5 逃がれられぬもの
「敵が囲みにきている。君は先に逃げろ」
うとうとと重くなった目蓋が、驚いて反り上がる。
俺はベッドから転げ落ちるように抜け出すと、どういうことかスカリアさんに聞こうとした。
「この程度、騎士ならばよくあることだ。しかし普段は致死性の結界を一帯に張っていて、ここまで迫られることは少ない。今は君の回復に影響がないよう、弱めにしたので狙われやすかったらしい」
「お、俺のせいで……」
「違う。君を助けたのも、結界を弱めたのも私自らがしたくてやったことだ。とにかく馬に乗せるから、近くの街まで避難してくれ」
「ちゃんと、馬に乗れるでしょうか……?」
「安心しろ、スリーピーは賢く脚力もある。君を落とさずに森を駆け抜け、また戻ってくる。そうしたら私も避難する。いいな?」
「は、はい」
蝋燭台を掴み、そのまま裏口を抜けて、馬小屋に行く。
大きな黒馬は、鼻を鳴らして俺を待っていた。
◻︎◻︎◻︎
森の中、俺はスリーピーにしがみ付きながら、この長い暗闇から早く抜け出すことを願っていた。
光のない獣道を、馬は難なく駆け抜けていく。
記憶喪失で、重症も負いながら、また休まることもなく逃げなきゃいけないなんて、以前の俺はどんな業を積んだのだろう。
逃げて逃げたその先で、俺はいつかちゃんと記憶を取り戻せるのだろうか。
(でも暗闇の中で、スカリアさんは戦っている)
あの人にとって夜は戦場なのだろう。
甲冑も馬も黒いのは、昼の戦場で目立つからじゃない。きっと独り闇に溶け込むのに最適だから。
そう、あの人はあんなに強いのに、1人ぼっちだ。
俺に料理を振る舞い、寝場所を用意してくれるほど人の世話に慣れているのに、なぜ俺の一挙一動にあそこまで喜んでくれたのか。
おかえりなさいと告げたとき、返答に間があったのは、言われ慣れてないからではないのか。
「ちょ、ちょっと止まってスリーピー!枝が全身にぶつかって、落ちそう!」
甲冑に身を包んだ騎士ならともかく、生身の俺は姿勢を低くしてもバチバチと枝が肌に当たり、服に食い込み、スリーピーからずり落ちかけていた。
これは記憶喪失前の俺が騎乗経験あったかどうか関係なく、この夜の森を走れる馬が特別なせいな気がする。
スリーピーは足を緩め、俺はなんとか体を立て直す。
「……あれ」
右手に傷がある。
枝葉で切ったのとは違う、小さな文字。
朝にはなかったが、いつの間に。でも寝る前に覚えた違和感は、この身体に刻まれた文字だと思うと合点がいく。
声に出して、読んでみる。
『彼女を助けろ』
感覚で分かる。
それは多分、俺の字だった。
◻︎◻︎◻︎
「なんで引き返しちゃったのかな俺は……」
スリーピーの手綱を引くと、驚くほど素直に元来た道を戻ってくれた。
そりゃ見知らぬ俺なんかより、主人の元に行きたいだろう。
戦いの音が聞こえてくる。
スカリアさんと敵たちのものだろう。
スリーピーは音を立てぬよう、近づくにつれて静かな足運びとなった。
「戻ったところで、俺には何も出来ないのに……」
過去の自分が戦い慣れしてないのは、身体が震えていることで分かる。べたつく汗だってじっとり身体を濡らしている。
あのスカリアさんが負けるわけないんだ。負けたとして、じゃあ次に俺が出て勝てると言ったらそんなことないだろう。
だから、これはただの予感でしかない。
俺が戻らなくちゃいけない、そんな朧気な考えが、指先まで満ち溢れている。
音が止んだ。
俺はそっと奥を覗く。
暗くて全然分からないが、人がいっぱい倒れている。中央には一際大きな影、スカリアさんだろう。
でもあれは膝をついているような……まさか。
(もっと近寄らないと見えないな)
俺はそっと茂みに隠れて忍び寄った。
そのときだった。
「はいはい、分かってるさ。だがな、死ぬ前に一度くらい亡霊の顔を拝んでおこうじゃないか」
兵士の1人がそう言って、スカリアさんのヘルムに手をかけた。
俺は思わず、その近くにあった石を投げてしまった。
まずい、気づかれた。
俺はどうすべきか考える。
というか、なんでスカリアさんはあそこで座っているのか。
見渡すとローブを身につけた8人の兵士が彼女の方に向かって杖を差し出している。
(もしかしてこれのせいか?)
疑念を確証に持っていく暇はない。
1人でも多く邪魔をするべきだと、俺は動き出そうとする。
ガシャアン
小屋の奥で音がして兵士たちは一斉にそちらを向いた。スリーピーだ。
黒馬はそのまま家から飛び出すと、杖を持つ兵士の1人に突進して弾き飛ばした。
呆気に取られるなか、俺は蝋燭台を握る。自動で火のついたそれを、1人のローブに引っ掛けた。
そのままもう1人のほうへ向かう。
「……? あ、熱ッッ!!」
時間差でローブは炎が立ち、兵士は驚き暴れまわる。
隣にいた兵士は彼を助けるべく、杖の先を一度スカリアさんから外す。
そして俺は今、もう1人に向かって足元に掴みかかった。相手はガクンと膝から崩れ落ちた。
今、8人中4人の杖が外れた。
この間、僅か1分にも満たない。
そしてあと10秒もすれば、炎は消火され、兵士たちは再び起き上がり、体勢を整えてそして俺を捕まえて殺すだろう。
だから
「スカリアさん!!」
「よくやった」
バチンと音がする。
地面に転がった俺から見えたのは、両腕を大きく振るうスカリアさんの姿と、杖を構えていた4人の兵士の身体が、その腕の振りに合わせて弾け飛ぶ様子だった。
「そしてよくもやってくれたな、貴殿ら。御礼に全員この剣で弔ってやろう」
「怯むな、かかれえ!!」
兵士たちは彼女に群がり、刃を振るう。
あるいは関節を掴みにかかり、己を犠牲に身動きを封じようとする。
槍を短く掴み、鎧の隙間めがけて直接突き刺そうとするものもいた。
だが無意味。
彼女の身体に斬るべき肉も刺すべき血管もない。
あるのは防げぬほどの怪力だった。
密集した兵士は、そのまま彼女の腕の中で押し潰されて死んでいく。
足で蹴られて内臓が破裂し、口から血を吐いて倒れる。
この夜の闇がなければ、俺はその光景が目に張り付いて悪夢となっていただろう。
「くそ、離れろ!」
俺のしがみついていた兵士は、杖で俺に殴りかかる。
木製とはいえ、この傷だらけの身体には十分堪えた。骨の砕けるような痛みに、俺は叫びとともに拘束を緩めてしまった。
「お前が邪魔をしなければ……!」
今度は俺の頭目掛けて杖が振りかぶられる。
避けなければ死んでしまうと分かるけど、身体は引き攣って這うこともできない。
【何をしている】
低く脳内に轟くようなスカリアさんの声。
兵士は金縛りにあったように動けなくなる。
奥には大量の屍に埋もれたスカリアさんの、ヘルムの隙間から漏れ出た紫色の眼光があった。
ゾッとするほどに美しい。
騎士は体に刺さった槍を引き抜いて片腕を大きくしならせ投げ飛ばす。
その一撃は、俺の前にいた兵士の頭を吹き飛ばした。
肉体が横に倒れ、生暖かい液体を地面にこぼす。
「チッ、生きてる奴らは撤退だ!! 情報を持ち帰るぞ!」
そう言いながら、リーダーらしき狼の顔をした男は身を翻して四つん這いになると、獣の如き速度で走り出した。
兵士たちも命令を聞いたが、殆ど動ける者はいない。
「スリーピー、行くぞ」
騎士は馬に飛び乗った。
そして俺の前まで来る。
「ここより私の側の方が安全だ。乗ってくれ」
差し出されたその手は血だらけ。
だがその声はいつものように優しかった。
しばらくぽかんとした後、ハッとして俺は手を取った。
「しっかり掴まれ、これが亡霊騎士(Living Dead Knight)の姿だ!!」
女騎士を乗せた駿馬は、地面を力強く蹴った。
生けるは死地(Dead)の闇夜(Night)。
その疾走からは、誰も逃れられない。
もう少しで一旦完結です。