第2節 第33話 What I knew from the beginning
「緊急オペの準備が整いました。循環器系のオペレータ2名を手配しています、手洗い(Surgical Scrub)終わりました」
寧々が緊張した面持ちで比企のもとに、スタッフを配置し手術室をあけたと報告にやってきた。
執務室に入れる使徒は原則第一使徒の寧々だけなので、彼女は廊下を走りっぱなしだ。
息を切らせても愚痴も言わない。
外科医でもある比企は手術室を二室だけ所有しているが、スタッフは選りすぐりの精鋭8名を専属として各分野から引き抜いている。
普段の手術室は病気を患った一般使徒たちのために利用されているが、この手術室を利用しての神の手術は一例として前例がなかった。
そのうえ比企は、自身が負った傷は自給自足的に自身で治療するために、あまり他神に対しての手術経験がない。
そんな不安材料はあるが粛々と執刀にあたるほかなかった。
かといって蘇生の為に比企が割く時間は、わずか30分……。
恒は比企の尽力と奇跡を祈るほかなかったが、わずかな時間を利用して風岳村に戻る前に、ここに八雲を呼んでおくべきだと思った。八雲といっても、青華のほうだ。
「八雲 青華さんをここに呼んでもよろしいでしょうか」
比企は不審そうな顔をしている。
部外者の乱入は好ましいことではない。
彼が敢えてこのタイミングで彼女を呼びたい理由もわからなかった。
「彼女は抗-絶対不及者抗体に精通しています、重大な情報をご存知かもかもしれません」
比企はやむなしといった表情で頷いて許可すると踵を返し、幾重にも着込んだ聖衣の帯を解きながら手術室に向かった。
恒は比企が去ると同時に、執務室から携帯で八雲 青華に電話をかける。
八雲 遼生が比企のもとへ神籍登録したという情報はGL-ネットワークにて発表されていたので彼の居場所は八雲 青華の耳にも入っていただろうが、今生の別れだとしたら、たとえ蘇生の見込みがなかったとしても彼女にも知らせなければと思った。
八雲の部屋に直接電話をかけたが彼女は出ず、留守番電話に手短に録音した。
そして一刻の猶予もなく、風岳村に戻る必要がある。
夜刈とレディラムが比企の勅令にしたがって駆けつけているだろうか。
転移も使えないのに。
彼らはレイアの居場所を知らないし、実力的に遥かに荻号に劣る彼らに特務省を止められると期待するのも無理な話だ。
下手をすれば生物階ごと巻き添えをくらって消滅だってしてしまいかねない。
神階から戻るときには神階のゲートが利用できたが、今度はゲートに出てもそこは物理法則の壊れた世界。
先ほどと同じことを繰り返して風岳村に辿りつかなければならなくなる。
超空間転移で一気に風岳村に出るのが正しい道順だ。
恒は会議室に戻った梶らの目を避け逃げるように執務室を出て、廊下で超空間転移をかけようと集中力を高めた。
どんなに短くとも、恒が超空間転移をかけるには3分を要するのだ。
集中しようと瞑目したとき、すぐ傍で集中を妨げる気配がした。
顔を上げると、廊下の少し離れた距離にある扉から男女がこちらを見ている。
彼らは恒を見かけるなり、まるで知り合いだったかのような馴れ馴れしさで手を振りながら近づいてきた。
だが、表では人懐こい笑顔でも、彼らが緊張している様子も手に取るようにわかる。
緊張するなら、話しかけなければいいのに。
「……? 何ですか」
恒は浮かない顔で彼らを見つめる。
とんだ邪魔が入ったものだ、恒がこのまま逃げるように消えてしまえばいいのだが、超空間転移をかけようと思えばこの二人を追い払わなくては転移に集中できないのだ。
適当にあしらわなければ。
「やっほー! これ私たちの名刺ね。こっちが築地で、私が長瀬」
二人は示し合わせていたかのように名刺を差し出したのでいらないともいえず、受け取った。
名刺を受け取ると、文科省官僚に大坂大学の教員(助教)というちぐはぐコンビだ。
比企は時折生物階の要人とも頻繁に接見していたので、比企の客人としては特に珍しい顔ぶれではない。
要人というには少し歳が若いとは思ったものの……比企に待たされていて、待ちくたびれて顔を出したのだろう。
彼は名刺をポケットにおさめたが、だからといって話を聞く気分にもなれず、どちらかというと構わないでほしいと思ったぐらいだ。
「藤堂です。何か御用ですか、比企様に呼ばれた科学者の方なら執務室奥の会議室に入って下さい。皆さん既にいらしています」
一応名乗ってはおくが、今は公務員と仲良く雑談をする場合でもなければ、彼らに微塵も興味がない。
「そうじゃなくてー、君と人類の未来について考えたりしたいんだけど」
「またにしてください」
恒は取りあわず、同空間転移で逃げようとした。
超空間転移に集中できないなら、一旦場所を変えて転移を試みればいい話だ。
そうはさせじと長瀬が恒の進路に立ちふさがり、ガシっと遠慮もなく腕を握ってきた。
フィジカルギャップを解いていたが、神階在籍者に素手で勝手に触れてくるなんて命知らずもいいところだ。
恒は肝を冷やす。
「瞬間移動はやめてよ?」
恒は挑発的なまなざしで彼女の手を見つめると、静かな攻防があって、長瀬の手は彼女の意志に反して恒の腕から引き剥がされてゆく。
だからといって長瀬は驚いて手をひっこめたりもしない。
「うわ……なんや」
築地は目の前で神通力を使われてどん引きだ。
恒は逃げるつもりだ! 逃げられてはたまらないと、長瀬は反射的に警備の使徒たちに連行されたときにかけられた手錠を少年の手にかけてしまった。
少年がまるでこの世の終わりかのような絶望的な顔をしたので、何故そんな怯えた顔をするのかと疑問に思いながら、築地は長瀬にかわってフォローを入れる。
なにも一生取れないなどとは思っていないだろうに。
恒は何故彼女がそんな物騒なものを持っているのか飲み込めず、余計なことに考えを巡らせている間に不意をつかれた形だ。
築地も一瞬のことで、何が起こったのかわからない。
「あー……やってもーた! だ、大丈夫やて、比企さんが来たら外してくれるて」
「わかってるよ……ごめんねいきなり。凄いことができるんだね、びっくりしてつい」
同情しながらも、長瀬は毅然としている。
子供相手だからというので、多少は気が大きくなっているのだろう。
「でも逃げずに少しぐらい話、聞いてくれてもいいでしょ」
少年は長瀬の言葉に答えない。
不貞腐れているのではなく、答えられないのだ。
へたりこんだまま、眩しそうに目を細める。
焦点が定まらなくなっていた。
先ほどの元気はどこへやら、長瀬が彼の目の前でひらひらと手を振るが、遂に彼はぐったりと目を閉ざしてしまった。
「ちょ、ま、待て。これ……大丈夫か?」
「え? え、何で? これのせい? 私たち何もなかったのに」
長瀬は責任を感じはじめているが、どうしてやることもできない。
赤絨毯の敷かれた廊下には人目もなく、向こう数百メートル、端の端まで誰もいなかった。
長瀬は少年を苛めるつもりもなければ、困らせるつもりすらなかった。
ただ転移をかけようとしていた少年を引き留めるにはこの方法しかなかっただけで……。
「アホ! この手錠、人間用ちゃうやん」
築地にそう言われて長瀬は、神階には神か使徒しかいないという事実を今更のように思い出す。
この手錠はもともと、人間拘束用ではないのだ。
神か使徒の拘束に用いられるものだから当然、彼らの怪力や神通力を奪い弱体化させるように設計してあるのだろう。
そこで長瀬ははじめて原因が分かって焦りはじめた。
「ご、ごめん。そっか、きみ神様なんだもんね。苦しいよね。もしかして死んじゃう?」
こんな忙しいときに限って、何が楽しくて天奥階で面識もない人間に捕まらなければならないんだ。
恒はふらつく頭でそう思えど、身体は意志に反して力が入らず、その場に崩れ落ちる。
これはいけない、懲戒と拘束用の手錠は鎮静効果と強制虚脱効果があるので、アトモスフィアが吸収され一切の力が使えなくなり、具体的に言えば頻脈、手足の痺れ、散瞳を呈する。
瞳孔が開ききってしまったために周囲の照明が眩しく感じられ、辺りがよく見えない。
残念ながら瞬間移動も、手錠を引きちぎること、それどころかマインドブレイク、マインドコントロール、マインドイレースすらままならないのだ。
ただの人間の子供、虚脱状態ではそれ以下の力しか出ない。
外してくれと言おうにも、彼らが鍵を持っていないのは分かりきっている。
長瀬が涙目になって恒を揺さぶるが、恒も彼らに害意はなかったと知っているので、責めることもできない。
恒が手錠をかけられたのはヴィブレ=スミスに続いて二度目だが、どうやらアトモスフィアの絶対量に応じて枷の強度が決まるようで、強い神には強く、弱い神には弱くという代物のようだ。
恒はここ2年でアトモスフィアの放散量が飛躍的に増加したものだから、以前とは段違いの苦痛を感じてまいってしまう。
ただ手錠をかけられただけで、身動きがとれなくなって風岳村に向かうどころの話ではなくなるとは、情けないにもほどがある。
「ど、どうするこの子、まずいよねえ」
「響さんに言って助けてもらわなあかんやろ!」
「どっちが呼びに行く? 早く行かないと!」
長瀬の掛け声は大きいが、明らかに走りたくなさそうな様子だ。
何で俺が、だいたいお前が……と言いかけて、長瀬がヒールのあるブーツを履いてきていたことに気づく。
彼女が往復すると築地の倍は時間がかかる。
神階で重用される少年にここで傷害を負わせて二人ともお縄、なんてことになるより随分ましだと考えると……。
「しゃーないな、走って行ってきたるわ。その間に少年、死んだりせーへんやろな、様子みとき」
しかし築地が走って寧々を呼びにゆく必要はなかった。
「藤堂さま!」
ひとりの女が叫びながら、廊下の向こうから全速力で駆け寄ってきたからだ。
彼女は紺のスーツのようないでたちで、青衣を纏っていないので寧々ではないと分かる。
廊下に監視カメラのようなものが設置されていて、藤堂の護衛の使徒でも飛んできたのだろうが、これはまずいことになったな、と築地と長瀬は思うが、一体どう説明して弁解してよいものかわからない。
どう見ても二人で寄ってたかって藤堂に嫌がらせをしているか、何かよからぬ企てを試みているようにしか見えないからだ。
例えばいまにも彼をどこかに拉致しようとしている誘拐犯の二人組のようにしか見えなかった。
しかも恒の手には手錠だ。疑わしいにもほどがある。
「何をしているのですか!」
「あ。こ、これはえーと……」
築地と長瀬に、八雲からの鋭い疑いの目が向けられた。
恒が先ほど残しておいた留守電を聞いたのか、寧々の許可を得て天奥階専用ゲートで駆けつけた八雲 青華がやってきたのだ。
天奥階、そして極陽の執務室はもともとヴィブレ=スミスの第2使徒であった八雲のいた場所だ。
勝手知ったるなんとやらで、中枢部に辿り着くのも驚くほど早い。
「い、いえ……彼らは関係ありません。俺の不注意です」
恒は朦朧としながらも、八雲が何か彼らに対して懲罰的手段を講じる前に素性も知れない見ず知らずの二人を庇った。
八雲に睨まれたら、二人の身柄はどうなるかわかったものではない。
実の息子に生体実験を加え幽閉すらした彼女のことだ、不審者には断固とした処罰を下すであろうことは容易に想像がつく。
八雲は手錠をあらためて、恒が虚脱状態となっていることを確認し、築地と長瀬がやたら挙動不審なのでなおも疑わしそうな顔をした。
しかし恒にたしなめられたのでそれ以上は追及をしない。
彼女は持ってきた黒いバッグの道具箱の中からペンチを取り出し、恒の手首にかけられていた手錠を捻じ切る。
八雲はそのほかにも多くの道具類を持参していて、バッグの中からあふれんばかりに見え隠れしている。
恒はしばらくして、ようやく意識が清明になった。
もう金輪際、こういうトラブルは御免被りたい。
築地と長瀬は体裁が悪そうな顔をして、一歩ずつ後ろに下がっていった。
「ご無事でございますか、藤堂さま。遼生のことでご連絡をありがとうございました、最期には間に合いませんでしたが」
八雲はどこか遼生の死に対する心構えができているように見受けられる。
彼女は遼生に生き返ってほしいとも、そのまま死んでほしいとも言えない複雑な立場にあるが、彼女は母親の表情を捨て、恒には従順な使徒の一面をのみ見せている。
恒は尋ねられなかった、彼が亡くなって少しでも悲しいと思うのか、などとは――。
恒は彼女に、遼生の身に起きたことを包み隠さず、知りうる限りありのままに話した。
遼生は負傷をして致命傷を受けたが、直後に荻号が絶対不及者の体液を処置して彼の傷口を癒し、そこまではよかったのだが大過剰に体内に取り込まれた絶対不及者抗原に応じるかのように彼の絶対不及者抗体が一気に産生され、一種のアレルギー症状のようになり、それがショック症状を起こし絶命したのだろうとの恒の独自の見解を伝えた。
ただし死因は不明だ。
ただ死んだだけではなく……。
絶対不及者の体液は彼の全身に及び、体外に排出する方法は大量希釈が常套手段であるので、比企はGMMという代替血液を輸血することによって抗体を希釈するつもりだとも話した。
だが、八雲は寂しそうに首を振る。
「事情はわかりました……体液を全置換しても難しいでしょう。今、組織修復がなされたとおっしゃいましたか……。組織再生が細胞レベルで行われたとすれば、組織置換は困難です」
「ちょ、よーわからへんけど……ええすか」
少し離れた場所から会話を盗み聞きしていた築地が割り込んできた。
口をはさむ場面ではないとわかっていても、思わず手をあげていたのだ。
恒は、話をまぜかえさないでほしかったが、八雲は訝しそうな顔をしている。
「ツッチー……やめようよ」
長瀬は八雲と恒が、築地にはまったく興味なさそうな顔をしているので、空気を読めと築地のジャケットの裾を引っ張る。
素人が口を出したところで、何か彼らの助けになるとも思えない。
それどころか、一柱の神の生死に関わる話だけに、会話に加わってくる事自体が不謹慎だと逆上されたっておかしくはない状況だ。
「誰の事かわからへんけど……今の話やと、死に至るショック反応みたいなもんやろ? アナフィラキシーとかそんな感じの。体液全置換でけへんのやったら、逆に抗原じゃなくて抗体のinhibitor(阻害剤)かantagonist(拮抗剤)みたいなものがあればええんちゃいますのん? 仮になくてもSighanl CascadeのUpsteam(上流)かDownstrem(下流)押さえるような、そういう薬剤、ありまへんの?」
大坂大学の現役金属錯体化学者、築地 正孝の一言は、恒と八雲にある薬剤の存在を思い起こさせた。
恒は呆然と築地の顔を見た。
そうだ、彼は絶対不及者の体液がどのようなものかすら知らないのだ。
ただ抗体と抗原というキーワードを聞いて思いついたのだろうが、情報を知らないことが逆によかった、誰も期待していなかった彼の閃きによって思わぬ突破口が開かれた。
遼生の傷口、というより接合部を見た限り傷はふさがり、一時的にだが回復をみせていたように思える。
死体でありながら、組織の回復がはじまっていた。
一見何でもないように見えて、これはそれがほんの一瞬であっても、ABNTの体液は遼生を癒そうとしていたという証拠だ。
受け入れられなかったのは遼生のほうだ。
ABNTの体液そのものは大多数の一般人、神々にとって毒ではないのかもしれない。
絶対不及者は不死の存在であり、その不滅の体内を循環してきた永遠の液体が、それに対する抗体を持つ遼生にだけは毒となった。
もし、だ……遼生が、抗体を持っていなければ……絶対不及者の体液は彼にどんな作用をもたらしたのだろうか、と――。
やはり同じように、遼生を殺したのだろうか。
そんな事情も知らない築地が提起したのは逆転の発想だった。
「あーそっか、そうだよツッチー! 薬の合成なら私も手伝いますよー。昔とった杵柄ですし」
長瀬の血が騒ぐ。
まだそれほどのブランクは経っていない。
彼女は手際のよさもさることながら、その操作は正確でステップごとの化合物の収量を落とさない。
合成屋の松林助教も加われば鬼に金棒だが……。
「いえ。その必要はありません」
恒は長瀬の申し出を却下して、意を決したようにきっぱりと断言した。
八雲は彼が何を意図しているか分かったので、それは駄目だと彼を諌めようとする。
「い、いけません藤堂さま! あれは一錠しかありません。膨大な検体の犠牲の上に抽出、精製、結晶化した唯一無二の一錠です、必ずあなたがお使いになるのです! あなたのものです! それに、それを死体に投与したところで助かりはしません!」
「俺には必要ありませんので、無駄にするぐらいなら使いましょう」
恒は八雲から受け取って携帯の電池パックの裏にまだ貼り付けられていた、一錠の白い錠剤をつまみ上げた。
AAA阻害剤……抗絶対不及者抗体産生の責任遺伝子を不可逆的に破壊し、その重い任を解く秘薬。
抗体として創り出された恒が“抗体ではない普通の神”となるためのおよそ唯一の方法であり、運命を解放してくれるもの。
それを飲むと、不可逆的に絶対不及者抗体が失われると聞かされて――。
それは八雲 青華から恒に与えられたひとかけらの良心だった。
錠剤が彼の体内で溶けて彼の抗体を完全に破壊し尽くし、運がよければ彼の抗体によってその働きを成していない創世者の液体が宿主の危機に本能を呼び覚まされるといい。
助かっても助からなくても……彼は抗絶対不及者抗体ではなくなってしまうけど。
その方がいいだろう?
遼生を悪意の枷から解放すべきだと、恒はそうしたいと思った。
「これを手術室の比企様に届けてください。お渡しすればわかります」
小さな白い錠剤は恒の手から、連絡のためにちょうど廊下を通りかかった寧々に手渡された。
寧々は何事かもわからず恭しく受け取ってその足で手術室に駆け込んでいった。
八雲は無言で、ただうなだれた。
やせこけたその肩に、恒はやさしく手を置いた。
「結果を見届けましょう」
電池パックの蓋をあけたままの恒の携帯電話に振動がして着信が入った。
件名を見ると速報の自動配信メールだ。前回の生物階での大惨事とINVISIBLE収束を教訓に、神階、生物階に起こった異変を瞬時に察知し神階の全サーバーと端末に警鐘を鳴らす危機管理システムが外務局によって立ち上げられていた。
恒だけでなく八雲にも同時に着信して、彼女もおもむろに携帯電話を開くと、赤い背景に黒い文字色という警戒色で重要な内容を伝えている。
恒と八雲は競い合うようにしてメールの本文を開く。その内容は……
【生物階 座標DD4886.881.315において重力シュバルツシルト半径(rg) = 69000kmを成す4-D super massive black hallを観測。質量2.88x10^38 kg以上と概算、降着円盤を形成。由来は不明。第一種非常事態行動を執ってください】
生物階にほど近い場所へ太陽質量の何千万倍にもなる謎の超大質量が突然、出現したというのだ。
恒と八雲の間に一気に緊張が高まる。
恒はこのブラックホールを知らない、心当たりもない。
あまりに不自然な、しかも怪物じみた質量は何だ!?
そして4次元超級体とは……!? 4次元超級体であるからこそ、通常質量に比例するシュバルツシルト半径が驚異的に小さいのだろうが……この半径に捕えられたら生物階は終わりだ。
ほぼ確実に、もう捉えられているといってもいい。
特異点に落ち込めば、強力な潮汐力によって素粒子レベルにまで破壊され、永遠にブラックホールの内部から戻ってくることができなくなる。
「!? なんで……」
どうしてこうなった!? 何が起こっている!?
頭が真っ白になる。
止められるものか、4次元超大質量ブラックホールを!
しかしそれができなければ生物階をまるごと転移させるか、生物階をブラックホールの脱出速度以上で移動させなければならないが、超大質量ブラックホールの重力圏からの脱出速度は光速度を軽く上回る。
誰にそんなことができる?
逃げるべきだと言ったレイアの言葉が、恒の背後から迫るように緩急をつけてフィードバックする。
逃げなければ生物階は終わりだ。
否応なく、それもたったいま生物階を移動させる必要があるのだと、一刻の猶予もなく、唐突に終焉が差し迫った。
レイア、遼生、そして生物階の絶体絶命の連鎖反応が止まらない。
これが悪夢なら早く醒めてほしいが、そういうわけでもなさそうだ。
質量半径は小さいものの、小さく凝縮された巨大な質量は銀河系を優に飲み込み、ブラックホールはさらに質量を増して生物階は巨大質量の降着円盤上に飲み込まれてしまうだろう。
そして特異点に捉えられて消え、有史以来のありとあらゆる情報は失われる。
神階に避難している人々は助かるが、生物階には依然として9億人を超える人々が取り残されていた。
神階と生物階を繋ぐゲートは一度ずつ閉ざさなければ荷物を転送しないので、小さな枡で途方もない量の穀物をすくい上げているようなものだ。
神階の門の入り口は狭く、全員が一度に避難をすることはできない。
志帆梨に、朱音、皐月、村の人々……彼らの避難は間に合っただろうか?
恒は目を見開いて背後を振り向き執務室の扉を開け、会議室に駆け込んでいった。
「何が起こったの!?」
長瀬が緊迫した気配を察して恒の背後から叫んだ。
リジー=ノーチェスは臨時警報に対応し、会議室のモニターにアクセスし、Wanderer Silverlyrarの弦と端末を繋ぎ緊迫した様子で情報を収集していた。
部屋の中は、細い蜘蛛の糸を投網のようにぶちまけたような状態になっている。
恒はアスレチック状に折り重なった糸束を一本でも踏まないように大股でまたぎながら細心の注意を払って入室する。
梶にナターシャも彼女を取り巻き、研究員たちまでも固唾をのんで見守っていた。
「このブラックホールはすぐに……生物階、のみならず銀河系を飲み込む」
リジー=ノーチェスが呻くように推定事実を述べた。
レイアが恒に告げたように、ユージーンが生物階を避難させようと人々の、そして神々の背を強く押しているような気がする――。
否応なしに地球をどかそうとする意思が見て取れる。
確かにINVISIBLEが収束する折には大質量ブラックホールの比ではないほど危険だということはよくわかる。
だが、頼むからせかさずに待ってほしい。
背中を押したその先は崖なのだ、どうか橋をかけるまでは。
崩御した遼生、忽然とアトモスフィアの断たれた荻号、そして3.5次元の亜空間に閉じ込められたレイア。
生物階を転移に巻き込むことができる彼ら三者なしでどうやって逃げろというのか。
「これはフラーレン C60、もしくは相転星の発動痕のようです……。この位置に、巨大質量となる天体はありませんでした。コズミックストリング(宇宙ひも)の使用痕跡もあります、こんなことができるのは荻号様だけですが、これを止めることができなければ生物階は終わりといってよいでしょう……」
……ナターシャが震える指先でモニターを辿り、やらかしてくれたなといわんばかりに額を押さえた。
フラーレン C60と相転星は莫大な熱量、重力を操り、空間をゆがめ、果てには高次元にまで干渉する。
だからこそ、その四次元ブラックホールが意図的に創られたものか自然にできたものか、ナターシャには容易に判断がつく。そして現に、荻号が創造したものだ。
「……荻号様の術痕があるということですか。荻号様と特務省がそこで戦闘を行ったと!」
神々ががっくりと肩を落としたのは、この大質量が荻号のせいだとわかったからだ。
INVISIBLEのものではなくてよかったと安堵すべきなのだろうが、荻号の場合はより厄介だといえた。
梶は嘆かわしそうにため息をつく。
「こんな生物階の目と鼻の先で、どうしておっぱじめたかね!」
計画性を論じる段階ではない。始まったものは仕方がない。
あとはどうやって対処するかということに終始する。
恒も竪琴型神具Wanderer Silverlyrarの網をくぐりぬけてようやくのことで会議室の机にたどり着き、横から割り込んできてモニターの前に顔を出し、全ての情報に手早く目を通す。
『……In addition, I have convinced that this one is not derived from SCM-STAR, because it was out of order……. He also did not have it. I think this is due to Fullrene C60.』
(あの……それから、それは相転星で作ったものではないと思います。相転星は故障して彼は所持していませんでしたので、フラーレンだと思います)
恒が思い出したように、研究者たちに配慮して新しい情報を付け加えた。
「なんだと……相転星が壊れた!?」
その相転星を用いて、これからHEIDPAを起動させようとしていたのに、これではすべての計画が台無しだ。
研究者たちもようやく事情が呑み込めたらしく、予定外の事態にどう対処してよいものかわからずおろおろと顔を見合わせていた。
「荻号さんて……? あの荻号さんやんな? なんかあかんことしたんやろか」
会議室の外では、築地が長瀬にこそこそと事情を聞いている。
恒のおかげで、長瀬はいろいろと状況が呑み込めてきた。
「荻号さんて……前も言ったけど相当やばいらしいんだよね……なんでもさー……」
長瀬の話だとブラックホールとか簡単に造ったり、星ひとつ移動させたり、太陽エネルギーの何千万倍ものエネルギーを簡単に造ったりできるという噂だ。
築地はあまりの荒唐無稽な話に開いた口がふさがらない。
それを大真面目に話す長瀬にもだ。
「さすがに、できることとできへんことがあるやろー……」
噂に尾ひれ葉ひれがついてそうなったのだとしか思えない。
どこのB級SF映画の中での話だ。長瀬も茶色の眉毛をハの字にして困惑した様子だ。
しかし現に、恒は荻号の神具がブラックホールを造ったと説明している。
長瀬と同じく、大真面目に。
長瀬の話を否定するのは簡単だが、恒の話は簡単に否定できなかった。
大の大人の話よりも子供の話を信用するとは情けないことだ。
「恒くんの話だと、うっかり本気だしちゃったみたい。地球からそれほど離れてない場所で」
普段本気を出さない人物が本気を出すとろくなことにならない。
これは自明の理であると長瀬は思っている。
築地は地球から遠い宇宙でブラックホールができたという話だと思っていたので、急に慌てはじめた。
何故かつっこみは恒にではなく長瀬に入れる。
「長瀬、おま! 大ピンチやん!」
「さらに悪い知らせだ……このブラックホールは、荻号の制御下にない」
「!?」
リジーの言葉は、神々を震撼させ、落胆させるに充分だった。
研究者たちはそれが何を意味するのか分からず、まだ不安そうにリジーの顔を見ている。
荻号のアトモスフィアは消失し、どのエリアを照会しても反応がないとリジーは断言した。
つまりそれは、荻号正鵠がもはやこの世にないということを示唆していた。
彼は既に亡きものとなっているという線が濃厚だ。
遼生に続き、荻号までもが特務省の前に斃れたということなのか!
「リジーさま、羂索網のレコードはどうなっていますか」
ナターシャがリジーに神具での大規模検索を促す。
リジーの神具、不空羂索網は監視カメラのように生物階での定点観測を行っており、生物階に重大な変化があればそれは逐一余さず記録されてハープ状の情報集積回路に繋がっている。
彼女は9本の主弦を手繰り寄せて出力モニタに情報を映じる。
9つの主弦はそれぞれ64本に枝分かれした枝弦と呼ばれる細い弦を束ねており、彼女は三階のありとあらゆる場所、津々浦々にまで弦を張り巡らせ、膨大な情報量を処理していた。
言われなくてもナターシャが要請する前に、リジーは大規模検索をかけ、情報を取り寄せている。
「今記録を出している……やはりそうだ」
もし、荻号が永遠に帰還せず、レイアをすぐに現空間に呼び戻せず、比企が遼生の蘇生にも失敗したら――。
最悪の事態を想定するまでもなく、三者なしでの対応策を考えねばならなかった。そのとき恒に、神々に何ができるかをあらゆる方法で。
エンドポイントまでに生物階に残された時間は幾許とない。
波動関数は既に収束し、ウィグナーの友人はドアを開ける。恒が何をしても梶の言うよう、INVISIBLEの予定に狂いはない。
そう考えると何をするにもひどく不毛だった。
しかし……
「もし……あなたにその気があるのなら」
いつだって、一見そのようであっても……一歩も進めなくなるほどの八方塞がりであり続けたことは決してなかった。
恒が追い詰められて万事休すかと覚悟をしそうになったとき、どんなときでも、扉は開かれて未来は閉ざされていない。
あらゆる選択肢を潰され絶望という絶望に埋もれたとき、唯一の蜘蛛の糸が下りてきた。
今回もそうだろうか?
光は必ず漏れてくる、その瞬間を見逃すことさえなければ。
繋げてくれるのだろうか、“その先”を――?
ふと思い出した。特務省の動力炉に沈む智神の遺体……奇跡としか思えない偶然によって邂逅したかれの抜け殻。
智神であってもユージーンであっても、おそらく彼の肉体のひとつだ。
智神の抜け殻……枯れたとはいえ絶対不及者ほどのエネルギーがあれば、荻号でなくとも、レイアや遼生ほどの超神でなくとも、それを原動力に地球を転移させることができるのではないか。
特務省を動かすことのできるほどのエネルギーだ、そしてそれを制御するだけのノウハウも特務省にはある。
彼は荻号と遼生を殺し、数多の人々も神々も殺したが……とっくに決別していたと思っていたのに。
様々なしがらみを振り払って、彼の名を呼んだ。
「力を貸してください、ユージーンさん」
*
それはあっという間の出来事だった。
彼女がまばたきをしたほんの数秒の間に、気がつくと、彼女が閉じ込められていた殺風景な部屋の風景が消えていた。
代わりにそこに何があったかというと、何もない。
あたりは真暗闇だ……ここがどこなのかも、もはやわからない。
耳が痛くなるほどの無音と、一寸の先も見えぬ闇だけが彼女の心細さを掻き立てる。
レイアはフラーレンの結界が崩れたのかもしれないとは推測したが、ここが元の三次元世界のようには見えなかった。
もっと違う、遠い場所……基空間に迷い込んだわけでもない。
一つの証拠としては、寒くないのだ。
外気温は氷点下でなければならないのに。
フラーレンが荻号の事情によって破られたり壊れたら、レイアはどこに戻るのだろう。
少なくとも元の世界ではなかったようだ。
ここは……どこだ? 彼女は焦る気持ちをおさえながら、必死に考えを巡らせた。
宇宙空間であるならばそこにあるはずの星空が見えない。
見渡す限り、光もない。
もといた世界を振り返るように、彼女は目を閉ざしてみた……景色は何も変わらない。
目を開いても閉じても、そこにあるのは暗闇だけだ。
レイアは地球に転移をかけようと試みたが、転移もできなかった。
どこにどう力を入れて転移を行えばよいのかわからないのだ。
彼女と基空間とのつながりは断裂してしまって転移が成立しない。
彼女は不意に心細くなり目を開いて、彼女の手を見つめようとした。
驚くべきはここからだった、何も見えない。
いつも淡く纏っていたレイアのアトモスフィアもすっかり消失している。
彼女はネックレスのペンダントトップを引っ張り、須弥仙種を起動させて灯りをともそうとした。
それもかなわなかった。
何故なら、彼女は須弥仙種に触れることができなかったからだ……ここは基空間でも、宇宙空間でもないという事実がはっきりした。
それどころか、両手を組み合わせることもできない。頬に触れることすらも……ないのだ、手も、体も……触れられないのだ。
まるで夢の中にいるように、ふわふわと意識が漂っているかのように思えた。
彼女の五感は、突然消えた――。
誰かが言った。
時間は出来事の繰り返しである。
時間があるかどうかを調べるためには、何かを繰り返せばよいのだ。
レイアはおもむろに、ざわめく意識の中で数を数えはじめた。
“1, 2, 3, 4, ……21, 22, 23, 24……60 (1分)”
うん、数は数えられる。
きちんと60秒まで数えたことによって彼女の意識の中で1分が経過した。
ただしレイアの数えた1秒が現実に同じ1秒を刻んでいたかどうかは、レイアにもわからない。
肉体を失い五感を喪失した彼女ができることは、考え続けることだけだ。
そうでなければ、頼りなく漂う意識すらも消えてしまいそうだった。
たぶん、これは夢だな……彼女はそう信じることにした。
彼女は目を閉じて、しばし眠りにつこうと試みた。
眠ってしまえば全ての感覚を取り戻して元の世界に戻れるような、そんな気がしたからだ。
それからどれほど時間が経ったのか……眠ることもできなかった。
彼女の脳はいっこうに休もうとしない。
“わたしはやっぱり、幽霊だったのかな”
鏡に映らない顔と死なない身体、肉体までも失ってしまった。
悲しくはなかった。彼女は自身の為に悲しむことを知らなかったからだ。
ただ、静かに覚悟を決めた。
とうとうこの時がきたのか、そう思って。
くん……とどこかへ引っ張られる奇異な感触を感じる。
五感が消えたなかで、彼女が体感した唯一の感覚。
縋りつくように、意識を巡らせる。
引き寄せられる力は次第に強くなってきたようだ。
意識が引き伸ばされているように感じる。
どこに行くのだろう? 辺りには何もないので空間が把握できない。
どこからか発せられている引力は強くなる。
この感じ……レイアはブラックホールの重力半径の中にいるのかもしれないと思った。
すなわち、シュバルツシルト平面の内側の光すら抜け出せなくなる事象の地平面を超えて――今後はどうなる、特異点に落ち込んでゆくのか。
ブラックホールの内部では、空間は時間のように振る舞う。
すなわち、そこに捕われたものは強大な重力に捉われてその場から動くことができず、ただ特異点へ落ち込んでゆくことしかできない。
そして特異点にまで引き寄せられ、最後に観測者の時間は止まる。
“もしかして……これがINVISIBLEの収束? 今から?”
レイアが特異点に到着するのは、三階ではノーボディによって予言されたX-デイを迎える頃になるのだろうか。
X-デイになって唐突に終末が訪れるのではない。
恒に、荻号に、神々に何ができただろう?
何もできなかった、それは当然だとレイアは思った。
何故ならINVISIBLEはこの世界で起こる全ての事象を知り尽くしている、おそらくは荻号の行動すらも緻密に波動関数の振動のうちに組みこまれ、フラーレンの崩壊を発端として唐突に今、始まったのだ。
世界の終わりにして始まりが――。
ああ、そうか。
彼女はようやくINVISIBLEの意図に気付いた。
レイアが落ち込んでゆく場所……この途方もない重力の中心がグラウンド・ゼロになるのだ。
重力中心、おそらくはブラックホールの特異点がグラウンド・ゼロに! グラウンド・ゼロから逃れることはできないと、ノーボディはかつて予言したが、全てが繋がった。
こういうことだったのかと振り返る。
レイアの身体はなく、既に意識のみになっている点で、ここは三次元世界とは違う。
先ほどは荻号の結界中で3.5次元であったものの、肉体も五感もあった。
レイアが閉じ込められていた場所よりさらに上の次元に来てしまったのかもしれない。
“ここは、わたしがもといた世界とは繋がっていない……”
もし――この次元から脱出できないならいっそ、どんな些細な犠牲も出さないで、三階を守るために逃げ隠れする必要も恒に守ってもらう必要もなく、ひっそりとINVISIBLEの依代となりその時を穏やかに迎えられるのならば、それは彼女の本望なのではないか。
ふと、彼女は満ち足りた気分になった。
誰にも迷惑をかけたくない、レイアは自虐でも何でもなく、ひたすらにそう願っていたからだ。
唐突に始まったこれが唯一の、INVISIBLEが用意した、三階を無傷でやり過ごすための解決法なのかもしれなかった。
そろそろ結論づけてもよいだろう。
グラウンド・ゼロは単純に、三次元上に投影された座標だったのだ。
二次元平面上にz軸を書き足すことで、(x, y, 0)座標は無傷でやり過ごせるのと同じように、三次元上では同じ座標であっても、高次元世界では、全く異なる座標を示す。
それが真実だったなら、INVISIBLEが収束しても、生物階にはかすり傷ひとつつかない! つまり三階はまったくの無傷だ!!!
その救済策を完成させるためには、レイアひとりで特異点に入ってこいというメッセージのように見えた。
その先に行かなければならない。
特異点の先にレイアひとりで行けば……特異点を生きて通り抜けることができれば特異点の先はこの世界とも全く異なる次元である……。
レイアは高次元世界に放り出される。
しかしレイアひとりが旅立てば、この世界は無事だ。
レイアひとりが旅立てばよかったのだ……INVISIBLEがいて、そして決して戻ってくることのできない次元(世界)へ。
隣り合った始点と終点。
“ああ……よかった。これで、みんなは助かります”
世界の崩壊のすべてが重なり合う高次元上で起こることなら、きっと三階は無事だ。
INVISIBLEは巧妙な方法でその入口を開いた。
レイアひとりを招きいれ、彼はその場所で待っている。
息も絶え絶えに、今の瞬間も彼女の助けを――。
“あ……”
レイアは、はたと気付いた。
彼女は大事な忘れ物をしている。
わたしという存在に、スティグマはあるのだろうか?
レイアはふと思った。
確認しようにも、背中が見えない。
正確に言うと、彼女にはもはや背中がない。
そういえば、レイアのスティグマには鍵がなく錠の部分しかないと言われたが……スティグマが完全でなければ、INVISIBLEはレイアに収束できない。
鍵は荻号が持っている、彼の腕に張り付いていたはずだ。
忘れ物はもう、永遠に取りに戻ることはできない。
スティグマもなしに、INVISIBLEはレイアを見つけてくれるのだろうか。
そして、スティグマが完全でなければ、不死身の肉体も完全でないということにはならないか。
“痛くもないのかな……幽霊ならば”
苦痛はなかった、ただひとり終わりに近づくのが怖かった――。