終章 その4
どこかで地面を蹴る音が聞こえた。
止まった時間の中で温もりを感じた。それはここ最近、何度か感じた気がする。同時に目の前の景色が傾いた。トラックが左に動き、視界の中から消えていく。そして柔らかい感触を肩の辺りに感じる。
そのまま俺達は道路に倒れ込んだ。
トラックが完全に止まる音が聞こえる。
でも俺は背中と頭が痛いぐらいで五体満足だった。トラックに轢かれかけたことを思えば奇跡的な軽傷だ。
「大丈夫ですか」
耳元で涼やかな声がする。草原の風のような囁き声。
安心する重みと温かさ。
触れる服の生地は柔らく、しかし首の周りに固いものがある。セーラー服だ。
手に触れる髪は長くて、さらさらしている。後頭部の辺りにはふわりとした布がある。おそらくリボンだろう。
俺を庇ってくれた少女がゆっくりと起き上がる。
垂れたような目、きれいな鼻筋、長い睫毛。鼻にかかる吐息はただ温かいだけ。
ぽとりと、彼女の涙が俺の頬に落ちた。
「……ご無事そうですね。よかったです」
胸の内が一気に熱くなる。震える手を俺は望愛の背中に回した。
「ごめん、俺また……、俺に助けられた」
「……はい」
感情のままに湧き出る言葉を彼女の耳元で伝える。
「辛くなってお前の前から勝手に逃げ出して、一人で絶望して……。望愛が悪いわけじゃないのに」
「はい」
望愛はただ静かに相槌を打ってくれた。
「ずっとずっと、俺は独りぼっちだったんだ。頼りになる人が周りにいたのに、強がって俺は誰にも本音を打ち明けなかった。どんな問題も一人で全部抱え込んでいたんだ」
「大変でしたね」
「そのくせ、面倒なことは全部他人に押し付けて……。俺は酷いヤツなんだ」
どこにこんなにたくさんの言葉をしまい込んでいたんだろう。口は止まることを知らずに、ずっと溜め込んできたものを告白していく。それはどんな神様にも、親しい人でも、姉や両親が相手だったとしてもできない、心からの懺悔だった。
「俺は自分がよく分からない。何がしたいのか、何ができるのか。確証が無いと行動にも移せない。誰かの助けが無いと何もできない、弱いヤツなんだ」
「そうなのですか?」
「ああ、卑怯で卑屈で自分に甘い。勉強もできない、運動もできない、人間関係も上手く築けない、特技の一つも無い。毎日ゲームばかりして、バイトや部活もロクにやらないクソったれなんだ!」
肩で息をした。ずっとずっと誰かに言いたかった思いを言えて、心の中がすっきりしていた。最後に残ったのは一つ、寂しさだけだった。
「……でも、こんなことをお前に言っても迷惑なだけだよな」
「なぜですか?」
「だって、お前は俺の……」
そこから先は言えなかった。込み上げてくる嗚咽が話すことを禁じたからだ。
目の前の少女は幼い子供をあやすように俺の背中をさすり、耳に口を近づけてきて。
「家族ですから」
「……え?」
何もかもが止まった。
息も思考も現実のものが何もかも。
俺と少女の鼓動だけが世界の全てだった。
「……の、あ?」
喉の奥からたった一言を絞り出して訊いた。
少女は間近で視線を合わせて、そっと微笑んだ。
「はい、そうですよ」
そこで一度言葉を止め、深く深呼吸をして。
泣きながら笑い、よく聞こえる震えた声で言った。
「私は神代望愛といいます。そして暁也さんの最強の家族……ですよね?」
不安そうに問う望愛。
夢なら永遠に続けと思った。でも触れた彼女の頬は温かくて、涙は冷たかった。
俺は大きくうなずいて答えた。
「そうだよ。この世界全部が俺達のマイホームだからな」
ほっとしたように望愛は体から力を抜き、そのまま倒れかかってきた。
「だ、大丈夫か……ん?」
すうすうと心地よさそうな寝息が聞こえた。
「……何だ、驚かせるなよ」
望愛を背負って俺は立ち上がった。
トラックはいつの間にかいなくなっていた。そういえば今回はやけに早くからブレーキがかかっていたような……。
思考を断ち切るようにライホが鳴った。
横断歩道を渡り切り、歩行の邪魔にならない場所で取り出す。
ロックを解除すると非通知のメッセージが一件だけ入っていた。
『歩きライホは危ない』
どこかのおせっかいが、何かをしたらしい。
『分かったよ。あと、色々ありがとうな』
送信してライホを仕舞う。
そしてしっかり前を見て歩き出した。
空との境目に見えるのは一番星だろうか、今日はずいぶん明るく見える。
歩き出してすぐに、俺は重要なことに気付いた。
「おい、お前の家はどこだ?」
だが望愛は寝息を立てるだけで答えてくれない。
仕方ない、家に連れて帰るか。
またライホが鳴った。安全な場所に移動してから確認する。
今度は神楽耶姉からだった。
『研究会に呼ばれたから、今日は外泊しまーす。晩御飯はちゃんと自分で用意して食べるように』
珍しくメッセージを送ってきたと思ったら、なんとも間の悪い。
「家には俺しかいないみたいだぞ。それでもよかったら連れていくがどうする?」
起きる気配は全く無い。
「……お前は一週間完徹したブラック企業の社員か?」
意地でも寝てやるという気概さえ感じそうだが、望愛の寝顔はただ安らかだった。
俺は諦めて、家に足を向けた。
仰いだ空に、流れ星が一つ見えた。
願わくば、彼女にいい夢を。
「お休み、望愛」
〈了〉