1 女騎士の出会いと秘密
冷えた暗闇の中を逃げていた。
知らない場所、知らない言葉。
どこかで聞こえる悲鳴に怯え、ただ追われていることだけは分かって、森の中を走っていた。
けれど最後に追いつかれ、剣で胸から下を切られ、大木を背に座り動けなくなる。
木々の上には青い満月。
目の前には馬に乗った甲冑の騎士。
時が止まったように、その光景が目に焼き付く。
「最後の慈悲だ。言いたい事はあるか……」
鎧の隙間から漏れたのは、透き通るような女の声だった。
馬から降り、俺に近づいてくる。
そしてヘルムを取ったその顔は……
□□□
「……はッ!?」
俺はベッドの上で飛び起きた。
今のは、何だったんだ。そう思いながら毛布を眺め、違和感に気付く。
「……ここ、どこだ?」
四畳ほどの木造の部屋なのは分かる。右手にある窓からは晴れた青空に畑と奥の林が見える。
でも豪華な絨毯も、ランプの置かれた茶色い西洋風の机も見覚えがない。
このベッドもやたらとふかふかとしているが、コテージに泊まった記憶なんてなく、俺は立ち上がって、左手にある扉を開けた。
ガチャリ
鍵口はあるが閉められておらず、そっと扉を開けて向こう側の様子を伺う。
向こう側には、誰もいない。
居間なのだろうか、コの字配列されたソファとテーブルが見える。
更に覗くと、他の部屋の扉も見えた。
「誰も、いない……」
そろりと足を踏み入れる。
窓の外には相変わらず、殺風景な木々しかない。
そのまま隣の扉を開けた。
途端、良い匂いが鼻の奥にまで満たされる。
そこはキッチンのついた小さな部屋だった。食卓の上には鍋と取り皿がある。
蓋を開けると、温かな小麦とバターに野菜の煮込まれたスープが、中に入っている。
「……腹が減ったな」
勝手に食べていいのんだろうか。
そんなわけないよな。でもまだ温かいということは、近くに家主がいるのだろうか。
畑もあったし、庭仕事に出ているのかもしれない。
「……改めて見ると、不思議な家だ」
内装に使われる絨毯や家具は豪華なのに、肝心の家が木肌むき出しで簡素である。
普段住みというよりは、別荘にいる感覚に近い。では、ここの住民はどんな貴族なんだ?
ぐぅ~
腹が鳴った。しばらく待ったが、人の気配はない。
香ばしい匂いだけが立ち込めて、俺を惑わす。
「一つまみくらいなら、良いかな……」
そう納得し、蓋に手を触れたときだ。
「おや、起きたのか」
ドキリと心臓が高鳴る。
両手をパッとテーブルから離して、声の方を向いた。
そこにいたのは、全身を紺に近い黒の甲冑で包んだ、2メートルはある背の高い騎士だった。
眼すらもすっぽりと覆ったヘルムの隙間から、凛々しくも優しげな声が響く。どうやら女性らしい。
「傷の具合は良さそうだな。それに、食欲もあるのか。ひとまず峠は越えたようで何よりだ」
「あの……」
「すまない、驚かせてしまったか……ひとまず腹が減っているなら、そこに座ってくれ。話は、そこのスープを君が飲んでからにしよう」
言われるがままに座ると、女騎士は鎧姿のまま皿にスープを取り分けてくれた。
そのまま騎士は俺の正面に座る。熱いだろうに、甲冑を脱がないままなので圧迫感がすごい。
けれど俺が食すのを待っている様子なので、いただきますと手を合わせ、静かに啜ると口の中で柔らかな味が拡がった。
「美味しい……」
「そ、そうか! 久しぶりに作ってはみたが、気に入ってくれたなら何よりだ」
声を弾ませて喜ぶ女騎士。見た目はともかく、ただ怖いだけの人ではなさそうだ。
俺も腹が満たされると警戒感が薄れかけてきた。
「さて、寝起きで悪いが、いくつか質問をしたい。貴殿の名前と所属はなんだ?」
「名前はともかく、所属……?」
「昨晩、オメルガ帝国の兵士と同伴していただろう。しかし貴殿に武装の類はなく、帝国の紋章どころか備品の一つも持ち合わせていなかった。兵士でなければ、もしや道案内に雇われた百姓かとも思ったが、それにしては手が綺麗すぎる。一体貴殿の身分はなんだ?」
「俺は……」
そう言われてから、全身に動揺が走った。
突然地面がなくなって落ちる感覚、実際はそんなわけないけど、全身の血がさっと抜けるような脱力感。
「ど、どうした!?」
「いえ、その……俺は」
俺は、何者なんだ? それを思い出せないのだ。
突然、自分という存在を見失ったせいで、意図せず嫌な汗が全身から噴き出す。
落ち着け、俺の記憶はどこまである? 今朝起きてからの出来事は覚えている、でもそれより前は……子供の頃は、両親の顔は、友達の名前は……
呼吸が乱れて、折角食べた料理が胸までこみ上げてきそうだ。
「動揺が伝わってくる。どうやら、思い出せないようだな……貴殿に何か事情があることは予想していたが、戦に巻き込まれ、傷を負ったせいで一時的に頭が混乱しているのだろう」
傷……俺は体を撫で、肩から腹にかけて包帯が撒かれているのに気づく。朝起きる前まで、こんなものはなかった、はずだ。なのにそれすらも正しいという自信がない。
両肘をテーブルの上に置くと、俺は頭を抱えながら必死に何か思い出せないか考え込む。
しかし名前すら思い出せない姿をみて、女騎士はため息をついてヘルムを外した。
「だが、落ち着け。君のことは私がしばらく預かる。今は落ち着いて療養に専念すると良い」
「ありがとう、ございます……」
俺は顔を上げた。
「ああ、貴殿はこの私、スカリア・ナイトスモークが守って見せよう」
頼もしい声をあげる女騎士。
その頭部は、骨のみで出来たスケルトンだった。
「……は、い」
口から、その言葉しか漏れなかった。