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終章 その2

 駆け足だったため、病院に着く前に息切れしてしまった。

 角を曲がれば病院の正面口だという所で水晶の姿を見つける。声を掛けるより前に向こうが俺に気付いたようで、小走りで駆け寄ってきた。

「暁也」

「暁也、じゃねえよ。勝手に一人で行きやがって」

「てへ」

 真顔で拳を頭にやる水晶。

「少しは反省しろ」

「人は間違えて成長する生き物」

「成長って……、お前に一番似合わない言葉だな」

 怒るのもバカらしくなり、代わりに笑いが込み上げてきた。


「それで、望愛はどこだ?」

「バス停のベンチに座ってる。診察が終わって帰るところ」

「そうか」

 じゃあなと声をかけて水晶の横を抜けようとする。だがその前に、制服の裾をつかんで引き止められた。

「なんだよ?」

「……一つだけ、訊かせて」

 淡泊さが鳴りを潜めた真剣な声に、俺は思わず言葉を失った。


「あなたはこれから会う望愛がどんな望愛でも、受け入れられる?」

 禅問答みたいな問いに、俺は首を傾げずにはいられなかった。

「どういうことだ?」

「言葉通りの意味。望愛はもう以前の望愛じゃない」

 しばらく考えてみても、彼女の言いたいことはさっぱり分からなかった。

「とりあえず、会ってみるよ。そうすれば自ずとお前の言った意味も分かるだろ」

「……私の口からは何も言えない。でも、会えばきっと酷く後悔することになる」

 珍しく饒舌な水晶は、まるで哀れな子羊を見る神父のような目をしていた。

「……わかった。覚悟はしておく」


 俺は彼女の心遣いに報いて、自分なりに心の準備をした。といっても、詳細が分からないから少し緊張する程度だったが。

 水晶は服を手放してはくれたが、それでも俺を望愛に会わせたくないのかじっと目で訴えてくる。

 だけど俺は彼女に背を向けて、角を曲がった。

 水晶の言ったように望愛はベンチに座っていた。

 遠い水平線のさらに向こうにある夕日を、池に落としてしまった毬を眺めるように見つめている。

 彼女の表情は幼かった。十年ぐらい前の、原っぱで遊んでいた頃のもの。まだ世の中にあるものを何も知らない、邪気を孕まずに純粋で潔白な少女そのものだ。


 望愛に近付いていくと、彼女はその顔を俺に向けてにこりと微笑んだ。

 そして十六歳の声で言った。

「あなたは誰ですか?」

 俺にはそれが異国の言葉に聞こえた。

 すぐには理解ができずに、じっと彼女の顔を見つめてしまう。望愛は俺が応えるのを幼い少女の顔で待っている。


 長い長い沈黙の後、俺は答えた。

「……月影、暁也だ」

 その声は他人のもののように震えていて、とても頼り無かった。

 だが望愛はそんな俺にお構いなく、自分の名前を名乗った。

「私は神代望愛と言います。ぼうぼうと燃える火に、世界の世で望愛と読むんですよ」

 そんなことは聞かなくても知っている。この世界で生きている誰よりも、俺が一番よく知っている。


「あなたのお名前をお聞かせ願えますか?」

「……俺は暁に、古典で出てくる也で暁也だ」

「そうですか、素敵なお名前ですね」

 他人行儀な感想に、俺は耐えられなくなって。

 気が付いたら膝を地面に付いて、目頭を押さえていた。

「あ、あの。どうしたんですか? お腹が痛いんですか?」

 ふざけているわけじゃないって、最初から分かってた。望愛はそういう冗談は絶対にしない。嫌ってさえいる。

 でも、嘘だと思いたかった。

 水晶とグルで、俺を騙そうとしているんだって思いたかった。


 一縷いちるの望みを託して顔を上げる。

 だけど現実は俺が思っていた以上に、意地悪だった。

「お初目にかかります。って、今更ですかね」

 屈託なく笑う少女。悪気は微塵も見つけられなかった。

 もう限界だった。これ以上、この子の前で泣き続けることはできなかった。

「……お前は俺の――」

「はい、なんでしょうか?」

 幼い笑みに、何を言えばいいか分からなくて。

 俺は悲しみを噛み殺し、バス停を飛び出した。


 とにかく走った。目的地なんて考えずに走った。

 途中で水晶に呼び止められたが、気のせいだと振り切った。

 そのまま周囲もロクに見ずに駆けていく。

 坂道を一気に駆け降りると目の前から全てが消えていた。遠方にビルが見えるが、ほぼ一面に物体と呼べるものは無い。ただの荒野だ。

 突然別世界に来てしまったのかと戸惑ったが、思い返せばここは解体作業が行われていた場所だ。よく見れば美術館のオブジェのように点々と工事用の機材が置かれている。

 振り返ると仮囲いの扉が開いていた。誰かが閉め忘れたのだろう。

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