6 月が照らすデッドヒート
狼の血を持つ彼は、夜の王こそ傲慢だが己だと理解していた。
満月の夜が出れば血が騒ぐのはその証左。
生憎今はまだ曇天で月光はないが、それでも肉体は膨れ上がり、爪はより鋭く、牙はより輝き、その左眼は獲物を狩るべく熱くなる。
「だってのに、なぜ俺は、自分の全力を逃げることに費やしている?」
背後に迫る巨大な存在は、闇を纏って更に圧を強める。
獣は悟る。たとえ生物の頂点に君臨したとしても。
命ある者は、それから逃れられないのだと。
□□□
黒馬は全身から汗を拭きだし、主人と俺を乗せて走り続ける。
スカリアが乗ることで、俺一人が乗るより明らかに速度は上がり、今や向かい風で肌が痛く感じるほどだ。
その手綱を握る女騎士もまた、騎手として馬の実力を存分に引き出していた。
息が上がるほど速すぎず、休みすぎぬよう遅すぎず、絶妙な制御で人馬一体の動きを見せていた。
その背中にしがみつく俺は、スカリアさんの甲冑に自然と体が密着する。
これだけ近いのに、関節部の金属の擦れる音が殆どない。
闇の中で敵を追うには、このくらい静かでないといけないのだろうか。
「……」
彼女は何も言わない。
俺が助けにきたことも、そのために彼女の指示に逆らったことについても。
叱るのはこの戦いが終わってからということだろうか。
不安になっていると、頭上から声がした。
「安心しろ、私はもう負けない。君はただ、しっかり捕まっているだけでいい」
あの大人数と戦って、一度はしゃがみ込んで動けなくなっていたはずの彼女。だがその言葉に嘘も誇張も一切ないと思えたのは、きっと腕が立つという理由だけではないだろう。
「相手は馬もなしによく走る。こちらも加速するぞ」
騎士は何かを唱えた。
そして俺は、闇に落ちた。
ドプン
(……え?)
腰に伝わっていた馬の振動も、凍えるような風も、前にいたはずのスカリアさんの気配も消えた。
僅かに見えていた景色の輪郭すら認識できなくなる。
光のない中、俺は自分がどこにいるのか分からなくなる。
そのとき、雲の隙間より光が差した。
俺は今、何が起きたかを理解する。
騎士と馬の身体は、闇と同化していたのだ。
獲物を見つけた鳥が羽根を閉じて急降下するように、強弓より放たれた矢が一直線に飛ぶように、彼女自身が黒煙となって地表の上を滑走していた。
そして俺は、その霧のようなものに包まれて、運ばれていく。
背後には霧散した煙が再び闇に溶けていた。
『跳ねるぞ、注意しろ』
ぐわっと、身体が回転しながら、俺は重力がかかるのを感じた。
「空を、飛んでる……!」
先ほど兵の上を飛んでみせたときより、遥かに高い。
地面がみるみるうちに離れ、地平線の向こうまでが視界に入る。
遠ざかった平野の中で、豆粒のような影が一つ動いているのをみつけた。
先ほどいた狼姿の隊長だ。
「落ちるぞ」
ふわっと、一瞬身体を覆っていた空気が消えたかと思うと、次の瞬間には地面目掛けて黒霧が落下していく。
煙は徐々に吹き飛び、代わりに馬と騎士の輪郭がはっきりしていく。
半狼の姿はどんどん近く大きくなる。向こうもこちらに気付き、目を見張った。
その左眼は黄金を帯びた狼の目。そこに映るのは、月を背に空より来たる騎士の姿。
幻影の中、ただ振るわれた刃のみが銀色に輝いた。
「ぐおおおおおおおおお!!」
狼人は遠吠えを上げた。
同時に身を翻し、致命傷を避ける。代わりに斬られた左腕が宙を舞った。
しかし半狼は怯まない。残った右の獣腕を大きく振るうと、亡霊騎士は何かに気付き身を逸らした。
鋭い爪は、大抵の武器では傷一つつかぬ鎧の胸元を大きく割いた。
「ヴルルルルル……」
饒舌だったその口は大きく割け、言葉ではなく唸り声のみを上げる。
だまし討ちも逃走も失敗した。自身が勝利するための最後の賭けに命を投じたのだ。
騎士はその変わりように臆することなく、剣を振るう。
(空振り……! いや、相手の動きが素早いのか!)
重装備の騎士に対して、狼は速度と身軽さで挑むことにしたのだろう。
剣のふりを躱しては、小さく攻撃を振るい、鎧に傷をつけていく。
血肉がない故に致命傷を負いにくいはずの亡霊騎士だが、段々と動きが鈍くなっていった。
既に百人の兵士と戦い、ここまで馬を走らせてきたのもあり、目には見えない何かが確かに消耗していっているのだ。
「ヴオオオオオ!!」
半狼は拳を騎士の顔相手に繰り出した。
ヘルムの目線部分に空いた隙間に爪を刺すつもりだろうか。
その鋭い突きは、例えヘルム越しであろうとも骨のみでは後頭部までヒビが入り、木っ端微塵に吹き飛んでしまうことを予感させていた。
「スカリアさ……」
が、演技だった。
あえて動きを鈍くみせていたのだ。
必殺の一撃を、決めるために。
大きく頭上から降られた騎士の剣は、敵の抵抗すら許さぬ速度で、右肩から胴体を鎧すら砕いて両断した。
雲が動き、平野はより照らされる。
血を噴き出した狼が最後に見たのは、己を倒した騎士の上に浮かぶ、巨大な蒼月であった。
「……はッ、最後に……綺麗なもんが見れたぜ」
そのままどさりと、男は地面に倒れ伏した。
女騎士は剣の血を拭うって鞘に納めると、俺のほうを振り向いた。
騎士が落下したとき、俺は馬とともに空中で分かれ、激突することなく地面に降り立っていた。
「痛むところはないか? 気分はどうだ?」
心配そうに俺の身体を見渡す。
そして顔を覗き込まれてからようやく、呆けていた俺はハッと自分の身体を撫でまわして、大丈夫ですと答えた。
「そうか……ならば良かった」
スカリアさんは安堵の息を漏らして、安心したように上を向いた。
そのとき、元々緩んでいたヘルムが落ちかかり、彼女は慌てて手で押さえる。
乱暴に外そうとされたせいで、うまく固定できないらしい。そして俺の方を見た。
「……」
「大丈夫ですよ、外してください」
「やはり君は変わっているな……今の戦いを見ても、まだ私が怖くないのか?」
「だって、いつものスカリアさんは優しいですから。見た目がなんだって、俺はスカリアさんのことが好きですよ」
実際は、今の戦いの光景を脳が理解するまで時間がかかっているだけのかもしれない。
でも今は、戦いを終えてまずまっさきに俺の事を心配してくれた彼女を、嫌うなんてありえないと思ったのも本心だ。
その言葉尾聞いて、彼女はヘルムをゆっくりと脱いだ。
ばさりと、中から長髪が揺れる。
(……髪?)
俺は彼女を見上げた。
丁度満月が、その姿を照らす。
そこには、凛とした銀髪の少女が、俺に向かって微笑んでいた。
長い睫毛に青い瞳、張りのある白く透き通る肌。その小さく紅い唇が息を吐く。
夜だというのに、俺は世界が白くまぶしく感じた。
彼女の存在そのものが光り輝くようで、俺の目は眩み、彼女以外何も見えなくなっていた。
完璧な美貌、鼻の先まで凛々しく整った顔は、この世のものとは思えず冷たさすら覚えさせる。
だというのにその笑みは人懐っこく、感情を隠すことなど知らない子供のように、純真さ溢れるままに目を細め、嬉しさで目いっぱい顔をほころばせていた。
「ともかくこれで一安心だ。君が無事でよかった」
その声は間違いなく、今の今まで一緒にいたスカリアさんのもので。
でも彼女は間違いなく、スケルトンだったはずで。
俺が声を失っているのを訝しんで、その美女は俺に近づいてきた。
腰を落とし、首をかしげるその一つ一つの仕草が可憐である。
パラパラとしなやなかな髪が肩から落ちれば、ふわりと光の粒が舞う錯覚を覚えた。
「どうした、やはり具合が悪いのか?」
「いえ、その……」
見惚れていた俺の頭に、何かが蘇る。
この美女の顔に見覚えがある。
(そうだ、昨晩!!)
俺が山の中を逃げて、そこで出会った女騎士は。
この世のものとは思えないほど、美しい存在だった。
だから俺は思わず、あの時も、今もこう口から溢したのだ。
「……綺麗だ」
女騎士は面食らった後、目を逸らして照れ臭そうに頬を赤らめた。
だから俺はあのとき、最後に出合えた女性に、愛の告白をしたのだ。
記憶が蘇る。同時に、彼女が俺に向けて取っていた小さな違和感の正体にも気づく。
あれは俺の告白を意識してのことだったのか。
「まったく……数奇な男だ、君は。こんな骨しかない私の何が良いのだか」
「違います、俺は!」
月に雲がかかり、彼女の顔に影がかかる。
そして俺が瞬きをするうちに、その顔は元の骸骨に戻っていた。
輝いていた周囲の景色も、再びただの闇に戻っている。
「俺は……なんだ?」
「俺は」
スカリアさんは、今の光景に気付いていなかったのだろうか。
俺は、少しだけ言うべきか悩む。
確かに彼女は美しかった。
けれど、俺はあの美貌がなくたって。
たった一日一緒に過ごした彼女のことを、好きになっていただろう。
「やっぱりアナタのことが好きなんだなって」
それを聞いた彼女の顔は、例え骨だけでも分かるくらい、真っ赤になっていた。
次回で一区切りです。