外殿新造
寧楽京では、京城の外に寺院でも神社でもない、それでいて宮城とも違う四つの建物――社殿と三つの別院が、繋がって中庭を囲うように建てられようとしている。
都の者たちは「巨人の社」と噂した。
和銅三年に遷都した寧楽京には、右京一条の北側に北辺坊と呼ばれる半条だけはみ出した部分がある。これは後の天平神護元年に西大寺を建築する際、新たな宅地として広げることになる場所であるが、この当時はまだ城外であり、まだ何もない野原であった。
一条一坊の北のあたり、平城宮のすぐ北に位置し、坊の半分――八坪の広さに新な城壁が築かれている。寧楽京からは独立しており、左京の東に広がる外京のように繋がってはいない。条というのは東西に広がる帯状区画の総称で、坊というのは条の中を区切った正方形の区画のことを指し、条は八つの坊で構成されていた。
寧楽京は北辺の中央に平城宮がある。平城宮の南中央の門を朱雀門といい、そこから南に伸びる中央の大通りが朱雀大路であった。平城宮から南面して朱雀大路より左を左京、右を右京という。条の南側に面する大路に条名を冠して二条大路・三条大路…十条大路と名付け、一条大路のみ北一条大路と南一条大路となっている。坊は、右京は坊の西側・左京は東側の大路に坊名を冠して、右京一坊大路、左京四坊大路などと呼んだ。この坊の中は東西南北に三つの堀と築地で区分され、一つの小区画を坪と呼ぶ。一坊は十六坪で構成され、平安京では坪が町と呼ばれるようになる(この当時は町は広さの単位)。ちなみに藤原不比等は八町、長屋王は四町、舎人皇子は二町の邸宅を賜っている。
――トンテンカン、トンテンカン。
槌の音も響き渡り、既に出来上がっている建物には人が出入りしていた。新たな城壁の内側には、中央奥に社殿があり、社殿の前には朱塗の大鳥居が建てられている。それを見る限り神社にも見える和風建築で、その周りに並ぶ建物は唐風建築と一見異様に見える。それらには陰陽寮別院と図書寮別院、兵庫寮別院と書かれた扁額が飾られていた。社殿は神祇省、陰陽寮と図書寮は中務省、兵庫寮は兵部省の管轄であり、今までにない形の場所である。これは、陰陽頭が志我閉阿弥陀、図書助が阿倍粳蟲、兵部卿が阿倍首名と舎人皇子に親しい者らであったことから実現したといえる。後世機神寮と呼ばれる三省を横断する機神製造を担う部局の始まりであった。現在は単に外殿と仮称されている。
社殿の前は四方から階段状に地面を窪ませて、二〇尺ばかり低く造られていた。社殿につながる階段の中程から下は石造りの廊下になっていて、巨大な何かが通れるようになっている。この設計をしたのは阿倍粳蟲であった。
「最早、後には引けなくなりましたね……」
「著作殿が、まだ退くつもりが有ったとは」
「いや、そういうことではなく……」
志我閉阿弥陀が、粳蟲の隣で笑っている。彼は最近、陰陽寮よりも、こちらの別院の方にばかり居るような気がしていた。そう感じる粳蟲本人も本寮よりもこちらに居るのだが。官位は粳蟲の方が低いとはいえ、阿弥陀は一介の帰化人に過ぎない。自分が仮初めの責任者であることを自覚していた三省に跨がる実務を取り仕切るのは粳蟲で、その事務能力の高さに阿弥陀は感心していた。
「親王殿下のご期待の程が分かるというもの」
「それに困っているのですけどね」
「貴殿は元皇族故、そこまでお困りでもありますまい」
「……そうでもないのですよ?」
粳蟲の一族である阿倍氏は孝元帝(彦国牽皇尊)の第一皇子であった大毘古皇子の子・河別皇子を祖とする。臣籍降下した河別皇子は建沼河別を名乗り、その雲孫にあたる阿加古が初めて阿倍臣を称して阿倍氏が始まった。その阿倍阿加古の曾孫に阿倍火麻呂と歌麻呂という兄弟があり、名前とは逆に火麻呂が文人で、歌麻呂が武人となって二つの家の家祖となる。文人の火麻呂家からは右大臣・御主人や参議・広庭、図書助・粳蟲が、武人の歌麻呂家からは鎮狄将軍・比羅夫や兵部卿・首名が出ている。
「兵部卿殿も貴殿の親族と聞いているが?」
「ええ、首名殿は遠縁にあたりますが、あまり知らないんですよね」
首を竦めて阿弥陀の顔をみる。阿弥陀は笑顔のままだ。二人の歳は親子ほど離れてはいるが、専門が違えど学術の徒同士、心の通うものもあるのだろう、まるで二十年来の親友のような付き合いをしていた。
「まぁ、あれだけ平素から書に埋もれていればそうもなりましょうなぁ」
「志我閉殿もあまり変わらないと思うのですが……」
慌てて咳払いをする阿弥陀であったが、余り効果はない。二人とも根を詰めすぎて、書に埋もれて文章博士や陰陽博士らに書を整理するので別院から出ているように追い出されたところまで同じであった。
「それにしても、機神はどうやって動いて居たのですかな」
「『臣連伴造国造百八十部幷公民等本記』も調べましたが、手掛かりもありません」
この『臣連伴造国造百八十部幷公民等本記』は大和朝廷に仕えた豪族ら臣・連・伴造・国造と百八十部におよぶ公民らの出自や伝承を蒐めて厩戸皇子と蘇我馬子らが編纂させた歴史書で、舎人皇子が編纂した日本書紀の原本となったものでもあった。別名『臣連伴造国造諸民本記』――通称『本記』とも呼ばれる。
「当然『国記』にも当たりましたが……大和のものではないのですから、載っている訳もないですね」
「なれば、残るは伝承の類を調べるしかないかも知れませぬな」
阿弥陀が至極真面目な顔で言うのが粳蟲には面白かった。佐伯阿良太が居ればもう少し毛人の話を聞けたのかも知れぬが、今は遠き陸奥の地に赴いている。彼から書簡が届いたのは先月だったか、先々月だったか。粳蟲は大野東人と――というよりも代筆しているのは佐伯阿良太であるのだが、書簡の遣り取りをしている。公式な報告書は太政官に上がっているが、機神に関する機密事項は私信という形で舎人皇子と粳蟲にもたらされていた。
「そういえば佐伯少掾殿から古い社を調べていると連絡が……あ!」
「……流石は佐伯殿。やはり此方に残っていただきたかったですな」
同感とばかりに粳蟲が頷く。しかし、毛人出身の佐伯阿良太は如何に佐伯の姓を当主に許され、帝より従七位上に叙されたとしても、京官に就くのは難しいものがあった。
大宝律令によって律令制が定められたことで、全国の神社も神祇官によって治められている。ちなみに神とは天神――すなわち天津神を示し、祇とは地祇――すなわち国津神を意味する。佐伯阿良太はこの国津神の記録を探そうと試みたのであった。誰に見られるかも知れぬ書簡では直接的に記すことが出来ぬため、遠回しな言い様ではあったが汲み取れなかったのは粳蟲の落ち度である。ただし、政治的な駆け引きや女人との和歌の遣り取りの苦手な粳蟲にそれを求めるのも酷ではあるが。
「そうか地祇を調べるのがよいか」
元々国津神は蝦夷や隼人らが信仰していた神々であり、この頃には出自不明の神が祀られた神社が報告されている。『古事記』や『日本書紀』においても「一書曰」「或本云」などと引かれている民間伝承や各地の神社に残っている言い伝えに、機神に関わる物があるかも知れなかった。
闇に閉ざされていた所に、一条の光が差した心持ちである。先に完成していた社殿の地下では、蝦夷らの鎧――蝦甲から大和朝廷風の鎧――挂甲に装い換えをするため、機神の鎧を外す作業が進んでおり、兵庫寮別院では新たな鎧の制作が進められていた。図書寮別院と陰陽寮別院での解明が最も遅れていると言えた。ちなみに蝦夷の字は「蝦のような甲をまとって大弓を使う」ことから宛てられている。
今後は神祗官にも協力を仰ぎたいところではあるが、彼らと舎人皇子派の関係はあまり良くない。口伝を至上とする神祗官に対して記録として日本書紀を編纂した者たちに協力的とはいえなかった。これは仕方のないことである。
「著作佐郎様〜! 阿倍著作様〜!」
図書使部が粳蟲を探している。中庭の数段低いところまで降りていたので、姿が見えなかったのであろう。
「ここに居る。如何した?」
「あ〜、良かった〜。著作佐郎様に親王殿下より使いが参っております」
「皇子のお召しだと?」
粳蟲は阿弥陀と顔を見合わせた。機神に関する変事やもしれぬと、二人は肯き、連れ立って図書寮別院へと向かう。粳蟲が呼ばれたということは、阿弥陀も呼ばれている可能性が高かった。
連続投稿四話目です。
段々と正史とはズレてきていますが、物語は正史と関係ないところで進みますので、お許しあれ(笑)
明日で序章の最終話です。
現在書き溜めてある分はこれにて終了。
このあとは『数寄の長者』の執筆に戻るつもりで、続きは『数寄の長者』の第二章を書き終えてからになります。但し、人気が出たらこちらの続きを優先して書くかも?(笑)