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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第三節  A story about nature, science, civilization, and humankind
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第3節 第2話 Technological Singularity

 陽階大会議室では、切離空間が安定した後、残されたわずか12日間で一体どれだけの荷物を引っ越しできるか、神々と生物階の有識者らの間で連日のように検討会議が行われていた。


 必要な運搬物と必要でないものの仕分け作業中だ。

 我が国の人工衛星だけはどうしても、と彼らが口々に訴えるので、その衛星がなければ自国だけではなく世界的に、どのような損失を与えるのかという報告書とリストを作成させた。


 それらの書類に比企、有為、リジー、ファティナらいつもの枢軸神、それに加えてHEIDPAの調査から戻って疲れきった顔をした98位闇神、飴原(いもと) 泰士(やすし)も、うつらうつらしながら目を通している。


 会議室内部はビル5階建てほどの吹き抜けの円筒状の空間であって、ドーナツ状の円卓の周囲に配置された座席は宙に浮き、立体モニタがドーナツの中央部分にある。全60議席中30議席を人々が埋め尽くし、さらに特務大臣をはじめとする特務省の重役12柱も同席していた。


 何故特務省職員がこの席上にいるのかというと、彼らの拠点とすべき特務省が文字通り崩壊し神階に協力せざるをえなくなったからだ。特務省の動力源であり熱源であったセウルが織図の秘術によって蘇生し炉心から這い出た数時間後、特務省の機能は完全に停止した。

 ありとあらゆる機構の電力が断たれ、特務省はセウルのエネルギーを大黒柱としていたようなもので、柱がなくなった途端に重力異常によって建物の構造が維持できなくなり、内部より崩壊をはじめた。謎めいていた特務省職員たちも神階に居候せざるをえなくなったことで、居候は働かねばならぬ、という経緯だ。


 特務省から一連の事件に関する責任を問われた織図は“うっかり飛行石を抜いて天空の城が崩壊してしまった。反省している”、というふざけたコメントで弁解した。

 長官のバンダルが崩御したことで特務省の指揮系統も混乱しており、結局、織図に咎めはなかった。

 織図はバイタルアレストでセウルを止められるので、最後の安全弁として安全防止策を講じておくためであったのかもしれない。


 荻号との相討ちで実力者バンダル=ワラカを徒に失ったうえ、総員バイタルアレストをかけられて完全に織図に出し抜かれた特務省も、セウルの奇蹟的な業を見て徐々に元絶対不及者に対する考えを変えはじめた。

 そもそも、特務省は特務省中枢部の動力源にセウルの遺骸が活用されていたということを知らなかったのだが、スティグマを持たない旧天帝、智神セウルを久遠柩で拘束しても無駄と彼らは気づいた。

 セウルの過去に拘って、切離空間への避難という盤石で確実に助かる方法をむざむざ潰すのは愚かだ。

 そしてレイアの背を離れたスティグマはグラウンド・ゼロと思しき宇宙空間に静止したままだ……。


「とりあえず、ヘリオポーズ境界面まではお願いしたいのです」


 生物階の有識者らは太陽系天体の果て、つまり海王星までは移動させてほしいとの希望を繰り返した。

 切離空間への転移後の地球から見上げる夜空に、満天の星座はなくなっても。

 太陽系外の天体まで移動させることは実質的に不可能で、転移後の地球の夜空は寂しい暗闇となるだろうと予測される。


「しかし、それだとご負担が……。いっそ太陽と地球だけでも、そして月と人工衛星を重点的に」

「月は移動させるつもりですが、人工衛星って……確か数千ありませんでした?」


 実情を知らない無謀な要求に、遼生が苦笑する。

 大気圏外にあるものを、転移で連れてはいけない。

 転移術は基本的に触れている対象にしか適用されないからだ。彼はむしろ生物階で積年の問題であった地球引力圏のスペースデブリ一掃に、ちょうど良い機会だと考えていたくらいだ。


「足りないものは、また打ち上げればよかろうに」


 人工衛星まで面倒をみる義理はないと考えているのか、リジーがさも面倒だというように、そんなことを言っていた。

 もうひとつの手は、人工衛星を全て地上に転移させて、それを地球ごとごっそり転移させるという方法がある。


「どうしても人工衛星は必要です。通信や生活必需の主要なものだけで結構ですので」

「莫大な投資と年月をかけて建設した、ISS(国際宇宙ステーション)もお願いします」


 各国の軍事関係者、宇宙開発関係者らが次々と要求を出してくるが、全ての要求は飲めないと比企にも渋られていた。

 セウルの拓いた切離空間への通路は、一方通行だと言われている。

 それはセウルが、時空の安定維持のために基空間との接触を遮断しているからだ。


 つまり現空間側から転移をかけられるが、セウルの空間維持が安定するまで切離空間中からこちら側へは戻ってくることができない。

 更に、切離空間内の同空間転移術も制限される。

 ずっと転移術を制限するつもりはないというが、少なくともINVISIBLE収束後までは空間の安定化のために制限を緩めることはできないという。


 だから切離空間に運び込める天体は、超空間転移を修めた神々一柱につき一天体までだ。

 なお、神階は特務省と同じく転移装置を内蔵していたようなので、転移装置による転移ができ、誰かが神階を運ばなければと考える必要はなさそうだった。


「よく考えて選びましょう。ガスでできた天体の移動、特に木星と太陽は質量的にも困難を極めます」


 遼生は率先して、天体の運搬役をかった。

 比企から超空間転移を習ったばかりの初心者だが、彼には他神の追随を許さないほどの馬力がある。

 そして遼生はセウルから名指しで天体の運搬を請われたという背景もある。

 超空間転移は必ず天体表面に触れなければ成立しない。

 それも素手で。そして超空間転移を修めているのは、神階からは遼生と比企、数十名の転移術に長けた特務省職員のみ。


 地球のような岩石の惑星も転移には細心の注意を要するが、主成分がガスである惑星を移動させるのはさらに難しい。

 アトモスフィアでその天体をまるごと被覆して領域を確定しなければならないからだ。そして当然ながら、天体の質量と体積が大きいほど転移は困難となる。


「神様たちが一つ一つ天体に触れて移動させるということは、太陽の場合もそれに触れなくてはならないのですよね」


 事情も知らず要求を繰り返す外野をよそに、CERNのクインシー=バートンが神々の負担を心配した。


「して、あなたたちは太陽に、触れられるのですか?」


 だが彼らのうち誰も、たとえ断熱スーツを着て太陽に近づいても太陽を転移させることはできない。

 太陽を転移させるということは断熱スーツを脱いで生身で燃えさかる太陽の内部に突入しなければならないのだ。

 それに、気体、あるいは液体で構成されはっきりとした境界面を持たない太陽を転移に巻き込むためには、アトモスフィアで太陽全体を被覆しなければならない。

 太陽は途方もなく大きく、そして煮えたぎっている。

 アトモスフィアも熱量によって揮発し、太陽を覆い尽くすことは一般の神々には実質的に不可能だ。


 セウルなら身を焼かれることなく、太陽中心の核融合反応の坩堝に飛び込んでゆけるが……。太陽を転移させたのち、セウルはバイタルを使い果たし消滅するだろうと推測していた。

 現空間に残ったセウルは、彼本来のバイタルのわずか1/8しかないのだ。

 そのうえ切離空間の創世を行ったことによって更に彼のエネルギーは失われている、太陽を転移させたが最後、彼のアトモスフィアとバイタルは尽きる。


「太陽の転移は物理的に不可能だ。先代絶対不及者に任せるより仕方ない。だが本当に困難なのは、それらの天体の移動ではない」


 沈黙を守っていた特務大臣が口を開いた。

 特務省職員でも遼生でも不可能なことは、セウルに任せるしかなかった。

 セウルという後見人と庇護者がいなくなるということは痛手だったが、太陽の転移を重視する限りは仕方がない。


 特務大臣は生物階における太陽系の維持などには感心がなさそうだったが、セウルが何故か生物階に対して執心しているので協力を惜しむというわけにもいかなかった。

 最悪、神階さえ切離空間に転移できれば、人々および神々は生き延びることができるのだ。

 太陽系の保全に執着しすぎるのは得策ではないと彼らは一度提案したが、人々がどうしてもと嘆願したうえ、セウルも人々の希望を叶えたいと明確な意思を示したため、どうなるものかと静観している。


「難儀するのは、移動させた天体を安定軌道に乗せることだ」


 そう、惑星は人工衛星でないから、燃料などを噴いて軌道変更を行うことができないのだ。最初の軌道投入速度が肝心だ。


「太陽に近い天体から順に移動させて、地球の移動は最後にしましょう」


 太陽系の礎となる太陽は、最初にセウルによって切離空間に投入されなければならない。


 太陽系を構築するには、最初に重力中心である太陽が必要だからだ。あとは、大質量を備える神階をどこに置くか……という問題もある。

 神階の質量は巨大なので、安易に太陽系軌道に投入すると惑星の楕円軌道を狂わせる。


 遼生は手元の、人々から提出された詳細な資料を読み込み、ある事実を入念に確認した。

 そして彼は、これらの問題を解決しうるひとつのプランを練っていた。枢軸神と人々の協議により着々と天体移転計画が整ってゆくなかで、遼生は決心を固めつつあった。

 だからといって瀕死の状態から蘇った遼生には太陽系最大の質量を持つ太陽を移動させられるだけの馬力は無論、ない。


 そして彼は、セウルに太陽の移動を任せてはならないと思っていた。最後の砦であるべき彼が、最初に現空間から消える事態だけは避けねばならない。

 最後の瞬間まで現空間に残りINVISIBLEの収束を見届け、恒を守ることができるのは、今は抗体を失った遼生ではない。

 セウルに最後まで現空間に残ってもらうためにどうすべきか……。


「では、僕は木星を移転させます。最初に行かせてください」

「何を考えている。太陽が先だ」


 比企とリジーが諭すが、遼生はきかない。


「木星と神階の質量は同程度です、木星がなくなっても神階を代わりに投入すれば大した問題ではありません。太陽より先に、天体が安定維持できるか確かめたいのです」


 遼生の申し出は一見合理的であるように思われて、実は肝心なことを伝えていなかった。

 そう、遼生が最初に転移させるという木星を……彼が転移後にどのように変えてしまうつもりなのか、ということを。


 *


 築地と長瀬は比企のはからいで彼の居室の一室に居候をすることになった。

 言ってみれば特例中の特例だが、比企が彼らを優遇したかったわけではない。

 ただ、使徒階の区画に戻す手続きが意外と面倒だったことと、何故神階に紛れ込んでいるのかという不祥事を詳らかにせねばならないので、もうおとなしく比企の傍にいろ、という話になった。

 長瀬が使徒高官に無理を言って使徒階から特別に呼び出してもらったのが、築地と長瀬がシゲと呼ぶ人物、高須賀たかすが しげるだ。

 築地にとっては親友との実に3年ぶりの再会に、築地にも思わず笑みがこぼれた。


 高須賀とはSNSで連絡をとっていたが、実際に顔を見るとほっとする。

 数年前の高須賀は彼がセミプロのダンサーだったこともあって荻号と似たいでたちをしていたが、今では短髪(茶髪ではあるが)になって服装もかなり落ち着いていた。

 その辺りは金髪学生だった築地と事情が同じだ。

 研究者である彼らが学会で発表するためには、やはりそれなりに身だしなみを整えなければ格下に見られて、取り合ってもらえない。


 とはいえ低緯度のオーストラリアから着の身着のままで避難してきたらしい高須賀 滋はこんがりと日に焼けて、白いTシャツにひざ下丈の短パン、サンダルというラフないでたちだ。この時期、オーストラリアは真夏だっけ? 築地は妙に納得する。


「くー、何ばあったと?」


 長瀬 くららは高須賀 滋に“くー”、と呼ばれているらしい。

 高須賀は福岡出身で、まだ微妙に方言が残っている。そういやそうだったよな、と築地が思う一方で、長瀬は久しぶりの再会に感極まって滋に飛びついていた。

 夏服と、青いニットワンピースの冬服を着たカップルに違和感を覚えるが、そんなことはこの際どうでもいい。


「シゲ! よかったー!」


 久々の再会で抱き合う二人に、彼女いない歴が久しい築地はおなかいっぱいだ。


「あーもう、あかんあかん。イチャイチャは俺のみてへんとこでやって」

「そげんこつ言うなて。半年ぶりなんに」


 ニヤニヤと長瀬を抱いたまま、滋は築地にあてつける。

 忘れていたが、シゲはこういった調子で人をおちょくるのが大好きな奴だったよ、と築地は煙草をふかす。


「遺伝子解析とか……お前絶対、シゲを呼びたかった口実だろ。シゲはカンガルーの生態学者で、分野全然違うやん。シゲお前、オーストラリアでカンガルーの研究しよったんちゃうん」


 高須賀にあてた質問なのに、長瀬が彼氏に代わって答える。


「確かにそれもあるけどー。分野違うってどういうこと!? ツッチー忘れてるかもしれないけどシゲは分子系統進化の研究者なんだよー、前も言ったじゃん? 全然聞いてないんだからぁー」


 長瀬が柄にもなくかわいこぶって、のらりくらりと話をする。

 高須賀の存在を意識しているのだろうか。あーあー、いるよいるよ、彼氏の前では声が変わる奴! 築地は心中でそんな突っ込みを入れていた。


「聞いとらんわ!」


 カンガルーの行動学研究なのか、生態研究なのか。

 日本を飛び出していったきり帰ってこない高須賀は、SNSでも特に現地の情報を詳細に伝えていたわけではなかったので、築地はこのときまで親友の研究内容を知らなかった。


「ツッチ、ちょ、落ちつけ。それはほんの一部で、カンガルーを中心としたオーストラリアの有袋類の分子系統進化“も”一時期やっただけったい。別にカンガルー研究者じゃなかね」


 給仕係の使徒に出されたコーヒーにミルクを入れて飲みながら、高須賀は苦笑する。

 彼は分子進化データベース構築の際に、有袋類の担当もやったことがある、という程度に長瀬に伝えていたのだが、話に尾ひれがついていたようだ。もしくは築地が長瀬の話を勘違いしていたというのもあるのだが。


「んで? 分子系統進化学者に何をさせるつもりや」

「ねえシゲ。いまから見せる神様や使徒の遺伝子の共通点を調べてほしいんだ。あると思うんだよ、絶対。私、遺伝子のこと全然詳しくないから」


 詳しくないとは言いつつ、長瀬は一通りの遺伝子解析技術を修めていたりする。


「まず、神様とか使徒って何と? 変な宗教?」

「背の高いヒトに、ここに連れてきてもらったでしょ? あのヒトが使徒」

「へー、見た目全然普通ったいね」


 15分後。学生時代、途中から飲み会にやってきてもすぐにうちとける高須賀は長瀬の適当な説明で、あらかたの事情を飲み込んだ。

 あの長瀬ののらりくらりとした説明で理解するあたり、築地からみると高須賀は物わかりがよすぎだ。


「……それなら一人じゃ荷が重いったい。大ボスの青柳あおやぎ先生も呼んでよかね?」


 人間の遺伝子解析においてはそれなり自信があっても、相手が人間ではないとなると高須賀の手にはおえないといった様子だ。

 高須賀は直属のボスではなく大教授の青柳教授を信頼している。


「まずシゲがやってみてくれない? あんまり神階の機密が流出しまくるの、怒られると思うし」

「なるほどー」


 一理ある、と高須賀は頷きながらも、なら何故最初からその道の権威を呼ばなかったのか、と矛盾に感じた。


「せっかくだから岡崎様のところの解析装置、使わせてもらえるかなあ。それにシゲ、どうせ分析ソフト持ってきてないでしょ」

「岡崎? 岡崎フラグメントの岡崎さんってネタ? 分析ソフトはある、ばってんオフラインやけんなあ……」


 岡崎という名前の元ネタを知っているあたり、さすが遺伝子屋だ。

 もちろん、陰階神 岡崎 宿耀はネタのつもりでそう名乗っているわけでもなく、数百年も前からたまたま岡崎という名なのだが。

 岡崎フラグメントの方があとだ。


「いや、ネタとかじゃなくて岡崎 宿耀って神様の名前だよー。それに、分析ソフトって当たり前だけどATGCしか認識しないでしょ? それじゃ人間の遺伝子は読めても神様の遺伝子は読めないんだー。だから岡崎様のところでさー、解析やってもらおうよー」


 枢軸神の岡崎をつかまえて、解析させてもらうという低姿勢ではなくやってもらう、という発想をするあたり、さすがは長瀬だと築地は感心する。


「ツテ、あるん?」

「あるわけないじゃん。ツテはこれから作るんだよ」

「……ああ、やっぱそうや」


 長瀬のごり押しもここに極まれり。

 100%、そうだろうと築地には見通しがついていた。


 *


 

 旧絶対不及者セウルは神階に避難した多くの人々と神々の見守る中、切離空間の構築に成功した。

 彼は共存在でバイタル分割を行い、7/8のセウルを切離空間に送り込み、1/8のセウルは神階の様子を見守るため神階にとどまった。

 ライブ中継を通じて創世の片鱗を見届けた人々は、かつて天帝と呼ばれ懼れられた人物のなす業を目の当たりにし、根底から価値観を覆された。


 なかでも、権威ある各国のシンクタンクのブレイン、物理・化学・生物・医科学者たちがセウルの業をインチキだと見破ることも否定することもできなかった、それどころかセウルの成した業が、エネルギー収支が、時空の曲率が、理論的に正しいことに……科学という定規のなかに美しく収まるということに驚愕するばかりだった。


 この事態は、科学史・世界史的にこの上ない、革命にも匹敵するインパクトを与えた。

 そう、彼らは知ってしまったのだ。

 神秘の業ではない、これは物理学で読み解くことができる。


 いたのだと。

 人類の与り知らない力を持つ、真に唯一の存在が、人類の生じるずっと遥か以前から。

 神具を介してしか力を発揮できない神々の真正を疑っていた一部の保守層すら、セウルの根源的な力にケチをつけられなかった。

 セウルのなしたことは、すべての科学者に納得のゆくよう、数学的・物理学的に懇切丁寧に説明され、プレスリリースの公表ひとつにしても配慮が行き届いていた。


 絶望と閉塞感を打開したいという心理が働いてか、人々は彼を救世主だ唯一神だ天帝だとまつりあげた。

 一躍、ときのひと(神?)となったセウルだが、人々の過熱しすぎた信仰を向けられるのには慣れない様子だった。

 なにしろセウルが智神として現役で執務していた時代、知性を持つ人類など殆ど、いてもいないようなものだったから。


 当時は、人類といってもネアンデルタール人(旧人)などと渾然一体としていて、ようやくホモ・サピエンス(新人)が分化し、繁栄をはじめた頃だった。

 それが文明を持ち、神々の扱う科学理論を原理的に理解しうるレベルに達したかと思えば、セウルとしても感慨深いものがある。

 けなげに進化を遂げた人類を何としても守り抜きたいとも思うのだった。


 1/8のエネルギー準位にパワーダウンした彼が、かつてほど危険な存在ではなくなったということもあって、セウルは神々や国連組織に強く請われて、慰問のために使徒階に出向き、人々の前に姿を現すことも頻繁になった。

 神々とは更に異なる存在であり後光すら纏うセウルに、人々の強い信仰が集まった。


 INVISIBLE収束の最終段階が近づいているというときに、こうやってセウルが人々を勇気づけなければならなかったのは、人の心がそれだけ恐怖に怯え、“確かなるもの、絶対なるもの”を求めていたからだ。

 人々の熱気と期待を時折重圧と感じることも、セウルは口にこそ出さなかったが確かにあった。


 現世界に残った1/8のセウルは、切離空間内の7/8のセウルと連絡がとれなくなっていた。

 だが、こちら側に残されたセウルの体調が安定していることと、重力レンズ観測の結果によれば、7/8のセウルの方は達者に空間を維持しているとみて間違いない。

 便りのないのはよい知らせだ。


 織図らに解析を依頼されたレイアの記憶については、荻号が消滅した時間を境にどうしても読めなくなっていた。

 セウルはありとあらゆる解析法や暗号解読法を試したが、打開策は見いだせなかった。


 レイアの記憶素子をまるごとコピーしてきた織図の証言によると、織図がコピーした時点で、まだデータのやり取りはあったとのこと。

 だから途絶したとは考えにくいというのだ。やはり織図のコピーが不完全だったのではないか、あるいはそんな仮説も浮上する。

 だが、そこにデータがないという証明をすることは悪魔の証明でもある。

 さすがの旧天帝、セウルも手こずっていた。


「わたしがEVEに行って、直接レイアの記憶を見てこようと思います」


 結局セウルは直接、その場に見に行きたいと希望した。

 コピーではなく、オリジナルを手にしてみなければ何もわからない。

 EVEは仮想空間中であるので、セウル得意の千里眼も通用しなかった。


「いや、やめといたほうがいい。仮想空間は危険だぞ、特にあんたはノーボディの絶対的支配下にあった。ノーボディは消滅したとはいえ、まだ残骸があるかもしれん。EVEに行くだけで、変な影響を受けちまうかもしれない」


 三階にとってセウルの存在は、今度こそ本当に最後の最後、の切り札だ。

 セウルのポテンシャルは荻号のそれをしのぎ、彼を失うわけにはいかない。

 織図が慎重になり、釘をさすのも頷ける。


「セウルさん。あなたにとって危険なこと、特に単独行動はできるだけしてほしくないと誰もが思っています。あなたにはスティグマがありませんが、あまり創世者とコンタクトが取れそうな場所には行かないほうがいいんじゃないかなと」


 レイアを失った恒も口をそろえる。

 同じ轍を踏みたくない。


「ですが、レイアの記憶を読むことができれば、もっと具体的な対策がたてられます」


 セウルはEVEに行きたいようだ。

 確かにセウルがデータに触れれば、もっと多くの情報が得られるかもしれない。

 だがそれはだめだ、リスクが大きすぎる。

 恒はセウルを宥め気を紛らわせるように、レイアの記憶素子の状態を尋ねた。


「レイアのデータはどのようになって、途絶しているのですか? あなたが行かなければ読めないものですか?」

「まったくだめです。ノイズとなって読み取れません」


 コピーをとることによって、何か物理的なエラーが生じたのかと織図は不安になったが、恒はそうではないと踏んでいる。

 物理エラーなら、記憶が途絶した時刻は織図がコピーを取った時刻でなければならない。

 だがその少し前、丁度荻号の4Dブラックホールが出現した頃に一致する。

 普通に考えれば、レイアが意識を失ったか、混乱して思考回路が働かないでいるという状態になるのだろうが。

 とにかくそんな状態でも彼女はまだ生きている。


「何かノイズの中にシグナルが埋もれていたりしませんか?」

「いえ。微弱なノイズのみです。シグナルだとは思えません」


 セウルがひも解いたデータの先は、ぷっつりと何もなくなっていたわけではない。

 データかノイズか、ゴミのようなシグナルはある。

 だがシグナルが弱すぎて読み取れない。それはレイアが荻号の亜空間の中で彼女の存在を潰されてしまったからかもしれないのだが……。


「ノイズは……でも続いているのですよね」


 どこかで恒を呼び続ける、レイアの声が聞こえるような気がする。

 セウルがぽかんとしていたので、恒はすかさず補足した。


「ノイズのように見えて、実はそうじゃないなんて可能性はありませんか?」


 彼は恒の意図に気付いてアクセスを試みる。

 彼は織図から借りたDA-インディケータを握りしめ、記憶素子のコピーデータにアクセスを試みた。

 展開されてゆくアルゴリズムを、暗算でかたっぱしからデータとして翻訳してゆく。

 それは先ほどと同じく有意義なデータにはならなかったが、セウルはノイズに緩急があることに気付いた。

 ノイズは疎らだが、異なる周波数、異なるセクタに同時に弱いピークが散見される。

 これを一つ一つ丁寧に拾ってゆけば、ピークの連なりとなるかもしれない。


「あ、……もしかして。これは情報が少ないのですが、会話でしょうか」

「会話?」


 自信のなさそうなセウルの言葉にも、織図は息を呑む。

 この状況下においてはどんな小さな発見でも役に立つからだ。


「例えば、一日に一語ほどしか遣り取りしてない、のんびりしたペースの会話ということです。あまりにも遅いために、情報の遣り取りのように見えない。わたしたちのいる空間より体感時間が遅いのです。そうとわかれば解読方法がないわけではありません」


 有意義な情報と思しきシグナルの殆どが、ノイズに埋もれている可能性が高い。

 だが、セウルはそれらのノイズの海の中から、一筋のシグナルを探し出す優れた眼力と情報処理能力を持っている。


「注意深くやってみます。織図はEVEからノイズの続きを送ってください。ノイズは弱くてもいい。但し、無理をしないで」


 システムアーキテクトの織図を捕まえて無理するな、はないだろうよ。

 と、織図は心外そうに鼻をすすった。


「無理すんな? 余計なお世話だこの野郎。じゃ、何回かデータ取りに行ってくるわ。しくじらないように奴の声を盗聴してくれ」


 最新のデータを入手するには、やはりEVEを知るエキスパートの織図がEVEに潜らなければならない。


「気をつけて」


 織図はすぐに出て行った。

 彼の執務室でEVEにログインをかけるためだ。

 その後ろ姿を見送りながら、悔しさを滲ませた表情で、セウルは呟いた。


「わたしが臆病者でなければ、現在とは異なった歴史があったのかもしれません」


 セウルは悔悟する。

 セウルがINVISIBLEを恐れず取引をしていれば、神々を虐殺せずにすんだだろうか。

 もし許されるのならば、訊いてみたい。

 あのときINVISIBLEがセウルに呼びかけたかった言葉を、彼は受け取ることができなかった。

 彼のやましさを救ったのは、恒だ。


「ひょっとするとそうかもしれません。ですがあなたがそうしなかったからこそ今の俺たちがここにいる。あなたが過去にしたことのおかげで、今度は助かるかもしれない。あなたは俺達に警鐘を鳴らしてくれました」


 セウルの虐殺がなければ、人類の歴史はまるごと覆されていたはずだ。

 誰も生じなかった。


 そして幾世代を経て恒はおろか、現代人の誰ひとりとして生じてはいない結果となる。

 セウルのおかげで、現在の歴史がある。

 彼が10万年前に引き起こした事件が引き金となって、ポピュレーションを削り込まれた神々は生物階に目をかけはじめたといっても過言ではないのだ。

 神の栄華の時代は終わり、人類の発展が始まったのだから。


「セウルさん。グラウンド・ゼロのことですが、本当に現空間から隔離しておかなくて大丈夫ですか? 相転星は直ったのですが」


 比企による相転星の修理が先日、完了していた。

 HEIDPAを用いてグラウンド・ゼロを隔離しておかなくて大丈夫かと、恒は聞いている。

 恒の手の上には相転星、HEIDPAのビームラインの軌道を変える、コントローラーでもあるそれが載っていた。


「あなたは4D-ブラックホールについて三次元空間に残しておいていいといいましたけど、率直に言えば俺は不安です。相転星の扱い方を教えてくれませんか」

「わかりました」


 セウルはおもむろに手を伸ばして、恒の手から相転星を取り上げた。

 ストッパーを外し、3つの環をスライドさせる。

 ひとしきり触ったあと、パチンと元のリングの状態へと戻した。

 何一つ問題なく修復されている。


「どうです?」

「直っていると思います。そうですね、グラウンド・ゼロを隔離しておくのが最善でしょう。わたしがやります」

「俺にやらせてほしいんです。相転星の操作の手ほどきをうけてもよろしいですか?」


 もしHEIDPAのビームラインを操作するなら、恒が扱おうと決めていたのだ。


「レイアもあなたも、勇敢ですね」


 それこそ、わたしより何倍も。彼はそう言って恥じ入る。


 当時、智神セウルは364歳で、恒やレイアの何十倍も生きて精神力も分別もあった筈だった。

 ある日自らの身に降りかかった受難に、ただ竦んでパニック状態に陥った。

 意識を浸食するINVISIBLEをもはやセウルの神体から追い出すことができないと理解した時、セウルの意識は思考することを拒絶した。


 それは彼の防衛本能だったかもしれない。

 異端として特務省に拘束され、久遠柩の中で殺してほしいと願うのが精いっぱいだった。

 そして何者かにバイタルアレストをかけられるまで、まるきり意識を失って……二度と思い出したくもない、悪夢のような体験を最後にセウルの時間は止まっていた。


 INVISIBLEは器としての用を果たさなかったセウルでの失敗をもとに、今度は違う方法でレイアに接触を図った。

 そう、肉体を現空間ではなく高次元へ転送、昇華し意識のみをより高い次元に引き上げるという方法でだ。

 INVISIBLEがこの世界に来るのではなく、彼が彼のいる場所にレイアを呼んだのだ。

 彼女が現世に残したものは、スティグマ以外にはなにもない。

 レイアと現世を繋ぐこの印。

 レイアが発狂し意識を失ったのではなく、レイアが今も彼女の言葉を伝えようと送り続ける、彼女の生き続ける証だ。


 彼女は強靭で、レイアと恒は全てにおいてセウルに勝っている。

 たった2年間の心の備えで、どうしてそんなに強くなれたのだろう。


「あなたたちはまだ、立ち向かっている。そしてわたしの時間も、まだ終わっていない」


 織図によって再び動き始めたセウルの時間。

 今は限りある能力を、使い尽くす。消費し、最後の一片まで消費し尽くし、不死身の肉体を有限のものにせしめ、破壊し絞り出して消費しつくす。


 どのみち一度死んだ身なのだから、最後の一原子が尽きるまで。

 まだ、終わりにはさせない。

 ただ、彼女がまだ生存していてくれるか。

 

 

 途方もなく広大で、かつ矮小な空間。


 その中にたった一柱、存在する少女神の意識。

 肉体と、距離感、時間と場所の感覚を失う、かつて彼女であった彼女そのものが、一点へと収束をはじめていた。

 ブラックホールの内側に入ってゆくのだとすれば、その光景は外部からどのように見えているだろう。

 原子やエネルギーすらも引き裂かれて千切れてしまいそうな恐怖感のなか、彼女の意識がまだあるのは、次元が違うという説明で成り立つだろうか。


 レイアがブラックホールに抱くイメージといえば、赤や青のにぎやかな銀河系の中にひっそりとたたずむ、不気味に口を開け、幾重もの圧縮された光環を纏う“毛のない”天体だ。


 その一線、事象の地平は何事もなかったかのようにまたぐことができる。だが現世とあの世をまたぐ光円錐ライトコーンは徐々に傾き、そこから這い出すことは未来から過去へと這い出そうと試みることでもある。

 周辺の星は通りすがりロシュ限界で押しつぶされて黒い天体の花弁を色どり、やがて飲み込まれて特異点のただ一点に収束してゆく。

 物理学的に起こっている事象は、そんなところだろうか。

 だがそのなかでもまだ、彼女の意識はある。

 

【あなたが一つ上に来たからここは少し、音が届く】


 何ものかの声が予感となってレイアの意識に共鳴し、明瞭に聞こえた。

 以前のように儚い、ノイズのかかった音声ではない。

 実在を伴い、質量を持ってレイアの存在を透過するように降り注いでくる。


 彼の姿は見えないが、重力子のように……確かに影響を受けている。


 声が至高者からのものであるというならば、確かにそうかもしれない。

 また、夢であるというのならそれもまた事実だ。

 だが夢か現実か、そんなことはどうでもよかった。

 ひとつの意識の中にあるもうひとりの他者。

 そのおかげで絶対の孤独と恐怖の中にあって、彼女以外の存在を身近に感じることは、少なくとも不快ではなかった。

 暗闇の中に小さな明かりを見つけたなら、たとえそれが誰の灯した光であっても安堵の息をつくように。


 声の主は分かっていた。


“INVISIBLE……?”


 肉体を失ったレイアは彼女の中にある、そこになき存在に意識の中で問いかけた。

 ずっと遮られて聞こえなかった声がいま、近くにまで届けられた気がして。

 どんな呼びかけも逃がすまいと必死に耳を傾けた。

 すでに彼女の瞳はおろか、耳すら失われていた。

 これは、夢ではあるまいか。仮にそうだとして、誰が夢と現実を区別できる。


 脳がないのに、わたしはどうやって考えているのだろう。

 そんな疑問をどこかに押しやりながら、彼女は必死に呼びかけた。


“やっと会えました。わたしが死んで、特異点に近づけば近づくほど、あなたとわたしの距離が近づいたからでしょうか。あなたはもうわたしの中にいますか?”


 これが、INVISIBLEの収束というものなのだろうか。

 だが幸いにも、というか不幸にもというか、レイアの自我はまだ侵されていない。

 おかげでまだレイア自身はレイアでいられた。

 神経すらも失われたなかで、やはり苦痛はなかった。


【あなたは生きているよ】


 抑揚のなく感情も籠らない、声はそう伝えた。


”わたしが……生きている?”


 無茶だ。

 こんな状態で。

 姿も失い、彼女の体すら見えなくなったというのに、これでなお生きているだと?

 気休めを云わないでほしい。あれ……そういえば言葉が通じる、三次元空間では聞き取ることすらも困難だったが、今はINVISIBLEとの対話が可能なのだ。

 彼の声は掠れても途切れてもいない。ぴんと芯が通って、心なしか澄んで聞こえる。

 以前のように頼りないものではない。


【ただ、この位相の自と他の境界線は明瞭ではなく、どこからどこまでがあなたなのか定かでない】


 今はまだレイアの意識は清明だが、液体と液体が混ざりあうように混沌としたものになって、やがてINVISIBLEはレイアと混ざり合った状態になってゆくのかもしれない。

 二度と分離できないような、そんな不安がこみ上げてくるが、もはやどうしようもない。抗うことも拒むこともできず薄く希釈されてゆく自我。

 それでも最後のそのときまで彼の声を聞いて、できれば真実を待つ者たちに伝えたい。


 その声はどこに届き、誰が聞いてくれるだろう。


 恒のもとへ、叫べば届くのだろうか。

 INVISIBLEもそうやって叫び続け、途切れ途切れに、三次元上のレイアに呼びかけていたのだろうか。

 恒が彼女の抗体だとすれば。

 抗体は必ず抗原を見つけてくれる、どこにいても……きっと声は彼に届く。


 INVISIBLEの収束はいつはじまるのだろうか、それとも始まっているのだろうか。

 スティグマを三次元世界に忘れてきたような気がして悔やんでいたが、収束の条件をクリアしたようで彼女は一息ついた。

 取り返しのつかない段階になる前に、レイアはどうしてもINVISIBLEに直接伝えておきたいことがある。


“あなたといつまでお話できるのか、わたしがいつまでわたしでいられるかわからないので、お話の前に最初に言っておきます……。ひとつだけ、どうしてもこれだけ約束してください”


 INVISIBLEからの返事を待つ前に、彼女は一気に伝えきった。

 彼女の思いのたけを、ありったけの思いを込めて。


“皆のことは、絶対に助けてください。あなたはたくさん殺しました。だからこれ以上ひどいことをしないでください。あなたは至高の力を持っている、それは皆を助ける力です。その力をよいことに使ってください。守ってくれないなら、わたしは何一つ協力しないつもりです”


 苦痛も感じず、誰にも見えず肉体も失って、それでもINVISIBLEは生きているというが既に死んでいるも同然の身体になど何の未練も執着もない。

 今更何を怖がるものがあるだろう、だが失うものはある。

 ただの意識の塊となったレイアは、まだ肉体を持つ生きた者たちを想った。

 皆を助けたい、たった一つのこの願いが遂げられないならば、最初から生まれてくるべきではなかったとすら彼女は思い詰めている。


 この日のために生まれてきて、この瞬間、一番頑張らなければならないところなのだ。

 彼女は自身にそう言い聞かせながら、必死に訴えた。


【あなたがわたしをINVISIBLEという創世者か何かだと思っているとしたらそれは誤りだ】

 “え……”


 彼は何を云っているのだ。

 とぼけたって、騙されはしない。

 彼がINVISIBLEでなければレイアは一体何と話しているというのだ。

 ブラインド・ウォッチメイカーでもノーボディでもないというのは確定している。

 これ以上に何がいる、彼女は信じられない。


【あなたはまだ幼いが、あなたにだけ伝えておこう。世界の果てで何が起こったかを】


 彼女の実年齢は2歳と半年。

 だが、彼女の全てを費やしてこの日のために備えてきた。

 何があっても受け入れて、どんなことにも耐えられるように。

 どんな些細なことでも話してほしいと願った。

 これまでは誰もINVISIBLEのことを理解できなかったが、せめて彼が何の目的で、何をしようとしているのか。

 巻き込まれた彼女にはそれを聞く権利がある。


 彼女は本来、物心さえついていない年頃だ。

 比企が箱の中に監禁して無理やりレイアを成長させたが。

 彼女は比企の非道を虐待だとは思わない、むしろそうしてもらってよかったと思っている。

 物心もつかないまま、INVISIBLEの話も分からず何も知らされないまま、怖い思いだけで泣き叫びながら消えてゆくなんて耐えられない。


【あなたには……すまないことをした。随分苦しめてしまったな】


 肉体を持たない者同士の会話の不慣れ、緊張して気を張り詰めるレイアに気付いたのだろうか。

 ふと、声は彼女を慮った。彼女を労う言葉が意外で、レイアは返事に困る。

 INVISIBLEはレイアに酷いことするとばかり、思い込んでいたから。

 そして彼は実際に過去、周囲にひどいことをばかりしてきたから。

 こちらの言葉など聞く耳を持たない、我儘な暴君だと思っていた。


【わたしたちは敗北したのだよ】


 彼は何の話をしている。


【自身の生み出したテクノロジーと最高を希求し続ける永続的な衝動に】


 本当にこれがINVISIBLEの言葉なのだろうかと、彼女は強く疑いを抱く。

 テクノロジーに、衝動? そんな人間が作ったような言葉を、創世者INVISIBLEが敢えて使うものだろうか。

 どこかでボタンのかけ違いが起こっている、その文脈に彼女は違和感を覚えた。


“だ、誰が……ですか? もっとよく、分かるようにお話ししてください”


【特異点を突破してなお、その先に何かあるかと躍起になった】


【でも、そこには――人間の、その先にはね】


 そして声は止まった。

 注意深く、レイアは彼の言葉に意識の全てを傾ける。


【なにもなかったんだよ】


 英語には主語が存在するが、意識の遣り取りの中では言語的制約から解放される。

 おかげで彼の話はひどく抽象的だった。

 誰かと会話をすることを忘れていたような存在だ、話が伝わらない理由は推測できるが、レイアに伝わるように話してほしい。


 彼女がひとつだけ分かったことがある。

 レイアは彼の話の主語を、発見したからだ。

 そうか。

 彼はいま、彼の話ではなく、神々の話でもなく、人間の話をしているのか。


“どうして、人間の話をするの……何の関係が”

 

【わたしの正体はただの、ちっぽけな――なんだ】


 抜け落ちたように、その「――」という言葉がよく聞こえない。

 レイアは場違いな言葉を聞いたはずだが、レイアの思考が受け止めることを拒絶している。

 もう一度反芻しようと、彼女は懸命に意識を集中する。


【あなたと同じ】


 レイアはおぼろげながらに提示されたこたえを手放さないために、必死に思考する。

 こたえはもう、すぐそこにあった。


 同じ? 誰と? 

 わたしと?

 神と同じで、INVISIBLEも同じ。


 ……レイアも同じ?


 INVISIBLEは、人間?


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