第3節 第1話 At the moment of World creation
ノーボディの広大な墓地から墓を暴かれた先代絶対不及者 セウルの記憶が織図によって強引に召喚され、バイタルアレストの権限を掌握する織図の監視下に置かれてから丁度一ヶ月が経った。
神々がひとつだけ安堵しセウル自身にも幸いだったことには、彼の背にスティグマがなかったということだ。
つまり彼は必ずしも神階にとって直接的な脅威であるとはいえず、INVISIBLEの収束の可能性も顕著に高いといえない。
抜け殻であるとはいえ、絶対不及者の存在は不安定でかつ危険だ。
神々はそれを理解しているだけに、セウルの中にINVSIIBLEがいないと判っていてもなお、彼を自由にさせるわけにはいかなかった。そういうわけでセウルの拘束は非人道的な方法で行われた。彼は居心地が悪そうだったが文句をいうでもなく、荻号 要の残した亜空間にひっそりと幽閉されている。
「毎日ここにきますね。あなたたちも。おや?」
恒と遼生は毎日超空間転移でセウルのいる亜空間にやってくる。
多忙なリジーは皮肉を述べ、セウルは会釈をして穏やかに彼らを迎える。
既に比企、智神リジー=ノーチェス、ファティナも一緒だった。恒も遼生ももう見慣れたが、はじめて見たときには新旧智神の組み合わせは新鮮だった。
そして今日は、恒が超空間転移で吉川 皐月を伴ってきている。皐月は絶対不及者の話を聞いて、恒に是非とも彼と面会したいとうったえていた。
そういえば皐月は時空間歪曲の起こっていた渦中の首刈峠にも荻号に連れて行ってくれと頼んでいたほどの肝っ玉を持った女性だ。彼女は常にどんなに危険でも真実を目撃したいと考えていて、命知らずだ。
「ここは人間には危険かと思われるが?」
リジーが、感心しないといった顔をして、きつい口調で忠告する。
「よいのだ、許可は出しておる」
恒の推薦を受けて、比企が皐月の立ち入りを許していた。基本的にこの場所に立ち入ることができるのは超空間転移を可能とする比企の連れてきたごくごく限られた者たちだけだ。
最初の二週間はセウルの意識はほとんど落ちており話にならなかったものだが、ここ最近、彼の記憶も安定化してきて会話ができるようになった。
それを聞いた皐月はセウルの言葉を直接聞きたいという。彼女の主張に何か必然的かつ運命的なものを感じ取った恒は、比企に彼女が何とかセウルと面会できるよう打診していた。比企は前室までならと許可を出した。
それで恒が極秘裏に、超空間転移で皐月を連れてきたということだ。この頃には恒も、超空間転移に人一人を巻き込むことは優にできるようになっていた。
セウルの拘束に久遠柩は適用されず、その代わり彼は権鎖という対絶対不及者用の鎖、つまり久遠柩の際に織図がレイアを拘束した特殊な拘束鎖……によって緊縛されて、首から下は自由にならない。
セウルがいるのは、第一核種隔離室と呼ばれる白い20m四方の特殊なシェルターともいえる部屋で、放射性の高エネルギー物質貯蔵庫として準備されていた。
この部屋の外周はエネルギー遮断性の硬殻防壁で四重に囲まれている。彼は外部とは完全に遮断された部屋にひとり、いわば危険な核種として保存されているというわけだ。
これぐらいの用心はしてしかるべきだ。
隔離室に入る前には前室があり、隔離室内はアトモスフィアを遮断するマジックミラーごしに内部の音声を拾う監視カメラが何台も設置されている。
セウルは前室から24時間体制で監視されつつ、隔離室と前室の間で会話は交わされる。
枢軸神たちは前室から交代でセウルの監視にあたり、隔離室内に入るものは少ない。
直に対面すればマインドコントロールを施される可能性を否定できなかったからだ。また、セウルのアトモスフィアは特殊な構成をしているらしく、直に対面すると“埋没”状態になるばかりでなく、他神のアトモスフィアを消滅させ、強烈な吐気を催させる。
このため、誰もセウルと直接話したがらない。
セウルはというと、リジー=ノーチェスの智のデータベースとADAMオンラインから知識を吸収し、目覚めたばかりの頃はままならなかった言葉もすぐに話しはじめた。
外見は完全な絶対不及者なだけに、その姿は神々、そして使徒たちには恐れられる。
そこで彼は姿を隠す意味もあって監禁され、その存在は神階上層部以外に秘匿されていた。
ゆえに彼と直接面識のあるものは神階でも数えるほどしかいない。
ましてや直接対面しようとするのは恒と遼生ぐらいのものだ。
彼ら二柱はどうしたことかセウルと対面しても体調が悪くなったりなどの症状は出なかった。
抗-ABNT 抗体の現キャリアと元キャリアとしての体質が、セウルのアトモスフィアと親和性を持っているらしい。
恒は彼の待遇を気の毒だとは思うのだが、セウルは恨みに思っている様子はない。
特務省の動力炉の中に密閉されていた彼のことである、多少の待遇の悪さは気にしない。
権鎖で縛られていても思考および意識レベルは澄明。
精神状態も非常に落ち着いており、神々は前室からマイクごしに彼と幾多の問答を重ねてきた。
実際にINVISIBLEに収束された彼の知見は、防災訓練的な意味もかねて非常に役立った。
彼は前例があるだけに物理的に自由を奪われるよりINVISIBLEに自由を奪われる方を恐れているらしかった。
生前の智神セウルは実直な性格だったのだろう、質問にはありのまま素直に真摯に語る。
セウルの話をよくよく聞いてみると、三階の役に立ちたいという思いはあるようだ。
ただ彼は図らずも無数の神々を殺害してきたという過去があって、神々の心情に遠慮しつつ彼は迫りくる“その日”を前に、協力の機会を待っていた。
CERNのクインシー=バートンら数名の科学者も、物見遊山……ではないにしろ創世者の依代だったという不死身の神に興味を示し会いにきたが、防護服のうえに神気遮蔽布を纏っての面会でも、セウルの強大なアトモスフィアに中てられて体調が悪くなり吐き気や悪寒が止まらず、面会も10分ともたなかった。
余談だがその後1週間というもの、彼らは揃いも揃って高熱を出し、ひどいインフルエンザを罹患したような症状が続き、下痢が止まらず食欲もなく、体重を平均3kgも落とす結果となった。
それを聞いたセウルはたいそう悪びれた。
差圧調整室から重い扉を開いて隔離室内に入った恒と遼生は、今日もセウルの状態が落ち着いているのでほっとする。
「例のブラックホールについて、判断が出ましたか?」
遼生がセウルに情報の開示を要求する。
件のブラックホールのポテンシャルと構造について、セウルは先日、千里眼(テレグノシス:telegnosis)で詳細を調べておくと言っていた。
この絶対不及者に特徴的な能力はわざわざ危険な場所に行って確かめる必要がないので非常に助かる。
「どうでしたか?」
おずおずと尋ねる恒。
セウルと出会ってしばらく経つが、まだ少しは遠慮というものもある。
彼はユージーンやレイアと違い絶対不及者候補、ではなく実際に絶対不及者だった人物だ。
禁視という絶対不及者の特徴を備えた瞳で見据えられると、おのずと萎縮してしまう。
セウルの神体はそのエネルギーで聖衣をも溶かすので比企が彼のために絶対不及者のアトモスフィアに耐える権衣を仕立てさせた。
彼のアトモスフィアを抑制する効果もあってそれを纏っている。
さながら本物の絶対不及者に会ったように感じるのだ。
怖いもの知らずの遼生は元絶対不及者を前にしても、特に態度を変えなかったが。
セウルは答える。
「先ほど彼らにも話したのですが、たしかに以前より格段に巨大化しています。ですがこの四次元大質量ブラックホールは三次元空間には被害を与えないことがわかりました。現時点の状態が継続するとして、ですが」
ちなみに彼は意外にも肉声で話す。
至極丁寧口調で話すセウルを、恒はユージーンのように錯覚してしまう。
恒から見た彼の姿はあまりにユージーンに酷似していて、そのつもりで話している自分がどこかにいた。
実際にそう見えるのだから惑わされそうになるが、恒は時折、ダメだダメだ、と意識的に区別を忘れないようにしている。
「え? でもブラックホールなんですよね? 被害を与えないってどういうことですか?」
恒が疑問に思うのももっともだ。セウルは恒と遼生が理解しやすいよう、端的に要約をする。
「簡単に申しますと、次元がずれていたのです」
「え! そうなんですか!? 見かけだけブラックホールに見えるってことですか?」
驚く恒を遼生は制する。
遼生は埋没状態を余議なくされる絶対不及者との対面を、特に警戒していた。
セウルの話はまず疑ってかかり、すんなりと信じない。
とりわけ絶対不及者に対してABNT抗体である恒が傾倒しやすいということは、これまでの彼の言動から明らかだったからだ。
「千里眼で実際にブラックホールの内側を視てきました。ですがあれは三次元上に投影されたただの虚像です」
「ブラックホールの中を!? マジですか?!」
前室では皐月が悲鳴をあげていることだろう。
皐月はブラックホールの内部、事象の地平線の果てを数学的に視抜くことに心血を注いできたようなものなのだから。
セウルと直接話して質問責めにしたいに決まっている。
「あの。マジとは何のことですか」
セウルが丸暗記した辞書にはなかった言葉なのだろうが、恒は話の流れを中断されて気抜けする。
このあたりは日本に来たばかりの外国人のリアクションと変わらない。
彼は現代神ではないので完全な日本語を使わなければ通じないのだ。
こちらが気をつけて話さなければいけないのだと恒は反省した。
彼は辞書をまるごと何冊も暗記してそれに基づいて現代語を組み立てているので、少しでも変則的な使用法をすると混乱する。
スラングなどもってのほかだ。
「本当ですか、という意味ですよ」
遼生が補足したので、彼は合点がいったという顔をした。
「はい事実です。特異点もなければさしたる重力もありませんでした。投影図に飲み込まれて見かけは巨大に見えるのです」
荻号の残した四次元ブラックホールは実体ではなく影のようにただ拡大し、覆い尽くし、通り過ぎてゆくだけだとセウルは主張する。
したがって三次元空間には微々たる影響しか及ぼさないと見受けられる。
不測の事態も計算し尽くしての結果だ。
「ではひょっとして。避難する必要もないんでしょうか」
遼生はカマをかけるように、わざとセウルに尋ねた。
「わたしはそう考えます。ですが、念のために避難をしておいたほうがよいかもしれませんね」
遼生の思惑に勘付いたセウルは慎重に言葉を選ぶ。
遼生はセウルの失言を狙っていて、いつも失言を引き出すような危ういラインをわざと攻め込んでくる。
つまり彼はMRIを以てしても看破のできないセウルの本心を暴きだそうと試みているのだ。
難攻不落の要塞を落とすかのように。
「ひょっとして僕たちが避難しない方が、あなたにとって都合がいいんですか?」
朗らかな表情とは対照的に、辛辣な言葉でセウルを追い詰める。
「そんなつもりでは……」
セウルは遼生の誤解を解くために、声を大にして言いたい、自分はかつて絶対不及者であったが、好き好んでそうだったわけではない。
たしかにマインドギャップは難攻不落のようであっても、門扉を開け放って誰でも招き入れているつもりだ。
警戒して入ってこないのではセウルの本音を相手に伝えることも難しい。
だからせめて、INVISIBLEの代弁者のように扱うのはやめてくれと。
今は神々と人々の味方であって、断じてINVISIBLEの手先などではないのだと。
それなのに遼生はセウルを敵として完全に追及モードだ。
遼生には、セウルがわざとINVISIBLEの収束について、三階が避難をしなくてよいと油断をさせようとしているように聞こえたことだろう。
こうなったときの遼生は容赦のない鬼畜っぷりを発揮する。
恒はあー……と額をおさえた。
下手にセウルを刺激してしまっては三階の安全保障にだって不利益を被るということがわからないのか。
遼生は遠慮もなしに柵で仕切られている隔離エリアの中に踏み込んで近づくとセウルの髪の毛に触れ、無作為にひと束の毛束をとった。
ブロンドの感触を遼生の指で確かめる。
多少は挑発の意図もある。縛られたセウルはそれを振り払うこともできず視線を伏せた。
「見て」
遼生はセウルの毛束を軽く引っ張り10cmほどしごいて、するりと手放す。
「え?」
遼生にとってのセウルの毛ってそんな長かったの? と恒は面食らう。
恒はセウルをユージーンと同じく短髪の智神だと思っていた。
しかし遼生にはそう見えておらず、恒の観ているものとは違う姿をしているのだ。
遼生は恒の頭の中のイメージをMRIによって正確に看破することができるので、脳内に映じたセウルの姿が二人の間で著しく異なっていることに腹を据えかねている。
もしかして……レイアもセウルと同じように?
恒と他の神々の間で姿が全く違って見えていたというばかりでなく、その存在のありようも全く異なっていたのか?
「ちょ、ちょっと俺も失礼します」
恒も柵の中に入って、無礼だと思いつつセウルの頭に触れてみた。
やはり見た目と触感は同じ短髪で、髪の毛の長さは5センチほどしかない。
今更のように荻号 要の言葉を思い出す。
存在を疑え、それは果たして“在る”のかと。遼生はとどめを刺した。
「つまりあなたの姿は現時点においても偽りです。正体すら見せないのにその言葉を信用できるわけがないでしょう」
セウルは言い返す言葉もない。
彼らの脳の中に映る姿にまで責任をもてないのだ。
せめて故意にそうしているのではないと、どうにか伝えることができればよいのだがその手だてもなく、悪びれるように沈黙した。
恒はその様子を見守っていた。
「……だからといってセウルさんを責めるのは筋違いだ。ごめんなさい、つっかかって」
彼らの非礼を甘受し息を殺すセウルに、恒が遼生と二人ぶんまとめて謝罪した。
彼はレイアと同じく可塑性のある容姿を持っており誰ひとりとして彼の姿は同じように見えない。
それでよいのだ、彼にはどうしようもないことで彼を責めてはいけない。
「絶対不及者。僕はあなたを敵視したいのではない、僕はあなたに命の恩義があり大変感謝している。対等に話し合うためあなたの真実の姿を見せてください。こんなのフェアじゃない」
特に遼生は二代絶対不及者セウルの血液の回復力によって八つ裂きにされた状態から命拾いをしている。
遼生はセウルを責め苛みたいわけではなかった。
こんな土壇場になってまで、欺かないでほしいといいたかっただけだ。
「信用していただけないのは当然です。少しずつ信用を得られるよう努めたい、ですがあいにくわたしはあなたがたの脳の中の姿にまで責任を持てません」
セウルは彼らをフォローしつつ、言うべきことは控えめに主張する。
「そして恒、先日あなたに依頼されていた件ですが」
「あ、はい」
織図はメファイストフェレスやファティナとともにノーボディの残した広大な神々の記憶のおさめられた墓地の中からレイアの記憶のある墓標を捜しだしコピーを持ち帰った。
レイアの記憶を調べれば彼女の安否がわかるばかりか、彼女の言動も逐一記録されている。
余談だが、ヴィブレ=スミスの創造物である恒と遼生の記憶はノーボディの墓地にはなかったのだそうだ。
完全な人間ではない恒はEVEに入ることもできないわけで、恒と遼生は死んだら彼らの情報はもうそれっきり。ということになる。
織図とファティナがコピーをして持ち帰ったレイアの記憶についての解析を行い、レイアの消滅直前までの記憶はなんとか再生できたものの、丁度消滅した時間から著しくノイズがかかっていて、レイアの身に何が起こったのかわからなかった。
手がかりが途絶えたので、レイアやユージーンの居場所についてセウルに捜索を依頼していたのだ。
彼は千里眼で三階の隅々まで捜してみるといっていたのだが……。
「え、もう捜し終わったんですか!?」
恒はセウルをせかすまいと思ってここ数日、早く結果を訊きたいと思いながらも我慢してその話題には一切触れなかった。
結果を焦るあまり見落としがあってはいけないからだ。
「……レイアとユージーンなる二柱の神々。千里眼でほうぼう捜しても三次元軸上には見つかりません。ですがレイアに関しては崩御してもいません。彼女は上位次元にいる可能性があります」
「崩御して……いない!?」
恒の表情がにわかに明るくなり、上位次元と聞いた遼生の表情がこわばる。
レイアに関しては崩御していない、というのは織図の話で墓石のクリスタル状記憶素子へのアクセスが明滅中だったということからも予想がついていた。
セウルは隔離室の白い壁面に埋め込まれたライブモニターに映されたグラウンド・ゼロのスティグマを見詰める。
レディラムが呼んだ監視衛星がグラウンド・ゼロの座標上でスティグマの定点観測を行っていた。あれから一カ月あまり……様々な分析を行ったが、位置的にも、形状にしても、スティグマにとりわけ変化はない。
スティグマはかつてセウルの背にもあったものだ。
神秘のベールを脱ぎはじめたスティグマという創世者の秘蹟。
高エネルギー実験施設のモチーフをただ単純に重ね合わせたかにも見える……今は彼の背から離れたそれをセウルは幾度となく客観的に見つめなおしてきた。
「特殊なブラックホールの出現とレイアの消滅には何か関連がありそうです。思うに、聖痕は上位次元と下位次元を往来するための出入り口のような役割を果たしているのではないでしょうか」
スティグマの意義はただ単純に創世者にツバをつけられて逃れられない。
という意味合いのものだというのがこれまでの通説だったが、象徴的なものではなく実用的なものだったのではないかと、セウルは考えているらしい。
「では、スティグマというポートを通ってINVISIBLEが下位次元に降りる……ということですか。逆に、スティグマを介してINVISIBLEのいる場所にレイアが連れてゆかれたという可能性もあるということでしょうか?」
恒がセウルにたたみかける。
INVISIBLEの収束は同じ座標の、別次元で起こるものなのだろうか。
たとえばX軸Y軸上の、Z軸のみ異なっているような感覚で。
セウルの反応はいまいちだ。彼の意見だけで、まだ確信は持てていないらしい。
「織図たちが解析した、そのノイズの入ったレイアの記憶をわたしにも見せてください」
セウルは織図が回収したレイアの記憶を見たいといった。
「わかりました。ファティナ様と織図さんにのちほど開示をお願いします。それからセウルさん。これも見てもらっていいですか?」
セウルの目の前に、恒はルーズリーフのコピーを出した。
彼は最後まで目で追って、もう一度視線を往復させてから、恒を見遣った。
「これは?」
「ここからINVISIBLEの意思が読み取れたりしますか?」
ユージーンが書いたと思われるメモのことだ。
手がかりが残されていて何ら不思議はない。
実は、皐月がこの亜空間に来たのは、恒がセウルにこのメモを見せる様子を観察したいという希望があったからだ。
セウルがこのメモを見て何か反応を見せないか、恒も皐月も興味があった。
「……いいえ。これらの数値が何を示すのか、わたしにはわかりません」
セウルはもう一度熟読して、恒と遼生の視線を避けるように、申し訳なさそうに首を振った。
「少し考えてみます。時間をいただけますか? そうですね、一日ください」
「じゃ、ここに置いておきますね」
セウルは完全に拘束されているので、ルーズリーフのコピーを持って読むことができない。
恒はセウルの座る祭壇の前にコピーをひらりと置いた。
『八雲。外に出ろ』
遼生は前室からのアナウンスで比企に呼ばれたので、何故このタイミングで呼ぶのか疑問に思いながらも隔離室の外に出た。
先ほどは少々、セウルに対する挑発行為が過ぎたが、遼生はセウルの真意を正そうとしただけだ。
セウルに恨みもなければ、彼を悪く思ってもいない。
しかし遼生と入れ替わるように入室してきたのは……恒にとって意外な人物だった。
隔離室は厳密な差圧の調整が行われているので、二人までしか入れない仕様になっている。
遼生の態度が悪かったというばかりでなく、新たな入室者のために遼生が追い出されたのだ。
隔離室に入ってきたのはこともあろうに……吉川 皐月だ。
「皐月先生! どうして! 外から見てるだけって言ったじゃないですか! 今すぐ出てください!」
「ファティナ様に死なないようにしてもらったから、大丈夫よ」
皐月はルーズリーフのメモの内容に対してセウルの反応が薄いのをみて、彼と直接話してみたくなって比企に入室したいと言いだした。
比企は当然自重しろと諌めたが、比企に彼女を行かせてやってはどうかと進言したのはファティナだ。
皐月はユージーンの記憶を思い出していないが、ファティナはユージーンと共に過ごした過去を持つ皐月であれば、セウルのアトモスフィアにも耐えられるような気がしてならなかった。
さらに皐月が彼と直接対面して問答を交わすことによって、何か興味深い意見を訊く事ができるかもしれない、という期待も沸き起こってきた。
人体への安全性を理由に入室を渋る比企にファティナは、皐月に覚えたてのバイタルロックを施すことで解決を図った。
織図の許可もなく勝手なまねを……と咎めるものもいない。
どうせバイタルロックは3日後には消える。
自己主張などしなかったファティナの熱意に比企も折れ、皐月に神気遮蔽衣とアトモスフィアからの防護服を三枚も着込ませ、放射線遮断ゴーグルとグローブをはめて物々しい厳重装備で隔離室に送り込んだのだ。
「バイタルロックをかけてもらったんですか?! でも身体こわしますよ!! 何日も熱が出て嘔吐に下痢に、体重も何キロも落ちますよ……セウルさんのアトモスフィアはそれほど強いんです」
「いいの。それだけ価値のある方とお会いするのだから」
皐月は少々のことは覚悟のうえだ。
確実に痩せられるのならダイエットにもってこいだわ、と、黒い防護服で着膨れたままカラ元気を出して笑うのが痛々しい。
「どなたとは知りませんが、申し訳ありません」
二人の遣り取りを聴いていたたまれなくなったセウルが謝罪をした。
もと天帝がまさかの謝罪だ。
自らの意思でここに来た皐月は複雑だ。
頼まれてきたわけでも何でもないので、セウルには謝らないでほしい。
「直接お話を伺いたくて、押しかけてごめんなさい。初めまして。私は小学校教師をしております吉川 皐月と申します。おわかりだと思いますが、人間です」
セウルは皐月を傷つけないようアトモスフィアの放散を最小限にとどめようと尽力していた。
だが、いくら頑張っても強大なアトモスフィアの挙動は完全には制御できず限度がある。
皐月は彼を正面から見て、既視感を擁いたようだった。
「どこかでお会いしましたか。なんだか懐かしくて」
創世者とはそういうものなのだろうか。
皐月の胸の奥がじんわりと温かく感じたのは、思い過ごしではない。
それにファティナが予想したとおり皐月はセウルと対面しても、少しも身体に異変を感じていないようだ。
CERNの研究者たちはすぐに音をあげ、そこかしこに吐瀉物をぶちまけたというのに。
皐月にはユージーンのアトモスフィアに免疫がある。
そしてセウルもユージーンとほぼ同じ構成のアトモスフィアを持っている。
「……いいえ」
セウルはぽつりと呟いた。
しかし恒だけは知っている。彼女がセウルに感じる既視感はユージーンに感じたそれだと。
皐月はまじまじとセウルの顔を見つめる。
彼の虹彩が金色に見えるのは、黄金色の血液を通わせる彼の虹彩に血液の色が映じているからだ。
彼が極力口を開けないようにボソボソと喋るのは、舌も口腔内も同じ黄金色をしているからだ。
化け物だと……そう思われると分かりきっているから、彼はいつも俯いて自信なさそうに相手に接する。
そう思うと不憫で、皐月は吸い込まれるように彼を見詰めた。
見れば見るほど興味深く、惹きこまれてゆく。
彼はINVISIBLEに彼の生涯を奪われ巻き込まれた被害者だ、加害者ではないと分かっているので恐怖心はない。
「私が押しかけたのは物理学的観点から、あなたに最大限の協力をしていただきたいからです。あなたはプランクエネルギーを優に扱えるとお聞きしています。それを踏まえ、考えうる限りの終末の回避の方法を話しあいたいのです。もう時間は幾ばくとありません。それに、このメモについても」
「ええ。何なりと」
「一つの案は、あなたの力で時空を曲げ、時間軸を閉じて円環させるというのはできますか」
「え!?」
皐月の大胆な発想に、恒は仰天だ。物理学者はときに、“理論的に可能か”という点のみを考慮して、技術的な課題を一切無視することがある。
今の皐月の提案がそれだ。
それは普通は机上の空論となりがちだが、セウルの力添えがあれば途端にそれは空想などではなくなる。
皐月は考えうる限りの無茶ぶりをしてみた様子だ。
「時間を閉じるのですか?」
セウルが皐月の申し出を反復した。
いきなりの話だが、皐月は確かにエネルギーの観点からセウルにできることを見極めている。
プランクエネルギーを扱えるのなら、という前提ではじめている。
「そうです、時間と時間の端を結ぶんです。プランクエネルギーを扱えるあなたには、難しくはないはずです。そうすればINVISIBLEが収束する日を永遠に回避できませんか」
セウルは瞳を閉じ、何やら思索をはじめた。
1分後、恒と皐月が固唾を呑んで見守るなか、彼は解答する。
「戻せそうな時間域があります」
速い! セウルの頭脳がスーパーコンピューターだとしたら、ファティナの神具 へクス・カリキュレーションフィールド以上の演算能力と見受けられる。
一瞬で過去における空間の歪みを求められるだなんて……皐月は驚愕した。
「いつですか!?」
「現代の時間からいうと940年前です」
恒はあれ? と首をかしげた。
940年前って……鎌倉時代だよな。恒がADAMで見つけた、“鬼が来る村”風岳村の記述。
グラウンド・ゼロにおける災厄のはじまりとされる。
ちょっと待てよ。
鎌倉時代の首刈峠のグラウンド・ゼロに介入してきたのって……ことの発端はセウルの介入だったのか?
「そのポイントって、3年前にもないですか?」
恒の質問に、セウルはまたしばし考え込む。
「いいえ。3年前では歪みが大きく不安定で適しません」
それを訊いた恒は同時に、3年前、首刈峠に干渉してきたのはセウルではなかったのだと知る。
先ほどまで妙案だと思っていた皐月の案だが、安易に乗っかるのは危険だと、恒は途端に警戒心が出てきた。
「やめましょう。時間をいじるのはリスクが大きいと思うんです、因果律を狂わせてはいけません。それにその試みはINVISIBLEの想定の範囲内かと思われます」
断言してもいい、INVISIBLEは絶対不及者セウルの過去への干渉を“織り込んで”いる。
もしセウルの試みが成功してINVISIBLEの収束が防げるというのならば……鎌倉時代に首刈峠で、何も起こっていてはならなかった!
鎌倉時代から断続的に続いてきた干渉、鬼の来る村の伝承。
それをセウルが行っていたものだとするならば。
セウルは今後、940年前の時空に干渉を行うのかもしれない。
だがその記述は既に文献によって存在しているのだ。
セウルがまだ実行してもいない行動は既に、“史実”として残ってしまっている。
INVISIBLEに見透かされているように感じた。
「あなたが過去に干渉したことは史実として残っています。もしくは、あなたがやったのではないのかもしれませんが」
過去を変えるべきなのか否か。
「でも、それしかINVISIBLEの収束そのものを回避する方法ってなさそうですよね?」
皐月が失望のまじったため息をつく。
また一から対策を考えなければならない。
そんななか、セウルはふと皐月の言葉で何かを思いついた。
「INVISIBLEの収束そのものを永遠に回避する方法……あなたに言われて気付きました。方法はもう一つあります。創世者の収束を完全に逃れようとする場合には、その日、その時。現空間から避難していればよいのです」
「どこに逃げるんですか?」
二人はセウルに顔を近づける。
このとき、セウルはぎこちなく微笑んだかのようにみえた。
恒がセウルの笑顔を見たのは、彼の記憶を召喚してより初のことだ。
ようやく虐殺者であった過去に対する償いを果たせることができると分かって、ほっとしたかのように。
恒にはそんな安堵の表情に見えた。
「空間開闢を行えばよいのです」
しん。
と静まり返った。
皐月も恒も、見守っていた前室の神々も一斉に口を閉ざす。
それはまるでセウルが積年の思いを込めてINVISIBLEへの復讐を果たすかのようで。
創世者の器であったセウルが創世者まがいのことを、いわば創世者の特権ともいえることをしてみせるというのだから。
恒はセウルが何を言ったのか、もう一度問いただそうとする。
「空間開闢って創世のことですか? INVISIBLEかノーボディでないと無理ではないのですか」
「いいえ。創世ではありません。完全なる創世はINVISIBLEの収束までに避難所として用いるには間に合いません。そもそも創世というのはエネルギーを……」
セウルの話が長いので以下略。
つまり恒がセウルの話をまとめるとこんな感じだ。
下から上にかけて、高度な創世、というか宇宙の創造を成す。
セウルいわく、姿が見えないものほど高いエネルギーを持っているのだそうで。
INVISIBLE(全次元空間創世・上位次元創世者、能力未知数)
---11次元とD-ブレーンの壁---------
アルティメイト・オブ・ノーボディ(3次元+広域時間軸操作 宇宙創世)
---4次元(3次元+時間軸)の壁------
ブラインド・ウォッチメイカー(3次元創世)
---宇宙開闢の壁-----
初代絶対不及者セト(数万年耐久の空間開闢と分離・広域時間軸操作)
二代絶対不及者セウル(数万年耐久の空間開闢と分離・広域時間軸操作)←ここ
---亜空間開闢の壁------
荻号 要(千年耐久の亜空間創造、相転星で局所的時間操作)
皐月にメモ用紙を一枚千切ってもらってメモを取り、簡単にまとめて恒は把握した。
あれ。
セウル結構すごいけど、できることは限られてる?
セウルは創世者ではないので宇宙創造はできないが、現空間のほんの一部を完全に切り離して、現空間の物理学法則と性質を維持したまま、そこを三階の避難所として使うことはできるというのだ。
たとえば現空間という一枚の大風呂敷の一部を切ってそれをどこか別の場所に置いて避難させるというイメージなのだそうで。
INVISIBLEの収束は現空間のグラウンド・ゼロで起こるため、セウルの創った避難所に地球や神階を避難させておいて、リスクを回避するという方法だ。
この方法ではINVISIBLEの収束からも、4次元ブラックホールの到達からも同時に逃げ遂せることができる。
さらに画期的なことには、現空間をそのまま切り離すので物理法則の変化を懸念する必要がない。
「INVISIBLEの収束と被害は切離空間で回避できます。ですがもしINVISIBLEによって現空間がなくなってしまうようなら期間が問題です。わたしは数万年ほどしか切離空間を維持できません」
セウルにとって数万年は短いのかもしれないが、恒や人類、神々にとっては充分な期間だ。
避難ができるというのなら、INVISIBLE収束の危険性の回避と、終末問題を先延ばしにして対策を練ることができる。
「いえ、差し当たり充分だと思いますけど」
「では少し条件を検討する時間をください。これからすぐに計算を行います」
「両手、使いたいです? 拘束を緩めて筆記用具を持ってきましょうか」
「このままでいいですよ、縛られていても暗算できます」
セウルはひとりにならなければ集中できないタイプのようだ。
一人にした方がよさそうだな、と察した恒は空気を読み、皐月を伴って退出しようとする。
「そろそろ出ましょうか、皐月先生。あまり長くここにいてセウルさんのアトモスフィアを浴びるとお体に支障が出ますし。てか、気持ち悪くならないんですか?」
「ちょっと待って……これ、もしかして」
先ほどから皐月はルーズリーフのコピーをもとに、黙々と、持ってきていたペンでメモ帳に何やら書きつけて計算をしていた。
彼女の瞳は何かにとり憑かれたように集中していて、解法を閃いたのだろうと分かる。
セウルも恒も驚いたように顔を見合わせて、彼女の邪魔をせずしばし見守った。
彼女が猛烈な勢いでメモ帳に走らせていたペンを置いたのは、わずか3分後のことだった。
「できた……。セウルさまのお話を聞いて空間を分離すると仮定すると……多分ここ、Dt=131.8と解けます。なにかこの数値が、理にかなっているのかもしれません」
セウルも恒もつられて、メモ帳とコピーに再度目を通す。
セウルの表情がにわかに明るくなった。
「なるほど、これは設計図だったのですね」
「設計図?」
「ここには空間開闢の設計図が記載されています。開闢すべき空間の大きさ、熱量、転送する情報量とその負荷、空間歪曲率と周囲への影響が……よく気付きましたね」
「これ、レシピだってことですか! このDt=131.8という数値は?」
皐月が興奮している。
先ほどは何を意味しているのか分からなかった数式も……セウルは皐月のヒントを得て、連鎖的に暗号を解いてゆく。
皐月はセウルが口頭で教えてくれる解答をルーズリーフのコピーに次々とひかえてゆく。
それまでどうやっても不完全だった証明、皐月に解けなかったそれはほぼ一瞬にして完成した。
「この方法に即して空間開闢を行うと……空間の温度、時空が安定して生命を移動させることができる状態になるまで……現代の時間で131.8日かかります。解の通りですよ」
「……これは引くわ……」
あまりに出来すぎた展開。
偶然の一致が幾重にも重なって、恒はむしろ薄気味悪さすら感じる。
そして皐月をここに連れてきたのはやはり間違っていなかったということにも二度驚く。
彼女が無理やりこの部屋の中に入ってこなければ、セウルにこの発想はなかった。
「これって……逃げていいってことなの?」
皐月が恒に問い返した。
白熱しすぎたのか、アトモスフィア避けのゴーグルの内側を湿気で曇らせていて頬をピンク色に染めている。
彼女は若干、感きわまって泣いているようにも見えた。
「まるでINVISIBLEが避難しろと言っているかのようですね」
INVISIBLE収束の前に、INVISIBLEは三階を避難させるつもりがあるのではないかと。
レイアの言ったことは正しかったのかもしれない。
しかしもとより三階を逃がしてくれるつもりがあるのなら、INVISIBLEのほうが場所を変えて収束してくれないかな、というか助けてくれるつもりなら対処遅すぎだろ、と恨み節の一つも言いたくなるのだが。
しかもブラインド・ウォッチメイカーのおかげで解階はもう既に滅んでしまっているし……。
ジーザス=クライスト、荻号 正鵠、メファイストフェレス=メリー、メファイストフェレス=セルマー、その他解階、および生物階の多くの命が犠牲となって費える前に、救いの手を差し伸べてほしかったものだ。
それに織図の話からしてまだ生きていると信じているが、ひょっとするとレイアだってもう……。
INVISIBLEに思うままに操られて悔しいという思いはある。
だがまだチャンスと備えるための時間がそこにある限り、手放したくはない。
「ただ心配が」
セウルは付け加えた。
「というと……?」
彼の話では、セウルはこれから共存在で神体を分割し現空間と新たな空間の双方に常駐するが、新たな空間を維持し安定化させることに全神経を使い、そちらに手一杯で現空間に神経がゆき届かないかもしれないとのことだ。
「そこで手伝ってほしいのです。さきほどこの部屋から出て行った少年。八雲 遼生といいましたか」
『聞こえてるよ、絶対不及者』
前室からマイクで遼生が応じた。声色は落ち着いている。
『太陽系天体を超空間転移で亜空間へ移動させるのを手伝えということかな?』
「はいそうです」
遼生は頭がよく、そしてMRIを使うためか察しもいい。
瀕死の状態から回復し、リハビリを終えた遼生は比企が超空間転移を教えて間もなく習得した。
恒は遼生が何度か超空間転移を練習していたのは知っているが……天体を移動させるには莫大なエネルギーを消費する。
恒にだって、一人以上は超空間転移に巻き込めない。
対象を転移に巻き込むというのは、対象を自身と同化して見なすということでもある。
たとえば、恒が60 kgの成人男性一人を超空間転移に巻き込んで転移させようとするなら、体重50kgそこそこの恒は自らが110 kgオーバーになったと仮定して全神経を行き届かせ転移を行わなければならないのだ。
超空間転移は通常の転移の4倍アトモスフィアを消費するので、その時点で8倍のアトモスフィアを消費するということになる。
移動させようとする対象が重ければ重いほど、難易度は増すというわけだ。
このような転移形式は、アトモスフィアが無尽蔵の神々のお家芸のようなものだ。
さて、そこで遼生が天体を超空間転移で移動させるとなると……地球だけでも5.972x10^24kg。
無理だよ無理。
恒は苦笑する。
荻号はABYSSを超空間転移で生物階へ移動させるまでの実力の持ち主だったが、基本スペックはそれほど恒と変わらない遼生にそんな超神じみたことができるとは思えない。
「え、そんなの普通に無理でしょ」
「いいえ。彼ならできると思います、どうですか?」
セウルは遼生を褒めて持ち上げて、彼の声が聞こえた天井のスピーカーを見上げた。
上目遣いに見上げた白目の部分がガラス球のように真っ白なうえ、少し口を開いて舌が見えたので、恒は見慣れないものを見てぎょっとする。
『そうですね。できますよ』
遼生もできないとは言わない。
セウルの案を最善の策だと認めた証拠だ。
セウルはほっと安堵すると、恒に視線を戻した。
「そしてあなたにも、手伝ってほしいことがあります」
「え……俺はそんなパワー持ってないんですけど」
恒は一人、頑張ってもたった二人分しか転移に巻き込めず、天体を巻き込んで転移というようなウルトラCはできないのだから期待されても甚だ困る。
月ひとつ動かすにしてもパワー不足だ。
というか、全知とされる絶対不及者のセウルにはそのくらい判っているのではないか。
「あなたには、あなたの抗体で」
恒は遼生とは違う方法で手をかしてくれと云うのだ。
少なくとも太陽系の情報は完全にセウルの脳の中におさめて切離空間に転送できる。
その際に脳に過大な負荷がかかり高熱を発するだろう。
その熱量があまり高温に達すると情報が不安定となり揺らいで失われてしまう。
それどころかセウルの脳が冒されれば、制御不能となった力の暴発を招く。
絶対不及者の力を鎮める恒の抗体はセウルの記憶と力の制御を安定化させるだろうというのだ。
今日という日まで鍛え上げてきた恒の抗体は充分に、セウルの力をコントロールしうるだろうと。
恒の抗体を、セウルにとっての鎮静剤として使わせてくれと。こう言うのだ。
そもそも絶対不及者に対抗するというコンセプトで開発された恒の抗-絶対不及者抗体(Anti-ABNT Antibody)だ。
さすがの恒にも、その発想はなかった。
抗体と絶対不及者が仲良く協力、などということは。
「そうすれば、あなたの力を安定化させられるんでしょうか」
「そう信じています。空間を開いても情報を運べなければ意味がない。あなたの抗体が不可欠なんです」
「よろしくお願いします。セウルさん」
どうなるかは分からないが、やるだけの価値はありそうだ。
やらなければ確実に生き延びる確率は0かもしれないが、恒とセウル、そして遼生が協力すれば0が1になる。
そしてセウルが切離空間の温度を冷まし時空を安定化させるための131.8日間を、INVISIBLEは用意してくれていた。
「空間開闢は明日にしましょう。早いほうがよいです」
そうか、切離空間を安定化させる為には時間がかかる。
6月24日、三階が新たな切離空間に移動させることができる状態になってX-Dayを迎える前までには、わずか13.2日の猶予しかない……今すぐにでも取りかからなければならないのだ。
しかしセウルは恒の顔を真剣に見つめて、恒の顔に不安の表情が見えたので首を振った。
「やはり明後日にしましょうか。あなたの心が整うのを待ちます。マージンは12日間ありますし」
セウルは動揺する恒に、心を鎮めさせるため一日延期を申し出たのだ。
「いいえ、明日で。俺は大丈夫です」
「畏れはありませんか?」
恒の決心がつかなければ、恒の抗体がうまく発動できなければ大惨事に繋がるかもしれない。
万全を期して臨みたいという気持ちは、セウルにも、勿論恒にだってある。
「畏れはもう、とっくに去りましたよ」
すぐ傍で、一柱の少年神の熱のこもった言葉に耳を傾けていた皐月は、懐かしい光景を思い出した。
漠然としか覚えていないが、自らの無力を嘆いて神になるのだと泣きじゃくり誓ったあの日の少年が彼だ。
小学校教師とその教え子。
二人でただ、なすすべもなく朝焼けを見たあの日を思い出す。
頬の裏に噛み締めた涙の味と、無力感を彼は払拭した。
一歩も怯まず、至高者に対峙するは12歳の少年神。
眩しいと感じるのはあの日の暁光ではなく、彼そのものだ。
あの日からはや、3年の月日が流れようとしていた。
*
“では、お願いします”
旧絶対不及者セウルは神階・そして生物階首脳部の要請のもと、生物階と神階を避難させるための避難所としての空間開闢を行う。
この切離空間は一般的に創出される不安定かつ一時的なものとは異なり数万年はもちこたえられる強度の、セウルが支える限り至極安定な亜空間の一種である。
亜空間というのは創世者による創世の原理とは根本的に異なる原理によって行われる。
すなわち特定の空間の法則に基づいて設計図を作り、一時的に空間構築を行うのだ。創世者が全き“空間創造”を行うとすれば、セウルがしていることはいわば“空間建築”だ。
切離空間は現空間と異なる位相にあるが、建材は現空間のものを用いる。
だから物理学の基本たる4つの力と物理法則はセウルがそれを持ち込めば切離空間内でそっくりそのまま保存される。
ただしこの亜空間は潜在的に不安定なもので、一度創出すると空間開闢者がそれを維持し続けなければならない。
具体的にはセウルが重力中心となり、宇宙空間の膨張と曲率をコントロールする。
セウルが万が一にも死んでしまえば、セウルによって展開された切離空間は崩れ中身もぺしゃんこだ。
つまり、セウルはこの切離空間を支える創世者となり、セウルが死ねば切離空間も滅びる。
三階は彼とともに命運をともにするのだ。
それでも、数万年間耐久する避難所を造るということは有難かった。
セウルは昨日、比企らとユージーンの書いたと思われるアウトラインをもとに綿密に切離空間の設計について協議し、一夜にして完全な設計図を完成させた。
INVISIBLE収束から確実に避難するために、太陽系、そして地球もそこにひとまず移転させようという計画であるため空間の出入り口は創られない予定だ。
そして超空間転移を施行するにあたり、しばしの待機期間が設けられる。
というのも、開闢したばかりの空間の温度が高すぎると太陽系を移転させられないのだ。
さらに危険な放射線や真空のエネルギー、宇宙線が飛び交っている。
一時しのぎではあるが、何もしないより随分ましだった。
INVISIBLEが予め収束の日時を報せることによって三階の避難を許している……という仮説は、あながち間違ってもいなかったようだ。
だが、全ての責任を負うセウルに失敗は許されない。
『いつでも始めてください』
宇宙空間で恒の真正面に浮遊しているセウルは頷きながらも、逡巡しているように見えた。
『どうしました?』
恒はセウルに付き添って、神階の真空防護服を纏い酸素ボンベを口に咥えている。
宇宙服ほど厚着ではないが、全身は黒い差圧調整スーツによってすっぽりと覆われている。
太陽系から1900光年の宇宙の彼方にたったふたり、投げ出された一対の抗原と抗体。
恒の防護服の中に内臓されたモニターが神階を繋ぎ、神々と人々がその奇跡の光景を見守っていることだろう。
『緊張して……。というとあなたがたを不安にさせるかもしれませんね。あなたの心は鏡面のように穏やかなのに、わたしはというと情けないものです』
彼は空間を拓いた経験がないのだ。
うまくいかない可能性だってある。
だが、彼が諦めてできないと言えば誰にもできないことだ。
現在、神階に存在する亜空間は全て荻号が拓いたものだ。
比企は荻号が使わなくなった亜空間の一つを空中庭園として薬草研究のために利用しているし、セウルが幽閉されていた亜空間もその一つだ。
しかしそれら無数の亜空間は全部足し合わせても、その面積はせいぜいオーストラリア大陸ほどにしかならない。
いわば一つ一つは空間というより、荻号が気まぐれに作った小部屋という性質を帯びる。
これに対してセウルが切り取ろうとしている切離空間は少なくとも、太陽系を一つ二つ格納できるほどの巨大な宇宙空間でなければならない。
それ以上小さいと、セウルの発する重力で空間が潰れ、ビッグバンに対極する現象、ビッククランチを起こす。
したがって今回ばかりは、切離空間といえど宇宙創造という性質を帯びる。
それがどれほど困難であるか、恒は全てとはいかないがかなりの部分で理解できる。
セウルが不安に思う心境もよくわかる。恒は緊張するセウルに、こんな言葉をかけた。
『一度で成功させなくてもいいんじゃないでしょうか』
急ごしらえに粗末なものより、納得のゆくまで質のよいものを造ってくださるなら、俺はその方がいいと思います。
そう付け加えた恒の言葉はセウルの肩の荷を軽くし、少しだけ勇気付けた。
セウルは表情を引き締める。
『はじめましょう』
“Vital Locked”
(生命力施錠)
セウルの決意が固まったことを受け、恒は自分自身の頚を両手できつく絞め上げ、意識が落ちる直前にバイタルロックをかけた。
カチン、と脳下垂体にバイタル固定のスイッチが入る。
自らでバイタルロックをかける場合は、死を肉体に自覚させることが最も手っ取り早い。
恒がバイタルロックをかけたのは、それなしではセウルが空間開闢を行う際に発せられる放射に耐えられないためだ。
バイタルロックのかかっている間は、神体に生じるあらゆるダメージは回避される。
バイタルロックの方法は直接織図に聞いた。
ただ、一度バイタルロックをはじめると麻薬のように依存してしまうから、ここぞという時以外に使うなと念を押された。
今がここぞというときだ。
恒は至近距離からセウルの一世一代の創世を見届ける。
薄い権衣を纏い、黄金の聖体と眩いアトモスフィアを持つ絶対不及者は恒から数十メートルの距離を取って離れた。
セウルは真空に両手を横いっぱいに拡げ、自身と恒を基点に半径三キロメートルあまりのコズミックストリングを用いて円環を立ち上げると、灼熱のエネルギーの奔流がコントロールされて従順に美しい軌跡を描き、その圏内は隔離領域となる。
彼は意識を研ぎ澄まし、彼の体内に秘められた無尽蔵の熱量を、コズミックストリングに沿って空間の一点上に超圧縮してゆく。
ぎりぎりと縒られて波打ち、捻じれる時空、熱によって揺らぐ宇宙。
しばし時間をかけ、目を射んばかりの光線をその熱量によって爆発的に空間歪曲率を跳ね上げ、一気呵成にプランク温度にまで到達させるために。
セウルでなければ誰ひとりとして近づけない、存在を溶かしつくされるほどの空間の揺らぎを持った、まさに原始のエネルギーの坩堝。
その奔流の中に、恒とセウルはいる。
しかし、もっと……まだ、もっとだ!
自らに蓄えられたありったけの熱量を底尽くほどに搾り出し、原子すら焼き尽くす核心を睥睨しながら。
不可視の創世者、INVISIBLEに屈するわけにいかない。
もうたくさんだ、創世者の傀儡として、あらゆるちいさきものたちの憎しみを負い続けるのは。
『……今度こそ』
セウルはいま、身を引き裂くばかりに願う。
たとえ今は絶対不及者、創世者の器としての抜け殻に過ぎないとしても。
今度こそは抗うのだ。
彼が死してもなお、絶対不及者ではなく智神セウルであるために。
――終わらせない、一矢報いてやる。
負けるものか、名も知らぬ縁なき未来の、ちいさきものたち……だが、さればこそ。
連綿と続く生命のいとなみを……守り貫くために。
恒はセウルの張ったアトモスフィアのバリアで空間的に隔離され、あらゆる放射からも熱からも守られている。
少年神を守りつつ、セウルの操る巨大な光環は局所的に10^24 Kに達する。
セウルが現空間より隔離した超エネルギーのライン上で3つの力が統合され、大統一理論が破られる。
彼はいままさに、創世者の領域に踏み込もうとしていた。
コズミックストリングの境界面がプランク温度、1.4x10^32 K(Tp)に達する。
4つの基本相互作用は統一され、大統一理論が破れた。
この状態からいつ急激なインフレーション、ビッグバンが起こっても不思議ではない、きわめて不安定な状態の、原始のプランクエネルギーをセウルは抑えつけ制御する。
集中力を極限にまで研ぎ澄まし、拡げていた両手をぴんと張り詰めさせたまま、弧を描き、狂いなく閉じて掌を併せる。
円環状の超高温円環が収縮をはじめた。
現空間を大きく風船状に歪曲させ、時空を断裂させているのだ。
相転移。
プランク温度からより下位のエネルギー準位への相転移による空間裁断。
今、この段階でセウルが少しでも手を狂わせたらこの場から1秒も満たないうちにビッグバンが起こり、三階は吹き飛ぶ。
ここ一番という緊張に、恒の心臓は鼓動をやめるかとすら思われた。
セウルは空間を見事に裁断し、熱量によって時空を煮立たせながら不安定化させる。
熱量で揺らいだ泡状の不安定な空間、空間腔構造を作り上げてゆく。
コズミックストリングはセウルのコントロールを受け自在にうねる。
結紮しながらプランク温度からの急冷却による二次元相転移、そして位相欠陥、ドメインウォールへ。
あまりに極小かつ短い間の出来事で恒の目には観測できないが、わずか1秒にも満たない間にセウルの手を介した切離空間の切断面は、クオーク・グルーオン・プラズマに覆われ、密閉され、現空間より分離される。
恒は目を背けることなく、彼の成すことを余すところなく見届けた。
このときセウルは、切離空間内の宇宙の曲率を限りなく1に近い値に調整する。
切離された新たな宇宙の曲率を現空間と同じ状態……平坦な宇宙にもってゆく。
次の過程は、現空間の情報をセウルが切離空間内に運び、そこで現空間と同じ条件になるよう厳密な調節をするのだ。
“Co-existance.”
(共存在)
セウルの姿が二重になる。
セウルは亜空間に情報を転送するためだけに自らに共存在をかけ、分割する。
幽体離脱をするかのように、ふうっと彼は力を抜き神体を離脱した。
現れた二柱の絶対不及者。
バイタル分割比は1:7。
7の比で分割した神体を切離空間に送り込み、1の神体は現空間に残すためだ。
現空間に残ってINVISIBLEの収束を見届けたのち、こちらの分身は死ぬようにプログラムした。
バイタル比7に分割したセウルはその身に情報を内包して、現空間の全ての物理法則をアウターユニバースに持ち出す。
そして次のステップは……。
現空間物理法則を転写。
『では頼みます』
セウルに呼ばれると同時に、恒はバイタルロックを自身の神体に施した状態で、二柱のうち片手をあげた方のセウルに近づく。
“力学。および物理学法則を全転送します”
セウルは澄み渡った禁視を拓き、一呼吸おいて受け入れる準備を整えた。
“全ての情報を、わたしの脳へ”
現空間の構造の情報を自身の脳にコピーし、新たな宇宙において同じ条件とするために。
恒は頷き、抗体を発現しセウルの頭に触れる。
数万度の熱に冒されるセウルの頭脳を抗体で抑制、つまり冷やすのだ。
セウルの頭脳がCPUやメモリと仮定すると、恒は差し詰め冷却ファンというところだろうか。
”転送開始”
情報転送量
3.1x10^12 byte…
8.6x10^18 byte……
1.9x10^20 byte……
そうだ。
セウルが切離空間を開闢し、情報を圧縮して持ち込み解凍、展開して現空間の複製を創る。
不完全な創世だが、完全に現空間を再現させることができる。
情報を身を以て脳に刻み付けるセウルの表情が苦痛に歪み、顔色が青ざめてゆく。
不死身の絶対不及者にも痛覚は残っている。
『セウルさん……しっかりしてください』
恒の手から放たれ抗体を含んだアトモスフィアのベールが苦悶の表情を浮かべるセウルをオゾン層のように優しく包み込んでゆく。
セウルは黄金の血を流すまでに拳をかたく握り締めていたが、恒の癒しによって救われたようだった。
彼は振り絞る、ありとあらゆる気力を。
*
2011年1月30日のGL-ネットワークのヘッドライン。
先代絶対不及者、セウル(late-ABNT Sehul)。
エネルギー出力1.8x10^19 GeV(電子ボルト)にて切離空間の創出に成功。
情報転送量 9x10^32 byte(9ギガ+ヨタバイト)
切離空間、現在温度 2058 K
密度変数Ω(オメガ)=1.000109
切離宇宙直径 125 Mpc×110 Mpc。
セウルの渾身の創世により、太陽系を優に内包しうる避難所は、遂に完成した。
131日後、空間は安定化し三階を避難させられる状態となるだろう。
かくして、INVISIBLE収束まで、あと145日。