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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第35話 Beyond Planck Energy

『先ほどお話のあったHEIDPAを、やはり駆動させてはいかがでしょうか。地球がブラックホールに飲み込まれるのを待つばかりではなく、万が一の可能性に懸けて』


 長い議論の末、とうとうCERNのLHC主任研究員、英国人クインシー・バートンが提案した。

 眼鏡をかけた、グリーンのポロシャツのよく似合う紳士風の男だ。神々の人類救援には感謝する、だが地球が消滅し生物階に戻れなくなってしまうと、人々の住処は神階に限定される。それでは駄目なのだ。人類が圧倒的な神々の支配に屈するだけの暗い未来が待っている。どのみち地球が滅ぶというのなら彼は少々の無茶でもやっておきたかった。


「ブラックホールがあっては無理だ……どれだけエネルギーをつぎ込んでも、ブラックホールを肥えさせるだけだ」


 リジー・ノーチェスはよい顔をしない。


『ただ撃つだけではありません。そのHEIDPAで産生するエネルギーを、10^80 g/cm3程度に超圧縮することはできませんか?』


 クインシーより少し年配の、褐色の肌をしたスペイン系研究員、セルヒオ・アレハンドロも分厚い研究ノートを片手に畳み掛ける。

 彼はHEIDPAの話を比企より聞いてからというもの、必死の形相でノートに計算式を書きつけていた生真面目な研究者だ。

 計算結果を前提に、彼は人類の科学力ではどだい無茶な要求を叩きつけた。

 いくつものメモが、彼のノートから飛散してパンドラの箱を開けたかのようにぶちまけられる。


「不可能ではない……だがHEIDPAはもう、駆動できんかもしれん。相転星を扱える唯一の使い手がいま、崩じてしまったからだ」


 問題なのは使い手だけではない。

 相転星も実は壊れてしまっているということを恒は知っている。


『それは残念です。しかしもしHEIDPAによってエネルギーを圧縮することができれば……そのブラックホールもろとも、向こう側に押し出すことができるのではないかと考えたのですが。プランクエネルギーを大きく上回るほどのエネルギーがあれば』


 プランクエネルギーとはおよそ1.22x10^9GeV、あるいは1.9561x10^9Jもの、莫大なエネルギーだ。

 人類が手に入れた最大エネルギーが10x10^GeV程度だから、それがいかに巨大かということがわかる。

 このエネルギー状態で何が起こるかというと、自然界の4つの力(重力、電磁力、強い力、弱い力)の4つが統一される。


 神階の科学力と神具は単独で、とうにプランクエネルギーをたたき出している。

 そしてHEIDPAを介した相転星の最大エネルギー出力は10^50Jオーダーだとも試算された。

 さらに相転星には、エネルギーを圧縮するコマンドがあった筈だ。


「重力をHEIDPAで超エネルギーに変えて……超圧縮すると……」


 ブラックホールもろとも、途方もない密度にまで圧縮するとどうなるか、その場にいた誰もが理解できる。

 特異点の向こうに偽りの真空(False Vacuum)ができるかもしれない。

 そしてできた偽りの真空がプランク状態から一転、正確に言えば10^-35秒後に起こるのは――……強烈なインフレーション、すなわちビッグバンだ。


「ブラックホールもろとも超圧縮し空間を極限にまで歪め、特異点を現空間から切り離すのか」

『技術的に不可能でないなら、新たな宇宙を切り離すときに生じるエネルギー放射が地球を襲うかもしれませんが、それに耐えれば』


 ホーキング輻射やガンマ線バースト、太陽フレアなどの強烈な放射によって、地球上のオゾン層がなくなったり気候の激変に見舞われたりするかもしれない。

 しかしそれだけの代償で済むのならば試す価値がある。

 このまま手を講じなければ確実に地球はブラックホールに飲み込まれて消えるというのならば。

 どんなに荒廃して変わり果ててしまっても、人は母星である地球から離れられない。

 いや離れたくなどない。

 神々の力を借りて再生には数百年、数千年単位の途方もない時間がかかるかもしれないが、どんな形であれ地球を残すことこそが重要だ。

 再生のために全力を尽くす。

 そのための技術基盤は、すでに人類には備わっている。


「……なるほど。しかしそれは……空間の向こう側に新たな宇宙を創出する」


 極陰がその言葉の意味を噛みしめるように呟いた。

 当然そうなる。

 偽りの真空は自身の反重力によって急激に膨張をはじめ、真の真空へと相転移を起こすだろう。

 ビッグバンから始まる新たな宇宙の創造。

 それはかつて、137億年前もの過去にこの世界で起こったことであり、時間の始まりだった。

 人類と神階は宇宙の始まりを目撃するのだ。


「つまりそれは創世だ、そうだな」


 もちろん、特異点の向こう側で宇宙の膨張スピードがそれほど速くなければ、宇宙はすぐに潰れて消滅してしまうことになる。

 それでも、たった一瞬でもその行為に加担することは創世に挑むことにほかならない。

 セルジオは興奮のあまり上気した顔で、極陰に向かってゆっくりと頷いた。


『人間の思い上がりだとのお叱りを受けなければ。私はそれが最善の方法だと思います』


 人々は創世者となろうとしている。

 LHCがミニ・ブラックホールを作り出すことを目標として掲げていたそのときから、それはCERNの途方もない将来での、野望でもあったかもしれない。


「人の想像力とは偉大なものだな。畏れ入る」


 無責任な感想を述べながら、青い手術着を着たまま比企が会議室に戻ってきた。

 一度脱いだ和服の聖衣を着付けるには、それなりに時間がかかるのだ。約束の時間は20分だったが彼は時間ちょうどに戻ってきた。

 彼は恒の隣を通り過ぎるついでに、目もあわせないまま解離性意思伝播法で遼生の状態を伝える。

 恒はその報告を何より心待ちにしていた。


“安心しろ。一命はとりとめた”


 恒と比企の脳を結ぶこの内緒話は、他の神々には一切聞こえていない。

 レイアと会話をする唯一の方法がこの方法だったため、彼らは無言でコミュニケーションを図ることに少なからず慣れていた。


“ありがとうございます”

“体液置換もだが、響が術中に持ち込んだ薬剤が劇的に効いた。響が汝から受け取ったと申しておるが、あれは何だ”

“……それは……”


 この会話法はリアルタイムで対象に思念を伝えるので、発音して会話する場合と比べ会話にかける時間が格段に短縮できる。

 しかし恒がすぐに返答しなかったので、比企はやや不満そうに一瞥すると、深く追及することもなくそのまま通り過ぎて会議室の中央に歩んでいった。

 恒はこのニュースを彼女に伝えようと八雲 青華をさがして振り返ったが、八雲の姿は見えなかった。

 代わりに築地、長瀬の二人組と目があった。

 築地と長瀬は比企と恒の間にやりとりがあったことに勘付いていたので、特に築地は顔だけで”どや?”という腹の立つ表情をする。


「おかげさまで」


 本当に尽力したのは比企だが、影の立役者は築地であることに間違いはない。

 恒は周囲に分からないように、築地の手柄を褒めておいた。

 長瀬には色々と迷惑をかけられたが、結果がよければそれでいい。


「せやろ?」

「よかったー!」


 築地は得意顔で、長瀬と小さくハイタッチなどしている。

 長瀬の失敗を挽回したのだから、穴埋めをした気分なのだろう。

 彼らも研究者たちも、人間が神階の中枢部にもぐりこんで忌憚ない意見を述べ神々に新たな示唆を与える。

 神々の思考回路というのは長い年月の間に凝り固まってしまっていたから、新たな視点を与えてくれるのはありがたいことだ、と恒は思った。


「この非常時に、一体何をしてるんだ!」


 一方、比企を迎えた極陰は不在にしていた主神に噛み付いている。

 比企は非難を受け流しつつ、手近にあったモニタをスクロールして情報を把握する。

 その間ずっと、極陰は比企の頭の上でぐちぐちと小言を言っていた。

 見掛けによらず、粘着質な性格だ。

 比企はようやく事態を把握すると、指令を発する。


「人々の避難を最優先として、陰陽階の非常ゲートを残り76基追加稼動させよ。全て出せ、一基残らずだ」


 先ほどから働き詰めの寧々は緊張した面持ちで比企の勅旨を神階の非常連絡網にインプットし、瞬時に全方面に伝令した。

 第二使徒以下もサポートに駆けつけているが、勅令の発布は寧々にしかできない仕事だ。

 寧々によって伝えられる比企の言葉はとりもなおさず、神階全体の決定事項となる。


「再度、陰陽階緊急会議を召集しますか?」


 重大事項の決定時には一にも二にも全体会議というのが定石だ。

 寧々が召集命令を伺う。しかし比企は頑として首を横に振った。


「事態は一刻を争う。今後は全て己の勅裁とし、言論封鎖を行う」

「よ、よろしいのですか?」


 寧々は再度伺いをたてた。

 極陽への意見を禁じる、言論封鎖はかなり重要な決定だ。

 批判も免れえない。


「四の五の言う者があれば、後ほど己が腹を切って責任を取ればよかろう」

「ああ、それでいい。この期に及んで会議を開くようなら、殴ってやろうかと思った」


 比企は宣言したが、極陰も納得のうえだ。

 築地と長瀬は顔を見合わせた。

 それって……主神による生物階、神階の支配と独裁じゃないのか。

 事実そうだったが、CERNの科学者達はそれを歓迎しているようでもあった。


 各国首脳らに事情を説明し理解を求める時間があったら、比企の素早い決断によって最善の策を講じたほうがよい。

 彼らは2年前に生物階で起こったパンデミックに抗するための特効薬の成分の構造式をいちはやく各国有力紙に送り付けたのが、比企だったということを知っている。

 彼は人類を保護しようとしていることも、人々の神階への避難受け入れを即決したことも、過去の比企の行動からよく理解している。

 多くの批判と誤解はあるだろうが、嫌われ役を演じてでもこんな時だからこそ強いリーダーシップが求められている。


 恒も今回ばかりは、比企の判断が正しいと同意した。

 大多数のまともな意見を聞いている場合ではない。

 INVISIBLEの収束をやり過ごし、人類と神々が生き延びることが最優先なのだ。

 独裁者としての顔が本来の比企の性格ではないと、恒はよく分かっている。

 彼は上に立ったり、崇拝の対象となることが実はあまり得意なほうではない。

 寡黙で口下手だし、無愛想で多くの誤解を招く。


「レイアを失い、荻号も崩じたのか。ではもはや相転星を扱えるものがおらんな……」


 比企は彼らの消滅と死を悼む様子もなくただ、相当の痛手を被ったという表情だ。


「レイアはどこかで生きているかもしれません。そして使うという以前に、相転星が壊れてしまいました」


 恒が真っ向からレイアの死を否定しつつ、ようやく先ほどレディラムと夜刈に伝え損なっていた情報を比企に暴露する。


「さようか。修理はさほど難しいことではない。問題は使い手だ」


 ああ、そうか。恒は彼の経歴を思い出した。

 比企は半世紀もの間荻号に師事していたのだ、そして比企は相転星を異常なまでの執念で分析しつくし、それと真逆の性能を懐柔扇に付加していったという過去がある。

 相転星を再起動するためのノウハウも知り尽くしていた。

 神具開発のために直接荻号から学んだ手法も知識も膨大なものだったことだろう。


 比企は素手で相転星に触れられず起動もできないが、たった一枚手袋をすればどんな神具に触れることもできるのだ。

 そうでなければ、神具修理師、神具鍛冶という第二種公務員の専門職は成り立たない。

 相転星はINVISIBLEの秘蹟にかかわる超神具なのでその全容は荻号 要にしか理解できていないのだろうが、比企もある程度のことは荻号から直に学んでいる。

 専門の設備と道具さえあれば、修理も不可能ではないのだ。

 比企が修理できるというなら話は別だ。恒は心強く感じた。


「では俺が使い手になります。やらせてください」


 比企らの前に進み出て、頭を下げて迷いのない口調でそう乞うたのは恒だ。

 ユージーン、そして荻号を失い、遼生も死の淵から還ったばかりという今、抗-絶対不及者抗体である自分だけが何もせず傍観していてよい筈がない。

 今こそ挑むべきだと彼は決意した。

 INVISIBLEが三階を滅ぼさないように。

 それでいてレイアを救い、彼の願いをかなえることができるなら。

 自身の全てを失っても、可能性が一つでもあるというのなら。

 決して無駄だとは思わない。


「何だと」


 極陰が苛立った声を出し、CERNの研究者達は、子供の思いつめた提案にどよめく。

 恒は相転星が何なのかということすら分かっていないのではないか。

 彼女がそう思ったのも無理はない。

 恒も、彼らにどう思われているのか重々分かっている。

 彼は荻号の家から拝借してポケットに忍ばせていた相転星を出し、掌の上に載せて極陰に示した。

 荻号以外の神に気安く触れることさえ許さなかった相転星は恒の手を傷つけず、しおらしく彼の掌の中に納まっている。


「ご批判は甘んじて受けます。しかし恐れながら、相転星に触れられるのは俺だけなんです」

「血迷うな。汝のアトモスフィアで相転星はびくともせぬぞ」


 若干痛々しく、恒にそう言わせてしまった責任を感じながら、比企も無謀だと恒をたしなめた。

 確かに全神具適合性を持つ恒はどんな神具にも素手で触れられる。

 だが触れられることと扱えることは別種だというのは前述の通りだ。

 まず、家電でいうところの電源。

 つまり大容量のアトモスフィアを相転星に与えることが必要で、これが誰にもできるものではない。


「何とかなると思います」


 恒は一語一語、比企を説得するように強く言った。

 ストラテジーはこうだ。


 智神のアトモスフィアを相転星に送り込み、それを原資に恒が相転星を立ち上げる。

 まず生物階を安全な場所に転移させ、次に相転星を解して超エネルギー星間暗黒加速器(HEIDPA:Hyper Energy Interstellar Dark Particle Accelerator)を起動、その後、ブラックホールもろとも時空から切り離し新たな宇宙として現空間から吹き飛ばす。

 グラウンド・ゼロは消え、INVISIBLEは収束のための足場をなくす。

 それはレイアとINVISIBLEを排除したかに見えるが、それで終わりではない。

 切り取られた座標の中で、INVISIBLEは誰にも、どこにも被害を及ぼすことなくグラウンド・ゼロに収束することができるはずだ。

 閉じた時空の中で、彼の目論見は完結する。


 そう説明しながらも、恒はもはや何につき動かされて行動しているのかわからなくなってきた。

 どこからどこまでが自分自身の考えで、どこから先が彼に操られたものだったのかすら分からない始末だ。

 しかし少なくとも彼らの願いは叶えることができる。

 その後、INVISIBLEとレイアがどうなるのか。

 いや、その前にINVISIBLEという屋台骨を一瞬でも失ったとき、三階はどうなるだろうか。

 創世者の意思から解放されるのだろうか。


 ――違う。

 創世者を失えば現空間は滅ぶ。

 そこで恒はそれを回避する方法をきちんと考えていた。


「ただし、外宇宙空間に押しやったGround 0と現空間を結ぶEinstein-Rosen bridge(アインシュタイン・ローゼン橋)を、INVISIBLE収束の直後まで保持します」


 アインシュタイン・ローゼン橋とは1936年にアルバート・アインシュタインがネイサン・ローゼンとともに発表した概念で、現宇宙と外宇宙とを繋ぐ通路であり、通常は一瞬で通路は閉ざされる。

 恒はブラックホールからブラックホールの“首”であるアインシュタイン・ローゼン橋を維持したまま、INVISIBLEを創世した新たな空間に押しやると言っているのだ。


 レイアの言うよう、INVISIBLEがレイア・メーテールと、限りなく閉ざされた新たな時空という小さないれものの中で正気を取り戻すことができたなら……彼はこの世界に還ってくることができるだろう。

 だがもしINVISIBLEに自我が戻らなければ、INVISIBLEは事象の地平線を通ってこちら側に戻ってくることはできない。

 その場合は見限ってアインシュタイン・ローゼン橋を外す、というかブラックホールを蒸発させる要領で輻射によって蒸発させる。

 ここまでの計画は、恒が相転星を自在に使いこなせるようになったら、という前提で始まっている。

 恒の一言に小会議室が静まり返ったとき、極陰は真っ向から反対した。


「万が一HEIDPAを駆動できるとしたら、多重連結空間を創るなどもってのほかだ。INVISIBLEをこちら側へ戻してはならん」


 CERNの科学者たちはそもそも、恒の主張は生意気な子供のたわごとと耳をかそうとしない。


「収束点を回避したとしても、INVISIBLEはこの時空に戻さなければなりません。そうしなければ、現空間は終わります」


 INVISIBLEを知らない彼らには、INVISIBLEがどんな存在なのかということは伝わらないかもしれない。


『君はどうして、INVISIBLEなるものがいないと世界が終わると思い込んでいるんだね』


 一人の、豊かな顎鬚をたくわえた老紳士が穏やかに指摘した。

 恒は答えられない。論理的な説明などできそうもない。

 途方もなく押し寄せる危機感は確かに、恒の直感とレイアの体験に基づいている。

 そう、ノーボディと、INVISIBLE、そしてレイアを知る恒だからこその直感、それをガチガチの理論物理学者に説いても論破され、返り討ちに遭うに決まっている。


『わたしはあなた方神々と出遭ったときようやく、科学が宗教から解放されそうだと期待に胸を膨らませました。神階にも宗教があり、それを妄信的に信じているのだとすればとても遺憾なことです。合理的な説明ができなければ、時間を無駄にしないでいただきたい』


 彼はそう言って、どこか恒を挑発するように苦笑した。

 センスのよい紺のストライプのシャツのポケットに差しているネームプレートにはマトヴェイ=ボスホロフと書いてある、ロシア人だ。

 どこかで見た名前だな、どこだっけ? 

 と記憶力のよい恒はほどなく思い出す。

 そういえば吉川 皐月がサイエンス誌に投稿し、事象の地平に関する新たな見解を提示し世界を驚かせた大論文、あの論文の共著者として名前を連ねていた。


 つまり彼は、皐月のかつての指導教官ということになる。

 CERNには様々な大学の研究室が参加している、CERNの代表団としてこの場にいるところをみると、かなり世界的な業績を持つ教授なのだろう。

 どうやら誤解されているが、恒はオカルトの入る余地は依然としてないと考えている。ただ人類も、神階も追いついていないだけだ。INVISIBLEの思考と、彼の行使する科学力に! “INVISIBLE”の姿を観測することすらできないでいる。

 ボスホロフ教授は恒に猶予を与えるようにじっくりと辛抱強く回答を待っている。


『どうだね』


 何のためにINVISIBLEが3年も前から収束の時期を知らしめて人々を避難させるための時間を与えたのか、“彼”が恒や神々にしてほしいことと、しなければならないこと、特異点で起こっていること、レイアの消失によって何が始まったのかを185日間で知らなければ、確実に破滅だ。

 ユージーンの残した足跡は謎の核心へと繋がっている。

 何か見逃していないか。何か……恒は注意深く時間をさかのぼってゆく。

 濁とした記憶と情報の中で、彼との繋がりがあって


 そういえば……彼との出遭いが必然としか思えない者がいた――。


「寧々さん。生物階からの避難者の中に吉川 皐月という25歳の女性がいるはずです。彼女を呼んでください」

『ミス吉川を知っているのか!』


 ボスホロフが驚きながらも、口元がほんの少しだけ綻んだのを恒は見逃さなかった。

 吉川 皐月。

 恒の恩師にして、理論宇宙物理学界のスーパーノヴァ(超新星)であった彼女。

 事象の地平面の先を、簡潔な証明とともに最も鮮やかに予測してみせ、喝采を浴びた彼女。


 他の誰でもなく、よりによって彼女が小学校教師として風岳村に来てユージーンと出会ってしまった理由を、まだ恒は納得がゆくように飲み込めていない。

 恒は彼女を危険から遠ざけようとして深刻な情報を与えずにここまできた。

 そして、ここに居並ぶ科学者達と比較して彼女の頭脳が突出して秀でているというわけではなく、神々の頭脳は言うまでもなく彼女に勝る、しかし彼女も重要なキーパーソンであるような気がしてならない。

 彼女ならば何か重要なことに気付いてくれるのか、思い出すのではないか。

 ここにきて恒は、彼女を議論に加えるべきだったと感じた。


「吉川 皐月?」


 耳慣れない人物だったので、比企は恒に詳細を訊ねる。

 そういえば皐月と荻号はそれなりに近所づきあいがあったものの、比企と皐月は面識そのものがないのだ。

 CERNの科学者たちの中では吉川 皐月の名を知っている者もいて、ざわめきが起こる。

 恒は彼らの反応によって、彼女がいかに惜しまれながら学界を去ったのかを見せつけられた思いがした。

 小学校教師としての皐月はその片鱗も見せなかったけれども。


『たしかに……彼女は優秀ですよ。彼女ならば“時間の果て”がどうなっているのか、見通せるかもしれませんね』


 ボスホロフ教授は神々との議論の場に彼女の名が挙がったことに若干嫉妬しつつ、教え子に太鼓判を押して推挙した。

 皐月は大論文を発表して後、修了までに完成しなかった二本目の理論がある。

 彼女は数式の辻褄を合わせることができず修了とともに執筆を終えてしまったが、神々と共に構築することも可能かもしれない。


 皐月はINVISIBLEの正体を観て、彼の意図を知ることができるのではないか。

 それがユージーンの最後の示唆であるような気がした。



 神階の門を通って使徒階に避難してきた人々は検問を通り、各居住エリアごとに分けられ避難所に落ち着いていた。

 風岳村の人々も慣れないプレハブの集合住宅に案内されてようやく一息ついたり、そわそわした様子で周囲を散歩などしている。

 志帆梨の収容された寮は家族寮で当初は皐月とともに独身寮に割り振られてしまったが、恒がいると主張したため家族寮の扱いになった。

 しかし、家族寮に入れないと言われたものがいる。


 石沢 朱音だ。

 彼女自身も、神階に入れば見咎められるのは半ば分かっていた。

 神階では生物階と違って使徒だと見破られるのは実に簡単だ。

 生物階から神階に入った人々は検問の際に毛髪の提出を義務付けられていた。

 その検査結果が出たらしく、審問官の二名の使徒が風岳村の家族寮の石沢家の部屋に押し掛けてきた。

 朱音の毛髪からはDNAの解析結果が異常で、使徒に共通する遺伝情報が出てきたのだ。

 検問の際にはパスしたものの、遺伝子検査をされると一巻の終わりだ。

 彼女は荻号にそうしろと言われたとおり、荻号の庇護下にあるので問題ないと主張し彼の枢環を見せたのだが、それは認められなかった。

 なぜなら荻号は神階に在籍していないからだ。


 神階では子供の使徒は全面的に親使徒に従属しており、親使徒の所属がそのまま子供の所属となる。

 たとえば紫檀夫妻の双子たちは軍神下使徒として登録されており、所属は成体になって各位神のもとに志願しない限り変わることなどないのだが、たまに両親と死別した孤児もいて、彼らは成体となるまで孤児院で育てられ第二種公務員たちからアトモスフィアを得る。

 荻号の使徒として認められなければ朱音も即刻孤児院に入れられることになるのだが……。


「この子は孤児ではありません! 私がお腹をいためて産んだ子なんです」


 朱音の母親は当然彼女を弁護し、出生記録を見せて感情的にもなる。

 そう、朱音は紛れもなく彼女の子なのだ。だが残念ながら、その実体は借腹でしかない。


「そう言われましても、ねえ……事実は事実ですし、彼女もいずれかの神様のもとに所属しなければアトモスフィアを給されず飢え死にしてしまうのです。それが彼女のためなのです」


 寮の前で立ち往生して、すっかり悪役となってしまった審問官二人も困惑顔だ。

 野次馬も一人や二人、ちらほらと出てきている。

 朱音もできるだけ穏便に対応していたので、任意同行という形でまだ強制連行には至っていない。


「荻号さんからアンプル、もらっています。4年分はあると聞いています」


 朱音は荻号から受け取ったアンプルを、震える手で彼らに掲げて見せた。

 単にアトモスフィアが給されないという心配だけなら、アンプルがあれば解決できる。

 しかし荻号のものだと言ってアンプルを見せた途端、彼らの目の色が変わったのがわかった。

 どういうことだろうと、朱音はアンプルを持ったままあとずさる。

 朱音が当然のように享受していたそれは、彼らにとっては特別なものだった。

 最強神 荻号の、今後は絶対に出回ることのない貴重なアンプル……。

 使徒ならば誰でも、手にしたいに決まっている。


「それは非合法に受け取ったものだね。ならば申し訳ないが没収させてもらう」


 もっともらしく理由をつけて、彼らが朱音からアンプルを取り上げようと手を伸ばしたときだ。


「おやめなさい。民間人に略奪行為、狼藉を働いたとあれば厳重に処罰しますよ」


 ちょうど石沢家の傍を通りがかった、雪のように白くルビー色の瞳の青いワンピースを着た女使徒が、審問官たちを制止する。

 使徒か人間かという区別は簡単についた。

 制服を着ていなくても彼らは大抵長身のモデル体型で、ぎょっとするような髪の毛の色をしているので日本人の中では目立つ。彼らは彼女を知っているようだった。


「!? ……響様、何故ここへ!」


 極陽下第一使徒である寧々は、使徒階に顔がきく。

 彼らは恐縮して、逃げるように去っていった。

 その様子を朱音と母親はあっけにとられた顔で見送ると、ようやく助かったのだと心得て彼女に懇ろに礼を述べた。

 寧々は慈悲深いまなざしで朱音をやさしく見下ろした。


「アンプルを持っているのなら、あなたは暫くの間このご家族と暮らしてよいです。ここは使徒階第五層ですし、そこに住むことは理にかなっています。私がそう申し送っておきます」

「あ、ありがとうございます!! なんとお礼を申し上げたらいいのか」


 助けてもらった礼として菓子折りのひとつでも渡したいところだが、生憎そんな気の利いたものの神階への持込はできなかったので心苦しいところだ。


「お礼はいつか、私ではなくあなたのご友神の藤堂様に言ってください」

「藤堂って……恒くん、ですか?」

「そうですよ」


 荻号の崩御が明らかとなって朱音の立場が危うくなるのは、恒には分かっていたことだ。

 恒は、皐月を呼んでほしいという理由で寧々を使徒階に遣わせたが、それであれば実のところ恒が瞬間移動で皐月を呼びに行ったほうが早かった。

 わざわざ10分のタイムロスを承知で寧々を差し向けたのは、皐月の件を口実に朱音の保護を頼みたかったからだ。

 恒が朱音を擁する権利はないが、寧々は極陽下使徒の人事権を一手に握っている。

 寧々が是と言えば、朱音をひとり極陽下使徒として召抱えるぐらいなんということもない。

 そして朱音がどこに住むかを割り振るのも寧々なのだ。


「恒君はどうして、そんなことを言ったんです?」


 勘のよい朱音は、こわごわ寧々に訊ねた。

 恒は、朱音がどこかに連れて行かれてしまうと事前にわかっていたのだろうか。

 荻号の庇護では認められないと分かっていたから?

 それとも……事情が急に変わったから?

 あれこれ勘ぐっていると、寧々がにっこりと微笑んで、アンプルを持つ無防備な手を包み込んで握り込ませた。

 このアンプルが他の使徒たちに見つかっては大変だ。

 争奪戦は必至、略奪も起こりうる代物だった。


「そのアンプル、とても貴重なものだから大切に使うのですよ。誰にも見せず隠しておいでなさい。鍵をかけて、家の中に入って」

「はい、大切に使うつもりです! ありがとうございました!」

「お世話になりました」


 一瞬感じた不穏な気配を振り払うように、朱音はうれしそうにそう言うので、寧々は彼女を隠すように寮のドアを閉めた。

 寧々は彼女に、荻号の死を伝えることができなかった。

 もし神階が無事ならば彼女がアンプルを使いきったころに、自ずと気づくことだろう。

 言いにくいことを先延ばしにしてしまったが、今は伝えるべきときではない。

 彼女はそう思った。


 さてと。吉川 皐月は家族寮ではなく、独身寮にいるはずだ。

 寄り道を終えて、寧々は目的地の51-7西棟を捜しはじめた。

 このあたりの筈だが……寧々が老人の一団と会ったのは、草原に面した45-3棟東の、ちょうど愛媛県民南予地方にあたるエリアだ。


「のう、お姉さん。ちょっと訊いてもええかのう。お姉さんは少し偉そうじゃ」


 彼らは寧々が制服を着ていないので、制服を着た使徒より格上だと気付いたのだ。

 どうして見抜かれてしまったかな、と困惑しながらも、彼女は愛想よく応じる。


「はい、何でしょう。1分以内でならお答えしますよ。時間がかかるようでしたら他の使徒を呼びますので」


 できれば手短に切り上げてほしいところだ。

 比企のもとに皐月を連れてかえらなければならないので、寧々にはそれほど時間がないのだが……。

 数十人ほどの彼らは外見では40代~80代までと年齢もまちまちで、よく日に焼けた肌で、顔には深く皺が刻み込まれている。

 JAつながりの仲間だという。


「わしら百姓ですがのう、避難生活は少なくとも半年以上と聞きまして、お聞きしたいんですがのう」

「なるほど、農家の方々ですか」


 寧々は敢えて同じように百姓さんですか、とは言い返さなかった。

 百姓という呼称は彼ら農民の間で、彼らのアイデンティティとしていまだに使われている。

 だが、他者が彼らを百姓と呼びかけるのは差別にあたる。

 そんな日本人の微妙なニュアンスも寧々は心得ていた。


 彼ら農家の人々は神階、使徒階の土に興味津々だった。

 草原には肥沃な土壌に、青々と草が生えている。

 植物にあかるい彼らも地上では見たことのない草花ばかりだが、浜松エリアから地質検査のプロを借りて調査してもらったところ、土は生物階のものと殆ど同じで、生物階の植物が育てられそうだと気付いたのだ。


「言いつけどおり30kgしか荷物を持って来なんだんですが、そこ一面、がいに広がる草原、下は立派な土をしとりますでのう。大事な商売道具だもんで、わしら作物の種を、軽いもんでようけ持ってきたんです。草をつんで草原を畑にして、百姓してもかまんですか。わしらが去んだら、ほうっておけば1年もすればまた荒地に戻りますで、きれいに元通りになりますでのう」

「大丈夫ですよ、神階には食糧は充分に備蓄されていますよ」


 彼らが先行き不安なのだろうと気付いたので、寧々は安心させるようにそう言った。

 食糧が足りないのではないかと、不安なのだろうと思ったからだ。

 しかし彼らの意図は180度違っていた。


「あんたがたがわしらの食糧を工面するのもなかなか大変でしょうし申し訳もないんで、一年後、いや半年後から、わしらが人々に食糧供給します。世間様へのせめてもの恩返しのつもりです。うちらだけじゃのうて他の地域のもんも、種もみや苗、稲穂を持ってきとんです。わしらにやらせてつかあさい」

「鶏っこの有精卵ももってきとります。産まれたひよこを飼ってもええですか?」


 養鶏家もそんなことを言っている。

 自給自足を超えて、彼らは他の人々に食糧を供給しようと考えているらしかった。


「川魚の稚魚の卵や、稚エビなんかも少しずつ持ってきました。向こうに汽水の川があったんで、そこで養殖してもいいですか?」

「この土地の生態系を壊さないよう、去ぬる時には全部処分しますんで」


 寧々はそれを聞いて、彼らの心遣いが何ともいえず嬉しかった。

 確かに避難生活が何年もとなると、神階の食糧もただ消費されるだけではいつか底をつきる。彼らが土地を開墾し作物を作って少しでも自給してくれるというのなら、そしてそれが一人ではなく、多くの地域で大規模に行われるというのなら、その食料生産量と自給率はたいしたものとなるだろう。

 無償でと申し出た彼らの気持ちを、無碍にしたくなかった。


「そうでしたか……それはお気遣いに感謝いたします。農具はお貸ししますし灌漑設備はあります、養殖に適した計画用水がありますので、そこを利用できるよう私が話を通しておきます」


 寧々は周囲にいた高官使徒を呼んで、彼らに農業をさせる旨を伝え、ただちに生産体制を整えるべく対応させるよう指示した。

 そして必要な機材や設備、人員の協力を惜しむな、とも強く要請した。


「お、偉そうなお姉さんだったが、本当に偉かったのう。よし、この一面の緑を、小金畑にしてやろうで、皆!」


 モチベーションの上がった農家から、歓声が上がる。

 先行きの見えない避難生活の中で少しでも何かを、と考える人々のバイタリティを目の当たりにしながら、寧々は比企の判断が今回も正しかったのだと、彼女の主に感謝をすることを忘れなかった。


 ……寧々は結局40分後、ようやく皐月の住まう寮に辿り着いたのだった。

 随分と道草をくってしまったものだ。

 皐月が部屋の中にいてくれるとよいのだが、散歩をしていないとも限らない。何しろ寮の部屋の中はおそろしく暇だ。伽藍としているし、テレビなどの娯楽もない。

 彼女が持ち込んでいない限り雑誌もないだろうし、独身者は寂しがってすぐに外出してしまうだろうということは容易に予想がついた。


 しかしどういうわけか、皐月はノックしてすぐに出てきた。

 ジャージにトレーナーというラフな格好と眼鏡といういでたちから、彼女が昼寝をしようとしていたか、これから昼寝をするところだったのかもしれないと寧々は思った。

 くつろいでいたところ申し訳ない、と思いながらも彼女は典雅な動作で会釈をする。


「どちらさまでしょう」

「吉川 皐月さんですね。あなたを捜していました。神階中枢部にお越しいただけますか」

「どうして私が?」


 何か呼び出されるようなことをしてしまったのかと、皐月は恐縮している。

 実のところ寧々にも、彼女がどうして比企の執務室に呼ばれたのか、その理由も聞かされていなかった。

 彼女の仕事はただ用件を伝え、皐月を連れて戻ってくることだけだ。


「陽階神 藤堂 恒さまとCERNのボスホロフ教授が、陽階 極陽の執務室にあなたをお呼びです、あなたのご意見を伺いたいと」


 皐月は思いがけない名前が出たからか、体を乗り出してきた。

 恒はともかくボスホロフとは皐月の恩師だ。


「恒くんとボストロフ先生が!?」

「いかがされますか。同行いただけるならお連れします」


 いかがと言われても、選択肢はあってないようなものだ。

 それに独身寮の部屋でうだうだと昼寝をしようにも、これをいい機会にたまった書類を片付けたり、指導要領を読み込むにも限度がある。


「……はい。分かりました」


 ボスホロフ教授とは、皐月が修了して大学を出て以来一度しか会っていない。

 ボスホロフ教授が京都大学からハンガリーの国立大学に移籍し、かねてより夢だったCERNのATLASプロジェクトに参加して中心的な役割を果たしているということは、同級生らに聞いて知っていた。

 恩師であるボスホロフ教授が何か皐月の助けを必要としているのなら、何でも力になりたいと思う。

 そして、何故恒がボスホロフ教授とともに、今更のように自分を呼んだのか。


 いつもひとりで悩んでいる恒のために何か手助けをしたいと思っていても、はっきり言ってこれまでは出る幕などなかった。

 恒は皐月に期待などしてくれなかったし、重要なことは大抵隠してしまって打ち明けないのが恒の性分だ。

 親なのに無力なものだと常日頃から言っていた、志帆梨の気持ちがよく分かった。


 何ができるのか分からないが、とにかく行ってみよう。

 そう思った皐月は、彼女の要請に快く応じ、手元にあったノートや、いつも参照している論文を用意した。


 その中に大切そうにファイルに綴られた、見慣れない字で書きつけられた数枚のルーズリーフがある。

 皐月はこれをどこで手に入れたか、覚えていない。

 大学のときの先輩が残したメモなのかもしれないが、このルーズリーフは皐月が風岳村に教師として赴任してから使いはじめたものだ。

 ルーズリーフに何が書いてあるかというと、不完全なとある数理証明だ。

 さらさらとしたためられたその証明の美しさにはっとして、誰のものかわからないのにずっと手元に持っていた。


 よくわからないがこれも持っていこう。

 何か役に立つような気がしたからだ。



 死の淵からまさに蘇った八雲 遼生は比企の手術室に隣接したICUで、若干錯乱しつつも意識を取り戻した。

 ごく微弱ながら、周囲に機械やモニターの気配を感じる。

 神体をチューブやら点滴やらで繋がれるのはいつものことだ、どうということもない。

 むしろ落ち着く。

 視神経が切れているのか目を開けても視界は真っ暗。

 おまけに脊髄も破壊されているらしく身体に力が入らず植物状態だが、これもさして問題ない。


 遺伝子発現を掌握する遼生にとっては、神体がどれほどダメージを被ろうが気にすることもないが、場合によっては再生までに時間がかかるかもしれないな、と彼は一旦起き上がることを諦めた。

 比企の執刀と処置によって遼生の体液の全置換が行われ、体内血液残量は0となった。

 彼の母親、青華が“長生きをしてほしくて”遼生と名付けたと言うだけのことはあって、生き運だけはあるようだ。

 彼はつくづくそう思う。

 これまでに何度、もうだめだ、今度こそ死んだと思ったか知れない。

 ただ、今度ばかりはその中でもとりわけ駄目だと思っていただけに、生還したことが信じられない。


 そんな経験があるからか、マシンとして再起動の手順を踏むのには慣れている。

 何が起こったのか、あらかたのところは記憶している。

 荻号と共闘中何者かに襲われ八つ裂きにされそこで遼生の時間は一度止まった。

 彼は周囲に意識を巡らせ、アトモスフィアの乖離電位から比企の残した思念のプロファイルを行う。

 体は動かないが精神活動が自由になる限り、全力で修復を試みる。


“C-KIT、GATA2、RUNX1、TEL、CDC25B、Release”


 彼は造血幹細胞遺伝子に直接アクセスし、遺伝子発現スイッチをオンにする。

 自然治癒は始まっているのだろうが、更にそれを加速させるためだ。

 彼の快復に必要な遺伝子群の応答と奔流を全身で確認する。

 再生のための拍動が始まり、力強く脈打つ。

 生きているという実感を、これでもかと噛み締める。


“Ab-ABNT On”


 彼はさらにAnti-ABNT Antibody(3A)もOnにすることを忘れなかった。

 この遺伝子は彼の遺伝子群を上方制御しており3Aさえ発現させておけば各遺伝子群にカスケード式に影響するので、遼生の回復力は劇的に高まり、ブースターの役割を果たす。

 しかし遼生の呼びかけにAAAが応答しない。いつもの手ごたえがないのだ。


“Ab-ABNT On”


 何度繰り返して試みても抗-絶対不及者抗体が遼生の制御にこたえない。

 神経が切れたのか? そうも考えたが、他の遺伝子の制御は明瞭に受け付ける。

 それもそのはず、恒が寧々を介して渡した抗-絶対不及者抗体阻害剤(3Ai)によって、遼生の絶対不及者抗体の遺伝子発現はクリティカルに、かつ不可逆的に破壊されているのだから。


 遼生はICUのベッドに伸びたまま心を落ち着けて、先ほど手をつけかけて比企の残した乖離電位の残留レコードを辿る。

 神の残す乖離電位は人のそれと比べて脆弱だが、遼生はそれにもめげず注意深く情報を収集しはじめた。

 比企が遼生に何をしたのかを今、この場から知る唯一の方法だ。


 この方法は過去を洗い出すのに有効だ。

 手術中、比企は寧々から何かを錠剤のようなものを受け取り、錠剤を代替血液に溶かして体内に投与したようだ。

 それが直接の引き金となったような気がする。

 投与された錠剤のおかげで3Aが応答しない。

 あの錠剤は何だ? 寧々は恒から受け取ったと言って比企に手渡した。


“恒? まさか”


 遼生が恒に初めてMRIをかけたとき、恒は携帯の電池パックの裏に八雲 青華から受け取った3Aiを持っていると分かっていた。

 なけなしの一錠を遼生のために使ってしまったのだ。

 朦朧とする頭でかろうじて理解できたのは……。


“そうなのか……僕はもう、抗-絶対不及者抗体ですらないのか……”


 遼生は軽率な行動をとってしまった自身を、もう一度殺したくなるほど悔いた。

 荻号とファティナの制止をきかず、しゃしゃり出ていって殺されたのは自業自得というほかにない。

 その後、恒が重力異常の起こっている生物階から苦心して遼生を神階にまで送り届けたであろうことは、比企の思念より読み取れる。

 何の価値があってこの世に舞い戻ってきたのだろう……抗体もないというのに。


 こんな自分に、何か役に立てることが一つでもあるのだろうか。

 遼生は罪悪感に押しつぶされ、些細なことでもと足掻きながら、彼の存在意義を捜している。彼のすぐ近くにはモニターからと思しき電磁波を感じて、手を伸ばせば届く距離に端末がありそうだ。

 彼は四苦八苦して数分後、右目の視神経を正常化することに成功した。

 片目でも見えれば充分だ。


 いう事をきかない右腕を無理やりもたげて手を伸ばし、モニターに備え付けられていた端末のキーボードに触れ、ベッドに横たわったままおぼつかない動きでキーボードを叩く。

 モニタの表示が切り替えられGL-Network+に繋がった。

 アクセスしたGL-Network+のトップページは警告で真っ赤だ。

 リジー・ノーチェスや比企らによって非常事態宣言と警報が次々にアップロードされている。

 彼は体中が軋むのを抑えつけながら情報をまさぐる。


 起き上がろうと苦戦していたところで、それほど遠くない場所にいたICUつきの医師と看護師らしい比企の使徒が走ってきて、男女二人がかりで彼を押さえつけた。

 神階でも彼ほど、医者泣かせの患者はいないだろう。


「意識が戻られたのですか! なんという回復力ですか!」


 彼らは早くも遼生の意識が戻ってしまったことに、戸惑い、呆れてすらいる様子だ。

 それもそのはず、彼の体が受けたダメージは一般的な神々の回復力からすると数十日間意識が戻らなくても不思議ではない、という惨状なのだ。

 彼らの経験も、こと遼生を診るには役に立たない。


「お願いですから安静にしてください。御身はいまだ危篤なのです」

「い……今の日時は? 生物階の時間で」


 擦れた声で、遼生は喉を絞りながら彼らに尋ねた。

 気管の再生がまだ追いついていないのだ。


「今日は生物階での協定世界時(UTC)でいうと2010年12月22日、午前9時34分です。今はただ安静にしてください、あれこれお悩みになるのは後ほどにして……眠剤が必要ですか?」


 ということは、日本時間(JST)だと18時半ぐらいか……。

 遼生が死亡していた時間は案外短かったようだ。

 医師が注射の用意をしはじめたので、彼は早々に断った。

 意識が落ちてしまっては、精神活動すらままならない。


「いえ、結構です。ではおとなしくしていますから、そこに開いているGL-Networkのヘッドラインを全部音読してください」


 彼はニュースを読み上げるよう要求した。

 愛想のよい若い看護師がひとり傍に付き添って、GL-Networkのウェブサイトを読み聞かせてくれる。

 遼生は彼女の音読を聞きながら、別の脳領域では広域MRIで大規模透視を行っている。

 公式に発表された情報と、リアルタイムに起こっている情報を重ね合わせ情報を統合する。

 レイア・メーテールと荻号を失い、生物階が未曾有の危機にあるということ。


 ほんの数時間の間に、事態は思わぬ展開を見せていた。

 MRIでスキャンした恒の引き裂かれそうな痛みは、遼生にも伝わっている。

 そんな状況でもなお彼は前に進もうとする。

 大切なものをいくつとなく喪失しながら、彼は歩みを止めない。

 抗体である自分だけは、絶対に挫かれてはならないという思いだけが彼を突き動かし、気力だけで立ち上がらせている。


“恒、きみの守りたかったあの子に、僕も会ってみたかったよ”


 ごめんね、僕が助かって。

 きみはレイアを失ってしまったのに。


 遼生はふと、ICUを見渡すことのできるガラス窓の向こう側で、誰かがこちらを見ている気配を感じ取った。

 比企の使徒ではない。

 面会謝絶なので暫く誰にも会えないが、誰が面会に来たのかは分かっていた。

 彼が最も身近に感じるその気配は……彼の実の母親、八雲 青華だ。


“そこにいるんだね。僕を連れ戻しにきたのかな?”


 意思伝播法も用いず声も青華には届いていないのに、遼生はガラスの向こうの母親に向かってただ独り言のように心の中で呼びかけた。

 視界が不自由なので顔も見ることができないが、確かに分かる。


 彼女は遼生の生還を疎ましく思っているのだろうか。

 恒が青華から受け取っていた、抗-絶対不及者抗体阻害剤(3Ai)のなけなしの一錠を遼生のために使うことを、青華が最後まで反対していたことを知っている。

 彼女のしたことは、使徒として当然の行動だ。

 彼は青華に対して、もはや失望すらしない。


“でも僕はあなたのもとに戻らない。助かってしまったからには、恒のために命を使う。だから、出て行ってくれ”


 ただ忘れてほしいと思った。

 何もかも、一切合財を。

 遼生が彼女の息子であって、彼女が遼生に何をしたのかということを。

 ヴィブレ・スミスが崩じてなお、青華には十字架を背負って生きてほしいと思わない。

 彼女も遼生も悪夢から解放されて、新たな道を歩むべきだ。青華とはまったく無関係に短い命を勝手に生きて、血のつながった義弟のために悔いなく死にたい、それが今の遼生のささやかな願いだった。

 たった今、この瞬間を生き抜くためだけの。


 ガラスを一枚隔てて向こうに佇む青華は何を思うのかじっと、その場から立ち去ろうとしない。


“そうそう……恒のお母さんに会ったんだ”


 遼生は意識的に彼女へのMRIの看破を避けながら、また心の中でひとりごちた。

 だがそれは青華へのあてつけでもなく、恨みがましい気持ちでそう云いたかったわけではない。

 彼の心はむしろ、あらゆる執着から解放されていた。

 そのままの意味で生まれ変わったように。

 病室の機材のたてる聞きなれた規則的な音が、迷いをかき消してゆく。

 流水に身を任せているような、穏やかな気持ちになった。


“僕が死んで生まれ変わったら。今度こそは人間になって……あのひとのような母親のもとにいきたいと思ってるんだよ“


 そのためにも、人々の世を継続してゆくためにも三階を守らなければ。彼は悠長に来世を夢見ている場合ではなかった。

 彼はあることを思い出して、恒に弁解をする。


“そういえば大事なことを、きみに言うのを忘れていたな”


 遺伝子発現を生体神具にも匹敵するほど高度に使いこなす遼生は特に神具など扱う予定もなかったので彼自身も忘れていたことだが、ヴィブレ・スミスの創り出した抗-絶対不及者抗体のプロトタイプ、No.18のコードネームを持つ彼は、特にフィジカル面において殆ど、メンタルの強さに特化した恒(No.25)より優れている。


 何が同じかというと、遼生もまた全神具適合性を持っているということ。


“きみが無茶をして頑張らなくても、僕がやるよ。僕にできることは全て僕が引き受ける”


 そして現在、恒が挑もうとしている問題。

 暗黒加速器HEIDPAを利用して4-D マッシヴ・ブラックホールもろともスティグマを異次元に送ろうとするも、HEIDPAの軌道がグラウンド・ゼロからずれていて当たらないということ。

 そのために最小範囲でHEIDPAの起動がグラウンド・ゼロを射抜くことができないのなら、それは単純なことだ。

 HEIDPAを循環している粒子の軌道を変えればいい。


“そうだ、生物階もどこか安全な場所へ動かしておいたほうがいいな”

 この発想はレイアのものだが、遼生が受け継ぐことに決めた。

 それが彼女を失った恒への、せめてもの償いであるような気がしたから。

 遼生にできることは何でもしようと思った。

 そのかわり、抗-絶対不及者抗体の発現は恒に任せるしかない。


 しかし、レイア・メーテールの消滅した状態から2011年6月24日のその日、恒は抗体をどのように使うつもりなのだろう。

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