一章 銀髪赤眼の少女 その3
教室から出た途端に、どっと疲労感がのしかかってきた。
結局話はまとまらず、持ち帰ってよく考えてくるということで話は終わった。こうして三人の人間の二時間、計六時間が無駄に浪費されたのだった。
「この後は部活?」
「ああ、帰宅という部活動がある」
そういえばそうだったと苦笑する神楽耶姉。彼女は毎日忙しいので、嫌味では無く本当に忘れていたのだろう。
付け加えるとバイトもしていないので、毎日放課後は自由時間だ。
「どっかで食べて帰る?」
「いや、そういう気分じゃないから……。今日は一人で帰る」
「はいはい、じゃあ美味しい夕飯を作って待ってるよー」
神楽耶姉に見送られ、昇降口に向かった。
校内には誰も残っておらず、俺の足音以外は何も聞こえない。完成された閑静、……さすがにこれは寒いな。
ずっと我慢していた欠伸を盛大にして、目を擦った。ここ最近寝不足のせいで、すごく眠い。
習慣的にポケットから携帯端末ライトフォン、通称ライホを取り出して電源を入れた。
ぼっちの俺には友人などおらず、連絡手段としてこれが使用されることは滅多に無い。では何に使うのかというと、定番のもしもしゲーだ。ソシャゲと言った方が通りがいいかもしれない。
画面に映し出されたのは少しマニアックなタイトルで、テレビのコマーシャルなどでは絶対に流れないようなもの。しかしオートモードでクリアできる、ありふれたRPG。
何度かクエストに出かけて周回している内に、心のもやもやが少し晴れてきた。自分がさして努力せずとも成果を得られる――それは至極素晴らしい。人生の全てがこうなれば楽だろうに、と益体もない考えが浮かび、苦笑が漏れた。
ちょくちょく立ち止まってソシャゲをしている内に、昇降口に着いた。
下駄箱から靴を取り出した時、ふいに首筋の辺りにちりちりとした感覚を覚えた。
――誰かに見られている?
慌てて辺りを見回すが人影は無い。しかし確かに視線を感じたのだ。
寒気が肌を襲い、体が震えた。脇の間と手の平が汗で湿っていた。心拍数が異様なぐらい上がって胸が苦しい。
ここ最近、似たようなことが何度かあった。
最初は自分のような一般人がストーカー被害に遭うなんて考えたことも無かった。
だが三度、四度と回数が増えるに連れて徐々に恐怖を覚えた。五回目になってようやく確信した。
俺は誰かに監視されている……と。
悪寒は、ところ構わず起きた。
外出先は言わずもがな、家の中でも頻繁に感じていた。
毎日のように不可解な現象に襲われている内に寝不足になり、最近は気怠さのせいで体が重くなってきている。
一人きりで問題を抱えているのは不安だった。誰かに相談しようかと思ったが、こんなことを話しても頭がおかしくなったとしか思われないだろう。
もし自分が女子だったなら少しぐらいは真面目に取り合ってもらえるかもしれないが、男子では無駄足に終わるのがオチだ。男女平等という言葉は大抵の場合、飾りに過ぎない。そもそも男という漢字は女より四画も多い。不公平だ。
バカなことを考えていても気分は一向に落ち着かず、無意識の内に駆けだしていた。
ふと脳裏をさっき聞いた話が掠めた。
誘拐事件。老若男女問わず何の前触れも無く、姿を消す。
……まるで神隠しのようだ。
今更になって、恐怖が腹の底から湧き上がってくる。
もしかしたら、次に消えるのは俺かもしれない。正体不明の視線を思い出す内に嫌な想像が思考を蝕んでいく。
不安な考えから逃げ出すように、さらに脚を速めた。
○
愛古学園は高台に立っているため、校門を抜けると辺りの景色を一望できる。
ミニチュアのような街並みが眼下を占め、その向こうに海が広がり、果てには薄っすらと本島が見える。深呼吸すると、潮の香りを感じる。
ここ、愛古島は太平洋に浮かぶ人工島だ。
人口は二十万人ほど。東京都の一部らしく、都長の選挙が近くなると本島から何人も政治家がやってくる。
島には何本もビルが建っており、車の走行音がやむことなく響いている。
千葉の東辺りにあるが、島内の雰囲気は完全に東京だ。一応、農家もあるにはあるようだが、島の大部分は夜になっても光に満ちている。間違いなくここは都会だ。
島は第二のドーナツ化現象を起こしており、中央にビル街、その周囲を住宅街が囲んでいる。
愛古学園はビル街にあり、俺の住むマンションは住宅街にある。必然的に、俺はこの二つのエリアを行き来することになる。
ぼんやりしていると、アフタースクールを満喫している学生の集団が目の前を通り過ぎた。
「……やれやれ」
俺は視線をライホに落とし、ゲームを再開した。
ビル街は意外にも様々な変化を見せてくれる。
大型モニターで流れている映像はよく変わるし、飲食店も季節ごとに期間限定の商品を発売し飾りつけと共にウィンドウに並べている。
よく足を運んでいるアニメグッズ専門店はクールが変わる度にプッシュする作品が入れ替わる。書店は一月ごとに新刊コーナーの表紙が違うものになっている。
時は止まることなく流れている。
にもかかわらず、この街には停滞した空気が流れていた。
おそらく誰もその変化にさして気を留めていないせいだ。特にスーツを着た人々の目はソシャゲの廃人プレイヤーのごとく濁っている。
人は時に懸命に生を全うすることにより、感覚が鈍化することがある。彼等の多くは飽きるほどに懸命に、この世界を周回してしまったのだ。ゆえに、ちょっとの変化で心が動くことは無い。
無感情な世界。いや、感情がないというのは言い過ぎか。それでも、息苦しい空気が流れていることは確かだ。
かくいう俺も、その空気を作っている一人である。歩きながらソシャゲに勤しんでいる者が明るいムードを作っているなど、到底思えない。
近くにいたOLが顔をしかめてこちらを見た。いつの間にか自虐的な笑い声が漏れていたようだ。
今日も街は平和だ。とても失踪事件が頻発してるなんて、信じられないぐらいに。