一章 銀髪赤眼の少女 その5
ひとまず近くの公園に移動して望愛を介抱した。
彼女は涙が枯れるんじゃないかってぐらい、肩を震わせて泣いた。
望愛が泣き止む頃には日が暮れていた。
日中はまだまだ熱いが、さすがに秋になると夜は少し肌寒かった。
俺は望愛が泣き止むのを見計らってハンカチを差し出した。
「ほら、ハンカチ」
「え、でも……」
彼女は俺とハンカチを交互に見るだけで、なかなか受け取ろうとしてくれない。
「いいから。何だったら、鼻水をかんでもいいぞ」
「い、いえ、そんなことは……。では暁也さんのご厚情に甘えまして、お借りします」
無理に押し付けると、ようやく受け取ってくれた。
「……これ、布がまだしっかりしてます。新品ですか?」
「ああ。おまけに、今日一日使ってないぞ。トイレの後はズボンで拭いちゃったからな」
胸を張って言うと、望愛に苦笑されてしまった。
「相変わらず、物臭なんですね」
「ああ。部屋も汚いままだ」
「くすくす、お掃除はきちんとしないとダメですよ」
ようやく彼女の暗い空気が和らいできた。
「ごめんなさい、ご迷惑をおかけしてしまって」
「いや、これぐらい当然だろ。だって俺は、お前に命を助けられたんだぜ。あ、そういえばまだ礼を言ってなかったな。本当にありがとう」
「こちらこそ、当然のことをしたまでですよ」
そう平然と言ってのける望愛の声に、迷いはなかった。
「今度はお返しに、俺が望愛を助けてやる」
「それは楽しみです。期待して待ってますよ」
悪気の無い笑みなのだが、逆にそれが気に障る。
「……絶対、本心じゃないだろう」
「いいえ、心からの言葉です。期待して待ってますよ」
落ち着いた態度で繰り返す望愛。そういえばこういうヤツだったなとおぼろげな記憶を辿って納得した。
「お前って昔から超人的というか、ヒーローみたいに完璧って感じだよな」
何か地雷を踏んでしまったのか、途端に望愛の顔に影が落ちた。
「……いえ。そんなことありませんよ」
何がいけなかったのか自分の発言を振り返るが、よく分からない。
どうにか機嫌を取ろうと望愛を観察していると、赤いリボンに気付いた。
「それ、まだ付けてたんだな」
「え?」
「俺が別れ際に渡したやつだろ、そのリボン」
まるで新品のようにきれいだ。よほど大事にしてくれていたんだろう。
「はい。私の宝物ですから……」
少し彼女の表情が明るくなる。
このままムードを盛り上げようと、俺は勢い込んで言う。
「あのさ、今日お前の家に行っていいか?」
「え? わ、私の家……ですか?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で目をぱちくりさせる望愛。
「ああ。久しぶりに、望愛のおじさんとおばさんにも会いたいしさ」
その瞬間、彼女の顔が青ざめた。唇もぷるぷる震えている。
「……どうした?」
「あ、その……ごめんなさい」
なぜか謝られ、黙り込んでしまう。
「六年ってさ、結構長かったよな」
「六年……?」
どうにか場を繋ごうと話題を出したが、返ってきた声は今までになく沈んだもの。望愛の表情は暗く曇ったままだ。
「ああ。お前がイギリスに越してから、やっと六年経ったんだ」
「そうですか、もうそんなに……」
ふわっと風が吹いてきた。潮の香りが二人の間を抜けていく。
気まずさに耐えられなくなって、俺はなんとなしにライホを取り出そうと鞄に手を突っ込んだ。
だがいつも仕舞っている場所に、触り慣れた感触がない。
鞄をひっくり返してみるも、ライホは見当たらない。
「どうしたのですか?」
「あ、いや。ライホが無くってさ」
「携帯電話ですか? それなら、トラックに踏みつぶされて壊れてましたよ」
「……ああ、あの時に」
歩きライホをしていたせいで、事故に巻き込まれたのだ。
「俺の命の次に大切なものが……」
「あの、私のライホをお貸ししましょうか?」
「あ、いや別に今必要なわけじゃ……」
望愛は手早く鞄からライホを取り出す。ふと彼女のライホケースにプリントされていたものが目に入った。それは懐かしの、魔法少女のキャラだった。昔の作品で名前はもう忘れてしまったが……。
「そういえば、望愛って魔法少女が好きだったな」
途端に彼女の表情が満開の花園のように華やいだ。
「はい、こっちに帰ってきて真っ先にチェックしちゃいました! 今のお気に入りは魔法少女×無限世界というものでして……」
「あ、そ、それぐらいで勘弁してくれ……」
オタク特有の早口が始まりかけたのを察し、思わずストップをかけた。
実は今望愛が言いかけていたものは俺も見ているアニメなのだが、それを言ったらどうなるかは火を見るより明らかだ。口は禍の元、沈黙は金なり。
さて渡されたはいいが、どうしよう。別にどこかに連絡を取るつもりは無いし、ネットで調べ物をする気もなかった。
考えた末、俺は望愛にライホのレンズを向けた。
「一足す一は?」
「え、えっと……二?」
フラッシュが焚かれ、画面に鳩が豆鉄砲を食ったような顔の望愛が映しだされる。
「うん、いい顔で撮れたぞ」
「あ、あの……」
戸惑う望愛に、俺はライホを返す。
「後でデータを送ってくれ」
彼女は顔を真っ赤にしてライホを握り締めた。
「い、嫌ですよ」
「……千円か?」
「お金を払ってもダメです!」
一生懸命に拒んでいるが、この調子なら数日経てば気が変わっているかもしれない。改めてお願いしてみよう。
「もう、暁也さんは……。携帯電話は玩具じゃないんですよ?」
「あはは、すまん、すまん。ライホは今のライフラインだもんな。……はあ、明日からどうするかな」
「でも失ったのが携帯電話で良かったじゃないですか。命に代えは無いんですから」
励まされても、そう簡単に気分は晴れるものでは無い。
「ゲームのデータにも代えが無いんだよ。ああ、自分の半身が……いたっ!」
唐突に頬が真横に弾け飛ぶ。後から火傷のような痛みが広がった。
「……暁也さん」
望愛の振り切った手を見て、ようやく俺は彼女に頬を叩かれたのだと知る。
「私は冗談で申しているんじゃありませんよ」
彼女の声音はぶるぶると震えていた。目の端に溜まった涙はさっきとは違って、ぼたぼたとスカートの上に落ちた。
俺は何も言えず、ただ突き刺さるような視線に耐えることしかできなかった。
その直後、背後からがさがさという葉々が擦れるような音が聞こえた。
目の端で音の正体を探す。見ているとしげみの中から一匹の蛇が姿を現した。縄のように細いが、図体が異様に長く小学校の頃に体育倉庫で見た綱引き用のロープを思い出した。紫色のうろこ肌で、いかにも毒々しい外見だった。
望愛も俺の視線に気付き、その後を目で追う。
次の瞬間、彼女の顔の血の気がさっと引いていった。
「嘘、何でここに……?」
目が大きく見開かれ、唇がぶるぶる震えている。珍しく動揺しているようだ。
「おい、いったいどうした――」
前触れなく望愛に腕をつかまれた。そして彼女らしかぬ乱暴さでそのまま引っ張られ、蛇から逃げるように走り出す。
何の準備もしていなかった俺は躓きながらも、望愛の後をついていく。
「きゅ、急にどうしたんだよ?」
「いいから、走ってください!」
有無を言わさぬ望愛の迫力に、俺は口を閉ざす。思ったより彼女の脚が速くて、話しかける余裕も無かった。