第2節 第36話 Raise SEWL to this world
生物階、風岳村に数百メートルに滞空する特務省の深奥部はまるで無人であるかのように静まり返っている。
立っているのはたった一柱、織図 継嗣のみだ。
織図は先ほどダウンさせた特務省職員から拝借した真新しい煙草をくわえかけたが、電話の着信があって火を消す。
恒からだ。
「神階に戻ったのか?」
織図はバンダルに取り上げられていて先ほど発見した携帯を受けながら、DA-インディケータのタッチパネルをぐりぐりとスクロールする。
3D表示で特務省の周辺図が表示され、織図の周囲で生存中の神々にソートをかける。
神々のバイタルデータがインストールされバージョンアップしたDA-インディケータで藤堂 恒を検索してもエリア圏外と出るが、バイタルの安定性をチェックすると彼のバイタルは安定していることがわかる。
彼は健康。
つまり恒は無事で、予想からすると神階にいるという証拠だった。
織図は特務省の全職員のバイタルを強引に剥奪し機能停止にさせることによって、間接的に特務省の風岳村への攻撃を防いだのだった。
『戻りました。織図さん、そちらは大丈夫ですか?』
「俺は平気だ。ちょっと大人げなくやらかしちまって、全員のバイタルコードで意識を吹っ飛ばしてやった。だが俺よりおとなげないのがいたな」
特務省の職員たちに盗聴されているという可能性も含めて、恒はさぐりさぐり織図に尋ねてくる。
恒が大丈夫か、と聞いたのは携帯に非常連絡のあった、荻号とバンダルのことで巻き込まれていないか、ということだ。
4次元大質量ブラックホールだ? ブラックホールの成長速度を計算しなければ何もいえないが、普通に考えれば生物階も神階もひとたまりもねーだろこれ。
織図はどうしたものかと絶望的だ。
「んでレイアはどうなった? 会えたんだろ?」
確か恒は荻号の家にレイアを迎えに行ったはずだが。
恒はレイアを伴って神階に戻ることができたのだろうか。
『はい会えました。でもレイアも消えてしまいました』
恒の声色は変わらず、動揺を声に出さない。
恒がレイアと引き離されてから、少し時間が経っていそうだ。
「!? ……マジ?」
あー……こりゃいかん。織図は舌打ちをし、ため息をついた。
それって……INVISIBLEに殺されたか、消されたのでは?
恒には直接言えないが、恒の話からはそうとしか考えられない。
『正確には彼女の全てが消えたのではありません。グラウンド・ゼロにスティグマだけが残っています。彼女の背を離れて』
「どういうことだ?」
恒の話によるとスティグマが世界各地の高エネルギー研究施設のシンボルと同一であるということが分かったのだそうだ。
冗談かと思ったが、CERNの科学者たちがそう言いはじめて、実際に角度から何からこまごまと偶然とは言えないほどの一致をみたというのだ。
織図は足元から髪の先まで悪寒がきた。
恒は先代絶対不及者の遺体について何か気付いたことがあったかと尋ねてくる。
セウルの神体を調べてから特務省を去ると言っていたので結果を訊いてきているのだ。
織図は何か嫌な予感がする。
恒が何をしたいかというと、今は無駄に垂れ流しになっているセウルのエネルギーを用いて地球を安全な場所に移動できないかというのだ。
既にその案は比企らの承認を得ているそうで、問題は特務省の許可だけだという。
そのために特務省側と直接会って話したいと。
特務省側といっても、織図が全員バイタルアレストで伸してしまっているのだから仕方がない。
セウルのエネルギーを用いて地球をグラウンド・ゼロから遠ざけるという発想。
さすがだ……と織図はぞくぞくとした興奮を抑えられない。
それほど実現不可能なことではなさそうだ。
ただ、どこに転移させるかについては慎重に考えた方がよさそうだが。
『先代絶対不及者のポテンシャルエネルギーは無尽蔵です』
「調べたんだがよ……セウルはバイタル切断されてたんじゃなくてだな。バイタルアレストだ」
織図がそれに気付いたのは、動力炉に閉じ込められていたセウルのステータスについて事細かな情報があったからだ。
それによると、セウルのバイタルは変動のないまま10万年間、ずっと一定だということだ。
どうすればバイタルが残留したまま、エネルギーを神体に宿すことができるか。
答えは一つだ。
それはバイタルの強制停止コマンドをかけられているからだ。
誰にかけられたかといって、ノーボディ以外に誰がいる。
『バイタルアレストって何ですか? バイタルを一時停止させるってことですか?』
恒はものの1秒でバイタルアレストを日本語に直訳する。
生意気なぐらい話の分かる子供だ、いつも勘がよすぎて織図は困っているのだが。
「ビンゴ! そういうことだ、ちょっと待っとれ。調べてくるわ」
『何をですか?』
セウルのバイタルが残っているとわかった以上、織図は試してみたいことがある。
そこに立ち入るだけでバイタルを削られてゆくEVEの“最果ての谷”に再度挑み、ダイヴして洗いざらい情報を獲るのだ。
前回ファティナとともに最果ての谷に行ったとき。谷底には大きな亀裂があって、そこから光が漏れだしているのが織図には見えていた。
織図の限られたバイタルでは近づくことすらできずユージーンのジャンクデータがあったのでひとまずそれを拾って途中で引き返すのが精一杯だったが、奥にはもっと重要な秘密があるものと踏んでいた。
そう……何かもっと、ノーボディの隠した重要なデータ、あるいは秘密があるのではないかと。
最果ての谷に挑むとバイタルを削られ、バイタルを使い果たすと現実空間で死を迎える……という代償だけがネックではあったが。
しかし織図はいまや、それをあっさりと解消できそうな方法を見つけたのである。
そう。
ノーボディによってバイタルアレストのかけられた智神セウルのバイタルは、尽きてはいない。
まさに無尽蔵だ。
セウルのバイタルを織図に転送しながら“最果ての谷”にダイヴすることができれば……時間制限などお構いなしにどこまでも深く潜ってゆける。
織図は恒との通話を切り、緊急用のEVEへの回路を用いて意識を頸部のポートにねじ込み、自らEVEに強制ログインした。
*
マトヴェイ=ボストロフ教授と比企、そして藤堂 恒の呼び出しで、寧々によって神階上層部に連れてこられた吉川 皐月は緊張した面持ちで、神々およびCERNの科学者たちと対面する。
彼女はアイボリーのパンツで長い栗毛の髪をまとめてアップにし、フォーマルないでたちだ。
スーツボストロフ教授とは長いハグを交わし、師弟の対面をよろこぶ。
ボストロフ教授にハグをされたときのビールっ腹のぽよんとした感触は、数年が経っても変わらず懐かしい。
皐月はざっくばらんなご近所神の荻号 正鵠のおかげで神々に対する免疫はついたのだが、その錚々たるメンバーが一堂に会した会議の中に呼ばれてしまったことに対する疑念を抱きつつ、自然と背筋が伸びる。
皐月の緊張を察した恒が隣に来て皐月の手を握りしめる。
緊張からか、細い指先はすっかり冷たくなってプルプルと震えていた。
「すみません皐月先生。突然お呼びして」
恒は肩をこわばらせた皐月の緊張を解きほぐすかのように微笑みかける。
久々に会った恒は皐月から見ると、またいちだんと逞しく成長しているような気がした。
一柱の神となってゆく彼にそろそろ皐月の教え子として接するのはしのびなく、まだ藤堂くんと呼んでもよいものか皐月は迷う。
彼はいつも“先生”と敬称で皐月を呼ぶので、皐月に対してそれなりに尊敬と親しみの念は擁いているようだ。
ただ、主神の庇護下にあり神階で重用されている少年神にいつまでも先生と呼ばせるのも気が引け、一方皐月も恒を“様”ではなく“君”づけで呼んで周囲の神々や使徒たちから睨まれても困るので、神階での避難生活が長期的に続くのなら、そのうち呼称を切り替えたほうがよいだろうとは思った。
恒は寂しがるだろうが。
「私に何か役に立てることがあればいいのだけど」
ボストロフ教授は目を爛々と輝かせている。
彼もまた、皐月と再会できたことを心から喜んでいた。
『すまないな吉川くん。少し君の見解を訊いてみたくなってね』
その後、皐月は神々とCERNの科学者たちが議論を重ねる議場の末席に座って、これまでに示されたグラウンド・ゼロに関するデータを恒の熱心な解説つきで目を通し、ボストロフ教授と英語で言葉を交わす。
4次元大質量ブラックホールの出現を知らされたとき、皐月の表情は一変した。
皐月は事象の地平をテーマに扱っていた大学院生であり今は一線を退いていたが、彼女の頭脳は錆ついてはいない。
『吉川くん、君が修了間際に放り投げたあの統一理論のたたき台を、持ってきているかね』
「はい。ときどき趣味で手をつけたりしているのですが、どうしても行き詰っていて……」
小学校教諭としての仕事を着実にこなす傍ら、皐月は未完の論文作成に意欲を持ち続けていた。
彼女はこれまでに書き溜めたノートを何冊となく広げてはボストロフ教授に見せ、それをもとに二人で新たなルーズリーフに詳細な計算式を書き付けてゆく。
ファティナによってブラックホールの質量と降着円盤の生物階への到達速度は計算されていたので、彼らは皐月の未完成の理論とボストロフ教授の新理論をもとに、HEIDPAによって一時的に創出する宇宙を立ち上げるための諸条件の計算をはじめ、様々な角度からINVISIBLEの取りうる挙動を推測し、どの条件においてINVISIBLEのそれ……プランクエネルギーを凌駕する熱量を、HEIDPAの使用という縛りのもとに、時空を歪めずに吸収しうるかを真剣に議論しはじめた。
彼らの遣り取りを邪魔せずにお茶を出しつつ、恒はテーブルの上に山と広げられた資料を何気なく見詰めていて一枚の、ファイリングされたルーズリーフを取り上る。
多くのメモのなかに、一枚だけ罫線が違っていたので自然と目についた。
「皐月先生、これは何ですか?」
「それ? それは事象の地平に関する数理証明だと思うの。でも今回は関係なさそうね」
恒がよくよく目を通すが、確かに証明は完成されていない、未完成の証明だ。
いくつかの幾何図形が書き込まれており、図形内に示された数式も曖昧模糊としている。
だが恒がルーズリーフに目をとめたのは、その理論の目新しさからではなかった。
「これどこで?」
「うーん。研究室?」
皐月はどこでそのルーズリーフを拾ったものかもらったものか、記憶にない。
皐月に問いながらも、恒には思い当たるふしがあった。これはユージーンの字だ。
授業中、何度となく見た彼の板書の文字や数字を思い出す。
彼の字は特徴的だ。等間隔で、文字のプロポーションもあまりに美しくパソコンの手描きフォントのように整っているのだ。まさにワープロいらず。タイプライターすらなかった時代から生きてきた彼のことだから、手書きでも整った文字を書くことは職務上重要だったのだろう。
その時期、恒はといえば彼に触発されて均整のとれた字を書こうと、マス目のあるノートまで買って矯正を心がけ、急いで書きつけると所詮殴り書きになってしまったものだが。
神々の筆跡はそれぞれ異なっている。たとえば比企は楷書ではなく行書のようにくずれた文字を書くし、荻号 正鵠は古代神語で読めない。
ファティナは典型的な理系の、まるっこい字を書くといった具合に。
だが、ユージーンのそれはタイプライターで打ったように、良く言えば教科書的、悪く言えば無機的だった。
そういえばユージーンは人間や神々の記憶から消えたばかりでなく、その痕跡も根こそぎ消していっている。
たとえば恒の小学校時代のノート、ユージーンが採点したと記憶しているテストプリント、彼の直筆の実力問題集プリント、彼に関する記述などは壊滅的に消去されていた。
テストプリントも実力問題プリントも皐月が作成したことになってしまっていたし、彼にまつわる記述が一切合切なくなっているのだ。
彼は彼が消滅するに際し、記憶のみならず事実をもすりかえたのだろう。
もとより写真に映らない彼のことだったが、写真など一枚も残っていなかった。
織図は事実への修飾、モディフィケーション・トゥー・ザ・ファクト(Modification to the Fact)と言っていたが、だから余計に運命的なものを感じるのだ。
ユージーン直筆のメモが消えてしまわずに皐月の手元に残っているということに。
そこに何か、手がかりがあるのではと。ユージーンからのヒントが書かれているのではないのか。
「これ、コピーとらせてくださいね」
恒は高鳴る胸をおさえながら、一枚のルーズリーフを手元に置きじっくりと考察したいと思った。
*
「起きろ継嗣! 無事か!?」
操舵室のカウンター上に伏していた織図は、激しく揺さぶられて覚醒する。
織図は意識が混濁したまま彼ら、夜刈、レディラム、そしてアルシエルの顔をみとめると、DA-インディケータで自身のバイタルステータスを簡易チェックする。
EVEの前室でのチェックほど本格的に、とはいかないがひとまずログインとログアウトが正常に行われたかどうかは確認することができる。
ピピピ……と電子音がして、織図の神経系脳領域、特に前頭葉がモバイル型多機能準神具によってスキャンされる。
死神は死神として即位した時点から、EVEのシステムと一体化した生体機械へと造りかえられている。
DA-インディケータはそんな織図の仮想―現実空間のログイン・ログアウトをガイドし、彼の延髄に埋め込まれた無線インタラクティブポートによってEVEとのコネクトを与え続ける。
織図はEVEに強制ログインを行っていたので2時間半もの間、意識が完全に脳内になかった。
ステータスに異常なし……運が良かったのか。
織図のアトモスフィアを感じていながら、夜刈とレディラムが彼を見つけ出すまでに相当な時間を要したのは、特務省内は転移不能結界が張られており追跡転移もままならなかったからだ。途中、どうしたわけかアルシエルに会い、彼女と合流して織図を捜していた。
特務省職員を皆殺しにすることによって特務省を機能麻痺させた裏切り者の居場所を突き止めなければ、特務省は永遠に風岳村の上空に滞空したままだ。
「あんたら……どうやってここに辿りついたもんかね」
織図はダイヴ中に誰にも邪魔されないよう操舵室の扉を厳重に締めておいたはずだ。
なぜこの面子がここに侵入してきているのか。
「何を言ってるんだ! この艦の中にはアルシエル=ジャンセンしかいなかった。生きてる奴はな。アルシエルが操舵室の扉を3枚ぶち抜いてここにいる」
振り返るとアルシエルはグングニルを手にしていて、重厚な隔壁が3枚、まとめてぽっかり大穴が開いている。
彼女は返り血を浴びたニットスカート姿で屈託もなく微笑み、こう言うのだ。
「問題があったか?」
あーあ。
どうするんだよそれ……織図は被害総額に眩暈がしたが、もうこの際だ、どうでもいい。
「継嗣お前何やってんだ! あれだけの特務省職員を虐殺したのはお前なんだろ?!」
織図が犯人を目の当たりにしていたアルシエルがそう言ったであろうことを、鵜呑みにしている。
「殺しちゃいねーよ。バイタルアレスト(生存一時停止)だ」
特務省職員たちがうろついて対処が面倒だったのでバイタルを一時織図が預かって、強制的に眠ってもらったというだけだ。
織図がDA-インディケータを彼らに提示しバイタルアレスト施行中の表示を見せる。
バイタルアレストはエリア指定ではなく、個別コード指定だったので三者は織図の執行を免れていた。
知ったふうをしているが、実は織図は今日という日までバイタル操作に関してアレストというコマンドがあるとは知らなかった。
エネルギー炉の外から、炉心コントロール用端末でセウルの神体のステータスを調べていてはじめて気付いたことだ。
セウルはノーボディからバイタル切断ではなく、アレストをかけられている。
そこでバイタルを持ち生きながらにして死体同然となっているのだ。
つまりバイタルアレストはバイタルロックの亜種なのだが、アレストをかけられると意識は落ちる。
セウルのバイタルコードは意外と簡単に割れた。
バイタルコードは、炉心の前の端末にセキュリティーロックがかかったうえで、それほど難しくない暗号として残されていたからだ。
おそらくはノーボディが万一の事態に備えて、セウルのバイタルコードを歴代の死神にのみわかる方法で記録しようとしていたのだろう。
バイタルアレストが何らかの拍子に解除され、セウルが再び覚醒してもすぐに死神がそれに対処できるように。
少し都合よく考えすぎか。と思ったが、織図からすると渡りに船だった。
織図の知見では、バイタルに関するコマンドをまとめると以下のようになる。
バイタル+
●ロック(Vital Locked:生命力施錠)
……殺しても死なない。3日間で効力が切れる。身体を細かく粉砕されるとアウト。バイタルコードを掌握していれば人体にも神体にもかかる。
●アレスト(Vital Arrested:生存一時停止)
……セウルの状態。生死の境にあり意識はない。殺しても死なない。神体を粉砕されるとアウト。神にしかかからない。
●トランスファー(Vital Transferred:生命力転送)
……EVEを介して行う。生存中の誰かのバイタルを同じく生存中の他者に転送する。
○カットオフ(Vital Cut-off:生命切断)
……強制的に殺害。外傷は残らず、バイタルを剥奪することによって死に至る。詳細不明。
コマンドで生命力を操作するなんざ、どこのRPGだよ。
と織図はそのデタラメっぷりに苦笑する。
「……何故そんなことができる」
夜刈はゴーグル型のアナライザで織図自身に何か変化があったのか解析しようと試みたが、彼は双繋糸を帯びているためにそれもままならない。
レディラムも織図があまりに強大な権限を掌中にしていることを不思議だという顔をして目をみはる。
「必死こいてEVEの果てで神のバイタルコードを手に入れたからな」
織図は一言で簡単に種明かしをするが、それは一言では言い表せないほどの苦労の末に得た結果だった。
「神のバイタルコードを、と言ったのか!? ……! なんてことを……」
神のバイタルコードと聞いてレディラム、夜刈はおのずと織図に身構える。
バイタルコードを握られる……ということは織図に生殺与奪権を握られていると言われているも同然だからだ。
これまで、織図をはじめ歴代の死神たちが人間のバイタルコードを掌握していたことは知っていたが、神のそれまで手に入れたとなると織図は向かうところ敵なしとなるからだ。
戦闘能力においては枢軸以上とも評される特務省職員をも簡単に手玉にとって。
彼は今後、神々に指一本触れる必要すらなく神々をいとも簡単に殺害することができるだろう。
まさに死神、織図 継嗣は現実世界においても冥皇となりつつあった。
「それくらいで驚かれちゃ困る。もっととんでもないものを発見したよ。協力者のおかげでな」
コツン、と彼が指先でDA-インディケータのタッチパネルを弾くと、メファイストフェレスの3-Dグラフィックが踊るように浮かび上がった。
強制ダイヴの後、EVEから意識の離れた織図をナビゲートして最果ての谷にまで付き添い、EVEを一時的に支えていたのは彼女だ。
ファティナにも劣らない、有能な右腕だった。
「メファイストフェレス……?」
アルシエルはふと立体映像化されたメファイストフェレスの姿を認めると近づいてきて、織図の持つモバイルに両手を添える。
解階を滅ぼした曾孫メファイストフェレスを屠った彼女だが、彼女もまた被害者であると分かっているために憎しみをぶつけるつもりはない。
解階の消滅により天涯孤独となったとばかり思っていたアルシエルに唯一の同郷者でありアルシエルの一族の血をひくものがいた。
もはや彼女は死んで実体はないが、アルシエルは瞠目し再会を懐かしむ。
「何か話すか? 聞こえるようにしてやんよ」
織図はキーロックをかけたDA-インディケータをアルシエルに手渡し、音声認識システムのボリューム上げる。
現実世界と仮想空間EVEがインタラクティブに接続され、アルシエルとメファイストフェレスの会話が成り立つはずだ。
メファイストフェレスがアルシエルの子孫だと織図は知っている。
何か話したいことがあるのなら心行くまで話すといい。
織図はメファイストフェレスを気遣ったが、アルシエルの孤独を癒すことにもなった。
「さて、いつまでも生物階にのさばっても迷惑だろうて、特務省を移動させねーとな?」
織図は操縦士のいない(というか織図がバイタルアレストをかけているのだが)特務省操縦室のドライブシステムをみとめると、彼の頸のジャックポットとケーブルをコネクトさせて介入しあっという間に制御システムを制圧する。
織図は特務省の現在座標を確認し、特務省がもともと鎮座していた座標を調べて、艦体に備え付けの巨大転移装置を介して特務省を神階に転移させようとしている。
織図は神階に応援を頼み特務省職員をこの艦の中から外に出させてくれと要請する。
殺してはないから、放り出しといて適当に寝かせといてくれればいいと言って。
特務省が生物階から引き揚げて神階に戻ってくれるのは歓迎だが、織図が何を目的として特務省職員たちの意識を強制的に落としたのかわからないため、夜刈とレディラムの間にまたも緊張が走った。
「継嗣。何を考えとるか知らんが、あまり独自の判断で勝手な真似はせん方がいい」
夜刈が語気を強めれば
「そもそも、何をするつもりだ?」
さっぱり事情の呑み込めないレディラムが織図に問う。悪い予感しかしない。
「全部説明してもいいが、ちょっと億劫だ。まあ端的に言うと」
特務省は絶対不及者の密閉容器としても利用できる。
であればこそリスクを冒してでも、九死に一生でも構わない。
何か一つでも得られるものがあるのならば。
八方ふさがりの現況よりましだといえる。
「……ちょっと30万年前のレコードから……絶対不及者召喚しようと思うんだわ」
織図はEVEの最果ての谷にダイヴした後、セウルの無限のバイタルを織図自身に必要なだけ転送し谷底の亀裂の向こうに出た。
EVEのブラックボックス、データの狭間へと踏みいった。
アルティメイト・オブ・ノーボディが創り上げたと思われる広大なハードディスク領域だ。
その場所の風景はアルティメイト・オブ・ノーボディの心象とも言うべき、琥珀色の世界だった。
下草を短く整えられた草原が波のようにキラキラと眩く輝きを放ち、上空を涼やかな風が吹きわたって寂寞とした物悲しさを覚える。
ノーボディの生み出したかけがえのない神子らの終の家たる、鎮魂と祈りの場所。
地表には草原の上におびただしい数の黒い墓石と墓標……見渡す限り続く地平線の先まで、果てなき墓地が続いていた。
織図はその終末じみた光景にぞっとした。
墓標をあらためると、古代神語で彫り上げられた墓標に刻まれた名が、神階で生まれ命を費えた全ての神々を記録していた。
墓石には個神を示す紋章の下にクリスタル製の黒い筒のような記憶素子が埋め込まれ、没した神々の記憶を余さず保管している。
織図は気の遠くなりそうな数の墓標の中から、ある3つの墓標に狙いを定めて捜した。
ひどく骨が折れる捜索だったが、律儀な性格のノーボディは没年ごとに墓の区画をまとめて整理していたので、神々の没年を一柱漏らさず記憶している織図はだいたいの場所の目星をつけることができ、何とか発見することができた。
彼が捜したのは以下の四つの墓標だ。
軍神 ユージーン=マズロー。
陽階神 レイア=メーテール。
二代絶対不及者 智神 セウル。
初代絶対不及者 時空神 セト。
結論からいうと、2つは見つかった。
セトの墓標は古すぎて場所がよくわからなかったので諦めた。
ユージーンの墓碑銘も見つからなかったが、そのかわりもっとも新しい区画に墓碑銘の削られた墓が見つかった。
これがユージーンのものだ、と織図は喜んだが、その記憶素子は折り取られてデータが破壊されており、ただのぬか喜びに終わった。
記憶を壊したのはノーボディなのか?
あるいは……ユージーン自身が。
とにかく、ユージーンの記憶に触れることはこれで絶望的となった。
レイア=メーテールの記憶素子はまだ淡い光を纏って明滅しており、没年も彫られていない。
もはやノーボディもいないのだから自動的に記録しているのだろうが、データを受信中……ということは、生きている。
ちなみに、時期的にレイアの隣にあるかと思われた恒の墓はなかった。
恒はヴィブレ=スミスによって創り出された人と神との狭間にあるものあって、ノーボディのG-ES細胞によって生じたものではないからだ。
レイアの記憶に触れたいが、記憶素子を摘出すると何がしか行方不明中の彼女に良からぬ影響を与えそうな気がして、明滅中に抜き取ることができなかった。
織図はオリジナルのデータに触れることを諦めDA-インディケータにデータをコピーした。
以前回収したユージーンのジャンクデータより高度に暗号化されているが、それが暗号である限りは、ファティナや情報神 有為 枝折と一緒に時間をかけて解析すれば解けないこともなかろう。
次にセウル。
これはセトほどではないにしろ古い記録だったのでかなり捜すのに苦労した。
墓碑銘に没年は一応彫られていて、彼がもはや生きていないということを示している。
だが、没年は素彫りであってまだ墨が入っていない。
クリスタル製の記憶素子は消灯していて、スリープ状態か既に記録の終わった状態であることを示していた。
織図は指を差し入れて、記憶素子を墓石の中からずっぽりと抜いた。
抵抗もなく抜けたので拍子抜けしたが。
最果ての谷の外に持ち出し、そのまま持ち帰った。
織図は墓荒らしをした気分だが、虐殺者であったセウルにそれを咎める権利もあるまい。
ログインからログアウト。
ここまででわずか1.5時間。執務室のコンピュータールームからではなく強制ログインをしていたので織図は時間を気にしていたが、意外にすんなりと持ち帰ることができた。
ログアウトは夜刈とレディラムによって半ば強制的だったが、レイアの記憶であると思われるデータはDA-インディケータに詰め込んできたので、後でファティナの助けを借りて解析にかかろう。数日以内にデータを解くのは無理だ。
その間に、死神たる織図にのみ許されている死者蘇生の秘儀を応用し、セウルの神体に記憶を戻せば……違法だが、セウルの生前の記憶が戻る。
クリスタルの中の暗号化されたデータは、セウルの神体にそのまま転送すれば補完され解凍されるだろう。
神体があるのだから、何も暗号を解きにかかる必要はない。
絶対不及者の記憶を戻すことについては、安全性には問題ない。
織図が調べた限り、彼の背にスティグマはなかった。
INVISIBLEが再び収束する条件は揃わない。
厳重に密封されたエネルギー炉の中で、元絶対不及者の神体にただセウルの記憶が戻るだけだ。
真偽のほどは知れないが、智神セウルは生前、温和な性格だったと聞く。
だが、織図の発想が理解できないのは夜刈だ。イカレたとしか思えない死神を怒鳴りつけ、首根っこを持って揺さぶる。
目を覚ませといわんばかりに。
夜刈の声は広く硬質の操舵室内によく反響した。
「はァ!? 何言っちゃってんのお前!?」
「蛇の道は蛇……だろ?」
創世者のことは絶対不及者に訊けといったものだ。
そんな諺はないのだが。織図は中断するつもりはなかった。
*
「神様に、人間に、使徒が一堂に会して会議とはねえ」
長瀬が感慨深そうにそう言う。ソファーに腰掛け、ティーカップを持って優雅に。
「なんかさ、俺。神様らって進化論から外れとる思うててんけど」
築地と長瀬は、比企の執務室の無数のソファーセットの中のひとつにどっかりと腰を落ち着け、コーヒーとレモンティーを片手に雑談をしていた。
響 寧々に連れられて使徒階から呼ばれた吉川 皐月という研究者がやってきて、なにやら丁重に迎え入れられている。
築地と長瀬は、研究者日本代表を交代することにして、会議室から撤退することにした。
長瀬は少しばかりかじっているが、物理学分野は門外漢だ。
「けど? 実は進化論にばっちり当てはまるって言いたいの?」
「推測やけどな。アトモスフィアって……放射性物質なんやて」
「うん。初めて知ったけど?」
長瀬はにこやかに応じる。
「暢気なやつ。俺ら……被曝しとんやで?」
「あ!!」
長瀬は青ざめた。
ぽとり、と口に含んでいたレモンが彼女の青いワンピースの上に落ちる。
「あーでも、そういえばアトモスフィアって人間には危険なものらしいよ。私も微妙な時期だしー? 不妊になったらとか、やっぱり考えちゃうよねー。だから比企さんとか、人間がいるところではアトモスフィア抑えてくれてるみたいだし」
200柱もの神々が集う神階の大会議に無防備に出席してしまったことが悔やまれるが。
長瀬は反省する。
大量にアトモスフィアを被曝したであろうことを。
「なんつか、女性は大変やな」
築地は長瀬を女性だと意識したこともなかったが、長瀬は色々と将来のことを気にしている。
「他人事みたいに言うけど、ツッチーだってリスクあるじゃん」
アトモスフィアに被曝し続ければ、精子ができなくなるリスクだってあるのだ。
放射線照射を受けると、DNAは損傷を受ける。
長瀬は勿論のこと、築地もこれでいて結婚願望もあって、子供ももうけたいと思っているので他人ごとではいられない。
「そういや、神さんら性別ないやんな」
何を当然のことを、と笑いながら長瀬が給仕の使徒にレモンティーのおかわりを求める。
神々には性別がない……外見上の区別はあるが、種として生殖能力のない生物をそもそもオス、メスと区別して呼ぶことは生物学的に間違っている。
現在の神階で女性と呼べるのは少女神 レイア=メーテール、男性では藤堂 恒だけだという。
まあ、恒は半人半神なので純粋な神というわけでもないのだが。
「使徒のうち、アトモスフィアにやられて不妊になって突然変異起こした群集団が神様、って可能性は?」
「えー!?」
築地の仮説が、斜め上なこときわまりない。
使徒はアトモスフィアの合成ができないが、その代わり生殖能力がある。
神と使徒の違いは、つきつめていえばアトモスフィアの有無のみ。
神はアトモスフィアがあってこそ神通力を使える。
逆に言うと、アトモスフィアがなければ神具も動かせず、マインドコントロールもマインドブレイク、飛翔術に転移術も不可能なのだ。
アトモスフィアの有無のみで、神は使徒と差がなくなる。
翼の有無の違いはあるが、微々たるものだ。
進化の系統樹を辿ると使徒が先に生じたのかもしれへんで、と築地は熱っぽくそう言うのだ。
「神様ってホンマは、使徒がベースなんちゃう?」
仮説のみなのに説得力だけはあり、長瀬は反論できなかった。
DNA解析ができればどちらが先に生じた系統なのかはすぐに分かることだが……神も使徒も、DNAワールドの住民ではないので検証するのは難しい。
築地は周囲の目を盗むようにして、ぷいーっとマルボロの煙草を吸いはじめた。
ヤニがきれるとイライラするらしい。
嫌煙家の長瀬に配慮して、ソファーの端に座って肩身が狭そうにしている。
「アトモスフィアを体内で産生できるように進化した群が神様に、でけへんかった群は使徒に。ってなこと、考えられへん?」
「……考えられへん」
長瀬が築地につられて関西弁になった。
長瀬は思い出した。神の血液が赤透明だったこと。
使徒の血液は人間と同じく濁っているということ。
「んー、たとえば人間で言うところの赤血球やら白血球やらの役割を果たす細胞が、アトモスフィアのせいで死んじゃってるってこと?」
「せや!」
築地が握手を求めて、長瀬の手を握った。
「てことは、え?」
長瀬はふらふらとソファーから立ちあがった。
繋がってしまった。
口に出すのは憚られる。
気付いてはいけないことに気付いてしまった。うっかりと。
神と使徒がどこからきたのか。そして人がどこからきたのか。
アトモスフィア……って何だ?
長瀬の脳内でそれは芽吹き、根を出し枝葉を出し急激に成長してゆく進化系統樹。
神経と神経を繋ぐように。失われたリンクを繋ぐように。
進化系統樹がいま完全に、繋がったのかもしれなかった。
*
それからおよそ5時間後。
織図は特務省の動力室に戻り、神階に回線を繋いだモニターに向かって手を振る。
モニターの向こうでは、比企と藤堂 恒、ごく限られた少数の神々、そしてどうしたことか比企と同席していた人間の研究者たちが固唾を飲んで見守っている。
「じゃあ……いくぞ。はじめるからな」
織図はモニタについていたマイクに告げると、深呼吸をして心を落ち着ける。
前代未聞の試みだ、神を蘇生させるのは。
理論上では死者蘇生のそれを応用させれば同じようにいくはず。
うまくいかなければそれまでだが、試すだけの価値はある。
絶対不及者召喚の運びとなったのは、比企の独断によって勅令という名のお墨付きが出たからだ。
4次元大質量ブラックホールの出現を危機として重くみた織図は、夜刈とレディラムの怒号飛び交うその場で比企に連絡し、バイタルアレストのかかっている智神セウルの神体に彼の意識を戻してよいか打診した。
比企はセウルの神体にスティグマがないことをだけ確認を取ったうえで許可を出した。
この遣り取りは電話一本で極秘に行われ、勅令となったため夜刈とレディラムを黙らせた。
織図は特務省を神階に転移させ、バイタルアレストをかけられた特務省職員全員を織図の使徒たちが手際よく運びだした。
特務省内部に残ったのは織図たった一柱で、外野はいない。
召喚したセウルの力が暴発し不測の事態となった際に、バイタルロックをかけて不死の織図はともかく、誰も巻き込んで犠牲にしたくないと強く主張したからだ。
セウルの召喚は織図の責任において、たった一柱で行うと。
比企は織図の心意気を汲んで独自の判断を下した。
織図は厳密に組んでEVEの表層に引っ張り出しておいた記憶転送プログラムに実行をかける。記憶を転送する対象を間違えてはならないが、何度も確認した。
よっしゃ、再インストール。
ぽちっとな。
織図はEVEとのコネクトを維持し、神体に記憶が転送されているかどうかをDA-インディケータでチェックする。
5%、10%、15%……赤いインジケータは100%へ近づいてゆく。
失敗した際には躊躇せずバイタルアレストを行えば問題ないのだが、相手が相手だけに緊張はピークに達する。
ドクン。
セウルの記憶の転送率が80%を過ぎたころ、煮えたぎる炉の中で智神の神体に生気が戻る。
次々と目覚める身体機能。
神経系が活動をはじめ弛緩した筋肉に意識が通じ、ビクビクと数度大きく痙攣する。
織図は注意深くモニタでステータスをチェックしている。
ステータスが異常値を示していないか、何度も何度も確認を怠らない。
炉の中からでは外の物音は聞こえていないのだろうが、織図のアトモスフィアの気配に気付いたようで、もがき苦しみながら織図のほうへ身体を向ける。
「おはようさん。顔でも洗うか?」
バイタルロックをかけたままの織図は多少気持ちに余裕があるか、炉の外にいるからか、横柄な態度で呼びかける。
生きた屍のように生気のない顔。
目も見えていないだろう、眩しそうに瞳を細める。
絶対不及者と対話をしているのだから、現代語が通じないかもしれないという心配も配慮も無用だ。
心配しなくともセウルは直接織図の脳内の思考回路を読むだろう。
「現実世界へようこそ。あんたセウルだよな」
データベースからセウルの記憶を呼び出したつもりなのにむしろ他の奴が出てきては困る。動力炉の中の彼は憔悴しきった表情で……1分ほどの沈黙があって頷いた。
「そこ出たい? おとなしくしてるなら出してやってもいいが」
セウルは数分後に……やっと頷く。
あらら、代謝スピードが回復してこないのか。
織図は彼のおぼつかない様子を見て不憫に思った。
時折顔をしかめ苦悶の表情を浮かべる。
炉の中に充填されている溶媒も、間違いなく神体にとってよくないものだろう。
「成功だ。問題ない。ハッチをあけるぞ」
織図は比企らに向かって一言かける。
端末の情報では数万年ぶりにハッチが開かれたと記録されている。
幾重にもロックされたパッキンが金属と癒着していて開かないかと思われたが、織図はバールを使って苦労の末こじ開けた。
ぬっと炉の中から円形の蓋のふちに智神の手がかかる。
織図は手助けしない。
智神は衰えた筋肉を操ることに苦戦しながらも自力で這い出てきて、球形の動力炉の側面を滑り落ちる。
彼の身体から流れたエネルギー炉の中の溶液は炎の雫となって周囲に飛散し、床面で蒸発する音を立てた。彼は空を掻き毟るようにしてもがくと、力尽きて倒れる。全裸で。
織図は周囲に倒れていた特務省職員から剥ぎ取ってきた白いローブをセウルに着せ掛けるが、用心して直には触れない。
熱、アトモスフィア、腐食に耐性のあるローブだ、セウルの体温が数千度でも、一応数万度までは耐えられよう。
絶対不及者用に仕立てた権衣ではないので絶対不及者の熱量に焼かれいずれは朽ちるだろうが暫くの間は纏っていられる。
「伝説の絶対不及者と差しで対面できるとは、身に余る光栄だ」
床の上に伏せて平たく伸びた二代目の絶対不及者に、織図はかがんで少し高い視線から呼びかける。
セウルにとっては思い出したくもない過去だ。
彼は自らの意思に反し力を暴走させ、虐殺に虐殺を重ね、自己を見失い殺戮と破壊の化身となり果てた。
織図の手によってダウンロードされ復元された記憶は拒絶することもできず、倒れ臥した彼の脳裏に蘇る。
セウルは床に蹲り当時の感触を思い出したのか何度となくえずいたが、自らが浸っていた炉内の溶液以外に、超越者のそれへと変質した体内からは何も出てこない。
「あんたINVISIBLEに収束されたんだよな。どんな状態だったんだ?」
セウルの背にスティグマはないが、神体はまだ絶対不及者のそれだ。
抜けがらといってもいい。
記憶が戻ったショックが大きいのか、はたまた頭痛がするのか頭を押さえ蹲っている。
返事はない。
10万年間も放置されていた死体に強制的に意識を戻されたのだ、脳は錆付いてその機能の殆どが失われ、神経も焼き切られボロボロだ。
苦しいに決まっている。
「具合悪いか。質問はあとにしよう」
ノーボディの性格からすると役立つものから無駄なものまで逐一、のちのち使うかもしれないというものはとっておくように思えたので、セウルの記憶が当時のままに保存されていることを期待したい。
太古に死んだ神の記憶を無理やり蘇らせ呼び出して洗いざらい喋らせるイタコに似ているな。
できれば目覚めたくなどなかっただろうというセウルの心情と黙して耐える苦痛を慮りながら、織図は自らを揶揄した。
セウルはふらふらとよろめきながら頭をもたげ、苦しげに織図を見つめる。
今にも死にそうな顔をしているが、死なないので心配の必要はない。
何故呼び戻した。そう言いたげな瞳をしている。
禁視(Forbidden Visibility)と呼ばれる黄金の虹彩をした瞳も見開かれているが、見えているのかどうかすら分からない。
視力が回復したのかどうかわからないが、眼光は鋭く、その瞳は死んでいない。
「少し休んでからでいいから、覚えていることがあれば何でもいいから洗いざらい教えてくれ。あと半年後にもう一度INVISIBLEが収束するんだ。あんたの力を貸してもらいたい」
セウルは織図の言葉自体が分からない、というように顎を突き出したが、マインドギャップを無限に備えるセウルは織図を裕に看破しているだろうから、分からないとは言わせない。
そういえばセウルの時代はまだINVISIBLEって言わないんだ。
つか英語とかねーし。
しかも絶対不及者っていわばエネルギーは無尽蔵でコズミックストリングや時間軸とか使えるほど万能なんだっけ?
超空間転移もわけないよな?
織図はふむ、とより壮大なスケールで考えてみる。
彼を召喚すれば対INVISIBLE対策の可能性もぐっと広がるわけだ。
「ちょっとあんたに色々、お引っ越ししてもらいものがあるんだが」
寝ざめがすこぶる悪そうで気の毒だが、この引っ越し屋に頼むしかない。
「4次元ブラックホール1個。もしくは太陽1個とおまけの星が数十個。できるか?」
仮にも彼は絶対不及者だ。
ブランクのために力衰えていたとしても何千万度の動力炉の中に10万年間もいたのだから太陽系の移動ぐらいわけもないだろう。
「もちろん調子が戻ってからでいい」
セウルは眉をひそめて当惑し、激しく湿った咳をする。
できないと言える雰囲気でもなく、この用件のためにはるばる10万年の太古より呼び戻されたと……彼は14分後に察した。