一章 銀髪赤眼の少女 その6
公園を出た直後、またしても紫色の蛇が現れる。サイズが違うことから、さっきの蛇ではないのだろうということは分かるが、それでも不気味な外見の蛇を何度も見るのは気持ちのいいものでは無い。
「望愛、あの蛇は一体――」
問おうとしたものの、彼女は合図も無く蛇のいない方向へまた駆け出した。
街灯が後ろへ凄まじい速度で流れていく。次第に俺の息が切れてきたが、望愛は足を緩めずむしろどんどん加速していく。
蛇はその後も次々と出てきて、なぜか俺達に襲い掛かろうとしてくる。
その度に方向転換して、休むことなく走り続ける。時には生ごみ臭い隘路にさえ入った。
次第に人気がなくなってきて、明かりも少なくなってくる。
気が付くと俺達は、廃れた港にいた。
辺りを窺い、ようやく望愛は足を止めた。
俺はといえばマラソンの後のように息が乱れて、全身から滝のように汗が流れていた。頭の中なんか霧がかかったようにぼうっとしている。
「……なあ。あの蛇共、俺達のこと狙っていなかったか?」
「……………………」
望愛はまだ気を緩めておらず、神経を研ぎ澄まして辺りを窺っていた。
その空気を切断するような気迫に、俺は言葉を失う。
二人の間に流れる沈黙を潮騒が埋める。
気まずさから逃れるように俺は海を眺めた。
明かりも無い廃港の海は墨汁を垂らしたように黒い。波も穏やかで、月光を受ける様はそこそこ絵画的と言えなくもなかった。ここが廃港でなければ、なおよかったのだが。
その黒い海から、潮騒に混じってこぽこぽと湯が沸くような音が聞こえた。
目を凝らしてみると、海の中から小さな泡が浮いていた。
もっとよく見てみようとかがんだ瞬間、水面が砕けた。
「は……?」
突然の出来事に思考が止まる。
目前にはいかつい顔をした蛇。サイズは今まで一番大きく、がばっと開いた口の中に俺の頭が収まってしまいそうだ。先の分かれた舌がくねくねと踊っている。肌は薄気味の悪い紫色のうろこで覆われており、海水でぬめりと濡れていた。瞳だけは円らで可愛らしく、その分全身の気色の悪さが際立っていた。
二本の歯が放った鈍い光に、俺の意識が現実に引き戻される。
ヤバイ、そう思ったが脳の発した回避せよという命令を体が受け付けない。トラックに轢かれそうになった時と同じで、命が危うくなると人間の体はポンコツになるらしい。代わりに鋭敏な感覚を得た神経は、目前の光景をカメラで連写するように捉える。
俺の首を目掛けて跳躍していた。あの鋭い歯なら、易々と皮を突き破るだろう。恐怖で肌が泡立つ。
今度こそ死ぬのだろうか? せっかく望愛に命を助けてもらったのに?
そんなの嫌だと心が喚く。
死にたくない、生きたい。
生きなきゃいけない。こんなつまらないことで死んでたまるか――!
体が動いた。タールの海を泳いでいるようにゆったりした動作だが、それでも動いた。
手を動かし、蛇の首根っこをつかもうとする。しかし間に合わない。
「――暁也さん!?」
望愛がこちらに気付いたのだろう、悲鳴のような声を上げた。
――悪い、望愛。結局、俺は死ぬ運命にあったみたいだ。
唇を噛んで、俺は目を閉じた。
「今度こそ、水晶の出番」
間近から声が聞こえた。幼さが残る舌ったらずな感じと、無感情さが混じった不思議な声音。
直後、風切り音が耳元をかすめた。
瞬く間にさっきまで迫っていた危機感が消え失せる。
水面を見ると、頭が爆ぜて身体が真っ二つに斬られた蛇の死骸がぷかぷかと浮いていた。
その時の俺はとても落ち着いていた。一日の間に二度も命を落としかければ、立ち直るのも早い。人は意外にも順応性が高かったようだ。
「……やっぱり、ヨルムガンド」
そして俺の横に、小さな少女が立っていた。
色素の抜けた短髪。爛々と輝く紅い瞳。夜の暗闇のせいだろうか、死期の近い病人のように肌が青白かった。
格好は分からない。黒いマントが全身を覆っているからだ。
怪しい雰囲気を纏っている、というのが俺が少女に抱いた第一印象だった。頭頂部から爪先まで、どこを見ても人を不安な気分にさせる。
「……お前が俺を助けてくれたのか?」
少女は俺の質問に答えることなく、俺の手を引いた。
「今すぐ、ここから離れる」
「あ、ああ」
確かに、命を落としかけた場所にいつまでも留まるのは危険だ。俺は少女に促されるままに立ち上がった。
「……あなたは、何者なんですか?」
望愛は警戒した様子で少女に問う。
能面のような無表情を崩すことなく、少女は答えた。
「私は水晶」
「私がお聞きしたいのは、そういうことじゃなくて……」
「それより、ここを離れる。まだヨルムガンドは潜んでいる」
望愛は納得はしていなさそうだがひとまず言葉を飲み込み、歩み出した水晶という少女と引かれる俺の後に続いた。