第36章 しがみついてもいけない
私には、永遠にあなたを国家という枠に阻ませることによってしか、あなた自身を拒む自信が持てません。
「ごめんなさい…」
サナの意識は混濁しているのに、目からはまるで悲しみを鮮明に悟っているように、次々と涙があふれてきた。
「彼女は一体どうしたのだ?」
「分かりません。 おそらく、精神に深い傷を負っているとしか思えません。」
サナを診察した医者は首を横に振るばかりだ。
「ここは?」
「おお、将軍殿。 彼女が気づかれました。」
そこは将軍の部屋だった。
壁には、帝国の青い軍旗が掛っている。
「一体どうしたのですか? 一人でこんなところまでやってきて、よく衛兵に見つかりませんでしたね? それにあなたの服。 盗賊に襲われたのですか?」
「いえ、私は…」
彼女はこれまでのことを、全て打ち明けた。
「なるほど。」
ジョパルを愛していたが、彼女はまだ将軍と王子の関係を知らなかった。
ラミダンは、まるで怒りを紛らわすかのように、少し外に出て歩きませんかと誘ってきた。
ジョパルは、ジェスナに好かれていたばかりか、二ヴェナの娘まで手中にしていたのか!
「あの? お顔が優れませんが?」
病み上がりの彼女から、彼は逆に励まされてしまった。
「いえ、ご心配、ありがとうございます。」
ジョパルはきっと苦渋の決断を迫られたに違いない。
それは、彼を不幸にしてやりたかった将軍にとっては、朗報であるはずだった。
しかし、ジェスナが戻ってこないどころか、代わりにサナがやってきたのだ。
それもジョパルに向けられた好意を、自分の嫁になることで封殺してしまおうという、ラミダンにとっては恥でしかない理由で。
私は、お前にまた恥をかかされた!
いくら女の前とはいえ、これほど不名誉な事態に黙っていられる人間などいなかったのだ。
「あなたは、私をバカにしているのか?」
「え?」
彼女は予想外の言葉に唖然とした。
「私は、ジェスナに想いを寄せていた。 だが、あのジョパルという男が現れてから、全てが砂となって崩れ去った。 お嬢様、あなたは人の心を考えたことがありますか?」
母の教えのためなのか?
しかし、母はサナのためを思って言ったこと。
結局は彼女自身のためでしかない。
「ジョパルだけでなく、私まで恋路のつらい葛藤に追い込む気ですか!」
「私は、そんなつもりは…」
「あなたのせいなんですよ! そんなつもりではなく、あなたが意識できていないだけです! 酷なことを言うようですが、私は恨んでいる相手のお下がりなど、もらう気もありませんし、もともとあなたに好意など微塵も抱いたことはない!」
彼女はしだいに口に手を当てて、嗚咽し、膝を折って地面に崩れ落ちた。
「すみません。 言いすぎてしまったようですね。 しかし、私も一人の人間です。 人である以上は、こみあげる感情を抑えるにも限界があるのです。 あなたが来たことで、ジョパルへの憎しみが一層増しました。 ですが、同じ経験をした者同士として、あなたを責めることはいたしません。 今の私にとっては、これが精一杯の配慮です。 お許しを。」
将軍はしばらく歩みを止めて立っていたが、文官に急用で呼ばれて、急いで走り去った。
「あ、あ。 ああああああああああああーーっ!」
彼女は顔を両手で覆い、髪の毛をくしゃくしゃになるまで握った。
分厚い灰色の雲の割れ目から、やがて雨がぽつぽつと振ってきて、彼女の体を容赦なくぬらした。
このとき、彼女にそんなに悲しい声で泣かないでくれと、誰かが必死になって頼んだら、その打ち砕かれた心はもとに戻ったのかもしれない。
行くあてもなく、彼女は帝国から出ていった。
もうここまでくれば、べオコスは追ってはこないだろうと、ジョパルは安心して馬から降りた。
あたりは浅い河が流れ、そばには街が見える。
自分の父はここで最期を迎えたのだと、ガルべの民からうわさで聞いたことがあった。
変装までしてガルべの街に入ったはいいが、東の森に行った後、どのように民に自分が王であると証明すればよいのだろう?
エデモルカの王が帰ってきたとうわさが広まれば、たちまちガルべは帝国の干渉を受け、争いの場となってしまう。
「なら、別の場所に行くしかありません。」
宿屋の一室で、ハルヴェルトが言った。
「帝国でも、二ヴェナでも監視の目が届かないところに行くってこと?」
ジェスナはまさかそれはないだろうと思っていた。
監視の目が届かないところとは、未開の地を意味するからだ。
すなわち、東の森のような危険な場所に国の基礎を立てるということである。
そのような場所を拠点にすると言っても、食料が必ず調達できるか分からないし、まず迷って出られなくなってしまうかもしれないのだ。
「道案内が必要です王子。 森に詳しい者を探さなくてはなりません。」
だが、東の森を知っている者など、ガルべでもめったに見かけない。
「行くしかないトヴァンザ。 道案内なしで。」
「そんな。 他に手はないの?」
「ああ。 このままでは全員帝国の兵士に見つかり、捕まる。 そうなったらおしまいだ。」
彼は持っていたカップを一気に傾け、中身を飲み干した。