包囲戦(三十と一夜の短篇第72回)
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先月、中隊は散々な目にあった。
五人も死者が出て、十三人が脱走した。そのうち一人は床屋と医者を兼ねた床屋外科医という男なのだが、こいつは連れ戻そうとする兵隊相手にイヤイヤを駄々っ子のように繰り返したせいで、銃の台尻で殴られ、倒れたところで蹴りが見舞われ、片輪にされてしまった。
「まったく、あいつらときたら。床屋外科医を半殺しにしたら、自分が半殺しにされたとき、どうやって手当てを受けるつもりでいやがるんだ? こりゃあ、新しい軍医をもらわないといかんな」
中隊長のデスパレイ大尉は補充兵を求める書簡を出したが、新しい兵隊がもらえる期待は薄かった。せめて軍医だけでももらわないと怪我の手当てができない。彼の中隊はヴェレダンブルクを包囲する塹壕の南西部にあり、守備隊が籠るふたつの砦〈百万長者〉と〈水飲み百姓〉と対峙していた。濠と土塁で固めた砦には火砲と弩砲があり、幾何学の素養がある築城家の発案により死角を潰したふたつの砦は、どの方向から攻めても十字砲火を食らうよう必殺の銃眼がつくられていたし、敵のクロスボウは巻き上げ機械が必要なくらい強い弦を張っていたので、その矢を食らうことを考えれば、人間の体は紙のようにもろい。おまけに敵は彼の塹壕にイヤガラセ攻撃を仕掛け続けたので、デスパレイ大尉は二十四時間一睡もせず、敵に対応しなければならなかった。二十三時間目には敵の目的はこのおれひとりを疲弊させることなのだと思うほどの憎悪を胃袋にため込んだが、それが罵声となって飛び出す前に敵が退いた。居住壕兼指揮所に戻った彼はスコジェッパ曹長に、たとえ皇帝陛下が来ても起こすなと厳命し、兵隊寝台に寝転がり、布団をかぶった。
だが、一時間もしないうちに曹長に揺さぶり起こされた。
「この馬鹿野郎。起こすなって言っただろうが」
「すいません。中隊長殿。でも、公爵さまが」
「皇帝が来ても起こすなってことは公爵が来ても起こすなってことだ。そのぐらい、考えりゃ分かるだろ?」
「でも、たとえ話じゃなく、本物の公爵さまがおいでになったんですよ」
「どんな公爵だ?」
「若いです。まだ子どもです」
「名乗りは?」
「アプソロン公爵です」
「アプソロン、アプソロン。ほう、結構な名門じゃないか」
「でも、父公爵でなくて御曹司のようです」
「わかった、わかった。起きるから待ってろ」
デスパレイ大尉は鉄の櫛を手に取ってくせ毛を撫でつける努力をし、寝室と司令部を区切っている隙間だらけの板戸を除けた。
一目見て、デスパレイ大尉はアプソロン公爵にむかついた。香水なんざつけ腐って、このガキ。そういうの無駄遣いっていうんだ。しかも、公爵のきれいなきれいな舞踏靴を泥で汚さないために細い絨毯のようなものが指揮所の入り口から伸びていた。この絨毯以外は足で踏まないつもりらしい。
「なんのようだ?」
デスパレイ大尉はぶっきらぼうにきいた。ぞんざいな扱いに慣れていないアプソロン公爵のきれいな顔に軽蔑のようなものが浮かんだが、それでも貴族の子息らしい傲慢さで軽くひと言命令した。
「きみがここの中隊長かね?」
「そうですが」大尉は親子ほど歳の離れた若造の物言いをこらえた。
「わたしを最前線の攻撃拠点まで案内してくれたまえ」
「お断りします」
「きみにそんな返事をする権限はないはずだが」
「こっちは二十四時間ぶっ続けて敵の襲撃に対応して眠いんですよ。戦場観光ならよその中隊でしてくださいよ。なんせ公爵とコネをつなぎたがっているやつがウジャウジャいますからね」
「わかっていないな。わたしはきみに案内を命じているのだ」
「あんたの考えはお見通しですよ。最前線のヤバい塹壕にちょろっと顔を出して、ついでに銃眼なんかからも身を少しさらして、これでおれもひとかどの勇者だって貴族のボンボン仲間にひけらかしたいんでしょう? そんなくっだんねえことにおれの睡眠時間を削る価値なんてありゃしないんですよ。わかったら、帰っていただきましょう。あと五時間したら、また勤務せなならんのです。あんたと違って、こっちは行きたくもないのに最前線に行かねばならんのです」
アプソロン公爵は軽蔑の色を隠さずに行った。
「どうやら真の勇者といわれるきみの噂はデタラメだったようだね」
「誰がそんなことを」
「きみの連隊長だ」
「あのクソジジイ」
「残念だ。きみのことは父上に報告させてもらう。皇帝陛下のために戦う勇士のなかに敢闘精神を叩き込む必要がある中隊長がいるとな」
「へえ。そうですかい。そう、来ますかい。さすが、貴族さまは言うことが違いますねえ。わかりました。そう言われてはこちらが折れるしかありませんな。正直、休暇ももらえず、七か月もここで戦っているおれにこの上、どんな敢闘精神を叩き込むつもりか知りませんが、懲罰部隊に入れられるのも面白くない。曹長! 塹壕にひとっ走りして、とびきり不機嫌な歩兵を三人連れてこい」
スコジェッパ曹長に連れてこられたのはサヴァロ人たちだった。酒焼けした苦虫顔から火縄みたいな口ひげを垂らし、円錐型の帽子をひどく傾けてかぶって、長すぎる外套を引きずるように歩く。彼らはいつも不機嫌だったが、それというのも彼らは騎馬民族だったからだ。ともあれ不機嫌な辺境民族は大尉がこれからやるちょっとした世直しにはうってつけの人材だった。
「よし、お前ら。この気取ったクソガキを縛り上げろ。そんでもって、お望み通り最前線の塹壕から無人地帯に放り出しちまえ。そうしたら、褒美に今日の割り当て分とは別にワインをそれぞれコップ一杯ずつくれてやる」
サヴァロ人たちに荷物みたいに扱われながら公爵がなにか叫んでいたが、すぐに汚いロープでさるぐつわをされた。デスパレイ大尉は眠くてしょうがなかったが、後にまわすわけにはいかない仕事ができたので、眠るわけにはいかなかった。
「曹長。おれの書記を探して、ここに連れてこい。あのやくざものめが。きっとどこかで飲んだくれてるに決まってる。急ぎの仕事だと念押ししてこい」
「でも、中隊長殿。あんなことをして大丈夫でしょうか?」
「それを大丈夫にするためにグラームズをここに連れてくるんだ。さあ、行った行った!」
デスパレイ大尉はアプソロンの父公爵にあてた戦死通告を頭のなかで練り始めた。甘ったれたクソガキがお国のため、皇帝陛下のために立派に死んだときけば、余りの嬉しさに父公爵はクソを漏らすだろう。こういうときは攻撃作戦中の戦死にするか防御作戦中の戦死にするか、判断しなければならない。それができなければ、中隊長は務まらないのだ。
書記のグラームズがやってくるのに一時間もかかった。白髪の混じったおかっぱ頭に文官用のローブをつけたずんぐりした書記がスコジェッパ曹長と憲兵二名に引っぱられてやってきた。その後ろには従軍商人らしい男が前掛けに手を突っ込んでついてくる。
「曹長。なんで憲兵と従軍商人がいるんだ?」
「申し上げます。中隊長殿。グラームズは金もないのに酔っ払って、従軍商人の簡易酒場用のテーブルをひとつ壊したのであります。そのためグラームズは無銭飲食と器物破損で憲兵に捕まり、こっちの従軍商人は壊されたテーブルの弁償を求めて、来たのであります」
口から揚げ古した油のにおいがする従軍商人が頭をぺこりと下げた。「中隊長殿。このやくざな書記はわたくしの酒場で無銭飲食を働いた上、テーブルの上で踊り、そのままテーブルを壊してしまったのであります」
「それで?」
「わたくしとしては葡萄酒六杯と鮒のフライひとつ、それにテーブルひとつ、あわせて四アシェリアと二十三セスタルトいただきます」
「どうぞいただいてくれ」
「しかし、中隊長殿。あなたの書記は一文無しなのです」
「そうだろうな」
「ですから、上官であるあなたに損失の補填をしていただきたいのです」
「妥当な判断だな」
「では、いただけますか? 四アシェリアと二十三セスタルト」
「払いたいのは山々だが、中隊の金庫の鍵を持っているのは我らが連隊長閣下ただひとりなんだよ。もちろん鍵が手元にあれば、金庫を開けて、喜んで四アシェリアと二十三セスタルトを払おうじゃないか。だが、鍵がないんだ。連隊長の許可なく中隊の金を使うことはできんのだ」
「では、わたくしはどうしたらいいのです? 葡萄酒だってタダで飲ませるために仕入れているんじゃないんですよ」
守銭奴のクズめ。中隊のカネを狙うやつはみな地獄行きだ。
「連隊長に直接話すんですな。大丈夫です。うちの連隊長はそういう不義理を決して許さない正義の人ですから」
憲兵に連れられて従軍商人は連隊長のいる後方司令部行きの塹壕に去っていった。あのケチでしみったれた連隊長のことだから、従軍商人はうまくいけば縛り首、いかなかったとしても棒杭に結びつけられて鞭打ちをたっぷり食らうことだろう。刑の軽重はひとえに連隊長の痔痛の程度にかかっていた。
デスパレイ大尉は書記と向かい合った。グラームズ書記は今更ながら大尉に取り入ろうと、そんな歳でもないだろうに茶目っ気のあるところを顔の作り方で見せようとしていた。
「気持ち悪い顔をするんじゃない、この馬鹿。おれはやろうと思えば、お前をさっきの商人にくれてやって債務監獄に放り込ませることもできるんだぞ。そこじゃ、頭のおかしい憲兵どもが夜な夜な囚人のケツを掘ってるともっぱらだ。お前、ケツを掘られたいか? 血が出るまで掘られたいか?」
「いえ、とんでもございません、中隊長さま! いと高き万軍の主さま! あなたの御威光はこの塹壕をあまねく照らし――」
「わかった。わかった。もういい。それで、あの商人は葡萄酒一杯いくらで売っていた?」
「五セスタルトです。中隊長さま」
「えらく吹っかけたな」
「はい、暴利なのであります。中隊長さま。やつは品不足だと言っていますが、我々のあいだではあの男がどこかに酒を隠していて、値上がりするのを待っていることは周知の事実でございまして」
「鮒のフライはいくらだ?」
「十五セスタルトもしたのです。中隊長さま。もとはと言えば、そこいらの川からミミズ一匹で得たものをとんでもない値段を吹っかけるのであります。ああ、中隊長さま。わたくしは無銭飲食をしたのではないのです。ただ、適正価格というものをあの強欲な蛇に教えてやろうと思っただけなのであります」
「テーブルを壊したのも適正価格のためか」
「さようでございます。うまれめでたき中隊長さま」
「もういい。それより仕事しろ。いまからおれが言うことを一文字残らず、きちんと書け。一文字でも抜かしたら、足枷つけて無人地帯に放り出してやる。よーし、始めるぞ。まず、最初の出だしだ。アプソロン公爵閣下」
「アプソロン公爵閣下」書き物机に座った書記はさらさらと単語を綴った。
「このようなお手紙を閣下にお送りすることになり、小官の心は千々の苦しみに押しつぶされんばかりであります」
「このような――お手紙――千々の苦しみ」
「公爵閣下のご子息は八八九年四月二日、卑劣な敵軍の攻撃により戦死いたしました。ご子息のアプソロン公爵閣下は連隊旗手とともに敵軍に包囲され、絶望的な状況下において決して取り乱すことなく、冷静に敵の攻撃を撃退し続けましたが、ご子息の麾下は四十、敵は三百――いや、三千にしよう。そっちのほうがぐんとよくなる。三千だ」
「冷静に――敵の攻撃を撃退し――続けましたが――ご子息の麾下は四十、敵は三百――いや、三千にしよう。そっちのほうがぐんとよくなる――三千だ」
「馬鹿っ! それは書かんでいいんだ!」
「馬鹿っ! それは書かんでいいんだ!」
「だから、書くなと言ってんだろ!」
「だから、書くなと言ってんだろ!」
「スコジェッパ! このウスラ馬鹿を足枷つけて無人地帯に放り出せ!」
「でも、中隊長さま! わたくしは中隊長さまの言いつけを守ったのであります! 中隊長さまは一文字でも抜かしたら、無人地帯に放り出すとおっしゃられたのですよ!」
「黙れ、このマヌケ! お前には上官を敬うってことがどれほど大切なことかしっかり分からせてやる。さあ、曹長。こいつを連れていけ! ああ、それと帰る途中で〈オサラバ塹壕〉に行って、あのクソガキがくたばってるかどうか見てこい。もし、くたばってなかったら、くたばるようになにか努力しろ。命令は以上だ」
ああ、偉大なる中隊長さま、故郷にはわたくしの仕送りを待つ家族がウンヌンと喚きながら、グラームズが曹長に連れていかれると、デスパレイ大尉は自分で文章を書くはめになった。自分の字は悪魔に呪われたみたいに汚く、読みにくく、ちょっと見ただけでも不愉快な代物だったが、背に腹は代えられない。結局、アプソロン公爵は皇帝陛下より下賜された連隊旗を守るために三万の大軍と戦い、胸に銃弾を受け、背中には矢、頭にも刀傷を負って、十五か所の致命傷を負いながら連隊旗を放すことなく、死に物狂いで戦い、敵が積み重ねた屍の数は五百余り。やがて味方の援軍が敵を蹴散らすと、健気な少年将校は「旗は無事ですか?」とたずね、無事だとこたえると、「皇帝陛下の旗のために死ねるのです。こんなに素晴らしいことはありません」とにこりと笑って亡くなったことになった。自分でも盛り過ぎたと思ったが、しかし貴族というのは釣り人と同じで獲物を誇張する癖がある。それを自分が代わりにやってやったまでのことだ。
「中隊長殿。スコジェッパ曹長、ただいま戻りました」
「よし。あのガキはくたばっていたか?」
「くたばっていたのであります。頭に二発撃ちこまれていて、顔がきれいに消し飛んでいたので、実の親だって見分けられない状態でしたが、とにかくくたばっていたのであります」
「素晴らしい。小悪党をあの世送りにすると清々するな。じゃあ、この戦死報告を伝令に持たせて、連隊司令部に持って行かせろ。おれは寝るから、今度こそ起こすなよ」
「中隊長殿」
「なんだ、まだなにかあるのか?」
「サヴァロ人たちがワインを欲しがってます。公爵を無人地帯に放り出したら一杯ずつワインを支給するという約束を守ってほしいとのことです」
「中隊のワインはあとどのくらいある?」
「樽いっぱいにあるのであります」
「よし。じゃあ、サヴァロ人たちがワインを要求したら、おとといきやがれと言っておけ」
「そんなことして怒りませんかね?」
「怒る。当たり前だ。それをぎゃふんと黙らせるのがお前たち下士官の力ってやつだ。それにおれたちはな、帝国軍人だ。帝国ってのは少数民族をいじめるのが仕事なんだからサヴァロ人との約束なんざ好きなように破ってもいいんだ。じゃあ、今度こそ起こすなよ。ああ、それと喉が渇いたから、何かひと瓶買ってきてくれ」
デスパレイ大尉は首から下げた鍵を外して、自分の寝台の下から引きずり出した中隊金庫を開け、アシェリア銀貨を一枚軍曹に投げた。
「できれば、クルミのブランデーがいい。あれは実にうまい。じゃあ、おれは寝る。おやすみ」
2
傭兵隊の連隊長はまず皇帝から連隊を編成するための資金をもらうのだが、その半分は連隊長の懐に消える。次に連隊副官が取り、司令部付き将校が取り、そして、デスパレイ大尉のような指揮官たちが取り、軍曹が取り、もし残っていれば兵隊たちに払われた。だが、ここ三か月は兵隊たちには支払われていなかった。理由は簡単で皇帝が金をケチって連隊長に渡さなかったからだ。傭兵隊に支払われる金はどうも寵姫の宝石代になっているようだった。傭兵隊の連隊長というのは強欲なことでは誰にも負けない連中であり、自分の既得権益に手を出すやつは相手が皇帝だろうと宣戦布告で応じるのを恥とも思わなかった。連隊長である大佐たちはすぐに集まって、もしこのまま皇帝が金を支払わないなら包囲を解いて、もっと簡単に落ちて略奪も期待できる割りのいい都市を襲おうということになっていた。
デスパレイ大尉は自分の連隊長であるシュトルバ大佐から呼び出しを受け、パヴリク士官候補生をつれて、後方へつながる塹壕を進んでいた。すると、隣の前線を受け持っているロウバル連隊の中隊長カムブリッジ大尉があらわれて、給料はもらったかとたずねてきた。
「もらってないぞ」
「そんなはずはないんだがな」
「なんで?」
「うちのジジイからきいた話じゃ、ジジイどもが集まって皇帝が金払わないならここから引き上げるって多数決で決めようとしたら、お前のとこのジジイが反対票を入れたんだよ。給料が滞るとしても帝国軍人としての矜持だけは捨てるべきではない、ヴェレダンブルクの包囲をやめることは軍人としての誇りを捨てることだってぬかしたそうだぜ」
「んな馬鹿な。金が払われないならヴェレダンブルクから引き上げるってのはあいつの脳みそから出てきたアイディアなんだぞ」
「お前んとこのジジイは皇帝から金をもらってるんじゃねえのか?」
「もらってるとしても、おれのところには降りてこねえ」
「あ、あのっ」と、ふたりの大尉の会話をきいていたパヴリク士官候補生が意を決して言った。「その、我々の連隊長をジジイ呼ばわりするのは、その、あまり好ましくないのではありませんか?」
カムブリッジ大尉は初めてパヴリクの存在に気づいたといった調子でねめつけた。
「おい、デスパレイ。このトンマ、どこの産だ?」
「おい、パヴリク。お前がどこの出身か言ってやれ」
「栄えある帝都シュヴァリアガルドの出身です」
「シュヴァリアガルドの士官候補生ねえ。じゃあ、おれたちと違って、士官学校もちゃんと出たんだな?」
「はい」
「何位で?」
「首席だとよ」パヴリクがなかなか言い出そうとしないのでデスパレイ大尉が代わりに言った。
ひゅう、とカムブリッジ大尉は口笛を吹き、それはそれは、と恐れ入ったふりをした。
「いずれ、このパヴリクが出世しておれたちの将軍になるかもしれんからな。今のうちに売れるだけの恩を全部売っちまうつもりだ」
「いえ。まだ、僕は――」
「それより」と、カムブリッジ大尉。「なぜ、我らが連隊長をジジイと呼ぶのか。教えてやるよ。連隊長がジジイなのはやつらがクソジジイだからだ。どいつもこいつも無駄に歳食って、戦争なんかろくにやらず、おれたちの金をむさぼるか娼婦の体をむさぼるかして毎日を生きてる因業ジジイだからだ。おれたちをあのひき肉機に突撃させて、自分は勲章だの領地だの褒賞金だのをひとり占めする卑劣極まりないゴミだからだ。ジジイの呼び名がひっかかるなら、くたばりぞこないの老いぼれと呼んでもいい。だが、これは正確さを欠く表現だ。なぜなら、我らが連隊長閣下はこれみな例外なく、敵の矢弾の届かない安全な位置にいるから、やつらがくたばることはないのだ。おれたちがくたばることはあってもな。我々将校はその言葉が常に正確無比でなければならない。よって、連隊長はジジイと呼ぶのが最適なのだ。以上、今日の授業はおしまい」
「しかも、あいつらは決まって男爵を自称する。あれはなんでなんだろうなあ」
「まあ、傭兵なんてのは皇帝陛下から見たら、薄汚い使い捨てのちり紙みたいなもんだからな。せいぜい出世して男爵どまりってことだ。男爵じゃ騎士よりひとつえらいだけだもんな」
「しかし、そういうことか。皇帝はジジイどもを手なずけるためにうちのジジイに賄賂を贈ったわけだ。まあ、賄賂っつっても、本来支払われるべき金なんだが。でも、これで読めたぞ。あいつがおれを呼んだのはおれに賄賂を渡して、他の中隊長へ支払う分を自分の懐に入れるためだ。それにパヴリクを連れてこいっていったのも、うちのジジイだ。つまり、未来の司令官にゴマをするつもりだ。たかだか銀貨十枚か二十枚でな」
「たとえそうだとしても、僕は受け取りません」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ、パヴリク? お前が受け取らなきゃ、その分が他のやつにまわるとでも思ってるのか? 馬鹿馬鹿しい。そのまま連隊長のポケットに逆戻りで、今夜にも女のおっぱい揉みまくるために支払われて消えるに決まってる」
「でも、こんな不正が許されるんですか?」
「おれが金を受け取れる場合だけ許される」
「そんな」
「処世術の一種だ。とにかくジジイのもとに行ってみよう」
シュトルバ連隊の連隊司令部は市郊外の民家と商店が数軒集まった十字路にあった。中庭のある二階建ての宿屋がそのまま連隊司令部兼宿舎に使われていて、そこでは役得が利権の鍋から噴きこぼれているらしく、下っ端の番兵ですらその分厚い唇をラードでテカテカさせていた。見れば、足元ではひと口大に切ったソーセージがふた切れ、小鍋のなかでパチパチと脂をはじいていた。
「連隊長に呼ばれてきた。第三中隊のデスパレイ大尉だ。こっちはパヴリク士官候補生。なかに行って、デスパレイ大尉が来たと伝えてこい」
番兵が宿舎に入ると、デスパレイ大尉は鉄のスプーンを懐から取り出して、ソーセージをふた切れすくい上げると口に放り込んだ。熱くて、香辛料がよくきいた素晴らしいソーセージだった。ソーセージが大尉の胃袋に賓客として迎え入れられたその直後、番兵がもどってきた。
「連隊長殿がお会いになるそうです。あれ? 大尉殿、ソーセージを見かけませんでしたか?」
「いや。見かけてないが」
「でも、鍋にふた切れあったはずなんですが」
「おれは知らんよ」
シュトルバ連隊長は最近、薬味の利き過ぎた焼き肉を食べたせいで悪化した痔を直すために薬湯を張ったたらいに尻を突っ込んでいた。ふたりの召使女が暖炉で連隊長のケツのために湯を沸かし、薬湯の温度が下がらないよう面倒を見ていた。髪も口ひげもすっかり白くなった老人であったが、老人に期待される落ち着きや知識といったものとは無縁の老人であり、強欲で偏屈で堪えが利かず、痔が治らないクソジジイであった。傭兵連隊ではちょくちょく兵隊が処刑されるが、それが執行されるか減刑されるかはひとえに連隊長の尻にできた痔の具合にかかっていた。痔がひどく痛み、健康なケツの穴を持っているやつがみな憎くなると、自殺突撃を敢行させた。しかし、いくら痔が痛くても将軍が目の前にいれば、へいこらできるくらいの余裕はあった。なにせ使途不明金について将軍から直接問い詰められたとき、将軍は怒りにまかせて、連隊長の尻を痔が切れるくらい強く蹴っ飛ばしたが、連隊長はあっぱれなケツと卑屈さの持ち主だったので「わたしのケツを蹴ってくださってありがとうございます、閣下」とへこへこ頭を下げた。だが、それでもやはりシュトルバ連隊の命運はひとりの老人のケツの穴のご機嫌にかかっているのだった。
「おお、来たか。大尉。元気にやっちょるかね?」
「はあ。死なない程度に元気です」
「それは結構なことじゃ。この頃の中隊長は連隊長の知らないところで勝手に死ぬやつが多くて困る。グレゼランドのところじゃ、古参の中隊長がひとり、連隊長に断りもなく首を吊ったと大騒ぎになったそうじゃ。世も末だ。連隊長と中隊長ってのは言ってみれば、親と子の関係じゃ。子が親に無断で死ぬことは最大の親不孝だ。そうじゃろう?」
「はい。そうですね」
おれが親なら自分の子どもは絶対塹壕に近寄らせないな、と思いつつ、きたるべき給料の支払に備えて、服従のマヌケ面を維持しておく。と、いうのも、ケツをたらいに突っ込んだ連隊長の手の届くところにずっしりと銀貨が入っていそうな袋がひとつ革ひもで口を結ばれて放り出してあったからだ。
「なあ、大尉。これもわしがお前のことを我が子同然に思っておるからじゃ。我が連隊の財政状況は相変わらず厳しいが(とはいいながら、連隊長には薬草とお湯とそのお湯を温めるための泥炭とそれに女中をふたり用意できる金があるのだが)、くじけてはいかん。そりゃあ、今はいい目を見ないかもしれんが、いつか風向きも変わって、金が、それも大金が、もう勘弁してくださいってくらい流れてくるようになる。自分の連隊長の言うことを親の言葉として信じなさい。わしが言いたいのは、とにかくくじけてはいかんということだ。よし、帰ってよろしい」
デスパレイ大尉は怒りで頭がおかしくなる一歩手前まで言った。そして、食料庫に行き、種をとっていないトウガラシをひとつ失敬すると、これをあのケツの穴に突っ込む手段がないものかと必死に知恵をめぐらせた。連隊長がケツからの出血多量で死ねば、多くの中隊長が救われるのだ。これは世直しだ。正義の発生だ。復讐の女神の御心だ。
結局、大尉はパヴリク士官候補生の必死の説得で大人しく、自分の中隊塹壕に戻り、司令部になっている掩蔽壕に帰った。だが、指揮官壕でひとりになると、もらえるはずだった金で買おうと思ったものたちが幻覚となってあらわれて、彼をさんざんになぶった。デスパレイ大尉が連隊長に呼び出されたことをききつけた他の中隊長たちはデスパレイ大尉が口止め料込みで給料をもらっていると思って、その金にたかろうと集まってきたが、デスパレイ大尉が目には見えないブランデーやローストチキン相手に腕をふりまわし、神を呪う言葉を吐きながら、欠乏と欲望を相手に勝ち目のない戦いを切り結んでいるのを見て、中隊長たちは久しぶりの現金収入をあきらめたのだった。