第37章 心の礎
道案内なしで東の森に入るなど、自殺行為に等しいと、ガルべでは長年のうわさになってきた。
それをジョパルはやろうとしている。
「ここか…」
昼間であったが、辺りは霧が立ち込め、鳥のさえずりの代わりにざわざわと葉の群れが不気味にしなった。
すべては東にだけ見られる地層のせいだ。
西の地層はやわらかく、雨によって豊かに樹が生い茂ったが、東の森の地層は堅く、厳しい環境に適応するために強い植物のみが生き残った生存競争の激しい世界だ。
そのため、あらゆる危険に立ち向かおうと、植物は強靭になり、危険な毒を持つシダ類が繁殖した。
堅い地質から養分を吸い取るのは一苦労で、少しでも多くのエネルギーを得ようと樹が競争し、いつしかその根っこはいびつな形に曲がり、その外見が、人々にさらなる恐怖をもたらした。
「俺も聞いたことはあったが、まさかこれほど不気味だとは思わなかったな。」
「なんだか、別世界に来てしまったみたい…」
ハルヴェルトとジェスナの二人はともに帝国育ちだったから、さぞ刺激が大きかったろう。
しかし、二ヴェナに生まれたトヴァンザは少しも驚いていない。
「おい、トヴァンザ。 なんでお前は平気なんだよ? わーとか、ぎゃーとか、叫びたくならないのか?」
ティぺスの言葉に文官は笑って言った。
「いいえ。 これくらいなんでもございません。 以前、この辺りを視察に行ったことがございます。 ですが、この森がどういう構造になっているのかまでは把握できておりませんゆえ、どうかご理解を。」
「行こう。 みんな。」
ジョパルが号令をかけたそのときだった。
「お待ちくだされ。 道案内もなしに抜けられるほど、この森は甘くはありません。」
後ろから市民の格好をした老人が出てきた。
「この森のことを知っているのですか?」
「ええ。 もちろん、あなたのこともです。 ジョパル王子様。」
老人はそう言ってひざまずいて合図した。
「もう出て来ても良いぞ、お前たち。」
彼の声とともに、樹の陰に隠れていたガルべの市民たちが一斉に顔を出した。
「あなたがたは、一体。 私のことを、なぜご存じなのです?」
「お忘れですか? 王子様。 ガルべの民はエデモルカの民。 総督の圧政に耐え、我らは身を粉にして生きてきました。」
どんな大帝国も、いずれは滅びる。
彼らは、いつかエデモルカが復活することを夢に見て、今まで必死に頑張ってきたのだという。
「私たちは、帝国の支配など受けたくありません。 しかし、王子様がいてくれなくては無理なのです。 お願いします。 ジョパル王子様が持っているそのペンダント。 それが我らの希望であるように、我らが王子様の希望でありたいのです。」
民たちは泣いていた。
男も、女も、老婆や子供も、ためらうことなく、彼に助けてくれと心で訴えていた。
「あなたがここへ来た理由も分かっております。 どうか、亡き王妃様の切実な願いをかなえるためにも、新しい国の復興を、ぜひともお手伝いさせてください。」
母上…。
そうだ、母ヘレネの落ちた沼に行かなくては。
ここまで自分は来たのだと、これからもっと強くなって生きていくのだと、伝えなければならない。
ジョパルは老人に手を差し伸べた。
「その涙、喜んで受け入れます。 皆さん、行きましょう! そして、生きましょう!」
「うおおおおおおーっ!」
一人の中年の男が叫びをあげた。
それにつられて、他の民たちも片手を上に伸ばし、木々の先にある天まで声をとどろかせた。
「ジョパル。 助けてあげて。 みんなを…」
ジェスナも感情を抑えきれなくなって泣きだした。
それを彼は優しく自分の胸で抱え、悲しみをゆっくりととかしていくように、そっと彼女をなぐさめる。
「分かってる。 分かってるよ。 必ず、やり遂げてみせる。 だから、そばで見ていてくれ、ジェスナ。 そして、母上…。」
その様子を、ティペスは穏やかな表情で見ていたが、彼でさえも涙を止めることはできず、そっと後ろを向いて、静かに一滴だけ頬からそれを流した。
彼らは森に入り、東へと消えていった。
「王子様…。 今どうしているのですか? 私は、今山のすそ野を歩いています。 とてもさみしく、冷たい大地を。」
ひとり言をつぶやくのは、帝国から追い出されたサナだった。
何のために生きているのか、分からなくなり、その答えを探そうと、必死になってパレヴァンの国境近くの森をさまよっていた。
「私が目を覚ましたとき、ベッドから、あなたの声が聞こえたような気がしました。」
もう何日も眠っていないのだろうか、目にはクマができていた。
「私を呼ぶ声です。 それと、あのラミダン将軍の部屋にあったベッド…。 かすかだったけれど、あなたのにおいがした。」
彼女の眠っていた場所は、以前ジョパルが将軍に帝国へ連れていかれたときに横たわっていた場所だった。
「寒い…。」
サナは吹き付ける風に凍えないように、両手で自分の服のすそを口元までたぐりよせた。
「私はどこへ行けばいいのかしら? 誰も教えてくれない。 誰も。」
すぐ横には、パレヴァンへと続くソワゾフスキーの山脈に積もる雪が見える。
よろめきながら、彼女はひとりぼそりと何かの歌を歌っていたが、途中で目を閉じ、そのまま地面に倒れた。
「…い! …しろ! 大丈夫か!」
背中には人の手の温かさが伝わってきた。
その意識にしがみつきたかったが、体のほうがついていかなかった。
「どうしますか?」
「とりあえず連れて帰ろう。」