侃々諤々
藤原宇合と大野東人は、寧楽京の左京三条三坊にある舎人皇子の邸宅へと徒歩でゆるゆると向かっていた。普段なら馬に乗って動くところであるが、今日は帝の御前に出ることもあって、馬に乗れる支度はしていない。武人といえども、御前では礼服を着用すると定められているからだ。朝廷は厩戸皇子以来、律令国家を目指し、急速に広まりを見せている。西の大国である唐に肩を並べたい――という長屋王の意気込みは分かるのだが、現実との折り合いがついていないという空気感が漂っていた。
当時は力車と呼ばれる輜重車輌――軍の糧秣運搬用の荷車――が作られるようになり、国衙にも常備されるようになると陸路でも納税が以前よりも集めやすくなった。各国の車持部がその製造を担っていたが、あくまで荷運び用の車である。移動する乗り物といえば輦輿や手輿で、車輪を用いた馬車や牛車は日本ではまだ作られていなかった。輦輿とは轅と呼ばれる長い棒に人が乗る台――輦台をつけたもので、人が肩に担いで移動する。屋形があり、この時代は畳が敷かれていた。手輿は腰の高さで轅を持ち、前後二人で運ぶ小型の輿で腰輿ともいう。
輦輿や手輿を使えるのは皇族と高僧のみに限られており、輿丁や力者も朝廷や寺社に仕える者であった。武官の主な交通手段は馬で、文官は徒歩で朝廷に通っている。勿論、馬は高級品であり、有力貴族でもなければ日常に用いる馬の分まで厩を邸に設けることも、その分の圉人を雇える余裕はなかった。
舎人皇子の邸に着くと、直ぐに母屋――寝殿に通された。寝殿とは邸の主人の居所であり、行事や儀式、来客の応接に用いられた場所である。のちの寝殿造りは対屋などと寝殿を渡殿という屋根付きの廊下で繋いだものだが、この当時にはない。まだ、唐風建築と和風建築が混ざり合っており、寺院建築が官衙や邸宅に用いられ、それぞれの建物は独立していた。どちらかというと邸というよりも館に近い。
寝殿には紀清人や三宅藤麻呂・勝麻呂兄弟といった、舎人皇子主導で行われた国史事業である日本書紀編纂に携わった知識人と阿倍粳蟲や、漢人の帰化人・志我閉阿弥陀や高麗人の帰化人・難波吉成までもが揃っている。いずれも大家であり、知識人らであるのだが、それが侃々諤々議論をしていた。日本書紀の編纂時にはなかった喧騒が舎人皇子の邸宅を包んでいる。
「よう参られた」
「舎人親王殿下におかれましては――」
「此処は私邸ぞ、堅苦しい挨拶はよい。お主らも聴いてみんか? 普段おとなしい学者らが大声で議論するなど、なかなか面白い」
上品な笑いを向けながら、二人を手招きして坐るよう招く。舎人皇子は喧騒の外で酒を飲みながら、議論を音楽代わりに聞いていた。宇合も東人も、舎人皇子の側に侍って、耳を欹てるしかない。
「だから! どうやってそれを証明するんですか!」
「それよりもこの骸――久那吐とやらの和名を付けまいか。呼びにくくてかなわぬ」
「名前より『動かすところを見せよ』との口勅が優先でしょう! とりあえず久那吐でいいじゃないですか!」
骸は久那吐と呼ばれてはいるが、それは蝦夷の言葉であり、大和人には馴染まないのか、阿倍粳蟲以外はアレとか骸などと呼んでいた。名付けに興味があるのは、難波吉成、それに三宅勝麻呂のようだ。志我閉阿弥陀の発言にしきりに肯いている。それよりも構造に興味を示すのが阿倍粳蟲。材質に拘るのは三宅藤麻呂。紀清人に至っては骸の写絵に喰い入っており、他の話を聞いていない。
「いやはや、博士らや助殿までもが言い争うとは」
「面白かろう? そろそろ、話が一巡したようではあるが」
聞けば三日も前から此処に集まって連日この有様だという。流石に舎人皇子も呆れ顔であった。宇合も東人も舎人皇子の労苦を感じ取った。
「まずは名を定めよ。名が定まれば自ずと字も定まろう」
「諾」
舎人皇子の言に大きく肯いて漢語を返したのは志我閉阿弥陀である。一揖して命を受けた。難波吉成は志我閉阿弥陀が主導権を握ったことが不満なのか渋い顔をしながら、小さく頷く。うぅむと唸りながら阿倍粳蟲が口を噤む。
「名を定めるにはこれがどういうものかを定義せねば」
「絡繰のある化外の神の力を秘めたものであろう」
「いや、蝦夷の勇者が着る鎧では?」
「神の依代に似るか」
「巨人という方が近い気がするがな」
それぞれが思うがままに言い出す。喧々囂々、互いの意見を否定するように再び議論が始まった。舎人皇子は宇合と東人を見て肩を竦める。普段学者との付き合いがない二人はこれが学者の本当の姿なのかと、やや引き気味だった。一頻り学者らの議論が落ち着いた頃、ボソリと舎人皇子が呟く。
「――神がかった『からくり』。神絡繰……いや絡繰神か」
全員の声が止まった。声を発した舎人皇子を一斉に振り返る。その場にいた学者らの鬼気迫る表情に流石の舎人皇子もたじろぎをみせて、一歩身を引いた。
「それだ!」
全員の意見が一致した。学者らの声は当て嵌まった歓びとでもいうような喜声である。些か引き気味の舎人皇子を後ろから支えるようしながら宇合と東人が微妙な表情で顔を見合わせていた。
「大変失礼いたしました」
皇子に対してがなり立ててしまったことに気づいた学者らはその場で硬直していた。一人、座から外れていた者が舎人皇子に謝罪を述べる。それは佐伯児真伊奴――改め、佐伯阿良太であった。此度の功績で従七位下となったので名を改めたのである。
「佐伯殿もいらしたか」
東人は阿良太に会釈を返す。共に久那吐の運搬に携わった仲であり、東人としては児屋麻呂の後任にと思って居たのでこの場に居るのは好都合でもあった。
「阿倍図書助殿にあれこれ訊ねられることが多御座いまして、連れてこられた次第にございます」
「絡繰狂の阿倍殿に追い回されるとは、珍しきことよ」
武人らしい笑い飛ばす。凍りついた場の空気を一瞬にして掻き消すほどの笑い声であった。つられて宇合も笑い出す。
「大野按察使は佐伯阿良太を陸奥に連れていきたいのだな?」
二人の親しげな様子を見ていた舎人皇子は東人の考えを察したのか、両人の意思を確認した。恐縮しながらも拱手する東人。佐伯阿良太は手を着いて首肯している。この人事は長屋王の機嫌を損ねぬと考えた舎人皇子は式部省に手を回すことを約した。
「絡繰とは『絡み繰る』――即ち、絡まるように複雑な物を糸を引くように操るということにございます。故に『絡繰』と書く訳ですが、漢字では一字で書くこともできます」
言葉を紐解くように、阿倍粳蟲が喋り始めた。帰化人らと佐伯阿良太たちは大和言葉に疎いからか、粳蟲の言葉を黙って聞いていた。大和人らは何を言い出すのかという顔をしている。
「からくりを宛てた一字とは『機』のことか?」
志我閉阿弥陀が口を挟む。流石に元漢人であった。絡繰は唐の言葉では機械である。機は「ものを動かす細かい仕掛けのもの」の意味で、械は「罪人の手枷のように細かい仕掛けのもの」の意味があるため、神という言葉に添えるのであれば、『機』の方が好いと粳蟲と同じ結論に至ったのであろう。粳蟲が賛意と捉えて大きく頷く。
「私たちはこれの構えも造りも分かりませんが、これが人が操るものであることだけは知っております。故に『機』の字を『くり』と読ませ、神を補い『機神』としては如何でしょう?」
これには三宅兄弟もほぅと感嘆の声を挙げた。
「なるほどのぅ。機神と書いて『クリガミ』か。良いではないか。明日にも早速、お上に奏上しようぞ!」
「機神か」
「機神……」
「良い大和名にございますな」
口々に『クリガミ』を何度も何度も呟いた。誰も違和感がないようだった。絡繰の語源に遡って言葉を紐解き、漢字の訓みを定めるとは、まさに図書寮の仕事である。
「阿倍著作、そなた良い仕事をするな」
「三宅殿、からかってくれるな……」
著作とは図書助の唐名である著作佐郎の略であった。唐の著作佐郎といえば国史編纂の責任者であるが、図書助は国の蔵書の管理と経書の保管と補修および写本が主任務で国史編纂は公文書を扱う内記や外記が担ったため、図書寮は紙・筆・墨の製造が主となって閑職に成りつつあった。しかし、この機神命名を以て陰陽寮と図書寮が両輪となり、正式に機神の究明を担うこととなる。
そのことを阿倍粳蟲が後悔するのは、まだ大分先の話である。