「お前を愛する事はない」と言われたから「はいわかりました。これは契約の偽装婚ですものね」とそう笑顔で答えたら、なぜか「好きにならないとは言ってない」と言い出した件!??
「お前を愛する事はない」
端正なお顔を歪めもせずにそう言い放つ彼、ミハイル様。
まあでも、今日のこの日、この場所で言わなくても良いのに。
そう心の中ではちょっと膨れて、でも表面は貴族らしく取り繕って。
煌びやかな社交界。
今日はロックマイヤー公爵家の御曹司、ミハイル様とわたし、リーシャ・ネルクマール侯爵令嬢との披露宴。
宴席もいい加減盛り上がり主役のわたしたちなんかに注目している者ももうそんなにいない。
それでもどこで聞き耳立ててる人がいないとも限らないのだ。
「はいわかりました。これは契約の偽装婚ですものね」と、彼の耳元に笑顔で口を近づけて。
「でも迂闊ですわ。この偽装婚は他の人には内緒なのでしょう? だったらここでそんな事を言い出さなくてもいいと思いますわよ」
そう、釘を刺した。
傍目に見れば仲の良い夫婦に見えるだろうか。
ううん、きっと見える。
だって、わたしは彼のこと、本当に好きだもの。
表情一つ変えない彼は、「ああ」とひとこと言ったっきりその後はなにもおっしゃらず。
披露宴は何事もなくすぎて行った。
満足そうな公爵夫妻。何も知らないお父様、お母様。
貴族の娘に生まれたからには政略結婚なんか当たり前。
家のために結婚するのが当たり前。
そう言い聞かされて育ってきた。
それでも侯爵家とはいえ四女のわたし。そんなに良い嫁ぎ先なんかないだろうなぁって半ば諦めていたっけ。
年齢の合う高い身分の殿方は限られる。優良物件なんかもう幼い時から婚約者が決まっていたりするから、そうそう横から入り込む隙間なんかない。
かといって、侯爵家ともなると中途半端に家格が高いものだから、あんまり低い身分の殿方に嫁ぐのも憚られる。
こちらにメリットがあまりないからだ。
自陣を強化するためでもなければ、一方的に寄りかかられる関係は避けたいと思うのが高位貴族の常だろう。
そういう意味で、わたしの嫁ぎ先なんか本当にあるのだろうか?
そんなふうにも思っていたりしたのだった。
親が決めた相手としかお付き合いしちゃいけない。
なんだかそんなのつまらないなぁ。っていうかお貴族様ってやっぱりわたしには似合わないわ。
ずっとそんなふうに思ってきたから。
今回の縁談は、もう天から降ってきた幸運?
そう信じて喜んだのだった。
♢
あれは貴族院の卒業パーティの夜だった。
パートナーのいないわたしは壁の花に徹しようと決意し皆がダンスに興ずるのを眺めていた。
一応、侯爵令嬢に相応しい行儀作法は習ってきた。
自分がこの世界じゃない、別の世界の記憶を持っているって気がついた幼い頃から、侯爵家四女のわたしがこの世の中を渡っていくためにはなんでも吸収しなくっちゃ、って、勉学も作法も、そして魔法の勉強も怠らなかった。
その甲斐もあって、とりあえず人前に出ても恥ずかしくないだけの、ちゃんとした貴族の令嬢という仮面は身につけることができていた。
誘いくる有象無象をお貴族様言葉でケムにまき、扇を口元にあてニコッと微笑むと、皆それ以上近づいてこなかった。
大体、こういう場で言い寄ってくるような男にロクなのはいるわけがない。そんな事は経験則でわかってる。
本当に真剣にわたしとお付き合いしたいと思うのなら、もっとちゃんと根回しをしてお父様の許可でもとってきなさい。そう言いたくなるのを抑えて、にこりと微笑む。
大概の男性はそれで気後れして後ずさるわけ。
そんなお貴族様たちの動向を傍目で見ながら、やっぱり自分にはこんな世界は似合わないなぁと考えながら。
皆がホールで踊っているのを尻目に中庭におり噴水の脇のベンチに腰掛けたわたし。
冷たい水に手を浸し。
「あぁぁ。つまんないなぁ」
そう声を漏らしたところを聞いていた人がいた。
「君には踊る相手がいないのかい?」
空にはまんまるな月が煌々と瞬き、まるで月が降っているかのように噴水の水が煌めいている。
そんな眩い月明かりに照らされて。
その美麗なお顔がより神秘的に見えていた。
ああ。
お近くでお会いすることなんか無いと思っていたのに。
この自分に生まれ変わる前から好きだった、わたしの最推し。そんな彼、ミハイル・ロックマイヤー様。
この世界はわたしの前世で遊んだゲームの世界と酷似している。
まさかそんなゲームの世界に転生したのだ、なんて荒唐無稽な事を言うわけじゃ無いけれど、それでも確かに彼ミハイル様はわたしが大好きだったキャラとそっくりなのだ。
その、切れ長な瞳。透き通るような、それでもしっかりと胸に響くお声。
表情はあまり変えることが無いんだけど、たまに見せる笑みがほんと素敵で。
まあこの人生ではこの時まで、そんな笑みは見たこともなかったんだけど、ね。
「ミハイル様……。どうしてこちらに?」
ミハイル様レベルの高位貴族ともなれば、今日みたいな学生のパーティであってもほぼほぼ主役と言ってもいい。
皆に取り囲まれるのが常だけれど。
「人混みは嫌いでね。こうして静かに月を眺めている方が好きなんだ」
しんみりとした口調でそうおっしゃる彼。っていうかミハイル様がこんなふうにお話になる姿なんて想像していなかった。だって、いつも無口で、無表情で、どなたとも心を通わせている素振りもみせない、いわばお貴族オブお貴族様といった感じでいらっしゃるのがいつものミハイル様だったから。
「ふふ。一緒ですね。わたしもああいう人混みは嫌いなんです」
笑みをこぼしながら、そう囁くように答える。
「でも今君は、つまんないってこぼしてたよね?」
「はう、聞いてらしたんですか?」
「悪いね、聞こえてしまったんだ。でも、君みたいな女性がそんなふうに独りごつのを見かけるのは初めてだったから、少し気になってさ」
もうこの辺でわたしの頭の中は完全に舞い上がってた。
だからかな、普段だったらちゃんとお貴族様の仮面を上手につけ素の自分なんか出したりしなかったけど、ついつい饒舌になってしまって。
「うーん。わたし、侯爵家の四女なんです。貴族の娘って言ったら家のために嫁ぐのが当たり前、って普通言われるじゃないですか。でも四女ですよ四女。そうそう良い縁談が転がっているわけもないし、優良物件だって残っていませんわ。貴族間のバランス的にも、そんなにどことでも縁組するわけにもいきませんしね。だから、わたしはいらない娘なんです」
「お相手くらい自分で探せば良いのでは?」
「ミハイル様? それができれば苦労はしませんわ。お父様のおっしゃる通りの縁談しか、わたしには選択肢がないのですから。それが高位貴族の娘ってものです」
「はは。君は面白いね。君みたいな子が貴族にもいたんだね」
「もう、それってわたしが貴族らしくないって言うことです?」
「そうかもしれないね。でも、そうだな。案外君みたいな子の方が楽で良いかもしれないな」
そう、少しだけ笑みを見せてくれたミハイル様。
わたしの心はもうそれだけで幸せで。
月が降る。
光が水しぶきに反射し、周囲を幻想的な雰囲気に見せていた。少なくともわたしにはそう見えて。
「レディ。私と踊ってもらえませんか?」
そう、スマートに手を差し出す彼。
「ええ、喜んで」
そう、ゆったりと彼の手をとる。
幸せで幸せで。心がふんわりとのぼっていくような。
そんな刻。
そんな、夢のような時間だった。
♢
彼、ミハイル様がうちを訪ねてきたのは、パーティから一週間ほど経ったあと。
お父様とお母様、そしてわたしの三人でお出迎えして、応接室にお通しする。
「お父様には貴方のお相手としてリーシャの姉、ナターシャを打診しておりました。本当にこの娘で良いのですか?」
「ええ。私はそこのリーシャ嬢との婚姻を望んでいます。どうかお許し願えませんか?」
「もうリーシャ、どこでこんなお話しになったの?」
「お母様、わたくしにもなにがなんだか……」
ミハイル様とお父様がわたしの婚姻の話をしている。
もうほんと信じられなくて。でも、すごく嬉しくて。
お母様に小声でつつかれながら、わたしも混乱していた。
ミハイル様は表情を崩さず淡々と話している。自分が何か物になったようなそんな気持ちもしたけど、わたしの意思とかは関係なくそうしてお話は纏まっていった。
とんとん拍子に婚約、そして婚姻の日取り。
そうしてお話が終わったあと、
「では、あとは若い二人で」
と、お父様もお母様も席を外し、わたしとミハイル様だけがお部屋に残されて。
「悪いね。君の意思も確認しないままこんな事をして」
と、そうサラッとおっしゃるミハイル様。
なんだか妻にと望んでくれたって雰囲気には見えなくて、ちょっと不思議そうな顔をしてみせると。
「君には結婚を希望する相手は居ない。私も結婚を望むような相手は居ない。だったらどうだろう。こんなふうに形だけではあるが、結婚という貴族の勤めを果たすお相手として、共に過ごしてはくれないか?」
「え?」
「結婚しても君は自由にすればいい。私も自由にする。体の関係も求めるつもりはないし、なんだったら3年後には白い結婚だったとして離婚してもいい」
「それって……」
「ああ。これは契約、偽装婚というわけだな。どうだい? 君にとっても悪い話じゃないと思うけれど?」
はわわ。でも、考えてみれば確かに、悪い話じゃない。このまま行き遅れてどこかの高位貴族の後妻に収まるような未来は真っ平だし、流石に侯爵家の人間がそこらに働きに出るのもどうかと言われる。下位の貴族のようにお行儀見習いで高位の貴族の侍女におさまるわけにもいかないし。
もし3年後離婚をしたとしても、もうすでに一度結婚した女なんか市場価値はないに等しい。
子供ができなかったからお暇を出された、と、そう思われる可能性だってある。
政略結婚の駒にもなりにくければ、お父様も諦めるだろう。
一度は侯爵家から出た人間として、自由に生きることも可能になるかもしれない、し。
まあ、本当に妻に望まれたわけではないという事はわかった。
でも、わたしは元々彼の事は見ているだけで幸せだったもの。
おそばにいられるだけ、で。
きっと幸せだから。
「ミハイル様は、わたくしなんかでよかったのですか? もっと相応しいお方がいらっしゃるのでは……?」
「私はね、当面結婚なんかする気はなかったんだ。それでも貴族院を卒業するにあたって婚約者の一人もいないではと親に迫られてね。今まではそれとなく興味がないという言い訳で断ってきたのだけれど、それももう限界に来ていたんだ。煩わしいことに」
表情を崩さずそうサラッとおっしゃる。
んん?
ああ、それで。
もしかしたらあのとき?
「それであのとき……」
「はは。君とのダンスは楽しかったよ。君なら煩わしさもなく楽しく過ごせそうだ。そう思ったからさ」
「そういうこと、でしたか……」
まあ、おかしいとは思ってたんだ。うん、でも、それなら!
「わたくしでよければ。ミハイル様のお役に立てるのなら」
顔をあげ、そう告げる。
多分わたしの顔はとっても晴れやかだったろう。うん。きっとそうに違いないから。
♢
それからはもう早かった。
具体的にわたしがしなきゃならないことは何もなく、ただただエステで身体が磨かれるのに任せるだけ。
お顔も、お腹も、手足も全部綺麗に磨かれてツヤツヤしとしとになっていった。
これも公爵家に嫁ぐのだから、我慢しなきゃ。
と、少々きついダイエットにも耐え美容のためにと薬草がいっぱいの苦いお薬もいっぱい飲まされて。
結婚式、披露宴の前日。
久々にミハイル様にお会いして。
以前よりも一層表情が固く見える。
何かを思い詰めている? そんな気もしてちょっと心配。
「ミハイル様?」
思わずそう、疑問符を浮かべてしまった。
やっぱり後悔しているのだろうか。次期公爵としての期待をご両親からも受けているはずのミハイル様。
思いつきでこんな偽装婚をしてしまった事を今更ながら後悔してる、のかな……?
そんなふうに感じ彼の顔を覗き込むわたし。
「私に近づくな!」
ヒュ
息が止まる。
彼の、そんな怖い声を聞いたのは、初めてで。
「どうか、なさったのですか? わたくしが何かお気に触ることでもしてしまったのでしょうか?」
ここは、だめ。
感情を出しちゃ、だめ。だから。
貴族の仮面を付け直して、冷静に努めて彼のお顔をちゃんと見つめる。
でも。
ミハイル様はわたしから目を逸らし、「私はお前を愛する事はない」と冷たくおっしゃった。
いよいよ明日がお式だというのに。
ナーバスになっているんだろうか。
やっぱり後悔しているのかな。
それまで一応、飄々とした口調ではあったけれどずっと「君」と呼んでくださっていたミハイル様。
それが、「お前」?
そこはちょっと気に入らない。
どういう心境の変化なんだろう。
もうわたしのことなんか、自分の所有物の一つとでも思っているんだろうか?
自由にすればいいだなんていうのも、その場限りの嘘、だった?
「お前を愛する事はない」
なんだか自分に言い聞かせるように何度もそうぶつぶつ口ずさむミハイル様。
そんなこと、わかっているのに。
わざわざそう何度も言わなくっても、重々承知しているのに。
心の奥底ではざわざわと何かが渦巻いている。
ショック、だったのかな。
それでも。こんなわたし、でも。
彼に愛されたいという思いが少しはあったんだろうか。
おそばにいるだけで。
お近くで見ているだけで。
それだけで幸せだったのに。
ああ、わたし、きっと、欲深くなっちゃったのかな。
いやだ。
仮面でごまさなきゃ。だめ。
♢
しっかりとお貴族様の仮面をつけ臨んだ披露宴。
大勢のお客様に笑顔を振りまき常に優雅に挨拶を繰り返す。
ミハイル様は随分と硬い表情で、それでなくとも普段からあまり表情の変化がないお方だったけれど、今日に限ってはまさに能面といった感じに見える。
彼もまた、貴族の仮面に身を包んでいるのだろうか?
あの夜の、月明かりの中で見た彼は、そんな仮面を外しているようにも見えた。
少しだけ見えた笑みを思い出すたびに、わたしの心の底からほんわかと温かいものが溢れてくる。
彼の近くに居たい。
彼の力になりたい。
彼の、癒しになれれば、嬉しい。
「もう、それってわたしが貴族らしくないって言うことです?」
「そうかもしれないね。でも、そうだな。案外君みたいな子の方が楽で良いかもしれないな」
あの夜の会話を思い出す。
ちょっと拗ねて見せたわたしの事を、君みたいな子の方が楽で良いかも、と、おっしゃってくれた。
今回のこの偽装婚だって、そんなわたしの事をかってくれたんだから。
彼にとって、そばにいて「楽」な、そんなわたしになりたい。
ううん、なりたい、じゃなくて、ならなきゃぁダメだ。
頑張らなきゃ。
♢
披露宴が終わり、いよいよ初夜といった時刻。
わたしとミハイル様は一つのベッドを挟んで向かい合っていた。
もう二人とも夜着に着替え、侍女たちは下がらせてある。
ちょっとした寝酒がワゴンに用意してあるけど、それに手をつける様子はない。
「ベッドを使うといい。私はこちらのソファーで寝る」
「いえ、ミハイル様? ミハイル様こそちゃんとベッドを使ってくださいませ。明日は王宮に参られるのでしょう?」
「いい。問題ない」
「だって、今までミハイル様ったらきっとそんなソファーで寝たことなんてないのでしょう? だったらちゃんとベッドを使ってください。そうじゃなきゃちゃんと眠れなくって疲れも取れませんわ。王宮でのお仕事に差し支えがあってはいけませんし」
「問題ない。そちらこそ明日は母上主催のお茶会があるのだろう。眠い目をしたままそんな場に出させるわけにはいかない」
「もう。じゃぁこうしましょう。このベッドはとても大きいもの。二人で半分ずつ使っても十分だわ。ほら、真ん中に枕を置きますから、この枕からそちらがミハイル様。こっち側がわたし。これで寝ましょう」
「っく。しかし」
「しかしもクソもありませんわ。って、ミハイル様はわたしなんかに興味はありませんよね? 手出しする気もないっておっしゃってましたし。だったら一緒に寝てもなんの問題もありませんわ」
「そういう問題じゃない」
「あら、さっきみたいに『問題ない』っておっしゃったら? 大丈夫です。わたしにはミハイル様に言い寄ったり体の関係を求めようなんて気は一切ありませんから。
彼の能面のような顔が一瞬、動揺でもしたかのように揺れて見えた。
「そうか。わかった」
そういうとそのままドンとベッドに横たわるミハイル様。
そのまますうすうと寝息を立て始めた。
「おやすみなさい。ミハイル様」
わたしは隅っこで小さく丸くなる。
もう心臓はドキドキだ。
あんなふうに言ったのはああでも言わないとミハイル様がまともにベッドに入ってくれそうになかったから。
多分彼、ここもう何日もまともに寝てなかったはず。
昨夜だってきっとしっかり寝てないんじゃないか? そう思うほどやつれていた。
でも。
ふふふ。
今はなんだか、すごく素直なお顔をして寝ていらっしゃった。
すうすうという寝息も、とても可愛らしくって。
ああ。やっぱり好きだな。
わたしはミハイル様が好き。
そんな彼の横で添い寝なんて、本当だったらどうかなってしまいそうで絶対無理、寝られるわけない、そう思ってたはずだったけどそれでも。
こうして彼の寝息を聞いていると、それだけで心が穏やかになってきて、うん、わたしも眠く、なってきた。な……。
ん……。
ふっと目が覚めると、こちらを覗き込む瞳。
って、え!
ええ!
ミハイル様!!
ミハイル様のアクアブルーの瞳がわたしの顔の目に前に、あった。
思わずすぐまた目を閉じる。
思い詰めたようにこちらを見ている彼。そんな彼のお顔を、こんな近くでなんて心臓がドキドキしてまともに見られないよ。
「リーシャ。君には好きな男がいたのか? 私は選択を誤ったのか? もしかしたら、君にこの結婚を強いたのは、間違いだったのか?」
え?
わたしに話しかけてる? ううん、そんな雰囲気じゃない。
まだ多分わたしが起きているって、ミハイル様は気がついていない?
「許してくれ、リーシャ。君には好きなやつなんかいないって、そう思っていた。今の人生がつまらない、そう言っていた君なら、私のこの計画にもちょうどいいんじゃないか、そう思ってしまっていた。くそ、レイクフッドにもっとちゃんと聞くんだった。一体誰なんだ、リーシャの想い人は! ああ、私はどうやって償ったらいいんだ……」
レイクフッド様?
従兄弟のレイク兄様の事よね?
幼馴染でもある子爵家のレイク兄様は、ナターシャ姉様が好きだった。
子供の頃はわたしもおまけでよく三人で一緒に遊んだ記憶。
いろんな事をお話ししたっけ。
二人きりの時に恋話? な、感じで彼が姉様が好きだって話すのに合わせてかな。わたしも、好きな人がいるのってお話ししたっけか。
もちろんミハイル様のことだけど、当時はまだミハイル様と出会ってもいなかったんだけどね。
ミハイル様のことがどんなに好きか、語って聞かせた覚えが……。
「ミハイル様、レイク兄様とお知り合いだったんですか!?」
すっとんきょうな声でそう叫んで。
体を起こし彼に向き直るわたし。
「リーシャ、起きていたのか?」
「あ、いえ、今起きたのですが、レイクフッド様がどうこうと聞こえたものですから……」
バツの悪そうなお顔をして、プイッと横を向いてしまったミハイル様。
「リーシャ。君には好きなやつがいたんだな。悪かった。私のこんな計画に巻き込んで。そうだよな、君には断る選択肢はなかったんだよな。父親が決めた縁談に逆らうことはできないってそう聞いていたはずなのに、いや、だからこそ私もまず侯爵に話をしたのだったのに。悪かった。なあ、今からでもこの結婚を破談にしようか。私のわがままということにすれば君にも極力迷惑をかけずに破談にできるかもしれない……ああ、それがいい……、そうしよう、ああ、そうするべきだ……」
最後はもう、すごく小声になってしまっていて聞き取りにくかった。
ミハイル様がそんなふうに思い詰めていらっしゃったなんて……。
「リーシャ、離婚、しよう……」
決意をしたかのようにこちらに向き直り、はっきりとそうおっしゃるミハイル様。
胸の奥から慟哭が湧き上がる。涙がブワッと溢れ、前がはっきり見えない。
「いや、です……。いやですミハイル様。離婚なんて、破談なんて、いやです……」
感情が溢れ出す。
仮面なんて、もうどこかに吹っ飛んでいってしまった。
わたしは声を押し殺し、泣いた。
我慢、できなくって。
「いや、です……。お願いです……、このままおそばにおいてください……」
「だって、リーシャ。君は望んで結婚したわけじゃ、ないだろう? 他にちゃんと好きなやつがいるんだろう?」
「わたしが、わたしが好きになったのは生まれてこの方お一人だけです。ミハイル様。あなただけです。子供の頃からずっと、ミハイル様だけが好きでした。ごめんなさい。言えなくて……。望んじゃダメだって、そう心を縛り付けていたから……」
ベッドの上でしゃがみ込んで、わたしは泣きじゃくっていた。
そのあとはもう何を口走ったかさえ覚えていない。
ただ、ミハイル様が優しく肩を抱いてくれたのはわかった。
それがとても嬉しくって、わたしはまた涙が溢れ。
感情がぐちゃぐちゃになって、そのままいつの間にか寝てしまっていた、らしい。
§ § §
朝陽が差し込んでいた。
気がつくと、目の前にはミハイル様。
夢じゃ、なかった。
昨夜のことは、ちゃんとあったこと。
ああ、恥ずかしい。
わたし、もうどんな顔をしてミハイル様の事を見ていいのかもわからない。
仮面なんか、もうどこかにいってしまった。
「リーシャ。おはよう」
そう微笑む彼。ミハイル様の端正なお顔。
そう、こんなお顔が見たかった。
大好きな、ミハイル様。
「おはようございます。ミハイル様……」
「落ち着いたみたいだね。よかった。侍女が朝食を運んできてくれてそこにおいてある。あとで一緒に食べよう」
「ああ、ごめんなさいわたし、寝過ごして……」
「いいんだよ。まあ侍女たちは勘違いしてたみたいだけどね。それも、いいさ」
「勘違い、って、って、えー!!」
あわわわわ。恥ずかしくって思わず両手で顔を覆う。
侍女が勘違いって、それってしょ、しょ、初夜の秘め事のあとだからわたしが寝入ったままだって、そういう事?
首筋から顔まで全部真っ赤になって。
もうほんと、穴があったら入りたい、そんな気持ち。
「それでもそろそろ起きようか。今日は色々忙しいしね。まず朝食を食べたら着替えに侍女を呼ぼう。私の可愛い奥様。お手をどうぞ」
そう、手を伸ばすミハイル様。
「ありがとうございますミハイル様」
そうわたしも素直に彼の手をとる。
「ああ、でも、ミハイル様。わたしたちの結婚は契約婚、偽装婚なのですよね。わたしのことは愛さないっていっぱい聞かされましたし。それなのに……」
ミハイル様の態度、なんだかすっごく変わった。
わたしはミハイル様が好きだから嬉しいけど、ミハイル様の方はそういうわけじゃないビジネスライクな関係のはずなのに。
「はは。私が君を好きにならないとは言ってないよ。あくまで、あの時はそういう契約婚のつもりだったけど、君が私の事を好きでいてくれるのなら、私も君を好きになってもいいかなって。今はそんなふうに思っているから」
「愛することはないっていうのは……?」
「君が他のやつの事を好きなんだってそう思ったら我慢できなくなった。だったら私も君のことなんか愛してなんかやらないって、そうやけになって。ごめん」
素直にそうおっしゃるミハイル様。
仮面、つけてない。
うん、彼ももうわたしの前では仮面なんてつけていない。それがとても嬉しくって。
「ありがとうございますミハイル様。大好きです」
そう、彼の腕に絡みつく。
「そうだね。私も君のこと、好ましく思っているよ」
そう、優しくわたしの頭を撫でてくれる彼。
今は、うん、今はまだこれでいい。
そのうちわたしの事をちゃんと好きだって言わせて見せる。
素で微笑むミハイル様の笑顔。
それが今のわたしの一番の宝物だから。
愛してます。ミハイル様。この先ずっと。このままずっと。
FIN