉は、いつも有為によって盗聴されている。


“セウルちゃん10秒待って、すぐ回線あけるねー”


 データベースへ意識同調をするセウルが大規模に検索をかけるとサーバーとそのユーザーに過大な負荷がかかるため、有為はネットワークに接続している全パソコンのアクセスを遮断してセウルのためにあける。

 セウルはお立ち台のような立体パソコンのコンソールに立つと複数のウィンドウを立ち上げ、GL-ネットワークにアクセスしADAMに意識をリンクさせつつ同時に検索をかける。


 情報神 有為 枝折はセウルの情報収集のために、ADAMと隔離空間を繋ぐ専用回路、および生物階の全ウェブページ蓄積サーバへのネットワークを敷いていた。

 彼は検索で膨大な資料を取り寄せ、素早く原著論文や関連書籍に目を通す。

 必要なのは、概念を完全に理解することではない。

 特異点という言葉を敢えて文語的に用いたINVISIBLEの意図を知ることだ。


「なるほど意味はわかりました。ですがニュアンスが分かりません。なぜ、INVISIBLEがそんな言葉を使うと思いますか」


 セウルの質問は、明らかに独り言ではなく皐月に問いていた。

 元天帝にして智神、皐月より遥かに知力のあるセウルが考えた方が、解答に早く辿りつく気がする。

 もしセウルにより詳細な説明が必要だというなら、それらの概念の提唱者と電話ででも直接話す方が、有意義な話となるに違いない。


「わたしは人間の気持ちになって考えることができない、何故ならわたしは人間ではないから。あなたなら“技術的特異点を突破する”ということをどう考えますか?」


 セウルが何故そんなことを言うのか。

 何故、人間の気持ちを知りたがるのだろう。

 しかし皐月が人間代表として答えては、いけない気がする。


「私だけではなくて、他の人々にもきいてみませんか? そして何が分かったんですか?」

「あなたがたのいう創世者INVISIBLE……いえ、彼はレイアにこう言いましたよ。自身のことを」


 天帝セウルの黄金の瞳が、自信なさそうに揺らいでいた。


「人間だと」


 皐月の呼吸が、そして忙しく動かし続けていた思考が止まった。

 怖い。

 

 言い知れぬ恐怖が、全身の毛孔から皐月の五感に溶け込むように侵入してくる。


「INVISIBLEが、“人間ホモ・サピエンス”だと、言っているのですか?」


 事象の境界面の研究を続けていた皐月が、何故ここにいるのか。

 その理由が、明かされつつあるような気がする。


 どれくらい絶句していただろうか。

 彼女は十分もの沈黙ののち、ある人物から聞いたこんな話を思い出した。

 ギリシャ神話において英雄王、テセウスがクレタ島から乗って帰った船は、その後船の木材が少しずつ朽ちてゆき、人々は朽ちた木材を新しい木材へと一本ずつ修理していった。

 そして全ての木材が置き換わった。

 全て新しく置き換えられたそれは、果たして同じ船であると言えるのだろうか。


 そんな話を、誰と話し合っただろうか。皐月は思い出せない。

 しかし間違いなく、そこは小学校の教室だった。

 黄昏の教室で、それは誰だっただろうか。首から下のシルエットは思い出せるのに、首から上の顔を思い出せない。


 自己同一性アイデンティティに関する有名なパラドックスだ。

 “彼”は同じ船だと言い、皐月は物質が違うのだから違うと言った。


 そのパラドクスは、恐ろしい問いかけを孕んでいる。

 違う船だと言って、否定しては――。

 否定した瞬間に、恐ろしい事実が浮かび上がってくる。それを彼に指摘されたから。


『何故なら……人間の全細胞は、わずか10年間で全て新たな細胞に置換されるんですよ、吉川先生』


 つまり人間は、10年前の皐月は、現在の皐月とは別人であることを認めることになってしまう。

 アイデンティティが崩壊する、だからできないのだ。

 解釈を避けることはできない。


「吉川さん、それは誰ですか? あなたの記憶の中のその人物は……」


 マインドブレイクをかけていたセウルは震える声で皐月に尋ねた。

 吉川 皐月は顔のない、ある人物の幻影を見ている。

 彼なのか、彼女なのか。

 とにかくシルエット、おぼろげな影がそこにあるだけで姿がないからわからない。

 そんなものが断じて人間であるはずはなく、だからといって神でもなければ、プライマリ……なのだろうか。


「吉川さん、わたしの顔、姿、見えていますよね?」

「はい、勿論見えています」


 セウルはプライマリだが、ではプライマリという線もなさそうだ。

 見る人によって顔が違うというのでセウルは遼生から随分と不審がられたが、レイアにも、セウルにも一応姿はあって他者から認識されていた。

 ノーボディにでさえ、変化し続けはするが姿はあった。だが皐月の記憶の中の人物にも、姿がない。

 それはノーボディと同じ匿名性を獲得しているからだ。

 セウルは固唾をのみ、皐月の記憶をじっくりと辿る。


『何か困ったことがあったら、これを思い出してください』

 

 顔のない彼はそう言って……皐月に一片のルーズリーフを手渡した。

 不完全な数式だらけのルーズリーフを。

 数式は、セウルと皐月に解かれる日を待っていた。


 事象の境界面(テクノロジカル・シンギュラリティ)を越えれば、もはや人間ではいられない。

 最初の超知的マシン(あるいは存在)の発明が、人類の終わりである。

 そして人間は、人間の、その先へと進むのだろう。

 皐月はじわじわと、ひとつの仮説にたどり着く自身に、抗えない力に怯えてすらいた。



 結論付けるには拙速。

 だがそう思えてならないのだ。


 すなわちINVISIBLEとは、


 特異点を超えた人間の、究極の姿なのか。

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