第1節 第9話 Resurrection
天野からの思いがけない一言に、ユージーンは首をかしげた。
「おばけの絵?」
「そうなんです。私、あんな怖い絵を描いた覚えはありません。だからといって他の子も描けないと思います。あれは私が描いたんですか? それとも……。神様の力なら、誰が描いたのかわかるかと思って」
凛は彼女の過去をユージーンに見てもらいたいと思って相談したようだ。
「たしかに過去を見ることはできるけど……わかった。ではわたしの目を見ていてね」
「お願いします。まばたきしても?」
「いいよ」
凛に自分の目を見ているよう促し、ユージーンは彼女の頭を両手で軽く支えて、マインドブレイク(心層看破術:Mind Break)をかけながら瞳の奥を覗き込んだ。
マインドブレイクは、基本的には対象に察知されず心を読む技術だ。
だが、過去の出来事となると相手の同意を得て、瞳を凝視しなければならない。
ユージーンはマインドブレイクがさほど得意な神ではない。
それに引き換え荻号は心理分析に長け、過去や未来をも透徹する看破術を身につけている。
古今東西、荻号の心層を看破したものは皆無。
だから恒と出会いしなに恒の出生の秘密を看破し、興味を持ち近づいたのだろう。
ユージーンは荻号が恒と遭遇するケースを想定していなかったために、事態を悪化させてしまった。
ユージーンはそんなことを考えながら、凛の瞳の奥に見える過去を順繰りに追っていった。
凛は毎日規則正しい生活を送っていて、うっかりすると何日前の過去なのかわからなくなる。
それでも、ユージーンの授業内容と絵画制作の進捗状況から、現在何日目の過去を見ているのか判別できる。
凛が「おばけの絵」と形容したものは、一週間前に突然出現していた。
ユージーンはスロー逆再生をかけながら、それを誰が描いたのかを見破る。
凛はその前の夜、ふらふらとパジャマのまま学校に辿り着いて美術室へ忍び込み、薄気味悪い絵を描き上げていた。その光景が凛の瞳越ごしに見える。
何をモデルに描いているのか、筆を休めては時々窓の外を見つめる時間がある。
凛は何かにとりつかれたように1時間ほどでその絵を描き上げると、またふらふらと家路についていた。
ユージーンは今度は順再生をかけて、絵を検証する。
写実画に近いタッチで、怪物のようなオブジェクトが中央に据えられている。
ユージーンとてこんな生き物は見たことがない。
想像の産物でなければ、あるいは……。
凛が続けてまばたきをしたので、ユージーンは限界かと見切りをつけ看破を打ち切った。
「見えましたか?」
「見えたよ。君が確かに描いていた。夜、学校に来て描いていたんだ」
凛は驚いて目を丸にしてみせた。
「やっぱり私だったんですか! でも、記憶がまったくなくて」
「寝ぼけているようだったよ。怖い夢でも見ていたんじゃないかな。気にしなくていい、夢に出てきたお化けだろう」
「よかった……。誰が描いたのか、気になったから。なんだかお腹がすいてきました。一緒にごはん食べますか?」
「君の家に押しかけるのかい? それは遠慮するよ」
着任から間もないうちに、軽率なことをするべきではない。
ついこの前まで強盗犯と間違えられていたような者が家に押しかけでもすれば大問題だ。
学校や警察に通報されれば校長の立場がない。
「いいえ、安くておいしい定食屋さんがあるんです」
絆されるわけにはいかない。
大体、下校時間を過ぎているだけで本当は問題なのだ。
「家でごはん食べないの? 家の人が心配するよ。家に帰りなさい」
すると凛は言い淀みながら家庭の事情を述べる。
「お母さんいないから……ごはんは自分で作っているんです。今日はお父さんも出張だし、家に帰っても誰もいないから」
ああ、なるほど、とユージーンはようやく合点がいった。
クラスには二人ほど片親になった子供がいると皐月が言っていた。
母親に甘えられない寂しい思いを、絵を描く事で紛らわせているのだとしたら……。
「よし、じゃあ先生がごはんをおごるよ。その定食屋さんにいこう」
子供に一食おごる位なら、と彼は思い直す。
「やった!」
凛とユージーンは村で評判の定食屋に揃ってでかけた。
食事どきを外してしまったので、メニューはおまかせ、日替わり定食しかなかった。
今日の定食は、ひじきの炊き込み御飯とアサリの味噌汁、豚の生姜焼きに、きゅうりと蛸の酢の物、デザートにあんみつで、550円。
驚くべき価格だ。
よく肥えた主人がメニューを運んでくる時にユージーンを見て驚いたが、顔なじみの凛と一緒なのでいくらか安心したようだ。
「今日は、どういう連れ合いよ?」
主人は凛にこっそりと訊ねる。
ユージーンが日本語を話せないと思っているのだ。
凛は胸を張って自慢した。
「あたしのクラスの先生なの」
「凛ちゃんの先生は皐月先生だろうに」
皐月のファンは学校の関係者いかんを問わず多い。彼もそのひとりだ。
「副担任として着任しました」
ユージーンは自分で説明した。
日本語を喋れないものと思っていた主人は体裁が悪い。
主人は先日の祭りに来なかったため、ユージーンを直接見たことがない。
ユージーンも、彼と面識がないと心得ていた。
「ユージーン先生っていうのよ」
店主はつくづくユージーンを見つめて、突然のけぞった。
「ユージーン? 知ってるぞ!! うそ! まじで? そうか、あんたか。本物の神様だっていうんだろう。村長が泡くってたもんなあ。玉屋だけに、タマもちぢんだって話だ。……でも、それまじ?」
一応感心はしたが、彼はまだ受け入れられないようだ。
「見た目は普通の人間と変らないんだなあ」
「そうでしょうね。ごはん、おかわりしてもいいですか? とてもおいしいです」
ごはん、おかわり自由の張り紙を見たユージーンが茶碗を差し出すと、主人がぱんぱんに張った丸い笑顔で、凛と彼に風呂吹き大根と付け合せを一品サービスしてくれた。
帰りの夜道を、一人と一柱でぶらぶらと歩く。
凛は牛歩戦術をとっているようだったので、彼は付き合って歩調を合わせた。
すぐそこの曲がり角を曲がれば、彼女の家だ。
家の前まで付き合うつもりでいる。
凛はのろのろと歩いていたが、ついに足がとまる。
「ありがとう、先生。ごちそうさま。……あーあ、帰りたくないなあ、家に。だって、誰もいないんだもん。今までは恒君と夜中に遊んだりしたけど、恒君、どうやらずっと眠れなかったのが急に眠れるようになったみたいだし、お母さんも元気になって家に帰ってきたみたいで。最近は遊んでくれないんです」
「そう……」
恒と凛は夜更かし仲間だったようだ。
「でも、帰りますね。もう、遅いし」
「寂しくなったら、社務所に電話をかけてきてもいいよ」
「本当ですか!?」
玄関に向かう凛を見送りながら、恒は子供たちに信頼され、好かれていたのだな、とユージーンは思い知らされた。
人に信頼される才能がある。
神としての素質は十分だ、あるいは自分より神にふさわしいかもしれない。
恒をしがらみのない状態にしてあげたい。
彼は人としてあたりまえの幸福を取り戻しつつある。
たとえ束の間の安息であったとしても……、そう思った。
*
恒が荻号からカードを受け取った件は、ユージーンには発覚しなかった。
荻号は確かにユージーンより格上の神のようで、ゲストナンバーの検索がかけられないように機密化されているそうだ。
ADAMの書籍を調べて分かったことだが、荻号は陰階の参謀とのことだ。
恒は検索クエリから苦労して日本語変換辞書というツールを見つけだし、それを使って陰陽階叙階表というものを探し当てた。
神々に関する記述は基本的に神の言語で記載されているので、辞書機能は重宝する。
これにより、ほぼ全ての書籍を読み解く事ができるようになった。
取り寄せたのは陰陽階の神々一年ごとの叙階や詳細な情報が表にまとめられている年鑑だ。
神々は陰陽に100柱ずつ在籍しているらしく、その他にも神はいるが、世界の運営に関与しているのはこの200柱だという。
そしてこの200柱に叙階されるのは全神のおよそ5パーセント、つまり神の人口は4000柱ほどということだ。
それに対し使徒の人口は億単位だそうだ。
4000、この個体数が多いのか少ないのか、恒にはよくわからない。
生物種としてみるとかなり少ないと思うが……。
叙階一覧で下位から順に指でたどっていくが、ユージーンの名は見当たらない。
トップ10に入ったとき、恒はもう見逃してしまったのだろうと決め付けたが、7位に彼の名前が見え、重い書籍をとり落として足に直撃しそうになった。
“ユージーンさん、若いのにスーパーエリートなんだ……。じゃあさらに格上だって言っていた荻号さんは……”
陰階神を上位から検索してゆくとすぐに見つかり、荻号は陰階4位の神として任じられていた。
“4位? 1位じゃないのか”
そして二柱は決定的に相いれない組織に所属している。陰と陽だ。
一覧には名前と順位ばかりではなく、個神データも記載されされている。
荻号 要は年齢不詳、そのフィジカルレベル(Physical Level)は測定不能と出ている。
フィジカルレベルとはどうやら神の持つ純粋なポテンシャル、力量そのものを示す値のようだ。
ユージーンや他の神々は測定できているというのに、彼だけはどの年を調べても測定不能である。
参謀職だから機密なのかとも思ったが、陽階の参謀は測定済み。
なるほど、彼は最強神というか別格だ。
ユージーンが接触するなというのもわかるな、と恒は思った。
しかしそうであればいよいよ、恒は自身の特別待遇に驚く。
ユージーンとの出会いは偶然だった。
だが荻号は違う。
荻号は真実が見えていて、恒に興味を持っている。
人間として自分に何か魅力があるとも思いがたい。
それに……ユージーンは大切な事を隠している。
16歳の誕生日に明かされる話は、恒に覚悟と決断をうながすものだ。
荻号が神の記述を閲覧することを解禁してくれたのはそれに何らかの関係があるのだろう。
でも神々の世界に、恒が何の関係があるのか?
あるいは恒もまた神か使徒の眷属なのだろうか。
“それはないよな”
思い上がりも甚だしいと、恒は思う。
彼等のようなスーパーパワー的なものはないし、どこからどう見ても人間だ。
志帆梨なんてなおさら人間以外の何かではありえないし、自分が神か使徒の血をひくなんてこと。
……でも、父親はわからない。
そもそも、処女懐妊なんて無理がある。
だったら何故ユージーンは、母親の嘘を見抜けない?
ユージーンが遺伝子解析を行ったのは、母親の話を聞いた後だ。
その気になれば心の中を読め、人の人生すら見通すユージーンが、母の嘘に気付かないわけはない。
では母はあの時点で本当に父親を知らなかったのだ。
無意識の状態でレイプされたか、あるいは…… 。
恒はそこまで一気に考えてしまうと、どっと疲れが出た。
母親の過去を詮索するのは嫌なものだ。
母親を信じたい、だが信じれば信じるほど禁忌の結論へとたどり着く。
自分は人間なのだろうかという事すら、証明できそうにないのに。
“上島先生に、検査をしてもらおう”
それで真実がわかるとはさらさら思っていなかった。
ひとまず遺伝情報が出るか否かが解ればいい。
*
恒は上島病院を訪れ、血液や毛髪のサンプルを提供し、母親の毛髪も併せて提出した。
父親のものはわからないが、今回は母親のものだけだ。
検査キットは高価なはずだが、恒の知的好奇心のためならと融通してくれた。
上島はユージーンを神だと見破った恒に、ある意味感謝しているようだった。
恒が見破らなければ彼は外国人技師として測量関係の仕事にきたと偽り、人に擬態して5年間を過ごすつもりだったのだという。
上島はときにユージーンの社務所を訪れ、彼の医学知識と技術を学んでいた。
ユージーンは末期がんの女性患者を救い、上島の手には負えないような脳腫瘍の患者の腫瘍を卓越した手技で摘出し、再発を防ぐ処置を行ったという。
上島にとって彼は医術の神でもあったのだろう。
恒は上島の作業を注意深く見守る。
上島は排出されたデータを凝視している。
「どうですか?」
「恒くん、お前さんの遺伝情報は半分だな」
上島はコーヒーを注いで啜り、恒にはオレンジジュースをすすめた。
恒は手をつけない。
「どういう意味ですか?」
「父親側の遺伝子がない。遺伝情報が半分の状態で生まれる事はできんから、装置のエラーだろう。再測定だな。ユージーンさまの遺伝子解析をやったおかげで、おかしくなっちまったのかもしれない」
上島も、そんなはずはないと思っているに違いない。
眉間のしわがいっそう深く刻まれ、二枚重ねの白衣のうち一枚を脱いだ。
「上島先生、俺の体は普通の人間と同じですよね?」
「何を言ってるんだ?」
「ユージーンさんみたいに異常じゃないですよね?」
「遺伝子解析がうまくいかなかったからって、人間以外の何かじゃないかと心配することはない」
「そうですよね」
再解析にはまた半日ほどかかるというので、いったん帰ります、とだけ言ってその場は切り上げた。
上島はそれでももう一度検査しようとは言わなかった。
検査キットは高価で、あまり何度も使いたくないのだろう。
恒もこれ以上負担をかけたくはない。
恒はこのあたりで荻号に探りを入れてみたくなった。
荻号のメールアドレスは入手している。
あとはネット環境さえあればだが、学校はユージーンの目があるのでだめ。
しかも、荻号のアドレスに送信できないようにされている。
メール、メールができる所……そう思って、巧が携帯を持っていたのを思い出した。
「そういえば巧は今日、学校を休んでいたっけ」
風邪で熱でも出たのだろうか。
メールの件は今日は無理だとしても、様子を見に行ってみるかな……と、恒は手頃なフルーツを買って、巧の家に見舞いに行った。
インターホンを鳴らしてしばらくして出てきた巧の母親が、申し訳なさそうに応じた。
「せっかくだけど今、寝てるわ」
「風邪ですか?」
「昨日から頭がふらふらするって言い出してね。ずっと寝てるの。熱もないみたいだし、貧血かしら。明日は行くと思うから」
「上島先生のところへは」
「明日も続くようなら受診してみるわね」
恒は追い出されるようにして、しぶしぶ帰途についた。
巧の不調についてはあまり気にしていない。
熱もなく、子供がかかる風邪などどうせ大したことにはならない。
そう思っていた。
*
翌日、恒の楽観的な予想は見事に裏切られた。
巧の席は始業時間になっても空席のままだ。
巧と仲のよい石沢 朱音や堤 隼人などが心配している。
保健委員の波多野 雫も落ち着かない様子だ。
恒はさすがに心配になってきた。
「豊迫君は今日もおやすみ? 何か聞いてる人いない? 学校には連絡がないわ、連絡帳を預かっている人は?」
皐月が心配そうに出席簿に目を落とす。
ユージーンも皐月の隣で神妙な面持ちをしていた。
巧は皆勤賞を目指しており、出席にこだわりがあった。
これまでは熱が出ても登校していたし、二日も休むというのは妙だ。
恒はもと不登校児でありながら、巧が学校に来られないのは相当だと心配した。
その時、ユージーンの携帯が鳴った。
ポケットから取り出し発信先を確認するなり、急いで廊下に出てゆく。
しばらくして、ユージーンが血相をかえて中に入ってきて、皐月に耳打ちした。
皐月もつられたようにさあっと真っ青になった。
「吉川先生、わたしが行ってきます。先生は平常通り授業を」
皐月が小刻みに震えながら頷くと、ユージーンは自ら学校では力を使わないと禁じていた力を解禁し、瞬間移動で消えてしまった。
空間に干渉したらしく、波紋のように黒板の背景が歪んでいた。
あとに残された皐月は、唖然としていた。
ユージーンが消えた事に驚いたのではない。
豊迫巧が、亡くなったのだという。
死因は不明。
上島がユージーンに一報した。
何かがおかしいので見に来てくれと。
このまま授業をしていてもよいのだろうか?
この事実をどうやってこの子たちに伝えればいい?
皐月は教師として軽率な行動を避け、校長の指示を仰ぐべきだと思った。
皐月が硬直してしまったので、子供達も不安そうだ。
「先生、巧の事でしょう」
「巧がどうしたの? そんなに悪いの?」
生徒たちは騒然としている。
ユージーンの行動は明らかに不自然だ。
震えが止まらない皐月は、出席簿をがたがたと震わせていた。
「ユージーン先生が学校で力を使うってことはよっぽどです。巧に何があったんですか?」
恒がクラスを代表して質問した。
皐月はもはやこれまでと思い、口を開いた。
嘘をついては、あとあと子供たちを傷つける。
「みなさんに、悲しいお知らせをしなければなりません」
子供達は固唾を飲んで皐月を見上げている。
「豊迫君が、先程亡くなったそうです」
クラス全員から、一斉に絶望の悲鳴が上がった。
“もしかして、また俺が? 俺のせいで!”
恒は教室を飛び出し、生徒たちもあとに続いた。
居てもたってもいられない、巧のもとに駆け付けなければ!
子供たちの思いはひとつだ。
皐月は止めようとしたが、我慢できなくなって彼らを追い掛けた。
*
ユージーンは瞬間移動で上島医院の病室に現れた。
上島と看護師数名、そして巧の両親が驚いて彼の浮いている中空を見上げる。
ユージーンは静かに病室の床に降り立った。
「参りました」
「ありがとうございます」
「どうしても死因がはっきりせんのです。釈然としないことも多すぎますし」
「……」
上島が申し訳なさそうに状況を説明する。
ユージーンはデータを見ながら、まさに冷たくなりはじめた豊迫 巧の亡骸に目を配る。
上島が開示したデータから疑われる、死亡の原因となりそうな所見はない。
ユージーンは考え込むように沈黙した。
上島や豊迫の両親が固唾を飲んで見守っている。
彼らは何も言わないが、緊張がユージーンに伝わってくる。
彼の亡骸は穏やかな死に顔をしていた。
死後30分ほどだが、何かがおかしい。
ユージーンは異様な気配を感じとった。
死亡に伴って、当然行われるべき死の手続きがなされていない。
死の手続きとは、上島が死亡診断書を書いたり、霊安室に移送したりすることではない。
本来なら死の直前に駆け付ける、死神の使徒がまだ来ていない。
死神の使徒は光学迷彩能や空間歪曲能を持つ衣を纏い、人には見えない。
彼らは死の瞬間に立ち会い、死亡時刻を記録し、微弱な精神電位を脳から回収し、その精神活動を解析し記憶を神階で再構成する。
人の生涯の記憶は巨大なデータベース化され、EVEとよばれるソウルデータベース(Soul Database)に登録・保管されている。
人の死に際に死神の眷属が立ち会うことと記憶を持ち帰る。
それはどんな例外も宗教や人種の別もなく、全ての人間に対して行われる事だ。
だというのに、死神の眷属がきた形跡もなく、さらには巧の脳内には記憶が遺されている。
“こんな死に方……ありえない”
人の生涯は記憶の集合体だ。
記憶は死神の使徒により回収され神階で再構築されて仮想現実の中に保護される。
仮想空間を天国と感じるか地獄と感じるかは生前のライフスタイルや個々の人生観による。
よほどの悪事を働かないかぎり他者の記憶にアクセスしあう事ができ、自由にコミュニティを作る事も可能だ。
あらゆる世代の人間の記憶が時間を超えて交流することができ、長すぎる死後の時間を持て余す事もない。
仮想空間にはあらゆる時代と場所、環境が用意されているので、余暇を楽しんだり趣味に打ち込んだり、学んだりもできる。
それらの行動学を神々はシュミレーションモデルとして研究している。
人々が肉体という枷から解放され、時間も空間も超越できれば、いかなる精神活動を行うのかという研究に役立てられている。
その成果は、人類行動学的に生物階の運営に役立つ。
人類の記憶ライブラリを作っているのは神々の研究のためでしかないのだが、人道的に十分に配慮された環境が整っており、人の死後には平穏がある。
こうしたシステムから成る死は平等であり、辿り着く場所も同じだ。
神の介入がなければ自然の摂理として記憶は死体の中で消滅する。
自然本来の摂理として、死の先にあるものは無だ。
神の介入によって記憶が死後の世界で記憶だけでも安らかに永遠を過ごす。
それは人々にとって幸福なことだろう。
巧に訪れようとしているのは、完全なる無だ。
彼は神の支配を逃れて束縛なき真に自由な死を迎える。
何千億分の一かの確率で、死神がたまたま死を見逃した。
彼の自我は自然に無へと帰るだけだ。
目の前で死にゆく教え子の少年を、ユージーンは眺めている。
死因だって定かではないのに、このまま見捨ててよいのだろうか。
“……いや、死神は死を見逃すことはない”
駆け付けるのが間に合わなかったという線もない。
死はバイタルレベル0値の自動検出システムによって監視され、巧にはまだバイタルが存在する。
バイタルを持ちながら死んでいる。
誰かに不当に命を絶たれているとみて間違いないだろう。
彼は死すべき運命になかったということだ。
不審な死を見過ごし、彼の記憶を無の境地へと還してやるか
この死を不当として、再び生を与えるか……
それはユージーンの判断にかかっていた。
いくら彼が神と呼ばれていても、さすがに生殺与奪の権限などもってはいない。
いや、思い出せ、とユージーンは深呼吸した。
“わたしの任は、風岳という村を5年間守ること。風岳村における一連の不自然なひっかかり、彼の死もその一環だとしたら、彼を助ける事は自らの職責にかなう。わたしにはこの子供を蘇らせる許可は与えられていない…… だが――”
看護師達の制止を振り切って、巧のクラスメート達が病室になだれ込んできた。
「巧ー!」
「待って、近づかないでくれ! 今ユージーンさまが調べていらっしゃるから」
上島が生徒たちを近づけないように注意してくれた。
「何かわかりましたか?」
「……やるだけ、やってみます」
ユージーンは駆けつけた生徒たちを振り向くと、生徒たちは前のめりになって見守っている。
ユージーンは巧をだき抱えると、そのまま動かなくなった。
温和な彼の表情が消え、いつになく集中している。
巧の小さな心臓に、神のアトモスフィアによって生じる電磁パルスを与え、同期させる。
巧の身体をアトモスフィアで満たしたから、心臓が動けば何とかなる。
彼のアトモスフィアは巧の内部から生きる力を呼び起こす。
脳に酸素が長時間送られなかったことで脳障害が残るかもしれないが、後から治療すればいい。
蘇生が先決、血液が凝固するまでの間が勝負だ。
死神ならば蘇生も簡単だろうが、あいにく蘇生はユージーンの専門外だ。
「温めているの?」
「何かしてるんじゃないか?」
血の気のなかった巧の指先が、不意に赤みを帯びてきた。
巧はそのうち指を動かしはじめ、ユージーンにしがみついた。
巧の両親はもう何も言えず、涙を流してその光景を見守っている。
「生き返った!」
「嘘だ!」
「神様って、死んだ人間も生き返らせられるのか?」
巧は息をふきかえし、胸が上下に動くのを全員がみとめた。
「上島先生、酸素を。バイタルも確認してください。血栓ができやすくなっています、抗凝固剤を、それから……」
ユージーンは冷静だった。
クラス全員がわっと巧の周りに集まった。
彼はまだ意識こそ戻っていないが、頬に赤みがさし、寝顔にかわった。
喜びの声があがるなか、ユージーンは上島と交代に病室をあとにした。
恒は親友の寝顔を見てほっとすると、すぐにユージーンを追う。
廊下の壁にもたれかかるように立っていたユージーンは、天井を見上げていた。
天井ではなく、天を仰いでいるのだと気づいた。
“そうか……そういうことか”
恒は唇をかみしめる。
死者の蘇生は重罪だ。
恒は神々の法である「陰陽階法」について少しばかりかじっていた。
何故そんなものを学ぼうとしたのかというと、恒のせいで彼に一度法律を犯させてしまったという罪悪感からだ。
あまり地上で罪をつくると神階へ強制送還となったり、罰を受けてしまう。
枢軸とよばれる高位身分の者でも、例外なく適用される。
法にふれる事をこれ以上は敢えてさせたくはなかった。
神が故意に死者を蘇らせたなら、それは重罪……。
量刑は覚えていないが、結構な罰が下されるはずだ。
それでも罰を顧みず巧を助けてくれたユージーンには頭が上がらない。
「ユージーンさん……ありがとうございます。俺、また人を不幸にしたんですか? また俺が……」
「君のせいじゃない」
「気休めは言わないでください」
「……しいて言えば、君がとか、そんなレベルじゃなくてこの村全体がおかしい。早く原因を突き止めなくては君たちの命にかかわる。わたしはこれから全力でこの村で進行している災禍を突き止める」
「皆、気づいています。でも口に出して話さないだけです」
「どういう意味?」
「この村、昔から……」
恒は何度も唾を飲み込んでようやく告げた。
「鬼が来る村、と言われていたんです。伝承でもありますし、ADAMで調べたことがあります。鎌倉時代からずっと続いていることなんです。文献にも残っていました。この村全体が、昔から……」
恒が鎌倉時代の文献を熱心に調べていたのは、そのことか。とユージーンは理解した。
半神である藤堂 恒のいる不可解。
藤堂 志帆梨の処女懐妊。
天野 凛の異様な行動。
豊迫 巧の不当な死。
それらは恐らく恒の父親にあたる神によって行われているものだと決め付けていた。
だが、この土地の風土として昔からこのような怪奇現象がたえなかったのだという。
ユージーンは今まで、たったひと柱の神に原因があると思い込んでいたために、本質を見逃していた。
鬼が来る村。
その過去を、そしてそこから導き出される真実をつきとめなくてはならない。